宮崎特攻基地慰霊碑(桜の花)、掩体壕(えんたいごう) (宮崎特攻慰霊碑、宮崎特攻基地跡、赤江海軍練習航空隊の門柱(史跡)、宮崎空港、JR宮崎空港線(JRの最短路線)、JR宮崎空港駅、宮崎とっこう基地いれいひ、特攻隊慰霊碑)  (宮崎市 本郷北方、大字赤江 飛江田)






<標高、位置>  宮崎特攻基地慰霊碑は
標高 約数 m
 北緯31度52分26秒  東経131度25分58秒

<標高、位置>  JR宮崎空港駅は
標高 約数 m
 北緯31度52分21秒  東経131度26分25秒

<標高、位置>  宮崎空港は
標高 約数 m
 北緯31度52分22秒  東経131度26分30秒

<標高、位置>  宮崎市 大字本郷にある掩体壕(えんたいごう)は
標高 約10 m
 北緯31度52分02秒  東経131度25分34秒


 「宮崎特攻基地慰霊碑」は宮崎県宮崎市本郷北方にあります。 宮崎空港の西に隣接しています。 慰霊碑は1983年に建立(こんりゅう)されました。 1980年に宮崎特攻基地慰霊碑建立期成同盟会ができ、3年後、鎮魂(ちんこん)の碑(ひ)が完成し、1998年には墓碑銘が建立されました。 毎年4月の第一日曜日に慰霊祭が行われています。 

 JR九州 「宮崎空港駅」は宮崎県宮崎市大字赤江 飛江田にあります。 宮崎空港のターミナルビルに接しています。 JR九州宮崎空港線の駅で、同線の終点です。 宮崎空港線はJRで最も営業キロの短い路線(1.4 km)で、鉄道マニアには人気があります。

 「宮崎空港」は宮崎県宮崎市大字赤江 飛江田にあり、空港面積: 1.766.119 平方メートル、滑走路: 2.500メートルx45メートル、エプロン: 16バース(大型ジェット用5、中型ジェット用2、小型ジェット用1、プロペラ機用2、小型機用6。
ターミナルビル: 地上3階一部4階、床面積: 約28.200平方メートル。

 「掩体壕(えんたいごう)」は第二次世界大戦中に作られたものです。 米軍の攻撃から日本軍の飛行機を守るための格納庫です。 赤江、東郷地区に残っています。 本郷地区の掩体壕(えんたいごう)は南バイパス近くの小さな山のそばにあります。 コンクリート製のカマボコ型をしています。


写真A: 宮崎県宮崎市大字赤江 飛江田にある「宮崎空港」です。
「JR宮崎空港駅」は宮崎空港ターミナルビルの西側に隣接してあります。
「宮崎特攻基地慰霊碑」は宮崎空港駅のそばを通って、高架線の下を西に歩きます。
宮崎空港は空港面積: 1.766.119 平方メートル、滑走路: 2.500メートルx45メートル、エプロン: 16バース(大型ジェット用5、中型ジェット用2、小型ジェット用1、プロペラ機用2、小型機用6。
ターミナルビル: 地上3階一部4階、床面積: 約28.200平方メートル。 



写真B: 宮崎空港ターミナルビル。 奥にJR宮崎空港駅の階段が見えます。



写真C: JR九州 「宮崎空港駅」は宮崎県宮崎市大字赤江 飛江田にあります。 宮崎空港のターミナルビルに接しています。 JR九州宮崎空港線の駅で、同線の終点です。 宮崎空港線はJRで最も営業キロの短い路線(1.4 km)で、鉄道マニアには人気があります。



写真D: 「宮崎特攻基地慰霊碑」に行くには、宮崎空港駅から高架鉄道の下を西に歩きます。



写真E: JR宮崎空港線の高架の様子。
「宮崎特攻基地慰霊碑」に行くには、宮崎空港駅から高架鉄道の下を西に歩きます。



写真F: 「宮崎特攻基地慰霊碑」に行く途中に、宮崎空港のレーダーアンテナが見えます。



写真G: 「宮崎特攻基地慰霊碑」に行くには、JR宮崎空港線に沿(そ)って西に歩きます。 左に赤いニッポンレンタカーの看板(かんばん)、建物が見えてきます。



写真H: 「宮崎特攻基地慰霊碑」に行く途中、赤いニッポンレンタカーの看板、建物があります。



写真I: 「宮崎特攻基地慰霊碑」に行く途中、しばらく歩くと、日産レンタカーの建物が見えてきます。



写真J: 「宮崎特攻基地慰霊碑」に行く途中、しばらく歩くと、日産レンタカーの建物が見えてきます。



写真K: 「宮崎特攻基地慰霊碑 宮崎市」と書かれた標識。
後ろはJR宮崎空港線の高架。
宮崎空港線は宮崎県宮崎市の田吉駅(たよし駅)から宮崎空港駅を結ぶJR九州の鉄道路線(幹線)です。 1996年7月18日に開通しました。 宮崎空港へのアクセス路線として建設されました。 日南線から列車が乗り入れています。 路線距離: JRで最も営業キロの短い1.4 km、駅数: 2(田吉駅と宮崎空港駅)、全線単線、全線電化(交流20.000 V、60 Hz)。



写真L: 特攻慰霊碑に行く途中に日米商会航空部(飛行機の燃料補給)があります。



写真M: この川の橋のそばに特攻基地慰霊碑があります。



写真N: 橋の東側にある昭和18年12月1日赤江海軍練習航空隊発足時に設置された「門柱」と説明板。



写真O: 門柱の説明板。
史跡
この門柱は、昭和18年12月1日赤江海軍練習航空隊発足時に設置されたものと伝えられています。 40余年の風雪を物語る唯一の遺跡と言えましょう。
平成2年4月1日 宮崎特攻基地慰霊碑奉賛会
と書いてあります。



写真P: 赤江海軍練習航空隊の「門柱」が残っています。



写真Q: こちら側にも赤江海軍練習航空隊の「門柱」が残っています。



写真R: 宮崎県宮崎市本郷北方にある「宮崎特攻基地慰霊碑」の説明板。
陸軍 飛龍(四式重爆撃機)(PEGGY)、海軍 銀河(陸上爆撃機)(FRANCIS)
 宮崎基地より出撃した銀河特攻機47機、搭乗員140名ならびに陸海攻撃、雷撃作戦に出撃した搭乗員605名が散華しました。 このゆかりの地に鎮魂の碑、墓銘碑を建立しております。
平成11年3月
宮崎特攻基地慰霊碑奉賛会
と書かれています。



写真S: 宮崎特攻基地慰霊碑の入り口。



写真T: 宮崎特攻基地慰霊碑の入り口から東の方の宮崎空港を見た様子。



写真U: 宮崎特攻基地慰霊碑の入り口から東の方の宮崎空港を見た様子。



写真V: 宮崎特攻基地慰霊碑の入り口から北を見た景色。 赤い物は宮崎空港の施設。 川が流れています。



写真W: 宮崎特攻基地慰霊碑の入り口から西を見た景色。



写真X: 宮崎特攻基地慰霊碑の入り口から西を見た景色。 住宅地も見えます。



写真Y: 宮崎特攻基地慰霊碑の入り口。



写真Z: 宮崎特攻基地慰霊碑の入り口。 東側に川が流れています。



写真AA: 宮崎県宮崎市本郷北方にある宮崎特攻基地慰霊碑。 「鎮魂(ちんこん)」と彫(ほ)られた慰霊碑(いれいひ)が見えます。 白い建物は本堂。 「宮崎海軍航空隊之跡」の石碑も右に見えています。



写真AB: 参道の左には水道、手押し井戸ポンプ、モミジの木もあります。



写真AC: 手押し井戸ポンプ。



写真AD: 寄贈の立て札。



写真AE: 「宮崎海軍航空隊之跡」の石碑(せきひ)。



写真AF: 桜の花も咲いています。 中央奥は鎮魂と書かれた慰霊碑。



写真AG: 白い建物(本堂)も見えます。 左は桜の花。



写真AH: 白い建物(本堂)と桜の花。



写真AI: 宮崎特攻基地慰霊碑の境内(けいだい)。 右側に紫色の「シランの花」が咲いていました。



写真AJ: 宮崎特攻基地慰霊碑の境内(けいだい)。



写真AK: 「特攻花(俗名)」の看板(かんばん)。
 学名: オオキンケイギク
 外来性の多年草で5月−6月頃黄色の可憐な花を咲かせる。 特攻出撃のころ宮崎飛行場に咲いていた。 一輪の花にも心打たれるものがある。
宮崎奉賛会
と書いてあります。



写真AL: 「特攻花(俗名)」の看板(かんばん)。
 学名: オオキンケイギク
 外来性の多年草で5月−6月頃黄色の可憐な花を咲かせる。 特攻出撃のころ宮崎飛行場に咲いていた。 一輪の花にも心打たれるものがある。
宮崎奉賛会
と書いてあります。



写真AM: 宮崎特攻基地慰霊碑。 左は本堂。



写真AN: 右は国旗掲揚台。 左は本堂。



写真AO: 遺書の石碑。
昭和20年5月10日午後5時48分 海軍一等飛行兵曹 伊東勲
 何も書くことはありません。 只御両親様及久美子の健在を祈るのみ、勲は決して人におくれはとりません。 潔く散るのみです。 目標は正規空母です。 十日位したら徳島海軍航空隊第14分隊5班上野功君に便りして下さい。 写真は受けとったと泣かずにほめて下さい。 幸多かれしと祈るなり。 親戚の皆様へ宜敷く。
宮崎航空基地にて 6時30分終了
ご両親様 孝養を頼むぞ久美子 安よ頑張れ
神風特攻第6菊水隊 享年20才
と書かれています。



写真AP: 遺書の石碑。
昭和20年5月10日午後5時48分 海軍一等飛行兵曹 伊東勲
 何も書くことはありません。 只御両親様及久美子の健在を祈るのみ、勲は決して人におくれはとりません。 潔く散るのみです。 目標は正規空母です。 十日位したら徳島海軍航空隊第14分隊5班上野功君に便りして下さい。 写真は受けとったと泣かずにほめて下さい。 幸多かれしと祈るなり。 親戚の皆様へ宜敷く。
宮崎航空基地にて 6時30分終了
ご両親様 孝養を頼むぞ久美子 安よ頑張れ
神風特攻第6菊水隊 享年20才
と書かれています。



写真AQ: 国旗と海軍旗。



写真AR: 国旗掲揚台。



写真AS: 宮崎特攻基地慰霊碑。



写真AT: 宮崎特攻基地慰霊碑。 左は本堂。



写真AU: 宮崎特攻基地慰霊碑のそばの本堂。 左は桜の花。



写真AV: 碑文が書かれた石碑。



写真AW: 「碑文」が書かれた石碑。
 この地は「旧海軍赤江飛行場宮崎海軍航空隊跡地」である。
 昭和20年8月15日の終戦にいたるまで日本防衛の南九州最大の航空基地として陸海軍共同作戦を含む数多くの戦闘作戦に特別攻撃隊及び雷撃隊出撃の基地となって大東亜戦の歴史に残る偉跡の地である。
 現在平和と繁栄の生活を享受しております。 然しこの平和と繁栄の陰には大戦中における数多くの国民の犠牲と数百万の戦死戦傷病者、大多数の国民の困苦欠乏の生活があったことを忘れてはならない。 なかでも特に祖国の悠久の平和と最後の勝利を信じて、”祖国のために”を合い言葉に南海の空で散った陸海軍特別攻撃隊員及び雷撃隊員たちの崇高なる精神と遺徳は永く後世に伝承したい。
 赤江飛行場は昭和18年12月1日付けで海軍航空隊の練習基地として開隊、昭和19年7月赤江基地は練習基地から第一戦の作戦基地への編成方針が打ち出され正式に作戦基地として開隊したのは、昭和19年10月10日である。
 昭和19年10月12日台湾沖航空戦に突入した。 当日赤江基地に展開していた陸海軍機の攻撃隊及び雷撃隊の出撃となった。 赤江基地を主軸として発進又は中継基地として作戦に参加した海軍機は、「一式陸上攻撃機」をはじめ344機、陸軍機は「飛龍」延200機、総機数544機である。 この作戦による戦死者数は海軍635名、陸軍80名である。
戦局はこの作戦終結とともに勝機が空しく去った。 一死これが戦局の好転をもたらすとは思わない。 徒死を待つより、大空に散るを潔しとする特別攻撃隊にすべてを托し国に報ゆる信念に燃える陸海の若鷲は愛機とともに敵空母に体当り攻撃を敢行した。 それは総力をあげて比島レイテ湾に突入する帝国連合艦隊に悲運の翼なき第一航空艦隊が送る最後のはなむけであった。
 昭和19年10月25日第一神風特別攻撃隊敷島隊の第一陣である。 海軍における神風特別攻撃隊として出撃した特攻隊員は布告第59号を始め布告第259号を最後に2.507名になる。 陸軍における特別攻撃隊として出撃した特攻隊員は1.392名になる。 特別攻撃隊の隊員のほとんどがこの赤江基地を飛びたち直接攻撃に参加したもの、或は中継基地として比島、台湾、沖縄で特攻作戦に参加し、我が身命を捧げることにより愛する肉親や懐かしい故郷そして祖国を救い得るならばの一念に燃え未曾有の国難に殉じて散華した特別攻撃隊員若鷲の最期の地である。
昭和20年3月18日宮崎初空襲である。 米艦載機による銃撃は午前5時48分夜戦一機の銃撃に始まり午前8時まで、グラマン戦闘機延150機、午前10時まで延540機、正午より午後4時45分まで延200機、これを反撃したのが、第721航空隊の戦闘三○六、三○七両飛行隊の「零戦」90機である。
 この初空襲以後の宮崎空襲による民間人の人的被害は死亡123名、負傷者176名である。
 今大東亜戦において、有能な人材を失った戦争の責任は大きい。
若桜の蕾のまま散華した献身無私の先輩同期そして後輩の崇高な精神を今再び結び合い白砂青松の海岸線、無限に広がる紺碧の赤江灘と青い空は今もなお美しい姿を留めているこの地に無量の感をもって当時を偲び我々同志相集い宮崎県民及び全国の有志の浄財によって碑を建立し愛国の赤誠に殉じた友たち、宮崎大空襲における民間戦災犠牲者の鎮魂と世界恒久の平和と旅するものの空の安全の祈りをこめて民間航空の殉職者の霊を合祀し忘れ去らんとする先人の偉業を顕彰し永く後世に伝え希うためゆかりのこの地に碑を建立し碑銘を「鎮魂の碑」と銘記しここに碑を捧ぐ。

鎮魂碑合祀者名簿及び御芳名者名簿本堂に収納
一、陸海軍宮崎基地在籍部隊合祀名簿
一、海軍神風特別攻撃隊戦死者名簿
一、陸軍特別攻撃隊戦死者名簿
一、宮崎県出身陸海軍搭乗員戦死戦没者名簿
一、宮崎空襲時における戦災死亡者名簿
一、宮崎特攻基地慰霊碑建立基金芳名者名簿
以上
昭和58年3月吉日
宮崎特攻基地慰霊碑建立期成同盟会一同
と書かれています。



写真AX: 「碑文」が書かれた石碑。
 この地は「旧海軍赤江飛行場宮崎海軍航空隊跡地」である。
 昭和20年8月15日の終戦にいたるまで日本防衛の南九州最大の航空基地として陸海軍共同作戦を含む数多くの戦闘作戦に特別攻撃隊及び雷撃隊出撃の基地となって大東亜戦の歴史に残る偉跡の地である。
 現在平和と繁栄の生活を享受しております。 然しこの平和と繁栄の陰には大戦中における数多くの国民の犠牲と数百万の戦死戦傷病者、大多数の国民の困苦欠乏の生活があったことを忘れてはならない。 なかでも特に祖国の悠久の平和と最後の勝利を信じて、”祖国のために”を合い言葉に南海の空で散った陸海軍特別攻撃隊員及び雷撃隊員たちの崇高なる精神と遺徳は永く後世に伝承したい。
 赤江飛行場は昭和18年12月1日付けで海軍航空隊の練習基地として開隊、昭和19年7月赤江基地は練習基地から第一戦の作戦基地への編成方針が打ち出され正式に作戦基地として開隊したのは、昭和19年10月10日である。
 昭和19年10月12日台湾沖航空戦に突入した。 当日赤江基地に展開していた陸海軍機の攻撃隊及び雷撃隊の出撃となった。 赤江基地を主軸として発進又は中継基地として作戦に参加した海軍機は、「一式陸上攻撃機」をはじめ344機、陸軍機は「飛龍」延200機、総機数544機である。 この作戦による戦死者数は海軍635名、陸軍80名である。
戦局はこの作戦終結とともに勝機が空しく去った。 一死これが戦局の好転をもたらすとは思わない。 徒死を待つより、大空に散るを潔しとする特別攻撃隊にすべてを托し国に報ゆる信念に燃える陸海の若鷲は愛機とともに敵空母に体当り攻撃を敢行した。 それは総力をあげて比島レイテ湾に突入する帝国連合艦隊に悲運の翼なき第一航空艦隊が送る最後のはなむけであった。
 昭和19年10月25日第一神風特別攻撃隊敷島隊の第一陣である。 海軍における神風特別攻撃隊として出撃した特攻隊員は布告第59号を始め布告第259号を最後に2.507名になる。 陸軍における特別攻撃隊として出撃した特攻隊員は1.392名になる。 特別攻撃隊の隊員のほとんどがこの赤江基地を飛びたち直接攻撃に参加したもの、或は中継基地として比島、台湾、沖縄で特攻作戦に参加し、我が身命を捧げることにより愛する肉親や懐かしい故郷そして祖国を救い得るならばの一念に燃え未曾有の国難に殉じて散華した特別攻撃隊員若鷲の最期の地である。
昭和20年3月18日宮崎初空襲である。 米艦載機による銃撃は午前5時48分夜戦一機の銃撃に始まり午前8時まで、グラマン戦闘機延150機、午前10時まで延540機、正午より午後4時45分まで延200機、これを反撃したのが、第721航空隊の戦闘三○六、三○七両飛行隊の「零戦」90機である。
 この初空襲以後の宮崎空襲による民間人の人的被害は死亡123名、負傷者176名である。
 今大東亜戦において、有能な人材を失った戦争の責任は大きい。
若桜の蕾のまま散華した献身無私の先輩同期そして後輩の崇高な精神を今再び結び合い白砂青松の海岸線、無限に広がる紺碧の赤江灘と青い空は今もなお美しい姿を留めているこの地に無量の感をもって当時を偲び我々同志相集い宮崎県民及び全国の有志の浄財によって碑を建立し愛国の赤誠に殉じた友たち、宮崎大空襲における民間戦災犠牲者の鎮魂と世界恒久の平和と旅するものの空の安全の祈りをこめて民間航空の殉職者の霊を合祀し忘れ去らんとする先人の偉業を顕彰し永く後世に伝え希うためゆかりのこの地に碑を建立し碑銘を「鎮魂の碑」と銘記しここに碑を捧ぐ。

鎮魂碑合祀者名簿及び御芳名者名簿本堂に収納
一、陸海軍宮崎基地在籍部隊合祀名簿
一、海軍神風特別攻撃隊戦死者名簿
一、陸軍特別攻撃隊戦死者名簿
一、宮崎県出身陸海軍搭乗員戦死戦没者名簿
一、宮崎空襲時における戦災死亡者名簿
一、宮崎特攻基地慰霊碑建立基金芳名者名簿
以上
昭和58年3月吉日
宮崎特攻基地慰霊碑建立期成同盟会一同
と書かれています。



写真AY: 「碑文」が書かれた石碑。
 この地は「旧海軍赤江飛行場宮崎海軍航空隊跡地」である。
 昭和20年8月15日の終戦にいたるまで日本防衛の南九州最大の航空基地として陸海軍共同作戦を含む数多くの戦闘作戦に特別攻撃隊及び雷撃隊出撃の基地となって大東亜戦の歴史に残る偉跡の地である。
 現在平和と繁栄の生活を享受しております。 然しこの平和と繁栄の陰には大戦中における数多くの国民の犠牲と数百万の戦死戦傷病者、大多数の国民の困苦欠乏の生活があったことを忘れてはならない。 なかでも特に祖国の悠久の平和と最後の勝利を信じて、”祖国のために”を合い言葉に南海の空で散った陸海軍特別攻撃隊員及び雷撃隊員たちの崇高なる精神と遺徳は永く後世に伝承したい。
 赤江飛行場は昭和18年12月1日付けで海軍航空隊の練習基地として開隊、昭和19年7月赤江基地は練習基地から第一戦の作戦基地への編成方針が打ち出され正式に作戦基地として開隊したのは、昭和19年10月10日である。
 昭和19年10月12日台湾沖航空戦に突入した。 当日赤江基地に展開していた陸海軍機の攻撃隊及び雷撃隊の出撃となった。 赤江基地を主軸として発進又は中継基地として作戦に参加した海軍機は、「一式陸上攻撃機」をはじめ344機、陸軍機は「飛龍」延200機、総機数544機である。 この作戦による戦死者数は海軍635名、陸軍80名である。
戦局はこの作戦終結とともに勝機が空しく去った。 一死これが戦局の好転をもたらすとは思わない。 徒死を待つより、大空に散るを潔しとする特別攻撃隊にすべてを托し国に報ゆる信念に燃える陸海の若鷲は愛機とともに敵空母に体当り攻撃を敢行した。 それは総力をあげて比島レイテ湾に突入する帝国連合艦隊に悲運の翼なき第一航空艦隊が送る最後のはなむけであった。
 昭和19年10月25日第一神風特別攻撃隊敷島隊の第一陣である。 海軍における神風特別攻撃隊として出撃した特攻隊員は布告第59号を始め布告第259号を最後に2.507名になる。 陸軍における特別攻撃隊として出撃した特攻隊員は1.392名になる。 特別攻撃隊の隊員のほとんどがこの赤江基地を飛びたち直接攻撃に参加したもの、或は中継基地として比島、台湾、沖縄で特攻作戦に参加し、我が身命を捧げることにより愛する肉親や懐かしい故郷そして祖国を救い得るならばの一念に燃え未曾有の国難に殉じて散華した特別攻撃隊員若鷲の最期の地である。
昭和20年3月18日宮崎初空襲である。 米艦載機による銃撃は午前5時48分夜戦一機の銃撃に始まり午前8時まで、グラマン戦闘機延150機、午前10時まで延540機、正午より午後4時45分まで延200機、これを反撃したのが、第721航空隊の戦闘三○六、三○七両飛行隊の「零戦」90機である。
 この初空襲以後の宮崎空襲による民間人の人的被害は死亡123名、負傷者176名である。
 今大東亜戦において、有能な人材を失った戦争の責任は大きい。
若桜の蕾のまま散華した献身無私の先輩同期そして後輩の崇高な精神を今再び結び合い白砂青松の海岸線、無限に広がる紺碧の赤江灘と青い空は今もなお美しい姿を留めているこの地に無量の感をもって当時を偲び我々同志相集い宮崎県民及び全国の有志の浄財によって碑を建立し愛国の赤誠に殉じた友たち、宮崎大空襲における民間戦災犠牲者の鎮魂と世界恒久の平和と旅するものの空の安全の祈りをこめて民間航空の殉職者の霊を合祀し忘れ去らんとする先人の偉業を顕彰し永く後世に伝え希うためゆかりのこの地に碑を建立し碑銘を「鎮魂の碑」と銘記しここに碑を捧ぐ。

鎮魂碑合祀者名簿及び御芳名者名簿本堂に収納
一、陸海軍宮崎基地在籍部隊合祀名簿
一、海軍神風特別攻撃隊戦死者名簿
一、陸軍特別攻撃隊戦死者名簿
一、宮崎県出身陸海軍搭乗員戦死戦没者名簿
一、宮崎空襲時における戦災死亡者名簿
一、宮崎特攻基地慰霊碑建立基金芳名者名簿
以上
昭和58年3月吉日
宮崎特攻基地慰霊碑建立期成同盟会一同
と書かれています。



写真AZ: 「鎮魂(ちんこん)」と書かれた慰霊碑(ひ)と碑文が書かれた碑。



写真BA: 「鎮魂(ちんこん)」と書かれた慰霊碑(ひ)。 花が供(そな)えてあります。



写真BB: 石碑(せきひ)がいくつか見えています。



写真BC: 石碑(せきひ)がいくつかあります。



写真BD: 大きな碑文が書かれた石碑の後ろ側。



写真BE: 「海軍航空神風特別攻撃隊宮崎基地発進 銀河隊 戦没者127柱」の氏名、出身県、年月日が書かれています。



写真BF: 「宮崎県出身陸海軍特別攻撃隊戦没者 陸軍 計22柱、海軍 計46柱、宮崎県出身陸軍少年飛行兵戦没者 計42柱」 の氏名、出身市町村が書かれています。



写真BG: 「鎮魂(ちんこん)」の慰霊碑の後ろ側の様子。



写真BH: 宮崎特攻隊慰霊碑から南東を見た景色。 そばに川があります。



写真BI: 「鎮魂(ちんこん)」の慰霊碑の後ろ側。



写真BJ: 「桜花特別攻撃隊神雷部隊 攻撃七○八飛行隊 戦没者 計41柱」の氏名、出身県、 「二六二飛行銀河隊戦没者 計3柱」の氏名、出身県、「宮崎県出身海軍飛行 予科練習生・雄飛会 戦没者 計3柱」の氏名、出身市町村が書かれています。



写真BK: 「宮崎基地発進 陸軍飛行第七艦隊 戦没者 146柱」の氏名、出身県が書かれています。



写真BL: 「宮崎県出身海軍甲種飛行予科練習生 戦没者 計93柱」の氏名、出身市町村、「宮崎県出身海軍飛行 予科練習生・雄飛会 戦没者 計146柱」の氏名、出身市町村が書かれています。



写真BM: 「宮崎基地発進 陸軍飛行第七艦隊 戦没者 146柱」の氏名、出身県、「宮崎県出身陸軍飛行隊戦没者 計7柱」の氏名、出身市町村、「宮崎県出身海軍航空隊戦没者 計5柱」の氏名、出身市町村、「戦闘七○一飛行隊」の氏名、出身県、 「海軍航空神風特別攻撃隊 宮崎基地発進 菊水銀河隊 戦没者 計15柱」の氏名、出身県、「宮崎基地発進二六二飛行 銀河隊 戦没者 計18柱」の氏名、
「宮崎特攻基地慰霊碑奉賛会、宮崎特攻基地墓銘碑建立委員会」の氏名
平成10年4月5日建立 佐土原町 北村重信 書
と書かれています。



写真BN: 「雄飛会 戦没者つづき 計98柱」の氏名、出身市町村、「宮崎県出身海軍飛行予科練習生(特)雄飛会 戦没者 計16柱」の氏名、出身市町村、「宮崎県出身海軍飛行予備学生 戦没者 計11柱」の氏名、出身市町村が書かれています。



写真BO: 「辞世の和歌」の石碑。
「辞世、南海にたとえ この身ハ果つるとも いくとせ後の 春を想えば  永峯 肇」と彫(ほ)られた石碑(せきひ)の碑文(ひぶん)。
碑文
 神風特別攻撃隊のさきがけ敷島隊は世界最初の公式人間爆弾となり、昭和19年10月25日国家悠久の大儀に殉じ、世界恒久平和の礎となった。 敷島隊4番機の永峯肇飛行兵長は、大正14年4月1日宮崎郡住吉村(現宮崎市)永峯万作・ステの長男に生れ19才で特攻戦死され、海軍飛行兵曹長に特進、功五級金勲章・勳七等青色桐葉章を受章の上軍神の称号を贈られた。
平成8年4月吉日 永峯軍神奉賛会
と書かれています。



写真BP: 特攻隊慰霊碑のあるところから「赤い列車」が見えています。
宮崎空港線は宮崎県宮崎市の田吉駅(たよし駅)から宮崎空港駅を結ぶJR九州の鉄道路線(幹線)です。 1996年7月18日に開通しました。 宮崎空港へのアクセス路線として建設されました。 日南線から列車が乗り入れています。 路線距離: JRで最も営業キロの短い1.4 km、駅数: 2(田吉駅と宮崎空港駅)、全線単線、全線電化(交流20.000 V、60 Hz)。
左は宮崎空港で給油する燃料タンクです。



写真BQ: 宮崎空港で給油する燃料タンクです。



写真BR: 「辞世、南海にたとえ この身ハ果つるとも いくとせ後の 春を想えば  永峯 肇」と彫(ほ)られた石碑(せきひ)。



写真BS: 「辞世の和歌」の石碑。
「辞世、南海にたとえ この身ハ果つるとも いくとせ後の 春を想えば  永峯 肇」と彫(ほ)られた石碑(せきひ)の碑文(ひぶん)。
碑文
 神風特別攻撃隊のさきがけ敷島隊は世界最初の公式人間爆弾となり、昭和19年10月25日国家悠久の大儀に殉じ、世界恒久平和の礎となった。 敷島隊4番機の永峯肇飛行兵長は、大正14年4月1日宮崎郡住吉村(現宮崎市)永峯万作・ステの長男に生れ19才で特攻戦死され、海軍飛行兵曹長に特進、功五級金勲章・勳七等青色桐葉章を受章の上軍神の称号を贈られた。
平成8年4月吉日 永峯軍神奉賛会
と書かれています。



写真BT: 「辞世、南海にたとえ この身ハ果つるとも いくとせ後の 春を想えば  永峯 肇」と彫(ほ)られた石碑(せきひ)。



写真BU: 「辞世、南海にたとえ この身ハ果つるとも いくとせ後の 春を想えば  永峯 肇」と彫(ほ)られた石碑(せきひ)。 平成8年4月1日建立。



写真BV: 宮崎特攻慰霊碑の本堂。 国旗もひるがえっています。



写真BW: 宮崎特攻慰霊碑の本堂。 国旗、海軍旗がひるがえっています。



写真BX: 特攻慰霊碑の境内(けいだい)。 入り口方向を見たもの。 右は本堂。



写真BY: 宮崎特攻基地慰霊碑の本堂。 千羽鶴が左に見えます。



写真BZ: 特攻慰霊碑の境内にある「遺詠」歌碑(かひ)。



写真CA: 宮崎特攻基地慰霊碑の入り口。そばに橋があります。



写真CB: 宮崎特攻基地慰霊碑から見た宮崎空港。 橋の向こうすぐの両側に、昭和18年12月1日赤江海軍練習航空隊発足時に設置された「門柱」が見えます。



写真CC: 昭和18年12月1日赤江海軍練習航空隊発足時に設置された「門柱」付近から見た宮崎空港。 旅客機も見えています。



写真CD: 宮崎特攻基地慰霊碑のそばの橋から見た南の景色。 川も見えます。 右手が宮崎特攻基地慰霊碑。



写真CE: 宮崎特攻基地慰霊碑のそばの橋から見た北の景色。 川も見えます。 宮崎空港の赤い施設も見えます。



写真CF: 宮崎空港に戻る途中に、「JR宮崎空港線」の赤い電車が見えました。 このあたりは高架(こうか)になっています。
宮崎空港線は宮崎県宮崎市の田吉駅(たよし駅)から宮崎空港駅を結ぶJR九州の鉄道路線(幹線)です。 1996年7月18日に開通しました。 宮崎空港へのアクセス路線として建設されました。 日南線から列車が乗り入れています。 路線距離: JRで最も営業キロの短い1.4 km、駅数: 2(田吉駅と宮崎空港駅)、全線単線、全線電化(交流20.000 V、60 Hz)。



写真CG: 宮崎空港の飛行機燃料補給車も見えます。



写真CH: 奥にJR宮崎空港線の高架が見えています。



写真CI: 近くに温室もあります。



写真CJ: 左の建物は、「宮崎県防災救急航空センター」。 奥の右手に空港のターミナルビルがあります。



写真CK: 高架が見えています。
宮崎空港線は宮崎県宮崎市の田吉駅(たよし駅)から宮崎空港駅を結ぶJR九州の鉄道路線(幹線)です。 1996年7月18日に開通しました。 宮崎空港へのアクセス路線として建設されました。 日南線から列車が乗り入れています。 路線距離: JRで最も営業キロの短い1.4 km、駅数: 2(田吉駅と宮崎空港駅)、全線単線、全線電化(交流20.000 V、60 Hz)。



写真CL: 「宮崎県防災救急航空センター」。



写真CM: 「宮崎県警察航空隊」の建物があります。



写真CN: 宮崎県 宮崎市 大字 本郷の「掩体壕(えんたいごう)」に行くには、県道367号線の宮崎空港入口の交差点にあるコンビニのそばの細い道を西に入ります。 掩体壕(えんたいごう)は第二次世界大戦の末期に作られた日本軍の飛行機を米軍の攻撃から守るための格納庫です。



写真CO: コンビニのそばの細い道を西に行きます。



写真CP: 南バイパスの高架(こうか)の下をくぐって、すぐに右折します。 鉄筋コンクリートの建物の左に蔦(つた)が茂った「掩体壕(えんたいごう)」が見えてきました。 この掩体壕(えんたいごう)は小さな山のそばにあります。



写真CQ: 宮崎県 宮崎市 本郷の「掩体壕(えんたいごう)」。 厚いコンクリートの屋根の下に日本軍の飛行機を入れていました。 米軍の爆撃に耐えるためと思われます。 この「掩体壕(えんたいごう)」は中型飛行機用のものと思われます。 この近くには数個の掩体壕(えんたいごう)がありましたが、取り壊されたものもあります。 第二次世界大戦の時には飛行機をここから人力で押して、海軍宮崎航空隊 赤江飛行場(今の宮崎空港)まで運んだそうです。 近くの方にお話を伺(うかが)うことができました。 御礼申し上げます。



写真CR: 宮崎県 宮崎市 本郷の「掩体壕(えんたいごう)」。 厚いコンクリートの屋根の下に日本軍の飛行機を入れていました。 米軍の爆撃に耐えるためと思われます。 この「掩体壕(えんたいごう)」は中型飛行機用のものと思われます。 この近くには数個の掩体壕(えんたいごう)がありましたが、取り壊されたものもあります。 第二次世界大戦の時には飛行機をここから人力で押して、海軍宮崎航空隊 赤江飛行場(今の宮崎空港)まで運んだそうです。



写真CS: 宮崎県 宮崎市 本郷の「掩体壕(えんたいごう)」。 厚いコンクリートの屋根の下に日本軍の飛行機を入れていました。 米軍の爆撃に耐えるためと思われます。 この「掩体壕(えんたいごう)」は中型飛行機用のものと思われます。 この近くには数個の掩体壕(えんたいごう)がありましたが、取り壊されたものもあります。 第二次世界大戦の時には飛行機をここから人力で押して、海軍宮崎航空隊 赤江飛行場(今の宮崎空港)まで運んだそうです。



写真CT: 宮崎県 宮崎市 本郷の「掩体壕(えんたいごう)」。 厚いコンクリートの屋根の下に日本軍の飛行機を入れていました。 米軍の爆撃に耐えるためと思われます。 この「掩体壕(えんたいごう)」は中型飛行機用のものと思われます。 この近くには数個の掩体壕(えんたいごう)がありましたが、取り壊されたものもあります。 第二次世界大戦の時には飛行機をここから人力で押して、海軍宮崎航空隊 赤江飛行場(今の宮崎空港)まで運んだそうです。 これはその内部です。 コンクリートの壁になっています。



写真CU: 「宮崎県 宮崎市 本郷の「掩体壕(えんたいごう)」。 厚いコンクリートの屋根の下に日本軍の飛行機を入れていました。 米軍の爆撃に耐えるためと思われます。 この「掩体壕(えんたいごう)」は中型飛行機用のものと思われます。 この近くには数個の掩体壕(えんたいごう)がありましたが、取り壊されたものもあります。 第二次世界大戦の時には飛行機をここから人力で押して、海軍宮崎航空隊 赤江飛行場(今の宮崎空港)まで運んだそうです。 これはその入口付近の天井(てんじょう)です。



写真CV: 外から見た本郷地区の「掩体壕(えんたいごう)」。 カマボコ型をしています。 コンクリート製です。 左側が入り口です。 入り口の部分には蔦(つた)が茂っています。



写真CW: 外から見た本郷地区の「掩体壕(えんたいごう)」。 カマボコ型をしています。 コンクリート製です。 左側が入り口です。 入り口の部分には蔦(つた)が茂っています。



写真CX: 右はガソリンスタンドの壁。 細い道の左に「掩体壕(えんたいごう)」の上部が見えています。 すぐ右のほうに南バイパスの車道があります。



写真CY: 本郷地区の「掩体壕(えんたいごう)」のそばに南バイパスが通っています。 「宮崎市山崎台」と書いてある歩道橋があります。 左はガソリンスタンドです。



写真CZ: 南バイパスのガソリンスタンド。 左端に本郷地区の「掩体壕(えんたいごう)」の上部が少し見えています。



写真DA: 南バイパスのガソリンスタンド。 その向こうに本郷地区の「掩体壕(えんたいごう)」の上部が少し見えています。



by 南陽彰悟 (NANYO Shogo)