飫肥 (おび)、飫肥城下町 (武家屋敷、商家、小村寿太郎 生家、小村寿太郎誕生之地、小村寿太郎 誕生の地、商家資料館、鯉(こい)の放流、旧 山本猪平 家、おび天、厚焼き卵、重要伝統的建造物群保存地区)  (宮崎県 日南市 飫肥)







<標高、位置>  明治時代の外交官 小村寿太郎誕生之地は
標高 約20 m
 北緯31度37分31秒  東経131度21分10秒

<標高、位置>  飫肥の商家資料館は
標高 約20 m
 北緯31度37分29秒  東経131度21分03秒


 「重要伝統的建造物群保存地区 昭和52年5月18日 国指定 日南市 飫肥伝統的建造物群 保存地区」の説明板から、
 飫肥城下は飫肥藩51000石の城下として、明治時代から昭和30年秋にかけても、南那珂郡の政治、経済の中心地として栄えた。 城下の形成は、天正15年(1587年)に飫肥藩初代 伊東祐兵が豊臣秀吉から飫肥を領地として与えられてから、本格的に建設が進んだと考えられる。 現代においても、江戸時代始めの絵図に描かれた街路がそのまま使用されている。
 城下は飫肥城の南に、三方を酒谷川に囲まれた東西850 m、南北900 mの範囲で、南北三街路、東西七街路で方形に区画されている。 飫肥城近くから上級家臣、中級家臣、町屋、下級家臣の屋敷地となっている。
 各武家屋敷は、飫肥石や玉石の石垣と生垣(いけがき)に囲まれ、様式に応じた門を設けている。 屋敷地の広さは上級家臣の2000坪から下級家臣でも、260坪くらいまでさまざまである。
 昭和52年(1977年)、地方における小規模な城下町の典型的なものとして、九州で最初の国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。 保存地区の範囲は横馬場通り、後町通り、前鶴通りを中心に約19.8ヘクタールである。

 「小村寿太郎 生家」は宮崎県 日南市 飫肥4丁目8259-1にあります。
 「小村寿太郎 生家」の説明板から、
小村寿太郎生家
 明治時代を代表する外交官 小村寿太郎は、飫肥城下の町役人の長男として、現在の誕生碑の場所で生まれました(この敷地はそこから移転したものです。)。 その後、小村家が破産したため、明治時代後期に、生家は振徳堂の裏に移転され、さらに、大正10年(1921年)に現在地に移築されたものである。 その後は大きな改修は行われずに現在に至(いた)っている。 飫肥重要伝統的建造物群保存地区における伝統的な建築様式を現在に伝える重要な建物であり、また、飫肥が生んだ明治の大外交官 小村寿太郎 縁の建物としての価値も高い。
 近年に空き家となって老朽化が著しくなったため、市が改修整備して、平成16年(2004年)4月から公開している。
所在地: 宮崎県 日南市 飫肥4丁目8259-1、土地面積: 834.33 平方メートル、延べ床面積: 168.02 平方メートル

 「旧 山本猪平 家」は宮崎県 日南市 飫肥5丁目2番26にあります。
 「旧 山本猪平 家 (日南市指定文化財 平成11年8月19日指定)」の説明板から、
 この建物は、飫肥の豪商であった「山本猪平」が明治40年(1907年)頃に建築した商家の本宅である。
 敷地面積1100平方メートルの中に主屋、離れ屋、台所、浴室、便所などがほぼ建築当初のまま残されており、飫肥の商人本宅を現代に伝える遺構として貴重である。
 この建物は、昭和52年(1977年)の伝統的建造物群保存地区の選定時に保存物件として指定していたが、平成9年(1997年)に空き家となったため、市が公有化して改修工事を実施した。
 改修工事に際しては、建設当初に戻(もど)すことを原則としたが、一部耐震強度の確保のため、壁を新設している。

 「小村寿太郎 侯(こう) 誕生之地」は宮崎県 日南市 楠原にあります。
 「小村寿太郎 侯(こう) 誕生之地」の説明板から、
 小村寿太郎は、安政2年(1855年)にこの記念碑がある場所に生まれた。 父は町役人(別当職)をしていた小村寛で、禄高(ろくだか)18石の徒士席という役人であった。
 明治時代になって、小村寛は飫肥藩の専売品を取り扱う飫肥商社の社長に就任していたため、その経営を巡る裁判によって小村家は破産した。 その後、土地・建物は隣に屋敷を構える事になる山本猪平に売却されたが、昭和8年(1933年)に山本家が土地を寄付するとともに飫肥藩関係者の寄付金によって現在の記念碑が建てられた。
 記念碑の題字は、日本海海戦の指揮者 東郷平八郎の揮毫(きごう)、裏面は大学時代からの親交のあった杉浦重剛の詩である。
 平成5年(1993年)、小村侯(こむらこう)の功績を記念して国際交流センター小村記念館が飫肥城前に開館した。
 また、生誕の家と伝えられている建物は飫肥城近くに残されている。

 「飫肥 商家資料館」は宮崎県 日南市 楠原4152-3にあります。
 「市指定文化財 昭和58年10月1日指定 建造物 商家資料館」の説明板から、
 本町は飫肥城下町における約400年前からの商人町である。
とりわけ、明治時代以降は飫肥杉の取引や南宮崎の政治、経済の中心地として栄えてきた。 その繁栄を今に伝えるのが商家資料館である。
この建物は、慶応2年(1866年)の本町大火後、明治3年(1870年)に本町の商人で山林地主であった山本五平が建てた。 木造一部2階建ての白漆喰(しっくい)の土蔵造りで、樹齢200年以上の飫肥杉がふんだんに使用されている。 本町の町屋は一般に間口が狭く、奥行きが深い。 この建物も玄関口は商売用で、奥に居住空間があり、通路としての土間が奥まで続いている。
明治24年(1891年)には本町の素封家(そほうか、金持ち)高橋源次郎の所有となり、「正せん館」と名付けられて青年商工会の集会所や泰平踊り(たいへいおどり)練習所として使用された。 昭和3年(1928年)妹尾家がこれを買取り、金物屋を開いたが、昭和58年(1983年)に本町通りの拡幅に伴い、市が寄贈を受けて、旧 所在地から約60 m離(はな)れた反対側に移築、復元して商家資料館とした。
館内には、江戸時代以降の本町商人が使用していた道具約250点を展示しており、商人の生活習慣を知る上で貴重な資料である。


写真A: 宮崎県 日南市 飫肥(おび)にある飫肥城 大手門の南に延(の)びる車道の西にある駐車場です。



写真B: 駐車場のそばの店です。 ソフトクリームも販売しています。



写真C: 「おび天蔵」です。 中でおび天を油であげています。 おび天、飫肥の物産品などを販売しています。
「おび天蔵」は宮崎県 日南市 飫肥 9-1-8 にあります。
名物の「飫肥天(おびてん)」は魚のすり身、豆腐(とうふ)、黒砂糖、みそなどで出来ています。 油で揚げたものです。 ふんわりと柔らかで少し甘みもあります。 飫肥天は江戸時代に日南市 飫肥の領民が創(つく)りだした郷土料理で生姜(しょうが)、ゴボウ入りなど色んな種類、形があります。 飫肥では味噌(みそ)を使う料理が多く、南西諸島からの移住者を中心に19世紀中期にサトウキビの栽培が始まりました。 それで飫肥天には味噌と黒砂糖が入っています。 また、豆腐(とうふ)も入れるのでさつま揚(あ)げより柔らかな食感です。 そのまま食べることが普通です。
おび天蔵です。 この建物は江戸時代に建築された飫肥城下に残る唯一(ゆいいつ)の建造物でここに飫肥藩役所の物産方「飫肥商社」が置かれていた建物を改修したものです。 屋内2階の天井(てんじょう)や柱などは当時の状態で保存されています。



写真D: 三叉路(さんさろ)があります。 右に行くと鯉(こい)のいる溝(みぞ)、小村寿太郎 誕生地、商家記念館などがあります。 左に行くと飫肥城(おびじょう)です。



写真E: 駐車場の北西にバス停があります。 バスも見えています。



写真F: バスが3台止まっています。



写真G: 九州の小京都 ”飫肥(おび)”
苔(こけ)むした城壁に磨(す)り減った石段、槍(やり)の刃先(はさき)にも似た飫肥杉の林が古都その情緒をかなでている。 飫肥は5万1080石の城下町。 商人通りは白壁と格子(こうし)、瓦屋根(かわらやね)に代表される日本建築の美を表現した旧商人町である。 飫肥の旅情をいっそう引き立ててくれるに違いない。
と書いてあります。
絵地図もあります。



写真H: 九州の小京都 ”飫肥(おび)”
苔(こけ)むした城壁に磨(す)り減った石段、槍(やり)の刃先(はさき)にも似た飫肥杉の林が古都その情緒をかなでている。 飫肥は5万1080石の城下町。 商人通りは白壁と格子(こうし)、瓦屋根(かわらやね)に代表される日本建築の美を表現した旧商人町である。 飫肥の旅情をいっそう引き立ててくれるに違いない。
と書いてあります。
絵地図もあります。



写真I: 三叉路(さんさろ)の角にある「郷土料理 おび天蔵」です。 おび天、おび天 うどん そば、厚焼卵(厚焼き玉子)と書いてある幟(のぼり)があります。
名物の「飫肥天(おびてん)」は魚のすり身、豆腐(とうふ)、黒砂糖、みそなどで出来ています。 油で揚げたものです。 ふんわりと柔らかで少し甘みもあります。 飫肥天は江戸時代に日南市 飫肥の領民が創(つく)りだした郷土料理で生姜(しょうが)、ゴボウ入りなど色んな種類、形があります。 飫肥では味噌(みそ)を使う料理が多く、南西諸島からの移住者を中心に19世紀中期にサトウキビの栽培が始まりました。 それで飫肥天には味噌と黒砂糖が入っています。 また、豆腐(とうふ)も入れるのでさつま揚(あ)げより柔らかな食感です。 そのまま食べることが多い。
名物の「厚焼き卵」はきめの細かいプリンのようで、甘みがあり、お菓子のような感じです。 普通の卵焼きとは大きく異なります。
飫肥の厚焼き卵は元禄2年(1689年)に始まりました。 もとは間瀬田 家で祝いの席で食べられていました。 その後、藩主(伊東祐実)が参勤交代の時に献上されるようになり、間瀬田は藩主にも献上する厚焼き卵屋となりました。
おび天蔵です。 この建物は江戸時代に建築された飫肥城下に残る唯一(ゆいいつ)の建造物でここに飫肥藩役所の物産方「飫肥商社」が置かれていた建物を改修したものです。 屋内2階の天井(てんじょう)や柱などは当時の状態で保存されています。



写真J: 飫肥城の大手門から南に延びる車道に、「←歴史資料館、松尾ノ丸、豫章館(よしょうかん)、小村記念館、飫肥城由緒施設。 →旧山本猪平家、商家資料館、武家屋敷通(鯉(こい)の遊泳)、本町通り(商人町)、小村寿太郎侯生誕地。 飫肥は連続テレビ小説「わかば」の舞台地です。」と書いてある看板(かんばん)があります。



写真K: 飫肥城の大手門に行く途中(とちゅう)に「おび天茶屋」があります。 左の建物がおび天茶屋です。



写真L: おび天茶屋の南の屋敷。



写真M: 「おび天茶屋 樹齢約1000年とも言われる楠(くすのき)で造られたこの火鉢(ひばち)は重さ約2 トン有余あり、その貫禄(かんろく)は正に日本一とも言われています。 今では飫肥の名物のひとつとされています。 当店にようこそご来店の皆様どうぞこの火鉢(ひばち)をとり囲んで、お茶など召し上がりながらごゆっくりおくつろぎ下さい。 また店内では、名物おび天の実演コーナーを設(もう)けて揚(あ)げたてのおび天が召し上がれます。 なお、お食事は「おび天定食 おにぎり」もあります。 店主 敬白」
と書いてあります。



写真N: 奥が飫肥城の大手門です。



写真O: 飫肥城 大手門の前の橋です。 堀の上にかかっています。 堀に水はありませんでした。



写真P: 大手門の前を東に行くと、武家屋敷などがあります。



写真Q: 左は飫肥城の堀(ほり)です。 水はありませんでした。



写真R: 「国際交流センター 小村記念館」の北からの入り口です。



写真S: 左奥が小村記念館の建物です。
「国際交流センター 小村記念館」は宮崎県 日南市 飫肥 4-2-20-1 にあります。
「小村記念館」は明治の外交官・小村寿太郎(1855年-1911年)の遺徳を顕彰し、国際交流、教育文化活動、世界に飛躍する人材のために平成5年(1993年)開館しました。 小村寿太郎の生(お)い立ち、遺品、ポーツマス会議のようすの絵などが展示されています。 国際交流センターは300人収容の大会議室と50人収容の小会議室があって、同時通訳施設があります。



写真T: 大手門の方を振り返ったもの。 右は堀です。



写真U: 「国際交流センター 小村記念館→」と書いてある看板(かんばん)があります。
「国際交流センター 小村記念館」の説明板から、
 国際交流センター 小村記念館は、飫肥出身の明治の外交官・小村寿太郎 侯の没80周年を記念して、小村 侯の功績を後世に伝えると共に、国際化に対応できる人材育成や文化活動の拠点をめざして、平成5年(1993年)1月16日に開館した。 建物の建築面積は1034 平方メートルで、記念館と国際交流センターからなっている。
 小村 侯は、20世紀初頭、日英同盟を結び、日露戦争後の講和会議では全権大使としてポーツマス条約を結んだ。 また、不平等条約を改正し、関税自主権を獲得(かくとく)。 その功績で日本は名実ともに独立主権国家となった。
 日南市では、ポーツマス条約を縁として、米国ニューハンプシャー州ポーツマス市と姉妹都市提携を昭和60年(1985年)に結んでいる。
この施設の完成により、ポーツマス市を中心とした国際交流が一層推進されることになった。



写真V: 東を見たもの。



写真W: 「重要伝統的建造物群保存地区 昭和52年5月18日 国指定 日南市 飫肥伝統的建造物群 保存地区」の説明板。
 飫肥城下は飫肥藩51000石の城下として、明治時代から昭和30年秋にかけても、南那珂郡の政治、経済の中心地として栄えた。 城下の形成は、天正15年(1587年)に飫肥藩初代 伊東祐兵が豊臣秀吉から飫肥を領地として与えられてから、本格的に建設が進んだと考えられる。 現代においても、江戸時代始めの絵図に描かれた街路がそのまま使用されている。
 城下は飫肥城の南に、三方を酒谷川に囲まれた東西850 m、南北900 mの範囲で、南北三街路、東西七街路で方形に区画されている。 飫肥城近くから上級家臣、中級家臣、町屋、下級家臣の屋敷地となっている。
 各武家屋敷は、飫肥石や玉石の石垣と生垣(いけがき)に囲まれ、様式に応じた門を設けている。 屋敷地の広さは上級家臣の2000坪から下級家臣でも、260坪くらいまでさまざまである。
 昭和52年(1977年)、地方における小規模な城下町の典型的なものとして、九州で最初の国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。 保存地区の範囲は横馬場通り、後町通り、前鶴通りを中心に約19.8ヘクタールである。
と書かれています。
飫肥の絵地図もあります。



写真X: 「重要伝統的建造物群保存地区 昭和52年5月18日 国指定 日南市 飫肥伝統的建造物群 保存地区」の説明板。
 飫肥城下は飫肥藩51000石の城下として、明治時代から昭和30年秋にかけても、南那珂郡の政治、経済の中心地として栄えた。 城下の形成は、天正15年(1587年)に飫肥藩初代 伊東祐兵が豊臣秀吉から飫肥を領地として与えられてから、本格的に建設が進んだと考えられる。 現代においても、江戸時代始めの絵図に描かれた街路がそのまま使用されている。
 城下は飫肥城の南に、三方を酒谷川に囲まれた東西850 m、南北900 mの範囲で、南北三街路、東西七街路で方形に区画されている。 飫肥城近くから上級家臣、中級家臣、町屋、下級家臣の屋敷地となっている。
 各武家屋敷は、飫肥石や玉石の石垣と生垣(いけがき)に囲まれ、様式に応じた門を設けている。 屋敷地の広さは上級家臣の2000坪から下級家臣でも、260坪くらいまでさまざまである。
 昭和52年(1977年)、地方における小規模な城下町の典型的なものとして、九州で最初の国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。 保存地区の範囲は横馬場通り、後町通り、前鶴通りを中心に約19.8ヘクタールである。
と書かれています。
飫肥の絵地図もあります。



写真Y: 「重要伝統的建造物群保存地区 昭和52年5月18日 国指定 日南市 飫肥伝統的建造物群 保存地区」の説明板。
 飫肥城下は飫肥藩51000石の城下として、明治時代から昭和30年秋にかけても、南那珂郡の政治、経済の中心地として栄えた。 城下の形成は、天正15年(1587年)に飫肥藩初代 伊東祐兵が豊臣秀吉から飫肥を領地として与えられてから、本格的に建設が進んだと考えられる。 現代においても、江戸時代始めの絵図に描かれた街路がそのまま使用されている。
 城下は飫肥城の南に、三方を酒谷川に囲まれた東西850 m、南北900 mの範囲で、南北三街路、東西七街路で方形に区画されている。 飫肥城近くから上級家臣、中級家臣、町屋、下級家臣の屋敷地となっている。
 各武家屋敷は、飫肥石や玉石の石垣と生垣(いけがき)に囲まれ、様式に応じた門を設けている。 屋敷地の広さは上級家臣の2000坪から下級家臣でも、260坪くらいまでさまざまである。
 昭和52年(1977年)、地方における小規模な城下町の典型的なものとして、九州で最初の国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。 保存地区の範囲は横馬場通り、後町通り、前鶴通りを中心に約19.8ヘクタールである。
と書かれています。
飫肥の絵地図もあります。



写真Z: ここで掘りが東西から南北に直角に曲がっています。 この道を進むと飫肥小学校の方に行きます。



写真AA: 南に遠くの山も見えます。



写真AB: 飫肥(おび)の武家屋敷です。 石垣、階段、門、生垣(いけがき)が見えます。
1977年(昭和52年)には飫肥城址と周辺の町並みが九州で初めての「重要伝統的建造物群保存地区」に選ばれました。



写真AC: 飫肥の武家屋敷です。



写真AD: 東を見たもの。 武家屋敷通りです。
1977年(昭和52年)には飫肥城址と周辺の町並みが九州で初めての「重要伝統的建造物群保存地区」に選ばれました。



写真AE: バンマツリの木の花が咲いていました。



写真AF: バンマツリの木の花。



写真AG: 宮崎県 日南市 飫肥(おび)にある明治時代の外交官 「小村寿太郎 生家」です。



写真AH: 「小村寿太郎 生家」の説明板が上に見えています。



写真AI: 「小村寿太郎 生家」の石垣(いしがき)です。



写真AJ: 「小村寿太郎 生家、大正10年11月6日 現在地に移転、平成16年4月1日 日南市教育委員会」と書いてある案内棒があります。



写真AK: 日南市 飫肥(おび)にある明治時代の外交官 「小村寿太郎 生家」。



写真AL: 日南市 飫肥(おび)にある明治時代の外交官 「小村寿太郎 生家」の敷地内です。 木がきれいに剪定(せんてい)されています。



写真AM: 日南市 飫肥(おび)にある明治時代の外交官 「小村寿太郎 生家」です。



写真AN: ベンチと説明板、説明棒も見えます。 南を見たもの。



写真AO: 「小村寿太郎 生家」の説明板です。
小村寿太郎生家
 明治時代を代表する外交官 小村寿太郎は、飫肥城下の町役人の長男として、現在の誕生碑の場所で生まれました(この敷地はそこから移転したものです。)。 その後、小村家が破産したため、明治時代後期に、生家は振徳堂の裏に移転され、さらに、大正10年(1921年)に現在地に移築されたものである。 その後は大きな改修は行われずに現在に至(いた)っている。 飫肥重要伝統的建造物群保存地区における伝統的な建築様式を現在に伝える重要な建物であり、また、飫肥が生んだ明治の大外交官 小村寿太郎 縁の建物としての価値も高い。
 近年に空き家となって老朽化が著しくなったため、市が改修整備して、平成16年(2004年)4月から公開している。
所在地: 宮崎県 日南市 飫肥4丁目8259-1、土地面積: 834.33 平方メートル、延べ床面積: 168.02 平方メートル
小村寿太郎と生家の写真もあります。



写真AP: 「小村寿太郎 生家」の説明板です。
小村寿太郎生家
 明治時代を代表する外交官 小村寿太郎は、飫肥城下の町役人の長男として、現在の誕生碑の場所で生まれました(この敷地はそこから移転したものです。)。 その後、小村家が破産したため、明治時代後期に、生家は振徳堂の裏に移転され、さらに、大正10年(1921年)に現在地に移築されたものである。 その後は大きな改修は行われずに現在に至(いた)っている。 飫肥重要伝統的建造物群保存地区における伝統的な建築様式を現在に伝える重要な建物であり、また、飫肥が生んだ明治の大外交官 小村寿太郎 縁の建物としての価値も高い。
 近年に空き家となって老朽化が著しくなったため、市が改修整備して、平成16年(2004年)4月から公開している。
所在地: 宮崎県 日南市 飫肥4丁目8259-1、土地面積: 834.33 平方メートル、延べ床面積: 168.02 平方メートル
小村寿太郎と生家の写真もあります。



写真AQ: 日南市 飫肥にある明治時代の外交官 小村寿太郎の生家。 場所は変わっています。



写真AR: 「小村寿太郎 生家、大正10年11月6日 現在地に移転、平成16年4月1日 日南市教育委員会」と書いてある案内棒。



写真AS: 西を見た景色です。 右奥の飫肥杉などは飫肥城内のものです。



写真AT: 外交官 小村寿太郎 生家の入り口です。



写真AU: 外交官 小村寿太郎 生家の入り口。



写真AV: 「おび天蔵」の説明板です。
 この建物は江戸時代に建築された飫肥城下に残る唯一(ゆいいつ)の建造物でここに飫肥藩役所の物産方「飫肥商社」が置かれていた建物を改修したものです。 屋内2階の天井(てんじょう)や柱などは当時の状態で保存されています。 御自由に御覧下さい。
 また1階において「おび天」の実演コーナーを設けており揚(あ)げたての「おび天」が召し上がれます。 ごゆっくりおくつろぎ下さい。 店主 敬白
と書いてあります。



写真AW: おび天蔵です。 この建物は江戸時代に建築された飫肥城下に残る唯一(ゆいいつ)の建造物でここに飫肥藩役所の物産方「飫肥商社」が置かれていた建物を改修したものです。 屋内2階の天井(てんじょう)や柱などは当時の状態で保存されています。



写真AX: おび天蔵です。 この建物は江戸時代に建築された飫肥城下に残る唯一(ゆいいつ)の建造物でここに飫肥藩役所の物産方「飫肥商社」が置かれていた建物を改修したものです。 屋内2階の天井(てんじょう)や柱などは当時の状態で保存されています。



写真AY: おび天蔵の中で、おび天の実演コーナーがあり販売もしています。 「おび天とゴボー入 おび天詰め合わせセット ¥1100」などと書いてあります。



写真AZ: おび天蔵の中です。 「工房 飫肥夢細工」と書いてあります。



写真BA: おび天の実演コーナーです。 ここでおび天を揚(あ)げています。



写真BB: おび天蔵の中です。



写真BC: おび天蔵の中です。 右はおび天の実演コーナーです。 左に階段も見えます。



写真BD: 昔懐(なつ)かしい「ラムネ」を買って飲みました。 後ろはおび天の実演コーナーで右奥に熱い油が入った物が見えます。 ラムネの後ろは「しその実の入ったおび天 ¥110」です。 これは四角の形をしています。 ヒノキの葉が敷(し)いてあります。



写真BE: 駐車場です。 左にレンタサイクル(自転車)の置き場が見えます。 後ろに南東の山が見えます。



写真BF: レンタルの自転車が並べてあります。



写真BG: おび天蔵です。 この建物は江戸時代に建築された飫肥城下に残る唯一(ゆいいつ)の建造物でここに飫肥藩役所の物産方「飫肥商社」が置かれていた建物を改修したものです。 屋内2階の天井(てんじょう)や柱などは当時の状態で保存されています。



写真BH: 西を見た景色です。 左は駐車場。



写真BI: 「貸し自転車受付 向かい おび天蔵」と書いてあります。 レンタルの自転車が並べてあります。



写真BJ: 飫肥の「泰平踊(たいへいおどり)」のポスターがありました。



写真BK: 日南市 油津の方の堀川運河と石のアーチ橋のポスターがありました。



写真BL: 鵜戸神宮(うどじんぐう)のポスターがありました。



写真BM: 飫肥城の大手門から南に延びる車道に、「←歴史資料館、松尾ノ丸、豫章館(よしょうかん)、小村記念館、飫肥城由緒施設。 →旧山本猪平家、商家資料館、武家屋敷通(鯉(こい)の遊泳)、本町通り(商人町)、小村寿太郎侯生誕地。 飫肥は連続テレビ小説「わかば」の舞台地です。」と書いてある看板(かんばん)があります。



写真BN: 飫肥城の大手門から南に延(の)びる車道です。 大手門 交差点です。 南を見たもの。
先に行くと道の脇の溝(みぞ)にいる鯉(こい)、小村寿太郎 誕生地、商家の町並み(まちなみ)、商家資料館などがあります。



写真BO: 日南市 飫肥(おび)の大手門 交差点です。 南の山も見えます。



写真BP: 日南市 飫肥(おび)の大手門 交差点。 南東を見たもの。 赤い丸型郵便ポストも見えます。



写真BQ: 「希屋」と書いてあります。 赤い丸型郵便ポストも見えます。



写真BR: 大手門 交差点からさらに南に進みます。



写真BS: 北を振り返ったもの。 遠くの飫肥杉の森は飫肥城跡のものです。 大手門 交差点。



写真BT: 南東を見たもの。 町並みが道の両側にあります。
1977年(昭和52年)には飫肥城址と周辺の町並みが九州で初めての「重要伝統的建造物群保存地区」に選ばれました。



写真BU: 「鯉(こい)の放流←」と書いてある看板(かんばん)があります。 南を見たもの。



写真BV: 東西の道の脇にある溝(みぞ)に緋鯉(ひごい)などが見えています。 コイをある範囲に入れるための金属の柵(さく)が溝の中にあります。 西を見た景色です。
1977年(昭和52年)には飫肥城址と周辺の町並みが九州で初めての「重要伝統的建造物群保存地区」に選ばれました。



写真BW: 東西の道の脇にある溝(みぞ)に緋鯉(ひごい)などが見えています。 コイをある範囲に入れるための金属の柵(さく)が溝の中にあります。 西を見た景色。



写真BX: 溝にはきれいな水が流れています。 大きなヒゴイ、金色のコイが泳いでいます。



写真BY: 溝にはきれいな水が流れています。 大きなヒゴイ、金色のコイ、マゴイなどが泳いでいます。



写真BZ: 西を見た景色です。 左はコイの泳いでいる溝(みぞ)です。



写真CA: 南に歩いて行きます。



写真CB: 盆栽(ぼんさい)の松を大きくしたようなものがあります。



写真CC: 道沿(ぞ)いの家です。



写真CD: 南を見た景色です。 大きな塀(へい)があります。 これは豪商であった旧 山本猪平 家のものです。
飫肥は5万1080石の城下町。 商人通りは白壁と格子(こうし)、瓦屋根(かわらやね)に代表される日本建築の美を表現した旧商人町です。



写真CE: 豪商であった旧 山本猪平 家。



写真CF: 豪商であった旧 山本猪平 家。



写真CG: 豪商であった旧 山本猪平 家です。



写真CH: 「旧 山本猪平 家 (日南市指定文化財 平成11年8月19日指定)」の説明板。
 この建物は、飫肥の豪商であった「山本猪平」が明治40年(1907年)頃に建築した商家の本宅である。
 敷地面積1100平方メートルの中に主屋、離れ屋、台所、浴室、便所などがほぼ建築当初のまま残されており、飫肥の商人本宅を現代に伝える遺構として貴重である。
 この建物は、昭和52年(1977年)の伝統的建造物群保存地区の選定時に保存物件として指定していたが、平成9年(1997年)に空き家となったため、市が公有化して改修工事を実施した。
 改修工事に際しては、建設当初に戻(もど)すことを原則としたが、一部耐震強度の確保のため、壁を新設している。
と書かれています。
旧山本猪平家の写真もあります。



写真CI: 「旧 山本猪平 家 (日南市指定文化財 平成11年8月19日指定)」。



写真CJ: 左は「旧 山本猪平 家 (日南市指定文化財 平成11年8月19日指定)」の塀(へい)です。 その南隣り(みなみどなり)は明治時代の外交官 「小村寿太郎の誕生地」です。



写真CK: 宮崎県 日南市 飫肥(おび)にある明治時代の外交官 「小村寿太郎の誕生地」です。
この場所で小村寿太郎が生まれました。
大きな石碑(せきひ)、説明板、庭木などが見えています。
また、ここは「伊能忠敬(いのうただたか) 天文観測之地」でもあります。
文化7年(1810年)4月27日、伊能忠敬 以下17名の幕府御用測量方は飫肥本町の小村家に宿泊し、天文観測を行いました。




写真CL: 「小村寿太郎 侯(こう) 誕生之地」の説明板。
 小村寿太郎は、安政2年(1855年)にこの記念碑がある場所に生まれた。 父は町役人(別当職)をしていた小村寛で、禄高(ろくだか)18石の徒士席という役人であった。
 明治時代になって、小村寛は飫肥藩の専売品を取り扱う飫肥商社の社長に就任していたため、その経営を巡る裁判によって小村家は破産した。 その後、土地・建物は隣に屋敷を構える事になる山本猪平に売却されたが、昭和8年(1933年)に山本家が土地を寄付するとともに飫肥藩関係者の寄付金によって現在の記念碑が建てられた。
 記念碑の題字は、日本海海戦の指揮者 東郷平八郎の揮毫(きごう)、裏面は大学時代からの親交のあった杉浦重剛の詩である。
 平成5年(1993年)、小村侯(こむらこう)の功績を記念して国際交流センター小村記念館が飫肥城前に開館した。
 また、生誕の家と伝えられている建物は飫肥城近くに残されている。
と書かれています。



写真CM: 「小村寿太郎 侯(こう) 誕生之地」の説明板。
 小村寿太郎は、安政2年(1855年)にこの記念碑がある場所に生まれた。 父は町役人(別当職)をしていた小村寛で、禄高(ろくだか)18石の徒士席という役人であった。
 明治時代になって、小村寛は飫肥藩の専売品を取り扱う飫肥商社の社長に就任していたため、その経営を巡る裁判によって小村家は破産した。 その後、土地・建物は隣に屋敷を構える事になる山本猪平に売却されたが、昭和8年(1933年)に山本家が土地を寄付するとともに飫肥藩関係者の寄付金によって現在の記念碑が建てられた。
 記念碑の題字は、日本海海戦の指揮者 東郷平八郎の揮毫(きごう)、裏面は大学時代からの親交のあった杉浦重剛の詩である。
 平成5年(1993年)、小村侯(こむらこう)の功績を記念して国際交流センター小村記念館が飫肥城前に開館した。
 また、生誕の家と伝えられている建物は飫肥城近くに残されている。
と書かれています。



写真CN: 「小村寿太郎 侯(こう) 誕生之地」の説明板。
 小村寿太郎は、安政2年(1855年)にこの記念碑がある場所に生まれた。 父は町役人(別当職)をしていた小村寛で、禄高(ろくだか)18石の徒士席という役人であった。
 明治時代になって、小村寛は飫肥藩の専売品を取り扱う飫肥商社の社長に就任していたため、その経営を巡る裁判によって小村家は破産した。 その後、土地・建物は隣に屋敷を構える事になる山本猪平に売却されたが、昭和8年(1933年)に山本家が土地を寄付するとともに飫肥藩関係者の寄付金によって現在の記念碑が建てられた。
 記念碑の題字は、日本海海戦の指揮者 東郷平八郎の揮毫(きごう)、裏面は大学時代からの親交のあった杉浦重剛の詩である。
 平成5年(1993年)、小村侯(こむらこう)の功績を記念して国際交流センター小村記念館が飫肥城前に開館した。
 また、生誕の家と伝えられている建物は飫肥城近くに残されている。
と書かれています。



写真CO: 「小村寿太郎侯誕生之地」と彫(ほ)ってある石碑(せきひ)が入り口にあります。 左は説明板の屋根です。



写真CP: 左は明治時代の外交官 小村寿太郎の誕生地です。



写真CQ: 「小村寿太郎侯生誕地」の説明板。
 安政2年(1855年)小村寛の長男としてこの地で生まれたが、生家は飫肥本町の別当職で小禄(ころく)17石の徒士であった。
 幼少から祖母 熊子の厳格な養育を受け7歳から藩校に学び、14歳で寮に行った。 藩校時代には提灯(ちょうちん)をさげて早朝一番乗りをし寮生となっても寮僕のアルバイトを終えた夜の勉学の時間が一番楽しみだったという。 明治38年ポーツマス講和条約のことは承知のとおりであるが、よく大国の間に伍(ご)し一貫して興亜外交に終始したのである。
碑面は元帥「東郷平八郎」の書である。
日南市観光協会
飫肥城下町めぐりレンタサイクルコースNo12
と書いてあります。



写真CR: 日南市 飫肥(おび)にある明治時代の外交官 「小村寿太郎の誕生地」。



写真CS: 「小村寿太郎侯誕生之地 伯爵 東郷平八郎 書」と大きな石碑(せきひ)に彫(ほ)ってあります。 石碑の上部です。



写真CT: 「小村寿太郎 安政2年9月26日 生誕飫肥藩別当役宅」と書いてあります。 石碑の下部です。



写真CU: 日南市 飫肥(おび)にある小村寿太郎の誕生地です。 説明板、ソテツの木、右に古い梅の木などが見えます。



写真CV: 「小村寿太郎侯 略年譜」
1855年(安政2)の誕生から1911年(明治44年)不平等条約の撤廃、死去まで書いてあります。
「伊能忠敬(いのうただたか) 天文観測之地」
文化7年(1810年)4月27日、伊能忠敬 以下17名の幕府御用測量方は飫肥本町の小村家に宿泊し、天文観測を行った。

と書かれています。



写真CW: 小村寿太郎の誕生地に古い梅の木があります。



写真CX: 小村寿太郎 誕生地の古い梅の木。 後ろは大きな石碑です。 西を見たもの。



写真CY: 小村寿太郎 誕生地の古い梅の木です。 後ろは大きな石碑です。



写真CZ: 小村寿太郎 誕生地に古い梅の木、ソテツなどがあります。



写真DA: 大きな石碑の下部です。 南西を見たもの。



写真DB: 大きな石碑。 南西を見たもの。



写真DC: 明治の外交官 小村寿太郎 生誕地の古い梅の木、説明板、ソテツなどが見えます。



写真DD: 小村寿太郎生誕地の古い梅の木です。



写真DE: 小村寿太郎 誕生地の大きな石碑の裏です。
裏面は大学時代からの親交のあった杉浦重剛の詩が彫(ほ)ってあります。



写真DF: 大きな石碑(せきひ)の南の部分です。



写真DG: 小村寿太郎 誕生地の南の部分です。 東を見たもの。



写真DH: ソテツの木も見えます。 北東を見たもの。



写真DI: 右は大きな石碑、北西を見たもの。 入り口も見えます。



写真DJ: 右は大きな石碑。 北を見たもの。



写真DK: 「↑道の駅 酒谷、日南ダム公園」と書いてある道路標識があります。 国道222号線です。 西を見たもの。
このあたりの国道222号線は商家が並んでいます。
1977年(昭和52年)には飫肥城址と周辺の町並みが九州で初めての「重要伝統的建造物群保存地区」に選ばれました。
飫肥は5万1080石の城下町。 商人通りは白壁と格子(こうし)、瓦屋根(かわらやね)に代表される日本建築の美を表現した旧商人町です。



写真DL: 飫肥城の大手門から南に延びる車道と国道222号線の交差点に「恵比寿神社(えびすじんじゃ)」があります。



写真DM: 大手門から南に延びる車道と国道222号線の交差点にある「恵比寿神社(えびすじんじゃ)」。



写真DN: 飫肥城の大手門から南に延びる車道と国道222号線の交差点に「恵比寿神社(えびすじんじゃ)」があります。
国道222号線を東(奥)に行くとJR日南線の飫肥駅(おびえき)があります。



写真DO: 鳥居(とりい)に「恵比寿神社」と書いてある額(がく)があります。



写真DP: 左下に赤い丸型郵便ポストが見えます。 国道222号線沿(ぞ)いの建物です。



写真DQ: 宮崎県 日南市 飫肥の国道222号線沿(ぞ)いの町並み(まちなみ)です。
1977年(昭和52年)には飫肥城址と周辺の町並みが九州で初めての「重要伝統的建造物群保存地区」に選ばれました。



写真DR: 「厚焼」の看板(かんばん)が見えます。 厚焼き卵のことです。



写真DS: 店の前に山頭火の歌碑があります。



写真DT: 店の前にある山頭火の歌碑。



写真DU: 山頭火の説明板です。



写真DV: 「バス 飫肥城下町 宮崎交通」と書いてあるバス停があります。



写真DW: 飫肥城下町の商家の町なみです。 1977年(昭和52年)には飫肥城址と周辺の町並みが九州で初めての「重要伝統的建造物群保存地区」に選ばれました。



写真DX: 「炭火手焼き 泰平せんべい」と書いてあります。
「商い中」の看板(かんばん)もあります。



写真DY: 「おび名物 厚焼卵 おびの茶屋」と書いてある看板(かんばん)があります。



写真DZ: 「厚焼処 おびの茶屋」と書いてあります。



写真EA: おびの茶屋で厚焼き卵を食べました。



写真EB: これがおびの名物 厚焼き卵です。
名物の「厚焼き卵」はきめの細かいプリンのようで、甘みがあり、お菓子のような感じです。 普通の卵焼きとは大きく異なります。
飫肥の厚焼き卵は元禄2年(1689年)に始まりました。 もとは間瀬田 家で祝いの席で食べられていました。 その後、藩主(伊東祐実)が参勤交代の時に献上されるようになり、間瀬田は藩主にも献上する厚焼き卵屋となりました。



写真EC: おびの茶屋の説明が書いてあります。



写真ED: 宮崎県 日南市 飫肥の名物 「厚焼き卵」です。
名物の「厚焼き卵」はきめの細かいプリンのようで、甘みがあり、お菓子のような感じです。 普通の卵焼きとは大きく異なります。
飫肥の厚焼き卵は元禄2年(1689年)に始まりました。 もとは間瀬田 家で祝いの席で食べられていました。 その後、藩主(伊東祐実)が参勤交代の時に献上されるようになり、間瀬田は藩主にも献上する厚焼き卵屋となりました。



写真EE: 日南市 飫肥の名物 「厚焼き卵」です。
名物の「厚焼き卵」はきめの細かいプリンのようで、甘みがあり、お菓子のような感じです。 普通の卵焼きとは大きく異なります。
飫肥の厚焼き卵は元禄2年(1689年)に始まりました。 もとは間瀬田 家で祝いの席で食べられていました。 その後、藩主(伊東祐実)が参勤交代の時に献上されるようになり、間瀬田は藩主にも献上する厚焼き卵屋となりました。



写真EF: 厚焼き卵屋さんの中です。 壁に大きな扇子(せんす)があります。



写真EG: 厚焼き卵屋さんです。



写真EH: 厚焼処 おびの茶屋です。



写真EI: 国道222号線沿いの飫肥城下町の様子(ようす)です。
1977年(昭和52年)には飫肥城址と周辺の町並みが九州で初めての「重要伝統的建造物群保存地区」に選ばれました。



写真EJ: 国道222号線沿いの「おびの茶屋」。



写真EK: 「住居表示街区案内図」です。 絵地図があり酒谷川、飫肥も載(の)っています。



写真EL: 飫肥藩 伊東家 5万1千石の城下町、石垣と緑に囲まれた武家屋敷と書いてあります。



写真EM: 飫肥城下町の絵地図です。



写真EN: 日南市 飫肥にある宮崎交通のバス駐車場と建物です。 国道222号線沿いにあります。



写真EO: 建物の壁に「宮崎交通」と書いてあります。



写真EP: 国道222号線沿いに「商家資料館」があります。 脇(わき)に駐車場もあります。



写真EQ: 左は商家資料館です。 奥には「浄土真宗本願寺派 西秀山 空也寺」があります。



写真ER: 「有形文化財 建造物 商家資料館」です。 宮崎県 日南市 飫肥の国道222号線沿いにあります。



写真ES: 「有形文化財 建造物 商家資料館」です。 右に説明板もあります。



写真ET: 日南市 飫肥の国道222号線です。 右は商家資料館。
1977年(昭和52年)には飫肥城址と周辺の町並みが九州で初めての「重要伝統的建造物群保存地区」に選ばれました。



写真EU: 「有形文化財 建造物 商家資料館、昭和58年10月1日指定 日南市教育委員会」と書いてある標識棒があります。



写真EV: 「商家資料館」
 この資料館は飫肥本町「妹尾金物店」所有の旧家であったが国道拡張工事に伴う改築で取り壊されることになり、明治初期の旧式手法が施(ほどこ)されているため、惜(お)しむ声があり、当家の「久島元彦」氏の英断によって市へ寄付されたので、この地へ移転復元し商家資料館として後世に残すこととなったものである。
 木造平屋建 240平方メートル、間口 12 m、奥行き 20 m、家屋の高さ 15 m、内部2階構造 延べ面積 400 平方メートル、建材はすべて飫肥杉であり、商家が使った度量器具などが展示されており、我が国でも珍しい商家資料館である。
日南市観光協会
と書かれています。



写真EW: 「市指定文化財 昭和58年10月1日指定 建造物 商家資料館」の説明板です。
 本町は飫肥城下町における約400年前からの商人町である。
 とりわけ、明治時代以降は飫肥杉の取引や南宮崎の政治、経済の中心地として栄えてきた。 その繁栄を今に伝えるのが商家資料館である。
 この建物は、慶応2年(1866年)の本町大火後、明治3年(1870年)に本町の商人で山林地主であった山本五平が建てた。 木造一部2階建ての白漆喰(しっくい)の土蔵造りで、樹齢200年以上の飫肥杉がふんだんに使用されている。 本町の町屋は一般に間口が狭く、奥行きが深い。 この建物も玄関口は商売用で、奥に居住空間があり、通路としての土間が奥まで続いている。
 明治24年(1891年)には本町の素封家(そほうか、金持ち)高橋源次郎の所有となり、「正せん館」と名付けられて青年商工会の集会所や泰平踊り(たいへいおどり)練習所として使用された。 昭和3年(1928年)妹尾家がこれを買取り、金物屋を開いたが、昭和58年(1983年)に本町通りの拡幅に伴い、市が寄贈を受けて、旧 所在地から約60 m離(はな)れた反対側に移築、復元して商家資料館とした。
 館内には、江戸時代以降の本町商人が使用していた道具約250点を展示しており、商人の生活習慣を知る上で貴重な資料である。
と書かれています。
商家資料館の全景、内部の写真と飫肥の絵地図も載っています。



写真EX: 「市指定文化財 昭和58年10月1日指定 建造物 商家資料館」の説明板です。
 本町は飫肥城下町における約400年前からの商人町である。
 とりわけ、明治時代以降は飫肥杉の取引や南宮崎の政治、経済の中心地として栄えてきた。 その繁栄を今に伝えるのが商家資料館である。
 この建物は、慶応2年(1866年)の本町大火後、明治3年(1870年)に本町の商人で山林地主であった山本五平が建てた。 木造一部2階建ての白漆喰(しっくい)の土蔵造りで、樹齢200年以上の飫肥杉がふんだんに使用されている。 本町の町屋は一般に間口が狭く、奥行きが深い。 この建物も玄関口は商売用で、奥に居住空間があり、通路としての土間が奥まで続いている。
 明治24年(1891年)には本町の素封家(そほうか、金持ち)高橋源次郎の所有となり、「正せん館」と名付けられて青年商工会の集会所や泰平踊り(たいへいおどり)練習所として使用された。 昭和3年(1928年)妹尾家がこれを買取り、金物屋を開いたが、昭和58年(1983年)に本町通りの拡幅に伴い、市が寄贈を受けて、旧 所在地から約60 m離(はな)れた反対側に移築、復元して商家資料館とした。
 館内には、江戸時代以降の本町商人が使用していた道具約250点を展示しており、商人の生活習慣を知る上で貴重な資料である。
と書かれています。
商家資料館の全景、内部の写真と飫肥の絵地図も載っています。



写真EY: 「市指定文化財 昭和58年10月1日指定 建造物 商家資料館」の説明板です。
 本町は飫肥城下町における約400年前からの商人町である。
 とりわけ、明治時代以降は飫肥杉の取引や南宮崎の政治、経済の中心地として栄えてきた。 その繁栄を今に伝えるのが商家資料館である。
 この建物は、慶応2年(1866年)の本町大火後、明治3年(1870年)に本町の商人で山林地主であった山本五平が建てた。 木造一部2階建ての白漆喰(しっくい)の土蔵造りで、樹齢200年以上の飫肥杉がふんだんに使用されている。 本町の町屋は一般に間口が狭く、奥行きが深い。 この建物も玄関口は商売用で、奥に居住空間があり、通路としての土間が奥まで続いている。
 明治24年(1891年)には本町の素封家(そほうか、金持ち)高橋源次郎の所有となり、「正せん館」と名付けられて青年商工会の集会所や泰平踊り(たいへいおどり)練習所として使用された。 昭和3年(1928年)妹尾家がこれを買取り、金物屋を開いたが、昭和58年(1983年)に本町通りの拡幅に伴い、市が寄贈を受けて、旧 所在地から約60 m離(はな)れた反対側に移築、復元して商家資料館とした。
 館内には、江戸時代以降の本町商人が使用していた道具約250点を展示しており、商人の生活習慣を知る上で貴重な資料である。
と書かれています。
商家資料館の全景、内部の写真と飫肥の絵地図も載っています。



写真EZ: 「市指定文化財 昭和58年10月1日指定 建造物 商家資料館」の説明板です。
 本町は飫肥城下町における約400年前からの商人町である。
 とりわけ、明治時代以降は飫肥杉の取引や南宮崎の政治、経済の中心地として栄えてきた。 その繁栄を今に伝えるのが商家資料館である。
 この建物は、慶応2年(1866年)の本町大火後、明治3年(1870年)に本町の商人で山林地主であった山本五平が建てた。 木造一部2階建ての白漆喰(しっくい)の土蔵造りで、樹齢200年以上の飫肥杉がふんだんに使用されている。 本町の町屋は一般に間口が狭く、奥行きが深い。 この建物も玄関口は商売用で、奥に居住空間があり、通路としての土間が奥まで続いている。
 明治24年(1891年)には本町の素封家(そほうか、金持ち)高橋源次郎の所有となり、「正せん館」と名付けられて青年商工会の集会所や泰平踊り(たいへいおどり)練習所として使用された。 昭和3年(1928年)妹尾家がこれを買取り、金物屋を開いたが、昭和58年(1983年)に本町通りの拡幅に伴い、市が寄贈を受けて、旧 所在地から約60 m離(はな)れた反対側に移築、復元して商家資料館とした。
 館内には、江戸時代以降の本町商人が使用していた道具約250点を展示しており、商人の生活習慣を知る上で貴重な資料である。
と書かれています。
商家資料館の全景、内部の写真と飫肥の絵地図も載っています。



写真FA: 「有形文化財 建造物 商家資料館、昭和58年10月1日指定 日南市教育委員会」と書いてある標識棒があります。



写真FB: 「商家資料館」と書いてあります。



写真FC: 日南市 飫肥にある「商家資料館」の上部です。 しっくいの土蔵造りの構造がよく分かります。



写真FD: 日南市 飫肥にある「商家資料館」の上部。



写真FE: 日南市 飫肥にある「商家資料館」の下部です。 格子(こうし)が見えます。



写真FF: 「商家資料館」の看板(かんばん)があります。



写真FG: 「商家資料館」
 明治初年に山林業家 山本五兵衛が飫肥杉の巨木を使い江戸末期の純日本建築として建てた。 木造2階建て、日本瓦葺(かわらふき)、1階 227平方メートル、2階42平方メートル、土間は三和土(たたき、粘土・石灰・ニガリを混合したもの)で外壁に白漆喰(しっくい)塗りである。 所有者から市に寄贈されたものを現在地に移転修復した。 かっては本町商工会や商家として使用された建物で、本町では最も古い純日本建築物である。
昭和58年10月1日 日南市文化財(建造物)に指定した。
日南市教育委員会
と書いてあります。



写真FH: 右は商家資料館。 商家資料館の西側です。



写真FI: 右は商家資料館。 商家資料館の西側。



写真FJ: 「野中金右衛門: 明和5年(1768年)に飫肥原ノ迫の徒士格の家に生まれた。 先輩の石那田実右衛門の後をついて29歳で植木方となり、以来 飫肥杉の造林拡大に精魂を傾け、実績は大いに上がり、藩財力の蓄積に貢献した。 弘化3年(1846年)78歳で永眠した。 明治5年東京山林会から表彰を受け、その業績をたたえた巨大な顕彰碑が竹香園に建立されている。
小村西木: 寛永3年(1626年)飫肥藩士の家に生まれ、名を二郎兵衛といい出家して本町の空也寺(商家資料館の北東の隣りにあります。)に住み、飫肥俳壇の始祖として日向南部 俳壇隆盛の基礎を作った。 元禄以前に東北俳壇の雄、大淀三千風を尋ねている。 三千風の「倭漢田島集」(元禄14年刊)に句が出ている。
元禄5年(1692年)67歳で没した。 (大淀三千風は元禄15年 鵜戸(うど)で句を詠んでいる。)」
と書いてあります。



写真FK: 「野中金右衛門: 明和5年(1768年)に飫肥原ノ迫の徒士格の家に生まれた。 先輩の石那田実右衛門の後をついて29歳で植木方となり、以来 飫肥杉の造林拡大に精魂を傾け、実績は大いに上がり、藩財力の蓄積に貢献した。 弘化3年(1846年)78歳で永眠した。 明治5年東京山林会から表彰を受け、その業績をたたえた巨大な顕彰碑が竹香園に建立されている。
小村西木: 寛永3年(1626年)飫肥藩士の家に生まれ、名を二郎兵衛といい出家して本町の空也寺(商家資料館の北東の隣りにあります。)に住み、飫肥俳壇の始祖として日向南部 俳壇隆盛の基礎を作った。 元禄以前に東北俳壇の雄、大淀三千風を尋ねている。 三千風の「倭漢田島集」(元禄14年刊)に句が出ている。
元禄5年(1692年)67歳で没した。 (大淀三千風は元禄15年 鵜戸(うど)で句を詠んでいる。)」
と書いてあります。



写真FL: 「句碑」があります。



写真FM: 「→この奥に小村西木(左側)、(右側)に野中金右衛門の墓があります。」と書いてあります。



写真FN: 商家資料館の西側です。



写真FO: 商家資料館の裏(北)に小村西木(左側)、野中金右衛門(右側)の墓があります。
「野中金右衛門: 明和5年(1768年)に飫肥原ノ迫の徒士格の家に生まれた。 先輩の石那田実右衛門の後をついて29歳で植木方となり、以来 飫肥杉の造林拡大に精魂を傾け、実績は大いに上がり、藩財力の蓄積に貢献した。 弘化3年(1846年)78歳で永眠した。 明治5年東京山林会から表彰を受け、その業績をたたえた巨大な顕彰碑が竹香園に建立されている。
小村西木: 寛永3年(1626年)飫肥藩士の家に生まれ、名を二郎兵衛といい出家して本町の空也寺(商家資料館の北東の隣りにあります。)に住み、飫肥俳壇の始祖として日向南部 俳壇隆盛の基礎を作った。 元禄以前に東北俳壇の雄、大淀三千風を尋ねている。 三千風の「倭漢田島集」(元禄14年刊)に句が出ている。
元禄5年(1692年)67歳で没した。 (大淀三千風は元禄15年 鵜戸(うど)で句を詠んでいる。)」。



写真FP: 商家資料館の裏(北)に小村西木(左側)、野中金右衛門(右側)の墓があります。
「野中金右衛門: 明和5年(1768年)に飫肥原ノ迫の徒士格の家に生まれた。 先輩の石那田実右衛門の後をついて29歳で植木方となり、以来 飫肥杉の造林拡大に精魂を傾け、実績は大いに上がり、藩財力の蓄積に貢献した。 弘化3年(1846年)78歳で永眠した。 明治5年東京山林会から表彰を受け、その業績をたたえた巨大な顕彰碑が竹香園に建立されている。
小村西木: 寛永3年(1626年)飫肥藩士の家に生まれ、名を二郎兵衛といい出家して本町の空也寺(商家資料館の北東の隣りにあります。)に住み、飫肥俳壇の始祖として日向南部 俳壇隆盛の基礎を作った。 元禄以前に東北俳壇の雄、大淀三千風を尋ねている。 三千風の「倭漢田島集」(元禄14年刊)に句が出ている。
元禄5年(1692年)67歳で没した。 (大淀三千風は元禄15年 鵜戸(うど)で句を詠んでいる。)」。



写真FQ: 商家資料館の裏(北)の様子(ようす)です。



写真FR: 商家資料館の北側です。 2階建てになっています。



写真FS: 商家資料館の北側。



写真FT: 江戸時代初期の俳人 小村西木の墓です。 出家してそばの空也寺(商家資料館の北東の隣りにあります。)に住んでいました。



写真FU: 江戸時代末期の飫肥杉の林業家 野中金右衛門の墓です。



写真FV: 「浄土真宗本願寺派 西秀山 空也寺」と彫(ほ)ってある石があります。
出家して江戸時代初期の俳人 小村西木が住んでいました。



写真FW: 「浄土真宗本願寺派 西秀山 空也寺」です。
出家して江戸時代初期の俳人 小村西木が住んでいました。 日南市 飫肥 商家資料館のそばにある「浄土真宗本願寺派 西秀山 空也寺」。



写真FX: 右は商家資料館。 商家資料館の駐車場です。



写真FY: 「ノウゼンカズラの花」が咲いていました。



写真FZ: 「ノウゼンカズラの花」が咲いていました。



写真GA: 「住居表示街区案内図」です。 絵地図があり酒谷川、飫肥も載(の)っています。



写真GB: 「住居表示街区案内図」です。 絵地図があり酒谷川、飫肥も載(の)っています。



写真GC: 「本町 商人通り、 江戸時代には士農工商の別があり、幕末には「本町」に約120の商家が数えられた。 「本町」は後町馬場と前鶴馬場の武家屋敷にはさまれた「商人町」である。 かっては「本町駅」がおかれ都城、志布志に通じる街道筋(かいどうすじ)であった。 昭和54年から国道222号線の拡幅工事が始まり「本町通り研究会」の人の努力によって、城下町にふさわしい「商人町」の復元が完成し、白壁、日本瓦葺き(にほんがわらふき)の町並みが出来たことは、全国の都市計画関係者より注目を集めている。
日南市観光協会
飫肥城下町めぐりレンタサイクルコース No20
と書かれています。



写真GD: 格子(こうし)のある商家です。



写真GE: はじめの大手門から南に延びる車道に戻(もど)ってきました。 右先に小村寿太郎 誕生地があります。



写真GF: 飫肥城下町です。 先(北)に飫肥城の大手門があります。



写真GG: 格子(こうし)のある商家です。



写真GH: 格子(こうし)のある商家。



写真GI: 大手門交差点に戻(もど)ってきました。 先(北)に飫肥城の大手門があります。
奥の飫肥杉が見える山に飫肥城があります。



写真GJ: 北西を見たもの。 奥の飫肥杉が見える山に飫肥城があります。



写真GK: 北東を見たもの。 奥の飫肥杉が見える山に飫肥城があります。



写真GL: 交差点に「大手門」と書いてあります。 奥の飫肥杉が見える山に飫肥城があります。



写真GM: 飫肥の町の様子(ようす)です。



写真GN: おび天蔵に戻(もど)ってきました。
平成6年(1994年)おび天本舗に所有権が移転し、ほぼ元の姿に再建された。 飫肥城下に残る唯一の「長倉」でかつ飫肥藩の役所としても唯一残された建物です。



写真GO: 「長倉の歴史について」の説明板です。
おび天蔵の建物の説明です。
・・・平成6年(1994年)おび天本舗に所有権が移転し、ほぼ元の姿に再建された。 飫肥城下に残る唯一の「長倉」でかつ飫肥藩の役所としても唯一残された建物である。
日南市教育委員会、株式会社 元祖おび天本舗、おび天蔵
と書いてあります。



写真GP: 「長倉の歴史について」の説明板です。
おび天蔵の建物の説明です。
・・・平成6年(1994年)おび天本舗に所有権が移転し、ほぼ元の姿に再建された。 飫肥城下に残る唯一の「長倉」でかつ飫肥藩の役所としても唯一残された建物である。
日南市教育委員会、株式会社 元祖おび天本舗、おび天蔵
と書いてあります。



写真GQ: 「長倉の歴史について」の説明板です。
おび天蔵の建物の説明です。
・・・平成6年(1994年)おび天本舗に所有権が移転し、ほぼ元の姿に再建された。 飫肥城下に残る唯一の「長倉」でかつ飫肥藩の役所としても唯一残された建物である。
日南市教育委員会、株式会社 元祖おび天本舗、おび天蔵
と書いてあります。



by 南陽彰悟 (NANYO Shogo)