穆佐城跡 (むかさじょうあと、穆佐院 高城、六笠城)、島津久豊、市指定天然記念物 島津忠国 誕生杉 (国指定史跡 穆佐城跡、穆佐院政所 (むかさいんまんどころ)、足利尊氏の所領、足利尊氏が派遣した日向国守護 畠山直顕(はたけやまただあき)が穆佐城を拠点として大隅国まで勢力を拡大(南北朝時代は日向国守護の城で、この頃は「今の県庁」に当たるものが穆佐城跡にありました。)、島津の当主になった島津忠国が生まれた城、東側登城口、北側登城口、穆佐院、穆佐郷、麓川、穆佐護国神社、穆佐稲荷神社、高木兼寛 誕生地、(穆佐小学校跡は地頭仮屋跡です。)穆佐小学校跡、麓公民館 (麓営農研修施設))  (宮崎県 宮崎市 高岡町 小山田 字麓)







<標高、位置>  穆佐城跡(むかさじょうあと)の登城口(東口)は
標高 約10 m
 北緯31度56分01秒  東経131度19分35秒

<標高、位置>  穆佐城跡の登城口(北口)は
標高 約20 m
 北緯31度56分01秒  東経131度19分20秒

<標高、位置>  穆佐護国神社は
標高 約20 m
 北緯31度56分02秒  東経131度19分33秒

<標高、位置>  穆佐城跡 (むかさじょうあと)は
標高 約50 m
 北緯31度56分03秒  東経131度19分29秒

<標高、位置>  穆佐小学校跡 (地頭仮屋跡)は
標高 約10 m
 北緯31度56分00秒  東経131度19分36秒

<標高、位置>  高木兼寛 誕生地は
標高 約40 m
 北緯31度56分00秒  東経131度19分13秒


 穆佐城跡 (むかさじょうあと)は宮崎県 宮崎市 高岡町 小山田 字麓にあります。
元弘時代(鎌倉末期、1331年〜1334年)に足利尊氏(あしかがたかうじ)が築城しました。 穆佐城は穆佐院 高城、六笠城とも呼ばれます。 そばの穆佐小学校跡は地頭仮屋跡です。

 「国指定史跡 穆佐城跡(むかさじょうあと)」の説明板から、
 穆佐城跡は、穆佐院 高城(宮崎市 高岡町)ともよばれ、三股院 高城(都城市)、新納院 高城(にいろいんたかじょう、木城町)とともに日向3高城として知られた、大変有名な中世の山城です。 今でも大規模な城の全容が良好な状態で保存されています。
 穆佐城跡は、標高約60 m の丘陵上に造られた全長600 m の山城で、大規模な堀切(ほりきり)によって大きく4つの地区(曲輪群(くるわぐん))に分かれています。 穆佐城のように防御性を発揮しやすい丘陵や台地上に立地し、大きな堀切で区切った独立性の高い曲輪群を並列させる造り方は、南九州地方の山城の特徴でもあります。
 縄張り図からそれぞれの曲輪群の役割が読みとれます。 曲輪群Aは複雑に組み合わされた小規模な曲輪や堀切で構成され、防御機能に特化しています。 城の中心にある曲輪群Bは、城内最高所に立地し厳重な土塁(どるい)を備えた主郭(しゅかく)や大小の曲輪群で構成され、政治の中枢、城主一族の屋敷地があったと考えられます。 島津忠国(ただくに)(島津9代当主)誕生の地とされる「坪之城(つぼのしろ)」もこの曲輪群内にあります。 曲輪群Cは大型の曲輪で構成され、居住に重点をおいた曲輪群、曲輪群Dは曲輪群Aと同様に北や西に対する防御機能を備えた曲輪群と考えられます。
 穆佐城は、古くは穆佐院 政所(まんどころ、荘園の事務をつかさどった所)があったとされ、南北朝時代は日向国守護の城であり、また南九州における南朝方と北朝方の戦いの場にもなりました。 応永10年(1403年)には、島津8代当主 島津久豊(ひさとよ)が穆佐城に入り、同じ年、忠国が城内に生まれています。 その後、文安2年(1445年)に伊藤祐尭(すけたか)の領地となりますが、天正5年(1577年)、伊東 氏 豊後没落後は、再び島津 氏の領地になりました。

 「国指定史跡 穆佐城跡 (むかさじょうあと)」の説明板から、
指定年月日 平成14年3月19日
 穆佐城が歴史の舞台に登場するのは、今をさかのぼること約660年前の南北朝時代。 大淀川が作り出した宮崎平野に位置する穆佐城は、足利尊氏 (あしかがたかうじ)の所領(後に尊氏の妻 赤橋 氏の所領)となると、南北朝の動乱に激しく巻き込まれました。 攻防を繰り広げたのが土持 氏・ 伊東 氏・肝付(きもつき) 氏など。 その中でも、(足利尊氏が派遣した)日向守護(ひゅうがしゅご) 畠山直顕(はたけやまただあき)は、穆佐城を拠点として、遠くは大隅国(おおすみこく)までその勢力を広げました。
 その後、南北朝時代が終わりを告げると、その攻防は島津 氏と伊東 氏との争(あらそ)いへと引き継がれていきました。 応永10年(1403年)に穆佐城入りした島津久豊(ひさとよ)(後の第8代 島津家当主)は、穆佐と関係が深く、自身の墓(市指定史跡)をはじめ、息子(むすこ) 忠国(ただくに)(後の第9代当主)の誕生杉(市指定天然記念物)など、数々の遺跡が残っています。
 文安2年(1445年)から約130年余の間、伊東 氏による支配が続きますが、天正5年(1577年)、再び島津 氏の支配下に入ると、穆佐は去川関外(さるかわせきがい)四ケ郷の一つ、穆佐郷として幕末まで続きました。 そして、数々の攻防を繰り広げた穆佐城も、17世紀初め、武士の麓(ふもと)への移住がはじまると、その役割を終え、歴史の舞台から姿を消しました。
 穆佐城は、山の自然の地形を上手(うま)く利用した山城で、本丸・西の丸・新城に分かれていたと言われ、現在でもよくその全容を留めています。 一部発掘調査においても、14世紀から16世紀末の陶磁器などが出土しています。
 (穆佐城跡から陶器、古銭、鉄砲玉、茶をひく臼(うす)[小型の臼]などが出土しています。 宮崎県内の山城の中でも古く、のり面を削(けず)って傾斜を急にするなど、防御に適しています。

 「市指定天然記念物 島津忠国 (しまづただくに)の誕生杉」の説明板から、
 指定年月日 昭和54年1月24日
 第8代 島津久豊 (ひさとよ)は、応永10年(1403年)に穆佐城に入り、伊東 氏の加江田城を攻め、池尻城 (倉岡城)、白糸城、細江城を築きました。 同年、伊東祐安の娘、寿山 夫人との間に、後の第9代 島津忠国が穆佐城 二の丸(坪の城)で生まれています。
 この時、記念に植えられた2本の杉が誕生杉で、「御年比較の杉 (おとしくらべのすぎ)」ともいわれていました。 しかし、その杉も、明治7年 (1874年)に失火のため消失してしまいました。 現在の杉は2代目のもので、本町、小山田の吉野盛幸 氏が明治20年 (1887年)頃 植えられたものです。
 三国名勝図絵に「両株の間 相距(あいへだた)ること3尺許(ばか)りにして、根幹支葉 甚(はなは)だ巨大繁茂(はんも)し、其(その)枝垂(た)れて地に着き、根を結び、復(また)幹(みき)を生じて、長大なり、故(ゆえ)に此(この)樹(き)、唯(ただ)両株といへども、若干(じゃっかん)本の如(ごと)く、上は高く聳(そび)ゆること数十丈(じょう)横に枝葉の覆(おお)ふこと一段(いったん)許(ばか)り、その繁茂(はんも)の状態凡(なみ)ならず、是(これ)を望める輩(やから)、問はずして神木たるを知るべし」とあり、当時の誕生杉がいかに大きいものであったかが分かります。
 敷地内には、貞享5年(1688年)、穆佐地頭・あつかい役寄進の石灯篭(いしどうろう)が建(た)っています。

 「高木兼寛 生誕地の銅像」の石碑(せきひ)から、
高木兼寛は嘉永2年9月15日(1849年)この地において大工 高木喜助の長男として生まれました。
 小さいときから家事の手伝いをしながらよく勉強し24歳で立派な官軍軍医となりました。
 そしてそれまでわからなかった脚気(かっけ)の原因をつきとめ予防法を確立しました。
 後に軍医総監や皇后待医に進み施療東京病院を創設して貧しい人々のために医療の道をひらき今の慈恵会医科大学も創設しました。
 こうして大正9年4月13日(1920年)に72歳で亡くなるまで全国を遊説して教育に尽(つ)くしあるいは郷土 宮崎神宮の造営に努力するなど生涯を国のため世のため人のためにつくしました。
 「高岡町出身 ビタミンの父 高木兼寛 (たかきかねひろ、1849年〜1920年)」の説明板から、
「病気を診(み)ずして病人を診よ」
 イギリスに留学中、多くの優秀賞、名誉賞を受賞し、明治13年11月に帰国した高木兼寛は、海軍中医監と同時に東京海軍病院長に命じられました。 このころの日本の海軍では、軍艦乗組員のなかに かつけ病患者が続出していました。 海軍軍医だった兼寛は、このかつけ病の絶滅に取り組みました。 
 このころ、かつけ病は細菌による伝染病と考えられていましたが、兼寛は、かつけ病は食事の栄養欠陥からおこると考え、「兵食改善」によるかつけ病の予防法に取り組みました。 そして、ようやく軍艦「筑波(つくば)」の航海実験をすることになりました。
 さきに、軍艦「龍驤」の航海で、乗組員の半数がかつけ病となり、「病者多し、航海できぬ金送れ」という悲痛な電報が龍驤から送られていたものが、兵食を改善した「筑波」から送られた電報は、「病者一人もなし、安心あれ」というものでした。 このことによって、兼寛の予防法が広く世界に認められることになりました。
 その後、ビタミンが発見され、かつけ病はビタミンB1の欠乏から起こることが分かりました。 イギリスのビタミン学界の第一人者レスリ・ハリスは、世界の8大ビタミン学者を写真入りで紹介し、そのなかで兼寛を2番目にとりあげ、偉大な業績を紹介しています。
 また兼寛は、東京慈恵会医科大学の創設、日本初の看護学校の創設、さらに、宮崎神宮の大造営など多くの偉業を成しとげました。
「病気を診(み)ずして病人を診よ」という兼寛の言葉は大変有名です。

 穆佐(むかさ)の「穆(むか、ぼく)」は、(1)周(まわ)りを囲む、(2)稲、の意味があるそうです。 (穆佐城跡の発掘調査の方にお聞きしました。 発掘調査の方2人にいろいろ教えていただきました。 御礼申し上げます。)

 穆佐城は「伊東48城」の1つでもあります。
「伊東48城」は都於郡城主あるいは佐土原城主だった伊東義祐のときに完成しました。 城と城の間隔は約数km〜10 kmぐらいです。 これで日向の大部分を領地にしていたときの、支配体制を固めました。 伊東四十八城とは、 門川城、日知屋城塩見城、 高千穂城、 入下城、 水清谷城、 田代城、 坪谷城、 山陰城、 神門城、 雄八重城、 石城、 都於郡城佐土原城、高城、 財部城 、富田城、 穂北城、 三納城、 平野城、 那珂城、 八代城、 本庄城、 守永城、 石塚城、 宮崎城、 倉岡城、 曽井城、 綾城、 穆佐城、 飯田城、本脇城、 高岡城、 染野城、 紙屋城、 野久尾城、 飫肥城、 戸崎城、 野尻城、 三山城、 高原城、 清武城、 田野城、 紫波洲崎城、 瀬平城、 酒谷城、 目井城、 須木城 です。
(太字は主要な城です。) これとは別に「伊東八外城」は日和城(ひわんじょう)を中心本城として山之口城、松尾城(三股城)、梶山城、勝岡城、小山城、野々美谷城、下ノ城を支城としていました。

 菊池武光によって畠山直顕は「穆佐城」を落城させられました。 畠山直顕の子、畠山宗泰がいた三股院 高城に畠山直顕は逃(のが)れました。 追ってきた菊池武光と千町川原(戦場川原)で戦いましたが、敗戦し三股院 高城も失って日向国の山中に逃れました。
 応永年間(室町時代、1394年〜1428年)に、伊東が支配していた「穆佐城」を薩摩の島津元久が攻め取って、その子、島津久豊を城主にしました。 島津久豊が薩摩に戻り島津宗家家督(かとく)を継(つ)ぎました。 文安2年(1445年)に伊東祐尭(すけたか)によって取り返され、伊東48城の一つとなリました。 落合治部少輔を城主としました。 天正5年(1577年)の伊東の豊後落ちにより島津の領地になって、樺山則久が城主となりました。

 穆佐城の城主には赤橋氏、伊東祐広、畠山直顕、伊東氏、島津豊久、落合氏、樺山規久などがなりました。



写真A: 左に見える山に穆佐城跡 (むかさじょうあと)があります。 穆佐城跡は宮崎県 宮崎市 高岡町 小山田 字麓にあります。
 黄色のセンターラインがある道は県道28号線です。 右奥に行くと梅の名所である月知梅公園、大の丸橋などに行きます。 手前に行くと穆佐出張所を経(へ)て花見橋の東端で国道10号線に出ます。 穆佐城跡へは左奥に進みます。
穆佐城跡は、標高約60 m の丘陵上に造られた全長600 m の山城で、大規模な堀切(ほりきり)によって大きく4つの地区(曲輪群(くるわぐん))に分かれています。 穆佐城のように防御性を発揮しやすい丘陵や台地上に立地し、大きな堀切で区切った独立性の高い曲輪群を並列させる造り方は、南九州地方の山城の特徴です。
穆佐城の城主には赤橋氏、伊東祐広、畠山直顕、伊東氏、島津豊久、落合氏、樺山規久などがなりました。



写真B: 穆佐城跡がある城山を東から見たものです。 左の建物は旧 穆佐小学校です。 穆佐小学校は2011年9月に近くに移転しました。 穆佐小学校跡は地頭仮屋跡です。
島津家薩摩藩(77万石)は、1615年の一国一城令で、鶴丸城だけ残して他の城は壊(こわ)しました。 代わりに外城(とじょう)と呼(よ)ばれる麓(ふもと)を置きました。 地頭仮屋(あるいは御仮屋)と呼ばれる在地役所を中心にして、そのまわりに石垣(いしがき)、イヌマキの生垣の郷士(ごうし)屋敷の集落を造りました(郷士は普段は農業を行ない、有事の時には戦う武士です。 私領地では郷士ではなく家中士と呼ばれました。)。 地頭や私領主は鹿児島城下に住みました。 各地の行政執行は麓3役といわれる郷士年寄、組頭、横目が行いました。 「野町」と呼ばれる町人町は麓のそばに造られました。 今でも「麓」の地名、馬術教練を行う「馬場」という地名が残っています。 薩摩藩の外城は島津宗家直轄の地頭所が90ヵ所、島津一門や重臣の私領地が21ヵ所ありました。 薩摩藩はキリスト教、一向宗(浄土真宗)を禁止しました。 租税(そぜい)は8公2民(普通は4公6民)と重税でした。
薩摩藩の日向国(ほぼ宮崎県)の「郷」は、馬関田郷、吉田郷、加久藤郷、飯野郷、小林郷、野尻郷、高岡郷、穆佐郷(むかさごう)、倉岡郷、高原郷、高崎郷、高城郷、都城郷、須木郷、綾郷、山之口郷、勝岡郷、庄内郷、松山郷、志布志郷、大崎郷がありました。 計21郷でした。 すべて諸県郡に属します。 これとは別に、佐土原島津藩が宮崎市 佐土原町にありました。 佐土原島津藩は薩摩藩とは別に江戸への参勤交代を行なっていました。
穆佐城は「伊東48城」の1つでもあります。
「伊東48城」は都於郡城主あるいは佐土原城主だった伊東義祐のときに完成しました。 城と城の間隔は約数km〜10 kmぐらいです。 これで日向の大部分を領地にしていたときの、支配体制を固めました。 伊東四十八城とは、 門川城、日知屋城塩見城、 高千穂城、 入下城、 水清谷城、 田代城、 坪谷城、 山陰城、 神門城、 雄八重城、 石城、 都於郡城佐土原城、高城、 財部城 、富田城、 穂北城、 三納城、 平野城、 那珂城、 八代城、 本庄城、 守永城、 石塚城、 宮崎城、 倉岡城、 曽井城、 綾城、 穆佐城、 飯田城、本脇城、 高岡城、 染野城、 紙屋城、 野久尾城、 飫肥城、 戸崎城、 野尻城、 三山城、 高原城、 清武城、 田野城、 紫波洲崎城、 瀬平城、 酒谷城、 目井城、 須木城 です。
(太字は主要な城です。) これとは別に「伊東八外城」は日和城(ひわんじょう)を中心本城として山之口城、松尾城(三股城)、梶山城、勝岡城、小山城、野々美谷城、下ノ城を支城としていました。
文安2年(1445年)から約130年余の間、伊東 氏による支配が続きますが、天正5年(1577年)、再び島津 氏の支配下に入ると、穆佐は去川関外(さるかわせきがい)四ケ郷の一つ、穆佐郷として幕末まで続きました。 そして、数々の攻防を繰り広げた穆佐城も、17世紀初め、武士の麓(ふもと)への移住がはじまると、その役割を終え、歴史の舞台から姿を消しました。



写真C: 右の高い部分が穆佐城跡です。 右寄りに旧穆佐小学校が見えます。 穆佐小学校跡は地頭仮屋跡です。 穆佐小学校跡は昔、地頭仮屋がありました。 地頭仮屋は藩政時代の穆佐郷の役所です。
島津家薩摩藩(77万石)は、1615年の一国一城令で、鶴丸城だけ残して他の城は壊(こわ)しました。 代わりに外城(とじょう)と呼(よ)ばれる麓(ふもと)を置きました。 地頭仮屋(あるいは御仮屋)と呼ばれる在地役所を中心にして、そのまわりに石垣(いしがき)、イヌマキの生垣の郷士(ごうし)屋敷の集落を造りました(郷士は普段は農業を行ない、有事の時には戦う武士です。 私領地では郷士ではなく家中士と呼ばれました。)。 地頭や私領主は鹿児島城下に住みました。 各地の行政執行は麓3役といわれる郷士年寄、組頭、横目が行いました。 「野町」と呼ばれる町人町は麓のそばに造られました。 今でも「麓」の地名、馬術教練を行う「馬場」という地名が残っています。 薩摩藩の外城は島津宗家直轄の地頭所が90ヵ所、島津一門や重臣の私領地が21ヵ所ありました。 薩摩藩はキリスト教、一向宗(浄土真宗)を禁止しました。 租税(そぜい)は8公2民(普通は4公6民)と重税でした。
薩摩藩の日向国(ほぼ宮崎県)の「郷」は、馬関田郷、吉田郷、加久藤郷、飯野郷、小林郷、野尻郷、高岡郷、穆佐郷(むかさごう)、倉岡郷、高原郷、高崎郷、高城郷、都城郷、須木郷、綾郷、山之口郷、勝岡郷、庄内郷、松山郷、志布志郷、大崎郷がありました。 計21郷でした。 すべて諸県郡に属します。 これとは別に、佐土原島津藩が宮崎市 佐土原町にありました。 佐土原島津藩は薩摩藩とは別に江戸への参勤交代を行なっていました。

 
南西を見たもの。
穆佐城が歴史の舞台に登場するのは、今をさかのぼること約660年前の南北朝時代。 大淀川が作り出した宮崎平野に位置する穆佐城は、足利尊氏 (あしかがたかうじ)の所領(後に尊氏の妻 赤橋 氏の所領)となると、南北朝の動乱に激しく巻き込まれました。 攻防を繰り広げたのが土持 氏・ 伊東 氏・肝付(きもつき) 氏など。 その中でも、(足利尊氏が派遣した)日向守護(ひゅうがしゅご) 畠山直顕(はたけやまただあき)は、穆佐城を拠点として、遠くは大隅国(おおすみこく)までその勢力を広げました。



写真D: 南を見たもの。



写真E: 瓜田川の支流である「麓川」が穆佐城跡の手前に見えます。
穆佐城は、古くは穆佐院 政所(まんどころ、荘園の事務をつかさどった所)があったとされ、南北朝時代は日向国守護の城(今の県庁のようなもの。)であり、また南九州における南朝方と北朝方の戦いの場にもなりました。 応永10年(1403年)には、島津8代当主 島津久豊(ひさとよ)が穆佐城に入り、同じ年、忠国が城内に生まれています。 その後、文安2年(1445年)に伊藤祐尭(すけたか)の領地となりますが、天正5年(1577年)、伊東 氏 豊後没落後は、再び島津 氏の領地になりました。



写真F: 瓜田川の支流である「麓川 (ふもとがわ)」です。
菊池武光によって畠山直顕は「穆佐城」を落城させられました。 畠山直顕の子、畠山宗泰がいた三股院 高城に畠山直顕は逃(のが)れました。 追ってきた菊池武光と千町川原(戦場川原)で戦いましたが、敗戦し三股院 高城も失って日向国の山中に逃れました。
 応永年間(室町時代、1394年〜1428年)に、伊東が支配していた「穆佐城」を薩摩の島津元久が攻め取って、その子、島津久豊を城主にしました。 島津久豊が薩摩に戻り島津宗家家督(かとく)を継(つ)ぎました。 文安2年(1445年)に伊東祐尭(すけたか)によって取り返され、伊東48城の一つとなリました。 落合治部少輔を城主としました。 天正5年(1577年)の伊東の豊後落ちにより島津の領地になって、樺山則久が城主となりました。



写真G: 麓川の西側に穆佐城跡、旧 穆佐小学校があります。 穆佐小学校跡は地頭仮屋跡です。 穆佐小学校跡は昔、地頭仮屋がありました。 地頭仮屋は藩政時代の穆佐郷の役所です。
島津家薩摩藩(77万石)は、1615年の一国一城令で、鶴丸城だけ残して他の城は壊(こわ)しました。 代わりに外城(とじょう)と呼(よ)ばれる麓(ふもと)を置きました。 地頭仮屋(あるいは御仮屋)と呼ばれる在地役所を中心にして、そのまわりに石垣(いしがき)、イヌマキの生垣の郷士(ごうし)屋敷の集落を造りました(郷士は普段は農業を行ない、有事の時には戦う武士です。 私領地では郷士ではなく家中士と呼ばれました。)。 地頭や私領主は鹿児島城下に住みました。 各地の行政執行は麓3役といわれる郷士年寄、組頭、横目が行いました。 「野町」と呼ばれる町人町は麓のそばに造られました。 今でも「麓」の地名、馬術教練を行う「馬場」という地名が残っています。 薩摩藩の外城は島津宗家直轄の地頭所が90ヵ所、島津一門や重臣の私領地が21ヵ所ありました。 薩摩藩はキリスト教、一向宗(浄土真宗)を禁止しました。 租税(そぜい)は8公2民(普通は4公6民)と重税でした。
薩摩藩の日向国(ほぼ宮崎県)の「郷」は、馬関田郷、吉田郷、加久藤郷、飯野郷、小林郷、野尻郷、高岡郷、穆佐郷(むかさごう)、倉岡郷、高原郷、高崎郷、高城郷、都城郷、須木郷、綾郷、山之口郷、勝岡郷、庄内郷、松山郷、志布志郷、大崎郷がありました。 計21郷でした。 すべて諸県郡に属します。 これとは別に、佐土原島津藩が宮崎市 佐土原町にありました。 佐土原島津藩は薩摩藩とは別に江戸への参勤交代を行なっていました。
右に見えている橋は下門橋です。 下門橋を渡ります。
穆佐城跡は、穆佐院 高城(宮崎市 高岡町)ともよばれ、三股院 高城(都城市)、新納院 高城(にいろいんたかじょう、木城町)とともに日向3高城して知られた、中世の山城です。
穆佐城は東西に長い城山にあります。



写真H: 「麓川」と書いてあります。



写真I: 「下門橋」と書いてあります。 この下流で麓川は瓜田川に合流します。



写真J: 麓川の下門橋は平成23年3月に完成しました。 北を見た景色です。



写真K: 旧 穆佐小学校が見えます。



写真L: 麓川を渡ったら左折して「穆佐城跡」に行きます。 奥の山は穆佐城跡です。
穆佐城は東西に長い城山にあります。



写真M: 右は旧穆佐小学校です。 穆佐小学校跡は地頭仮屋跡です。
島津家薩摩藩(77万石)は、1615年の一国一城令で、鶴丸城だけ残して他の城は壊(こわ)しました。 代わりに外城(とじょう)と呼(よ)ばれる麓(ふもと)を置きました。 地頭仮屋(あるいは御仮屋)と呼ばれる在地役所を中心にして、そのまわりに石垣(いしがき)、イヌマキの生垣の郷士(ごうし)屋敷の集落を造りました(郷士は普段は農業を行ない、有事の時には戦う武士です。 私領地では郷士ではなく家中士と呼ばれました。)。 地頭や私領主は鹿児島城下に住みました。 各地の行政執行は麓3役といわれる郷士年寄、組頭、横目が行いました。 「野町」と呼ばれる町人町は麓のそばに造られました。 今でも「麓」の地名、馬術教練を行う「馬場」という地名が残っています。 薩摩藩の外城は島津宗家直轄の地頭所が90ヵ所、島津一門や重臣の私領地が21ヵ所ありました。 薩摩藩はキリスト教、一向宗(浄土真宗)を禁止しました。 租税(そぜい)は8公2民(普通は4公6民)と重税でした。
薩摩藩の日向国(ほぼ宮崎県)の「郷」は、馬関田郷、吉田郷、加久藤郷、飯野郷、小林郷、野尻郷、高岡郷、穆佐郷(むかさごう)、倉岡郷、高原郷、高崎郷、高城郷、都城郷、須木郷、綾郷、山之口郷、勝岡郷、庄内郷、松山郷、志布志郷、大崎郷がありました。 計21郷でした。 すべて諸県郡に属します。 これとは別に、佐土原島津藩が宮崎市 佐土原町にありました。 佐土原島津藩は薩摩藩とは別に江戸への参勤交代を行なっていました。



写真N: 旧穆佐小学校を過ぎたらすぐに右に曲がる道があります。 そこを右折して穆佐城跡に行きます。



写真O: 穆佐小学校跡のゴミステーションがあります。



写真P: 穆佐小学校跡の角(かど)を曲がります。 この道を進んで穆佐城跡に行きます。



写真Q: 穆佐小学校の角の近くに「麓公民館 (麓営農研修施設)」があります。



写真R: 「麓公民館 (麓営農研修施設)」と書いてあります。



写真S: 麓公民館から見た穆佐城跡の城山です。 穆佐城は東西に長い城山にあります。



写真T: 麓公民館から見た穆佐城跡の城山。
穆佐城は東西に長い城山にあります。



写真U: 麓公民館から見た穆佐城跡の城山です。 穆佐城は東西に長い城山にあります。



写真V: 「私たちは「農地・水・環境保全向上対策」に地域ぐるみで取り組みます!!」の看板(かんばん)が麓公民館にあります。
 農地は、私たちに安全な食べ物を供給する貴重な財産です。 生き物たちにとっても大切なすみかであり、美しい農村の風景は、地域の大切な宝です。 私たちはこれらを守る活動に地域ぐるみで取り組みます。
取り組み内容
農地や農業用水路などの草刈りや泥(どろ)あげなど。 農地や農業用水路などを末永く使うために、細やかな施設の補修など。 美しい農村や生き物のすみかを守るふるさとづくり。
ふるさとは私たちが守ります。
支援機関: 農林水産省 宮崎県 宮崎市
活動組織名: ふもと水土里会(みどりかい)
活動面積: 17 ha (水田16 ha、畑1 ha)
設置者: 宮崎県農地・水・環境保全向上活動推進協議会
と書いてあります。



写真W: 右は穆佐小学校跡です。 まっすぐ進むと駐車場があります。



写真X: 右から2番目の道を(歩いて)進んでも穆佐城跡に行くことができます。



写真Y: 右の坂道を登ると駐車場があります。 左の山は穆佐城跡の城山です。



写真Z: 穆佐城跡の城山です。



写真AA: 駐車場です。



写真AB: 駐車場。



写真AC: 穆佐城跡の城山です。



写真AD: 黒い竹が駐車場のそばにあります。



写真AE: 東を見たものです。 穆佐小学校跡があります。 穆佐護国神社の石灯籠(いしどうろう)も見えます。
穆佐小学校跡は昔、地頭仮屋がありました。 地頭仮屋は藩政時代の穆佐郷の役所です。



写真AF: 石灯籠(いしどうろう)と穆佐小学校跡のグラウンドです。 穆佐小学校跡は地頭仮屋跡です。



写真AG: 穆佐小学校跡のグラウンド。 穆佐小学校跡は地頭仮屋跡です。



写真AH: 左から「穆佐城跡 宮崎市教育委員会」の標識棒、「国指定史跡 穆佐城跡」の説明板、植物のバショウ、石灯籠(いしどうろう)があります。



写真AI: 左は穆佐護国神社の階段です。



写真AJ: 穆佐護国神社 (むかさごこくじんじゃ)の階段です。



写真AK: 穆佐護国神社の階段。



写真AL: 駐車場です。



写真AM: 左は穆佐小学校跡です。 穆佐小学校跡は地頭仮屋跡です。



写真AN: 穆佐小学校跡と左端は石灯籠(いしどうろう)です。



写真AO: 穆佐小学校跡のグラウンドと体育館です。 東を見たもの。



写真AP: 「穆佐城跡 宮崎市教育委員会」と書いてあります。



写真AQ: 「国指定史跡 穆佐城跡 (むかさじょうあと)」の説明板です。
指定年月日 平成14年3月19日
 穆佐城が歴史の舞台に登場するのは、今をさかのぼること約660年前の南北朝時代。 大淀川が作り出した宮崎平野に位置する穆佐城は、足利尊氏 (あしかがたかうじ)の所領(後に尊氏の妻 赤橋 氏の所領)となると、南北朝の動乱に激しく巻き込まれました。 攻防を繰り広げたのが土持 氏・ 伊東 氏・肝付(きもつき) 氏など。 その中でも、(足利尊氏が派遣した)日向守護(ひゅうがしゅご) 畠山直顕(はたけやまただあき)は、穆佐城を拠点として、遠くは大隅国(おおすみこく)までその勢力を広げました。
 その後、南北朝時代が終わりを告げると、その攻防は島津 氏と伊東 氏との争(あらそ)いへと引き継がれていきました。 応永10年(1403年)に穆佐城入りした島津久豊(ひさとよ)(後の第8代 島津家当主)は、穆佐と関係が深く、自身の墓(市指定史跡)をはじめ、息子(むすこ) 忠国(ただくに)(後の第9代当主)の誕生杉(市指定天然記念物)など、数々の遺跡が残っています。
 文安2年(1445年)から約130年余の間、伊東 氏による支配が続きますが、天正5年(1577年)、再び島津 氏の支配下に入ると、穆佐は去川関外(さるかわせきがい)四ケ郷の一つ、穆佐郷として幕末まで続きました。 そして、数々の攻防を繰り広げた穆佐城も、17世紀初め、武士の麓(ふもと)への移住がはじまると、その役割を終え、歴史の舞台から姿を消しました。
 穆佐城は、山の自然の地形を上手(うま)く利用した山城で、本丸・西の丸・新城に分かれていたと言われ、現在でもよくその全容を留めています。 一部発掘調査においても、14世紀から16世紀末の陶磁器などが出土しています。
 このように、城跡として貴重な歴史的遺産である穆佐城跡を後世に残すため、今後、保存のための整備を実施し、歴史や環境を活かした公園づくりをめざしていきます。
宮崎市教育委員会
と書かれています。
南北朝時代は日向国守護の城で「今の県庁」に当たるものがこの穆佐城跡にありました。



写真AR: 「国指定史跡 穆佐城跡 (むかさじょうあと)」の説明板です。
指定年月日 平成14年3月19日
 穆佐城が歴史の舞台に登場するのは、今をさかのぼること約660年前の南北朝時代。 大淀川が作り出した宮崎平野に位置する穆佐城は、足利尊氏 (あしかがたかうじ)の所領(後に尊氏の妻 赤橋 氏の所領)となると、南北朝の動乱に激しく巻き込まれました。 攻防を繰り広げたのが土持 氏・ 伊東 氏・肝付(きもつき) 氏など。 その中でも、(足利尊氏が派遣した)日向守護(ひゅうがしゅご) 畠山直顕(はたけやまただあき)は、穆佐城を拠点として、遠くは大隅国(おおすみこく)までその勢力を広げました。
 その後、南北朝時代が終わりを告げると、その攻防は島津 氏と伊東 氏との争(あらそ)いへと引き継がれていきました。 応永10年(1403年)に穆佐城入りした島津久豊(ひさとよ)(後の第8代 島津家当主)は、穆佐と関係が深く、自身の墓(市指定史跡)をはじめ、息子(むすこ) 忠国(ただくに)(後の第9代当主)の誕生杉(市指定天然記念物)など、数々の遺跡が残っています。
 文安2年(1445年)から約130年余の間、伊東 氏による支配が続きますが、天正5年(1577年)、再び島津 氏の支配下に入ると、穆佐は去川関外(さるかわせきがい)四ケ郷の一つ、穆佐郷として幕末まで続きました。 そして、数々の攻防を繰り広げた穆佐城も、17世紀初め、武士の麓(ふもと)への移住がはじまると、その役割を終え、歴史の舞台から姿を消しました。
 穆佐城は、山の自然の地形を上手(うま)く利用した山城で、本丸・西の丸・新城に分かれていたと言われ、現在でもよくその全容を留めています。 一部発掘調査においても、14世紀から16世紀末の陶磁器などが出土しています。
 このように、城跡として貴重な歴史的遺産である穆佐城跡を後世に残すため、今後、保存のための整備を実施し、歴史や環境を活かした公園づくりをめざしていきます。
宮崎市教育委員会
と書かれています。
南北朝時代は日向国守護の城で「今の県庁」に当たるものがこの穆佐城跡にありました。



写真AS: 「国指定史跡 穆佐城跡 (むかさじょうあと)」の説明板です。
指定年月日 平成14年3月19日
 穆佐城が歴史の舞台に登場するのは、今をさかのぼること約660年前の南北朝時代。 大淀川が作り出した宮崎平野に位置する穆佐城は、足利尊氏 (あしかがたかうじ)の所領(後に尊氏の妻 赤橋 氏の所領)となると、南北朝の動乱に激しく巻き込まれました。 攻防を繰り広げたのが土持 氏・ 伊東 氏・肝付(きもつき) 氏など。 その中でも、(足利尊氏が派遣した)日向守護(ひゅうがしゅご) 畠山直顕(はたけやまただあき)は、穆佐城を拠点として、遠くは大隅国(おおすみこく)までその勢力を広げました。
 その後、南北朝時代が終わりを告げると、その攻防は島津 氏と伊東 氏との争(あらそ)いへと引き継がれていきました。 応永10年(1403年)に穆佐城入りした島津久豊(ひさとよ)(後の第8代 島津家当主)は、穆佐と関係が深く、自身の墓(市指定史跡)をはじめ、息子(むすこ) 忠国(ただくに)(後の第9代当主)の誕生杉(市指定天然記念物)など、数々の遺跡が残っています。
 文安2年(1445年)から約130年余の間、伊東 氏による支配が続きますが、天正5年(1577年)、再び島津 氏の支配下に入ると、穆佐は去川関外(さるかわせきがい)四ケ郷の一つ、穆佐郷として幕末まで続きました。 そして、数々の攻防を繰り広げた穆佐城も、17世紀初め、武士の麓(ふもと)への移住がはじまると、その役割を終え、歴史の舞台から姿を消しました。
 穆佐城は、山の自然の地形を上手(うま)く利用した山城で、本丸・西の丸・新城に分かれていたと言われ、現在でもよくその全容を留めています。 一部発掘調査においても、14世紀から16世紀末の陶磁器などが出土しています。
 このように、城跡として貴重な歴史的遺産である穆佐城跡を後世に残すため、今後、保存のための整備を実施し、歴史や環境を活かした公園づくりをめざしていきます。
宮崎市教育委員会
と書かれています。
南北朝時代は日向国守護の城で「今の県庁」に当たるものがこの穆佐城跡にありました。



写真AT: 穆佐城の絵地図も載っています。 穆佐城予想図。



写真AU: 穆佐城の絵地図。 穆佐城予想図。



写真AV: 穆佐城の絵地図も載っています。 穆佐城予想図。



写真AW: 北の方に宮崎市 高岡町 穆佐出身のビタミンの父 「高木兼寛」の石碑、慰霊碑(いれいひ)などがあります。 右手は穆佐小学校跡です。



写真AX: 穆佐小学校跡のグラウンドと建物です。



写真AY: 「慰霊之碑」があります。



写真AZ: 「慰霊之碑」の碑文です。
 終戦50周年の節目の年に当たり、ここに戦没者慰霊碑を建立する。
 日中戦争(支那事変)そして太平洋戦争(大東亜戦争)において、国のために尊い一命を捧げられた戦没者に対し、追悼の誠を捧げ、ひたすらご冥福を祈念するものである。
 崇高な犠牲の上に築かれたいまの平和、著しい発展を遂(と)げた我が国、それは戦地や内地で散華された御霊の願いでもあった。
 慰霊之碑建立は、町軍恩連盟、町傷痍(い)軍人会、高岡地区、穆佐地区両遺族協助会並びに町民各位の協力を得たものである。
 御霊の永遠に安らかならんことを。
と書いてあります。



写真BA: 「招魂墓 明治12年11月9日建立」があります。
建立された時期から西南戦争の時のものと思われます。
穆佐小学校跡のそばの広い車道にある「顕彰碑」の裏面の碑文(ひぶん)によると、確かにこの招魂墓は明治10年の西南の役の時のもので、戦友有志の温(あたた)かい心づくしで建立されました。 この招魂墓は太平洋戦争後にこの位置に移動しました。



写真BB: 「招魂墓 明治12年11月9日建立」があります。
建立された時期から西南戦争の時のものと思われます。
穆佐小学校跡のそばの広い車道にある「顕彰碑」の裏面の碑文(ひぶん)によると、確かにこの招魂墓は明治10年の西南の役の時のもので、戦友有志の温(あたた)かい心づくしで建立されました。 この招魂墓は太平洋戦争後にこの位置に移動しました。



写真BC: 高木兼寛は宮崎県 宮崎市 高岡町 穆佐の出身でビタミンの父と言われる宮崎県の偉人です。 「高木兼寛先生 顕彰碑」があります。 穆佐小学校跡の西側にあります。



写真BD: 「高木兼寛先生 顕彰碑」の前にある石碑(せきひ)です。



写真BE: 「高木兼寛先生 顕彰碑」の前にある石碑(せきひ)。



写真BF: 「高木兼寛先生 顕彰碑」と書いてあります。 昭和31年4月13日 東京慈恵会医科大学 同窓会 建立。



写真BG: 「高木兼寛先生顕彰銘」です。 昭和31年4月13日 東京慈恵会医科大学 同窓会 建立。



写真BH: 「高木兼寛先生顕彰銘」です。 昭和31年4月13日 東京慈恵会医科大学 同窓会 建立。



写真BI: 「高木兼寛先生 顕彰碑」から穆佐小学校跡に降りる石の階段です。



写真BJ: 「高木兼寛先生 顕彰碑」から東を見たもの。



写真BK: 「高木兼寛先生 顕彰碑」から南東を見たもの。



写真BL: 「←国指定史跡 穆佐城跡 登城口、主郭(しゅかく)・曲輪(くるわ)群・堀切・土塁(どるい)へ」と書いてある看板(かんばん)があります。



写真BM: この穆佐護国神社の階段を登って「穆佐城跡 (むかさじょうあと)」に登ります。
穆佐城跡の東側登城口です。 これ以外に北側登城口もあります。



写真BN: 階段を登って「穆佐城跡 (むかさじょうあと)」に登ります。 穆佐城跡の東側登城口です。 これ以外に北登城口もあります。



写真BO: 階段の途中(とちゅう)に山水(湧(わ)き水)を引いてある御手洗(みたらい)があります。 穆佐護国神社の御手洗(みたらい)です。
この水を飲んでみました。 おいしい水でした。 昔、城主たちも同じ水を飲んだことでしょう。 穆佐城跡には井戸は見つかっていないそうです。 シラス台地にしみこんだ水が山水として湧き出したものを飲んでいたのでしょう。



写真BP: 階段の上に穆佐護国神社の鳥居(とりい)が見えてきました。 まっすぐ登ると護国神社を経(へ)て「島津忠国 誕生杉」の所に行きます。 右に曲がると穆佐城跡の展望所、穆佐稲荷神社に行きます。



写真BQ: 「→穆佐稲荷神社、 穆佐稲荷神社は、応永年間(1394年〜1427年)に島津家当主 (第8代)島津久豊によって勧請された神社です。」
と書いてある看板(かんばん)があります。



写真BR: 穆佐稲荷神社の方に向かいます。



写真BS: 穆佐稲荷神社、見晴らしの良い展望所に行く道です。



写真BT: 右手は高くなっています。



写真BU: 右手は高くなっています。



写真BV: 木立の間から穆佐地区の風景が見えます。



写真BW: 穆佐城跡にある穆佐稲荷神社の鳥居(とりい)としめ縄(なわ)、苔(こけ)むした階段が見えてきました。



写真BX: 「穆佐稲荷神社」は、応永年間(1394年〜1427年)に島津家当主 (第8代)島津久豊によって勧請された神社です。
見事に苔(こけ)むした階段です。



写真BY: 苔むした階段の上に穆佐稲荷神社の拝殿が見えてきました。



写真BZ: 穆佐稲荷神社は、応永年間(1394年〜1427年)に島津家当主 (第8代)島津久豊によって勧請された神社です。



写真CA: 登ってきた階段を見下ろしたもの。



写真CB: 穆佐稲荷神社の中です。



写真CC: 神木の両側に石造物があります。 神木にはしめ縄がしてあります。



写真CD: 穆佐稲荷神社の神木です。



写真CE: 穆佐稲荷神社の境内(けいだい)にある右の石碑は文化時代(江戸後期、1804年〜1818年)の建立で、と左の石碑は文久時代(江戸末期、1861年〜1864年)の建立です。



写真CF: 左の石碑には「文久2年 奉寄進」彫(ほ)ってあります。 右の石碑には「文化10年 奉寄(進)」と彫ってあります。
右の石碑の上に乗せてあるものは古い瓦(かわら)かもしれません。



写真CG: 右は拝殿で、左は本殿です。



写真CH: 穆佐稲荷神社 (むかさいなりじんじゃ)の本殿です。



写真CI: 穆佐稲荷神社の本殿です。 穆佐稲荷神社は、応永年間(1394年〜1427年)に島津家当主 (第8代)島津久豊によって勧請された神社です。



写真CJ: 穆佐稲荷神社の階段を下って、T字路に戻(もど)りました。 今度は左に曲がって穆佐城跡の中心部に行きます。



写真CK: この道を進みます。



写真CL: 城山の下の景色が木立の間から見えます。



写真CM: 穆佐城跡の城山の道です。 竹製の柵(さく)があります。



写真CN: 穆佐城跡の道です。



写真CO: 来た道を振り返ったもの。



写真CP: 城山の道から「サンスポーツランド高岡」の運動公園が見えます。 このあたりは展望所です。



写真CQ: 穆佐城跡の道から「サンスポーツランド高岡」の運動公園が見えます。 このあたりは展望所です。



写真CR: 城山の道の柵(さく)です。 このあたりは展望所です。



写真CS: 奥に階段が見えてきました。



写真CT: 穆佐城跡から北を見た景色です。 手前に「サンスポーツランド高岡」の運動公園が見えます。 このあたりは展望所です。
一番遠くの山に宮崎城、その手前の山に島津久豊が造った倉岡城 (池尻城)があります。
倉岡城 (池尻城)は穆佐城主だった島津久豊が穆佐城の支城として築(きず)きました。 倉岡城と穆佐城、宮崎城は狼煙(のろし、危急のときの合図に、薪(まき)を焚(た)き、または筒(つつ)に火薬を込(こ)めて上げる煙)で連絡をとっていました。



写真CU: 木の丸太(まるた)で作った階段があります。



写真CV: ここは堀切(ほりきり)になっています。



写真CW: ここは通行止めになっています。



写真CX: 階段を登りきりました。



写真CY: 堀切を内側から振り返ったもの。



写真CZ: 堀切の上は曲輪(くるわ、平らな所)になっています。



写真DA: 堀切から見上げたもの。 崖(がけ)の修復工事中のようです。



写真DB: 曲輪(くるわ、平らな所)に登る丸太の階段が見えてきました。
穆佐城跡から陶器、古銭、鉄砲玉、茶をひく臼(うす)[小型の臼]などが出土しています。 宮崎県内の山城の中でも古く、のり面を削(けず)って傾斜を急にするなど、防御に適しています。



写真DC: 登ってきた階段を見下ろしたもの。



写真DD: 曲輪(くるわ)の上から見下ろした堀切です。 この堀切は穆佐城跡で2番目に大きいものです。
菊池武光によって畠山直顕は「穆佐城」を落城させられました。 畠山直顕の子、畠山宗泰がいた三股院 高城に畠山直顕は逃(のが)れました。 追ってきた菊池武光と千町川原(戦場川原)で戦いましたが、敗戦し三股院 高城も失って日向国の山中に逃れました。
 応永年間(室町時代、1394年〜1428年)に、伊東が支配していた「穆佐城」を薩摩の島津元久が攻め取って、その子、島津久豊を城主にしました。 島津久豊が薩摩に戻り島津宗家家督(かとく)を継(つ)ぎました。 文安2年(1445年)に伊東祐尭(すけたか)によって取り返され、伊東48城の一つとなリました。 落合治部少輔を城主としました。 天正5年(1577年)の伊東の豊後落ちにより島津の領地になって、樺山則久が城主となりました。



写真DE: 曲輪(くるわ)から見下ろしたもの。
穆佐城の城主には赤橋氏、伊東祐広、畠山直顕、伊東氏、島津豊久、落合氏、樺山規久などがなりました。



写真DF: 曲輪です。 北東を見たもの。
穆佐城は、古くは穆佐院 政所(まんどころ、荘園の事務をつかさどった所)があったとされ、南北朝時代は日向国守護の城(今の県庁のようなもの。)であり、また南九州における南朝方と北朝方の戦いの場にもなりました。 応永10年(1403年)には、島津8代当主 島津久豊(ひさとよ)が穆佐城に入り、同じ年、忠国が城内に生まれています。 その後、文安2年(1445年)に伊藤祐尭(すけたか)の領地となりますが、天正5年(1577年)、伊東 氏 豊後没落後は、再び島津 氏の領地になりました。



写真DG: 穆佐城の曲輪(くるわ、平らな所)です。
穆佐城は「伊東48城」の1つでもあります。
「伊東48城」は都於郡城主あるいは佐土原城主だった伊東義祐のときに完成しました。 城と城の間隔は約数km〜10 kmぐらいです。 これで日向の大部分を領地にしていたときの、支配体制を固めました。 伊東四十八城とは、 門川城、日知屋城塩見城、 高千穂城、 入下城、 水清谷城、 田代城、 坪谷城、 山陰城、 神門城、 雄八重城、 石城、 都於郡城佐土原城、高城、 財部城 、富田城、 穂北城、 三納城、 平野城、 那珂城、 八代城、 本庄城、 守永城、 石塚城、 宮崎城、 倉岡城、 曽井城、 綾城、 穆佐城、 飯田城、本脇城、 高岡城、 染野城、 紙屋城、 野久尾城、 飫肥城、 戸崎城、 野尻城、 三山城、 高原城、 清武城、 田野城、 紫波洲崎城、 瀬平城、 酒谷城、 目井城、 須木城 です。
(太字は主要な城です。) これとは別に「伊東八外城」は日和城(ひわんじょう)を中心本城として山之口城、松尾城(三股城)、梶山城、勝岡城、小山城、野々美谷城、下ノ城を支城としていました。



写真DH: 穆佐城の曲輪(くるわ、平らな所)。
穆佐城が歴史の舞台に登場するのは、今をさかのぼること約660年前の南北朝時代。 大淀川が作り出した宮崎平野に位置する穆佐城は、足利尊氏 (あしかがたかうじ)の所領(後に尊氏の妻 赤橋 氏の所領)となると、南北朝の動乱に激しく巻き込まれました。 攻防を繰り広げたのが土持 氏・ 伊東 氏・肝付(きもつき) 氏など。 その中でも、(足利尊氏が派遣した)日向守護(ひゅうがしゅご) 畠山直顕(はたけやまただあき)は、穆佐城を拠点として、遠くは大隅国(おおすみこく)までその勢力を広げました。



写真DI: 穆佐城の曲輪(くるわ、平らな所)です。 南を見たもの。
穆佐城跡は、標高約60 m の丘陵上に造られた全長600 m の山城で、大規模な堀切(ほりきり)によって大きく4つの地区(曲輪群(くるわぐん))に分かれています。 穆佐城のように防御性を発揮しやすい丘陵や台地上に立地し、大きな堀切で区切った独立性の高い曲輪群を並列させる造り方は、南九州地方の山城の特徴です。



写真DJ: 曲輪(くるわ)の周(まわ)りには竹製の柵(さく)があります。
文安2年(1445年)から約130年余の間、伊東 氏による支配が続きますが、天正5年(1577年)、再び島津 氏の支配下に入ると、穆佐は去川関外(さるかわせきがい)四ケ郷の一つ、穆佐郷として幕末まで続きました。 そして、数々の攻防を繰り広げた穆佐城も、17世紀初め、武士の麓(ふもと)への移住がはじまると、その役割を終え、歴史の舞台から姿を消しました。



写真DK: この曲輪は半島のように東に延(の)びています。
穆佐城跡は、穆佐院 高城(宮崎市 高岡町)ともよばれ、三股院 高城(都城市)、新納院 高城(にいろいんたかじょう、木城町)とともに日向3高城して知られた、中世の山城です。



写真DL: 曲輪から南東側に先ほどの穆佐稲荷神社が見下ろせます。 右が本殿で、左は拝殿です。



写真DM: 曲輪から東を見た景色です。 県道28号線も見えます。 穆佐支所も見えています。 手前は穆佐小学校跡のグラウンドです。



写真DN: 曲輪から東を見た景色です。 県道28号線も見えます。 鉄筋コンクリートの穆佐支所も見えています。 穆佐支所のすぐ手前に新しい穆佐小学校が見えています。 手前に先ほどの麓川(ふもとがわ)も見えます。



写真DO: 曲輪から平地の景色が見えます。



写真DP: 曲輪からサンスポーツランド高岡が見下ろせます。



写真DQ: 曲輪からサンスポーツランド高岡が見えます。



写真DR: 再び堀(堀切)に降りてきました。



写真DS: 「曲輪群(くるわぐん)、 城内で区画された平坦地のことを曲輪といいます。 ここは、小さな曲輪と堀を配置して防御性を高めています。」と書いてある看板(かんばん)があります。



写真DT: 穆佐城跡の中の道です。



写真DU: 穆佐城跡には杉の木が多く植えてあります。



写真DV: 穆佐城跡には杉の木が多く植えてあります。



写真DW: 穆佐城跡の杉の木。



写真DX: 穆佐城跡には多くの木の丸太(まるた)の階段があります。



写真DY: 穆佐城跡です。



写真DZ: 穆佐城跡の道です。



写真EA: 穆佐城跡です。



写真EB: 穆佐城跡。



写真EC: 穆佐城跡です。



写真ED: 穆佐城跡。



写真EE: 階段があります。



写真EF: 「←主郭(しゅかく)・土塁(どるい)、曲輪群・展望所→、(林間から大淀川がみえます)」と書いてある看板があります。



写真EG: 「←主郭・土塁、登城口・島津忠国の誕生杉→」の看板があります。



写真EH: 穆佐城跡です。



写真EI: 穆佐城跡です。



写真EJ: 穆佐城跡。 この曲輪に島津忠国の誕生杉があります。 奥(東)に穆佐護国神社の建物が見えます。



写真EK: この曲輪に島津忠国の誕生杉があります。 この左奥に穆佐護国神社があります。



写真EL: この曲輪に島津忠国の誕生杉があります。



写真EM: 曲輪に木の丸太が積(つ)んでありました。



写真EN: 来た道を振り返ったもの。



写真EO: 来た道を振り返ったもの。



写真EP: 周(まわ)りの様子(ようす)です。



写真EQ: 周(まわ)りの様子(ようす)。



写真ER: この曲輪に島津忠国の誕生杉があります。 奥(東)に穆佐護国神社の建物が見えます。



写真ES: 島津忠国の誕生杉のそばにある説明板です。 「忠国の誕生杉」は穆佐護国神社の少し西にあります。
「市指定天然記念物 島津忠国 (しまづただくに)の誕生杉」の説明板です。
 指定年月日 昭和54年1月24日
 第8代 島津久豊 (ひさとよ)は、応永10年(1403年)に穆佐城に入り、伊東 氏の加江田城を攻め、池尻城 (倉岡城)、白糸城、細江城を築きました。 同年、伊東祐安の娘、寿山 夫人との間に、後の第9代 島津忠国が穆佐城 二の丸(坪の城)で生まれています。
 この時、記念に植えられた2本の杉が誕生杉で、「御年比較の杉 (おとしくらべのすぎ)」ともいわれていました。 しかし、その杉も、明治7年 (1874年)に失火のため消失してしまいました。 現在の杉は2代目のもので、本町、小山田の吉野盛幸 氏が明治20年 (1887年)頃 植えられたものです。
 三国名勝図絵に「両株の間 相距(あいへだた)ること3尺許(ばか)りにして、根幹支葉 甚(はなは)だ巨大繁茂(はんも)し、其(その)枝垂(た)れて地に着き、根を結び、復(また)幹(みき)を生じて、長大なり、故(ゆえ)に此(この)樹(き)、唯(ただ)両株といへども、若干(じゃっかん)本の如(ごと)く、上は高く聳(そび)ゆること数十丈(じょう)横に枝葉の覆(おお)ふこと一段(いったん)許(ばか)り、その繁茂(はんも)の状態凡(なみ)ならず、是(これ)を望める輩(やから)、問はずして神木たるを知るべし」とあり、当時の誕生杉がいかに大きいものであったかが分かります。
 敷地内には、貞享5年(1688年)、穆佐地頭・あつかい役寄進の石灯篭(いしどうろう)が建(た)っています。
宮崎市教育委員会
と書かれています。



写真ET: 「市指定天然記念物 島津忠国 (しまづただくに)の誕生杉」の説明板です。
 指定年月日 昭和54年1月24日
 第8代 島津久豊 (ひさとよ)は、応永10年(1403年)に穆佐城に入り、伊東 氏の加江田城を攻め、池尻城 (倉岡城)、白糸城、細江城を築きました。 同年、伊東祐安の娘、寿山 夫人との間に、後の第9代 島津忠国が穆佐城 二の丸(坪の城)で生まれています。
 この時、記念に植えられた2本の杉が誕生杉で、「御年比較の杉 (おとしくらべのすぎ)」ともいわれていました。 しかし、その杉も、明治7年 (1874年)に失火のため消失してしまいました。 現在の杉は2代目のもので、本町、小山田の吉野盛幸 氏が明治20年 (1887年)頃 植えられたものです。
 三国名勝図絵に「両株の間 相距(あいへだた)ること3尺許(ばか)りにして、根幹支葉 甚(はなは)だ巨大繁茂(はんも)し、其(その)枝垂(た)れて地に着き、根を結び、復(また)幹(みき)を生じて、長大なり、故(ゆえ)に此(この)樹(き)、唯(ただ)両株といへども、若干(じゃっかん)本の如(ごと)く、上は高く聳(そび)ゆること数十丈(じょう)横に枝葉の覆(おお)ふこと一段(いったん)許(ばか)り、その繁茂(はんも)の状態凡(なみ)ならず、是(これ)を望める輩(やから)、問はずして神木たるを知るべし」とあり、当時の誕生杉がいかに大きいものであったかが分かります。
 敷地内には、貞享5年(1688年)、穆佐地頭・あつかい役寄進の石灯篭(いしどうろう)が建(た)っています。
宮崎市教育委員会
と書かれています。



写真EU: 「市指定天然記念物 島津忠国 (しまづただくに)の誕生杉」の説明板です。
 指定年月日 昭和54年1月24日
 第8代 島津久豊 (ひさとよ)は、応永10年(1403年)に穆佐城に入り、伊東 氏の加江田城を攻め、池尻城 (倉岡城)、白糸城、細江城を築きました。 同年、伊東祐安の娘、寿山 夫人との間に、後の第9代 島津忠国が穆佐城 二の丸(坪の城)で生まれています。
 この時、記念に植えられた2本の杉が誕生杉で、「御年比較の杉 (おとしくらべのすぎ)」ともいわれていました。 しかし、その杉も、明治7年 (1874年)に失火のため消失してしまいました。 現在の杉は2代目のもので、本町、小山田の吉野盛幸 氏が明治20年 (1887年)頃 植えられたものです。
 三国名勝図絵に「両株の間 相距(あいへだた)ること3尺許(ばか)りにして、根幹支葉 甚(はなは)だ巨大繁茂(はんも)し、其(その)枝垂(た)れて地に着き、根を結び、復(また)幹(みき)を生じて、長大なり、故(ゆえ)に此(この)樹(き)、唯(ただ)両株といへども、若干(じゃっかん)本の如(ごと)く、上は高く聳(そび)ゆること数十丈(じょう)横に枝葉の覆(おお)ふこと一段(いったん)許(ばか)り、その繁茂(はんも)の状態凡(なみ)ならず、是(これ)を望める輩(やから)、問はずして神木たるを知るべし」とあり、当時の誕生杉がいかに大きいものであったかが分かります。
 敷地内には、貞享5年(1688年)、穆佐地頭・あつかい役寄進の石灯篭(いしどうろう)が建(た)っています。
宮崎市教育委員会
と書かれています。



写真EV: 「市指定天然記念物 島津忠国 (しまづただくに)の誕生杉」の説明板です。
 指定年月日 昭和54年1月24日
 第8代 島津久豊 (ひさとよ)は、応永10年(1403年)に穆佐城に入り、伊東 氏の加江田城を攻め、池尻城 (倉岡城)、白糸城、細江城を築きました。 同年、伊東祐安の娘、寿山 夫人との間に、後の第9代 島津忠国が穆佐城 二の丸(坪の城)で生まれています。
 この時、記念に植えられた2本の杉が誕生杉で、「御年比較の杉 (おとしくらべのすぎ)」ともいわれていました。 しかし、その杉も、明治7年 (1874年)に失火のため消失してしまいました。 現在の杉は2代目のもので、本町、小山田の吉野盛幸 氏が明治20年 (1887年)頃 植えられたものです。
 三国名勝図絵に「両株の間 相距(あいへだた)ること3尺許(ばか)りにして、根幹支葉 甚(はなは)だ巨大繁茂(はんも)し、其(その)枝垂(た)れて地に着き、根を結び、復(また)幹(みき)を生じて、長大なり、故(ゆえ)に此(この)樹(き)、唯(ただ)両株といへども、若干(じゃっかん)本の如(ごと)く、上は高く聳(そび)ゆること数十丈(じょう)横に枝葉の覆(おお)ふこと一段(いったん)許(ばか)り、その繁茂(はんも)の状態凡(なみ)ならず、是(これ)を望める輩(やから)、問はずして神木たるを知るべし」とあり、当時の誕生杉がいかに大きいものであったかが分かります。
 敷地内には、貞享5年(1688年)、穆佐地頭・あつかい役寄進の石灯篭(いしどうろう)が建(た)っています。
宮崎市教育委員会
と書かれています。



写真EW: 石灯篭(いしどうろう)と島津忠国 誕生杉の下部です。 忠国 誕生杉は5本あります。
島津忠国 誕生杉の間に、貞享5年(1688年)、穆佐地頭・あつかい役寄進の石灯篭(いしどうろう)が見えます。 この石灯篭は積みかさねの順番が、一番上とその下の部分が入れ替(か)わっています。
周(まわ)りの忠国誕生杉は、初代杉が明治7年に失火で燃えて、本町、小山田の吉野盛幸 氏が明治20年 (1887年)頃 植えた2代目のものです。
島津忠国はこの少し奥の穆佐城 二の丸(坪の城)で生まれました。



写真EX: 石灯篭(いしどうろう)と島津忠国 誕生杉の下部です。 忠国 誕生杉は5本あります。
島津忠国 誕生杉の間に、貞享5年(1688年)、穆佐地頭・あつかい役寄進の石灯篭(いしどうろう)が見えます。 この石灯篭は積みかさねの順番が、一番上とその下の部分が入れ替(か)わっています。
周(まわ)りの忠国誕生杉は、初代杉が明治7年に失火で燃えて、本町、小山田の吉野盛幸 氏が明治20年 (1887年)頃 植えた2代目のものです。
第8代 島津久豊 (ひさとよ)は、応永10年(1403年)に穆佐城に入り、伊東 氏の加江田城を攻め、池尻城 (倉岡城)、白糸城、細江城を築きました。 同年、伊東祐安の娘、寿山 夫人との間に、後の第9代 島津忠国が穆佐城 二の丸(坪の城)で生まれています。
 この時、記念に植えられた2本の杉が誕生杉で、「御年比較の杉 (おとしくらべのすぎ)」ともいわれていました。 しかし、その杉も、明治7年 (1874年)に失火のため消失してしまいました。 現在の杉は2代目のもので、本町、小山田の吉野盛幸 氏が明治20年 (1887年)頃 植えられたものです。



写真EY: 石灯篭(いしどうろう)と島津忠国 誕生杉の下部です。 忠国 誕生杉は5本あります。
島津忠国 誕生杉の間に、貞享5年(1688年)、穆佐地頭・あつかい役寄進の石灯篭(いしどうろう)が見えます。 この石灯篭は積みかさねの順番が、一番上とその下の部分が入れ替(か)わっています。
周(まわ)りの忠国誕生杉は、初代杉が明治7年に失火で燃えて、本町、小山田の吉野盛幸 氏が明治20年 (1887年)頃 植えた2代目のものです。
第8代 島津久豊 (ひさとよ)は、応永10年(1403年)に穆佐城に入り、伊東 氏の加江田城を攻め、池尻城 (倉岡城)、白糸城、細江城を築きました。 同年、伊東祐安の娘、寿山 夫人との間に、後の第9代 島津忠国が穆佐城 二の丸(坪の城)で生まれています。
 この時、記念に植えられた2本の杉が誕生杉で、「御年比較の杉 (おとしくらべのすぎ)」ともいわれていました。 しかし、その杉も、明治7年 (1874年)に失火のため消失してしまいました。 現在の杉は2代目のもので、本町、小山田の吉野盛幸 氏が明治20年 (1887年)頃 植えられたものです。



写真EZ: 穆佐城跡にある島津忠国 誕生杉の中部です。 忠国 誕生杉は5本あります。
島津忠国 誕生杉の間に、貞享5年(1688年)、穆佐地頭・あつかい役寄進の石灯篭(いしどうろう)が見えます。 この石灯篭は積みかさねの順番が、一番上とその下の部分が入れ替(か)わっています。
周(まわ)りの忠国誕生杉は、初代杉が明治7年に失火で燃えて、本町、小山田の吉野盛幸 氏が明治20年 (1887年)頃 植えた2代目のものです。
島津忠国はこの少し奥の穆佐城 二の丸(坪の城)で生まれました。
三国名勝図絵に「両株の間 相距(あいへだた)ること3尺許(ばか)りにして、根幹支葉 甚(はなは)だ巨大繁茂(はんも)し、其(その)枝垂(た)れて地に着き、根を結び、復(また)幹(みき)を生じて、長大なり、故(ゆえ)に此(この)樹(き)、唯(ただ)両株といへども、若干(じゃっかん)本の如(ごと)く、上は高く聳(そび)ゆること数十丈(じょう)横に枝葉の覆(おお)ふこと一段(いったん)許(ばか)り、その繁茂(はんも)の状態凡(なみ)ならず、是(これ)を望める輩(やから)、問はずして神木たるを知るべし」とあり、当時の誕生杉がいかに大きいものであったかが分かります。
 敷地内には、貞享5年(1688年)、穆佐地頭・あつかい役寄進の石灯篭(いしどうろう)が建(た)っています。



写真FA: 穆佐城跡にある島津忠国 誕生杉の中部です。 忠国 誕生杉は5本あります。
石灯篭の周(まわ)りの忠国誕生杉は、初代杉が明治7年に失火で燃えて、本町、小山田の吉野盛幸 氏が明治20年 (1887年)頃 植えた2代目のものです。
三国名勝図絵に「両株の間 相距(あいへだた)ること3尺許(ばか)りにして、根幹支葉 甚(はなは)だ巨大繁茂(はんも)し、其(その)枝垂(た)れて地に着き、根を結び、復(また)幹(みき)を生じて、長大なり、故(ゆえ)に此(この)樹(き)、唯(ただ)両株といへども、若干(じゃっかん)本の如(ごと)く、上は高く聳(そび)ゆること数十丈(じょう)横に枝葉の覆(おお)ふこと一段(いったん)許(ばか)り、その繁茂(はんも)の状態凡(なみ)ならず、是(これ)を望める輩(やから)、問はずして神木たるを知るべし」とあり、当時の誕生杉がいかに大きいものであったかが分かります。
 敷地内には、貞享5年(1688年)、穆佐地頭・あつかい役寄進の石灯篭(いしどうろう)が建(た)っています。



写真FB: 穆佐城跡にある島津忠国 誕生杉の上部です。 忠国 誕生杉は5本あります。
石灯篭の周(まわ)りの忠国誕生杉は、初代杉が明治7年に失火で燃えて、本町、小山田の吉野盛幸 氏が明治20年 (1887年)頃 植えた2代目のものです。
三国名勝図絵に「両株の間 相距(あいへだた)ること3尺許(ばか)りにして、根幹支葉 甚(はなは)だ巨大繁茂(はんも)し、其(その)枝垂(た)れて地に着き、根を結び、復(また)幹(みき)を生じて、長大なり、故(ゆえ)に此(この)樹(き)、唯(ただ)両株といへども、若干(じゃっかん)本の如(ごと)く、上は高く聳(そび)ゆること数十丈(じょう)横に枝葉の覆(おお)ふこと一段(いったん)許(ばか)り、その繁茂(はんも)の状態凡(なみ)ならず、是(これ)を望める輩(やから)、問はずして神木たるを知るべし」とあり、当時の誕生杉がいかに大きいものであったかが分かります。
 敷地内には、貞享5年(1688年)、穆佐地頭・あつかい役寄進の石灯篭(いしどうろう)が建(た)っています。



写真FC: 石灯篭(いしどうろう)と島津忠国 誕生杉の下部です。 忠国 誕生杉は5本あります。
島津忠国 誕生杉の間に、貞享5年(1688年)、穆佐地頭・あつかい役寄進の石灯篭(いしどうろう)が見えます。 この石灯篭は積みかさねの順番が、一番上とその下の部分が入れ替(か)わっています。
周(まわ)りの忠国誕生杉は、初代杉が明治7年に失火で燃えて、本町、小山田の吉野盛幸 氏が明治20年 (1887年)頃 植えた2代目のものです。
第8代 島津久豊 (ひさとよ)は、応永10年(1403年)に穆佐城に入り、伊東 氏の加江田城を攻め、池尻城 (倉岡城)、白糸城、細江城を築きました。 同年、伊東祐安の娘、寿山 夫人との間に、後の第9代 島津忠国が穆佐城 二の丸(坪の城)で生まれています。
 この時、記念に植えられた2本の杉が誕生杉で、「御年比較の杉 (おとしくらべのすぎ)」ともいわれていました。 しかし、その杉も、明治7年 (1874年)に失火のため消失してしまいました。 現在の杉は2代目のもので、本町、小山田の吉野盛幸 氏が明治20年 (1887年)頃 植えられたものです。



写真FD: 穆佐城跡にある島津忠国 誕生杉の中部です。 忠国 誕生杉は5本あります。
石灯篭の周(まわ)りの忠国誕生杉は、初代杉が明治7年に失火で燃えて、本町、小山田の吉野盛幸 氏が明治20年 (1887年)頃 植えた2代目のものです。



写真FE: 穆佐城跡にある島津忠国 誕生杉の中部です。 忠国 誕生杉は5本あります。
石灯篭の周(まわ)りの忠国誕生杉は、初代杉が明治7年に失火で燃えて、本町、小山田の吉野盛幸 氏が明治20年 (1887年)頃 植えた2代目のものです。
南北朝時代が終わりを告げると、その攻防は島津 氏と伊東 氏との争(あらそ)いへと引き継がれていきました。 応永10年(1403年)に穆佐城入りした島津久豊(ひさとよ)(後の第8代 島津家当主)は、穆佐と関係が深く、自身の墓(市指定史跡)をはじめ、息子(むすこ) 忠国(ただくに)(後の第9代当主)の誕生杉(市指定天然記念物)など、数々の遺跡が残っています。



写真FF: 穆佐城跡にある島津忠国 誕生杉の上部です。
 忠国 誕生杉は5本あります。 石灯篭の周(まわ)りの忠国誕生杉は、初代杉が明治7年に失火で燃えて、本町、小山田の吉野盛幸 氏が明治20年 (1887年)頃 植えた2代目のものです。
三国名勝図絵に「両株の間 相距(あいへだた)ること3尺許(ばか)りにして、根幹支葉 甚(はなは)だ巨大繁茂(はんも)し、其(その)枝垂(た)れて地に着き、根を結び、復(また)幹(みき)を生じて、長大なり、故(ゆえ)に此(この)樹(き)、唯(ただ)両株といへども、若干(じゃっかん)本の如(ごと)く、上は高く聳(そび)ゆること数十丈(じょう)横に枝葉の覆(おお)ふこと一段(いったん)許(ばか)り、その繁茂(はんも)の状態凡(なみ)ならず、是(これ)を望める輩(やから)、問はずして神木たるを知るべし」とあり、当時の誕生杉がいかに大きいものであったかが分かります。
 敷地内には、貞享5年(1688年)、穆佐地頭・あつかい役寄進の石灯篭(いしどうろう)が建(た)っています。

 

写真FG: 石灯篭(いしどうろう)と島津忠国 誕生杉の下部です。 忠国 誕生杉は5本あります。
島津忠国 誕生杉の間に、貞享5年(1688年)、穆佐地頭・あつかい役寄進の石灯篭(いしどうろう)が見えます。 この石灯篭は積みかさねの順番が、一番上とその下の部分が入れ替(か)わっています。
周(まわ)りの忠国誕生杉は、初代杉が明治7年に失火で燃えて、本町、小山田の吉野盛幸 氏が明治20年 (1887年)頃 植えた2代目のものです。
島津忠国はこの少し奥の穆佐城 二の丸(坪の城)で生まれました。



写真FH: 石灯篭(いしどうろう)と島津忠国 誕生杉の下部です。
島津忠国 誕生杉の間に、貞享5年(1688年)、穆佐地頭・あつかい役寄進の石灯篭(いしどうろう)が見えます。 この石灯篭は積みかさねの順番が、一番上とその下の部分が入れ替(か)わっています。
周(まわ)りの忠国誕生杉は、初代杉が明治7年に失火で燃えて、本町、小山田の吉野盛幸 氏が明治20年 (1887年)頃 植えた2代目のものです。
島津忠国はこの少し奥の穆佐城 二の丸(坪の城)で生まれました。



写真FI: 「穆佐城と人物(2) 島津久豊 (しまづひさとよ)、 島津久豊は、島津家の第8代当主です。 穆佐城を拠点として宮崎平野進出の機会をうかがいました。 墓は城の北、悟性寺跡にあります。」と書いてある看板(かんばん)があります。
穆佐城は、古くは穆佐院 政所(まんどころ、荘園の事務をつかさどった所)があったとされ、南北朝時代は日向国守護の城(今の県庁のようなもの。)であり、また南九州における南朝方と北朝方の戦いの場にもなりました。 応永10年(1403年)には、島津8代当主 島津久豊(ひさとよ)が穆佐城に入り、同じ年、忠国が城内に生まれています。 その後、文安2年(1445年)に伊藤祐尭(すけたか)の領地となりますが、天正5年(1577年)、伊東 氏 豊後没落後は、再び島津 氏の領地になりました。



写真FJ: 「島津忠国の誕生杉」の標識棒があります。 奥に島津忠国 誕生杉の説明板が見えます。
手前側にはすぐそばに「穆佐護国神社」があります。



写真FK: 遠くの看板の右の5本の大きな杉の木が「島津忠国の誕生杉 (2代目)」です。
穆佐城跡は、穆佐院 高城(宮崎市 高岡町)ともよばれ、三股院 高城(都城市)、新納院 高城(にいろいんたかじょう、木城町)とともに日向3高城して知られた、中世の山城です。



写真FL: 5本の「忠国の誕生杉」も中央右寄りに見えています。
縄張り図からそれぞれの曲輪群の役割が読みとれます。 曲輪群Aは複雑に組み合わされた小規模な曲輪や堀切で構成され、防御機能に特化しています。 城の中心にある曲輪群Bは、城内最高所に立地し厳重な土塁(どるい)を備えた主郭(しゅかく)や大小の曲輪群で構成され、政治の中枢、城主一族の屋敷地があったと考えられます。 島津忠国(ただくに)(島津9代当主)誕生の地とされる「坪之城(つぼのしろ)」もこの曲輪群内にあります。 曲輪群Cは大型の曲輪で構成され、居住に重点をおいた曲輪群、曲輪群Dは曲輪群Aと同様に北や西に対する防御機能を備えた曲輪群と考えられます。



写真FM: 先ほどの城跡の道を戻(もど)ります。



写真FN: 穆佐城跡の中の道です。



写真FO: 多くの杉の木があります。



写真FP: 城跡の道です。



写真FQ: この道を進みます。



写真FR: まだ若い杉も植えてあります。



写真FS: まだ若い杉も植えてあります。



写真FT: 穆佐城跡の若い杉林です。



写真FU: 穆佐城跡です。



写真FV: 杉の間に道があります。



写真FW: 穆佐城跡の杉の根元です。



写真FX: 穆佐城跡の杉の根元。



写真FY: 穆佐城跡の杉の根元です。



写真FZ: 穆佐城跡の中です。



写真GA: 穆佐城跡の道です。



写真GB: 「曲輪群 (くるわぐん)、 城内で区画された平坦地のことを曲輪といいます。 ここには、主郭 (本丸)など、城の政治的目的を持った曲輪が広がっています。」と書いてある看板があります。



写真GC: 穆佐城の主郭(しゅかく、本丸)の発掘調査のために切った杉の木が並(なら)べてあるのが見えてきました。



写真GD: 来た道を振り返ったもの。



写真GE: この左手は穆佐城 主郭(本丸)の発掘調査の現場です。



写真GF: この奥で穆佐城跡の発掘調査が行われていました。 左は一段高い曲輪(くるわ)になっています。 右の曲輪と左の一段高い曲輪が穆佐城の本丸跡 (主郭跡)です。
穆佐城が歴史の舞台に登場するのは、今をさかのぼること約660年前の南北朝時代。 大淀川が作り出した宮崎平野に位置する穆佐城は、足利尊氏 (あしかがたかうじ)の所領(後に尊氏の妻 赤橋 氏の所領)となると、南北朝の動乱に激しく巻き込まれました。 攻防を繰り広げたのが土持 氏・ 伊東 氏・肝付(きもつき) 氏など。 その中でも、日向守護(ひゅうがしゅご) 畠山直顕(はたけやまただあき)は、穆佐城を拠点として、遠くは大隅国(おおすみこく)までその勢力を広げました。
 その後、南北朝時代が終わりを告げると、その攻防は島津 氏と伊東 氏との争(あらそ)いへと引き継がれていきました。 応永10年(1403年)に穆佐城入りした島津久豊(ひさとよ)(後の第8代 島津家当主)は、穆佐と関係が深く、自身の墓(市指定史跡)をはじめ、息子(むすこ) 忠国(ただくに)(後の第9代当主)の誕生杉(市指定天然記念物)など、数々の遺跡が残っています。
 文安2年(1445年)から約130年余の間、伊東 氏による支配が続きますが、天正5年(1577年)、再び島津 氏の支配下に入ると、穆佐は去川関外(さるかわせきがい)四ケ郷の一つ、穆佐郷として幕末まで続きました。 そして、数々の攻防を繰り広げた穆佐城も、17世紀初め、武士の麓(ふもと)への移住がはじまると、その役割を終え、歴史の舞台から姿を消しました。
 穆佐城は、山の自然の地形を上手(うま)く利用した山城で、本丸・西の丸・新城に分かれていたと言われ、現在でもよくその全容を留めています。 一部発掘調査においても、14世紀から16世紀末の陶磁器などが出土しています。
南北朝時代は日向国守護の城で「今の県庁」に当たるものがこの穆佐城跡にありました。



写真GG: 発掘調査のために切った杉の木が積んでありました。



写真GH: 右奥に一段高い曲輪が見えます。



写真GI: 奥の新しい土盛は発掘調査で掘った土です。 この奥で発掘調査が行われていました。



写真GJ: この一段高いところも曲輪(くるわ、平らな所)です。



写真GK: 杉の丸太(まるた)が積(つ)んであります。



写真GL: 周(まわ)りの杉林は40数年経(た)っているそうです。
縄張り図からそれぞれの曲輪群の役割が読みとれます。 曲輪群Aは複雑に組み合わされた小規模な曲輪や堀切で構成され、防御機能に特化しています。 城の中心にある曲輪群Bは、城内最高所に立地し厳重な土塁(どるい)を備えた主郭(しゅかく)や大小の曲輪群で構成され、政治の中枢、城主一族の屋敷地があったと考えられます。 島津忠国(ただくに)(島津9代当主)誕生の地とされる「坪之城(つぼのしろ)」もこの曲輪群内にあります。 曲輪群Cは大型の曲輪で構成され、居住に重点をおいた曲輪群、曲輪群Dは曲輪群Aと同様に北や西に対する防御機能を備えた曲輪群と考えられます。



写真GM: 左は掘り起こしたシラス(白砂、火山灰や軽石の地層)です。 シラス台地に穆佐城跡はあるので、サクサクとした掘りやすい土質です。 奥に発掘現場のブルーシートが見えて来ました。



写真GN: 来た道を振り返ったもの。 右手前は掘り起こしたシラスです。 右奥は杉の丸太です。



写真GO: これが穆佐城跡の発掘現場です。 ちょうど発掘調査が行われていました。 お二人の方にお話を伺(うかが)うことが出来ました。 御礼申し上げます。
建物の柱の跡が多く見えます。 20年から30年で柱の土に埋めた部分が腐(くさ)るそうです。 何回も建て替(か)えたので多くの柱跡があるのだそうです。
奥に土塁(どるい、土を盛り上げて築いた、小さな砦(とりで))が見えます。



写真GP: 発掘現場の左側に多くの中型の石があります。 これは左の一段高い曲輪(くるわ、平らな所)から投げたものだそうです。 戦いの時に下の曲輪に攻めてきた敵兵に投げつけたものでしょうか? 上の曲輪にあらかじめ近くの川から運んであった石でしょう。



写真GQ: 左上の部分が下の曲輪(くるわ)から上の曲輪に登る道(階段)だそうです。
穆佐城跡は、穆佐院 高城(宮崎市 高岡町)ともよばれ、三股院 高城(都城市)、新納院 高城(にいろいんたかじょう、木城町)とともに日向3高城して知られた、中世の山城です。



写真GR: 左上に上の曲輪から投げた中型の石があります。
穆佐城跡から陶器、古銭、鉄砲玉、茶をひく臼(うす)[小型の臼]などが出土しています。 宮崎県内の山城の中でも古く、のり面を削(けず)って傾斜を急にするなど、防御に適しています。



写真GS: 宮崎県 宮崎市 高岡町 小山田にある穆佐城跡(むかさじょうあと)の発掘調査の現場です。
穆佐城跡から陶器、古銭、鉄砲玉、茶をひく臼(うす)[小型の臼]などが出土しています。 宮崎県内の山城の中でも古く、のり面を削(けず)って傾斜を急にするなど、防御に適しています。



写真GT: 発掘現場の一段高い曲輪側に多くの中型の石があります。 これは奥の一段高い曲輪(くるわ、平らな所)から投げたものだそうです。 戦いの時に下の曲輪に攻めてきた敵兵に投げつけたものでしょうか? 上の曲輪にあらかじめ近くの川から運んであった石でしょう。
興味深い石です。



写真GU: 奥に土塁(どるい、土を盛り上げて築いた、小さな砦(とりで))が見えます。 手前は発掘現場のブルーシートです。



写真GV: 曲輪(くるわ)から一段高い曲輪に登る所だそうです。



写真GW: 左上も曲輪です。



写真GX: 左の部分では上の曲輪に登る所の発掘調査が行われていました。



写真GY: これが上の曲輪に登る所だそうです。



写真GZ: 上の曲輪に登る所だそうです。



写真HA: 上の曲輪に登る所の上部です。
文安2年(1445年)から約130年余の間、伊東 氏による支配が続きますが、天正5年(1577年)、再び島津 氏の支配下に入ると、穆佐は去川関外(さるかわせきがい)四ケ郷の一つ、穆佐郷として幕末まで続きました。 そして、数々の攻防を繰り広げた穆佐城も、17世紀初め、武士の麓(ふもと)への移住がはじまると、その役割を終え、歴史の舞台から姿を消しました。



写真HB: 発掘現場から掘り出されたシラスです。 穆佐城跡は国指定史跡なので発掘調査が終わったら、また埋(う)め直(なお)すそうです。。



写真HC: 「土塁 (どるい)、 土で盛り上げるなどして造られた壁で、城の防御を高めるために設(もう)けられました。」と書いてある看板(かんばん)があります。



写真HD: 土塁(どるい)の先は深い崖(がけ)になっています。 この崖は堀切(ほりきり)で人の手で造られたものです。



写真HE: 土塁(どるい)の先は深い崖(がけ)になっています。 この崖は堀切(ほりきり)で人の手で造られたものです。



写真HF: 建物の柱の跡が多く見えます。 20年から30年で柱の土に埋めた部分が腐(くさ)るそうです。 何回も建て替(か)えたので多くの柱跡があるのだそうです。



写真HG: 建物の柱の跡が多く見えます。 20年から30年で柱の土に埋めた部分が腐(くさ)るそうです。 何回も建て替(か)えたので多くの柱跡があるのだそうです。
発掘現場の一段高い曲輪側に多くの中型の石があります。 これは奥の一段高い曲輪(くるわ、平らな所)から投げたものだそうです。 戦いの時に下の曲輪に攻めてきた敵兵に投げつけたものでしょうか? 上の曲輪にあらかじめ近くの川から運んであった石でしょう。



写真HH: 右寄りの奥は土塁(どるい)になっています。



写真HI: 宮崎県 宮崎市 高岡町 小山田にある穆佐城跡(むかさじょうあと)の発掘調査の現場です。
穆佐城跡から陶器、古銭、鉄砲玉、茶をひく臼(うす)[小型の臼]などが出土しています。 宮崎県内の山城の中でも古く、のり面を削(けず)って傾斜を急にするなど、防御に適しています。



写真HJ: 丸以外に四角の穴も見えます。
穆佐城跡から陶器、古銭、鉄砲玉、茶をひく臼(うす)[小型の臼]などが出土しています。 宮崎県内の山城の中でも古く、のり面を削(けず)って傾斜を急にするなど、防御に適しています。
穆佐城は、古くは穆佐院 政所(まんどころ、荘園の事務をつかさどった所)があったとされ、南北朝時代は日向国守護の城(今の県庁のようなもの。)であり、また南九州における南朝方と北朝方の戦いの場にもなりました。 応永10年(1403年)には、島津8代当主 島津久豊(ひさとよ)が穆佐城に入り、同じ年、忠国が城内に生まれています。 その後、文安2年(1445年)に伊藤祐尭(すけたか)の領地となりますが、天正5年(1577年)、伊東 氏 豊後没落後は、再び島津 氏の領地になりました。



写真HK: 奥に掘り出されたシラスの小山が見えます。
昔の陶器(とうき)、お茶を粉にする茶臼(ちゃうす)などが発掘されているそうです。



写真HL: 「→大規模な土塁 (大規模な堀切が展望できます)、←堀切 (堀の底へ降りられます)」と書いてある看板があります。



写真HM: 「→大規模な土塁 (大規模な堀切が展望できます)、←堀切 (堀の底へ降りられます)」と書いてある看板があります。



写真HN: 一段高い曲輪(くるわ)の発掘調査が行われていました。



写真HO: 一段高い曲輪(くるわ)の発掘調査が行われていました。



写真HP: 穆佐城跡(むかさじょうあと)の杉林です。



写真HQ: 杉林の中に道があります。



写真HR: 穆佐城跡にある杉林の中の道。



写真HS: 「穆佐城と人物(1) 畠山直顕 (はたけやまただあき)、 畠山直顕は、足利尊氏(あしかがたかうじ)の命により日向国守護となった人物です。 穆佐城に在城し、南九州における北朝方の中心となりました。」と書いてある看板があります。
畠山直顕(はたけやまただあき)の頃は「今の県庁」に当たるものがこの穆佐城跡にありました。



写真HT: 穆佐城跡の道を進みます。



写真HU: 孟宗竹(もうそうだけ)の竹林があります。



写真HV: ヤブツバキの花が落ちていました。
(参考までに)
サザンカは花びらが散らばって地面に落ちます。 ツバキは花がまとまって地面に落ちます。 これでツバキとサザンカを見分けることができます。



写真HW: 空き家になった民家が見えます。



写真HX: 地面に落ちた多くのヤブツバキの花が美しい。



写真HY: 木に咲いたヤブツバキの赤い花です。



写真HZ: 穆佐城跡の中です。



写真IA: 「←堀切の底、北側登城口 (堀切の底を通り抜けると高木兼寛 生誕地の下に出られます)」と書いてある看板があります。



写真IB: 宮崎市 高岡町 小山田にある穆佐城跡 (むかさじょうあと)の中の道です。



写真IC: 崖(がけ)があります。
宮崎県内の山城の中でも古く、のり面を削(けず)って傾斜を急にするなど、防御に適しています。



写真ID: このあたりも杉林になっています。



写真IE: 穆佐城跡の中です。



写真IF: 杉の下の様子(ようす)です。



写真IG: 穆佐城跡の道です。



写真IH: 「堀切 (ほりきり)、 今、立っているところは堀底です。 穆佐城では大規模な堀が造られ、通路として使用されていました。」と書いてある看板(かんばん)があります。



写真II: 城跡の道です。 ここは堀の底です。 ここが穆佐城で一番大きな堀(堀切)です。



写真IJ: 堀の壁です。 ここは崖(がけ)になっています。 ここが穆佐城で一番大きな堀(堀切)です。
宮崎県内の山城の中でも古く、のり面を削(けず)って傾斜を急にするなど、防御に適しています。




写真IK: 大きな堀の壁です。 ここは崖(がけ)になっています。 ここが穆佐城で一番大きな堀(堀切)です。
宮崎県内の山城の中でも古く、のり面を削(けず)って傾斜を急にするなど、防御に適しています。



写真IL: 杉林です。



写真IM: 宮崎市 高岡町にある穆佐城跡です。 ここが穆佐城で一番大きな堀(堀切)です。



写真IN: 高岡町にある穆佐城跡です。



写真IO: ここを進むと穆佐城跡の「北側登城口」に行きます。 ここが穆佐城で一番大きな堀(堀切)です。



写真IP: このあたりも植林された杉の木があります。



写真IQ: 崖になっています。
宮崎県内の山城の中でも古く、のり面を削(けず)って傾斜を急にするなど、防御に適しています。



写真IR: 北側登城口に行く道です。



写真IS: このあたりは堀切(ほりきり)になっています。 ここが穆佐城で一番大きな堀(堀切)です。



写真IT: 穆佐城跡の杉です。



写真IU: 穆佐城跡の杉。



写真IV: 崖(がけ)になっています。



写真IW: 杉林の中の道です。



写真IX: 穆佐城跡の道です。 かなり北側登城口に近づきました。



写真IY: 山水(湧(わ)き水)が流れています。 昔、城があった時にもおいしい水だったことでしょう。



写真IZ: 北側登城口に近づきました。 飲料水のタンクが見えます。



写真JA: 奥に湧き水(わきみず)があって、このタンクに貯(た)めてあります。 近くの人家で使用されているようです。



写真JB: 穆佐城跡の山水(湧き水)がある所です。



写真JC: 右はミカンの木があります。



写真JD: ミカンの実が付いていました。 北側登城口のそばです。



写真JE: ミカンの実が付いていました。 北側登城口のそば。



写真JF: 氏神様(うじがみさま)の祠(ほこら)かもしれません。 奥に見えます。



写真JG: ここが穆佐城跡の「北側登城口」です。



写真JH: 山水が流れています。 城跡のシラスに染(し)み込(こ)んだ雨水が湧き水となって出てきます。



写真JI: 北側登城口の所の車道に出ました。 左に登ると高木兼寛 生誕地があります。 高木兼寛 誕生地も穆佐城跡の曲輪(くるわ)の一つです。



写真JJ: ここが穆佐城跡の「北側登城口」です。 ミラーがあります。 前に白梅の花が咲いていました。 左に行くと高木兼寛 生誕地があります。 右に行くと県道28号線に行きます。



写真JK: これから高木兼寛(かねひろ)生誕地に行きます。 坂道を登って進みます。



写真JL: 振り返ったもの。 右に穆佐城跡の「北側登城口」があります。



写真JM: 振り返ったもの。 右に穆佐城跡の「北側登城口」があります。



写真JN: 緩(ゆる)やかな坂道を登って進みます。



写真JO: 左の脇道(わきみち)に、「町有地につき立入禁止 管理者」の看板があります。
左に大きなシダ類のハチジョウカグマ(タイワンコモアチシダ)が茂っていました。
今は通れませんが、この細い坂道も曲輪(くるわ)に登る登城口の一つのようです。 右手は高木兼寛 生誕地になっています。



写真JP: 宮崎県 宮崎市 高岡町にある「高木兼寛(かねひろ)生誕地」の入口です。



写真JQ: 宮崎市 高岡町にある「高木兼寛(かねひろ)生誕地」です。 穆佐城跡の曲輪(くるわ)の一つになっています。



写真JR: 宮崎県 宮崎市 高岡町にある「高木兼寛(かねひろ)生誕地」です。 穆佐城跡の曲輪(くるわ)の一つになっています。



写真JS: 宮崎市 高岡町にある「高木兼寛(かねひろ)生誕地」です。 穆佐城跡の曲輪(くるわ)の一つになっています。



写真JT: 脇道(わきみち)に、「町有地につき立入禁止 管理者」の看板があります。
左に大きなシダ類のハチジョウカグマ(タイワンコモアチシダ)が茂っていました。
今は通れませんが、この細い坂道も曲輪(くるわ)に登る登城口の一つのようです。 右手は高木兼寛 生誕地になっています。



写真JU: 「国指定史跡 穆佐城跡(むかさじょうあと)」の説明板が高木兼寛 誕生地の入り口にあります。
 穆佐城跡は、穆佐院 高城(宮崎市 高岡町)ともよばれ、三股院 高城(都城市)、新納院 高城(にいろいんたかじょう、木城町)とともに日向3高城として知られた、大変有名な中世の山城です。 今でも大規模な城の全容が良好な状態で保存されています。
 穆佐城跡は、標高約60 m の丘陵上に造られた全長600 m の山城で、大規模な堀切(ほりきり)によって大きく4つの地区(曲輪群(くるわぐん))に分かれています。 穆佐城のように防御性を発揮しやすい丘陵や台地上に立地し、大きな堀切で区切った独立性の高い曲輪群を並列させる造り方は、南九州地方の山城の特徴でもあります。
 縄張り図からそれぞれの曲輪群の役割が読みとれます。 曲輪群Aは複雑に組み合わされた小規模な曲輪や堀切で構成され、防御機能に特化しています。 城の中心にある曲輪群Bは、城内最高所に立地し厳重な土塁(どるい)を備えた主郭(しゅかく)や大小の曲輪群で構成され、政治の中枢、城主一族の屋敷地があったと考えられます。 島津忠国(ただくに)(島津9代当主)誕生の地とされる「坪之城(つぼのしろ)」もこの曲輪群内にあります。 曲輪群Cは大型の曲輪で構成され、居住に重点をおいた曲輪群、曲輪群Dは曲輪群Aと同様に北や西に対する防御機能を備えた曲輪群と考えられます。
 穆佐城は、古くは穆佐院 政所(まんどころ、荘園の事務をつかさどった所)があったとされ、南北朝時代は日向国守護の城であり、また南九州における南朝方と北朝方の戦いの場にもなりました。 応永10年(1403年)には、島津8代当主 島津久豊(ひさとよ)が穆佐城に入り、同じ年、忠国が城内に生まれています。 その後、文安2年(1445年)に伊藤祐尭(すけたか)の領地となりますが、天正5年(1577年)、伊東 氏 豊後没落後は、再び島津 氏の領地になりました。
指定年月日 平成14年3月19日
宮崎市教育委員会
と書かれています。
穆佐城想定図と穆佐城跡縄張り図も載っています。



写真JV: 「国指定史跡 穆佐城跡(むかさじょうあと)」の説明板です。
 穆佐城跡は、穆佐院 高城(宮崎市 高岡町)ともよばれ、三股院 高城(都城市)、新納院 高城(にいろいんたかじょう、木城町)とともに日向3高城として知られた、大変有名な中世の山城です。 今でも大規模な城の全容が良好な状態で保存されています。
 穆佐城跡は、標高約60 m の丘陵上に造られた全長600 m の山城で、大規模な堀切(ほりきり)によって大きく4つの地区(曲輪群(くるわぐん))に分かれています。 穆佐城のように防御性を発揮しやすい丘陵や台地上に立地し、大きな堀切で区切った独立性の高い曲輪群を並列させる造り方は、南九州地方の山城の特徴でもあります。
 縄張り図からそれぞれの曲輪群の役割が読みとれます。 曲輪群Aは複雑に組み合わされた小規模な曲輪や堀切で構成され、防御機能に特化しています。 城の中心にある曲輪群Bは、城内最高所に立地し厳重な土塁(どるい)を備えた主郭(しゅかく)や大小の曲輪群で構成され、政治の中枢、城主一族の屋敷地があったと考えられます。 島津忠国(ただくに)(島津9代当主)誕生の地とされる「坪之城(つぼのしろ)」もこの曲輪群内にあります。 曲輪群Cは大型の曲輪で構成され、居住に重点をおいた曲輪群、曲輪群Dは曲輪群Aと同様に北や西に対する防御機能を備えた曲輪群と考えられます。
 穆佐城は、古くは穆佐院 政所(まんどころ、荘園の事務をつかさどった所)があったとされ、南北朝時代は日向国守護の城であり、また南九州における南朝方と北朝方の戦いの場にもなりました。 応永10年(1403年)には、島津8代当主 島津久豊(ひさとよ)が穆佐城に入り、同じ年、忠国が城内に生まれています。 その後、文安2年(1445年)に伊藤祐尭(すけたか)の領地となりますが、天正5年(1577年)、伊東 氏 豊後没落後は、再び島津 氏の領地になりました。
指定年月日 平成14年3月19日
宮崎市教育委員会
と書かれています。
穆佐城想定図と穆佐城跡縄張り図も載っています。



写真JW: 穆佐城想定図です。



写真JX: 穆佐城跡縄張り図です。 曲輪群A、曲輪群B、曲輪群C、曲輪群Dも載っています。



写真JY: 「高木兼寛 生誕地、宮崎市教育委員会」の標識棒があります。



写真JZ: 「この穆園広場(ぼくえんひろば)の土地及び記念碑並びに庭園樹は東京慈恵会医科大学より寄贈されたものです。 平成2年4月21日」と書いてあります。



写真KA: 「穆園(ぼくえん)ひろば造成までの経過」の説明板。
 東京慈恵会医科大学 学祖 高木兼寛先生生誕のこの地は、かねてより先生の遺徳顕彰に役立つことを期待して、大学当局が確保しておりました。
 たまたま、昭和60年9月、この地を訪ねられた現学長 阿部正和先生は、杉の生い茂り荒廃した姿に心を痛められ、この地に、学祖生誕地記念碑を建立開花、遺徳顕彰の実をあげようと企画せられたのであります。
 直ちに、大学当局(理事長名取禮二先生)並びに同窓会(会長大平一郎先生)の同意の下、同窓会宮崎県支部(支部長原田正)が実務に当たり、同年12月、地元の福富造園が造成に着手しました。
 本計画が発表されますと、高岡町においても、将来この付近を町民憩いの場として公園化する開発企画に合致することから、町議会の承認を得て協力をいただき、また兼寛先生は、その前身 帝国生命保険株式会社の創設者でもあったことから、朝日生命保険相互会社におかれても、自発的に協賛せられてここに完成をみた次第であります。
昭和61年9月15日 東京慈恵会医科大学
と書かれています。



写真KB: 高木兼寛 生誕地の入り口付近です。 奥に車道も見えます。



写真KC: 「ビタミンの父 高木兼寛」の説明板があります。
「高岡町出身 ビタミンの父 高木兼寛 (たかきかねひろ、1849年〜1920年)」の説明板。
「病気を診(み)ずして病人を診よ」
 イギリスに留学中、多くの優秀賞、名誉賞を受賞し、明治13年11月に帰国した高木兼寛は、海軍中医監と同時に東京海軍病院長に命じられました。 このころの日本の海軍では、軍艦乗組員のなかに かつけ病患者が続出していました。 海軍軍医だった兼寛は、このかつけ病の絶滅に取り組みました。 
 このころ、かつけ病は細菌による伝染病と考えられていましたが、兼寛は、かつけ病は食事の栄養欠陥からおこると考え、「兵食改善」によるかつけ病の予防法に取り組みました。 そして、ようやく軍艦「筑波(つくば)」の航海実験をすることになりました。
 さきに、軍艦「龍驤」の航海で、乗組員の半数がかつけ病となり、「病者多し、航海できぬ金送れ」という悲痛な電報が龍驤から送られていたものが、兵食を改善した「筑波」から送られた電報は、「病者一人もなし、安心あれ」というものでした。 このことによって、兼寛の予防法が広く世界に認められることになりました。
 その後、ビタミンが発見され、かつけ病はビタミンB1の欠乏から起こることが分かりました。 イギリスのビタミン学界の第一人者レスリ・ハリスは、世界の8大ビタミン学者を写真入りで紹介し、そのなかで兼寛を2番目にとりあげ、偉大な業績を紹介しています。
 また兼寛は、東京慈恵会医科大学の創設、日本初の看護学校の創設、さらに、宮崎神宮の大造営など多くの偉業を成しとげました。
「病気を診(み)ずして病人を診よ」という兼寛の言葉は大変有名です。
平成7年3月30日 高岡町教育委員会
と書かれています。



写真KD: 高木兼寛 誕生地です。 宮崎県 宮崎市 高岡町にあります。



写真KE: 右寄りに高木兼寛の銅像が見えています。 左奥も穆佐城跡の曲輪(くるわ、平らな所)の一つです。



写真KF: 宮崎市 高岡町にある高木兼寛 生誕地の白梅の花です。 梅の奥に祠(ほこら)があります。



写真KG: 右は高木兼寛 誕生地の白梅の花です。



写真KH: 高木兼寛 生誕地にある祠(ほこら)です。



写真KI: 「天神宮 嘉永2年(1849年)」と書かれています。



写真KJ: 宮崎県の偉人の一人である「高木兼寛の銅像」です。 宮崎市 高岡町の穆佐城跡の曲輪の一つにあります。



写真KK: 高木兼寛の銅像です。
高木兼寛 生誕地にあります。



写真KL: 「高木兼寛先生之像」と彫(ほ)ってあります。 高木兼寛の銅像の下部です。



写真KM: 高木兼寛の銅像の側面に、「略 高木兼寛は嘉永2年9月15日(1849年)この地において大工 高木喜助の長男として生まれました。
 小さいときから家事の手伝いをしながらよく勉強し24歳で立派な官軍軍医となりました。
 そしてそれまでわからなかった脚気(かっけ)の原因をつきとめ予防法を確立しました。
 後に軍医総監や皇后待医に進み施療東京病院を創設して貧しい人々のために医療の道をひらき今の慈恵会医科大学も創設しました。
 こうして大正9年4月13日(1920年)に72歳で亡くなるまで全国を遊説して教育に尽(つ)くしあるいは郷土 宮崎神宮の造営に努力するなど生涯を国のため世のため人のためにつくしました。」
と書いてあります。



写真KN: 「東京慈恵会医科大学 学祖 高木兼寛先生生誕地 嘉永2年(1849年)9月15日生誕」と書いてあります。



写真KO: 「穆園ひろば、朝日生命」と書いてあります。
(「穆園(ぼくえん)ひろば造成までの経過」の説明板から)
高木兼寛先生は、その前身 帝国生命保険株式会社の創設者でもあったことから、朝日生命保険相互会社におかれても、自発的に協賛せられてここに完成をみた次第であります。



写真KP: 宮崎市 高岡町にある高木兼寛 生誕地から東を見た景色です。



写真KQ: 宮崎県 宮崎市 高岡町にある「高木兼寛 生誕地」から東を見た景色です。 大淀川の花見橋、東九州自動車道の橋も見えています。



写真KR: 高木兼寛 生誕地の奥は穆佐城跡の曲輪(くるわ、平らな所)の一つです。



写真KS: 高木兼寛 生誕地の奥は穆佐城跡の曲輪(くるわ、平らな所)の一つです。
縄張り図からそれぞれの曲輪群の役割が読みとれます。 曲輪群Aは複雑に組み合わされた小規模な曲輪や堀切で構成され、防御機能に特化しています。 城の中心にある曲輪群Bは、城内最高所に立地し厳重な土塁(どるい)を備えた主郭(しゅかく)や大小の曲輪群で構成され、政治の中枢、城主一族の屋敷地があったと考えられます。 島津忠国(ただくに)(島津9代当主)誕生の地とされる「坪之城(つぼのしろ)」もこの曲輪群内にあります。 曲輪群Cは大型の曲輪で構成され、居住に重点をおいた曲輪群、曲輪群Dは曲輪群Aと同様に北や西に対する防御機能を備えた曲輪群と考えられます。



写真KT: 高木兼寛 生誕地の奥は穆佐城跡の曲輪(くるわ、平らな所)の一つです。



写真KU: 高木兼寛 生誕地の奥は穆佐城跡の曲輪(くるわ、平らな所)の一つです。



写真KV: 高木兼寛 生誕地の車道の反対側の崖(がけ)に丸い穴が開いていました。



写真KW: この上は穆佐城跡の曲輪(くるわ、平らな所)になっています。



写真KX: 左のミラーがある所が穆佐城跡の「北側登城口」です。 右に北側登城口のそばの梅の花が満開です。



写真KY: 左のミラーがある所が穆佐城跡の「北側登城口」です。 右に北側登城口のそばの梅の花が満開です。



写真KZ: 北を見た景色です。



写真LA: T字路に「→国指定史跡 穆佐城跡、中世の戦乱の舞台 穆佐城跡、むかさじょうあと 宮崎市教育委員会」と書いてある標識棒があります。



写真LB: 後ろの山は穆佐城跡です。 北から見たもの。 T字路に「→国指定史跡 穆佐城跡、中世の戦乱の舞台 穆佐城跡、むかさじょうあと 宮崎市教育委員会」と書いてある標識棒があります。
穆佐城が歴史の舞台に登場するのは、今をさかのぼること約660年前の南北朝時代。 大淀川が作り出した宮崎平野に位置する穆佐城は、足利尊氏 (あしかがたかうじ)の所領(後に尊氏の妻 赤橋 氏の所領)となると、南北朝の動乱に激しく巻き込まれました。 攻防を繰り広げたのが土持 氏・ 伊東 氏・肝付(きもつき) 氏など。 その中でも、(足利尊氏が派遣した)日向守護(ひゅうがしゅご) 畠山直顕(はたけやまただあき)は、穆佐城を拠点として、遠くは大隅国(おおすみこく)までその勢力を広げました。



写真LC: 奥の山は穆佐城跡です。 北から見たもの。 
来た道を振り返ったもの。
穆佐城は、古くは穆佐院 政所(まんどころ、荘園の事務をつかさどった所)があったとされ、南北朝時代は日向国守護の城(今の県庁のようなもの。)であり、また南九州における南朝方と北朝方の戦いの場にもなりました。 応永10年(1403年)には、島津8代当主 島津久豊(ひさとよ)が穆佐城に入り、同じ年、忠国が城内に生まれています。 その後、文安2年(1445年)に伊藤祐尭(すけたか)の領地となりますが、天正5年(1577年)、伊東 氏 豊後没落後は、再び島津 氏の領地になりました。



写真LD: 後ろの山は穆佐城跡です。 北から見たもの。
菊池武光によって畠山直顕は「穆佐城」を落城させられました。 畠山直顕の子、畠山宗泰がいた三股院 高城に畠山直顕は逃(のが)れました。 追ってきた菊池武光と千町川原(戦場川原)で戦いましたが、敗戦し三股院 高城も失って日向国の山中に逃れました。
 応永年間(室町時代、1394年〜1428年)に、伊東が支配していた「穆佐城」を薩摩の島津元久が攻め取って、その子、島津久豊を城主にしました。 島津久豊が薩摩に戻り島津宗家家督(かとく)を継(つ)ぎました。 文安2年(1445年)に伊東祐尭(すけたか)によって取り返され、伊東48城の一つとなリました。 落合治部少輔を城主としました。 天正5年(1577年)の伊東の豊後落ちにより島津の領地になって、樺山則久が城主となりました。
穆佐城は「伊東48城」の1つでもあります。
「伊東48城」は都於郡城主あるいは佐土原城主だった伊東義祐のときに完成しました。 城と城の間隔は約数km〜10 kmぐらいです。 これで日向の大部分を領地にしていたときの、支配体制を固めました。 伊東四十八城とは、 門川城、日知屋城塩見城、 高千穂城、 入下城、 水清谷城、 田代城、 坪谷城、 山陰城、 神門城、 雄八重城、 石城、 都於郡城佐土原城、高城、 財部城 、富田城、 穂北城、 三納城、 平野城、 那珂城、 八代城、 本庄城、 守永城、 石塚城、 宮崎城、 倉岡城、 曽井城、 綾城、 穆佐城、 飯田城、本脇城、 高岡城、 染野城、 紙屋城、 野久尾城、 飫肥城、 戸崎城、 野尻城、 三山城、 高原城、 清武城、 田野城、 紫波洲崎城、 瀬平城、 酒谷城、 目井城、 須木城 です。
(太字は主要な城です。) これとは別に「伊東八外城」は日和城(ひわんじょう)を中心本城として山之口城、松尾城(三股城)、梶山城、勝岡城、小山城、野々美谷城、下ノ城を支城としていました。



写真LE: 南東を見たもの。 山は穆佐城跡。
穆佐城跡は、標高約60 m の丘陵上に造られた全長600 m の山城で、大規模な堀切(ほりきり)によって大きく4つの地区(曲輪群(くるわぐん))に分かれています。 穆佐城のように防御性を発揮しやすい丘陵や台地上に立地し、大きな堀切で区切った独立性の高い曲輪群を並列させる造り方は、南九州地方の山城の特徴です。



写真LF: 南東を見たもの。 先に行くと県道28号線に行きます。 右の山は穆佐城跡です。
文安2年(1445年)から約130年余の間、伊東 氏による支配が続きますが、天正5年(1577年)、再び島津 氏の支配下に入ると、穆佐は去川関外(さるかわせきがい)四ケ郷の一つ、穆佐郷として幕末まで続きました。 そして、数々の攻防を繰り広げた穆佐城も、17世紀初め、武士の麓(ふもと)への移住がはじまると、その役割を終え、歴史の舞台から姿を消しました。
穆佐城の城主には赤橋氏、伊東祐広、畠山直顕、伊東氏、島津豊久、落合氏、樺山規久などがなりました。



写真LG: 北西を見たもの。



写真LH: バス停「高木兼寛生誕地入口、宮崎交通」があります。



写真LI: 白梅の花が美しい。 後ろの山は穆佐城跡。
縄張り図からそれぞれの曲輪群の役割が読みとれます。 曲輪群Aは複雑に組み合わされた小規模な曲輪や堀切で構成され、防御機能に特化しています。 城の中心にある曲輪群Bは、城内最高所に立地し厳重な土塁(どるい)を備えた主郭(しゅかく)や大小の曲輪群で構成され、政治の中枢、城主一族の屋敷地があったと考えられます。 島津忠国(ただくに)(島津9代当主)誕生の地とされる「坪之城(つぼのしろ)」もこの曲輪群内にあります。 曲輪群Cは大型の曲輪で構成され、居住に重点をおいた曲輪群、曲輪群Dは曲輪群Aと同様に北や西に対する防御機能を備えた曲輪群と考えられます。



写真LJ: 石造物があります。 村の境界などによくあります。 花が供(そな)えてあります。



写真LK: 左はサンスポーツランド高岡という運動公園です。



写真LL: 「急傾斜地崩壊危険箇所 第900号 地区」と書いてあります。 麓(ふもと)は字名(あざめい)です。



写真LM: 杉の木などを伐採(ばっさい)していました。 穆佐城跡の城山です。



写真LN: ワイワーロープも見えます。 杉の木などを伐採していました。



写真LO: 穆佐城跡の城山の遊歩道の竹の柵(さく)が中央部に見えています。 先ほど歩いた所です。



写真LP: 穆佐城跡の城山の遊歩道の竹の柵(さく)が見えています。 先ほど歩いた所です。 下には枯(か)れすすきが見えます。
穆佐城跡は、穆佐院 高城(宮崎市 高岡町)ともよばれ、三股院 高城(都城市)、新納院 高城(にいろいんたかじょう、木城町)とともに日向3高城して知られた、中世の山城です。



写真LQ: 左はサンスポーツランド高岡という運動公園です。



写真LR: 東の方の高台に新しい穆佐小学校 (むかさしょうがっこう)が見えます。 穆佐小学校のグラウンドも見えています。



写真LS: 山の中腹にこのような石造物があります。 しめ縄がしてあります。



写真LT: バス停「穆佐小前、宮崎交通」があります。



写真LU: 穆佐支所(むかさししょ)、穆佐小学校 (むかさしょうがっこう)がある高台です。
新しい穆佐小学校が見えています。 穆佐小学校のグラウンドも見えます。



写真LV: 「ビタミンの父 高木兼寛 生誕地 (穆園(ぼくえん)ひろば)、800 m →」と書いてある看板(かんばん)があります。



写真LW: 南東を見たもの。



写真LX: 右に石碑(せきひ)があります。 これは「顕彰碑(けんしょうひ)。西南之役戦没者戦友」と書いてある石碑です。 右奥は旧 穆佐小学校です。 道を先に進みます。



写真LY: 「顕彰碑(けんしょうひ)。西南之役戦没者戦友」と書いてある石碑(せきひ)です。
これは西南の役の103年後の昭和55年10月吉日に建立されました。 裏面の碑文(ひぶん)によると、明治10年の西南の役に西郷軍に従い戦死した人を慰霊するために旧 穆佐小学校の西にある「招魂墓」が、西南戦争の戦友有志の温(あたた)かい心づくしで造られました。 招魂墓は太平洋戦争後に今の位置に移されました。



写真LZ: 「顕彰碑(けんしょうひ)。西南之役戦没者戦友」と書いてある石碑(せきひ)。
これは西南の役の103年後の昭和55年10月吉日に建立されました。 裏面の碑文(ひぶん)によると、明治10年の西南の役に西郷軍に従い戦死した人を慰霊するために旧 穆佐小学校の西にある「招魂墓」が、西南戦争の戦友有志の温(あたた)かい心づくしで造られました。 招魂墓は太平洋戦争後に今の位置に移されました。



写真MA: 旧 穆佐小学校のグラウンドが右手にあります。



写真MB: グラウンドの奥の山は穆佐城跡の城山です。 北東から見たもの。



写真MC: はじめに渡った麓川の下門橋です。 右に進みます。



写真MD: 右は旧 穆佐小学校です。



写真ME: はじめに見た穆佐城跡の説明板、石灯籠(いしどうろう)、石碑(せきひ)がある場所に戻(もど)って来ました。
旧 穆佐小学校の西側です。



写真MF: 「献燈(けんとう) 穆佐村 戦友会、昭和29年11月28日」と書いてある石灯籠(いしどうろう)です。



写真MG: 穆佐護国神社(むかさごこくじんじゃ)の参道にある階段です。 これから登って護国神社に行きます。 この階段ははじめにも途中(とちゅう)まで登りました。



写真MH: 左手は駐車場です。



写真MI: 右に御手洗(みたらい)があります。 山水が引いてあります。 飲んでみました。 シラス台地にしみこんだ雨水が染(し)み出したもので、とても美味(おい)しく感じました。



写真MJ: 先ほど穆佐稲荷神社に行った道です。 右を見たもの。



写真MK: 左手にも道があります。



写真ML: 穆佐城跡にある「穆佐護国神社」です。 鳥居(とりい)としめ縄、拝殿(はいでん)の屋根が階段の上に見えます。



写真MM 穆佐護国神社の木製の鳥居(とりい)です。 しめ縄、御幣(ごへい)があります。 奥に拝殿が見えます。



写真MN: 鳥居の下部です。 3段の階段もあります。



写真MO: 宮崎県 宮崎市 高岡町 小山田にある穆佐城跡に「穆佐護国神社」があります。 拝殿のしめ縄、御幣(ごへい)も見えます。 境内(けいだい)は苔(こけ)むしていて、趣(おもむ)きがあります。 この神社の奥(西)に「島津忠国の誕生杉」があります。



写真MP: 護国神社の上方の様子(ようす)です。



写真MQ: 護国神社の上方の様子(ようす)。



写真MR: 右手に低い崖(がけ)があります。



写真MS: くぐって来た鳥居を振り返ったもの。



写真MT: 左手外に道が見えます。



写真MU: 宮崎市 高岡町 小山田にある「護国神社」です。



写真MV: 拝殿の横木に彫(ほ)り物がしてあります。



写真MW: 穆佐護国神社の拝殿です。



写真MX: 護国神社の中です。



写真MY: 穆佐護国神社の拝殿。 鳥居は右手にあります。



写真MZ: 穆佐護国神社の拝殿の上部です。



写真NA: 穆佐護国神社の拝殿の下部です。



写真NB: 左は護国神社の本殿、右は拝殿です。



写真NC: 本殿の下部です。



写真ND: 中に白い御幣(ごへい)も見えます。



写真NE: 穆佐護国神社の本殿です。



写真NF: 穆佐護国神社の奥(にし)に市指定天然記念物の「島津忠国の誕生杉」があります。 中央奥の木が島津忠国の誕生杉です。
島津忠国の誕生杉は先ほども見ました。 左に階段が見えます。
菊池武光によって畠山直顕は「穆佐城」を落城させられました。 畠山直顕の子、畠山宗泰がいた三股院 高城に畠山直顕は逃(のが)れました。 追ってきた菊池武光と千町川原(戦場川原)で戦いましたが、敗戦し三股院 高城も失って日向国の山中に逃れました。
 応永年間(室町時代、1394年〜1428年)に、伊東が支配していた「穆佐城」を薩摩の島津元久が攻め取って、その子、島津久豊を城主にしました。 島津久豊が薩摩に戻り島津宗家家督(かとく)を継(つ)ぎました。 文安2年(1445年)に伊東祐尭(すけたか)によって取り返され、伊東48城の一つとなリました。 落合治部少輔を城主としました。 天正5年(1577年)の伊東の豊後落ちにより島津の領地になって、樺山則久が城主となりました。



写真NG: 「←市指定天然記念物 島津忠国の誕生杉 (坪の城)、主郭(しゅかく)・曲輪群・堀切→」と書いてある看板があります。 



写真NH: 右寄りの5本の木が市指定天然記念物の「島津忠国 誕生杉」です。
「島津忠国の誕生杉、宮崎市教育委員会」の標識棒、島津忠国の誕生杉の説明板も見えます。
南北朝時代が終わりを告げると、その攻防は島津 氏と伊東 氏との争(あらそ)いへと引き継がれていきました。 応永10年(1403年)に穆佐城入りした島津久豊(ひさとよ)(後の第8代 島津家当主)は、穆佐と関係が深く、自身の墓(市指定史跡)をはじめ、息子(むすこ) 忠国(ただくに)(後の第9代当主)の誕生杉(市指定天然記念物)など、数々の遺跡が残っています。



写真NI: 中央の5本の木が市指定天然記念物の「島津忠国 誕生杉」です。
穆佐城は「伊東48城」の1つでもあります。
「伊東48城」は都於郡城主あるいは佐土原城主だった伊東義祐のときに完成しました。 城と城の間隔は約数km〜10 kmぐらいです。 これで日向の大部分を領地にしていたときの、支配体制を固めました。 伊東四十八城とは、 門川城、日知屋城塩見城、 高千穂城、 入下城、 水清谷城、 田代城、 坪谷城、 山陰城、 神門城、 雄八重城、 石城、 都於郡城佐土原城、高城、 財部城 、富田城、 穂北城、 三納城、 平野城、 那珂城、 八代城、 本庄城、 守永城、 石塚城、 宮崎城、 倉岡城、 曽井城、 綾城、 穆佐城、 飯田城、本脇城、 高岡城、 染野城、 紙屋城、 野久尾城、 飫肥城、 戸崎城、 野尻城、 三山城、 高原城、 清武城、 田野城、 紫波洲崎城、 瀬平城、 酒谷城、 目井城、 須木城 です。
(太字は主要な城です。) これとは別に「伊東八外城」は日和城(ひわんじょう)を中心本城として山之口城、松尾城(三股城)、梶山城、勝岡城、小山城、野々美谷城、下ノ城を支城としていました。



写真NJ: 曲輪(くるわ、平らな所)に忠国の誕生杉があります。 護国神社の少し西にあります。



写真NK: 忠国誕生杉のある曲輪(くるわ)です。



写真NL: 地面に美しい植物があります。



写真NM: 護国神社の本殿(左)と拝殿が見えます。



写真NN: 護国神社の南側に道があります。 これを下(くだ)ります。



写真NO: 椎茸(しいたけ)栽培(さいばい)の原木があります。



写真NP: 左に山水が流れています。



写真NQ: 左に護国神社の長い階段に行く道があります。



写真NR: これから右の道を下(くだ)ります。



写真NS: この道を下ります。



写真NT: 旧 穆佐小学校が見えて来ました。 この先を左に行くとはじめの駐車場に行きます。



写真NU: 駐車場の車が見えてきました。



写真NV: 駐車場に戻(もど)りました。



写真NW: 駐車場から見上げた穆佐城跡の城山です。



by 南陽彰悟 (NANYO Shogo)