小川城跡 (小川城址)、おがわ作小屋村 (全国 地域づくり表彰 最高賞の国土交通大臣賞 受賞) (小川城址公園、天神橋、西米良民話の里、西米良民話館、小川民俗資料館、菊池則忠の像、大円の仏像と仮面、民話の宿、米良神社、小川米良神楽(かぐら)、小川川、天包山(あまつつみやま)、レンゲの花、湖の駅 (イノシシのハクセイ)、越野尾橋 (ダムの底から 旧 越野尾小学校跡が現れた)、カリコボーズの山菜まつり、茅輪(ちのわ)、天神橋)  (宮崎県 児湯郡 西米良村 大字小川、大字越野尾)







<標高、位置>  越野尾橋は
標高 約211 m
 北緯32度11分53秒  東経131度14分36秒

<標高、位置>  小川城址公園(おがわじょうしこうえん)、西米良民話の里、民話の宿は
標高 約240 m
 北緯32度14分07秒  東経131度12分47秒

<標高、位置>  おがわ作小屋村は
標高 約230 m
 北緯32度14分06秒  東経131度12分44秒

<標高、位置>  米良神社(めらじんじゃ)は
標高 約230 m
 北緯32度13分58秒  東経131度13分00秒

<標高、位置>  湖の駅は
標高 約220 m
 北緯32度11分09秒  東経131度13分58秒


 「おがわ作小屋村」は宮崎県 児湯郡 西米良村 大字小川にあります。
「作小屋」と言う言葉は次のようなものです。 明治時代初期の廃藩置県のときに第17代領主の菊池則忠が、領地のすべてを均等に領民に分け与えました。 人々は水利、日当たりなど、田畑に適した場所を求めて開墾(かいこん)しました。 そのとき休息用の小屋を造りました、この休憩小屋が後に「作小屋」となりました。 田畑が住居から遠いので、この作小屋に宿泊して農作業をしました。  作小屋には、いろんな形態があり、農繁期にはそこに移住し、そこで生活しながら農作業をして、子供が大きくなり嫁を迎えると、親は隠居して作小屋に移り住むという場合もあったそうです。  おがわ作小屋村は平成21年(2009年)10月1日にオープンしました。 そこから米良三山の一つである天包山(あまつつみやま、標高 1188.8 m)も見えます。 米良三山とは市房山(標高 1720.8 m)、石堂山(1547.4 m)、天包山(あまつつみやま、1188.8 m)です。
 西米良村 小川地区の交流施設「おがわ作小屋村」を運営する小川作小屋村運営協議会は、全国から選ばれた地域活性化事例を表彰する平成25年度の「地域づくり表彰」(国土交通省など主催)で最高賞の国土交通大臣賞に選ばれました (2013年11月13日)。 人口93人、高齢化率6割超の小さな集落に、年間2万人以上の客を呼び込む「おがわ作小屋村」の成長経緯が高い評価を受けました。

 「米良神社」は宮崎県 児湯郡 西米良村 大字小川にあります。 米良神社(小川米良神社)は宝永元年(1704年)に勧請されました。
 「米良神社 御案内」の説明板から、
御祭神 大山祇命 イワナガヒメ命(通称 市之宮様)
鎮座地 宮崎県 児湯郡 西米良村 大字小川
(宮崎市より北西に国道219号線を70 km 約1時間40分、西南戦争 激戦地、天包山(あまつつみやま)の峰を一望できるところに鎮座す)
     由来
伝説によれば天孫降臨の際、ニニギノミコトが美女を見そめ、父 大山祇命に請(こ)われたところ、父 大山祇命はイワナガヒメと妹のコノハナサクヤヒメの2人を奉(たてまつ)ると申し出られた。 然(しか)るにニニギノミコトはコノハナサクヤヒメを留め、姉、イワナガヒメは醜(みにく)いため返し給(たま)えることとなった。 イワナガヒメは棺(ひつぎ)の底より鏡をとり出し、わが顔を見られ、はじめてわが顔の醜(みにく)きを知られ、家を去られこの五十川(今の一ツ瀬川)を伝い上られ、米良 小川の里へ住まわれていたが、遂(つい)に悲嘆のあまり御池の渕(ふち)に身を投じこうせられた(亡くなられた)。 村人はこれを憐(あわ)れみ、一宇(いちう、一棟の家)を建立し祀(まつ)ったという。 以後、イワナガヒメは隠れ神として人をいみ給(たま)うことになり、本殿のある神山には、神宮の外の者の入ることをきらい、殊(こと)に女人は絶対に、立ち入ることを禁じられて今日に至った。 また当神社には神宝(しんほう)として、イワナガヒメのものという毛髪があったが、元禄16年5月7日(元禄は江戸中期 1688年〜1704年)洪水が起こり山は崩(くず)れ、川は氾濫(はんらん)し、社も川上に漂流した。 川水が引くにつれて、社も静かに川下に下り、留まったので、この地に拝殿を建立したという。 これが即(すなわ)ち現在の拝殿であるという。 今もこの伝承は村人の中に伝えられ、信仰とともに強く息づいている。
 例大祭 12月15日 (現在ではこれに近い土曜日) 夜神楽(よかぐら) 33番 奉納

 「西米良村 小川地区の歴史」、小川公民館(小川多目的集会施設)のそばにある「記録碑(ひ)」から、
米良10代 菊池則重 公 居館を小川に定む(延宝年間(江戸前期 1673年〜1681年)、宝永2年(江戸中期 1705年) 米良神社(市野宮)造営11代 則信 公、嘉永元年12月(江戸後期 1848年) 小川館焼失、明治2年 則忠 公 嫡男 武臣に命じ藩校 弘文館を創立・同4年 米良小学校と改称、明治4年 廃藩置県後に際し旧領主 菊池則忠 公 全領地を全領民に配分、明治10年7月22日 西南の役により神社、戸長役場、学校、民家40戸総計94棟焼失、明治22年 小川尋常小学校 新築、明治36年 木馬道開設(越野尾 小川 間) 大正6年 車の道、大正8年 馬車道に改良す、昭和20年 自動車道に改良(越野尾 小川 間)、昭和22年 小川、仲入に点灯(電気が来た)、昭和27年 奥地林道開設(小川 布水滝 間)、昭和30年 米良神社拝殿 改築、昭和31年 国鉄バス開通、昭和34年 小川小へき地集会室落成、昭和35年 忠魂碑 ならびに顕彰碑 建立、昭和46年1月 NHKテレビ共聴施設完成(70世帯)、同 11月 地域集団電話開通、昭和49年3月 スーパー林道開設(19.99 km)、平成2年 小川城址公園 完成、平成7年12月 忠魂碑、顕彰碑 など建設、平成8年3月 小川多目的集会施設 新築


 「小川城址公園」は宮崎県 児湯郡 西米良村 大字小川 字囲 833にあります。 平成2年(1990年)3月30日に完成しました。
 小川城址公園は通称「御隠居所跡」に造られました。  ここは、乗馬の練習をした調練場、鉄砲の射的場、剣道の練習場などがあったところです。 石垣は米良山(昔の菊池の領地で今の西米良村、西都市西部(東米良、寒川)、木城町 中之又)の石工さん達が造ったと言われています。 そこにある民俗資料館は模擬城です。 「小川城」は小川城址公園ではなく、旧 小川小学校跡地 (宮崎県 児湯郡 西米良村 大字小川 字古屋敷)にありました。 本当の小川城址(小川城跡)は旧 小川小学校のあったところです。 菊池 氏(米良に移ってきたとき(15世紀初頭頃)に米良 氏を称しました。)の居城で、1848年頃焼失しました。 米良 氏ははじめ(15世紀初頭)は銀鏡城(しろみじょう、西都市 大字銀鏡(東米良))に入りました。 菊池重次が米良 氏を称し、米良を領地にしました。 その次に村所城(むらしょじょう)に移り、その後(江戸中期)に「小川城」に移りました。 明治維新のときは小川城でした。 関ヶ原の戦いのときは米良重隆は徳川家康 側でした。 家康より米良 家が菊池の直系であることを認められ、米良領を安堵(あんど、幕府などが所領を承認すること。)されました。  菊池則忠 公 銅像が小川城址公園にあります。 菊池則忠は第17代米良領主で、明治2年の版籍奉還のときに、西米良村、東米良(西都市)、三財の寒川(西都市)、中之又(木城町)などの領地内の山を全村民に分けて与えました。 それで米良の殿様として尊敬されました。 小川城は米良則重によって承応年間(1652年〜1655年)に造られました。 石垣、曲輪(くるわ)が残っています。 米良山(米良 氏の領地、今の西米良村、西都市西部(東米良、寒川)、木城町 中之又)は元和年間(1615年〜1624年)に肥後人吉藩の相良 家の属地になり、米良 氏は無高(むだか、知行高(ちぎょうだか、知行の石高(こくだか))の定まらないこと)でしたが、交代寄合(江戸時代、大身(3000石以上)の旗本の非役の者で、大名に準じて、その知行所に居住し参勤交代の義務をもつ者)の一家になりました。 則重のときに小川城に移り、その後約200年間、幕末の則忠まで8代続いて小川城に居ました。


「菊池記念館」の説明板から、
米良の菊池 氏は、南朝の忠臣 肥後の菊池一族の直裔(えい)で勤王の志の厚い家門であります。 元中9年(1392年)に南北朝 合一になりましても純忠の志は寸分もゆるがず天皇 御親政を望みに託(たく)して回天の時を待っていました。
しかるに、あれほど堅かった一族の結束も宇土為光の叛逆と相次ぐ内訌(ないこう、うちわもめ)によって崩れ城は落ち兵は走り遂に室町時代の中頃(文亀元年(1501年))に米良へ落ち延びたのであります。
いらい 姓を米良と改め代々 米良の領主として米良山一帯を治めてきました。
幕末の英傑 則忠 公は、貴族議員議員を勤められ国のためにも米良のためにもお働きいただいた米良が誇る殿様であります。

 「カリコボーズ(カリコボウズ)」(勢子・狩子)は西米良村に古くから伝承されているもので、全国版では河童(かっぱ)伝承のことです。 山深い西米良村では、山の神の性質が強く崇(あが)められています。 今のイメージとしては、宮崎駿のアニメ「となりのトトロ」的存在で森林の精霊として親しまれています。
春の彼岸に川へ下り川を守る神として、秋の彼岸に山へ登り山を守る山の神として崇(あが)められています。 シンボルの絵ではかわいい子供が描(えが)かれています。 せこ(勢子)、かりこ(狩子)は、山で猟をするときにイノシシ、鹿などを声を出して追う人のことです。 米良の山の尾根を声を出しながら進みます。 これがカリコボウズのイメージと重なり合います。


 「湖の駅」は西米良村 大字越野尾 132-35にあります。
ユズ、シイタケ、コンニャク、無農薬野菜などの地場産品の販売とイノシシ汁、イノシシカレー、イノシシうどん・そば、山菜うどん・そばなども食堂で食べることができます。


写真A: 一ツ瀬ダムに流れ込(こ)む小川川に国道219号線が通っています。 その橋が「越野尾橋」です。 「越野尾橋」は宮崎県 児湯郡 西米良村 大字越野尾にあります。



写真B: 児湯郡 西米良村 越野尾にある「越野尾橋」です。 先は西都市に行きます。 手前側は村所、小川などに行きます。



写真C: ちょうど雨不足のときで、一ツ瀬ダム湖の水位が非常に下がっています。 越野尾橋から一ツ瀬ダム湖の方を見た景色です。 普段は水没している中段の平らなところは旧 越野尾小学校跡で、この小学校はダムが完成したときに水没し、もっと高いところに新しい越野尾小学校が建設されました。 この新しい越野尾小学校も2005年3月に125年の歴史を終わり閉校しました。 一ツ瀬ダムは着工年が1960年で完成は1963年です。 1963年頃この旧 越野尾小学校は水没しました。 その頃もっと高い場所に越野尾小学校は移転しました。 移転した越野尾小学校も閉校になりましたが、いろんな村の行事などで有効に使用されています。



写真D: 国道219号線の越野尾橋から南方向(ダム湖の方向)を見たもの。 ダム湖の水が大変少なくなっています。



写真E: 国道219号線の越野尾橋から南方向(ダム湖の方向)を見たもの。



写真F: 1963年に一ツ瀬ダムの完成で水没したはじめの越野尾小学校跡です。 右のほうに2個の門柱、左手前に階段、校舎の土台なども見えています。 水位が下がって珍(めず)しい小学校跡を見ることが出来ました。
 一ツ瀬ダムは着工年が1960年で完成は1963年です。 1963年頃この旧 越野尾小学校は水没しました。 その頃もっと高い場所に越野尾小学校は移転しました。 移転した越野尾小学校も閉校になりましたが、いろんな村の行事などで有効に使用されています。



写真G: 1963年に一ツ瀬ダムの完成で水没したはじめの越野尾小学校跡です。 右のほうに2個の門柱、左手前に階段、校舎の土台なども見えています。 水位が下がって珍(めず)しい小学校跡を見ることが出来ました。
 一ツ瀬ダムは着工年が1960年で完成は1963年です。 1963年頃この旧 越野尾小学校は水没しました。 その頃もっと高い場所に越野尾小学校は移転しました。 移転した越野尾小学校も閉校になりましたが、いろんな村の行事などで有効に使用されています。



写真H: 西米良村にある越野尾橋から上流方向(北方向)を見たもの。 やはり水位が下がっています。 小川川です。



写真I: 西米良村にある越野尾橋から上流方向(北方向)を見たもの。 西米良の山も見えています。 小川川です。



写真J: 越野尾橋から西の端(はし)を見たもの。 小川城址公園、おがわ作小屋村、西米良民話の里に行くにはこの三叉路(さんさろ)を右(北)に曲がります。 曲がらずにまっすぐ行くと村所、児原稲荷神社などに行きます。
平成の桃源郷「おがわ作小屋村」のある西米良村 小川地区へは、国道219号を西都市から約35 km 熊本方面へ行ったところにある越野尾 地区から右折し約8 km 行きます。



写真K: 「平成の桃源郷 おがわ作小屋村→」の道路標識があります。 「越野尾」の標識も見えます。
右の建物は「憩(いこ)いの館」です。
平成の桃源郷「おがわ作小屋村」のある西米良村 小川地区へは、国道219号を西都市から約35 km 熊本方面へ行ったところにある越野尾 地区から右折し約8 km 行きます。



写真L: 越野尾橋の西端です。 小川地区に行くにはここを右(北)に曲がります。



写真M: 「平成の桃源郷 おがわ作小屋村→」と「越野尾」の標識も見えます。



写真N: 「おがわ作小屋村 山菜まつり→」の看板(かんばん)も見えます。
建物は「憩(いこ)いの館」です。



写真O: 「憩(いこ)いの館」です。



写真P: 「民話街道 西米良村」の道標が憩の館のそばにあります。



写真Q: 左に越野尾郵便局が見えます。 越野尾郵便局は宮崎県 児湯郡 西米良村 大字越野尾184-50にあります。



写真R: 左に越野尾郵便局が見えます。 越野尾郵便局は宮崎県 児湯郡 西米良村 大字越野尾184-50にあります。



写真S: この三叉路を北に行くと約8 km小川城址公園、おがわ作小屋村、西米良民話の里行きます。 右は憩(いこい)の館。



写真T: 県道316号線です。



写真U: 「↑18 km 布水滝(ぬのみずのたき)」、「↑17 km 虹(にじ)の滝」、「↑13 km 蛇渕(じゃぶち)」、「↑8 km 菊池家囲墓地」の道路標識があります。 県道316号。



写真V: 「平成の桃源郷 おがわ作小屋村 インフォメーション 山菜まつり」の看板(かんばん)があります。



写真W: 三叉路(さんさろ)を振(ふ)り返ったもの。



写真X: 県道316号線を北に小川川に沿(そ)って進みます。 道幅を拡(ひろ)げる工事が行われていました。



写真Y: 来た道を振り返ったもの。



写真Z: 小川川が見えています。 小川川の右岸(下流を見て右)を県道316号線が通っています。



写真AA: 西米良村の山と小川川です。



写真AB: 工事の看板(かんばん)が見えています。



写真AC: 左に小川多目的集会施設が見えてきました。



写真AD: 来た道を振り返ったもの。 この辺(あた)りは小川川の左岸(下流を見て左)を県道316号線が通っています。 川の右奥にレンゲの花のピンクが見えます。



写真AE: 小川川と小川多目的集会施設。 集会施設の左奥に黒く「米良神社(めらじんじゃ)」が見えています。



写真AF: 宮崎県 児湯郡 西米良村 大字小川を流れる小川川です。



写真AG: 児湯郡 西米良村 大字小川を流れる小川川です。



写真AH: 小川川の右岸にまだ田植えが行われていない田んぼがあり、ピンクのレンゲの花が見えます。



写真AI: 「↑小川城址公園」、「↑米良神社」、「菊池家囲墓地→」と書いてある標識があります。 奥の建物は小川多目的集会施設。



写真AJ: 宮崎県 児湯郡 西米良村 大字小川にある「おがわ作小屋村」に着きました。 一番奥の木の陰に「小川城址公園(おがわじょうしこうえん)」の建物も見えています。 左の建物が西米良民話館、右が小川民俗資料館で、小川川の天神橋を渡って行きます。
「作小屋」と言う言葉は次のようなものです。 明治時代初期の廃藩置県のときに第17代領主の菊池則忠が、領地のすべてを均等に領民に分け与えました。 人々は水利、日当たりなど、田畑に適した場所を求めて開墾(かいこん)しました。 そのとき休息用の小屋を造りました、この休憩小屋が後に「作小屋」となりました。 田畑が住居から遠いので、この作小屋に宿泊して農作業をしました。 作小屋には、いろんな形態があり、農繁期にはそこに移住し、そこで生活しながら農作業をして、子供が大きくなり嫁を迎えると、親は隠居して作小屋に移り住むという場合もあったそうです。



写真AK: 「カリコボウズ山菜まつり」で多くの人達が集まりました。 車は車道にも止めてあります。 先(南)は越野尾の方に行きます。 手前側は木浦、古屋敷(ここに本当の小川城址(小川城跡)があります。)、天包山に行く林道の三叉路(さんさろ)がある沢水、虹の滝、布水滝などに行きます。



写真AL: 「カリコボーズ山菜まつり」で多くの人達が集まりました。 車は車道にも止めてあります。 先(北)は木浦、古屋敷(ここに本当の小川城址(小川城跡)があります。)、天包山に行く林道の三叉路(さんさろ)がある沢水、虹の滝、布水滝などに行きます。 西米良村の山が見えています。 中央の高い山が天包山(あまつつみやま、標高 1188.8 m)と思われます。 正確には北西方向にあります。



写真AM: おがわ作小屋村の入り口に「おかえりなさい」と書いてあります。 奥に小川城址公園が見えます。 茅の輪(ちのわ)が入り口に作ってあります。
茅(かや)で作った輪(わ)を「茅の輪(ちのわ)」と呼びます。 普通は神社で六月祓(みなづきばらえ)に用います。 茅萱(ちがや)というイネ科の植物などを輪の形に作ったものです。 これをくぐって身を祓(はら)い清めます。
茅の輪(ちのわ)の両側に藤の花が飾(かざ)ってあります。



写真AN: 煙の向こう(東)に西米良村の山が見えます。



写真AO: 車道の西に駐車場があります。



写真AP: 北西に丘があって遊歩道が見えています。 右の丘は「小川花見山」と呼ばれます。



写真AQ: おがわ作小屋村の東に石垣(いしがき)のある小川城址公園、その手前に太鼓橋(たいこばし、天神橋)が見えています。 天神橋には鯉のぼり(こいのぼり)が多く見えます。 手前の田んぼには赤い花が多く植えてありました。 天神橋は小川川(一ツ瀬川の支流)にかかっています。

 小川城址公園は宮崎県 児湯郡 西米良村 大字小川 字囲 833にあります。 平成2年(1990年)に小川城址公園は完成しました。 通称「御隠居所跡」に造られました。  ここは、乗馬の練習をした調練場、鉄砲の射的場、剣道の練習場などがあったところです。 石垣は米良山(昔の菊池の領地で今の西米良村、西都市西部(東米良、寒川)、木城町 中之又)の石工さん達が造ったと言われています。 そこにある民俗資料館は模擬城です。 「小川城」は小川城址公園ではなく、旧 小川小学校跡地 (宮崎県 児湯郡 西米良村 大字小川 字古屋敷)にありました。 本当の小川城址(小川城跡)は旧 小川小学校のあったところです。 菊池 氏(米良に移ってきたとき(15世紀初頭頃)に米良 氏を称しました。)の居城で、1848年頃焼失しました。 米良 氏ははじめ(15世紀初頭)は銀鏡城(しろみじょう、西都市 大字銀鏡(東米良))に入りました。 菊池重次が米良 氏を称し、米良を領地にしました。 その次に村所城(むらしょじょう)に移り、その後(江戸中期)に「小川城」に移りました。 明治維新のときは小川城でした。 関ヶ原の戦いのときは米良重隆は徳川家康 側でした。 家康より米良 家が菊池の直系であることを認められ、米良領を安堵(あんど、幕府などが所領を承認すること。)されました。 菊池則忠 公 銅像が小川城址公園にあります。 菊池則忠は第17代米良領主で、明治2年の版籍奉還のときに、西米良村、東米良(西都市)、三財の寒川(西都市)、中之又(木城町)などの領地内の山を全村民に分けて与えました。 それで米良の殿様として尊敬されました。
「菊池記念館」の説明板から、
 米良の菊池 氏は、南朝の忠臣 肥後の菊池一族の直裔(えい)で勤王の志の厚い家門であります。 元中9年(1392年)に南北朝 合一になりましても純忠の志は寸分もゆるがず天皇 御親政を望みに託(たく)して回天の時を待っていました。
 しかるに、あれほど堅かった一族の結束も宇土為光の叛逆と相次ぐ内訌(ないこう、うちわもめ)によって崩れ城は落ち兵は走り遂に室町時代の中頃(文亀元年(1501年))に米良へ落ち延びたのであります。
 いらい 姓を米良と改め代々 米良の領主として米良山一帯を治めてきました。
 幕末の英傑 則忠 公は、貴族議員議員を勤められ国のためにも米良のためにもお働きいただいた米良が誇る殿様であります。

小川城は米良則重によって承応年間(1652年〜1655年)に造られました。 石垣、曲輪(くるわ)が残っています。 米良山(米良 氏の領地、今の西米良村、西都市西部(東米良、寒川)、木城町 中之又)は元和年間(1615年〜1624年)に肥後人吉藩の相良 家の属地になり、米良 氏は無高(むだか、知行高(ちぎょうだか、知行の石高(こくだか))の定まらないこと)でしたが、交代寄合(江戸時代、大身(3000石以上)の旗本の非役の者で、大名に準じて、その知行所に居住し参勤交代の義務をもつ者)の一家になりました。 則重のときに小川城に移り、その後約200年間、幕末の則忠まで8代続いて小川城に居ました。



写真AR: 宮崎県 児湯郡 西米良村にある小川城址公園、と小川川にかかっている天神橋(てんじんはし)です。
おがわ作小屋村のある小川地区は、むかし、菊池 公が居た小川城がありました。 西米良村内でも田畑が多く、最も栄えていた地区です。



写真AS: 西米良村の小川城址公園と鯉のぼり(こいのぼり)がある天神橋です。



写真AT: 宮崎県 児湯郡 西米良村にある小川城址公園。 一ツ瀬川の支流である小川川の左岸(下流を見て左)にあります。
 小川城址公園は宮崎県 児湯郡 西米良村 大字小川 字囲 833にあります。 平成2年(1990年)に小川城址公園は完成しました。 通称「御隠居所跡」に造られました。  ここは、乗馬の練習をした調練場、鉄砲の射的場、剣道の練習場などがあったところです。 石垣は米良山(昔の菊池の領地で今の西米良村、西都市西部(東米良、寒川)、木城町 中之又)の石工さん達が造ったと言われています。 そこにある民俗資料館は模擬城です。 「小川城」は小川城址公園ではなく、旧 小川小学校跡地 (宮崎県 児湯郡 西米良村 大字小川 字古屋敷)にありました。 本当の小川城址(小川城跡)は旧 小川小学校のあったところです。 菊池 氏(米良に移ってきたとき(15世紀初頭頃)に米良 氏を称しました。)の居城で、1848年頃焼失しました。 米良 氏ははじめ(15世紀初頭)は銀鏡城(しろみじょう、西都市 大字銀鏡(東米良))に入りました。 菊池重次が米良 氏を称し、米良を領地にしました。 その次に村所城(むらしょじょう)に移り、その後(江戸中期)に「小川城」に移りました。 明治維新のときは小川城でした。 関ヶ原の戦いのときは米良重隆は徳川家康 側でした。 家康より米良 家が菊池の直系であることを認められ、米良領を安堵(あんど、幕府などが所領を承認すること。)されました。  菊池則忠 公 銅像が小川城址公園にあります。 菊池則忠は第17代米良領主で、明治2年の版籍奉還のときに、西米良村、東米良(西都市)、三財の寒川(西都市)、中之又(木城町)などの領地内の山を全村民に分けて与えました。 それで米良の殿様として尊敬されました。
「菊池記念館」の説明板から、
 米良の菊池 氏は、南朝の忠臣 肥後の菊池一族の直裔(えい)で勤王の志の厚い家門であります。 元中9年(1392年)に南北朝 合一になりましても純忠の志は寸分もゆるがず天皇 御親政を望みに託(たく)して回天の時を待っていました。
 しかるに、あれほど堅かった一族の結束も宇土為光の叛逆と相次ぐ内訌(ないこう、うちわもめ)によって崩れ城は落ち兵は走り遂に室町時代の中頃(文亀元年(1501年))に米良へ落ち延びたのであります。
 いらい 姓を米良と改め代々 米良の領主として米良山一帯を治めてきました。
 幕末の英傑 則忠 公は、貴族議員議員を勤められ国のためにも米良のためにもお働きいただいた米良が誇る殿様であります。

小川城は米良則重によって承応年間(1652年〜1655年)に造られました。 石垣、曲輪(くるわ)が残っています。 米良山(米良 氏の領地、今の西米良村、西都市西部(東米良、寒川)、木城町 中之又)は元和年間(1615年〜1624年)に肥後人吉藩の相良 家の属地になり、米良 氏は無高(むだか、知行高(ちぎょうだか、知行の石高(こくだか))の定まらないこと)でしたが、交代寄合(江戸時代、大身(3000石以上)の旗本の非役の者で、大名に準じて、その知行所に居住し参勤交代の義務をもつ者)の一家になりました。 則重のときに小川城に移り、その後約200年間、幕末の則忠まで8代続いて小川城に居ました。



写真AU: おがわ作小屋村と小川城址公園を結ぶ天神橋です。 小川川にかかる橋です。



写真AV: おがわ作小屋村を南から見たもの。 北に西米良村の山が見えます。



写真AW: おがわ作小屋村のそばの車道から南を見た景色。 赤い花の植物が田んぼに植えてありました。 高台に人家があり鯉のぼりも見えています。



写真AX: おがわ作小屋村のそばの車道から南西を見たもの。 鯉のぼり、人家、山、手前の田んぼには赤い花の植物が植えてありました。 シュロの木も人家の右にあります。



写真AY: 北西を見たもの。 右に遊歩道の見える丘、駐車場が見えます。



写真AZ: 北を見たもの。 北の西米良の山が見えています。 右寄りの正確には北西にある山が天包山(あまつつみやま、標高 1188.8 m)と思われます。



写真BA: 北東を見たもの。 おがわ作小屋村と右端(みぎはし)に天神橋が見えます。



写真BB: 東を見たもの。 カップルさんが写真を撮(と)っていました。



写真BC: 南東を見た景色。 西米良の山が見えます。



写真BD: 南を見たもの。



写真BE: 南西を見たもの。



写真BF: 西を見たもの。



写真BG: 北西を見たもの。



写真BH: おがわ作小屋村近くの田んぼに植えてあった赤い花の植物。



写真BI: 高台の中央辺りに石碑(せきひ)が見えます。



写真BJ: 武者幟(むしゃのぼり)と多くのコイノボリが上げてありました。



写真BK: 「カリコボーズの春めぐり 西米良村観光協会」と書いてある幟(のぼり)があります。



写真BL: 「おがわ作小屋村」と書いてあるノボリが見えます。



写真BM: 「思いやり駐車場 身障者・足の悪いお年寄り用」と書いてあります。



写真BN: 「お泊りのお客様へ、約100 m 上流の橋を渡り対岸の宿泊者駐車場をご利用下さい。」と書いてある看板(かんばん)があります。



写真BO: 「いきいき集落 みやざき」と書いてある幟(のぼり)があります。



写真BP: テント、「おがわ作小屋村」と書いてあるノボリが見えます。



写真BQ: 平成の桃源郷 おがわ作小屋村で第12回「カリコボーズの山菜まつり」が行われています。 多くの人達が集まっています。 奥の建物が「作小屋」です。
山菜まつり: 小川城址と西米良民話の里 新緑に包まれて 旬(しゅん)の山菜に舌づつみ。
「作小屋」と言う言葉は次のようなものです。 明治時代初期の廃藩置県のときに第17代領主の菊池則忠が、領地のすべてを均等に領民に分け与えました。 人々は水利、日当たりなど、田畑に適した場所を求めて開墾(かいこん)しました。 そのとき休息用の小屋を造りました、この休憩小屋が後に「作小屋」となりました。 田畑が住居から遠いので、この作小屋に宿泊して農作業をしました。 作小屋には、いろんな形態があり、農繁期にはそこに移住し、そこで生活しながら農作業をして、子供が大きくなり嫁を迎えると、親は隠居して作小屋に移り住むという場合もあったそうです。
西米良村 小川地区の交流施設「おがわ作小屋村」を運営する小川作小屋村運営協議会は、全国から選ばれた地域活性化事例を表彰する平成25年度の「地域づくり表彰」(国土交通省など主催)で最高賞の国土交通大臣賞に選ばれました (2013年11月13日)。 人口93人、高齢化率6割超の小さな集落に、年間2万人以上の客を呼び込む「おがわ作小屋村」の成長経緯が高い評価を受けました。



写真BR: おがわ作小屋村の入口付近です。 北にも西米良の山が見えます。 正確には北西にある中央の高い山が天包山(あまつつみやま、標高 1188.8 m)と思われます。



写真BS: 丘の斜面にジグザグの形の遊歩道(登山道)が見えます。 丘の上には東屋(あずまや)があります。 丘は「小川花見山」と呼ばれます。



写真BT: 「平成の桃源郷 おがわ作小屋村」
インフォメーション、小川の里におかえりなさい!! 山菜まつり
<イベントガイド> 9:30〜地採れ山菜、山菜天ぷらなどの物産品販売、おがわ作小屋村特製お弁当(限定200個)、小川神楽(かぐら)、民話語り、竹細工体験
9:00〜10:00受付(定員15名) 「小川の山野を歩き、山菜を採る! 食する! ワークショップ (大人2000円、子供1000円)
と書いてあります。



写真BU: ブルーシートのところで小川米良神楽(かぐら)が行われます。 おがわ作小屋村です。
第12回 「カリコボーズの山菜まつり」が行われています。
「カリコボーズ」(勢子・狩子)は西米良村に古くから伝承されているもので、全国版では河童(かっぱ)伝承のことです。 山深い西米良村では、山の神の性質が強く崇(あが)められています。 今のイメージとしては、宮崎駿のアニメ「となりのトトロ」的存在で森林の精霊として親しまれています。
 春の彼岸に川へ下り川を守る神として、秋の彼岸に山へ登り山を守る山の神として崇(あが)められています。 シンボルの絵ではかわいい子供が描(えが)かれています。 せこ(勢子)、かりこ(狩子)は、山で猟をするときにイノシシ、鹿などを声を出して追う人のことです。 米良の山の尾根を声を出しながら進みます。 これがカリコボウズのイメージと重なり合います。




写真BV: 小川の山里に煙(けむり)がたなびきます。



写真BW: 南東を見た景色。 おがわ作小屋村から。



写真BX: 南西を見た景色。 おがわ作小屋村から。



写真BY: 西を見た景色。 おがわ作小屋村から。



写真BZ: 北西を見た景色。 おがわ作小屋村から。 丘に登るジグザグの登山道が見えます。 丘は「小川花見山」と呼ばれます。



写真CA: 北を見た景色。 おがわ作小屋村から。 西米良の山が見えます。
山菜まつり: 小川城址と西米良民話の里 新緑に包まれて 旬(しゅん)の山菜に舌づつみ。



写真CB: 宮崎県 児湯郡 西米良村 大字小川にある「おがわ作小屋村」。
西米良村 小川地区の交流施設「おがわ作小屋村」を運営する小川作小屋村運営協議会は、全国から選ばれた地域活性化事例を表彰する平成25年度の「地域づくり表彰」(国土交通省など主催)で最高賞の国土交通大臣賞に選ばれました (2013年11月13日)。 人口93人、高齢化率6割超の小さな集落に、年間2万人以上の客を呼び込む「おがわ作小屋村」の成長経緯が高い評価を受けました。



写真CC: 「西米良村の元気かあさん 越野尾婦人会」と書いてあるノボリがあります。



写真CD: テントに「小川自治公民館」と書いてあります。



写真CE: おがわ作小屋村での「山菜まつり」でイナリ、山菜おこわ、たかなめし、にしめ、あくまき、わらびの酢漬(すづ)け、梅ぼし、青梅のさとう漬け、らっきょう、油みそ、たかなの油いため、佃煮(つくだに)、タケノコのきんぴら、つけもの、ゆずこしょう、あられ、干しわらび、干しぜんまい、などがテントで販売されています。
山菜まつり: 小川城址と西米良民話の里 新緑に包まれて 旬(しゅん)の山菜に舌づつみ。



写真CF: おがわ作小屋村での「山菜まつり」でイナリ、山菜おこわ、たかなめし、にしめ、あくまき、わらびの酢漬(すづ)け、梅ぼし、青梅のさとう漬け、らっきょう、油みそ、たかなの油いため、佃煮(つくだに)、タケノコのきんぴら、つけもの、ゆずこしょう、あられ、干しわらび、干しぜんまい、などがテントで販売されています。



写真CG: おがわ作小屋村での「山菜まつり」でイナリ、山菜おこわ、たかなめし、にしめ、あくまき、わらびの酢漬(すづ)け、梅ぼし、青梅のさとう漬け、らっきょう、油みそ、たかなの油いため、佃煮(つくだに)、タケノコのきんぴら、つけもの、ゆずこしょう、あられ、干しわらび、干しぜんまい、などがテントで販売されています。



写真CH: おがわ作小屋村での「山菜まつり」でイナリ、山菜おこわ、たかなめし、にしめ、あくまき、わらびの酢漬(すづ)け、梅ぼし、青梅のさとう漬け、らっきょう、油みそ、たかなの油いため、佃煮(つくだに)、タケノコのきんぴら、つけもの、ゆずこしょう、あられ、干しわらび、干しぜんまい、などがテントで販売されています。



写真CI: おがわ作小屋村での「山菜まつり」でイナリ、山菜おこわ、たかなめし、にしめ、あくまき、わらびの酢漬(すづ)け、梅ぼし、青梅のさとう漬け、らっきょう、油みそ、たかなの油いため、佃煮(つくだに)、タケノコのきんぴら、つけもの、ゆずこしょう、あられ、干しわらび、干しぜんまい、などがテントで販売されています。



写真CJ: ここで神楽(かぐら)が舞(ま)われます。 「米良神楽、小川神社神楽保存会」と書いてあります。 また、「にしめら民話語り、西米良村語り部の会(かたりべのかい)」と書いてある看板(かんばん)もあります。



写真CK: おがわ作小屋村の建物です。



写真CL: スズメバチの巣がかけてありました。 もちろん中にはスズメバチは居ないと思います。



写真CM: おがわ作小屋村の建物です。



写真CN: おがわ作小屋村の建物。



写真CO: 初夏でも赤いカエデがあります。 テーブルとベンチもあります。



写真CP: おがわ作小屋村です。



写真CQ: 宮崎県 児湯郡 西米良村のおがわ作小屋村。



写真CR: これが作小屋です。



写真CS: 作小屋です。



写真CT: 作小屋のそばの様子(ようす)。 柵(さく)の向こうは小川川が左から右に流れています。



写真CU: 作小屋のそばの様子(ようす)。 柵(さく)の向こうは小川川が左から右に流れています。



写真CV: 作小屋から北を見た景色。 西米良村の山も見えます。



写真CW: 作小屋の近くから西を見たもの。



写真CX: 作小屋の東側を流れる小川川です。 左が上流側です。 この階段を下って小川川に行くことが出来ます。



写真CY: 右は作小屋です。 天神橋には鯉のぼりが多く見えます。 橋を渡って左(東)に進むと小川城址公園(おがわじょうしこうえん)に行きます。



写真CZ: 作小屋の近くから見た天神橋。



写真DA: 小川城址公園の建物が木立の向こうに見えます。



写真DB: 作小屋のそばを流れている小川川。 左が上流側です。



写真DC: 小川川と天神橋。 小川川には岩が見えます。



写真DD: 作小屋の東側を流れる小川川。 左が上流側です。 岩が多くあります。



写真DE: 小川川の上流方向です。 岩のところの小さな滝のようなところで水が白く見えています。



写真DF: 小川川の上流方向。



写真DG: レンゲの花がピンクに見えます。 県道316号線も見えます。



写真DH: 県道316号線の西の丘の上には展望台のようなものが見えています。 斜面にはジグザグの登山道が見えます。 丘は「小川花見山」と呼ばれます。 手前に人家も見えます。



写真DI: 作小屋です。



写真DJ: 作小屋のそばの様子(ようす)。



写真DK: 作小屋です。



写真DL: 作小屋の中は食堂になっています。 囲炉裏(いろり)も見えます。
西米良村 小川地区の交流施設「おがわ作小屋村」を運営する小川作小屋村運営協議会は、全国から選ばれた地域活性化事例を表彰する平成25年度の「地域づくり表彰」(国土交通省など主催)で最高賞の国土交通大臣賞に選ばれました (2013年11月13日)。 人口93人、高齢化率6割超の小さな集落に、年間2万人以上の客を呼び込む「おがわ作小屋村」の成長経緯が高い評価を受けました。



写真DM: 作小屋の中は食堂になっています。 囲炉裏(いろり)も見えます。 屋根裏がイロリのススで黒光りしています。



写真DN: 作小屋の中は食堂になっています。 囲炉裏(いろり)も見えます。 屋根裏がイロリのススで黒光りしています。



写真DO: 作小屋の中では地元の物産品が販売されています。 カゴ、椎茸(しいたけ)、干し筍(たけのこ)、ゆず唐がらし、ゆず酢味噌(すみそ)、柚子(ゆず)ハーベスト、ゆずドレッシング、ゆずスティック、ゆず巻ようかん、ゆずようかん、ゆずみそ、などが販売されています。



写真DP: 作小屋の中では地元の物産品が販売されています。 カゴ、椎茸(しいたけ)、干し筍(たけのこ)、ゆず唐がらし、ゆず酢味噌(すみそ)、柚子(ゆず)ハーベスト、ゆずドレッシング、ゆずスティック、ゆず巻ようかん、ゆずようかん、ゆずみそ、などが販売されています。



写真DQ: 種子にするトウモロコシが上にかけてあります。 奥は食堂、手前は物産品販売店になっています。 作小屋の中です。



写真DR: 右にトイレがあります。



写真DS: トイレがあります。



写真DT: 「平成の桃源郷 おがわ作小屋村 カリコボーズの山菜祭り協賛企画 フィールドワークショップ
「小川の山野を歩き、山菜を採る! 食す!」
藤の花が咲き始め、小川の渓谷を彩っています。 谷沿いの道を歩くと、カエデの新緑が輝き、クサギナ、カラスサンショウ、ハナイカダ、ノカンゾウ、イタドリなどの草木が、若芽を伸ばしています。 これらの草や木は、フキノトウやタラの芽などのように春一番に芽吹いてくる山菜に続いて、2番手として登場してくる山菜です。 食材としてはあまり知られていないものもありますが、珍品、絶品も多く、この時期の食膳を賑(にぎ)わしてくれるのです。 緑の風の吹き渡る一日、小川川沿いの山野を歩き、これらの山菜を採り、いただきます。 テンプラにすると、山藤の花は蜜を含んで甘く、ハナイカダは清流を流れる筏(いかだ)に見立てられたとおり、葉の真ん中に小さな花を付けて山里の風情を演出します。 山歩き、沢歩きを楽しみながら、植生や生態系のしくみ、食べ方を学ぶ楽しい機会となるでしょう。
と書かれています。
第12回 カリコボーズの山菜まつり: 小川城址と西米良民話の里 新緑に包まれて 旬(しゅん)の山菜に舌づつみ。
「カリコボーズ」(勢子・狩子)は西米良村に古くから伝承されているもので、全国版では河童(かっぱ)伝承のことです。 山深い西米良村では、山の神の性質が強く崇(あが)められています。 今のイメージとしては、宮崎駿のアニメ「となりのトトロ」的存在で森林の精霊として親しまれています。
 春の彼岸に川へ下り川を守る神として、秋の彼岸に山へ登り山を守る山の神として崇(あが)められています。 シンボルの絵ではかわいい子供が描(えが)かれています。 せこ(勢子)、かりこ(狩子)は、山で猟をするときにイノシシ、鹿などを声を出して追う人のことです。 米良の山の尾根を声を出しながら進みます。 これがカリコボウズのイメージと重なり合います。




写真DU: 「ご予約・お問い合わせは おがわ作小屋村 事務所 宮崎県 児湯郡 西米良村 小川 254」
と書いてあります。



写真DV: 作小屋から南東を見た景色です。 鯉のぼりの上がった天神橋、その左上に「石垣(いしがき)のある小川城址公園」が見えます。
天神橋の上を人が渡っています。



写真DW: 作小屋から南東を見た景色。



写真DX: 作小屋から南東を見た景色です。 小川城址公園の石垣(いしがき)も橋の左上に見えています。



写真DY: 小川川のこの辺りは岩になっています。 橋の下の奥に東屋(あずまや)もあります。



写真DZ: 作小屋の東を流れる小川川。



写真EA: 小川作小屋の東側です。 薪(まき)が積んであります。 囲炉裏(いろり)で燃やすためのものです。



写真EB: 宮崎県 児湯郡 西米良村 大字小川にある「小川作小屋」です。



写真EC: 小川作小屋の東側。



写真ED: 小川作小屋の東側です。



写真EE: いくつかある小川作小屋の間です。



写真EF: 農機具が置いてあります。 これは米の籾殻(もみがら)と実の入ったものを手回しの送風機で分ける機械です。



写真EG: 藤の花が飾ってあります。 奥に大きなツボなどが置いてあります。



写真EH: 「カリコボーズ 山菜まつり 語り部(かたりべ)講演時間」の掲示があります。
「カリコボーズ」(勢子・狩子)は西米良村に古くから伝承されているもので、全国版では河童(かっぱ)伝承のことです。 山深い西米良村では、山の神の性質が強く崇(あが)められています。 今のイメージとしては、宮崎駿のアニメ「となりのトトロ」的存在で森林の精霊として親しまれています。
 春の彼岸に川へ下り川を守る神として、秋の彼岸に山へ登り山を守る山の神として崇(あが)められています。 シンボルの絵ではかわいい子供が描(えが)かれています。 せこ(勢子)、かりこ(狩子)は、山で猟をするときにイノシシ、鹿などを声を出して追う人のことです。 米良の山の尾根を声を出しながら進みます。 これがカリコボウズのイメージと重なり合います。

第12回 カリコボーズの山菜まつり: 小川城址と西米良民話の里 新緑に包まれて 旬(しゅん)の山菜に舌づつみ。



写真EI: 「カリコボーズ 山菜まつり 語り部(かたりべ)講演」の場所です。 火鉢(ひばち)、マイク、座布団(ざぶとん)、障子(しょうじ)などが見えます。 民話が終わったときに、聴衆も一緒(いっしょ)に「と申す、カッチン」と言います。 これは「めでたし、めでたし」と同じ意味です。
西米良村 小川地区の交流施設「おがわ作小屋村」を運営する小川作小屋村運営協議会は、全国から選ばれた地域活性化事例を表彰する平成25年度の「地域づくり表彰」(国土交通省など主催)で最高賞の国土交通大臣賞に選ばれました (2013年11月13日)。 人口93人、高齢化率6割超の小さな集落に、年間2万人以上の客を呼び込む「おがわ作小屋村」の成長経緯が高い評価を受けました。



写真EJ: 「カリコボーズ 山菜まつり 語り部(かたりべ)講演」の場所です。 ビデオ撮影の機械も見えます。 民話が終わったときに、聴衆も一緒(いっしょ)に「と申す、カッチン」と言います。 これは「めでたし、めでたし」と同じ意味です。



写真EK: 作小屋の天井(てんじょう)の様子(ようす)です。 昔ながらの電球と電灯の傘(かさ)があります。



写真EL: 作小屋の天井(てんじょう)の様子(ようす)。 昔ながらの電球と電灯の傘(かさ)があります。



写真EM: 作小屋の壁に西米良の「滝の写真」が飾ってあります。



写真EN: おがわ作小屋村の「カリコボーズ 山菜まつり」です。 綿菓子(わたがし)を作る機械も見えます。
「カリコボーズ」(勢子・狩子)は西米良村に古くから伝承されているもので、全国版では河童(かっぱ)伝承のことです。 山深い西米良村では、山の神の性質が強く崇(あが)められています。 今のイメージとしては、宮崎駿のアニメ「となりのトトロ」的存在で森林の精霊として親しまれています。
 春の彼岸に川へ下り川を守る神として、秋の彼岸に山へ登り山を守る山の神として崇(あが)められています。 シンボルの絵ではかわいい子供が描(えが)かれています。 せこ(勢子)、かりこ(狩子)は、山で猟をするときにイノシシ、鹿などを声を出して追う人のことです。 米良の山の尾根を声を出しながら進みます。 これがカリコボウズのイメージと重なり合います。



写真EO: ノボリがあります。 「と申す かっちん会場」と幟(のぼり)に書いてあります。
民話が終わったときに、聴衆も一緒(いっしょ)に「と申す、カッチン」と言います。 これは「めでたし、めでたし」と同じ意味です。



写真EP: ノボリがあります。 「と申す かっちん会場」と幟(のぼり)に書いてあります。
民話が終わったときに、聴衆も一緒(いっしょ)に「と申す、カッチン」と言います。 これは「めでたし、めでたし」と同じ意味です。



写真EQ: 天神橋の奥に小川城址公園があります。



写真ER: 小川川にかかる天神橋。 人が歩いて渡ります。



写真ES: 宮崎県 児湯郡 西米良村 大字小川にある「小川城址(おがわじょし)公園」です。 石垣も見えています。
 小川城址公園は宮崎県 児湯郡 西米良村 大字小川 字囲 833にあります。 平成2年(1990年)に小川城址公園は完成しました。 通称「御隠居所跡」に造られました。  ここは、乗馬の練習をした調練場、鉄砲の射的場、剣道の練習場などがあったところです。 そこにある民俗資料館は模擬城です。 石垣は米良山(昔の菊池の領地で今の西米良村、西都市西部(東米良、寒川)、木城町 中之又)の石工さん達が造ったと言われています。 「小川城」は小川城址公園ではなく、旧 小川小学校跡地 (宮崎県 児湯郡 西米良村 大字小川 字古屋敷)にありました。 本当の小川城址(小川城跡)は旧 小川小学校のあったところです。 菊池 氏(米良に移ってきたとき(15世紀初頭頃)に米良 氏を称しました。)の居城で、1848年頃焼失しました。 米良 氏ははじめ(15世紀初頭)は銀鏡城(しろみじょう、西都市 大字銀鏡(東米良))に入りました。 菊池重次が米良 氏を称し、米良を領地にしました。 その次に村所城(むらしょじょう)に移り、その後(江戸中期)に「小川城」に移りました。 明治維新のときは小川城でした。 関ヶ原の戦いのときは米良重隆は徳川家康 側でした。 家康より米良 家が菊池の直系であることを認められ、米良領を安堵(あんど、幕府などが所領を承認すること。)されました。 菊池則忠 公 銅像が小川城址公園にあります。 菊池則忠は第17代米良領主で、明治2年の版籍奉還のときに、西米良村、東米良(西都市)、三財の寒川(西都市)、中之又(木城町)などの領地内の山を全村民に分けて与えました。 それで米良の殿様として尊敬されました。
「菊池記念館」の説明板から、
 米良の菊池 氏は、南朝の忠臣 肥後の菊池一族の直裔(えい)で勤王の志の厚い家門であります。 元中9年(1392年)に南北朝 合一になりましても純忠の志は寸分もゆるがず天皇 御親政を望みに託(たく)して回天の時を待っていました。
 しかるに、あれほど堅かった一族の結束も宇土為光の叛逆と相次ぐ内訌(ないこう、うちわもめ)によって崩れ城は落ち兵は走り遂に室町時代の中頃(文亀元年(1501年))に米良へ落ち延びたのであります。
 いらい 姓を米良と改め代々 米良の領主として米良山一帯を治めてきました。
 幕末の英傑 則忠 公は、貴族議員議員を勤められ国のためにも米良のためにもお働きいただいた米良が誇る殿様であります。

小川城は米良則重によって承応年間(1652年〜1655年)に造られました。 石垣、曲輪(くるわ)が残っています。 米良山(米良 氏の領地、今の西米良村、西都市西部(東米良、寒川)、木城町 中之又)は元和年間(1615年〜1624年)に肥後人吉藩の相良 家の属地になり、米良 氏は無高(むだか、知行高(ちぎょうだか、知行の石高(こくだか))の定まらないこと)でしたが、交代寄合(江戸時代、大身(3000石以上)の旗本の非役の者で、大名に準じて、その知行所に居住し参勤交代の義務をもつ者)の一家になりました。 則重のときに小川城に移り、その後約200年間、幕末の則忠まで8代続いて小川城に居ました。



写真ET: 天神橋に行く道です。



写真EU: 西米良村のおがわ作小屋村。



写真EV: おがわ作小屋村。



写真EW: 天神橋。 奥に小川城址公園があります。



写真EX: 小川城址公園にある天神橋。 太鼓橋(たいこばし)です。



写真EY: 天神橋と小川城址公園です。



写真EZ: 天神橋と小川城跡。



写真FA: 天神橋は平成3年8月竣工(完成)です。



写真FB: 「てんじんばし」と書いてあります。



写真FC: 天神橋の上から小川川の上流方向(北)を見た景色です。 西米良村の山も見えます。 正確には北西にある中央左寄りの山が天包山(あまつつみやま、標高 1188.8 m)と思われます。



写真FD: 天神橋の上から見た小川川です。 上流側。



写真FE: 天神橋の上から見た作小屋。
西米良村 小川地区の交流施設「おがわ作小屋村」を運営する小川作小屋村運営協議会は、全国から選ばれた地域活性化事例を表彰する平成25年度の「地域づくり表彰」(国土交通省など主催)で最高賞の国土交通大臣賞に選ばれました (2013年11月13日)。 人口93人、高齢化率6割超の小さな集落に、年間2万人以上の客を呼び込む「おがわ作小屋村」の成長経緯が高い評価を受けました。



写真FF: 天神橋の上から見た作小屋です。 スピーカーも2つ見えています。



写真FG: 天神橋と小川作小屋です。



写真FH: 天神橋の一部はこのように広くなっていて、ベンチがあります。



写真FI: 天神橋から南東を見た景色。 小川川の下流側。 東屋(あずまや)もあります。



写真FJ: 天神橋の上から見た小川城址公園。



写真FK: 天神橋の上から見た小川城址公園。 石垣も見えます。



写真FL: 太鼓橋(たいこばし)の形になっているのでここからは下ります。



写真FM: 石垣のそばの階段を登って小川城址公園に行きます。
この石垣は江戸時代に米良山(昔の菊池の領地で今の西米良村、西都市西部(東米良、寒川)、木城町 中之又)の石工さん達が造ったと言われています。
この下の部分の石垣は「打ち込み接ぎ(うちこみはぎ)」の方法で作られた石垣です。
<参考>   「石垣」は
(1)野面積み(のづらづみ): 自然石をそのまま加工せずに積み上げる方法です。
(2)打ち込み接ぎ(うちこみはぎ): 表面に出る石の角や面をたたき、平にし石同士の接合面に隙間(すきま)を減らして積み上げる方法です。 関ヶ原の戦い以後、多く造られました。 野面積みより高く、急な勾配(こうばい)が可能です。
(3)切込み接ぎ(きりこみはぎ): 方形に整形した石を密着させて、積み上げる方法です。 慶長5年(1600年)以後に、隅石(すみいし)の加工から徐々に平石にまで広がりました。 江戸時代初期(元和年間)以後に多く造られました。 石同士が密着しているので排水できないため、排水口が設置されます。

などがあります。



写真FN: 階段を登っていきます。 ここは三叉路(さんさろ)になっています。



写真FO: 左上が小川城址公園です。



写真FP: 立派な石垣(いしがき)があります。 西米良村の小川城址公園。
この石垣は江戸時代に米良山(昔の菊池の領地で今の西米良村、西都市西部(東米良、寒川)、木城町 中之又)の石工さん達が造ったと言われています。
この石垣は「打ち込み接ぎ(うちこみはぎ)」の方法で作られた石垣です。
<参考>   「石垣」は
(1)野面積み(のづらづみ): 自然石をそのまま加工せずに積み上げる方法です。
(2)打ち込み接ぎ(うちこみはぎ): 表面に出る石の角や面をたたき、平にし石同士の接合面に隙間(すきま)を減らして積み上げる方法です。 関ヶ原の戦い以後、多く造られました。 野面積みより高く、急な勾配(こうばい)が可能です。
(3)切込み接ぎ(きりこみはぎ): 方形に整形した石を密着させて、積み上げる方法です。 慶長5年(1600年)以後に、隅石(すみいし)の加工から徐々に平石にまで広がりました。 江戸時代初期(元和年間)以後に多く造られました。 石同士が密着しているので排水できないため、排水口が設置されます。

などがあります。



写真FQ: 立派な石垣(いしがき)。 西米良村の小川城址公園。
この石垣は江戸時代に米良山(昔の菊池の領地で今の西米良村、西都市西部(東米良、寒川)、木城町 中之又)の石工さん達が造ったと言われています。
この石垣は「打ち込み接ぎ(うちこみはぎ)」の方法で作られた石垣です。
<参考>   「石垣」は
(1)野面積み(のづらづみ): 自然石をそのまま加工せずに積み上げる方法です。
(2)打ち込み接ぎ(うちこみはぎ): 表面に出る石の角や面をたたき、平にし石同士の接合面に隙間(すきま)を減らして積み上げる方法です。 関ヶ原の戦い以後、多く造られました。 野面積みより高く、急な勾配(こうばい)が可能です。
(3)切込み接ぎ(きりこみはぎ): 方形に整形した石を密着させて、積み上げる方法です。 慶長5年(1600年)以後に、隅石(すみいし)の加工から徐々に平石にまで広がりました。 江戸時代初期(元和年間)以後に多く造られました。 石同士が密着しているので排水できないため、排水口が設置されます。

などがあります。



写真FR: 石垣の上には建物があります。
この石垣は「打ち込み接ぎ(うちこみはぎ)」の方法で作られた石垣です。
<参考>   「石垣」は
(1)野面積み(のづらづみ): 自然石をそのまま加工せずに積み上げる方法です。
(2)打ち込み接ぎ(うちこみはぎ): 表面に出る石の角や面をたたき、平にし石同士の接合面に隙間(すきま)を減らして積み上げる方法です。 関ヶ原の戦い以後、多く造られました。 野面積みより高く、急な勾配(こうばい)が可能です。
(3)切込み接ぎ(きりこみはぎ): 方形に整形した石を密着させて、積み上げる方法です。 慶長5年(1600年)以後に、隅石(すみいし)の加工から徐々に平石にまで広がりました。 江戸時代初期(元和年間)以後に多く造られました。 石同士が密着しているので排水できないため、排水口が設置されます。

などがあります。



写真FS: 石垣の下には新緑のカエデの木があり、テーブルと椅子(いす)があります。
この石垣は江戸時代に米良山(昔の菊池の領地で今の西米良村、西都市西部(東米良、寒川)、木城町 中之又)の石工さん達が造ったと言われています。



写真FT: ここで買った山菜おこわ、ヨモギの天ぷら、タラの芽の天ぷら、わらびの天ぷら、ゼンマイの天ぷら、タケノコの天ぷら、椎茸(しいたけ)の天ぷら、にしめコロッケ、蕎麦(そば)コロッケなどを食べました。 後ろに天神橋、作小屋、県道316号線も見えます。



写真FU: 上から見た天神橋、作小屋、県道316号線です。



写真FV: 木立の向こうに作小屋が見えます。



写真FW: 「天神橋」と書いてあります。



写真FX: 西米良村の天神橋。 西のほうを見た景色。



写真FY: 小川神楽(米良神楽)がおがわ作小屋村で行われています。 白衣を着た2人が神楽(かぐら)を舞い、太鼓(たいこ)、笛(ふえ)も演奏されています。 神楽の演舞場は四隅(すみ)に木が刺してあり、いろんな色の御幣(ごへい)のあるしめ縄(なわ)が張ってあります。
「米良神楽、小川神社神楽保存会」の看板(かんばん)もありました。 スピーカーも見えます。



写真FZ: 小川神楽(米良神楽)がおがわ作小屋村で行われています。 白衣を着た2人が神楽(かぐら)を舞い、太鼓(たいこ)、笛(ふえ)も演奏されています。 神楽の演舞場は四隅(すみ)に木が刺してあり、いろんな色の御幣(ごへい)のあるしめ縄(なわ)が張ってあります。
「米良神楽、小川神社神楽保存会」の看板(かんばん)もあります。 スピーカーも見えます。



写真GA: 小川神楽(米良神楽)がおがわ作小屋村で行われています。 白衣を着た2人が神楽(かぐら)を舞い、太鼓(たいこ)、笛(ふえ)も演奏されています。 神楽の演舞場は四隅(すみ)に木が刺してあり、いろんな色の御幣(ごへい)のあるしめ縄(なわ)が張ってあります。
「米良神楽、小川神社神楽保存会」の看板(かんばん)もあります。 スピーカーも見えます。



写真GB: 小川神楽(米良神楽)がおがわ作小屋村で行われています。 白衣を着た2人が神楽(かぐら)を舞い、太鼓(たいこ)、笛(ふえ)も演奏されています。 神楽の演舞場は四隅(すみ)に木が刺してあり、いろんな色の御幣(ごへい)のあるしめ縄(なわ)が張ってあります。
「米良神楽、小川神社神楽保存会」の看板(かんばん)もあります。 スピーカーも見えます。



写真GC: 小川神楽(米良神楽)がおがわ作小屋村で行われています。 白衣を着た2人が神楽(かぐら)を舞い、太鼓(たいこ)、笛(ふえ)も演奏されています。 神楽の演舞場は四隅(すみ)に木が刺してあり、いろんな色の御幣(ごへい)のあるしめ縄(なわ)が張ってあります。
「米良神楽、小川神社神楽保存会」の看板(かんばん)もあります。 スピーカーも見えます。



写真GD: 神楽(かぐら)を舞う人の頭の上に載せるもの、手に持つものに注目してください。 小川神楽(米良神楽)がおがわ作小屋村で行われています。 白衣を着た2人が神楽(かぐら)を舞い、太鼓(たいこ)、笛(ふえ)も演奏されています。 神楽の演舞場は四隅(すみ)に木が刺してあり、いろんな色の御幣(ごへい)のあるしめ縄(なわ)が張ってあります。



写真GE: 神楽(かぐら)を舞う人の背中に付けてあるものに注目してください。 小川神楽(米良神楽)がおがわ作小屋村で行われています。 白衣を着た2人が神楽(かぐら)を舞い、太鼓(たいこ)、笛(ふえ)も演奏されています。 神楽の演舞場は四隅(すみ)に木が刺してあり、いろんな色の御幣(ごへい)のあるしめ縄(なわ)が張ってあります。



写真GF: 神楽(かぐら)を舞う人の頭の上に載せるもの、手に持つものに注目してください。 小川神楽(米良神楽)がおがわ作小屋村で行われています。 白衣を着た2人が神楽(かぐら)を舞い、太鼓(たいこ)、笛(ふえ)も演奏されています。 神楽の演舞場は四隅(すみ)に木が刺してあり、いろんな色の御幣(ごへい)のあるしめ縄(なわ)が張ってあります。



写真GG: 神楽(かぐら)を舞う人の頭の上に載せるもの、手に持つものに注目してください。 小川神楽(米良神楽)がおがわ作小屋村で行われています。 白衣を着た2人が神楽(かぐら)を舞い、太鼓(たいこ)、笛(ふえ)も演奏されています。 神楽の演舞場は四隅(すみ)に木が刺してあり、いろんな色の御幣(ごへい)のあるしめ縄(なわ)が張ってあります。



写真GH: 神楽(かぐら)を舞う人の頭の上に載せるもの、手に持つものに注目してください。 小川神楽(米良神楽)がおがわ作小屋村で行われています。 白衣を着た2人が神楽(かぐら)を舞い、太鼓(たいこ)、笛(ふえ)も演奏されています。 神楽の演舞場は四隅(すみ)に木が刺してあり、いろんな色の御幣(ごへい)のあるしめ縄(なわ)が張ってあります。
「米良神楽、小川神社神楽保存会」の看板(かんばん)もあります。 スピーカーも見えます。 2人の舞う人のそばに3人の人が座っています。



写真GI: 小川神楽(米良神楽)がおがわ作小屋村で行われています。 白衣を着た2人が神楽(かぐら)を舞い、太鼓(たいこ)、笛(ふえ)も演奏されています。 神楽の演舞場は四隅(すみ)に木が刺してあり、いろんな色の御幣(ごへい)のあるしめ縄(なわ)が張ってあります。
「米良神楽、小川神社神楽保存会」の看板(かんばん)もあります。 2人の舞う人のそばに3人の人が座っています。
西米良村 小川地区の交流施設「おがわ作小屋村」を運営する小川作小屋村運営協議会は、全国から選ばれた地域活性化事例を表彰する平成25年度の「地域づくり表彰」(国土交通省など主催)で最高賞の国土交通大臣賞に選ばれました (2013年11月13日)。 人口93人、高齢化率6割超の小さな集落に、年間2万人以上の客を呼び込む「おがわ作小屋村」の成長経緯が高い評価を受けました。



写真GJ: また、小川城址公園の方に戻(もど)ってきました。



写真GK: 小川城址公園の方に戻(もど)ってきました。



写真GL: 地元の親切な方が写真を撮(と)ってくださいました。 ありがとうございます。



写真GM: 「アブラギリ(油桐)の白い花」が咲いていました。 種子からしぼった油を桐油(とうゆ)と呼びます。



写真GN: 小川城址公園の城門のところに着きました。



写真GO: 小川城跡公園の城門から北西を見たもの。 山にジグザグの遊歩道(登山道)と展望台のようなものが見えています。 丘は「小川花見山」と呼ばれます。



写真GP: 小川城跡公園の城門から西を見た景色。 小川川のそばに平地があります。



写真GQ: 小川城址公園の城門から南西を見たもの。 県道316号線も見えます。



写真GR: 小川城址公園の城門から南西を見たもの。 畑、人家、油桐(アブラギリ)の木の白い花が見えています。



写真GS: 小川城址公園の城門から南を見たもの。



写真GT: 宮崎県 児湯郡 西米良村 大字小川にある小川城址公園に「菊池則忠 公の銅像」があります。
 小川城址公園は宮崎県 児湯郡 西米良村 大字小川 字囲 833にあります。 平成2年(1990年)に小川城址公園は完成しました。 通称「御隠居所跡」に造られました。  ここは、乗馬の練習をした調練場、鉄砲の射的場、剣道の練習場などがあったところです。 石垣は米良山(昔の菊池の領地で今の西米良村、西都市西部(東米良、寒川)、木城町 中之又)の石工さん達が造ったと言われています。 そこにある民俗資料館は模擬城です。 「小川城」は小川城址公園ではなく、旧 小川小学校跡地 (宮崎県 児湯郡 西米良村 大字小川 字古屋敷)にありました。 本当の小川城址(小川城跡)は旧 小川小学校のあったところです。 菊池 氏(米良に移ってきたとき(15世紀初頭頃)に米良 氏を称しました。)の居城で、1848年頃焼失しました。 米良 氏ははじめ(15世紀初頭)は銀鏡城(しろみじょう、西都市 大字銀鏡(東米良))に入りました。 菊池重次が米良 氏を称し、米良を領地にしました。 その次に村所城(むらしょじょう)に移り、その後(江戸中期)に「小川城」に移りました。 明治維新のときは小川城でした。 関ヶ原の戦いのときは米良重隆は徳川家康 側でした。 家康より米良 家が菊池の直系であることを認められ、米良領を安堵(あんど、幕府などが所領を承認すること。)されました。 菊池則忠 公 銅像が小川城址公園にあります。 菊池則忠は第17代米良領主で、明治2年の版籍奉還のときに、西米良村、東米良(西都市)、三財の寒川(西都市)、中之又(木城町)などの領地内の山を全村民に分けて与えました。 それで米良の殿様として尊敬されました。
「菊池記念館」の説明板から、
 米良の菊池 氏は、南朝の忠臣 肥後の菊池一族の直裔(えい)で勤王の志の厚い家門であります。 元中9年(1392年)に南北朝 合一になりましても純忠の志は寸分もゆるがず天皇 御親政を望みに託(たく)して回天の時を待っていました。
 しかるに、あれほど堅かった一族の結束も宇土為光の叛逆と相次ぐ内訌(ないこう、うちわもめ)によって崩れ城は落ち兵は走り遂に室町時代の中頃(文亀元年(1501年))に米良へ落ち延びたのであります。
 いらい 姓を米良と改め代々 米良の領主として米良山一帯を治めてきました。
 幕末の英傑 則忠 公は、貴族議員議員を勤められ国のためにも米良のためにもお働きいただいた米良が誇る殿様であります。

小川城は米良則重によって承応年間(1652年〜1655年)に造られました。 石垣、曲輪(くるわ)が残っています。 米良山(米良 氏の領地、今の西米良村、西都市西部(東米良、寒川)、木城町 中之又)は元和年間(1615年〜1624年)に肥後人吉藩の相良 家の属地になり、米良 氏は無高(むだか、知行高(ちぎょうだか、知行の石高(こくだか))の定まらないこと)でしたが、交代寄合(江戸時代、大身(3000石以上)の旗本の非役の者で、大名に準じて、その知行所に居住し参勤交代の義務をもつ者)の一家になりました。 則重のときに小川城に移り、その後約200年間、幕末の則忠まで8代続いて小川城に居ました。



写真GU: 銅像の下に「菊池則忠 公」と書いてあります。



写真GV: 「この銅像は、西米良村制施行 百周年記念事業として、旧米良領主 第17代 菊池則忠 公の遺徳を顕彰するために建立したものであります。
 建立にあたっては、菊池氏 奉賛会の募金による浄財を建設資金として、村にご寄付いただき、この挙(きょ)に及んだものであります。
 ここに深甚(しんじん)の謝意をこめ銘記するものであります。
平成2年3月 西米良村
と書かれています。



写真GW: 児湯郡 西米良村にある小川城址公園です。



写真GX: 城内から北を見たもの。 左は城門です。 奥の建物は西米良民話館で、右は小川民俗資料館です。 正確には北西にある中央の高い山が天包山(あまつつみやま、標高 1188.8 m)と思われます。



写真GY: 城内から見た城門です。



写真GZ: 右の建物は西米良民話館。 小川城址公園。



写真HA: 小川城址公園の入口付近です。 この建物は小川民俗資料館になっています。 入口の両側に農機具が展示してあります。



写真HB: 小川城址公園の入口付近。 この建物は小川民俗資料館になっています。 入口の両側に農機具が展示してあります。
 小川城址公園は宮崎県 児湯郡 西米良村 大字小川 字囲 833にあります。 平成2年(1990年)に小川城址公園は完成しました。 通称「御隠居所跡」に造られました。  ここは、乗馬の練習をした調練場、鉄砲の射的場、剣道の練習場などがあったところです。 石垣は米良山(昔の菊池の領地で今の西米良村、西都市西部(東米良、寒川)、木城町 中之又)の石工さん達が造ったと言われています。 そこにある民俗資料館は模擬城です。 「小川城」は小川城址公園ではなく、旧 小川小学校跡地 (宮崎県 児湯郡 西米良村 大字小川 字古屋敷)にありました。 本当の小川城址(小川城跡)は旧 小川小学校のあったところです。 菊池 氏(米良に移ってきたとき(15世紀初頭頃)に米良 氏を称しました。)の居城で、1848年頃焼失しました。 米良 氏ははじめ(15世紀初頭)は銀鏡城(しろみじょう、西都市 大字銀鏡(東米良))に入りました。 菊池重次が米良 氏を称し、米良を領地にしました。 その次に村所城(むらしょじょう)に移り、その後(江戸中期)に「小川城」に移りました。 明治維新のときは小川城でした。 関ヶ原の戦いのときは米良重隆は徳川家康 側でした。 家康より米良 家が菊池の直系であることを認められ、米良領を安堵(あんど、幕府などが所領を承認すること。)されました。 菊池則忠 公 銅像が小川城址公園にあります。 菊池則忠は第17代米良領主で、明治2年の版籍奉還のときに、西米良村、東米良(西都市)、三財の寒川(西都市)、中之又(木城町)などの領地内の山を全村民に分けて与えました。 それで米良の殿様として尊敬されました。
「菊池記念館」の説明板から、
 米良の菊池 氏は、南朝の忠臣 肥後の菊池一族の直裔(えい)で勤王の志の厚い家門であります。 元中9年(1392年)に南北朝 合一になりましても純忠の志は寸分もゆるがず天皇 御親政を望みに託(たく)して回天の時を待っていました。
 しかるに、あれほど堅かった一族の結束も宇土為光の叛逆と相次ぐ内訌(ないこう、うちわもめ)によって崩れ城は落ち兵は走り遂に室町時代の中頃(文亀元年(1501年))に米良へ落ち延びたのであります。
 いらい 姓を米良と改め代々 米良の領主として米良山一帯を治めてきました。
 幕末の英傑 則忠 公は、貴族議員議員を勤められ国のためにも米良のためにもお働きいただいた米良が誇る殿様であります。

小川城は米良則重によって承応年間(1652年〜1655年)に造られました。 石垣、曲輪(くるわ)が残っています。 米良山(米良 氏の領地、今の西米良村、西都市西部(東米良、寒川)、木城町 中之又)は元和年間(1615年〜1624年)に肥後人吉藩の相良 家の属地になり、米良 氏は無高(むだか、知行高(ちぎょうだか、知行の石高(こくだか))の定まらないこと)でしたが、交代寄合(江戸時代、大身(3000石以上)の旗本の非役の者で、大名に準じて、その知行所に居住し参勤交代の義務をもつ者)の一家になりました。 則重のときに小川城に移り、その後約200年間、幕末の則忠まで8代続いて小川城に居ました。



写真HC: 小川城址公園のこの建物は小川民俗資料館になっています。 入口の両側に農機具が展示してあります。



写真HD: 小川城址公園のこの建物は小川民俗資料館になっています。 入口の両側に農機具が展示してあります。



写真HE: 「大円の仏像と仮面 展」
開催中!!
米良山系に多数残る廻国僧 大円の仏像・仮面・写真展です。
と書いてあります。



写真HF: 農機具が置いてあります。 これは米の籾殻(もみがら)と実の入ったものを手回しの送風機で分ける機械です。



写真HG: 小川城址公園の内部と外の景色です。 遠くの斜面にはジグザグの遊歩道(登山道)と展望台のようなものが見えています。 丘は「小川花見山」と呼ばれます。



写真HH: 遠くの斜面にはジグザグの遊歩道(登山道)と展望台のようなものが見えています。 丘は「小川花見山」と呼ばれます。



写真HI: 「小川民俗資料館」と書いてあります。
茅の輪(ちのわ)が入り口に作ってあります。



写真HJ: 神楽の舞台(ぶたい)が作ってあります。 四隅(すみ)に木が刺してあり、しめ縄(なわ)、色の付いた御幣(ごへい)もあります。 茅の輪(ちのわ)が入り口に作ってあります。
茅(かや)で作った輪(わ)を「茅の輪(ちのわ)」と呼びます。 普通は神社で六月祓(みなづきばらえ)に用います。 茅萱(ちがや)というイネ科の植物などを輪の形に作ったものです。 これをくぐって身を祓(はら)い清めます。
右に「大円の仏像と仮面」と書いてあります。



写真HK: 神楽の舞台(ぶたい)が作ってあります。 四隅(すみ)に木が刺してあり、しめ縄(なわ)、色の付いた御幣(ごへい)もあります。 茅の輪(ちのわ)が入り口に作ってあります。
茅(かや)で作った輪(わ)を「茅の輪(ちのわ)」と呼びます。 普通は神社で六月祓(みなづきばらえ)に用います。 茅萱(ちがや)というイネ科の植物などを輪の形に作ったものです。 これをくぐって身を祓(はら)い清めます。
左に「生産生活用具」と書いてあります。



写真HL: 「大円の仏像と仮面」と書いてあります。



写真HM: 小川城址公園の内側から城門を見たもの。



写真HN: 「小川城址と西米良民話の里」の案内図です。
小川民俗資料館、西米良民話館、東屋(あずまや)、炭焼き小屋、トイレ、民話の宿、駐車場、
などが載っています。



写真HO: 「小川城址と西米良民話の里」の案内図です。
小川民俗資料館、西米良民話館、東屋(あずまや)、炭焼き小屋、トイレ、民話の宿、駐車場、
などが載っています。



写真HP: 「小川城址と西米良民話の里」の案内図です。
小川民俗資料館、西米良民話館、東屋(あずまや)、炭焼き小屋、トイレ、民話の宿、駐車場、
などが載っています。



写真HQ: 「小川城址と西米良民話の里」の案内図です。
小川民俗資料館、西米良民話館、東屋(あずまや)、炭焼き小屋、トイレ、民話の宿、駐車場、
などが載っています。



写真HR: 高台に民話の宿が見えます。



写真HS: 右は民俗資料館、左は西米良民話館、中央奥は民話の宿です。



写真HT: 宮崎県 児湯郡 西米良村 大字小川にある小川城址公園の「西米良民話館」です。



写真HU: 「木工・竹細工づくり 体験コーナー」と書いた看板(かんばん)があります。



写真HV: 手前に竹とんぼ製作、奥で竹の水鉄砲製作が行われています。 「木工・竹細工づくり 体験コーナー」。



写真HW: 手前の木の台の上に出来上がった竹とんぼ、奥に水鉄砲の部品が見えます。



写真HX: 「西米良民話館」の表札(ひょうさつ)があります。



写真HY: 西米良民話館の中です。 小さな傘(かさ)などが竹に刺して飾ってあります。 左に蓑(みの)と笠(かさ)が吊(つ)るしてあります。 蓑(みの)は茅(かや)や菅(すげ)などの茎葉を編(あ)んで作った雨具です。 藁(わら)、シュロなどで作ることもあります。
笠(かさ)は雨、雪、日光を遮(さえぎ)るために頭にかぶるものです。




写真HZ: 中は食堂になっています。



写真IA: 西米良の滝の写真、上からつるされた飾り物、山菜うどん 山菜そば 山菜カレーの値段も書いてあります。



写真IB: 「にしめら カリコボーズの休暇村、西米良村」の観光ポスターがありました。
小川城址公園の写真が載っています。



写真IC: 「にしめら カリコボーズの休暇村、西米良村」の観光ポスターがありました。
小川城址公園の写真が載っています。



写真ID: 子供さんたちが竹細工コーナーで作った水鉄砲で遊んでいます。 左は「木工・竹細工づくり 体験コーナー」。



写真IE: 西米良村にある小川城址公園。 左から西米良民話館、民俗資料館、菊池則忠 公の銅像、城門などが見えます。



写真IF: 小川城址公園にある西米良民話館。



写真IG: 宮崎県 児湯郡 西米良村 大字小川の小川城址公園にある「西米良民話館」。



写真IH: 児湯郡 西米良村 大字小川の小川城址公園にある「西米良民話館」。



写真II: 子供さんたちが手作りの水鉄砲で遊んでいます。



写真IJ: 裏門が左に見えます。



写真IK: 「民話の宿→」の標識があります。 この階段を登って民話の宿に行きます。



写真IL: 右のは東屋(あずまや)で、その左の数棟(むね)は「民話の宿」です。 左は駐車場です。



写真IM: 「民話の宿」。 宿泊施設です。



写真IN: 右が西米良民話館で左奥が民俗資料館です。



写真IO: 宮崎県 児湯郡 西米良村 大字小川にある「小川城址公園」です。
 小川城址公園は宮崎県 児湯郡 西米良村 大字小川 字囲 833にあります。 平成2年(1990年)に小川城址公園は完成しました。 通称「御隠居所跡」に造られました。  ここは、乗馬の練習をした調練場、鉄砲の射的場、剣道の練習場などがあったところです。 石垣は米良山(昔の菊池の領地で今の西米良村、西都市西部(東米良、寒川)、木城町 中之又)の石工さん達が造ったと言われています。 そこにある民俗資料館は模擬城です。 「小川城」は小川城址公園ではなく、旧 小川小学校跡地 (宮崎県 児湯郡 西米良村 大字小川 字古屋敷)にありました。 本当の小川城址(小川城跡)は旧 小川小学校のあったところです。 菊池 氏(米良に移ってきたとき(15世紀初頭頃)に米良 氏を称しました。)の居城で、1848年頃焼失しました。 米良 氏ははじめ(15世紀初頭)は銀鏡城(しろみじょう、西都市 大字銀鏡(東米良))に入りました。 菊池重次が米良 氏を称し、米良を領地にしました。 その次に村所城(むらしょじょう)に移り、その後(江戸中期)に「小川城」に移りました。 明治維新のときは小川城でした。 関ヶ原の戦いのときは米良重隆は徳川家康 側でした。 家康より米良 家が菊池の直系であることを認められ、米良領を安堵(あんど、幕府などが所領を承認すること。)されました。 菊池則忠 公 銅像が小川城址公園にあります。 菊池則忠は第17代米良領主で、明治2年の版籍奉還のときに、西米良村、東米良(西都市)、三財の寒川(西都市)、中之又(木城町)などの領地内の山を全村民に分けて与えました。 それで米良の殿様として尊敬されました。
「菊池記念館」の説明板から、
 米良の菊池 氏は、南朝の忠臣 肥後の菊池一族の直裔(えい)で勤王の志の厚い家門であります。 元中9年(1392年)に南北朝 合一になりましても純忠の志は寸分もゆるがず天皇 御親政を望みに託(たく)して回天の時を待っていました。
 しかるに、あれほど堅かった一族の結束も宇土為光の叛逆と相次ぐ内訌(ないこう、うちわもめ)によって崩れ城は落ち兵は走り遂に室町時代の中頃(文亀元年(1501年))に米良へ落ち延びたのであります。
 いらい 姓を米良と改め代々 米良の領主として米良山一帯を治めてきました。
 幕末の英傑 則忠 公は、貴族議員議員を勤められ国のためにも米良のためにもお働きいただいた米良が誇る殿様であります。

小川城は米良則重によって承応年間(1652年〜1655年)に造られました。 石垣、曲輪(くるわ)が残っています。 米良山(米良 氏の領地、今の西米良村、西都市西部(東米良、寒川)、木城町 中之又)は元和年間(1615年〜1624年)に肥後人吉藩の相良 家の属地になり、米良 氏は無高(むだか、知行高(ちぎょうだか、知行の石高(こくだか))の定まらないこと)でしたが、交代寄合(江戸時代、大身(3000石以上)の旗本の非役の者で、大名に準じて、その知行所に居住し参勤交代の義務をもつ者)の一家になりました。 則重のときに小川城に移り、その後約200年間、幕末の則忠まで8代続いて小川城に居ました。



写真IP: 児湯郡 西米良村 大字小川にある「小川城址公園」。



写真IQ: 高台にある民話の宿。



写真IR: 高台にある民話の宿。 小川城址公園にあります。



写真IS: 左に物干し台(ものほしだい)があります。



写真IT: 民話の宿のすぐそばの広場です。



写真IU: 左は西米良民話館の屋根です。



写真IV: 左は民俗資料館、右は西米良民話館。



写真IW: 小川城址公園。
 小川城址公園は宮崎県 児湯郡 西米良村 大字小川 字囲 833にあります。 平成2年(1990年)に小川城址公園は完成しました。 通称「御隠居所跡」に造られました。  ここは、乗馬の練習をした調練場、鉄砲の射的場、剣道の練習場などがあったところです。 石垣は米良山(昔の菊池の領地で今の西米良村、西都市西部(東米良、寒川)、木城町 中之又)の石工さん達が造ったと言われています。 そこにある民俗資料館は模擬城です。 「小川城」は小川城址公園ではなく、旧 小川小学校跡地 (宮崎県 児湯郡 西米良村 大字小川 字古屋敷)にありました。 本当の小川城址(小川城跡)は旧 小川小学校のあったところです。 菊池 氏(米良に移ってきたとき(15世紀初頭頃)に米良 氏を称しました。)の居城で、1848年頃焼失しました。 米良 氏ははじめ(15世紀初頭)は銀鏡城(しろみじょう、西都市 大字銀鏡(東米良))に入りました。 菊池重次が米良 氏を称し、米良を領地にしました。 その次に村所城(むらしょじょう)に移り、その後(江戸中期)に「小川城」に移りました。 明治維新のときは小川城でした。 関ヶ原の戦いのときは米良重隆は徳川家康 側でした。 家康より米良 家が菊池の直系であることを認められ、米良領を安堵(あんど、幕府などが所領を承認すること。)されました。 菊池則忠 公 銅像が小川城址公園にあります。 菊池則忠は第17代米良領主で、明治2年の版籍奉還のときに、西米良村、東米良(西都市)、三財の寒川(西都市)、中之又(木城町)などの領地内の山を全村民に分けて与えました。 それで米良の殿様として尊敬されました。
「菊池記念館」の説明板から、
 米良の菊池 氏は、南朝の忠臣 肥後の菊池一族の直裔(えい)で勤王の志の厚い家門であります。 元中9年(1392年)に南北朝 合一になりましても純忠の志は寸分もゆるがず天皇 御親政を望みに託(たく)して回天の時を待っていました。
 しかるに、あれほど堅かった一族の結束も宇土為光の叛逆と相次ぐ内訌(ないこう、うちわもめ)によって崩れ城は落ち兵は走り遂に室町時代の中頃(文亀元年(1501年))に米良へ落ち延びたのであります。
 いらい 姓を米良と改め代々 米良の領主として米良山一帯を治めてきました。
 幕末の英傑 則忠 公は、貴族議員議員を勤められ国のためにも米良のためにもお働きいただいた米良が誇る殿様であります。

小川城は米良則重によって承応年間(1652年〜1655年)に造られました。 石垣、曲輪(くるわ)が残っています。 米良山(米良 氏の領地、今の西米良村、西都市西部(東米良、寒川)、木城町 中之又)は元和年間(1615年〜1624年)に肥後人吉藩の相良 家の属地になり、米良 氏は無高(むだか、知行高(ちぎょうだか、知行の石高(こくだか))の定まらないこと)でしたが、交代寄合(江戸時代、大身(3000石以上)の旗本の非役の者で、大名に準じて、その知行所に居住し参勤交代の義務をもつ者)の一家になりました。 則重のときに小川城に移り、その後約200年間、幕末の則忠まで8代続いて小川城に居ました。



写真IX: 小川城址公園の民話の宿。 宿泊施設です。



写真IY: 小川城址公園の民話の宿。



写真IZ: 小川城址公園の民話の宿の中。 宿泊施設です。



写真JA: 民話の宿。



写真JB: 西米良の小川城址公園。



写真JC: 西米良の小川城址公園。



写真JD: 小川城址公園。



写真JE: 民話の宿。 ベンチもあります。 宿泊施設です。



写真JF: 民俗資料館。



写真JG: 小川城址公園。



写真JH: 西米良の小川城址公園。



写真JI: 民話の宿。



写真JJ: 東屋(あずまや)があります。



写真JK: 民話の宿。 宿泊施設です。



写真JL: 左下に「炭焼き小屋」が見えます。



写真JM: 裏門と駐車場です。



写真JN: 東屋(あずまや)です。



写真JO: 小川城址公園。



写真JP: 裏門も見えます。



写真JQ: 木立の向こうに作小屋が見えます。



写真JR: 右に下ると天神橋に行きます。 途中に昼食を食べたテーブルと椅子(いす)があります。



写真JS: 昼食を食べたテーブルと椅子(いす)があります。 カエデの新緑が美しい。



写真JT: シュロの木が見えます。 小川川の向こうに作小屋が見えています。



写真JU: 新緑のきれいなベンチとテーブル。



写真JV: 新緑の楓(かえで)の葉。



写真JW: 城址公園の石垣(いしがき)。
この石垣は江戸時代に米良山(昔の菊池の領地で今の西米良村、西都市西部(東米良、寒川)、木城町 中之又)の石工さん達が造ったと言われています。
この石垣は「打ち込み接ぎ(うちこみはぎ)」の方法で作られた石垣です。
<参考>   「石垣」は
(1)野面積み(のづらづみ): 自然石をそのまま加工せずに積み上げる方法です。
(2)打ち込み接ぎ(うちこみはぎ): 表面に出る石の角や面をたたき、平にし石同士の接合面に隙間(すきま)を減らして積み上げる方法です。 関ヶ原の戦い以後、多く造られました。 野面積みより高く、急な勾配(こうばい)が可能です。
(3)切込み接ぎ(きりこみはぎ): 方形に整形した石を密着させて、積み上げる方法です。 慶長5年(1600年)以後に、隅石(すみいし)の加工から徐々に平石にまで広がりました。 江戸時代初期(元和年間)以後に多く造られました。 石同士が密着しているので排水できないため、排水口が設置されます。

などがあります。



写真JX: おがわ作小屋村。



写真JY: 北を見た景色。
米良三山の一つである天包山(あまつつみやま、標高 1188.8 m)も見えます。 米良三山とは市房山(標高 1720.8 m)、石堂山(1547.4 m)、天包山(あまつつみやま、1188.8 m)です。



写真JZ: 天神橋のコイノボリ。



写真KA: 天神橋のたもとから西を見た景色。 赤く見えるのは花。



写真KB: 天神橋のたもとから南を見たもの。 赤く見えるのは花です。



写真KC: 田んぼに植えてあった赤い花の植物とピンクのレンゲの花も見えます。



写真KD: 神楽(かぐら)のところに戻(もど)ってきました。



写真KE: 米良神楽(めらかぐら)が演じられています。



写真KF: 県道316号線です。 北を見たもの。 正確には北西にある右寄りの山が天包山(あまつつみやま、標高 1188.8 m)と思われます。



写真KG: カリコボーズ山菜まつりで多くの車が止まっていました。



写真KH: レンゲの花が美しい。 南を見たもの。



写真KI: レンゲの花と県道316号線です。 北を見たもの。



写真KJ: 西米良 小川の蓮華(れんげ)の花。



写真KK: 北を見た景色。 人家も見えます。 県道316号線。
西南戦争の激戦地で米良三山の一つである天包山(あまつつみやま、標高 1188.8 m)も見えます。
米良三山とは市房山(標高 1720.8 m)、石堂山(1547.4 m)、天包山(あまつつみやま、1188.8 m)です。




写真KL: れんげ畑と人家も見えます。 北を見た景色。



写真KM: 「小川地区 土砂災害危険区域図」、みんなが知ってる危険箇所推進事業と書いてあります。



写真KN: 米良神社の近くです。



写真KO: 北を見たもの。 右上に登ると「菊池家囲墓地」があります。



写真KP: 小川多目的集会施設です。 小川自治公民館。 県道316号線沿(ぞ)いにあります。



写真KQ: 「歓迎 カリコボーズの山菜まつり 小川自治公民館」と書いてあります。



写真KR: 小川多目的集会施設。



写真KS: 小川多目的集会施設。 米良神社の南隣(となり)にあります。



写真KT: 右が「米良神社(めらじんじゃ)」です。 左は小川多目的集会施設。



写真KU: 「いきいき集落」の幟(のぼり)があります。



写真KV: 上の道を左に行くと「菊池家囲墓地」があります。



写真KW: 上の道を左に行くと「菊池家囲墓地」があります。



写真KX: 「米良神社」の近くの駐車場。



写真KY: 「菊池家囲墓地入口、西米良村」、「カリコボーズの休暇村 米良の庄 小川城址と民話の里 500 m先」、「美しい自然を大切に マナー守って明るい村 空きカン。空きビン、ゴミ持ち帰り運動 西米良村ふるさと村づくり運動村民会議」の看板(かんばん)があります。



写真KZ: 小川多目的集会施設の北に米良神社があります。



写真LA: 「小川多目的集会施設」と書いてあります。



写真LB: 小川多目的集会施設のそばに「記録碑(ひ)」があります。
米良10代 菊池則重 公 居館を小川に定む(延宝年間(江戸前期 1673年〜1681年)、宝永2年(江戸中期 1705年) 米良神社(市野宮)造営11代 則信 公、嘉永元年12月(江戸後期 1848年) 小川館焼失、明治2年 則忠 公 嫡男 武臣に命じ藩校 弘文館を創立・同4年 米良小学校と改称、明治4年 廃藩置県後に際し旧領主 菊池則忠 公 全領地を全領民に配分、明治10年7月22日 西南の役により神社、戸長役場、学校、民家40戸総計94棟焼失、明治22年 小川尋常小学校 新築、明治36年 木馬道開設(越野尾 小川 間) 大正6年 車の道、大正8年 馬車道に改良す、昭和20年 自動車道に改良(越野尾 小川 間)、昭和22年 小川、仲入に点灯(電気が来た)、昭和27年 奥地林道開設(小川 布水滝 間)、昭和30年 米良神社拝殿 改築、昭和31年 国鉄バス開通、昭和34年 小川小へき地集会室落成、昭和35年 忠魂碑 ならびに顕彰碑 建立、昭和46年1月 NHKテレビ共聴施設完成(70世帯)、同 11月 地域集団電話開通、昭和49年3月 スーパー林道開設(19.99 km)、平成2年 小川城址公園 完成、平成7年12月 忠魂碑、顕彰碑 など建設、平成8年3月 小川多目的集会施設 新築
と彫(ほ)られています。
<参考>
西南の役の時に、解体した佐土原隊は鞍岡、上椎葉、上渡川(現 南郷村)、銀鏡(しろみ)、小川、越野尾(こしのお)、妻を経て4月8日に広瀬に戻りました。 島津啓次郎は船を福島港に待機させ、田村利貞、長谷場泰蔵とともに都於郡の「大安寺」に寄寓(他人の家に身を寄せること)して東京に行く機会を待っていました。 しかし、情勢の変化で島津啓次郎は4月27日に兵100名余りで一隊を再編成しました。 上記の「明治10年7月22日の西南の役により神社、戸長役場、学校、民家40戸総計94棟焼失」はこの佐土原隊が小川を通過した時点より後の事です。



写真LC: 小川多目的集会施設のそばに「記録碑(ひ)」があります。
米良10代 菊池則重 公 居館を小川に定む(延宝年間(江戸前期 1673年〜1681年)、宝永2年(江戸中期 1705年) 米良神社(市野宮)造営11代 則信 公、嘉永元年12月(江戸後期 1848年) 小川館焼失、明治2年 則忠 公 嫡男 武臣に命じ藩校 弘文館を創立・同4年 米良小学校と改称、明治4年 廃藩置県後に際し旧領主 菊池則忠 公 全領地を全領民に配分、明治10年7月22日 西南の役により神社、戸長役場、学校、民家40戸総計94棟焼失、明治22年 小川尋常小学校 新築、明治36年 木馬道開設(越野尾 小川 間) 大正6年 車の道、大正8年 馬車道に改良す、昭和20年 自動車道に改良(越野尾 小川 間)、昭和22年 小川、仲入に点灯(電気が来た)、昭和27年 奥地林道開設(小川 布水滝 間)、昭和30年 米良神社拝殿 改築、昭和31年 国鉄バス開通、昭和34年 小川小へき地集会室落成、昭和35年 忠魂碑 ならびに顕彰碑 建立、昭和46年1月 NHKテレビ共聴施設完成(70世帯)、同 11月 地域集団電話開通、昭和49年3月 スーパー林道開設(19.99 km)、平成2年 小川城址公園 完成、平成7年12月 忠魂碑、顕彰碑 など建設、平成8年3月 小川多目的集会施設 新築
と彫(ほ)られています。
<参考>
西南の役の時に、解体した佐土原隊は鞍岡、上椎葉、上渡川(現 南郷村)、銀鏡(しろみ)、小川、越野尾(こしのお)、妻を経て4月8日に広瀬に戻りました。 島津啓次郎は船を福島港に待機させ、田村利貞、長谷場泰蔵とともに都於郡の「大安寺」に寄寓(他人の家に身を寄せること)して東京に行く機会を待っていました。 しかし、情勢の変化で島津啓次郎は4月27日に兵100名余りで一隊を再編成しました。 上記の「明治10年7月22日の西南の役により神社、戸長役場、学校、民家40戸総計94棟焼失」はこの佐土原隊が小川を通過した時点より後の事です。



写真LD: 小川多目的集会施設のそばに「記録碑(ひ)」があります。
米良10代 菊池則重 公 居館を小川に定む(延宝年間(江戸前期 1673年〜1681年)、宝永2年(江戸中期 1705年) 米良神社(市野宮)造営11代 則信 公、嘉永元年12月(江戸後期 1848年) 小川館焼失、明治2年 則忠 公 嫡男 武臣に命じ藩校 弘文館を創立・同4年 米良小学校と改称、明治4年 廃藩置県後に際し旧領主 菊池則忠 公 全領地を全領民に配分、明治10年7月22日 西南の役により神社、戸長役場、学校、民家40戸総計94棟焼失、明治22年 小川尋常小学校 新築、明治36年 木馬道開設(越野尾 小川 間) 大正6年 車の道、大正8年 馬車道に改良す、昭和20年 自動車道に改良(越野尾 小川 間)、昭和22年 小川、仲入に点灯(電気が来た)、昭和27年 奥地林道開設(小川 布水滝 間)、昭和30年 米良神社拝殿 改築、昭和31年 国鉄バス開通、昭和34年 小川小へき地集会室落成、昭和35年 忠魂碑 ならびに顕彰碑 建立、昭和46年1月 NHKテレビ共聴施設完成(70世帯)、同 11月 地域集団電話開通、昭和49年3月 スーパー林道開設(19.99 km)、平成2年 小川城址公園 完成、平成7年12月 忠魂碑、顕彰碑 など建設、平成8年3月 小川多目的集会施設 新築
と彫(ほ)られています。
<参考>
西南の役の時に、解体した佐土原隊は鞍岡、上椎葉、上渡川(現 南郷村)、銀鏡(しろみ)、小川、越野尾(こしのお)、妻を経て4月8日に広瀬に戻りました。 島津啓次郎は船を福島港に待機させ、田村利貞、長谷場泰蔵とともに都於郡の「大安寺」に寄寓(他人の家に身を寄せること)して東京に行く機会を待っていました。 しかし、情勢の変化で島津啓次郎は4月27日に兵100名余りで一隊を再編成しました。 上記の「明治10年7月22日の西南の役により神社、戸長役場、学校、民家40戸総計94棟焼失」はこの佐土原隊が小川を通過した時点より後の事です。



写真LE: 小川多目的集会施設のそばに「記録碑(ひ)」があります。
米良10代 菊池則重 公 居館を小川に定む(延宝年間(江戸前期 1673年〜1681年)、宝永2年(江戸中期 1705年) 米良神社(市野宮)造営11代 則信 公、嘉永元年12月(江戸後期 1848年) 小川館焼失、明治2年 則忠 公 嫡男 武臣に命じ藩校 弘文館を創立・同4年 米良小学校と改称、明治4年 廃藩置県後に際し旧領主 菊池則忠 公 全領地を全領民に配分、明治10年7月22日 西南の役により神社、戸長役場、学校、民家40戸総計94棟焼失、明治22年 小川尋常小学校 新築、明治36年 木馬道開設(越野尾 小川 間) 大正6年 車の道、大正8年 馬車道に改良す、昭和20年 自動車道に改良(越野尾 小川 間)、昭和22年 小川、仲入に点灯(電気が来た)、昭和27年 奥地林道開設(小川 布水滝 間)、昭和30年 米良神社拝殿 改築、昭和31年 国鉄バス開通、昭和34年 小川小へき地集会室落成、昭和35年 忠魂碑 ならびに顕彰碑 建立、昭和46年1月 NHKテレビ共聴施設完成(70世帯)、同 11月 地域集団電話開通、昭和49年3月 スーパー林道開設(19.99 km)、平成2年 小川城址公園 完成、平成7年12月 忠魂碑、顕彰碑 など建設、平成8年3月 小川多目的集会施設 新築
と彫(ほ)られています。
<参考>
西南の役の時に、解体した佐土原隊は鞍岡、上椎葉、上渡川(現 南郷村)、銀鏡(しろみ)、小川、越野尾(こしのお)、妻を経て4月8日に広瀬に戻りました。 島津啓次郎は船を福島港に待機させ、田村利貞、長谷場泰蔵とともに都於郡の「大安寺」に寄寓(他人の家に身を寄せること)して東京に行く機会を待っていました。 しかし、情勢の変化で島津啓次郎は4月27日に兵100名余りで一隊を再編成しました。 上記の「明治10年7月22日の西南の役により神社、戸長役場、学校、民家40戸総計94棟焼失」はこの佐土原隊が小川を通過した時点より後の事です。



写真LF: 小川多目的集会施設のそばに「記録碑(ひ)」があります。
米良10代 菊池則重 公 居館を小川に定む(延宝年間(江戸前期 1673年〜1681年)、宝永2年(江戸中期 1705年) 米良神社(市野宮)造営11代 則信 公、嘉永元年12月(江戸後期 1848年) 小川館焼失、明治2年 則忠 公 嫡男 武臣に命じ藩校 弘文館を創立・同4年 米良小学校と改称、明治4年 廃藩置県後に際し旧領主 菊池則忠 公 全領地を全領民に配分、明治10年7月22日 西南の役により神社、戸長役場、学校、民家40戸総計94棟焼失、明治22年 小川尋常小学校 新築、明治36年 木馬道開設(越野尾 小川 間) 大正6年 車の道、大正8年 馬車道に改良す、昭和20年 自動車道に改良(越野尾 小川 間)、昭和22年 小川、仲入に点灯(電気が来た)、昭和27年 奥地林道開設(小川 布水滝 間)、昭和30年 米良神社拝殿 改築、昭和31年 国鉄バス開通、昭和34年 小川小へき地集会室落成、昭和35年 忠魂碑 ならびに顕彰碑 建立、昭和46年1月 NHKテレビ共聴施設完成(70世帯)、同 11月 地域集団電話開通、昭和49年3月 スーパー林道開設(19.99 km)、平成2年 小川城址公園 完成、平成7年12月 忠魂碑、顕彰碑 など建設、平成8年3月 小川多目的集会施設 新築
と彫(ほ)られています。
<参考>
西南の役の時に、解体した佐土原隊は鞍岡、上椎葉、上渡川(現 南郷村)、銀鏡(しろみ)、小川、越野尾(こしのお)、妻を経て4月8日に広瀬に戻りました。 島津啓次郎は船を福島港に待機させ、田村利貞、長谷場泰蔵とともに都於郡の「大安寺」に寄寓(他人の家に身を寄せること)して東京に行く機会を待っていました。 しかし、情勢の変化で島津啓次郎は4月27日に兵100名余りで一隊を再編成しました。 上記の「明治10年7月22日の西南の役により神社、戸長役場、学校、民家40戸総計94棟焼失」はこの佐土原隊が小川を通過した時点より後の事です。



写真LG: 「米良神社」の鳥居(とりい)と拝殿が見えています。



写真LH: 宮崎県 児湯郡 西米良村 大字小川にある「米良神社(めらじんじゃ)」です。



写真LI: 西米良村にある「米良神社」とその付近です。 県道316号線の西に面しています。 米良神社のすぐ西に小川川が流れています。



写真LJ: 米良神社のそばの県道316号線です。



写真LK: 米良神社の鳥居(とりい)と小川公民館(小川多目的集会施設)です。



写真LL: 米良神社付近から南を見たもの。



写真LM: 米良神社から南東を見た景色。



写真LN: 「米良神社」から南東に見える西米良の山です。



写真LO: 「米良神社」と彫(ほ)ってある額(がく)が鳥居(とりい)にあります。



写真LP: 西米良の「米良神社」。 鳥居(とりい)と拝殿が見えます。 鳥居には、しめ縄と御幣(ごへい)があります。



写真LQ: 本殿改築記念の石碑(せきひ)があります。



写真LR: 石碑(せきひ)があります。



写真LS: 米良神社の手水舎(ちょうずや)です。



写真LT: 米良神社の手水(ちょうず、御手洗(みたらい))です。



写真LU: しめ縄と御幣(ごへい)が手水舎(ちょうずや)にあります。



写真LV: 石灯籠(いしどうろう)があります。



写真LW: 西米良村の米良神社にある石燈籠(いしどうろう)。



写真LX: 宮崎県 児湯郡 西米良村 大字小川にある「米良神社」の拝殿です。 横木の端に象の彫刻もあります。 宮崎市在住小川会一同が奉納された幕があります。



写真LY: 西米良村にある米良神社の社殿の下部。



写真LZ: 米良神社の社殿の右側。



写真MA: 米良神社の社殿の左側。



写真MB: 「米良神社 御案内」の説明板。
御祭神 大山祇命 イワナガヒメ命(通称 市之宮様)
鎮座地 宮崎県 児湯郡 西米良村 大字小川
(宮崎市より北西に国道219号線を70 km 約1時間40分、西南戦争 激戦地、天包山(あまつつみやま)の峰を一望できるところに鎮座す)
由来
 伝説によれば天孫降臨の際、ニニギノミコトが美女を見そめ、父 大山祇命に請(こ)われたところ、父 大山祇命はイワナガヒメと妹のコノハナサクヤヒメの2人を奉(たてまつ)ると申し出られた。 然(しか)るにニニギノミコトはコノハナサクヤヒメを留め、姉、イワナガヒメは醜(みにく)いため返し給(たま)えることとなった。 イワナガヒメは棺(ひつぎ)の底より鏡をとり出し、わが顔を見られ、はじめてわが顔の醜(みにく)きを知られ、家を去られこの五十川(今の一ツ瀬川)を伝い上られ、米良 小川の里へ住まわれていたが、遂(つい)に悲嘆のあまり御池の渕(ふち)に身を投じこうせられた(亡くなられた)。 村人はこれを憐(あわ)れみ、一宇(いちう、一棟の家)を建立し祀(まつ)ったという。 以後、イワナガヒメは隠れ神として人をいみ給(たま)うことになり、本殿のある神山には、神宮の外の者の入ることをきらい、殊(こと)に女人は絶対に、立ち入ることを禁じられて今日に至った。 また当神社には神宝(しんほう)として、イワナガヒメのものという毛髪があったが、元禄16年5月7日(元禄は江戸中期 1688年〜1704年)洪水が起こり山は崩(くず)れ、川は氾濫(はんらん)し、社も川上に漂流した。 川水が引くにつれて、社も静かに川下に下り、留まったので、この地に拝殿を建立したという。 これが即(すなわ)ち現在の拝殿であるという。 今もこの伝承は村人の中に伝えられ、信仰とともに強く息づいている。
 例大祭 12月15日 (現在ではこれに近い土曜日) 夜神楽(よかぐら) 33番 奉納
と書かれています。



写真MC: 「米良神社 御案内」の説明板。
御祭神 大山祇命 イワナガヒメ命(通称 市之宮様)
鎮座地 宮崎県 児湯郡 西米良村 大字小川
(宮崎市より北西に国道219号線を70 km 約1時間40分、西南戦争 激戦地、天包山(あまつつみやま)の峰を一望できるところに鎮座す)
由来
 伝説によれば天孫降臨の際、ニニギノミコトが美女を見そめ、父 大山祇命に請(こ)われたところ、父 大山祇命はイワナガヒメと妹のコノハナサクヤヒメの2人を奉(たてまつ)ると申し出られた。 然(しか)るにニニギノミコトはコノハナサクヤヒメを留め、姉、イワナガヒメは醜(みにく)いため返し給(たま)えることとなった。 イワナガヒメは棺(ひつぎ)の底より鏡をとり出し、わが顔を見られ、はじめてわが顔の醜(みにく)きを知られ、家を去られこの五十川(今の一ツ瀬川)を伝い上られ、米良 小川の里へ住まわれていたが、遂(つい)に悲嘆のあまり御池の渕(ふち)に身を投じこうせられた(亡くなられた)。 村人はこれを憐(あわ)れみ、一宇(いちう、一棟の家)を建立し祀(まつ)ったという。 以後、イワナガヒメは隠れ神として人をいみ給(たま)うことになり、本殿のある神山には、神宮の外の者の入ることをきらい、殊(こと)に女人は絶対に、立ち入ることを禁じられて今日に至った。 また当神社には神宝(しんほう)として、イワナガヒメのものという毛髪があったが、元禄16年5月7日(元禄は江戸中期 1688年〜1704年)洪水が起こり山は崩(くず)れ、川は氾濫(はんらん)し、社も川上に漂流した。 川水が引くにつれて、社も静かに川下に下り、留まったので、この地に拝殿を建立したという。 これが即(すなわ)ち現在の拝殿であるという。 今もこの伝承は村人の中に伝えられ、信仰とともに強く息づいている。
 例大祭 12月15日 (現在ではこれに近い土曜日) 夜神楽(よかぐら) 33番 奉納
と書かれています。



写真MD: 「米良神社 御案内」の説明板。
御祭神 大山祇命 イワナガヒメ命(通称 市之宮様)
鎮座地 宮崎県 児湯郡 西米良村 大字小川
(宮崎市より北西に国道219号線を70 km 約1時間40分、西南戦争 激戦地、天包山(あまつつみやま)の峰を一望できるところに鎮座す)
由来
 伝説によれば天孫降臨の際、ニニギノミコトが美女を見そめ、父 大山祇命に請(こ)われたところ、父 大山祇命はイワナガヒメと妹のコノハナサクヤヒメの2人を奉(たてまつ)ると申し出られた。 然(しか)るにニニギノミコトはコノハナサクヤヒメを留め、姉、イワナガヒメは醜(みにく)いため返し給(たま)えることとなった。 イワナガヒメは棺(ひつぎ)の底より鏡をとり出し、わが顔を見られ、はじめてわが顔の醜(みにく)きを知られ、家を去られこの五十川(今の一ツ瀬川)を伝い上られ、米良 小川の里へ住まわれていたが、遂(つい)に悲嘆のあまり御池の渕(ふち)に身を投じこうせられた(亡くなられた)。 村人はこれを憐(あわ)れみ、一宇(いちう、一棟の家)を建立し祀(まつ)ったという。 以後、イワナガヒメは隠れ神として人をいみ給(たま)うことになり、本殿のある神山には、神宮の外の者の入ることをきらい、殊(こと)に女人は絶対に、立ち入ることを禁じられて今日に至った。 また当神社には神宝(しんほう)として、イワナガヒメのものという毛髪があったが、元禄16年5月7日(元禄は江戸中期 1688年〜1704年)洪水が起こり山は崩(くず)れ、川は氾濫(はんらん)し、社も川上に漂流した。 川水が引くにつれて、社も静かに川下に下り、留まったので、この地に拝殿を建立したという。 これが即(すなわ)ち現在の拝殿であるという。 今もこの伝承は村人の中に伝えられ、信仰とともに強く息づいている。
 例大祭 12月15日 (現在ではこれに近い土曜日) 夜神楽(よかぐら) 33番 奉納
と書かれています。



写真ME: 宮崎県 児湯郡 西米良村 大字小川にある「米良神社」の鈴が見えます。 上に蛍光灯もあります。 横木に彫刻がされています。



写真MF: 西米良村の米良神社。 鈴のひも、お賽銭箱(さいせんばこ)も見えます。



写真MG: 西米良の小川にある米良神社。 鈴と宮崎市在住小川会一同が奉納された幕があります。



写真MH: 西米良の小川地区にある「米良神社」。 鈴と宮崎市在住小川会一同が奉納された幕。



写真MI: 児湯郡 西米良村にある「米良神社」の中。



写真MJ: 西米良村にある「米良神社」の中。



写真MK: 西米良村 小川地区にある「米良神社」の中。



写真ML: 西米良村 大字小川にある米良神社の本殿です。



写真MM: 米良神社の北側の側面です。



写真MN: 米良神社の北側の側面。



写真MO: 米良神社の境内(けいだい)の建物です。



写真MP: 「お知らせ 日頃から環境保全にご協力頂き有難うございます。 今後とも自然環境保全のため下記のとおりご協力下さい。

道路及び河川への不法投棄は禁止されています。
河岸や船などからの釣り及びキャンプをする者などは常に良好な環境維持に努め、みだりに、し尿、廃棄物を周辺山林及び河川に排出、投棄しないようご協力下さい。」
西米良村
と書いてあります。



写真MQ: 米良神社の西に小川川が流れています。 右が上流方向です。



写真MR: 米良神社の裏(西)の小川川と山です。 川はここで渕(ふち)になっています。



写真MS: 米良神社の境内(けいだい)。



写真MT: 米良神社の境内(けいだい)。 東を見たもの。



写真MU: 米良神社から北東を見た景色。 れんげ畑のピンクも見えます。 県道316号線。



写真MV: 米良神社から北を見た景色。 れんげ畑のピンクも見えます。 人家と県道316号線。



写真MW: 北を見た景色。 れんげ畑のピンクも見えます。



写真MX: 米良神社の裏の渕(ふち)。



写真MY: 小川川からみた西米良村の米良神社。



写真MZ: 米良神社の裏から小川川の下流方向を見た景色です。



写真NA: 米良神社の裏から小川川の下流方向を見た景色。



写真NB: 西米良村にある米良神社の裏の渕(ふち)は青緑色をしています。



写真NC: 米良神社の裏の渕(ふち)は青緑色をしています。



写真ND: 小川川の上流方向(北)を見たもの。



写真NE: 蓮華(れんげ)の花も見えます。



写真NF: 北東を見た景色。



写真NG: 蓮華(レンゲ)の花と県道316号線。



写真NH: 小川川から見た米良神社。



写真NI: 米良神社の境内(けいだい)。



写真NJ: 石灯籠(いしどうろう)。



写真NK: 米良神社のそばにある「バスのりば 小川公民館前 西米良村営バス」です。



写真NL: 「主な距離と所要時間、 小川城址公園 民話の里、布水の滝など」の看板(かんばん)がバス停にあります。



写真NM: 「西米良村営バス時刻表(小川公民館前)」があります。



写真NN: 小川公民館と左に駐車場が見えます。



写真NO: 「湖の駅」は西米良村 大字越野尾 132-35にあります。
ユズ、シイタケ、コンニャク、無農薬野菜などの地場産品の販売とイノシシ汁、イノシシカレー、イノシシうどん・そば、山菜うどん・そばなども食堂で食べることができます。 イノシシのハクセイが店頭に飾ってあります。



写真NP: 「湖の駅」は西米良村 大字越野尾 132-35にあります。



写真NQ: 湖の駅のそばの国道219号線。 先に行くと村所、手前に行くと西都市に行きます。



写真NR: 湖の駅の駐車場です。



写真NS: 湖の駅のそばの国道219号線。 先に行くと西都市、手前に行くと村所に行きます。



写真NT: 「ワーキングホリデーの村 西米良」の説明板。
米良三山の眺望、紅葉街道、国道265号線、狭上稲荷神社、烏帽子岳(1125 m)、修験者の森、赤鬚山、小川エリア、上米良エリア、市房山(1722 m)、石堂山(1547 m)、百問滝、虹の滝、布水の滝、蛇渕、フィッシング街道、カリコボーズ街道、天包山(あまつつみやま、1188 m)、至椎葉村、湯前町、菊池資料館・歴史民俗資料館、村所(役場)、温泉館「ゆたーと」、キャンプ場と民芸館、川の駅「百菜屋」、天包山高原(坊主岩・花きハウス)、井戸内養鱒場、竹原公園、元米良星兜出土地、米良食品、ほたるの里、がねーぶ、道の泉、米良街道、花街道、殿様街道、小川エリア、竹原エリア、八重エリア、板谷エリアなどが載っています。



写真NU: 「ワーキングホリデーの村 西米良」の説明板。
米良三山の眺望、紅葉街道、国道265号線、狭上稲荷神社、烏帽子岳(1125 m)、修験者の森、赤鬚山、小川エリア、上米良エリア、市房山(1722 m)、石堂山(1547 m)、百問滝、虹の滝、布水の滝、蛇渕、フィッシング街道、カリコボーズ街道、天包山(あまつつみやま、1188 m)、至椎葉村、湯前町、菊池資料館・歴史民俗資料館、村所(役場)、温泉館「ゆたーと」、キャンプ場と民芸館、川の駅「百菜屋」、天包山高原(坊主岩・花きハウス)、井戸内養鱒場、竹原公園、元米良星兜出土地、米良食品、ほたるの里、がねーぶ、道の泉、米良街道、花街道、殿様街道、小川エリア、竹原エリア、八重エリア、板谷エリアなどが載っています。



写真NV: 「ワーキングホリデーの村 西米良」の説明板。



写真NW: 「湖の駅 カリコボーズの休暇村 米良の庄」と書いてある看板(かんばん)があります。 「米良の庄(しょう)」とは西米良村と民間の第三セクターの名称です。



写真NX: 焚(た)き火でお湯が沸(わ)かしてあります。



写真NY: 野生の猪(いのしし)がとれたときの写真です。



写真NZ: 鷲(わし)の木像が店の前にあります。



写真OA: 「湖の駅」は西米良村 大字越野尾 132-35にあります。
ユズ、シイタケ、コンニャク、無農薬野菜などの地場産品の販売とイノシシ汁、イノシシカレー、イノシシうどん・そば、山菜うどん・そばなども食堂で食べることができます。 イノシシのハクセイが店頭に飾ってあります。



写真OB: 湖の駅にある猪(いのしし)のハクセイです。



写真OC: 湖の駅にある猪(いのしし)のハクセイ。



写真OD: 「湖の駅」は西米良村 大字越野尾 132-35にあります。
ユズ、シイタケ、コンニャク、無農薬野菜などの地場産品の販売とイノシシ汁、イノシシカレー、イノシシうどん・そば、山菜うどん・そばなども食堂で食べることができます。 イノシシのハクセイが店頭に飾ってあります。



by 南陽彰悟 (NANYO Shogo)