佐土原城跡、鶴松館(花菖蒲祭り)、高月院、鬼子母神(吉祥寺)、天昌寺跡







<標高、位置>  佐土原城本丸跡は
標高 約69 m
 北緯32度02分48秒  東経131度25分18秒


 佐土原城本丸跡から金のシャチホコが発見され、山の上に天守台があったことが確認されました。 国指定史跡 佐土原城跡になりました。 そこには、本丸跡に登る3本の道(A登山コースB登山コースC登山コース)があります。 近くに鶴松館(かくしょうかん)、佐土原城跡歴史資料館出土文化財管理センターがあり、北西方向約500 mのところに高月院(こうげついん)があります。 高月院には佐土原島津累代の墓があります(島津の墓は大光寺にもあります。 前島津の墓は天昌寺跡にあります。 これは宗教の違いのためです。)。 前島津は関ヶ原の戦いまで佐土原を治めました。
 また、大光寺の南東約400 mのところに佐土原鬼子母神(吉祥寺)があります。 子供の神様さま鬼子母神は祭りの時などには出店でにぎわいます。
 佐土原中学校のそばには、天昌寺跡があります。 これは、関ヶ原の戦いまでの前島津の菩提寺(ぼだいじ)で、島津家久(いえひさ)、島津豊久(とよひさ)や関ヶ原の戦いで豊久に殉じた3名の若者の墓もあります。 島津豊久は西軍(石田側)に属しました。 前島津の遺跡は、佐土原にはこの天昌寺跡にしか残っていません。 貴重なものです。 前島津は2代、23年間続きました。
 佐土原城本丸部から見つかった 「金のシャチホコ」の胸びれ、腹びれ、鱗(うろこ)の部分から、推定される金のシャチホコの大きさは、高さ 80センチメートル、幅 50センチメートルです。



写真A: 佐土原城本丸のあった山。 第二次世界大戦前は、「ジョウヤマ(城山)にタキモン(薪(まき))を取ってくる」などと新町あたりでは言っていたそうです。 城山という言い方はありました。 伊東の時代から後島津の時代の初期まで使われました。 佐土原城本丸跡は標高 約69 mです。 当時この城山と宝塔山、弁天山で山城を形成していました。これらの中では城山は一番高い山です。 この城山は鶴松山と言われていました。



写真B: 中央奥の山が佐土原城本丸があった城山。 高月院(こうげついん)の近くから望む。
 「佐土原」という地名が初めて現れるのは、1197年に鎌倉幕府によって発行された土地台帳(日向国図田帳)です。 そのころの地頭(今の県知事のようなもの)は、土持太郎信綱(つちもちたろうのぶつな)でした。 「佐土原十五町 八条女院御領(国富荘)」と書かれています。 土持(つちもち)氏は、平安時代からその名が確認できる日向国の荘園領主です。 鎌倉幕府による武家社会の前は、「荘園制度」で全国は治められていました。
 古い時代は佐土原は田島と言っていました。 鎌倉時代の初期に源頼朝の命令で工藤(後の伊東)が代官として来ました。 田島の館に住んだので田島氏と呼ばれるようになりました。 
後年、都於郡(とのこおり)の伊東祐賀が田島の領主となったころ、佐土原城が造られました。 中世の弓矢の戦争に有効な山城で伊東の日向国48城支配で、都於郡城に次ぐ要の城でした。
都於郡を本拠とした伊東が隆盛(りゅうせい)を極めたのは、伊東義祐(よしすけ)の時でした。 義祐は内紛が続いた後、10代として佐土原城に入りました。 失火による佐土原城火災などもありましたが、1541年頃から幾度も飫肥(おび)に兵を送り、1568年に飫肥城を攻略し、日向48城(伊東48城)の主(あるじ)になりました。
「伊東48城」は都於郡城主あるいは佐土原城主だった伊東義祐のときに完成しました。 城と城の間隔は約数km〜10 kmぐらいです。 これで日向の大部分を領地にしていたときの、支配体制を固めました。 伊東四十八城とは、 門川城、日知屋城塩見城、 高千穂城、 入下城、 水清谷城、 田代城、 坪谷城、 山陰城、 神門城、 雄八重城、 石城、 都於郡城佐土原城、高城、 財部城 、富田城、 穂北城、 三納城、 平野城、 那珂城、 八代城、 本庄城、 守永城、 石塚城、 宮崎城、 倉岡城、 曽井城、 綾城、 穆佐城、 飯田城、本脇城、 高岡城、 染野城、 紙屋城、 野久尾城、 飫肥城、 戸崎城、 野尻城、 三山城、 高原城、 清武城、 田野城、 紫波洲崎城、 瀬平城、 酒谷城、 目井城、 須木城 です。 (太字は主要な城です。) 伊東48城を訪(たず)ねてみるとなかなか楽しいものです。 これとは別に「伊東八外城」は日和城(ひわんじょう)を中心本城として山之口城、松尾城(三股城)、梶山城、勝岡城、小山城、野々美谷城、下ノ城を支城としていました。
 その後、伊東義祐が日向、薩摩、大隅の太守になろうとしましたが、1572年えびの市の「木崎原の戦い」で島津軍に敗れ、1577年12月に伊東崩れとなりました。 大分県の大友を頼って落ちのびるため、わずかな部下を連れて佐土原城を後にし、米良山中(東米良の尾八重)を通って豊後(大分)に逃れました。 この中に、初代飫肥城主となる祐兵(義祐の3男、当時18歳)や、義祐の娘町ノ上を母とする伊東満所(当時8歳)も含まれていました。 [伊東満所(まんしょ)を背負ったりして守って豊後落ちをしたのは、後に京都で有名になった綾出身の刀工 田中国広でした。 田中国広が作った刀は天皇に捧(ささ)げたもの、国の重要文化財になっているものもあり、石田三成、加藤清正、立花宗茂たちも使っていました。]
1572年、木崎原の戦い(えびの市)で島津は伊東を破り、島津義弘の弟 島津家久(いえひさ)が鹿児島の串木野から来て、佐土原城主となり島津の支配下になりました。
豊臣秀吉の九州遠征で島津は敗れましたが、佐土原は島津家久に安堵されました。 家久の死後はこの子の豊久(とよひさ)が継ぎ、1600年の関ヶ原の戦いで戦死しました。 この島津の2代を前島津と呼びます。 平成9年の発掘調査で、このころの佐土原城には山城には珍しく、南九州では他に見られない天守台(天守閣)を持ち、金箔瓦を使っていました。 金のシャチホコが屋根に付いていたと考えられます。 島津は天守台を造らないとそれまでは考えられていました。
前島津の第2代 島津豊久(とよひさ)は関ヶ原の戦いで西軍(石田三成 側)に属しました。 関ヶ原の戦いで敗れた後、約3年間 徳川幕府直轄領となり、1603年に島津以久(ゆきひさ)が佐土原藩主に命じられ、鹿児島の垂水から来ました。 これ以後の島津を後島津と言います。 後島津 第2代の島津忠興(ただおき)は大阪冬の陣(1614年)、大阪夏の陣(1615年)では、東軍(徳川家康 側)に属しました。 明治時代初めの廃藩置県まで続きました。



写真C: 今坂池の堤防が道の向こうに見えています。 この堤防の先に見えている山の奥に佐土原城本丸跡があります。 白い手すりが見えている道を右方向に行くと佐土原小学校、左に行くと佐土原中学校があります。
 佐土原城の築城時期は、はっきりしませんが、南北朝時代に田島休助(伊東の分家)が築城したとも、伊東祐賀が造ったとも言われています。 1625年 後島津の2代藩主 忠興(ただおき)は、山の上の建物を壊して、山麓の二の丸 (現在の鶴松館があるところ)に住みました。 そのころは弓矢の戦争から鉄砲、大砲の戦争に変化していたので、中世の山城はそれほど役に立たなくなってきていました。
 明治2年10月1日佐土原藩主 島津忠寛(ただひろ)は江戸より帰国し、佐土原城の転城先を広瀬と決めて直ちに着工しました。 この城はわずか1年余りで建設が中止となり、完成することなく姿を消しました。 どのような建物があったのか、また配置はどうなっていたのかは分かっていません。 佐土原城は廃城になりました。 明治4年(1871年)7月14日の廃藩置県などが実施されたのに伴い、 全国約200万人の藩士の大量解雇が行われました。 知藩事(旧藩主)は失職し、東京への移住が命じられました。 各県には知藩事に代わって中央政府から県令が派遣されました。 廃藩置県が行われてから約4ヶ月間 「佐土原県」がありました。
 佐土原は前島津のあとしばらく江戸幕府領になりました。 後島津の初代藩主である島津以久(ゆきひさ)は、前島津の家久の従兄弟でした。 島津以久(ゆきひさ)は木城町の小丸川をはさんで行われた、薩摩の島津義久と大分の大友宗麟(そうりん)の戦い(耳川の戦い、天正6年(1578年))で、全軍一の功績をつくりました。 種子島領主、垂水城主を経て、1603年 家康により佐土原に封じられました。 後に家康と接見したとき、家康は耳川の戦いの高城戦(現 木城町)の話をするよう望みました。 以久(ゆきひさ)は伏兵を置いて、敵を挟殺する「釣り野伏せ」戦法を説明し家康は以久を誉めました。



写真D: 国指定史跡である佐土原城跡の標識。 歴史資料館もあります。



写真E: 歴史資料館鶴松館(かくしょうかん)の駐車場。 奥に見えているものが鶴松館、左の建物はトイレです。 左から二軒目の奥の山に佐土原城本丸跡があります。



写真F: 鶴松館。 鶴松館は「二の丸跡」にできています。 佐土原の歴史的な展示物があります。 「本丸跡」は左の山の方にあります。 江戸時代初期まで城山(鶴松山)の上にあった佐土原城を壊して、山の下にある二の丸へ平城(鶴松城)として移されました。 鶴松館はこの平城の主要な部分を遺構に基づいて平成5年6月に復元したものです。 書院の奥に数寄屋造りがあり、約100体の佐土原人形の展示場になっています。



写真G: 佐土原の絵地図。



写真H: 鶴松館。 左の山に佐土原城本丸跡があります。



写真I: 鶴松館、佐土原城址公園の説明板。



写真J: 佐土原城跡の地図。 中央上部に本丸が書いてあります。 中央下部に今坂池、右上部に搦め手(からめて、城の裏門)から高月院 方面に行く番屋坂(番屋とは番人の詰め所)なども書かれています。



写真K: 宮崎市佐土原町上田島の絵地図。



写真L: 佐土原城 内堀跡。



写真M: 歴史資料館鶴松館。



写真N: 佐土原城跡 二の丸跡。 二の丸跡に今は鶴松館が建っています。 本丸跡は城山の上にあります。 本丸跡に登る道は3本あります。 鶴松館の左裏からの道(A登山コース)、佐土原城跡歴史資料館出土文化財管理センターのそばからの登城路(殿様はこの道を通られたそうです、B登山コース)、番屋坂の近くにある搦め手(からめて、城の裏門)からの道(C登山コース)の3本です。 3本の登城路はそれぞれ異なる支尾根を登る尾根コースになっています。 佐土原城跡歴史資料館の館長の方に本丸跡の城山に同行していただきました。 御礼申し上げます。
 


写真O: 鶴松館の門。



写真P: 鶴松館の門にある「鶴松館」の文字。 佐土原城は昔、鶴松城と言われていたことからこの建物は鶴松館と名付けられました。 この門札は2005年に106歳で亡くなられた島津久子さんの筆。



写真Q: 鶴松館の中。



写真R: 鶴松館の屋根にある鬼瓦(おにがわら)には 丸に十の字  の島津の家紋が付いています。



写真S: 左が鶴松館。 鶴松館の裏の道を左に行くと佐土原城本丸跡に登る道(A登山コース)に行きます。 A登山コースは写真の左の尾根を登るコースです。



写真T: 佐土原城跡歴史資料館出土文化財管理センター。 この建物の左方向に佐土原城本丸跡に登るB登山コースがあります。



写真U: A登山コースの登山口から見た景色。 右の建物は鶴松館。 手前は菖蒲(しょうぶ)が植えてあります。



写真V: 鶴松館の「あじさいの花」。 アジサイの木が多く植えられています。 後ろの建物は、鶴松館です。



写真W: 鶴松館の「佐土原花菖蒲祭り」。(花ショウブ祭り)は、5月の末に行われます。 建物は、鶴松館です。



写真X: 佐土原城本丸跡に行くA登山コースの登山口。



写真Y: 本丸跡に行くA登山コース



写真Z: 登城路の説明板。 A登山コースにあります。



写真AA: 途中に、第二次世界大戦の時に用いられた防空壕(ぼうくうごう)もあります(A登山コース)。



写真AB: 階段もあります(A登山コース)。



写真AC: 堀切のあるところ(A登山コース)。 この道に直角の尾根を深く掘って、尾根沿いに進んでくる敵を食い止めます。



写真AD: 堀切の側面(A登山コース)。



写真AE: 孟宗竹(もうそうだけ)も生(は)えています(A登山コース)。



写真AF: 佐土原城本丸跡へのA登山コース



写真AG: 登山道は整備されています(A登山コース)。



写真AH: 手すりもあります(A登山コース)。



写真AI: 佐土原城本丸跡への道(A登山コース)。



写真AJ: 指導標(A登山コース)。



写真AK: 堀切の説明板(A登山コース)。



写真AL: 第二次世界大戦のときの防空壕跡(A登山コース)。



写真AM: 「南の城」への道との分岐点が見えてきました(A登山コース)。



写真AN: 指導標(A登山コース)。



写真AO: B登山コースA登山コースの合流点。 右がB登山コース、手前がA登山コース、左は本丸跡に行く道。



写真AP: 指導標(A登山コースB登山コース)。



写真AQ: A登山コースB登山コースの合流点にある曲輪(くるわ、平らなところ)。



写真AR: A登山コースB登山コースの合流点にある曲輪(くるわ、平らなところ)。 左先が本丸跡に行く道。



写真AS: 本丸跡への道(A登山コースB登山コース)。



写真AT: 佐土原城本丸跡への登城路(
A登山コースB登山コース)。 手すりが付いています。



写真AU: 本丸の枡形虎口(ますがたこぐち)。



写真AV: 本丸の枡形虎口(ますがたこぐち)の説明板。



写真AW: 国指定史跡 佐土原城跡 本丸跡。 ついに本丸跡に着きました。



写真AX: 佐土原城 本丸跡。



写真AY: 本丸の説明板。



写真AZ: 佐土原城 本丸跡。



写真BA: 佐土原城 本丸跡。



写真BB: 佐土原城本丸跡。



写真BC: 佐土原城 本丸跡。



写真BD: 佐土原城 天守台跡。 ここで金のシャチホコが発見され、天守台があったことが確認されました。 このシャチホコの金の純度は99%で、当時の金貨の純度は 50%ぐらいだったそうです。 島津の城で天守台があるのは、この佐土原城だけだそうです。
 


写真BE: 三階櫓伝承地(さんかいやぐらでんしょうち)の説明板。 この説明板は金のシャチホコが見つかる前のもので、まだ伝承地となっています。 現在はここに天守台があったことが確定されています。



写真BF: 天守台のまわりの石垣。 左の部分に天守台がありました。 石の割るときの穴がV字型とU字型の両方があり、秀吉の時代か徳川の時代かそのどちらに作られた物かは確定されていないそうです。



写真BG: 佐土原城本丸跡にある天守台跡の石垣。 この石は川から運ばれたと考えられているそうです。 運び上げるには大変な労力を要したことでしょう。
この部分の石垣は「打ち込み接ぎ(うちこみはぎ)」の方法で作られた石垣です。
<参考>   「石垣」は
(1)野面積み(のづらづみ): 自然石をそのまま加工せずに積み上げる方法です。
(2)打ち込み接ぎ(うちこみはぎ): 表面に出る石の角や面をたたき、平にし石同士の接合面に隙間(すきま)を減らして積み上げる方法です。 関ヶ原の戦い以後、多く造られました。 野面積みより高く、急な勾配(こうばい)が可能です。
(3)切込み接ぎ(きりこみはぎ): 方形に整形した石を密着させて、積み上げる方法です。 慶長5年(1600年)以後に、隅石(すみいし)の加工から徐々に平石にまで広がりました。 江戸時代初期(元和年間)以後に多く造られました。 石同士が密着しているので排水できないため、排水口が設置されます。

などがあります。



写真BH: 佐土原城 本丸跡にある天守台跡の石垣。



写真BI: 佐土原城 天守台跡。



写真BJ: 佐土原城本丸跡の天守台跡。



写真BK: 天守台跡の石垣。



写真BL: 天守台跡が4分の1発掘され、そこから金のシャチホコが発見され、確かに天守台があったことが確定されました。



写真BM: 佐土原城本丸跡にある天守台の石垣。



写真BN: 佐土原城の天守台跡の石垣。



写真BO: 佐土原城本丸跡の上空は夏の入道雲がきれいでした。 ここに本丸があった昔の夏空もこのようなものだったかもしれません。



写真BP: C登山コース(搦め手(からめて)、城の裏門への道)と本丸のまわりの道の分岐点(ぶんきてん)。 先の方がC登山コース、右手が本丸のまわりの道。



写真BQ: C登山コース



写真BR: 本丸のまわりの道。 先に下るとB登山コースに合流します。



写真BS: 本丸のまわりの道。 先に下るとB登山コースに合流します。



写真BT: 本丸のまわりの道。 先に下るとB登山コースに合流します。



写真BU: 本丸のまわりの道。 先に下るとB登山コースに合流します。



写真BV: 本丸のまわりの道。 先に下るとB登山コースに合流します。



写真BW: 本丸のまわりの道。 先に下るとB登山コースに合流します。



写真BX: 本丸のまわりの道とB登山コースの合流点。 指導標。



写真BY: 本丸のまわりの道とB登山コースの合流点。



写真BZ: 東屋(あずまや、B登山コースにあります)。



写真CA: 東屋の内部(B登山コース)。



写真CB: ここに鉄の扉(とびら)があったそうです。 竹の少し右の崖の穴は、鉄の扉のカンヌキを差し込む穴だそうです。 殿様はこのB登山コースを通られたそうです。



写真CC: 本丸に登るB登山コース



写真CD: 本丸に登るB登山コース。 孟宗竹(もうそうだけ)が生(は)えています。



写真CE: B登山コース



写真CF: 本丸に登るB登山コースの登山口。 佐土原城跡歴史資料館 出土文化財管理センターの建物の近くにこの登山口はあります。



写真CG: 鶴松館が見えています。 B登山コースの登山口から見たもの。



写真CH: 鶴松館の正面玄関から右奥の、山が凹んだところ(谷)には、明治時代の初めまでは、佐土原島津藩の筆頭家老の曽小川 邸がありました。 曽小川 家の墓は、佐土原愛宕神社の近くにある自得寺跡にあります。



写真CI: 鶴松館の正面玄関から右奥の、山が凹んだところ(谷)には、明治時代の初めまでは、佐土原島津藩の筆頭家老の曽小川 邸がありました。 今は、この写真のように、畑と農作業の建物などがあります。



写真CJ: 佐土原城跡歴史資料館 出土文化財管理センターの建物。



写真CK: 佐土原城跡歴史資料館 出土文化財管理センターの建物に展示してある「うずら車(ウズラ車)」。 伝統民芸品の木製おもちゃです。 野鳥の 鶉(うずら) に2つ車が付いて、動きます。 広瀬の久峰観音や国富町の法華嶽薬師で売られていました。 子供の頃、うずら車で遊んだ記憶があります。



写真CL: 佐土原城跡歴史資料館 出土文化財管理センターの建物(左側)と鶴松館。



写真CM: 本丸に登るB登山コースの登山口。 佐土原城跡歴史資料館 出土文化財管理センターの建物の近くにこの登山口はあります。 殿様はこの登城路から登られたそうです。



写真CN: 佐土原城 御馬繋場跡(おうまつなぎばあと)。



写真CO: 佐土原城跡歴史資料館 出土文化財管理センターの建物(左側)と鶴松館。



写真CP: 番屋坂の近くにある搦め手(からめて、城の裏門)からの本丸に登る道(C登山コース)の登山口近くにある池。 きれいな色の野鳥 カワセミが2羽いました。



写真CQ: 番屋坂の近くにある搦め手(からめて、城の裏門)からの本丸に登る道(C登山コース)の登山口。



写真CR: 搦め手(からめて)の説明板。 搦め手は城の裏門。



写真CS: 本丸に登るC登山コース。 階段もあります。



写真CT: 手すりもあります(C登山コース)。



写真CU: 本丸に登るC登山コース



写真CV: 本丸に登るC登山コース



写真CW: 本丸に登るC登山コース



写真CX: 三叉路(さんさろ)。 右が本丸、真っ直ぐ先が本丸のまわりの道、手前側がC登山コース



写真CY: 三叉路(さんさろ)。 右が本丸、真っ直ぐ先が本丸のまわりの道、手前側がC登山コース



写真CZ: 三叉路(さんさろ)。 左が本丸、手前側が本丸のまわりの道、先がC登山コース



写真DA: 本丸跡、天守台跡がある広場が見えてきました(C登山コース)。



写真DB: 本丸のまわりの道とB登山コースの三叉路(さんさろ)。 右が本丸、左が下る道です。



写真DC: 本丸に行くB登山コース



写真DD: C登山口から高月院(こうげついん)方向を見た景色。 ここが番屋坂です。 番屋とは番人の詰(つ)め所です。



写真DE: C登山口



写真DF: 番屋坂。 C登山口の近くです。



写真DG: 昔懐かしい土壁がありました。



写真DH: 先の森が高月院です。



写真DI: 高月院の山門。 高月院は藩政期の初めに建てられた佐土原藩島津家の浄土宗の菩提寺です。 2代 忠興が後島津の初代藩主 島津以久を祭るために建立しました。 開基和尚は京都大雲院貞安上人で、寺名は以久の戒名、高月院からとりました。 100石の寺料が与えられていました。 島津家は代々禅宗の曹洞宗でしたが、以久が伏見にいたときに京都大雲院の貞安に帰依し、浄土宗に転宗しました。



写真DJ: 高月院(こうげついん)の本堂。



写真DK: 高月院の境内。



写真DL: 高月院の本堂。



写真DM: 高月院の説明板。 明治時代の初めの廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)には被害を受けなかった。



写真DN: 高月院。



写真DO: 豊烈曜後之碑の説明板。 石碑には戊辰(ぼしん)の役での佐土原隊の戦いの日、戦場名、戦死者名が書かれている。



写真DP: 左は豊烈曜後之碑。 戊辰(ぼしん)の役での佐土原隊の戦いの日、戦場名、戦死者名が書かれています。 明治元年(1868年)12月、奥羽北越の戦いが終わり、佐土原隊は京都の大雲院に引き上げ、この碑を境内に建立し盛大な慰霊祭を催しました。 後年(昭和58年)、この大雲院からここ高月院に石碑は移されました。 京都大雲院では石碑の破損が激しいので、石碑を新調しました。 本物は高月院がもらい受けました。 戊辰戦争では、大雲院を本拠地として、四百数十名の佐土原の隊士が出兵しました。 千葉、上野の戦い、会津の戦い、秋田の戦いに参戦し、10%以上の戦死者を出しました。 右は、9代室 随真院が明治2年9月に建立した戊辰戦争戦没者招魂碑です。



写真DQ: 島津代々の墓石がこの階段の上にあります。



写真DR: 佐土原藩島津家御廟所(さどわらはんしまづけおびょうしょ)。 高月院にあります。



写真DS: 高月院から見た景色。 遠くに西都市に行く車道が見えています。



写真DT: 島津家の墓。



写真DU: 島津家累代の墓。 ただし、5代と6代藩主の墓は自得寺に作られましたが、明治の初めの廃仏毀釈で愛宕山にあった自得寺は廃寺となり、大光院に移されて現存しています。 また、前島津の1代と2代の墓は佐土原中学校のそばにある天昌寺跡にあります。



写真DV: 西都市に行く車道にある「高月院入り口」の看板。



写真DW: 佐土原城跡歴史資料館 出土文化財管理センターの建物(左側)と鶴松館。



写真DX: 佐土原城 反米役所跡(はんまいやくしょあと)。 



写真DY: 佐土原城跡歴史資料館 出土文化財管理センターの建物。 「のりかえ」の看板は広瀬駅(今の佐土原駅)にあったもの。



写真DZ: 佐土原城跡歴史資料館 出土文化財管理センターの玄関。



写真EA: 佐土原城跡歴史資料館 出土文化財管理センターの入り口にある歴史的な道標と灯籠(とうろう)。



写真EB: 大光寺の南東にある佐土原 鬼子母神(吉祥寺)。



写真EC: 左が西都市方面、右が下田島方面。 手前側に鬼子母神(吉祥寺)があります。



写真ED: 鬼子母神前のバス亭。



写真EE: 鬼子母神入り口の三叉路(さんさろ)。



写真EF: 鬼子母神(吉祥寺)の参道。 正面奥が鬼子母神です。 例祭には参道の両側に出店が出て、県内外から約2万人の参詣者が訪れます。



写真EG: 鬼子母神(吉祥寺)。 開基は大隅国種ヶ島慈遠院の住職であった宝正院日種上人です。 開創年は2説があります。 寺記には1578年、日向国に進攻した前島津の島津家久(いえひさ)が佐土原入城の時に、日種上人が招かれ寺を建立と書いてあります。 一方、1603年後島津の初代藩主島津以久(ゆくひさ)の時、寺を建立とする説もあります。 1615年後島津 第3代藩主 島津久雄(ひさたか)の寄進により、鬼子母神堂を建て子育て安産や諸病平癒の祈願所となりました。



写真EH: さどわら鬼子母神(吉祥寺)。



写真EI: 佐土原鬼子母神(吉祥寺)。



写真EJ: 鬼子母神(吉祥寺)の参道。



写真EK: 佐土原鬼子母神(きしもじん)の説明板。 子供の神さま佐土原鬼子母神として広く知られていますが、正しくは恵日山吉祥寺と号します。 法華宗大本山京都本能寺末。 島津や高鍋の秋月の信仰も集めました。 鬼子母神尊像はかって島津の陣中における守護神でした。



写真EL: 吉祥寺寺務所。



写真EM: 佐土原鬼子母神(吉祥寺)の境内。 お祭りの時には出店も多く、昔(昭和30年頃)は見せ物小屋などもできていました。



写真EN: 佐土原 鬼子母神(吉祥寺)の鳥居。



写真EO: 法華宗(ほっけしゅう) 吉祥寺(きっしょうじ)の本殿。



写真EP: 佐土原 鬼子母神社殿。



写真EQ: 吉祥寺の中。



写真ER: 佐土原鬼子母神の社殿。



写真ES: 吉祥寺(きっしょうじ)。



写真ET: 佐土原鬼子母神の中。



写真EU: 佐土原鬼子母神(吉祥寺)の境内。



写真EV: 鬼子母神(吉祥寺)の石碑。 後ろに第二次世界大戦の時の防空壕(ぼうくうごう)が見えています。



写真EW: 境内に残る防空壕。



写真EX: 第二次世界大戦のときの防空壕の中。 防空壕の中の様子がよく分かります。



写真EY: 佐土原鬼子母神(吉祥寺)。



写真EZ: 佐土原鬼子母神(吉祥寺)。



写真FA: 佐土原中学校の近くにある「天昌寺跡(てんしょうじあと)」への入り口。 入り口の左に陶板の説明板、右に木製の説明板があります。 中央の細い道が入り口です。 天昌寺は前島津(関ヶ原の戦いまでの島津)の菩提寺(ぼだいじ)です。 前島津の遺跡は佐土原には、ここ天昌寺跡にしかありません。 貴重な文化財です。 前島津は2代、23年間続きました。



写真FB: 天昌寺跡に五輪の塔(墓)が残っている、前島津の家久(いえひさ)、豊久(とよひさ)の墓地の説明板。 天正7年(1579年)それまで佐土原にいた伊東にかわって島津家久(いえひさ)が城主になりました。 彼は鹿児島の串木野から700余名を従えて入城し、佐土原を基地にして島津の勢力を全九州に広げた武将でした。 天正15年、急病で41歳で死去、その子 豊久(とよひさ)は18歳であとを継ぎ秀吉に従って功を立て藩の基礎を固めました。 1600年、関ヶ原の戦いには叔父の義弘に従って出陣、最後はその身代わりになって戦死しました。 それは9月15日で13名の部下が殉死しました。 子供がいないので城明け渡しとなり、一族は鹿児島県の日置郡吹上町永吉に引き上げました。 3年後、鹿児島の垂水(たるみず)から島津以久(ゆくひさ)が入城し、後島津の佐土原藩の祖となりました。 これに対し関ヶ原の戦いまでの島津家久、豊久を前島津と言います。 天昌寺跡の墓碑群は、佐土原に残る前島津の唯一の遺跡です。 家久(いえひさ)の母、家久の妻、豊久(とよひさ)、家久(いえひさ)の墓があります。 17基の墓は前島津の一族や家臣のもの、関ヶ原の戦いで豊久(とよひさ)に殉死した若者や都城での庄内の変に戦死した人々の墓も見られます。



写真FC: 天昌寺跡に行く入り口にある前島津の墓碑の説明板。 前島津の島津家久(いえひさ)は、島津義弘などと共に伊東方の高原城を攻め陥落させました。 その後、伊東と対戦した「耳川の戦い」など数々の戦功により、1579年佐土原城主になりました。 しかし豊臣秀吉の九州征服で島津軍は破れ、降伏した家久(いえひさ)は秀吉の弟、秀長に会うが病となり急死しました。 これについては、毒殺説があります。
前島津の2代目は島津豊久(とよひさ)です。 豊臣秀吉の時代、小田原征伐や朝鮮出兵など転戦しました。 関ヶ原の戦いでは、伯父の義弘と西軍として参戦しました。 東軍優位が決まると、伯父の義弘は後世に残る敵中突破を決意し、その退却戦で、義弘の身代わりとなって30歳で豊久(とよひさ)は生涯を終えました。 その墓は、関ヶ原近くの上石津町や鹿児島県吹上町永吉にも墓があります。 両町とも佐土原町と交流が続いています。 この時代の代表的な若い武将の一人なので、現在も全国にファンが多くいます。



写真FD: 天昌寺跡への細い入り口のそばには、佐土原中学校があります。 右の大きな建物が佐土原中学校です。



写真FE: 天昌寺跡に行く細い道にある指導標。 「前島津の墓」と書いてあります。



写真FF: 天昌寺跡へは、この中央の道を先に進みます。



写真FG: 前島津の墓と書かれた指導標。



写真FH: 天昌寺跡。 天昌寺は前島津(島津家久(いえひさ)、島津豊久(とよひさ)) 23年間の歴史を包み込んだ菩提寺(ぼだいじ)。 明治4年廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)で取り壊されました。 1589年豊久(とよひさ)は亡父のため菩提寺を建立し、家久の戒名から寺名を梅天寺としました。 宗派は島津家代々の曹洞宗です。 その後、豊久(とよひさ)は関ヶ原の戦いで西軍として、戦死し、佐土原城は幕府直轄となりました。 豊久(とよひさ)は伯父の義弘を薩摩に帰らせるために、敵中突破戦で討ち死にしました。 豊久(とよひさ)の遺族一統は鹿児島の永吉に引き上げました。 後にこの寺は、豊久(とよひさ)の戒名からとった天昌寺と改称されました。
明治の初めに廃仏毀釈で廃寺となり、現在は小さな観音堂が建ち、中には馬頭観音像があります。



写真FI: 天昌寺跡。 左の古くて大きな木は「島津のイチョウ」です。



写真FJ: 天昌寺跡。 石像と御手洗(みたらい)。



写真FK: 天昌寺跡の御手洗(みたらい)には奉納された手ふきがありました。 それには、天照寺講中と書いてあって、天昌寺ではなく「照」の字が使われていました。



写真FL: 天昌寺跡。 正面中央の4基の大きな五輪の塔は、前島津の1代と2代の殿様などの墓です。 左から家久(いえひさ)、豊久(とよひさ)、家久夫人、家久母堂(母)の墓です。 これらは昭和50年代に発見されました。
西都市 都於郡(とのこおり)にある大安寺の本堂の左寄りの一番上の大きな3つの位牌の右端のものが関ヶ原の戦いで島津義弘を薩摩(さつま)に帰すための殿(しんがり)を務(つと)め戦死した島津豊久(島津家久の子)の位牌(いはい)です。 その位牌の右に「丸に十の字」の島津の家紋があります。



写真FM: 天昌寺跡。 西側17基の墓群の中に、関ヶ原の戦いで、豊久(とよひさ)に殉じた3人の墓もあります。 殉死した人は13名ですが、墓は3名だけです。



写真FN: 天昌寺跡。 西側の17基の墓は、前島津の一族や家臣のもの、関ヶ原の戦いで豊久(とよひさ)に殉死した若者(殉死したのは13名ですが、墓は3名だけ)や庄内の変に戦死した人(1名)の墓もあります。  「庄内の変(庄内の乱)」は伊集院忠棟(幸侃)が島津家の家臣でありながら、秀吉の九州征伐後、豊臣政権と親密になった。 島津忠恒(家久(いえひさ))がこれを伏見の屋敷で殺害した。 子供の伊集院忠真は、庄内(都城)に立てこもったが、降伏してこの乱は収まった。 その他の墓は不明です。
「庄内の乱」
伊集院忠真は島津の家老、伊集院忠棟(幸侃)の嫡男(ちゃくなん)である。 文禄4年(1595年)、伊集院忠棟(幸侃)は鹿屋2万石から都城8万石の領主となるが、その後の慶長4年(1599年、関ヶ原の戦いの1年前)、京都伏見の薩摩屋敷において、主家乗っ取りの嫌疑で島津忠恒(家久)により殺害された。 都城の伊集院忠真はこの事件を知り主家 島津氏に反旗を翻(ひるがえ)し戦いとなった。 「庄内の乱」である。 翌年、戦いが不利となった伊集院忠真は、徳川家康の仲介で和睦(わぼく)を受け入れ、1万石を経て帖佐2万石を給された。 慶長7年(1602年)、島津忠恒(家久)は上洛(じょうらく)するにあたり伊集院忠真にも同道を命じた(この家久は佐土原の前 島津1代の島津家久の甥(おい)にあたります。 2人とも家久ですが、別人です。)。 そして上洛途中に野尻に滞在した忠恒(島津家久)は、8月17日、鹿狩りを行った際に伊集院忠真 主従を殺害させた(1602年8月17日、関ヶ原の戦いの2年後)。 伊集院忠真の墓は宮崎県小林市 野尻町 大字東麓 字本町にあります。



写真FO: 天昌寺跡の石像と御手洗(みたらい)。



写真FP: 天昌寺跡の境内。 中央に大きなイチョウの木が見えています。



by 南陽彰悟 (NANYO Shogo)