去川の大イチョウ(黄葉)、去川関所跡 (さるかわせきしょあと、去川の関跡、二見家住宅(武家屋敷)、二見家の墓石群、去川小学校、薩摩街道、去川の銀杏(いちょう、イチョウ))  (宮崎県 宮崎市 高岡町)







<標高、位置>  去川の大イチョウは
標高 約60 m
 北緯31度54分51秒  東経131度13分32秒

<標高、位置>  去川の関所跡は
標高 約30 m
 北緯31度55分00秒  東経131度13分45

<標高、位置>  二見家の墓は
標高 約40 m
 北緯31度54分56秒  東経131度13分44秒


 「去川(さるかわ)の大イチョウ」は宮崎県宮崎市 高岡町 内山 3615-1にあります。
 「国指定天然記念物 去川のイチョウ」の説明板から、
指定年月日 昭和10年12月24日
 このイチョウは、島津藩主初代 忠久 公(1179年〜1227年)が当時、薩摩街道であったこの地に植えられたものと伝えられています。
 この事から推定しますと、樹齢は約800年と考えられます。 幹の周囲約10 m、高さ約 41 m、枝張りは東に10.3 m、西に約13.0 m、南に約10.2 m、北に約 16.1 mあります。 幹は、空に向かって大きく伸びており、太い枝が少ないのが、このイチョウの特徴で、秋には多くの実をつけます。
 [去川の大銀杏(いちょう)に関しては
説明板に、実をつける と書いてあります。
調べたところ、
実は雌株(雌の木)にだけつくそうです。 ですから、この去川の銀杏は「メス」です。
俗説では、イチョウの葉がズボンのように割れ目があるのがオスで、スカートのように割れ目が無いのがメスです。 この俗説は私も以前聞いたことがありましたが、全く根拠はないそうです。
(写真から、去川の銀杏の葉はズボン型でしょうか、それともスカート型でしょうか?)
また、オスの花粉は 1 km も飛散するそうです。 たとえば、去川の関所の小型のイチョウの木も距離的にはこの範囲です。 遠くの花粉がつくのでしょう。
]

 「薩摩街道の里 和石(よれし) 案内図」から、
旧街道 岩屋が野〜去川 約10 km 3時間。
 薩摩街道は鹿児島から都城、去川の関を経て、佐土原に到る街道です。 江戸時代、鹿児島島津 氏が藩主の参勤交代や上使の度に整備し、参勤交代や領内巡視などで十数回利用され、幕末には勤王の武士、明治には西郷さんを慕(した)う若者たちが走り抜けました。

 「去川関所御定番 市指定有形文化財 二見(ふたみ)家住宅(主家一棟)」の説明板から、
 二見家は去川(さるかわ)の関所の御定番(ごじょうばん)を勤めた家です。 関所が設置された天正年間(1573年〜1591年)以降、代々この地に居住してきました。
 二見家住宅の建築様式には、「二棟造り(分棟型)」と呼ばれる南九州の民家の特徴が取り入れられています。 右側の棟は「座敷棟(オモテ)」と呼ばれ、来客を迎える接客空間として利用されました。 
 二見家住宅は、同家に残された古文書に「去川御仮屋」と記されています。 「御仮屋」とは薩摩藩では地頭(じとう)や領主の詰所のことを言い、同様に二見家住宅が公的な「役所」として位置づけられていたことがうかがえます。 藩主など、薩摩街道を通行する上級身分の者が宿泊、休憩する建物としても使用され、嘉永6年(1853年)には藩主 島津斉彬(なりあきら)、明治4年(1871年)には勅使 岩倉具視(いわくらともみ)がこの建物に立ち寄りました。
 建築の時期は、解体時の調査、及び二見家文書の記述によって「座敷棟(オモテ)」が安政2年(1855年)、「居室棟(ナカエ)」が明治28年(1895年)とわかりました。
指定年月日 平成16年10月13日。 (武家屋敷、武家門などが残っています。)

 「県指定史跡 去川の関跡(さるかわのせきあと)」の説明板から、
 二見家の伝記によると、伊勢国(いせのくに)の国守であった佐々木義秀の家臣、伊勢二見ヶ浦の城主 二見岩見守久信は、今から約450年前の永禄年間(1558年〜1570年)に、織田信長に攻められて、薩摩の蒲生郷に逃れ移ったと伝えられています。
 天正年間(1573年〜1591年)の中頃には、島津氏の勢いが大変強く、第16代 島津義久は近隣諸国をことごとく討ち従えていました。
 義久は、国境の防備を固めるため関所を去川(左流川)に設け、御定番に二見岩見守久信を命じました。 以来、二見家は、11代にいたるまでこの関所の御定番を勤めましたが、廃藩置県(1871年)のため関所も御定番も廃せられてしまいました。
 去川の関所は、高岡郷、穆佐郷(むかさごう)、綾郷(あやごう)、倉岡郷(くらおかごう)、そして支藩 佐土原へ通ずる薩摩街道の大事な地点にあり、たいへん厳しい取り調べが行われていた所といわれています。
 当時は、現在の去川小学校の門前に渡し船場があって、旅人は渡し船で関所にたどり着き、ここで改めて薩摩藩の旅に着きました。 今では、その遺跡として門柱の礎石(そせき)が一つ残っているだけです。
指定年月日 昭和8年12月5日。


写真A: 国道10号線沿いに宮崎市立 去川小学校があります。



写真B: 国道10号線。 先は都城市、手前は宮崎市 高岡町。 左に去川小学校(さるかわしょうがっこう)があります。 「去川の大イチョウ」はこの交差点を左に入ります。 「去川の関所跡」の説明板、関所の門柱の礎石は右に見えているバス停「去川」の所の細い道を下ると行きます。



写真C: 国道10号線にある「去川の大イチョウ、去川の関跡」の標識。



写真D: 宮崎市高岡町にある宮崎市立 去川小学校。 「市指定史跡 二見家墓石群」の看板(かんばん)も見えています。



写真E: 二見家の墓石群に行くにはこの道を進みます。 右は去川小学校。



写真F: 国道10号線。 左は去川小学校。



写真G: バス停「去川」が国道10号線にあります。 「去川の関所跡」の説明板、関所の門柱の礎石はこのバス停「去川」の所の細い道を下ると行きます。



写真H: バス停「去川」の付近の様子。 ガードレールの向こう側に下る細い道があります。 そこを下ると去川の関所跡に行きます。



写真I: 去川の大イチョウ、二見家住宅に行くにはここを左に行きます。



写真J: 「国指定天然記念物 去川の大イチョウ この先600 m」と書いてある看板(かんばん)があります。 「宮崎市指定有形文化財 二見家住宅 この先300 m 駐車場あり」の看板もあります。



写真K: 宮崎県 宮崎市 高岡町にある去川小学校の体育館、校舎も見えています。



写真L: 「去川の大イチョウ」が見えてきました。 黄色の葉が目立ちます。 ここを右に進みます。 中央が「去川の大イチョウ」です。



写真M: 「国指定天然記念物 去川の大イチョウ」の看板(かんばん)があります。



写真N: 左上が「去川の大イチョウ」です。



写真O: 去川の大イチョウです。
[去川の大銀杏(いちょう)に関しては
説明板に、実をつける と書いてあります。
調べたところ、
実は雌株(雌の木)にだけつくそうです。 ですから、この去川の銀杏は「メス」です。
俗説では、イチョウの葉がズボンのように割れ目があるのがオスで、スカートのように割れ目が無いのがメスです。 この俗説は私も以前聞いたことがありましたが、全く根拠はないそうです。
(写真から、去川の銀杏の葉はズボン型でしょうか、それともスカート型でしょうか?)
また、オスの花粉は 1 km も飛散するそうです。 たとえば、去川の関所の小型のイチョウの木も距離的にはこの範囲です。 遠くの花粉がつくのでしょう。
]



写真P: これが宮崎県宮崎市 高岡町の「去川の大イチョウ」です。 葉が黄色に色付いています。
[去川の大銀杏(いちょう)に関しては
説明板に、実をつける と書いてあります。
調べたところ、
実は雌株(雌の木)にだけつくそうです。 ですから、この去川の銀杏は「メス」です。
俗説では、イチョウの葉がズボンのように割れ目があるのがオスで、スカートのように割れ目が無いのがメスです。 この俗説は私も以前聞いたことがありましたが、全く根拠はないそうです。
(写真から、去川の銀杏の葉はズボン型でしょうか、それともスカート型でしょうか?)
また、オスの花粉は 1 km も飛散するそうです。 たとえば、去川の関所の小型のイチョウの木も距離的にはこの範囲です。 遠くの花粉がつくのでしょう。
]



写真Q: 道端(みちばた)に石造物があります。



写真R: 右に進むと駐車場、トイレなどがあります。




写真S: 高岡町の「去川の大イチョウ」です。 右に説明板もあります。 建物は「大イチョウ やかた館」です。



写真T: 「国指定天然記念物 去川のイチョウ」の説明板。
指定年月日 昭和10年12月24日
 このイチョウは、島津藩主初代 忠久 公(1179年〜1227年)が当時、薩摩街道であったこの地に植えられたものと伝えられています。
 この事から推定しますと、樹齢は約800年と考えられます。 幹の周囲約10 m、高さ約 41 m、枝張りは東に10.3 m、西に約13.0 m、南に約10.2 m、北に約 16.1 mあります。 幹は、空に向かって大きく伸びており、太い枝が少ないのが、このイチョウの特徴で、秋には多くの実をつけます。
宮崎市教育委員会
と書かれています。
「去川イチョウ公園見取り図」。
旧薩摩街道、駐車場、大イチョウ、野鳥の森が載っています。 去川の大イチョウと駐車場の間の道が「旧 薩摩街道」です。



写真U: トイレ(toilet)の看板もあります。



写真V: 「薩摩街道の里 和石(よれし) 案内図」。
旧街道 岩屋が野〜去川 約10 km 3時間。 地図が書かれています。



写真W: 「薩摩街道の里 和石(よれし) 案内図」。
旧街道 岩屋が野〜去川 約10 km 3時間。
 薩摩街道は鹿児島から都城、去川の関を経て、佐土原に到る街道です。 江戸時代、鹿児島島津 氏が藩主の参勤交代や上使の度に整備し、参勤交代や領内巡視などで十数回利用され、幕末には勤王の武士、明治には西郷さんを慕(した)う若者たちが走り抜けました。
と書かれています。



写真X: 「樹齢800年 去川の大イチョウ 平成15年 二見家建立」と彫(ほ)られた石碑がイチョウの木の下にあります。 周(まわ)りに黄色の銀杏(いちょう)の落ち葉が多くあります。
[去川の大銀杏(いちょう)に関しては
説明板に、実をつける と書いてあります。
調べたところ、
実は雌株(雌の木)にだけつくそうです。 ですから、この去川の銀杏は「メス」です。
俗説では、イチョウの葉がズボンのように割れ目があるのがオスで、スカートのように割れ目が無いのがメスです。 この俗説は私も以前聞いたことがありましたが、全く根拠はないそうです。
(写真から、去川の銀杏の葉はズボン型でしょうか、それともスカート型でしょうか?)
また、オスの花粉は 1 km も飛散するそうです。 たとえば、去川の関所の小型のイチョウの木も距離的にはこの範囲です。 遠くの花粉がつくのでしょう。
]



写真Y: 宮崎市高岡町にある去川の大銀杏(いちょう)の下部。 黄色の落ち葉が美しい。
[去川の大銀杏(いちょう)に関しては
説明板に、実をつける と書いてあります。
調べたところ、
実は雌株(雌の木)にだけつくそうです。 ですから、この去川の銀杏は「メス」です。
俗説では、イチョウの葉がズボンのように割れ目があるのがオスで、スカートのように割れ目が無いのがメスです。 この俗説は私も以前聞いたことがありましたが、全く根拠はないそうです。
(写真から、去川の銀杏の葉はズボン型でしょうか、それともスカート型でしょうか?)
また、オスの花粉は 1 km も飛散するそうです。 たとえば、去川の関所の小型のイチョウの木も距離的にはこの範囲です。 遠くの花粉がつくのでしょう。
]



写真Z: 去川のイチョウの下部。



写真AA: 宮崎市高岡町にある去川のイチョウの中部。



写真AB: 宮崎市高岡町にある去川のイチョウの上部。



写真AC: 去川のイチョウの上部。



写真AD: 「みやざきの 巨樹百選」の説明板。
樹木名: イチョウ、樹齢: 800年、幹周: 10.0 m、樹高: 41.0 m、所有者: 二見家、 平成4年3月認定 宮崎県。
と書いてあります。



写真AE: 宮崎市高岡町にある去川の大イチョウの下部。



写真AF: 去川の大イチョウの下部。



写真AG: 宮崎市高岡町にある去川の大イチョウの中部。



写真AH: 去川の大イチョウの上部。



写真AI: 去川の大イチョウの上部。



写真AJ: これが去川の大イチョウのそばを通る「薩摩街道」です。 右の建物は「大イチョウ やかた館」です。



写真AK: これが去川の大イチョウのそばを通る「薩摩街道」です。



写真AL: 宮崎市高岡町にある去川の大イチョウ。



写真AM: 去川の大イチョウ。



写真AN: 去川の大イチョウ。



写真AO: 去川の大イチョウの下部。
[去川の大銀杏(いちょう)に関しては
説明板に、実をつける と書いてあります。
調べたところ、
実は雌株(雌の木)にだけつくそうです。 ですから、この去川の銀杏は「メス」です。
俗説では、イチョウの葉がズボンのように割れ目があるのがオスで、スカートのように割れ目が無いのがメスです。 この俗説は私も以前聞いたことがありましたが、全く根拠はないそうです。
(写真から、去川の銀杏の葉はズボン型でしょうか、それともスカート型でしょうか?)
また、オスの花粉は 1 km も飛散するそうです。 たとえば、去川の関所の小型のイチョウの木も距離的にはこの範囲です。 遠くの花粉がつくのでしょう。
]



写真AP: 去川の大イチョウの中部。
[去川の大銀杏(いちょう)に関しては
説明板に、実をつける と書いてあります。
調べたところ、
実は雌株(雌の木)にだけつくそうです。 ですから、この去川の銀杏は「メス」です。
俗説では、イチョウの葉がズボンのように割れ目があるのがオスで、スカートのように割れ目が無いのがメスです。 この俗説は私も以前聞いたことがありましたが、全く根拠はないそうです。
(写真から、去川の銀杏の葉はズボン型でしょうか、それともスカート型でしょうか?)
また、オスの花粉は 1 km も飛散するそうです。 たとえば、去川の関所の小型のイチョウの木も距離的にはこの範囲です。 遠くの花粉がつくのでしょう。
]



写真AQ: 去川の大イチョウの中部。
[去川の大銀杏(いちょう)に関しては
説明板に、実をつける と書いてあります。
調べたところ、
実は雌株(雌の木)にだけつくそうです。 ですから、この去川の銀杏は「メス」です。
俗説では、イチョウの葉がズボンのように割れ目があるのがオスで、スカートのように割れ目が無いのがメスです。 この俗説は私も以前聞いたことがありましたが、全く根拠はないそうです。
(写真から、去川の銀杏の葉はズボン型でしょうか、それともスカート型でしょうか?)
また、オスの花粉は 1 km も飛散するそうです。 たとえば、去川の関所の小型のイチョウの木も距離的にはこの範囲です。 遠くの花粉がつくのでしょう。
]



写真AR: 去川の大イチョウの中部。



写真AS: 去川の大イチョウの中部。



写真AT: 去川の大イチョウの上部。



写真AU: 去川の大イチョウの上部。



写真AV: 去川大イチョウの下の様子。



写真AW: 去川の大イチョウのそばの様子。 階段も見えます。 左上は駐車場です。



写真AX: 去川の大イチョウのそばの様子。



写真AY: 駐車場から見た「去川の大銀杏(いちょう)」。



写真AZ: 駐車場から見た「去川の大銀杏(いちょう)」。



写真BA: 駐車場から見た「去川の大銀杏(いちょう)」。



写真BB: 駐車場から見た「去川の大銀杏(いちょう)」。



写真BC: 左下は薩摩街道。 建物は「大イチョウ やかた館」です。



写真BD: 左下は薩摩街道。



写真BE: 薩摩街道。



写真BF: 駐車場から見た薩摩街道。



写真BG: 駐車場から見た薩摩街道。



写真BH: 左の建物はトイレ。 階段も見えます。



写真BI: 「大イチョウ やかた館」です。



写真BJ: 駐車場から見た大イチョウ。



写真BK: 駐車場から見た大イチョウ。



写真BL: 薩摩街道沿(ぞ)いに石造物があります。



写真BM: 古井戸に御幣(ごへい)が供(そな)えてあります。



写真BN: 薩摩街道(さつまかいどう)の水場に石像があります。



写真BO: 薩摩街道(さつまかいどう)の水場に石像があります。



写真BP: 薩摩街道から見た黄色の「去川の大イチョウ」。



写真BQ: 薩摩街道からの景色。



写真BR: 薩摩街道からの景色。



写真BS: 「旧二見家住宅」の標識。 二見家の武家屋敷や武家門があります。



写真BT: 「二見家住宅」の入り口。 薩摩街道から入ります。



写真BU: 「旧二見家住宅」。 この敷地には二見家の武家屋敷や武家門が残っています。



写真BV: 二見家住宅の敷地内。 駐車場、左の建物はトイレです。


写真BW: 二見家住宅。 こちらにも駐車場があります。 この敷地には二見家の武家屋敷や武家門が残っています。



写真BX: 二見家住宅の駐車場。



写真BY: 宮崎県宮崎市 高岡町の「二見家住宅」。 この敷地には二見家の武家屋敷や武家門が残っています。



写真BZ: 宮崎市 高岡町の「二見家住宅」。



写真CA: 宮崎市 高岡町の「二見家住宅」。 この敷地には二見家の武家屋敷や武家門が残っています。



写真CB: 奥の建物はトイレです。



写真CC: 「去川関所御定番 市指定有形文化財 二見(ふたみ)家住宅(主家一棟)」の説明板。
 二見家は去川(さるかわ)の関所の御定番(ごじょうばん)を勤めた家です。 関所が設置された天正年間(1573年〜1591年)以降、代々この地に居住してきました。
 二見家住宅の建築様式には、「二棟造り(分棟型)」と呼ばれる南九州の民家の特徴が取り入れられています。 右側の棟は「座敷棟(オモテ)」と呼ばれ、来客を迎える接客空間として利用されました。 
 二見家住宅は、同家に残された古文書に「去川御仮屋」と記されています。 「御仮屋」とは薩摩藩では地頭(じとう)や領主の詰所のことを言い、同様に二見家住宅が公的な「役所」として位置づけられていたことがうかがえます。 藩主など、薩摩街道を通行する上級身分の者が宿泊、休憩する建物としても使用され、嘉永6年(1853年)には藩主 島津斉彬(なりあきら)、明治4年(1871年)には勅使 岩倉具視(いわくらともみ)がこの建物に立ち寄りました。
 建築の時期は、解体時の調査、及び二見家文書の記述によって「座敷棟(オモテ)」が安政2年(1855年)、「居室棟(ナカエ)」が明治28年(1895年)とわかりました。
指定年月日 平成16年10月13日 宮崎市教育委員会
と書かれています。
保存修復工事(事業期間: 平成17年〜20年度)
解体工事で現れた二見家住宅の小屋裏(平成18年3月30日)
二見家住宅の間取り図。



写真CD: 「去川関所御定番 市指定有形文化財 二見(ふたみ)家住宅(主家一棟)」の説明板。
 二見家は去川(さるかわ)の関所の御定番(ごじょうばん)を勤めた家です。 関所が設置された天正年間(1573年〜1591年)以降、代々この地に居住してきました。
 二見家住宅の建築様式には、「二棟造り(分棟型)」と呼ばれる南九州の民家の特徴が取り入れられています。 右側の棟は「座敷棟(オモテ)」と呼ばれ、来客を迎える接客空間として利用されました。 
 二見家住宅は、同家に残された古文書に「去川御仮屋」と記されています。 「御仮屋」とは薩摩藩では地頭(じとう)や領主の詰所のことを言い、同様に二見家住宅が公的な「役所」として位置づけられていたことがうかがえます。 藩主など、薩摩街道を通行する上級身分の者が宿泊、休憩する建物としても使用され、嘉永6年(1853年)には藩主 島津斉彬(なりあきら)、明治4年(1871年)には勅使 岩倉具視(いわくらともみ)がこの建物に立ち寄りました。
 建築の時期は、解体時の調査、及び二見家文書の記述によって「座敷棟(オモテ)」が安政2年(1855年)、「居室棟(ナカエ)」が明治28年(1895年)とわかりました。
指定年月日 平成16年10月13日 宮崎市教育委員会
と書かれています。



写真CE: 保存修復工事(事業期間: 平成17年〜20年度)
解体工事で現れた二見家住宅の小屋裏(平成18年3月30日)
二見家住宅の間取り図。



写真CF: 二見家住宅の入り口。



写真CG: 二見家住宅の門。 この敷地には二見家の武家屋敷や武家門が残っています。



写真CH: 二見家住宅の座敷棟。 この敷地には二見家の武家屋敷や武家門が残っています。



写真CI: 庭にある石。



写真CJ: 庭にある御手洗(みたらい)の石。



写真CK: 石のベンチもあります。



写真CL: 二見家住宅の石垣。



写真CM: 二見家住宅の門。 この敷地には二見家の武家屋敷や武家門が残っています。



写真CN: 二見家住宅の門前の石段。 この敷地には二見家の武家屋敷や武家門が残っています。



写真CO: 二見家住宅の門付近の様子。



写真CP: 薩摩街道に火の見やぐらがあります。 鐘(かね)も見えています。



写真CQ: 薩摩街道に火の見やぐらがあります。 消防ホース格納箱もあります。



写真CR: 薩摩街道。 右は二見家住宅の石垣。



写真CS: 二見家住宅の石垣。



写真CT: 国道10号線のバス停「去川」に戻ってきました。 バス停左の細い坂道を下ると「去川関所跡」の礎石、説明板などがあります。 国道の右手は去川小学校です。



写真CU: 国道10号線のバス停「去川」。 先は宮崎市、手前は都城市に行きます。



写真CV: バス停左の細い坂道を下ると「去川関所跡」の礎石、説明板などがあります。



写真CW: この坂道を下ります。



写真CX: この坂道を下ります。



写真CY: 「危ない!! ダムの放流による増水に注意」の看板(かんばん)があります。



写真CZ: ここが去川関跡です。 (小型の)イチョウの木もあります。
[去川の大銀杏(いちょう)に関しては
説明板に、実をつける と書いてあります。
調べたところ、
実は雌株(雌の木)にだけつくそうです。 ですから、この去川の銀杏は「メス」です。
俗説では、イチョウの葉がズボンのように割れ目があるのがオスで、スカートのように割れ目が無いのがメスです。 この俗説は私も以前聞いたことがありましたが、全く根拠はないそうです。
(写真から、去川の銀杏の葉はズボン型でしょうか、それともスカート型でしょうか?)
また、オスの花粉は 1 km も飛散するそうです。 たとえば、去川の関所の小型のイチョウの木も距離的にはこの範囲です。 遠くの花粉がつくのでしょう。
]



写真DA: ここが去川関跡です。



写真DB: ここが去川関跡です。



写真DC: ここが去川関跡です。



写真DD: 石がありました。



写真DE: 「県指定史跡 去川の関跡」。 指定年月日 昭和8年12月5日。 大淀川のそばにあります。



写真DF: 「県指定史跡 去川の関跡」。 大淀川のそばにあります。



写真DG: 「県指定史跡 去川の関跡」 指定年月日 昭和8年12月5日。 大淀川のそばにあります。 この四角い石が門柱の「礎石」です。



写真DH: 「県指定史跡 去川の関跡」。 大淀川のそばにあります。 この四角い石が門柱の「礎石」です。



写真DI: 四角い石が門柱の「礎石」です。



写真DJ: 「県指定史跡 去川の関跡」 指定年月日 昭和8年12月5日。 上は国道10号線。 その向こうに去川小学校があります。



写真DK: 「県指定史跡 去川の関跡」 指定年月日 昭和8年12月5日。



写真DL: 「県指定史跡 去川の関跡」 指定年月日 昭和8年12月5日。 四角い石が門柱の「礎石」です。



写真DM: 「県指定史跡 去川の関跡(さるかわのせきあと)」の説明板。
 二見家の伝記によると、伊勢国(いせのくに)の国守であった佐々木義秀の家臣、伊勢二見ヶ浦の城主 二見岩見守久信は、今から約450年前の永禄年間(1558年〜1570年)に、織田信長に攻められて、薩摩の蒲生郷に逃れ移ったと伝えられています。
 天正年間(1573年〜1591年)の中頃には、島津氏の勢いが大変強く、第16代 島津義久は近隣諸国をことごとく討ち従えていました。
 義久は、国境の防備を固めるため関所を去川(左流川)に設け、御定番に二見岩見守久信を命じました。 以来、二見家は、11代にいたるまでこの関所の御定番を勤めましたが、廃藩置県(1871年)のため関所も御定番も廃せられてしまいました。
 去川の関所は、高岡郷、穆佐郷(むかさごう)、綾郷(あやごう)、倉岡郷(くらおかごう)、そして支藩 佐土原へ通ずる薩摩街道の大事な地点にあり、たいへん厳しい取り調べが行われていた所といわれています。
 当時は、現在の去川小学校の門前に渡し船場があって、旅人は渡し船で関所にたどり着き、ここで改めて薩摩藩の旅に着きました。 今では、その遺跡として門柱の礎石(そせき)が一つ残っているだけです。
指定年月日 昭和8年12月5日 宮崎市教育委員会
と書かれています。
関所、番小屋の位置図。
関所見取図。
も載っています。
 関所のあったところの中を国道10号線が通ってることがわかります。 また、関所には武器部屋、番人居間、小使部屋、番小屋があり、武器は弓 2、鉄砲 3、槍 2、長刀 1、イラボ 2。 受番人 2人(給料は1人につき3石6斗)、交番人 1人。  黒地に白の「丸に十の字」の幕張がしてありました。



写真DN: 「県指定史跡 去川の関跡(さるかわのせきあと)」の説明板。
 二見家の伝記によると、伊勢国(いせのくに)の国守であった佐々木義秀の家臣、伊勢二見ヶ浦の城主 二見岩見守久信は、今から約450年前の永禄年間(1558年〜1570年)に、織田信長に攻められて、薩摩の蒲生郷に逃れ移ったと伝えられています。
 天正年間(1573年〜1591年)の中頃には、島津氏の勢いが大変強く、第16代 島津義久は近隣諸国をことごとく討ち従えていました。
 義久は、国境の防備を固めるため関所を去川(左流川)に設け、御定番に二見岩見守久信を命じました。 以来、二見家は、11代にいたるまでこの関所の御定番を勤めましたが、廃藩置県(1871年)のため関所も御定番も廃せられてしまいました。
 去川の関所は、高岡郷、穆佐郷(むかさごう)、綾郷(あやごう)、倉岡郷(くらおかごう)、そして支藩 佐土原へ通ずる薩摩街道の大事な地点にあり、たいへん厳しい取り調べが行われていた所といわれています。
 当時は、現在の去川小学校の門前に渡し船場があって、旅人は渡し船で関所にたどり着き、ここで改めて薩摩藩の旅に着きました。 今では、その遺跡として門柱の礎石(そせき)が一つ残っているだけです。
指定年月日 昭和8年12月5日 宮崎市教育委員会
と書かれています。
関所、番小屋の位置図。
関所見取図。
も載っています。
 関所のあったところの中を国道10号線が通ってることがわかります。 また、関所には武器部屋、番人居間、小使部屋、番小屋があり、武器は弓 2、鉄砲 3、槍 2、長刀 1、イラボ 2。 受番人 2人(給料は1人につき3石6斗)、交番人 1人。  黒地に白の「丸に十の字」の幕張がしてありました。



写真DO: 「県指定史跡 去川の関跡(さるかわのせきあと)」の説明板。
 二見家の伝記によると、伊勢国(いせのくに)の国守であった佐々木義秀の家臣、伊勢二見ヶ浦の城主 二見岩見守久信は、今から約450年前の永禄年間(1558年〜1570年)に、織田信長に攻められて、薩摩の蒲生郷に逃れ移ったと伝えられています。
 天正年間(1573年〜1591年)の中頃には、島津氏の勢いが大変強く、第16代 島津義久は近隣諸国をことごとく討ち従えていました。
 義久は、国境の防備を固めるため関所を去川(左流川)に設け、御定番に二見岩見守久信を命じました。 以来、二見家は、11代にいたるまでこの関所の御定番を勤めましたが、廃藩置県(1871年)のため関所も御定番も廃せられてしまいました。
 去川の関所は、高岡郷、穆佐郷(むかさごう)、綾郷(あやごう)、倉岡郷(くらおかごう)、そして支藩 佐土原へ通ずる薩摩街道の大事な地点にあり、たいへん厳しい取り調べが行われていた所といわれています。
 当時は、現在の去川小学校の門前に渡し船場があって、旅人は渡し船で関所にたどり着き、ここで改めて薩摩藩の旅に着きました。 今では、その遺跡として門柱の礎石(そせき)が一つ残っているだけです。
指定年月日 昭和8年12月5日 宮崎市教育委員会
と書かれています。
関所、番小屋の位置図。
関所見取図。
も載っています。
 関所のあったところの中を国道10号線が通ってることがわかります。 また、関所には武器部屋、番人居間、小使部屋、番小屋があり、武器は弓 2、鉄砲 3、槍 2、長刀 1、イラボ 2。 受番人 2人(給料は1人につき3石6斗)、交番人 1人。  黒地に白の「丸に十の字」の幕張がしてありました。



写真DP: 「県指定史跡 去川の関跡(さるかわのせきあと)」の説明板。
 二見家の伝記によると、伊勢国(いせのくに)の国守であった佐々木義秀の家臣、伊勢二見ヶ浦の城主 二見岩見守久信は、今から約450年前の永禄年間(1558年〜1570年)に、織田信長に攻められて、薩摩の蒲生郷に逃れ移ったと伝えられています。
 天正年間(1573年〜1591年)の中頃には、島津氏の勢いが大変強く、第16代 島津義久は近隣諸国をことごとく討ち従えていました。
 義久は、国境の防備を固めるため関所を去川(左流川)に設け、御定番に二見岩見守久信を命じました。 以来、二見家は、11代にいたるまでこの関所の御定番を勤めましたが、廃藩置県(1871年)のため関所も御定番も廃せられてしまいました。
 去川の関所は、高岡郷、穆佐郷(むかさごう)、綾郷(あやごう)、倉岡郷(くらおかごう)、そして支藩 佐土原へ通ずる薩摩街道の大事な地点にあり、たいへん厳しい取り調べが行われていた所といわれています。
 当時は、現在の去川小学校の門前に渡し船場があって、旅人は渡し船で関所にたどり着き、ここで改めて薩摩藩の旅に着きました。 今では、その遺跡として門柱の礎石(そせき)が一つ残っているだけです。
指定年月日 昭和8年12月5日 宮崎市教育委員会
と書かれています。
関所、番小屋の位置図。
関所見取図。
も載っています。
 関所のあったところの中を国道10号線が通ってることがわかります。 また、関所には武器部屋、番人居間、小使部屋、番小屋があり、武器は弓 2、鉄砲 3、槍 2、長刀 1、イラボ 2。 受番人 2人(給料は1人につき3石6斗)、交番人 1人。  黒地に白の「丸に十の字」の幕張がしてありました。



写真DQ: 「去川の関所跡」。



写真DR: 石垣の石のようなものもあります。



写真DS: 「去川の関所跡」。 大淀川のそばにあります。



写真DT: 「去川の関所跡」。 「水神様」の四角の石があります。



写真DU: 「去川の関所跡」。 篠(しの、細い竹)の奥に大淀川の水面が見えています。



写真DV: 「去川の関所跡」。 篠(しの、細い竹)の奥に大淀川の水面が見えています。



写真DW: 「去川の関所跡」。



写真DX: 「去川の関所跡」。



写真DY: 「去川の関所跡」。 奥に白く関所の説明板が見えています。 イチョウが黄色の葉を付けていました。



写真DZ: (小型の)イチョウが黄色の葉を付けていました。
[去川の大銀杏(いちょう)に関しては
説明板に、実をつける と書いてあります。
調べたところ、
実は雌株(雌の木)にだけつくそうです。 ですから、この去川の銀杏は「メス」です。
俗説では、イチョウの葉がズボンのように割れ目があるのがオスで、スカートのように割れ目が無いのがメスです。 この俗説は私も以前聞いたことがありましたが、全く根拠はないそうです。
(写真から、去川の銀杏の葉はズボン型でしょうか、それともスカート型でしょうか?)
また、オスの花粉は 1 km も飛散するそうです。 たとえば、去川の関所の小型のイチョウの木も距離的にはこの範囲です。 遠くの花粉がつくのでしょう。
]



写真EA: 「去川の関所跡」。 奥に白く関所の説明板が見えています。 (小型の)イチョウが黄色の葉を付けていました。
[去川の大銀杏(いちょう)に関しては
説明板に、実をつける と書いてあります。
調べたところ、
実は雌株(雌の木)にだけつくそうです。 ですから、この去川の銀杏は「メス」です。
俗説では、イチョウの葉がズボンのように割れ目があるのがオスで、スカートのように割れ目が無いのがメスです。 この俗説は私も以前聞いたことがありましたが、全く根拠はないそうです。
(写真から、去川の銀杏の葉はズボン型でしょうか、それともスカート型でしょうか?)
また、オスの花粉は 1 km も飛散するそうです。 たとえば、去川の関所の小型のイチョウの木も距離的にはこの範囲です。 遠くの花粉がつくのでしょう。
]



写真EB: (小型の)イチョウが黄色の葉を付けていました。
[去川の大銀杏(いちょう)に関しては
説明板に、実をつける と書いてあります。
調べたところ、
実は雌株(雌の木)にだけつくそうです。 ですから、この去川の銀杏は「メス」です。
俗説では、イチョウの葉がズボンのように割れ目があるのがオスで、スカートのように割れ目が無いのがメスです。 この俗説は私も以前聞いたことがありましたが、全く根拠はないそうです。
(写真から、去川の銀杏の葉はズボン型でしょうか、それともスカート型でしょうか?)
また、オスの花粉は 1 km も飛散するそうです。 たとえば、去川の関所の小型のイチョウの木も距離的にはこの範囲です。 遠くの花粉がつくのでしょう。
]



写真EC: 「去川の関所跡」。 奥に白く関所の説明板が見えています。 (小型の)イチョウが黄色の葉を付けていました。
[去川の大銀杏(いちょう)に関しては
説明板に、実をつける と書いてあります。
調べたところ、
実は雌株(雌の木)にだけつくそうです。 ですから、この去川の銀杏は「メス」です。
俗説では、イチョウの葉がズボンのように割れ目があるのがオスで、スカートのように割れ目が無いのがメスです。 この俗説は私も以前聞いたことがありましたが、全く根拠はないそうです。
(写真から、去川の銀杏の葉はズボン型でしょうか、それともスカート型でしょうか?)
また、オスの花粉は 1 km も飛散するそうです。 たとえば、去川の関所の小型のイチョウの木も距離的にはこの範囲です。 遠くの花粉がつくのでしょう。
]



写真ED: 関所跡から見た大淀川の対岸の山。



写真EE: 先程の坂を戻(もど)ります。



写真EF: バス停「去川」と去川小学校の白い建物が見えてきました。



写真EG: バス停「去川」と去川小学校の柵(さく)も見えています。



写真EH: バス停「去川」と去川小学校。



写真EI: 宮崎市立 去川小学校と三叉路(さんさろ)。



写真EJ: 去川小学校のそばの三叉路(さんさろ)。



写真EK: 去川小学校の前を通っている国道10号線。 この見えている国道は「去川の関所跡」の中を通っています。



写真EL: 「市指定史跡 二見家墓石群」の標識が去川小学校の柵(さく)に付けてあります。



写真EM: 「市指定史跡 二見家墓石群」にはこの三叉路(さんさろ)を左に行きます。 右は去川小学校。



写真EN: 「市指定史跡 二見家墓石群」にはこの三叉路(さんさろ)を左に行きます。 右は去川小学校。



写真EO: 「市指定史跡 去川関所御定番 二見家墓石群」の標識があります。 昭和54年1月24日指定。



写真EP: 「市指定史跡 去川関所御定番 二見家墓石群」の標識があります。 昭和54年1月24日指定。



写真EQ: 「市指定史跡 去川関所御定番 二見家墓石群」の説明板。
指定年月日 昭和54年1月24日
 今から約450年前の永禄年間(1558年〜1570年)、伊勢国(いせのくに)の国守であった佐々木義秀の家臣、伊勢二見ヶ浦の城主 二見岩見守久信は、織田信長に攻められて、薩摩の蒲生郷に逃れ移りました。
 天正年間(1573年〜1591年)の中頃、島津氏の勢いが大変強く、第16代 島津義久は近隣諸国をことごとく討ち従えていました。
 義久は、国境の防備を固めるため関所をここ去川(左流川)に設け、御定番に二見岩見守久信を命じました。 以来、二見家は、11代にいたるまでこの関所の御定番を勤めましたが、廃藩置県(1871年)のため関所も御定番も廃せられてしまいました。
 ここにあるのは御定番 二見家の墓石群です。
 また、去川小学校裏手の町道(旧薩摩街道)沿いには、二見家の武家屋敷や武家門が現在でも残っており、往時の面影を忍ばせています。
宮崎市教育委員会
と書かれています。



写真ER: 「市指定史跡 去川関所御定番 二見家墓石群」の説明板。
指定年月日 昭和54年1月24日
 今から約450年前の永禄年間(1558年〜1570年)、伊勢国(いせのくに)の国守であった佐々木義秀の家臣、伊勢二見ヶ浦の城主 二見岩見守久信は、織田信長に攻められて、薩摩の蒲生郷に逃れ移りました。
 天正年間(1573年〜1591年)の中頃、島津氏の勢いが大変強く、第16代 島津義久は近隣諸国をことごとく討ち従えていました。
 義久は、国境の防備を固めるため関所をここ去川(左流川)に設け、御定番に二見岩見守久信を命じました。 以来、二見家は、11代にいたるまでこの関所の御定番を勤めましたが、廃藩置県(1871年)のため関所も御定番も廃せられてしまいました。
 ここにあるのは御定番 二見家の墓石群です。
 また、去川小学校裏手の町道(旧薩摩街道)沿いには、二見家の武家屋敷や武家門が現在でも残っており、往時の面影を忍ばせています。
宮崎市教育委員会
と書かれています。
去川関所御定番 二見家の歴代の氏名、墓銘が書いてあります。
二見家墓石群 墓石配置図も載っています。



写真ES: この階段を登ったところが「市指定史跡 去川関所御定番 二見家墓石群」です。



写真ET: この階段を登ります。



写真EU: 宮崎県宮崎市 高岡町の「市指定史跡 去川関所御定番 二見家墓石群」。



写真EV: 宮崎県宮崎市 高岡町にある「市指定史跡 去川関所御定番 二見家墓石群」。



写真EW: 宮崎市 高岡町の「市指定史跡 去川関所御定番 二見家墓石群」。



写真EX: 宮崎市 高岡町にある「市指定史跡 去川関所御定番 二見家墓石群」。



写真EY: このお墓から去川小学校が見えています。



写真EZ: 宮崎市 高岡町にある「市指定史跡 去川関所御定番 二見家墓石群」から去川小学校の校舎、体育館が見えています。



写真FA: 二見家の新しい墓。



写真FB: 二見家の墓。



写真FC: 二見家の墓の下には一般の墓地があります。 このあたりは去川関所があった場所です。



写真FD: 国道との三叉路(さんさろ)に戻ってきました。 右は細い川です。



写真FE: 去川小学校のそばには、昔使われていただろうと思われる石が積(つ)んであります。 左は去川小学校。



写真FF: 手前に行くと去川の大イチョウがあります。 右の建物は去川小学校。 奥の道路は国道10号線。



写真FG: 先程の黄色の葉をつけた「去川の大イチョウ」が見えてきました。 後ろの山も見えます。



写真FH: 「去川の大イチョウ」の下の車道に着きました。



by 南陽彰悟 (NANYO Shogo)