宮崎城址 (みやざきじょうし、宮崎城跡) (宮崎市)





<標高、位置>   宮崎城本丸跡は
標高 約90 m
 北緯31度57分59秒  東経131度24分34秒


 宮崎城跡は池内城跡あるいは龍峰城跡、目曳城跡(めびきじょうあと)とも言われます。 宮崎県宮崎市 池内町にあります。
 標高 約90 m の山城です。 近くに満願寺跡があります。 丘陵の尾根に曲輪(くるわ、平らなところ)がいくつかある大規模な城郭で、南北700m、東西500mにおよびます。 南には、大淀川が西から東に曲がって流れ、天然の濠(ほり)になっていました。
 初めに、南北朝時代の図師六郎入道慈円が宮崎城を造った。 次いで伊東の日向48城の一つとして、都於郡城の後に佐土原城などと同じく整備され、伊東の豊後(大分県)落ちの後、島津の城になりました。 豊臣秀吉の九州征服の後は延岡の高橋の城となり、関ヶ原の戦いの直後に、清武城主の伊東の家臣 稲津重昌(稲津掃部助重政)により攻められ、高橋藩の家老で宮崎城主の権藤種盛など約100名で防戦しましたが、数倍の兵の稲津に破れ、1600年10月1日に城主以下討ち死にし、落城しました。 *[「稲津掃部助重政の墓」は清武町にあります。 稲津掃部助重政は若年より初代飫肥藩主 伊東祐兵(いとうすけたけ)の小姓となり、元来 勇気知謀に長(た)けていたため朝鮮出兵時は19歳ながら祐兵に重用され、さらに25歳にして地頭職を給(たま)わり清武城主となった人物である。
 慶長5年(1600年)の関ヶ原の合戦にあたり、参戦したものの大阪で病に倒れた主君  祐兵の功績にと、稲津掃部助は延岡藩高橋氏の宮崎城(現 宮崎市池内)を攻め落とし、城主 権藤種盛を討ち取った。 しかしこのとき石田方(豊臣方)と思われていた高橋氏は徳川方に寝返っており、結果的に同士討ちとなってしまった。 さらに伊東祐兵もそのまま病死し、跡を継いだ祐慶(すけのり)が幼少であったことから、これまで稲津掃部助の重用を疎(うと)ましく思っていた藩の重臣らがこの責任を稲津掃部助 一人に負わせるなどしたため伊東祐慶は切腹を言い渡すこととなった。
 これに納得できない稲津掃部助は清武城に立てこもるが伊東祐慶の派兵を受けてついに自刃(じじん)し、29年の生涯を閉じた (稲津の乱)。 
 またこの時、稲津掃部助の妻 雪江もわずか15歳ながら退去の勧めを退(しりぞ)けて稲津掃部助と運命を共にしている。]*
 1615年江戸幕府の一国一城令で、宮崎城は当時 延岡藩の城でしたが、廃城になりました。
 2000年10月に落城400年祭が行われました。


写真A: 宮崎城跡がある山。 標高約90 m。 宮崎県宮崎市 池内にあります。



写真B: 県道44号線の幸福寺というバス停が近くにあります。 幸福寺は今はありません。 地名だけが残っています。



写真C: 県道44号線 宮崎高鍋線の標識。



写真D: 宮崎城址(みやざきじょうし)の古い標識。 ここから西へ500 m、徒歩で10分。 宮崎城は南北朝時代から近世にかけて、築かれた山城です。



写真E: 宮崎城址の入り口。 この左への道を進みます。



写真F: 道ばたに露草の花が咲いていました。



写真G: 宮崎城跡入り口(満願寺口)の標識。



写真H: 途中にヒガンバナが咲いていました。



写真I: 満願寺址への道しるべ。



写真J: 三叉路(さんさろ)にある石像。



写真K: 宮崎城址 満願寺口 400年祭 と書かれた門。 門をくぐって登っていきます。



写真L: 宮崎城址の案内板。 本丸や野首城(目曳城(めびきじょう))・服部城・百貫城・射場城・彦右衛門城などの位置が地図に載っています。



写真M: 宮崎城址の説明板。



写真N: 満願寺跡に行く道。



写真O: 満願寺跡のそばに住職などの墓があります。



写真P: 満願寺跡 近くの墓。



写真Q: 満願寺跡付近の石像。



写真R: 満願寺跡。 第二次世界大戦直後の台風で、それまであった満願寺の建物が倒れたそうです。 いまは人家、畑になっています。



写真S: 正面の山に宮崎城本丸跡があります。



写真T: 門は平成12年10月の落城400年祭の時に建てられました。



写真U: 門を通って、振り返ってみた景色。



写真V: 宮崎城址への道。



写真W: 所々、竹や木が倒れています。 台風で倒れたものと思われます。



写真X: 杉の木が植えてあるところは、以前は畑だったそうです。 畑には茶やサツマイモが植えてあったそうです。



写真Y: 孟宗竹(もうそうだけ)もあります。



写真Z: 宮崎城跡の道。 落城400年祭の少し前に、ショベルカーで道などを整備したそうです。



写真AA: 三叉路(さんさろ)。 左は本丸跡へ、右は服部城跡へ。



写真AB: 登山道の指導標。 左は本丸城址、右は目曳城址(めびきじょうし)



写真AC: 本丸跡に行く道。



写真AD: 宮崎城本丸跡に行く道。



写真AE: 丸太の階段もあります。



写真AF: 奥の明るい(白い)所が本丸跡です。



写真AG: 本丸城跡の標識。 島津の家老 上井覚兼(うわいかくけん)が城主だったときに書いた「上井覚兼日記」は、当時(1577〜1587)の城中の生活や当時の宮崎の様子が分かる貴重な資料となっています。



写真AH: 宮崎城本丸跡。 以前はここは、茶やサツマイモが植えられていたそうです。



写真AI: 宮崎城本丸跡。



写真AJ: 宮崎城本丸跡。 上を送電線が通っていて、近くにその鉄塔があります。



写真AK: 宮崎城の道。



写真AL: 宮崎城跡の指導標。



写真AM: ここにも目曳城(めびきじょう)がありました。



写真AN: ここにも目曳城(めびきじょう)がありました。



写真AO: 宮崎城跡の道の指導標。 左が目曳城址(めびきじょうし)で右が服部城跡、記念碑。



写真AP: 服部城跡への道。 階段もあります。



写真AQ: 服部城跡。 以前はここは、サツマイモや茶の畑になっていたそうです。



写真AR: 服部城跡の標識。



写真AS: 服部城跡の石碑(せきひ)。 左は落城350年祭、右は落城400年祭(平成12年10月)のもの。 中央の石碑は天明4年に建てられた天明の大飢饉の時のもの。



写真AT: 宮崎城350年祭記念碑。



写真AU: 天明の大飢饉(天明4年)のときの石碑。



写真AV: 宮崎城400年記念碑。



写真AW: 宮崎城の服部城跡。



写真AX: 宮崎城跡にある服部城跡。



写真AY: 服部城跡にはベンチがありました。



写真AZ: 登った道とは別の山道を下ります。



写真BA: 宮崎城跡の下り道。



写真BB: 椎茸(しいたけ)と茶の設備の建物の裏で、作業が行われていました。



写真BC: この左の道に降りてきました。



写真BD: 茶とシイタケの設備の建物の左にも、今降りてきた宮崎城跡への道があります。



写真BE: 左に見えているのは出発の時に通った門です。



写真BF: 出発点に戻ってきました。



写真BG: 近くの大きな病院(古賀病院)の駐車場付近に、宮崎城落城の時の戦死者の墓があります。



写真BH: このバス停の右にその墓があります。



写真BI: 宮崎城落城の時の戦死者の墓。



写真BJ: 宮崎城落城時の戦死者の墓。 宮崎城落城の時に戦死した城主(権藤種盛)の弟、権藤八右衛門の墓と伝えられています。 八右衛門は槍(やり)の名手だったそうです。



写真BK: 墓の説明板。



写真BL: 宮崎城落城の時に戦死した城主(権藤種盛)の弟、権藤八右衛門の墓と伝えられています。 八右衛門は槍(やり)の名手だったそうです。



by 南陽彰悟 (NANYO Shogo)