野尻城跡 (野尻城址) (小林市指定史跡 野尻城 井戸跡、小林市文化財 木ノ下丁中(現 東仲町) 六地蔵塔 (六面のうち1面にしか地蔵像がない)、光運寺、霧島連山の展望)  (宮崎県 小林市 野尻町 大字東麓)







<標高、位置>  野尻城跡(のじりじょうあと)は
標高 約170 m
 北緯31度57分06秒  東経131度05分46秒

<標高、位置>  木ノ下丁中 (現 東仲町) 六地蔵塔は
標高 約120 m
 北緯31度57分28秒  東経131度06分09秒


 「野尻城跡」は宮崎県 小林市 野尻町 大字東麓 字牟田原、野首にあります。
 「市指定史跡 野尻城 井戸跡」の説明板から、
 野尻城は、室町時代末期、伊東48城の一つであった。 中世の山城であるが、城の創建は詳(つまび)らかでない。
 城ノ下川に囲まれ、断崖絶壁に挟(はさ)まれた難攻不落の城である。 城郭(じょうかく)は西北部の本丸と東南部の二の丸があった。 この井戸は本丸跡の古井戸である。 
 元亀3年(1572年)木崎原合戦で大敗した伊東 氏は、三ツ山城(小林)、高原城など諸城を失い、その後 野尻城は、重要な最前線基地となる。 この城の城主 福永 丹波守を中傷する薩摩方の策謀がつづき「丹波守は島津に内通し謀叛(むほん)の動きがある」といつわりの落し文(ぶみ)が佐土原城下(当時は伊東の城下町でした。)にまかれた。 それを信じた伊東義祐は、最前線の重臣の意見をことごとくしりぞけた。 身の危険を感じた丹波守は、意を決して、天正5年(1577年)12月7日 島津の兵を城内に引き入れた。 翌8日以降には戸崎城、紙屋城など48城のほとんどが叛したので、伊東義祐は遂に日向(宮崎)を捨て豊後(ぶんご、大分県)の大友宗麟(おおともそうりん)をたよって(米良越えをして)逃走した。
 その後 薩摩領となったが元和元年(1615年) 江戸幕府の「一国一城の制」により廃城となる。
 平成元年11月14日「野尻町文化財」として指定された。
天正4年(1576年)、高原城は島津 氏によって落城させられ、島津の家臣 上原尚近が高原城主になりました。 福永が島津に密通しているという偽(にせ)の落し文を佐土原にばらまいたのはこの上原尚近です。
 野尻城の創建ははっきりしませんが、伊東の城になる前には延元4年(1339年)に三俣院の高城が畠山直顕によって攻められたときに、城主の肝付兼重が落城の10日前に城を脱出して「野尻城」に入りました。 その後、文明6年(1474年)に北原 氏の8代 北原貴兼の城となりました。 さらにその後、伊東 氏が北原 氏の領地を奪ったときに野尻城は伊東 氏のものとなり、伊東48城の一つとなりました。 伊東の家臣 福永丹波守が謀反(むほん)を起こしてから、伊東義祐が米良越えをして逃走するまでわずか4日間しか経(た)っていません。 後、島津 氏の城になり、島津義弘も来たことがあります。 島津の家臣 市来美作守、敷根頼豊が野尻城主となりました。 江戸時代の「一国一城令」で廃城になりました。 少なくとも276年間は野尻城はありました。

 1577年(天正5年)12月7日に伊東の家臣で野尻城の城主だった福永 丹波守(祐友)が島津に寝返ると、戸崎城の城主だった漆野(うるしの)豊前守は島津に攻められて北に逃れ戸崎城は落城しました(野尻城の落城の翌日です。)。 紙屋城の城主だった米良主税助(福永祐友の縁戚(えんせき))、内山城(高岡城、高岡町の後の天ヶ城のことです。)の城主だった野村刑部少輔(文綱、(福永祐友の縁戚(えんせき))も島津に寝返り、野尻城落城の翌日には紙屋城も島津の城となりました。 この野尻城、戸崎城、紙屋城、内山城(高岡城)の落城が伊東の没落を急激に加速しました。 12月7日に野尻城が落城し、都於郡城(とのこおりじょう、西都市にあります。)と佐土原城(さどわらじょう、宮崎市)の伊東義祐が豊後(ぶんご、大分県)落ちに出発したのは同年12月9日でした。 野尻城落城からわずか2日後です。

 島津家薩摩藩(77万石)は、1615年の一国一城令で、鶴丸城だけ残して他の城は壊(こわ)しました。 代わりに外城(とじょう)と呼(よ)ばれる麓(ふもと)を置きました。 地頭仮屋(あるいは御仮屋)と呼ばれる在地役所を中心にして、そのまわりに石垣(いしがき)、イヌマキの生垣の郷士(ごうし)屋敷の集落を造りました(郷士は普段は農業を行ない、有事の時には戦う武士です。 私領地では郷士ではなく家中士と呼ばれました。)。 地頭や私領主は鹿児島城下に住みました。 各地の行政執行は麓3役といわれる郷士年寄、組頭、横目が行いました。 「野町」と呼ばれる町人町は麓のそばに造られました。 今でも「麓」の地名、馬術教練を行う「馬場」という地名が残っています。 薩摩藩の外城は島津宗家直轄の地頭所が90ヵ所、島津一門や重臣の私領地が21ヵ所ありました。 薩摩藩はキリスト教、一向宗(浄土真宗)を禁止しました。 租税(そぜい)は8公2民(普通は4公6民)と重税でした。
薩摩藩の日向国(ほぼ宮崎県)の「郷」は、馬関田郷、吉田郷、加久藤郷、飯野郷、小林郷、野尻郷、高岡郷、穆佐郷(むかさごう)、倉岡郷、高原郷、高崎郷、高城郷、都城郷、須木郷、綾郷、山之口郷、勝岡郷、庄内郷、松山郷、志布志郷、大崎郷がありました。 計21郷でした。 すべて諸県郡に属します。 これとは別に、佐土原島津藩が宮崎市 佐土原町にありました。 佐土原島津藩は薩摩藩とは別に江戸への参勤交代を行なっていました。

 「木ノ下丁中(現 東仲町) 六地蔵塔」は、宮崎県 小林市 野尻町 東仲町にあります。
上部の6面の1面だけ地蔵像があり、他の5面には梵語(ぼんご、サンスクリット語)が彫(ほ)ってあります。


写真A: 国道268号線です。 小林市 野尻町 「東仲町」 交差点です。 宮崎県 小林市 野尻町 大字東麓 1 に「光運寺」があります。 浄土真宗 本願寺派のお寺です。
右に行くと東麓石窟仏、宮崎市、野尻コピア、左に行くと庄内の乱の伊集院源次郎忠真の供養塔、小林市の中心部があります。



写真B: 宮崎県 小林市 野尻町 大字東麓 1 に「浄叡山 光運寺」があります。 浄土真宗 本願寺派のお寺です。



写真C: 宮崎県 小林市 野尻町 「東仲町」 交差点です。 野尻城跡(のじりじょうあと)に行くにはここを南(左)に曲がり、県道42号線を進みます。



写真D: 小林市 野尻町 「東仲町」 交差点です。 野尻城跡に行くにはここを南(左)に曲がり、県道42号線を進みます。 右の角には光運寺が見えています。



写真E: 「←2 km 小林市有形文化財 野尻城 井戸跡」、「←1 km 東麓磨崖仏」の標識が東仲町 交差点にあります。



写真F: ここを左(南)に曲がります。 東仲町 交差点です。



写真G: 国道268号線を挟(はさ)んで光運寺の向かい側に六地蔵塔(ろくじぞうとう)があります。 「木ノ下丁中(現 東仲町) 六地蔵塔」です。
上部の6面の1面だけ地蔵像があり、他の5面には梵語(ぼんご、サンスクリット語)が彫(ほ)ってあります。



写真H: 国道268号線の東仲町 交差点に「小林市 文化財 木ノ下丁中(現 東仲町) 六地蔵塔」と書いてある標識があります。



写真I: 宮崎県 小林市 野尻町にある「木ノ下丁中(現 東仲町) 六地蔵塔」です。
上部に地蔵像が彫(ほ)ってあります。 上部の6面の1面だけ地蔵像があり、他の5面には梵語(ぼんご、サンスクリット語)が彫(ほ)ってあります。



写真J: 野尻町の六地蔵塔の地蔵像です。 上部の6面の1面だけ地蔵像があり、他の5面には梵語(ぼんご、サンスクリット語)が彫(ほ)ってあります。



写真K: 野尻町の六地蔵塔の中部。
「奉造立 木下丁中」と彫(ほ)ってあります。



写真L: 国道268号線沿(ぞ)いにある野尻町の六地蔵塔の中部。
「奉造立 木下丁中」と彫(ほ)ってあります。



写真M: 野尻町の六地蔵塔の下部。
「奉造立 木下丁中」と彫(ほ)ってあります。



写真N: こちらの面には地蔵像がありません。 普通は6面に地蔵像があるので六地蔵塔と呼ばれています。
上部の6面の1面だけ地蔵像があり、他の5面には梵語(ぼんご、サンスクリット語)が彫(ほ)ってあります。



写真O: 小林市 野尻町の六地蔵塔の下部です。



写真P: 後ろから見た六地蔵塔。 こちらの面にも地蔵像がありません。
上部の6面の1面だけ地蔵像があり、他の5面には梵語(ぼんご、サンスクリット語)が彫(ほ)ってあります。



写真Q: 野尻町の国道268号線沿いにある六地蔵塔の下部です。



写真R: こちらの面にも地蔵像がなく、梵語(ぼんご、サンスクリット語)が書いてあります。
上部の6面の1面だけ地蔵像があり、他の5面には梵語(ぼんご、サンスクリット語)が彫(ほ)ってあります。



写真S: 野尻町の六地蔵塔の下部。



写真T: 国道268号線の十字路に「小林市 東仲町」の標識があります。



写真U: 六地蔵塔がある十字路を南に行く道(県道42号線(都城-野尻 線))です。 これを先(南)に行くと「野尻城跡(のじりじょうあと)」があります。



写真V: 野尻城跡に行く途中の県道42号線です。この辺りの左右に城之下川が右から左に流れています。 城之下川は野尻湖に流れ込みます。 「「野尻城」は城之下川の南岸にある山の上にあります。 先に小さく見えている車の付近の三叉路(さんさろ)から右(西)へ曲がります。



写真W: 西側の木の間に川の水面が見えています。 これが城之下川です。 県道42号線から見たもの。



写真X: 西側の木の間に川の水面が見えています。 これが城之下川です。 県道42号線から見たもの。



写真Y: この三叉路(さんさろ)から右(西)に曲がって野尻城跡に行きます。



写真Z: この三叉路(さんさろ)から右(西)に曲がって野尻城跡に行きます。 「市指定 史跡 野尻城 井戸跡 1400 m→」の標識があります。



写真AA: 三叉路(さんさろ)にある「市指定 史跡 野尻城 井戸跡 1400 m←」の標識。



写真AB: 来た県道42号線を振り返ったもの。 左から右へ城之下川が流れています。 県道の下は水が流れるトンネルになっているようです。



写真AC: 「野尻城跡」に行くには、ここを右に入ります。 左は県道42号線で、先は都城に行きます。



写真AD: ここを右に入ります。 左は県道42号線。



写真AE: しばらく行くと橋があります。 野首川にかかる城ノ下橋です。 昭和49年3月竣工(完成)です。



写真AF: 「城ノ下橋」と書いてあります。



写真AG: 「昭和49年3月 野尻町建造 通示(1974年)2等橋 橋長 21.44 m、幅員 5.50 m、施工 株式会社 山本組」と橋に書いてあります。



写真AH: 「野尻城跡」の近くにある野首川の城ノ下橋から下を見たもの。 野首川の水面が見えています。



写真AI: 「昭和49年3月竣工(しゅんこう)」と橋に書いてあります。



写真AJ: 「野首川」と橋に書いてあります。



写真AK: 「じょうのしたはし」と橋に書いてあります。



写真AL: 「野尻城跡」の近くにある城ノ下橋から野首川を見たもの。



写真AM: 「野尻城跡」に行く途中の城ノ下橋です。



写真AN: このあたりは上り坂になっています。



写真AO: シラス(大隅、薩摩半島、都城付近に分布する火山灰、軽石の層のことです。 白砂と書きます。)を採取した場所です。 山を崩(くず)して、シラスの白い崖(がけ)が見えています。 下は広場になっています。 手前に花壇(かだん)があります。 この山の上に野尻城跡があります。



写真AP: シラス(大隅、薩摩半島、都城付近に分布する火山灰、軽石の層のことです。 白砂と書きます。)を採取した場所です。 山を崩(くず)して、シラスの白い崖(がけ)が見えています。 下は広場になっています。 手前に花壇(かだん)があります。 この山の上に野尻城跡があります。



写真AQ: シラス(大隅、薩摩半島、都城付近に分布する火山灰、軽石の層のことです。 白砂と書きます。)を採取した場所です。 山を崩(くず)して、シラスの白い崖(がけ)が見えています。 下は広場になっています。 手前に花壇(かだん)があります。



写真AR: 花壇(かだん)に「川間地区環境保全協同活動協議会 景観形成」と書いた看板(かんばん)があります。



写真AS: シラス(大隅、薩摩半島、都城付近に分布する火山灰、軽石の層のことです。 白砂と書きます。)を採取した場所です。 山を崩(くず)して、シラスの白い崖(がけ)が見えています。 下は広場になっています。 ドラム缶(かん)が2本見えています。 この山の上に野尻城跡があります。



写真AT: シラス(大隅、薩摩半島、都城付近に分布する火山灰、軽石の層のことです。 白砂と書きます。)を採取した場所です。 山を崩(くず)して、シラスの白い崖(がけ)が見えています。 下は広場になっています。 ドラム缶(かん)が2本見えています。 この山の上に野尻城跡があります。



写真AU: 野尻城跡へは、この道を登っていきます。 右はシラス採取場。



写真AV: 野尻城跡へは、この三叉路(さんさろ)をV字型に右に行きます。 ガードレールのある細い道を右手前に進みます。



写真AW: 来た車道を振り返ったもの。 建物が見えます。 野尻城跡へは、左のガードレールの細い道を先に進みます。



写真AX: 東方向を見た景色です。



写真AY: この三叉路(さんさろ)をV字型に右に行きます。 「野尻城址(のじりじょうし)まで あと400 m→」と書いた看板(かんばん)があります。



写真AZ: 野尻城跡に行く三叉路ふきんから西を見た景色。 霧島連山が見えています。



写真BA: 三叉路にある「野尻城址(のじりじょうし)まで あと400 m→」と書いた看板(かんばん)。



写真BB: 野尻城址(野尻城跡)へは、この左の細い道を奥(東)に進みます。 左の道の奥に農作業の軽トラックと農家の人達がいらっしゃいました。



写真BC: キツネノボタンの花が咲いていました。



写真BD: キツネノボタンの突起(とっき)がある実です。



写真BE: ここからは歩いて行きました。 この辺(あた)りの左は牧草地になっています。



写真BF: 野尻城の近くの道です。 東に進みます。



写真BG: 野尻城への道のそばは牧草が植えてある畑で、奥は木が生えています。



写真BH: 歩いてきた道を振り返ったもの。 ガードレールが見えています。



写真BI: もうすぐ野尻城址です。



写真BJ: モウソウ竹の竹林があります。



写真BK: ここは尾根になっています。 左右が谷のようです。



写真BL: ここが宮崎県 小林市 野尻町にある「野尻城跡(野尻城址)」です。 中央奥に野尻城跡の標識棒と説明板が小さく見えています。 東方向を見た景色です。 「野尻城跡」は宮崎県 小林市 野尻町 大字東麓 字牟田原、野首にあります。



写真BM: 野尻城跡は牧草が植えてある畑になっています。 北を見たもの。



写真BN: 歩いてきた道を振り返ったもの。



写真BO: 小林市 野尻町にある「野尻城跡(野尻城址)」です。 中央奥に野尻城跡の標識棒と説明板が小さく見えています。 東方向を見た景色です。



写真BP: 宮崎県 小林市 野尻町にある「野尻城跡(野尻城址)」です。 中央に野尻城跡の標識棒と説明板が見えています。
天正4年(1576年)、高原城は島津 氏によって落城させられ、島津の家臣 上原尚近が高原城主になりました。 福永が島津に密通しているという偽(にせ)の落し文を佐土原にばらまいたのはこの上原尚近です。
 野尻城の創建ははっきりしませんが、伊東の城になる前には延元4年(1339年)に三俣院の高城が畠山直顕によって攻められたときに、城主の肝付兼重が落城の10日前に城を脱出して「野尻城」に入りました。 その後、文明6年(1474年)に北原 氏の8代 北原貴兼の城となりました。 さらにその後、伊東 氏が北原 氏の領地を奪ったときに野尻城は伊東 氏のものとなり、伊東48城の一つとなりました。 伊東の家臣 福永丹波守が謀反(むほん)を起こしてから、伊東義祐が米良越えをして逃走するまでわずか4日間しか経(た)っていません。 後、島津 氏の城になり、島津義弘も来たことがあります。 島津の家臣 市来美作守、敷根頼豊が野尻城主となりました。 江戸時代の「一国一城令」で廃城になりました。 少なくとも276年間は野尻城はありました。



写真BQ: 小林市 野尻町にある「野尻城跡(野尻城址)」です。 牧草地の一部が刈り取られていました。 右は竹林になっています。 南東を見たもの。



写真BR: 小林市 野尻町にある「野尻城跡(野尻城址)」です。 牧草地になっています。 東方向を見た景色です。
天正4年(1576年)、高原城は島津 氏によって落城させられ、島津の家臣 上原尚近が高原城主になりました。 福永が島津に密通しているという偽(にせ)の落し文を佐土原にばらまいたのはこの上原尚近です。
 野尻城の創建ははっきりしませんが、伊東の城になる前には延元4年(1339年)に三俣院の高城が畠山直顕によって攻められたときに、城主の肝付兼重が落城の10日前に城を脱出して「野尻城」に入りました。 その後、文明6年(1474年)に北原 氏の8代 北原貴兼の城となりました。 さらにその後、伊東 氏が北原 氏の領地を奪ったときに野尻城は伊東 氏のものとなり、伊東48城の一つとなりました。 伊東の家臣 福永丹波守が謀反(むほん)を起こしてから、伊東義祐が米良越えをして逃走するまでわずか4日間しか経(た)っていません。 後、島津 氏の城になり、島津義弘も来たことがあります。 島津の家臣 市来美作守、敷根頼豊が野尻城主となりました。 江戸時代の「一国一城令」で廃城になりました。 少なくとも276年間は野尻城はありました。



写真BS: 宮崎県 小林市 野尻町にある「野尻城跡(野尻城址)」です。 牧草地になっています。 「野尻城跡」は宮崎県 小林市 野尻町 大字東麓 字牟田原、野首にあります。



写真BT: 小林市 野尻町にある「野尻城跡(野尻城址)」です。 牧草が刈(か)り取られたところもありました。 北を見たもの。



写真BU: 小林市 野尻町にある「野尻城跡(野尻城址)」です。 北西を見たもの。



写真BV: 宮崎県 小林市 野尻町にある「野尻城跡(野尻城址)」です。 立派な井戸跡が見えています。 「井戸跡」は野尻城の時のものです。
天正4年(1576年)、高原城は島津 氏によって落城させられ、島津の家臣 上原尚近が高原城主になりました。 福永が島津に密通しているという偽(にせ)の落し文を佐土原にばらまいたのはこの上原尚近です。
 野尻城の創建ははっきりしませんが、伊東の城になる前には延元4年(1339年)に三俣院の高城が畠山直顕によって攻められたときに、城主の肝付兼重が落城の10日前に城を脱出して「野尻城」に入りました。 その後、文明6年(1474年)に北原 氏の8代 北原貴兼の城となりました。 さらにその後、伊東 氏が北原 氏の領地を奪ったときに野尻城は伊東 氏のものとなり、伊東48城の一つとなりました。 伊東の家臣 福永丹波守が謀反(むほん)を起こしてから、伊東義祐が米良越えをして逃走するまでわずか4日間しか経(た)っていません。 後、島津 氏の城になり、島津義弘も来たことがあります。 島津の家臣 市来美作守、敷根頼豊が野尻城主となりました。 江戸時代の「一国一城令」で廃城になりました。 少なくとも276年間は野尻城はありました。



写真BW: 「町指定史跡 野尻城井戸跡 小林市教育委員会 指定年月日 平成元年11月14日」と書いてある標識棒があります。
「野尻城跡」は宮崎県 小林市 野尻町 大字東麓 字牟田原、野首にあります。



写真BX: 野尻城跡の井戸跡から東を見たもの。



写真BY: 宮崎県 小林市 野尻町の野尻城跡にある井戸跡の中です。 草も見えます。



写真BZ: 小林市 野尻町の野尻城跡にある井戸跡の中。



写真CA: 小林市 野尻町の野尻城跡にある井戸跡の縁(ふち)の石です。 立派な石が使われています。



写真CB: 野尻城址の井戸と説明板です。



写真CC: 野尻城跡の井戸と説明板。



写真CD: 野尻城址の井戸のそばです。



写真CE: 井戸跡から西を見た景色。



写真CF: 井戸跡から西を見た様子(ようす)。



写真CG: 井戸跡から南西を見たもの。



写真CH: 井戸跡から南を見た様子(ようす)。



写真CI: 井戸跡から東を見た様子(ようす)。



写真CJ: 野尻城址の井戸。



写真CK: 野尻城跡の井戸。



写真CL: 説明板が井戸のそばにあります。



写真CM: 井戸跡から北西を見たもの。 牧草が刈(か)り取られていました。



写真CN: 野尻城址の井戸跡から西を見た景色。



写真CO: 野尻城址の井戸から南西を見たもの。



写真CP: 「市指定史跡 野尻城 井戸跡」の説明板。
 野尻城は、室町時代末期、伊東48城の一つであった。 中世の山城であるが、城の創建は詳(つまび)らかでない。
 城ノ下川に囲まれ、断崖絶壁に挟(はさ)まれた難攻不落の城である。 城郭(じょうかく)は西北部の本丸と東南部の二の丸があった。 この井戸は本丸跡の古井戸である。 
 元亀3年(1572年)木崎原合戦で大敗した伊東 氏は、三ツ山城(小林)、高原城など諸城を失い、その後 野尻城は、重要な最前線基地となる。 この城の城主 福永 丹波守を中傷する薩摩方の策謀がつづき「丹波守は島津に内通し謀叛(むほん)の動きがある」といつわりの落し文(ぶみ)が佐土原城下(当時は伊東の城下町でした。)にまかれた。 それを信じた伊東義祐は、最前線の重臣の意見をことごとくしりぞけた。 身の危険を感じた丹波守は、意を決して、天正5年(1577年)12月7日 島津の兵を城内に引き入れた。 翌8日以降には戸崎城、紙屋城など48城のほとんどが叛したので、伊東義祐は遂に日向(宮崎)を捨て豊後(ぶんご、大分県)の大友宗麟(おおともそうりん)をたよって(米良越えをして)逃走した。
 その後 薩摩領となったが元和元年(1615年) 江戸幕府の「一国一城の制」により廃城となる。
 平成元年11月14日「野尻町文化財」として指定された。
小林市教育委員会
と書かれています。



写真CQ: 「市指定史跡 野尻城 井戸跡」の説明板。
 野尻城は、室町時代末期、伊東48城の一つであった。 中世の山城であるが、城の創建は詳(つまび)らかでない。
 城ノ下川に囲まれ、断崖絶壁に挟(はさ)まれた難攻不落の城である。 城郭(じょうかく)は西北部の本丸と東南部の二の丸があった。 この井戸は本丸跡の古井戸である。 
 元亀3年(1572年)木崎原合戦で大敗した伊東 氏は、三ツ山城(小林)、高原城など諸城を失い、その後 野尻城は、重要な最前線基地となる。 この城の城主 福永 丹波守を中傷する薩摩方の策謀がつづき「丹波守は島津に内通し謀叛(むほん)の動きがある」といつわりの落し文(ぶみ)が佐土原城下(当時は伊東の城下町でした。)にまかれた。 それを信じた伊東義祐は、最前線の重臣の意見をことごとくしりぞけた。 身の危険を感じた丹波守は、意を決して、天正5年(1577年)12月7日 島津の兵を城内に引き入れた。 翌8日以降には戸崎城、紙屋城など48城のほとんどが叛したので、伊東義祐は遂に日向(宮崎)を捨て豊後(ぶんご、大分県)の大友宗麟(おおともそうりん)をたよって(米良越えをして)逃走した。
 その後 薩摩領となったが元和元年(1615年) 江戸幕府の「一国一城の制」により廃城となる。
 平成元年11月14日「野尻町文化財」として指定された。
小林市教育委員会
と書かれています。



写真CR: 「市指定史跡 野尻城 井戸跡」の説明板。
 野尻城は、室町時代末期、伊東48城の一つであった。 中世の山城であるが、城の創建は詳(つまび)らかでない。
 城ノ下川に囲まれ、断崖絶壁に挟(はさ)まれた難攻不落の城である。 城郭(じょうかく)は西北部の本丸と東南部の二の丸があった。 この井戸は本丸跡の古井戸である。 
 元亀3年(1572年)木崎原合戦で大敗した伊東 氏は、三ツ山城(小林)、高原城など諸城を失い、その後 野尻城は、重要な最前線基地となる。 この城の城主 福永 丹波守を中傷する薩摩方の策謀がつづき「丹波守は島津に内通し謀叛(むほん)の動きがある」といつわりの落し文(ぶみ)が佐土原城下(当時は伊東の城下町でした。)にまかれた。 それを信じた伊東義祐は、最前線の重臣の意見をことごとくしりぞけた。 身の危険を感じた丹波守は、意を決して、天正5年(1577年)12月7日 島津の兵を城内に引き入れた。 翌8日以降には戸崎城、紙屋城など48城のほとんどが叛したので、伊東義祐は遂に日向(宮崎)を捨て豊後(ぶんご、大分県)の大友宗麟(おおともそうりん)をたよって(米良越えをして)逃走した。
 その後 薩摩領となったが元和元年(1615年) 江戸幕府の「一国一城の制」により廃城となる。
 平成元年11月14日「野尻町文化財」として指定された。
小林市教育委員会
と書かれています。



写真CS: 説明板の裏付近です。 東を見たもの。



写真CT: 小林市 野尻町の野尻城跡 の古井戸です。 南東を見たもの。
「野尻城跡」は宮崎県 小林市 野尻町 大字東麓 字牟田原、野首にあります。



写真CU: 野尻城跡。 南を見たもの。 山と遠くの家が見えます。 手前は牧草地です。



写真CV: 野尻城跡。 北を見たもの。 山が見えます。 手前は牧草が植えてある畑です。



写真CW: 野尻城址の古井戸です。 南西を見たもの。



写真CX: 宮崎県 小林市 野尻町にある野尻城址の井戸跡。



写真CY: 小林市 野尻町の野尻城跡。 東を見た景色です。



写真CZ: 小林市 野尻町にある野尻城 井戸跡です。



写真DA: 古井戸から東方向を見た景色です。



写真DB: 「ハルジオンの花」が咲いていました。



写真DC: 古井戸の東方向に三叉路(さんさろ)があります。 ここも野尻城跡です。
「野尻城跡」は宮崎県 小林市 野尻町 大字東麓 字牟田原、野首にあります。



写真DD: 三叉路(さんさろ)から北を見たもの。



写真DE: 三叉路から南を見たもの。 この奥に「城郭入口(じょうかくいりぐち)」があります。 これは古い登城路と思われます。



写真DF: 「城郭入口(じょうかくいりぐち)」の近くです。 「城郭入口(じょうかくいりぐち)」と書いた標識棒が道の奥に小さく見えます。 これは古い登城路と思われます。



写真DG: 牧草が刈(か)り取られたところもありました。 南西を見たもの。



写真DH: 「城郭入口(じょうかくいりぐち)」の近くです。 「城郭入口(じょうかくいりぐち)」と書いた標識棒が見えます。 これは古い登城路と思われます。 「野尻城跡」は宮崎県 小林市 野尻町 大字東麓 字牟田原、野首にあります。



写真DI: 「城郭入口(じょうかくいりぐち)」と書いた標識棒があります。 これは古い登城路と思われます。
天正4年(1576年)、高原城は島津 氏によって落城させられ、島津の家臣 上原尚近が高原城主になりました。 福永が島津に密通しているという偽(にせ)の落し文を佐土原にばらまいたのはこの上原尚近です。
 野尻城の創建ははっきりしませんが、伊東の城になる前には延元4年(1339年)に三俣院の高城が畠山直顕によって攻められたときに、城主の肝付兼重が落城の10日前に城を脱出して「野尻城」に入りました。 その後、文明6年(1474年)に北原 氏の8代 北原貴兼の城となりました。 さらにその後、伊東 氏が北原 氏の領地を奪ったときに野尻城は伊東 氏のものとなり、伊東48城の一つとなりました。 伊東の家臣 福永丹波守が謀反(むほん)を起こしてから、伊東義祐が米良越えをして逃走するまでわずか4日間しか経(た)っていません。 後、島津 氏の城になり、島津義弘も来たことがあります。 島津の家臣 市来美作守、敷根頼豊が野尻城主となりました。 江戸時代の「一国一城令」で廃城になりました。 少なくとも276年間は野尻城はありました。



写真DJ: 「城郭入口(じょうかくいりぐち)」と書いた標識棒があります。 これは古い登城路と思われます。



写真DK: 「城郭入口(じょうかくいりぐち)」と書いた標識棒の近くです。 これは古い登城路と思われます。



写真DL: 「ノイバラの花」が咲いていました。



写真DM: 「ノイバラの花」です。



写真DN: 始めに来た道を車のほうに戻(もど)ります。



写真DO: この辺(あた)りは尾根になっています。 北方向は谷になっています。 「空堀(からぼり、水のない堀)」かもしれません。
天正4年(1576年)、高原城は島津 氏によって落城させられ、島津の家臣 上原尚近が高原城主になりました。 福永が島津に密通しているという偽(にせ)の落し文を佐土原にばらまいたのはこの上原尚近です。
 野尻城の創建ははっきりしませんが、伊東の城になる前には延元4年(1339年)に三俣院の高城が畠山直顕によって攻められたときに、城主の肝付兼重が落城の10日前に城を脱出して「野尻城」に入りました。 その後、文明6年(1474年)に北原 氏の8代 北原貴兼の城となりました。 さらにその後、伊東 氏が北原 氏の領地を奪ったときに野尻城は伊東 氏のものとなり、伊東48城の一つとなりました。 伊東の家臣 福永丹波守が謀反(むほん)を起こしてから、伊東義祐が米良越えをして逃走するまでわずか4日間しか経(た)っていません。 後、島津 氏の城になり、島津義弘も来たことがあります。 島津の家臣 市来美作守、敷根頼豊が野尻城主となりました。 江戸時代の「一国一城令」で廃城になりました。 少なくとも276年間は野尻城はありました。



写真DP: この辺(あた)りは尾根になっています。 南方向も谷になっています。 「空堀(からぼり、水のない堀)」かもしれません。



写真DQ: 始めに来た道を戻(もど)ります。



写真DR: 「スカンポ(スイバ)の花」がありました。



写真DS: 南側の遠くに送電線鉄塔が見えています。



写真DT: 野尻城跡の方向を見た景色です。



写真DU: 東方向を見た景色。



写真DV: 北を見たもの。 牧草地です。



写真DW: 北方向の景色です。



写真DX: 西方向を見た景色。



写真DY: 西に向かって戻(もど)ります。



写真DZ: 牧草地と反対はこのようになっています。



写真EA: 振り返ったもの。



写真EB: 「牧草」です。



写真EC: もうすぐ車のところに戻(もど)ります。



写真ED: ガードレールの所に戻りました。 西遠くに薄く霧島連山も見えています。



写真EE: このあたりには畑があります。 えんどう豆も育っていました。



写真EF: 始めの三叉路(さんさろ)に戻りました。



写真EG: 車のところに戻(もど)りました。



写真EH: 「←野尻城址まであと400 m」の標識です。



写真EI: 三叉路(さんさろ)付近。



写真EJ: 野尻城址は左奥にあります。



by 南陽彰悟 (NANYO Shogo)