都之城跡、都城歴史資料館、城山公園 (みやこのしろあと、みやこのじょうあと、都城市の展望、都城跡 (鶴丸城跡)、大手門、狭野神社 (高原町の狭野神社を分祀(ぶんし)したもの)、海軍大将 財部 彪(たからべ たけし)の銅像、茶室 静山亭、北郷、都城島津、伊集院、庄内の乱)  (宮崎県 都城市 都島町)







<標高、位置>  都城跡 (都之城跡 (みやこのしろあと、みやこのじょうあと)、都城歴史資料館)は
標高 159.5 m
 北緯31度42分58秒  東経131度03分01秒

<標高、位置>  都城 狭野神社 (さのじんじゃ)は
標高 約150 m
 北緯31度42分59秒  東経131度02分57秒

<標高、位置>  都城 城山公園は
標高 約130 m
 北緯31度42分58秒  東経131度03分04秒


 「都城跡」と「都城歴史資料館」、「城山公園」、「狭野神社」は宮崎県 都城市 都島町 字本城 803番地 にあります。
都城跡 (鶴丸城跡)は都之城跡 (みやこのしろあと、みやこのじょうあと)とも呼(よ)びます。

 「市指定文化財 都之城址 (みやこのじょうし)」の説明板から、
 都之城 (みやこのじょう)は、都城島津 氏(北郷(ほんごう) 氏)歴代の居城であった。 永和元年(1375年)2代 北郷 義久(よしひさ)が築城し、元和元年(1615年)の一国一城令まで、240年の間、本城となっていたところであり、本市地名発祥のもととなった由緒あるところである。
 城の主郭部(しゅかくぶ、本丸)については、昭和63年から平成2年にかけて発掘調査を実施し、当時の様子(ようす)が明らかとなった。 その中心となる建物(館(やかた))は、北側(現 歴史資料館)に位置していたと思われ、比較的大きな遺構(いこう)が見つかっている。 右の図は、当時の都之城の縄張(なわばり、城の構成)を示したものである。
都之城跡縄張図。
弓場田口、取添、御本丸、西城、新城、西明寺、池之上城、中尾之城、中尾口橋、都島、中之城、外城、南之城、小城、来住口、外城、中尾城、大渓寺などが載っています。 
(日豊本線の南側にも都之城は広がっています。)
都之城は落城したことはありません。 都城地方一の大きな城でした。 都之城下を弓場田口、 来住口、大岩田口、鷹尾口、中尾口の5口に分けて、それに安永、山田、志和池、野々美谷、 梶山、梅北の6つを外城(郷)とした五口六外城制で領内を治(おさ)めました。 北郷は島津の分家です。 南北朝時代の島津宗家4代 島津忠宗の6男 資忠から始まります。 資忠は北朝方として功績があり、足利 氏から薩摩迫 一帯(現 宮崎県 都城市 山田町)の領地を与えられました。 そこの郷名から北郷(ほんごう、ほくごうが訛(なま)ったもの)を名乗りました。 北郷資忠の子 義久は薩摩迫から都之城からに移りました。 これ以後、北原、伊東、新納、肝付などの近くの勢力に押され、戦国時代の初め頃には、都之城と安永城(現 宮崎県 都城市 庄内町)だけに衰退しました。 8代の北郷忠相は飫肥(おび)の豊州 家と組(く)んで勢力を広げ、現 都城市、三股町、山之口町、曽於市の一部(財部、末吉)まで都城盆地とその周辺を手に入れました。 9代の北郷忠親が飫肥の豊州 家の養子となって後をとり、北郷 氏は日向国の南部を手中に治(おさ)めました。 豊州 家は伊東義祐に負けて飫肥を失いましたが、北郷 家は領地を広げ、北郷時久の代には大隅の恒吉(現 鹿児島県 曽於市 恒吉町)、外港の内之浦(現 鹿児島県 肝付町)まで領地を広げ日向国 諸県郡から大隅国 曽於郡の大部分にまたがる最大領地を手中に治(おさ)めました。 江戸時代初期(1615年)の徳川家康の一国一城令により都之城が廃城になりました。 北郷 氏は元和元年(1615年)に城の東方、現在の都城市役所付近(都城市 姫城町 6-21)に領主館を造り移転しました。 それに伴い武家屋敷、町も移りました。 江戸時代を通じて3-4万石で島津氏最大の所領を領しました。 江戸時代に島津宗家17代島津忠長のときに、忠長の指示で北郷から島津(都城島津)に戻(もど)りました。 島津が豊臣秀吉に降伏した後、1595年に領内で秀吉の検地が行われ、北郷 氏に代わり、伊集院 忠棟に日向諸県郡 庄内の地に8万石の所領が与えられました。 北郷 氏は現 鹿児島県 さつま市の狭い領地に移りました。 1599年に京都で伊集院 忠棟が島津忠恒によって斬(き)り殺されました。 忠棟の嫡男(ちゃくなん)の伊集院 忠真は自分も殺されると思い都之城などに立て篭(こ)もりました。 伊集院 忠真は都之城をはじめ、月山日和城、山之口城、勝岡城、梶山城、安永城、志和池城、山田城、野々美谷城、梅北城、財部城、末吉城、恒吉城を用いて抗戦しました。 1600年に徳川家康の仲介でこの庄内の乱は終わりました。 1595年から1600年までの5年間は都之城は伊集院 氏の城でした。 庄内の乱が終わるとまた北郷 氏が都之城主に戻(もど)って来ました。 しかし、大隅国の領地の大部分(財部、末吉、恒吉)は島津宗家の直轄地となり、北郷 氏のものではなくなりました。
 「城山大手門」の説明板から、
 この大手門は、城山公園整備事業の一環として、歴史資料館の城風様式に併(あわ)せて平成6年10月に建設されました。
平成8年11月 都城市 都城市教育委員会
概要
名称 脇戸附櫓門(やぐらもん) 単層櫓(やぐら)
主要木材 柱・梁材は樹齢300年生の都城産杉
構造 木造平屋建(内部構造は2階構造)
棟高 9.55 m、扉(とびら)の大きさ (高さ)2.9 m (幅)1.8 m (厚み)13.5 cm
敷石 ミカゲ石、石垣 加治木石、瓦(かわら) 粘土瓦(都城産)。

 「史跡 都之城本丸虎口 (みやこのしろほんまるこぐち)跡」の説明板から、
 この虎口は都之城古絵図 (都城島津家所蔵)に描かれた本丸西側にある2つの虎口(a・b)のうちの1つ(a)である(現在、歴史資料館正面入口の階段付近)。
 虎口とは城郭(じょうかく)の出入口を虎の口に例(たと)えたもので、敵兵の攻撃に対する防御や城兵の突撃に際し工夫を凝(こ)らして構築されている。
 発掘調査で発見された本丸東側の虎口が「L」字や「T」字路を呈(てい)することによって場内を直接見通せないような仕組みになっていたのに対し、この虎口は直線的な長いアプローチで場内に入るのが特徴である。 本丸の重要な出入口であると考えられる。

 島津家薩摩藩(77万石)は、1615年の一国一城令で、鶴丸城だけ残して他の城は壊(こわ)しました。 代わりに外城(とじょう)と呼(よ)ばれる麓(ふもと)を置きました。 地頭仮屋(あるいは御仮屋)と呼ばれる在地役所を中心にして、そのまわりに石垣(いしがき)、イヌマキの生垣の郷士(ごうし)屋敷の集落を造りました(郷士は普段は農業を行ない、有事の時には戦う武士です。 私領地では郷士ではなく家中士と呼ばれました。)。 地頭や私領主は鹿児島城下に住みました。 各地の行政執行は麓3役といわれる郷士年寄、組頭、横目が行いました。 「野町」と呼ばれる町人町は麓のそばに造られました。 今でも「麓」の地名、馬術教練を行う「馬場」という地名が残っています。 薩摩藩の外城は島津宗家直轄の地頭所が90ヵ所、島津一門や重臣の私領地が21ヵ所ありました。 薩摩藩はキリスト教、一向宗(浄土真宗)を禁止しました。 租税(そぜい)は8公2民(普通は4公6民)と重税でした。
薩摩藩の日向国(ほぼ宮崎県)の「郷」は、馬関田郷、吉田郷、加久藤郷、飯野郷、小林郷、野尻郷、高岡郷、穆佐郷(むかさごう)、倉岡郷、高原郷、高崎郷、高城郷、都城郷、須木郷、綾郷、山之口郷、勝岡郷、庄内郷、松山郷、志布志郷、大崎郷がありました。 計21郷でした。 すべて諸県郡に属します。 これとは別に、佐土原島津藩が宮崎市 佐土原町にありました。 佐土原島津藩は薩摩藩とは別に江戸への参勤交代を行なっていました。

 都城市にある狭野神社の「都島古蹟(こせき)」の説明板から、
 この都島の地は神武天皇皇居の御跡であって天皇が御東征の途に上らせられて後この御跡を汚し奉らないように塚を築き宮古神と称(しょう)する社を祀(まつ)っていた。
 その後社は兵火にあって全焼したのでこの跡に樹を植え諸人の崇尊する所であったと伝えられている。 あんずるに天皇は高原の狭野に於いて御誕生になり御育ちになって後一大勢力を養わんために沃土(よくど)の中心のこの都島の地に御遷りになりこのところに於いて十分な御勢力を養われて後宮崎に向かって御出発あらせられたのであろう。

 「都城市立 都城歴史資料館」は1989年(平成元年)10月20日にオープンしました。 林野庁のモデル木造施設建設事業として造られました。 木造2階建て、中2階があるので3層になっています。 床面積は860 平方メートルです。 使用木材の96 %は杉、3 %がヒノキ、1 %がその他で、樹齢120年の大きな柱もあります。 敷地内に茶室の静山亭があります。 北郷 氏に伝わる古文書や美術工芸品、都城市の遺跡からの出土品などの展示もあります。 郷土芸能の資料、農機具などの民具なども展示してあります。



写真A: 車道の奥に見える土手は大淀川です。 手前側に都之城跡 (都城歴史資料館)があります。 北を見たもの。



写真B: 「都城歴史資料館→」の看板(かんばん)があります。



写真C: 山の上に都城歴史資料館の模擬城が見えています。 大手門、駐車場も見えます。 手前の石垣に「城山公園」と書いてあります。
都城跡 (都之城跡 (みやこのしろあと、みやこのじょうあと))は山城です。 都之城は落城したことはありません。
 宮崎県 都城市 都島町 字本城 803番地にあります。



写真D: 山の上に都城歴史資料館、その右下に大手門が見えます。 西を見たもの。



写真E: 下から見上げた都城歴史資料館です。 ここが都之城跡です。
都城跡 (鶴丸城跡)は都之城跡 (みやこのしろあと、みやこのじょうあと)とも呼(よ)びます。 都之城は落城したことはありません。
宮崎県 都城市 都島町 字本城 803番地にあります。



写真F: 大手門と石垣、白い塀(へい)が見えます。 駐車場は右にあります。



写真G: トイレもあります。 この奥も城山公園です。



写真H: 南を見たもの。



写真I: 大手門の左に城山が見えています。



写真J: 入口が見えています。 東を見たもの。



写真K: 入り口付近に飲料水の自動販売機があります。



写真L: 北を見たもの。



写真M: 駐車場、絵地図の案内板などが見えます。



写真N: 大手門、城山が見えます。 西を見たもの。



写真O: 都城跡、城山公園の絵地図です。
都之城は落城したことはありません。



写真P: 都城歴史資料館の掲示板があります。 都城歴史資料館は都城跡にあります。



写真Q: 都城歴史資料館のまわりの地図がありました。



写真R: 都城歴史資料館のまわりの地図。



写真S: 宮崎県 都城市にある城山公園に海軍大将 財部 彪(たからべ たけし)の銅像があります。 後ろは城山です。



写真T: 城山公園にある海軍大将 財部 彪(たからべ たけし)の銅像の台座です。



写真U: 城山公園にある海軍大将 財部 彪(たからべ たけし)の銅像の台座。



写真V: 都城市にある城山公園。 右は海軍大将の銅像台座です。



写真W: 城山公園の遊具、東屋(あずまや)、芝生(しばふ)が見えます。



写真X: 右は城山公園の東屋、左はトイレです。 東を見たもの。



写真Y: 左に大手門が見えます。 北を見たもの。



写真Z: 広場の西側は崖(がけ)になっています。 この上に都城歴史資料館があります。



写真AA: 城山公園に「海軍戦没慰霊碑」があります。 海軍大将の像の南隣りにあります。



写真AB: 「海軍戦没慰霊碑」です。
「勇者の魂を想う時 勇者ありて 世の平和あることを 忘れじとここに 心から感謝する」、「不変の魂 西暦2000年 平成12年5月27日建立」と彫(ほ)ってあります。



写真AC: 「城山大手門」の説明板です。
 この大手門は、城山公園整備事業の一環として、歴史資料館の城風様式に併(あわ)せて平成6年10月に建設されました。
平成8年11月 都城市 都城市教育委員会
概要
名称 脇戸附櫓門(やぐらもん) 単層櫓(やぐら)
主要木材 柱・梁材は樹齢300年生の都城産杉
構造 木造平屋建(内部構造は2階構造)
棟高 9.55 m、扉(とびら)の大きさ (高さ)2.9 m (幅)1.8 m (厚み)13.5 cm
敷石 ミカゲ石、石垣 加治木石、瓦(かわら) 粘土瓦(都城産)
と書かれています。



写真AD: 内(西)側から見た大手門です。



写真AE: 「城山公園 入口」と「狭野神社 (さのじんじゃ)」の看板(かんばん)があります。
宮崎県 都城市 都島町 803番地にあります。



写真AF: 「城山公園 入口」です。 南を見たもの。 奥は堀切(空堀)になっています。
都城跡 (鶴丸城跡)は都之城跡 (みやこのしろあと、みやこのじょうあと)とも呼(よ)びます。



写真AG: 城山公園入口から北を見た景色です。



写真AH: アジサイのそばに「市指定史跡 都城(鶴丸城)跡、指定年月日 昭和49年5月1日」の標識棒(標柱)があります。



写真AI: 「市指定史跡 都城(鶴丸城)跡、指定年月日 昭和49年5月1日」の標識棒(標柱)。



写真AJ: 「市指定史跡 都城(鶴丸城)跡、指定年月日 昭和49年5月1日」の標識棒(標柱)があります。 そばにアジサイが見えます。



写真AK: 都城跡の空堀(からぼり)です。 左の坂は通行止めになっていました。 右の道を奥に歩きます。
左は本丸跡、右は西城跡で今は狭野神社になっています。



写真AL: 左(東)側です。 この上に都城歴史資料館があります。



写真AM: 上に都城歴史資料館と狭野神社 (さのじんじゃ)を結ぶ道の橋が見えます。 右手に狭野神社があります。



写真AN: 都城跡の曲輪(くるわ、平らな所)に狭野神社(さのじんじゃ)があります。 狭野神社の赤い鳥居(とりい)、石段が見えます。



写真AO: 左の階段を登ると都城歴史資料館に行きます。 「都城歴史資料館←」の看板(かんばん)、説明板が見えます。 奥に車が止まっています。 下に民家が見えます。



写真AP: 都城歴史資料館の石段の下です。



写真AQ: 「都城歴史資料館←」の看板(かんばん)。 右奥にJR 日豊本線の踏切(ふみきり)信号機が見えます。



写真AR: 「史跡 都之城本丸虎口 (みやこのしろほんまるこぐち)跡」の説明板です。
 この虎口は都之城古絵図 (都城島津家所蔵)に描かれた本丸西側にある2つの虎口(a・b)のうちの1つ(a)である(現在、歴史資料館正面入口の階段付近)。
 虎口とは城郭(じょうかく)の出入口を虎の口に例(たと)えたもので、敵兵の攻撃に対する防御や城兵の突撃に際し工夫を凝(こ)らして構築されている。
 発掘調査で発見された本丸東側の虎口が「L」字や「T」字路を呈(てい)することによって場内を直接見通せないような仕組みになっていたのに対し、この虎口は直線的な長いアプローチで場内に入るのが特徴である。 本丸の重要な出入口であると考えられる。
平成15年2月 都城市教育委員会
と書かれています。
都之城西側虎口付近図も載っています。
都城歴史資料館があるところが「御本丸」、狭野神社のあるところが「西城」です。



写真AS: 「史跡 都之城本丸虎口 (みやこのしろほんまるこぐち)跡」の説明板です。
 この虎口は都之城古絵図 (都城島津家所蔵)に描かれた本丸西側にある2つの虎口(a・b)のうちの1つ(a)である(現在、歴史資料館正面入口の階段付近)。
 虎口とは城郭(じょうかく)の出入口を虎の口に例(たと)えたもので、敵兵の攻撃に対する防御や城兵の突撃に際し工夫を凝(こ)らして構築されている。
 発掘調査で発見された本丸東側の虎口が「L」字や「T」字路を呈(てい)することによって場内を直接見通せないような仕組みになっていたのに対し、この虎口は直線的な長いアプローチで場内に入るのが特徴である。 本丸の重要な出入口であると考えられる。
平成15年2月 都城市教育委員会
と書かれています。
都之城西側虎口付近図も載っています。
都城歴史資料館があるところが「御本丸」、狭野神社のあるところが「西城」です。



写真AT: 「史跡 都之城本丸虎口 (みやこのしろほんまるこぐち)跡」の説明板です。
 この虎口は都之城古絵図 (都城島津家所蔵)に描かれた本丸西側にある2つの虎口(a・b)のうちの1つ(a)である(現在、歴史資料館正面入口の階段付近)。
 虎口とは城郭(じょうかく)の出入口を虎の口に例(たと)えたもので、敵兵の攻撃に対する防御や城兵の突撃に際し工夫を凝(こ)らして構築されている。
 発掘調査で発見された本丸東側の虎口が「L」字や「T」字路を呈(てい)することによって場内を直接見通せないような仕組みになっていたのに対し、この虎口は直線的な長いアプローチで場内に入るのが特徴である。 本丸の重要な出入口であると考えられる。
平成15年2月 都城市教育委員会
と書かれています。
都之城西側虎口付近図も載っています。
都城歴史資料館があるところが「御本丸」、狭野神社のあるところが「西城」です。



写真AU: 「史跡 都之城本丸虎口 (みやこのしろほんまるこぐち)跡」の説明板です。
 この虎口は都之城古絵図 (都城島津家所蔵)に描かれた本丸西側にある2つの虎口(a・b)のうちの1つ(a)である(現在、歴史資料館正面入口の階段付近)。
 虎口とは城郭(じょうかく)の出入口を虎の口に例(たと)えたもので、敵兵の攻撃に対する防御や城兵の突撃に際し工夫を凝(こ)らして構築されている。
 発掘調査で発見された本丸東側の虎口が「L」字や「T」字路を呈(てい)することによって場内を直接見通せないような仕組みになっていたのに対し、この虎口は直線的な長いアプローチで場内に入るのが特徴である。 本丸の重要な出入口であると考えられる。
平成15年2月 都城市教育委員会
と書かれています。
都之城西側虎口付近図も載っています。
都城歴史資料館があるところが「御本丸」、狭野神社のあるところが「西城」です。



写真AV: 虎口があったところに石段があります。



写真AW: トイレがあります。



写真AX: 登ってきた階段を振(ふ)り返ったもの。



写真AY: 2つ目の階段の上に中世の城の形をした模擬城(もぎじょう)があります。 実際にはこのような城が昔にあったわけではありません。 これは模擬城です。 この模擬城は都城歴史資料館です。
右下にサツキの花が咲いていました。



写真AZ: 「瀬戸山三男の銅像」が本丸跡にあります。 左はトイレです。 西を見たもの。



写真BA: 北を見たもの。 右端は都城歴史資料館です。



写真BB: 都城跡 (都之城跡)にある都城歴史資料館です。 ここは昔し本丸があったところです。 北を見たもの。
都城跡 (鶴丸城跡)は都之城跡 (みやこのしろあと、みやこのじょうあと)とも呼(よ)びます。
都之城は落城したことはありません。 都城地方一の大きな城でした。 都之城下を弓場田口、 来住口、大岩田口、鷹尾口、中尾口の5口に分けて、それに安永、山田、志和池、野々美谷、 梶山、梅北の6つを外城(郷)とした五口六外城制で領内を治(おさ)めました。 北郷は島津の分家です。 南北朝時代の島津宗家4代 島津忠宗の6男 資忠から始まります。 資忠は北朝方として功績があり、足利 氏から薩摩迫 一帯(現 宮崎県 都城市 山田町)の領地を与えられました。 そこの郷名から北郷(ほんごう、ほくごうが訛(なま)ったもの)を名乗りました。 北郷資忠の子 義久は薩摩迫から都之城からに移りました。 これ以後、北原、伊東、新納、肝付などの近くの勢力に押され、戦国時代の初め頃には、都之城と安永城(現 宮崎県 都城市 庄内町)だけに衰退しました。 8代の北郷忠相は飫肥(おび)の豊州 家と組(く)んで勢力を広げ、現 都城市、三股町、山之口町、曽於市の一部(財部、末吉)まで都城盆地とその周辺を手に入れました。 9代の北郷忠親が飫肥の豊州 家の養子となって後をとり、北郷 氏は日向国の南部を手中に治(おさ)めました。 豊州 家は伊東義祐に負けて飫肥を失いましたが、北郷 家は領地を広げ、北郷時久の代には大隅の恒吉(現 鹿児島県 曽於市 恒吉町)、外港の内之浦(現 鹿児島県 肝付町)まで領地を広げ日向国 諸県郡から大隅国 曽於郡の大部分にまたがる最大領地を手中に治(おさ)めました。 江戸時代初期(1615年)の徳川家康の一国一城令により都之城が廃城になりました。 北郷 氏は元和元年(1615年)に城の東方、現在の都城市役所付近(都城市 姫城町 6-21)に領主館を造り移転しました。 それに伴い武家屋敷、町も移りました。 江戸時代を通じて3-4万石で島津氏最大の所領を領しました。 江戸時代に島津宗家17代島津忠長のときに、忠長の指示で北郷から島津(都城島津)に戻(もど)りました。 島津が豊臣秀吉に降伏した後、1595年に領内で秀吉の検地が行われ、北郷 氏に代わり、伊集院 忠棟に日向諸県郡 庄内の地に8万石の所領が与えられました。 北郷 氏は現 鹿児島県 さつま市の狭い領地に移りました。 1599年に京都で伊集院 忠棟が島津忠恒によって斬(き)り殺されました。 忠棟の嫡男(ちゃくなん)の伊集院 忠真は自分も殺されると思い都之城などに立て篭(こ)もりました。 伊集院 忠真は都之城をはじめ、月山日和城、山之口城、勝岡城、梶山城、安永城、志和池城、山田城、野々美谷城、梅北城、財部城、末吉城、恒吉城を用いて抗戦しました。 1600年に徳川家康の仲介でこの庄内の乱は終わりました。 1595年から1600年までの5年間は都之城は伊集院 氏の城でした。 庄内の乱が終わるとまた北郷 氏が都之城主に戻(もど)って来ました。 しかし、大隅国の領地の大部分(財部、末吉、恒吉)は島津宗家の直轄地となり、北郷 氏のものではなくなりました。



写真BC: 都之城 (みやこのしろ)の本丸跡です。 奥は都城歴史資料館。



写真BD: 都城跡の本丸があったところです。 右に茶室 静山亭が見えます。 サツキの花が咲いていました。



写真BE: 庭石、外灯もあります。



写真BF: 右は登ってきた石段です。



写真BG: 登ってきた石段。 右はトイレです。



写真BH: 都之城の本丸跡にある「瀬戸山三男の銅像」です。



写真BI: 銅像の台座に「瀬戸山三男 先生」と書いてあります。



写真BJ: 本丸跡から狭野神社 (さのじんじゃ)へ行く空堀の上の橋です。 神社の幟(のぼり)、建物が見えます。 西を見たもの。



写真BK: 「門址 (もんあと)」の説明板です。
 この2つのマウンド直下の位置に、直径2.4 m、短径1.2 m の楕円形(だえんけい)の柱穴2基が1.6 m の間隔で並んで発掘された。 曲輪(くるわ、平らな所)の西端に位置する門があったと考えられる。
15世紀代
と書いてあります。



写真BL: 西を見たもの。 狭野神社に行く橋、銅像も見えます。



写真BM: 北西を見たものです。 サツキの花が咲いていました。



写真BN: 都城歴史資料館の西寄りの部分です。



写真BO: 宮崎県 都城市にある都城歴史資料館です。 これは模擬城です。
「都城市立 都城歴史資料館」は1989年(平成元年)10月20日にオープンしました。 林野庁のモデル木造施設建設事業として造られました。 木造2階建て、中2階があるので3層になっています。 床面積は860 平方メートルです。 使用木材の96 %は杉、3 %がヒノキ、1 %がその他で、樹齢120年の大きな柱もあります。 敷地内に茶室の静山亭があります。 北郷 氏に伝わる古文書や美術工芸品、都城市の遺跡からの出土品などの展示もあります。 郷土芸能の資料、農機具などの民具なども展示してあります。



写真BP: 本丸跡です。 東を見たもの。



写真BQ: 茶室 静山亭が見えます。 右に庭石があります。 南東を見たもの。



写真BR: 茶室の日本庭園です。 庭石もあります。 南を見たもの。



写真BS: 左は登ってきた階段、右は銅像です。 南西を見たものです。



写真BT: 西を見たもの。



写真BU: 「市指定文化財 都之城址 (みやこのじょうし)」の説明板です。
 都之城 (みやこのじょう)は、都城島津 氏(北郷(ほんごう) 氏)歴代の居城であった。 永和元年(1375年)2代 北郷 義久(よしひさ)が築城し、元和元年(1615年)の一国一城令まで、240年の間、本城となっていたところであり、本市地名発祥のもととなった由緒あるところである。
 城の主郭部(しゅかくぶ、本丸)については、昭和63年から平成2年にかけて発掘調査を実施し、当時の様子(ようす)が明らかとなった。 その中心となる建物(館(やかた))は、北側(現 歴史資料館)に位置していたと思われ、比較的大きな遺構(いこう)が見つかっている。 右の図は、当時の都之城の縄張(なわばり、城の構成)を示したものである。
平成3年3月 都城市教育委員会
と書かれています。
都之城跡縄張図。
弓場田口、取添、御本丸、西城、新城、西明寺、池之上城、中尾之城、中尾口橋、都島、中之城、外城、南之城、小城、来住口、外城、中尾城、大渓寺などが載っています。
 (日豊本線の南側にも都之城は広がっています。)
都之城は落城したことはありません。 都城地方一の大きな城でした。 都之城下を弓場田口、 来住口、大岩田口、鷹尾口、中尾口の5口に分けて、それに安永、山田、志和池、野々美谷、 梶山、梅北の6つを外城(郷)とした五口六外城制で領内を治(おさ)めました。 北郷は島津の分家です。 南北朝時代の島津宗家4代 島津忠宗の6男 資忠から始まります。 資忠は北朝方として功績があり、足利 氏から薩摩迫 一帯(現 宮崎県 都城市 山田町)の領地を与えられました。 そこの郷名から北郷(ほんごう、ほくごうが訛(なま)ったもの)を名乗りました。 北郷資忠の子 義久は薩摩迫から都之城からに移りました。 これ以後、北原、伊東、新納、肝付などの近くの勢力に押され、戦国時代の初め頃には、都之城と安永城(現 宮崎県 都城市 庄内町)だけに衰退しました。 8代の北郷忠相は飫肥(おび)の豊州 家と組(く)んで勢力を広げ、現 都城市、三股町、山之口町、曽於市の一部(財部、末吉)まで都城盆地とその周辺を手に入れました。 9代の北郷忠親が飫肥の豊州 家の養子となって後をとり、北郷 氏は日向国の南部を手中に治(おさ)めました。 豊州 家は伊東義祐に負けて飫肥を失いましたが、北郷 家は領地を広げ、北郷時久の代には大隅の恒吉(現 鹿児島県 曽於市 恒吉町)、外港の内之浦(現 鹿児島県 肝付町)まで領地を広げ日向国 諸県郡から大隅国 曽於郡の大部分にまたがる最大領地を手中に治(おさ)めました。 江戸時代初期(1615年)の徳川家康の一国一城令により都之城が廃城になりました。 北郷 氏は元和元年(1615年)に城の東方、現在の都城市役所付近(都城市 姫城町 6-21)に領主館を造り移転しました。 それに伴い武家屋敷、町も移りました。 江戸時代を通じて3-4万石で島津氏最大の所領を領しました。 江戸時代に島津宗家17代島津忠長のときに、忠長の指示で北郷から島津(都城島津)に戻(もど)りました。 島津が豊臣秀吉に降伏した後、1595年に領内で秀吉の検地が行われ、北郷 氏に代わり、伊集院 忠棟に日向諸県郡 庄内の地に8万石の所領が与えられました。 北郷 氏は現 鹿児島県 さつま市の狭い領地に移りました。 1599年に京都で伊集院 忠棟が島津忠恒によって斬(き)り殺されました。 忠棟の嫡男(ちゃくなん)の伊集院 忠真は自分も殺されると思い都之城などに立て篭(こ)もりました。 伊集院 忠真は都之城をはじめ、月山日和城、山之口城、勝岡城、梶山城、安永城、志和池城、山田城、野々美谷城、梅北城、財部城、末吉城、恒吉城を用いて抗戦しました。 1600年に徳川家康の仲介でこの庄内の乱は終わりました。 1595年から1600年までの5年間は都之城は伊集院 氏の城でした。 庄内の乱が終わるとまた北郷 氏が都之城主に戻(もど)って来ました。 しかし、大隅国の領地の大部分(財部、末吉、恒吉)は島津宗家の直轄地となり、北郷 氏のものではなくなりました。



写真BV: 「市指定文化財 都之城址 (みやこのじょうし)」の説明板です。
 都之城 (みやこのじょう)は、都城島津 氏(北郷(ほんごう) 氏)歴代の居城であった。 永和元年(1375年)2代 北郷 義久(よしひさ)が築城し、元和元年(1615年)の一国一城令まで、240年の間、本城となっていたところであり、本市地名発祥のもととなった由緒あるところである。
 城の主郭部(しゅかくぶ、本丸)については、昭和63年から平成2年にかけて発掘調査を実施し、当時の様子(ようす)が明らかとなった。 その中心となる建物(館(やかた))は、北側(現 歴史資料館)に位置していたと思われ、比較的大きな遺構(いこう)が見つかっている。 右の図は、当時の都之城の縄張(なわばり、城の構成)を示したものである。
平成3年3月 都城市教育委員会
と書かれています。
都之城跡縄張図。
弓場田口、取添、御本丸、西城、新城、西明寺、池之上城、中尾之城、中尾口橋、都島、中之城、外城、南之城、小城、来住口、外城、中尾城、大渓寺などが載っています。 
(日豊本線の南側にも都之城は広がっています。)
都之城は落城したことはありません。 都城地方一の大きな城でした。 都之城下を弓場田口、 来住口、大岩田口、鷹尾口、中尾口の5口に分けて、それに安永、山田、志和池、野々美谷、 梶山、梅北の6つを外城(郷)とした五口六外城制で領内を治(おさ)めました。 北郷は島津の分家です。 南北朝時代の島津宗家4代 島津忠宗の6男 資忠から始まります。 資忠は北朝方として功績があり、足利 氏から薩摩迫 一帯(現 宮崎県 都城市 山田町)の領地を与えられました。 そこの郷名から北郷(ほんごう、ほくごうが訛(なま)ったもの)を名乗りました。 北郷資忠の子 義久は薩摩迫から都之城からに移りました。 これ以後、北原、伊東、新納、肝付などの近くの勢力に押され、戦国時代の初め頃には、都之城と安永城(現 宮崎県 都城市 庄内町)だけに衰退しました。 8代の北郷忠相は飫肥(おび)の豊州 家と組(く)んで勢力を広げ、現 都城市、三股町、山之口町、曽於市の一部(財部、末吉)まで都城盆地とその周辺を手に入れました。 9代の北郷忠親が飫肥の豊州 家の養子となって後をとり、北郷 氏は日向国の南部を手中に治(おさ)めました。 豊州 家は伊東義祐に負けて飫肥を失いましたが、北郷 家は領地を広げ、北郷時久の代には大隅の恒吉(現 鹿児島県 曽於市 恒吉町)、外港の内之浦(現 鹿児島県 肝付町)まで領地を広げ日向国 諸県郡から大隅国 曽於郡の大部分にまたがる最大領地を手中に治(おさ)めました。 江戸時代初期(1615年)の徳川家康の一国一城令により都之城が廃城になりました。 北郷 氏は元和元年(1615年)に城の東方、現在の都城市役所付近(都城市 姫城町 6-21)に領主館を造り移転しました。 それに伴い武家屋敷、町も移りました。 江戸時代を通じて3-4万石で島津氏最大の所領を領しました。 江戸時代に島津宗家17代島津忠長のときに、忠長の指示で北郷から島津(都城島津)に戻(もど)りました。 島津が豊臣秀吉に降伏した後、1595年に領内で秀吉の検地が行われ、北郷 氏に代わり、伊集院 忠棟に日向諸県郡 庄内の地に8万石の所領が与えられました。 北郷 氏は現 鹿児島県 さつま市の狭い領地に移りました。 1599年に京都で伊集院 忠棟が島津忠恒によって斬(き)り殺されました。 忠棟の嫡男(ちゃくなん)の伊集院 忠真は自分も殺されると思い都之城などに立て篭(こ)もりました。 伊集院 忠真は都之城をはじめ、月山日和城、山之口城、勝岡城、梶山城、安永城、志和池城、山田城、野々美谷城、梅北城、財部城、末吉城、恒吉城を用いて抗戦しました。 1600年に徳川家康の仲介でこの庄内の乱は終わりました。 1595年から1600年までの5年間は都之城は伊集院 氏の城でした。 庄内の乱が終わるとまた北郷 氏が都之城主に戻(もど)って来ました。 しかし、大隅国の領地の大部分(財部、末吉、恒吉)は島津宗家の直轄地となり、北郷 氏のものではなくなりました。



写真BW: 「市指定文化財 都之城址 (みやこのじょうし)」の説明板です。
 都之城 (みやこのじょう)は、都城島津 氏(北郷(ほんごう) 氏)歴代の居城であった。 永和元年(1375年)2代 北郷 義久(よしひさ)が築城し、元和元年(1615年)の一国一城令まで、240年の間、本城となっていたところであり、本市地名発祥のもととなった由緒あるところである。
 城の主郭部(しゅかくぶ、本丸)については、昭和63年から平成2年にかけて発掘調査を実施し、当時の様子(ようす)が明らかとなった。 その中心となる建物(館(やかた))は、北側(現 歴史資料館)に位置していたと思われ、比較的大きな遺構(いこう)が見つかっている。 右の図は、当時の都之城の縄張(なわばり、城の構成)を示したものである。
平成3年3月 都城市教育委員会
と書かれています。
都之城跡縄張図。
弓場田口、取添、御本丸、西城、新城、西明寺、池之上城、中尾之城、中尾口橋、都島、中之城、外城、南之城、小城、来住口、外城、中尾城、大渓寺などが載っています。 (日豊本線の南側にも都之城は広がっています。)
都之城は落城したことはありません。 都城地方一の大きな城でした。 都之城下を弓場田口、 来住口、大岩田口、鷹尾口、中尾口の5口に分けて、それに安永、山田、志和池、野々美谷、 梶山、梅北の6つを外城(郷)とした五口六外城制で領内を治(おさ)めました。 北郷は島津の分家です。 南北朝時代の島津宗家4代 島津忠宗の6男 資忠から始まります。 資忠は北朝方として功績があり、足利 氏から薩摩迫 一帯(現 宮崎県 都城市 山田町)の領地を与えられました。 そこの郷名から北郷(ほんごう、ほくごうが訛(なま)ったもの)を名乗りました。 北郷資忠の子 義久は薩摩迫から都之城からに移りました。 これ以後、北原、伊東、新納、肝付などの近くの勢力に押され、戦国時代の初め頃には、都之城と安永城(現 宮崎県 都城市 庄内町)だけに衰退しました。 8代の北郷忠相は飫肥(おび)の豊州 家と組(く)んで勢力を広げ、現 都城市、三股町、山之口町、曽於市の一部(財部、末吉)まで都城盆地とその周辺を手に入れました。 9代の北郷忠親が飫肥の豊州 家の養子となって後をとり、北郷 氏は日向国の南部を手中に治(おさ)めました。 豊州 家は伊東義祐に負けて飫肥を失いましたが、北郷 家は領地を広げ、北郷時久の代には大隅の恒吉(現 鹿児島県 曽於市 恒吉町)、外港の内之浦(現 鹿児島県 肝付町)まで領地を広げ日向国 諸県郡から大隅国 曽於郡の大部分にまたがる最大領地を手中に治(おさ)めました。 江戸時代初期(1615年)の徳川家康の一国一城令により都之城が廃城になりました。 北郷 氏は元和元年(1615年)に城の東方、現在の都城市役所付近(都城市 姫城町 6-21)に領主館を造り移転しました。 それに伴い武家屋敷、町も移りました。 江戸時代を通じて3-4万石で島津氏最大の所領を領しました。 江戸時代に島津宗家17代島津忠長のときに、忠長の指示で北郷から島津(都城島津)に戻(もど)りました。 島津が豊臣秀吉に降伏した後、1595年に領内で秀吉の検地が行われ、北郷 氏に代わり、伊集院 忠棟に日向諸県郡 庄内の地に8万石の所領が与えられました。 北郷 氏は現 鹿児島県 さつま市の狭い領地に移りました。 1599年に京都で伊集院 忠棟が島津忠恒によって斬(き)り殺されました。 忠棟の嫡男(ちゃくなん)の伊集院 忠真は自分も殺されると思い都之城などに立て篭(こ)もりました。 伊集院 忠真は都之城をはじめ、月山日和城、山之口城、勝岡城、梶山城、安永城、志和池城、山田城、野々美谷城、梅北城、財部城、末吉城、恒吉城を用いて抗戦しました。 1600年に徳川家康の仲介でこの庄内の乱は終わりました。 1595年から1600年までの5年間は都之城は伊集院 氏の城でした。 庄内の乱が終わるとまた北郷 氏が都之城主に戻(もど)って来ました。 しかし、大隅国の領地の大部分(財部、末吉、恒吉)は島津宗家の直轄地となり、北郷 氏のものではなくなりました。



写真BX: 「市指定文化財 都之城址 (みやこのじょうし)」の説明板です。
 都之城 (みやこのじょう)は、都城島津 氏(北郷(ほんごう) 氏)歴代の居城であった。 永和元年(1375年)2代 北郷 義久(よしひさ)が築城し、元和元年(1615年)の一国一城令まで、240年の間、本城となっていたところであり、本市地名発祥のもととなった由緒あるところである。
 城の主郭部(しゅかくぶ、本丸)については、昭和63年から平成2年にかけて発掘調査を実施し、当時の様子(ようす)が明らかとなった。 その中心となる建物(館(やかた))は、北側(現 歴史資料館)に位置していたと思われ、比較的大きな遺構(いこう)が見つかっている。 右の図は、当時の都之城の縄張(なわばり、城の構成)を示したものである。
平成3年3月 都城市教育委員会
と書かれています。
都之城跡縄張図。
弓場田口、取添、御本丸、西城、新城、西明寺、池之上城、中尾之城、中尾口橋、都島、中之城、外城、南之城、小城、来住口、外城、中尾城、大渓寺などが載っています。 
(日豊本線の南側にも都之城は広がっています。)
都之城は落城したことはありません。 都城地方一の大きな城でした。 都之城下を弓場田口、 来住口、大岩田口、鷹尾口、中尾口の5口に分けて、それに安永、山田、志和池、野々美谷、 梶山、梅北の6つを外城(郷)とした五口六外城制で領内を治(おさ)めました。 北郷は島津の分家です。 南北朝時代の島津宗家4代 島津忠宗の6男 資忠から始まります。 資忠は北朝方として功績があり、足利 氏から薩摩迫 一帯(現 宮崎県 都城市 山田町)の領地を与えられました。 そこの郷名から北郷(ほんごう、ほくごうが訛(なま)ったもの)を名乗りました。 北郷資忠の子 義久は薩摩迫から都之城からに移りました。 これ以後、北原、伊東、新納、肝付などの近くの勢力に押され、戦国時代の初め頃には、都之城と安永城(現 宮崎県 都城市 庄内町)だけに衰退しました。 8代の北郷忠相は飫肥(おび)の豊州 家と組(く)んで勢力を広げ、現 都城市、三股町、山之口町、曽於市の一部(財部、末吉)まで都城盆地とその周辺を手に入れました。 9代の北郷忠親が飫肥の豊州 家の養子となって後をとり、北郷 氏は日向国の南部を手中に治(おさ)めました。 豊州 家は伊東義祐に負けて飫肥を失いましたが、北郷 家は領地を広げ、北郷時久の代には大隅の恒吉(現 鹿児島県 曽於市 恒吉町)、外港の内之浦(現 鹿児島県 肝付町)まで領地を広げ日向国 諸県郡から大隅国 曽於郡の大部分にまたがる最大領地を手中に治(おさ)めました。 江戸時代初期(1615年)の徳川家康の一国一城令により都之城が廃城になりました。 北郷 氏は元和元年(1615年)に城の東方、現在の都城市役所付近(都城市 姫城町 6-21)に領主館を造り移転しました。 それに伴い武家屋敷、町も移りました。 江戸時代を通じて3-4万石で島津氏最大の所領を領しました。 江戸時代に島津宗家17代島津忠長のときに、忠長の指示で北郷から島津(都城島津)に戻(もど)りました。 島津が豊臣秀吉に降伏した後、1595年に領内で秀吉の検地が行われ、北郷 氏に代わり、伊集院 忠棟に日向諸県郡 庄内の地に8万石の所領が与えられました。 北郷 氏は現 鹿児島県 さつま市の狭い領地に移りました。 1599年に京都で伊集院 忠棟が島津忠恒によって斬(き)り殺されました。 忠棟の嫡男(ちゃくなん)の伊集院 忠真は自分も殺されると思い都之城などに立て篭(こ)もりました。 伊集院 忠真は都之城をはじめ、月山日和城、山之口城、勝岡城、梶山城、安永城、志和池城、山田城、野々美谷城、梅北城、財部城、末吉城、恒吉城を用いて抗戦しました。 1600年に徳川家康の仲介でこの庄内の乱は終わりました。 1595年から1600年までの5年間は都之城は伊集院 氏の城でした。 庄内の乱が終わるとまた北郷 氏が都之城主に戻(もど)って来ました。 しかし、大隅国の領地の大部分(財部、末吉、恒吉)は島津宗家の直轄地となり、北郷 氏のものではなくなりました。



写真BY: 「市指定文化財 都之城址 (みやこのじょうし)」の説明板です。
 都之城 (みやこのじょう)は、都城島津 氏(北郷(ほんごう) 氏)歴代の居城であった。 永和元年(1375年)2代 北郷 義久(よしひさ)が築城し、元和元年(1615年)の一国一城令まで、240年の間、本城となっていたところであり、本市地名発祥のもととなった由緒あるところである。
 城の主郭部(しゅかくぶ、本丸)については、昭和63年から平成2年にかけて発掘調査を実施し、当時の様子(ようす)が明らかとなった。 その中心となる建物(館(やかた))は、北側(現 歴史資料館)に位置していたと思われ、比較的大きな遺構(いこう)が見つかっている。 右の図は、当時の都之城の縄張(なわばり、城の構成)を示したものである。
平成3年3月 都城市教育委員会
と書かれています。
都之城跡縄張図。
弓場田口、取添、御本丸、西城、新城、西明寺、池之上城、中尾之城、中尾口橋、都島、中之城、外城、南之城、小城、来住口、外城、中尾城、大渓寺などが載っています。 
(日豊本線の南側にも都之城は広がっています。)
都之城は落城したことはありません。 都城地方一の大きな城でした。 都之城下を弓場田口、 来住口、大岩田口、鷹尾口、中尾口の5口に分けて、それに安永、山田、志和池、野々美谷、 梶山、梅北の6つを外城(郷)とした五口六外城制で領内を治(おさ)めました。 北郷は島津の分家です。 南北朝時代の島津宗家4代 島津忠宗の6男 資忠から始まります。 資忠は北朝方として功績があり、足利 氏から薩摩迫 一帯(現 宮崎県 都城市 山田町)の領地を与えられました。 そこの郷名から北郷(ほんごう、ほくごうが訛(なま)ったもの)を名乗りました。 北郷資忠の子 義久は薩摩迫から都之城からに移りました。 これ以後、北原、伊東、新納、肝付などの近くの勢力に押され、戦国時代の初め頃には、都之城と安永城(現 宮崎県 都城市 庄内町)だけに衰退しました。 8代の北郷忠相は飫肥(おび)の豊州 家と組(く)んで勢力を広げ、現 都城市、三股町、山之口町、曽於市の一部(財部、末吉)まで都城盆地とその周辺を手に入れました。 9代の北郷忠親が飫肥の豊州 家の養子となって後をとり、北郷 氏は日向国の南部を手中に治(おさ)めました。 豊州 家は伊東義祐に負けて飫肥を失いましたが、北郷 家は領地を広げ、北郷時久の代には大隅の恒吉(現 鹿児島県 曽於市 恒吉町)、外港の内之浦(現 鹿児島県 肝付町)まで領地を広げ日向国 諸県郡から大隅国 曽於郡の大部分にまたがる最大領地を手中に治(おさ)めました。 江戸時代初期(1615年)の徳川家康の一国一城令により都之城が廃城になりました。 北郷 氏は元和元年(1615年)に城の東方、現在の都城市役所付近(都城市 姫城町 6-21)に領主館を造り移転しました。 それに伴い武家屋敷、町も移りました。 江戸時代を通じて3-4万石で島津氏最大の所領を領しました。 江戸時代に島津宗家17代島津忠長のときに、忠長の指示で北郷から島津(都城島津)に戻(もど)りました。 島津が豊臣秀吉に降伏した後、1595年に領内で秀吉の検地が行われ、北郷 氏に代わり、伊集院 忠棟に日向諸県郡 庄内の地に8万石の所領が与えられました。 北郷 氏は現 鹿児島県 さつま市の狭い領地に移りました。 1599年に京都で伊集院 忠棟が島津忠恒によって斬(き)り殺されました。 忠棟の嫡男(ちゃくなん)の伊集院 忠真は自分も殺されると思い都之城などに立て篭(こ)もりました。 伊集院 忠真は都之城をはじめ、月山日和城、山之口城、勝岡城、梶山城、安永城、志和池城、山田城、野々美谷城、梅北城、財部城、末吉城、恒吉城を用いて抗戦しました。 1600年に徳川家康の仲介でこの庄内の乱は終わりました。 1595年から1600年までの5年間は都之城は伊集院 氏の城でした。 庄内の乱が終わるとまた北郷 氏が都之城主に戻(もど)って来ました。 しかし、大隅国の領地の大部分(財部、末吉、恒吉)は島津宗家の直轄地となり、北郷 氏のものではなくなりました。



写真BZ: 「市指定文化財 都之城址 (みやこのじょうし)」の説明板です。
 都之城 (みやこのじょう)は、都城島津 氏(北郷(ほんごう) 氏)歴代の居城であった。 永和元年(1375年)2代 北郷 義久(よしひさ)が築城し、元和元年(1615年)の一国一城令まで、240年の間、本城となっていたところであり、本市地名発祥のもととなった由緒あるところである。
 城の主郭部(しゅかくぶ、本丸)については、昭和63年から平成2年にかけて発掘調査を実施し、当時の様子(ようす)が明らかとなった。 その中心となる建物(館(やかた))は、北側(現 歴史資料館)に位置していたと思われ、比較的大きな遺構(いこう)が見つかっている。 右の図は、当時の都之城の縄張(なわばり、城の構成)を示したものである。
平成3年3月 都城市教育委員会
と書かれています。
都之城跡縄張図。
弓場田口、取添、御本丸、西城、新城、西明寺、池之上城、中尾之城、中尾口橋、都島、中之城、外城、南之城、小城、来住口、外城、中尾城、大渓寺などが載っています。 
(日豊本線の南側にも都之城は広がっています。)
都之城は落城したことはありません。 都城地方一の大きな城でした。 都之城下を弓場田口、 来住口、大岩田口、鷹尾口、中尾口の5口に分けて、それに安永、山田、志和池、野々美谷、 梶山、梅北の6つを外城(郷)とした五口六外城制で領内を治(おさ)めました。 北郷は島津の分家です。 南北朝時代の島津宗家4代 島津忠宗の6男 資忠から始まります。 資忠は北朝方として功績があり、足利 氏から薩摩迫 一帯(現 宮崎県 都城市 山田町)の領地を与えられました。 そこの郷名から北郷(ほんごう、ほくごうが訛(なま)ったもの)を名乗りました。 北郷資忠の子 義久は薩摩迫から都之城からに移りました。 これ以後、北原、伊東、新納、肝付などの近くの勢力に押され、戦国時代の初め頃には、都之城と安永城(現 宮崎県 都城市 庄内町)だけに衰退しました。 8代の北郷忠相は飫肥(おび)の豊州 家と組(く)んで勢力を広げ、現 都城市、三股町、山之口町、曽於市の一部(財部、末吉)まで都城盆地とその周辺を手に入れました。 9代の北郷忠親が飫肥の豊州 家の養子となって後をとり、北郷 氏は日向国の南部を手中に治(おさ)めました。 豊州 家は伊東義祐に負けて飫肥を失いましたが、北郷 家は領地を広げ、北郷時久の代には大隅の恒吉(現 鹿児島県 曽於市 恒吉町)、外港の内之浦(現 鹿児島県 肝付町)まで領地を広げ日向国 諸県郡から大隅国 曽於郡の大部分にまたがる最大領地を手中に治(おさ)めました。 江戸時代初期(1615年)の徳川家康の一国一城令により都之城が廃城になりました。 北郷 氏は元和元年(1615年)に城の東方、現在の都城市役所付近(都城市 姫城町 6-21)に領主館を造り移転しました。 それに伴い武家屋敷、町も移りました。 江戸時代を通じて3-4万石で島津氏最大の所領を領しました。 江戸時代に島津宗家17代島津忠長のときに、忠長の指示で北郷から島津(都城島津)に戻(もど)りました。 島津が豊臣秀吉に降伏した後、1595年に領内で秀吉の検地が行われ、北郷 氏に代わり、伊集院 忠棟に日向諸県郡 庄内の地に8万石の所領が与えられました。 北郷 氏は現 鹿児島県 さつま市の狭い領地に移りました。 1599年に京都で伊集院 忠棟が島津忠恒によって斬(き)り殺されました。 忠棟の嫡男(ちゃくなん)の伊集院 忠真は自分も殺されると思い都之城などに立て篭(こ)もりました。 伊集院 忠真は都之城をはじめ、月山日和城、山之口城、勝岡城、梶山城、安永城、志和池城、山田城、野々美谷城、梅北城、財部城、末吉城、恒吉城を用いて抗戦しました。 1600年に徳川家康の仲介でこの庄内の乱は終わりました。 1595年から1600年までの5年間は都之城は伊集院 氏の城でした。 庄内の乱が終わるとまた北郷 氏が都之城主に戻(もど)って来ました。 しかし、大隅国の領地の大部分(財部、末吉、恒吉)は島津宗家の直轄地となり、北郷 氏のものではなくなりました。



写真CA: 都之城跡にある都城歴史資料館です。



写真CB: 都城歴史資料館の広場から東を見たもの。



写真CC: 都城歴史資料館の広場から東を見た景色です。 都城市の市街地と遠くの山が見えます。



写真CD: 都城歴史資料館の広場から南東を見た景色です。 都城市の市街地と遠くの山が見えます。
手前にJR 日豊本線が見えます。 その奥に大淀川の堤防が見えます。



写真CE: 都城歴史資料館の広場から南東を展望したものです。 都城市の市街地と遠くの山が見えます。
手前にJR 日豊本線が見えます。 その奥に大淀川の堤防が見えます。



写真CF: 都城歴史資料館の広場から見た眺望(ちょうぼう)です。 都城市の市街地と遠くの山が見えます。
大淀川の橋が2つ見えます。



写真CG: 都城歴史資料館の広場から北東を見た景色です。 都城市の市街地と鰐塚山(わにづかやま、1118.1 m)が見えます。
大淀川の堤防と橋が見えます。



写真CH: 左の山は鰐塚山(わにづかやま、1118.1 m)です。 手前にJR 日豊本線と鉄橋、大淀川の橋なども見えています。



写真CI: 都之城跡から見た東の方の展望です。 左手前にJR 日豊本線、大淀川の橋、都城市の市街地、遠くの山並み(やまなみ)が見えます。



写真CJ: 東を見た景色です。 右手前にタケノコが2本見えています。



写真CK: 都之城跡から南東を見たもの。 山並みも見えます。 都城跡から。



写真CL: 都城跡から南を見た展望です。 竹林、茶色の民家の屋根が見えています。 右手前に石の歌碑(かひ)が見えます。 本丸跡の広場から。



写真CM: 本丸跡の広場にある茶室 静山亭です。 まわりに日本庭園があります。



写真CN: 茶室のそばから見た都城歴史資料館です。 北を見たもの。
都之城は落城したことはありません。 都城地方一の大きな城でした。 都之城下を弓場田口、 来住口、大岩田口、鷹尾口、中尾口の5口に分けて、それに安永、山田、志和池、野々美谷、 梶山、梅北の6つを外城(郷)とした五口六外城制で領内を治(おさ)めました。 北郷は島津の分家です。 南北朝時代の島津宗家4代 島津忠宗の6男 資忠から始まります。 資忠は北朝方として功績があり、足利 氏から薩摩迫 一帯(現 宮崎県 都城市 山田町)の領地を与えられました。 そこの郷名から北郷(ほんごう、ほくごうが訛(なま)ったもの)を名乗りました。 北郷資忠の子 義久は薩摩迫から都之城からに移りました。 これ以後、北原、伊東、新納、肝付などの近くの勢力に押され、戦国時代の初め頃には、都之城と安永城(現 宮崎県 都城市 庄内町)だけに衰退しました。 8代の北郷忠相は飫肥(おび)の豊州 家と組(く)んで勢力を広げ、現 都城市、三股町、山之口町、曽於市の一部(財部、末吉)まで都城盆地とその周辺を手に入れました。 9代の北郷忠親が飫肥の豊州 家の養子となって後をとり、北郷 氏は日向国の南部を手中に治(おさ)めました。 豊州 家は伊東義祐に負けて飫肥を失いましたが、北郷 家は領地を広げ、北郷時久の代には大隅の恒吉(現 鹿児島県 曽於市 恒吉町)、外港の内之浦(現 鹿児島県 肝付町)まで領地を広げ日向国 諸県郡から大隅国 曽於郡の大部分にまたがる最大領地を手中に治(おさ)めました。 江戸時代初期(1615年)の徳川家康の一国一城令により都之城が廃城になりました。 北郷 氏は元和元年(1615年)に城の東方、現在の都城市役所付近(都城市 姫城町 6-21)に領主館を造り移転しました。 それに伴い武家屋敷、町も移りました。 江戸時代を通じて3-4万石で島津氏最大の所領を領しました。 江戸時代に島津宗家17代島津忠長のときに、忠長の指示で北郷から島津(都城島津)に戻(もど)りました。 島津が豊臣秀吉に降伏した後、1595年に領内で秀吉の検地が行われ、北郷 氏に代わり、伊集院 忠棟に日向諸県郡 庄内の地に8万石の所領が与えられました。 北郷 氏は現 鹿児島県 さつま市の狭い領地に移りました。 1599年に京都で伊集院 忠棟が島津忠恒によって斬(き)り殺されました。 忠棟の嫡男(ちゃくなん)の伊集院 忠真は自分も殺されると思い都之城などに立て篭(こ)もりました。 伊集院 忠真は都之城をはじめ、月山日和城、山之口城、勝岡城、梶山城、安永城、志和池城、山田城、野々美谷城、梅北城、財部城、末吉城、恒吉城を用いて抗戦しました。 1600年に徳川家康の仲介でこの庄内の乱は終わりました。 1595年から1600年までの5年間は都之城は伊集院 氏の城でした。 庄内の乱が終わるとまた北郷 氏が都之城主に戻(もど)って来ました。 しかし、大隅国の領地の大部分(財部、末吉、恒吉)は島津宗家の直轄地となり、北郷 氏のものではなくなりました。



写真CO: 宮崎県 都城市にある都城歴史資料館です。 手前に石段があります。 中央下が入口です。



写真CP: 「都城歴史資料館」と書いてある門札(もんさつ)があります。 スリッパに履(は)き替えて内部に入ります。 「大人210円、・・・」と書いてあります。
「都城市立 都城歴史資料館」は1989年(平成元年)10月20日にオープンしました。 林野庁のモデル木造施設建設事業として造られました。 木造2階建て、中2階があるので3層になっています。 床面積は860 平方メートルです。 使用木材の96 %は杉、3 %がヒノキ、1 %がその他で、樹齢120年の大きな柱もあります。 敷地内に茶室の静山亭があります。 北郷 氏に伝わる古文書や美術工芸品、都城市の遺跡からの出土品などの展示もあります。 郷土芸能の資料、農機具などの民具なども展示してあります。



写真CQ: 都城歴史資料館の右寄りに仁王像(におうぞう)があります。
旧 竜泉寺の仁王像です。 旧 竜泉寺は都之城の北側にありましたが、廃寺になりました。 竜泉寺には北郷の3代 久秀、10代 時久の嫡男(ちゃくなん)相久の菩提寺(ぼだいじ)でした。



写真CR: 「仁王像 (におうぞう)」の説明板です。



写真CS: 都城歴史資料館の屋上の窓から外を見た景色です。 民家が多く見えます。 手前は都城歴史資料館の屋根瓦(やねがわら)です。



写真CT: 都城歴史資料館の屋上の窓から東を見た展望です。 茶色に見えるJR 日豊本線の鉄橋、橋も見えます。 大淀川の堤防、都城市の市街地、遠くの山並みも見えます。



写真CU: 都城歴史資料館の屋上の窓から東を見た眺望(ちょうぼう)です。 茶色に見えるJR 日豊本線の鉄橋、橋も見えます。 大淀川の堤防、都城市の市街地、遠くの山並みも見えます。



写真CV: 都城歴史資料館の屋上の窓から南を見た景色です。 左に大淀川の堤防、都城市の民家、遠くの山並みも見えます。
手前は本丸跡の広場です。



写真CW: 都城歴史資料館の屋上の窓から見た景色です。 城山の木、手前に道も見えます。



写真CX: 本丸跡から西にある狭野神社に行く橋が見えます。



写真CY: 本丸跡から西にある狭野神社(さのじんじゃ)に行く橋。



写真CZ: 「奉納 狭野神社 氏子一同」と書いてある幟(のぼり)があります。 奥は狭野神社の建物です。
狭野神社は曲輪(くるわ、平らな所)の一つである西城にあります。



写真DA: 橋の上から見た狭野神社の赤い鳥居(とりい)と石段です。 南西を見たものです。



写真DB: 橋の上から見た空堀(からぼり)です。 右は狭野神社の石段です。 南を見たもの。



写真DC: 都城市 都島町にある狭野神社の赤い鳥居(とりい)、石灯籠(いしどうろう)です。 東を見たもの。



写真DD: 地面をはって上部が立ち上がっている古木があります。 そばに小さな鳥居が見えます。 左に赤い灯明(とうみょう)があります。



写真DE: 狭野神社の境内(けいだい)に地面をはって上部が立ち上がっている古木があります。



写真DF: その古木の上部です。



写真DG: 古木の上部です。



写真DH: 都城市 都島町にある「狭野神社」の社務所です。 右に手水舎(ちょうずや)があります。 自動車も見えます。



写真DI: 狭野神社の二の鳥居、その奥に社殿も見えます。



写真DJ: 自動車も登れる道です。



写真DK: 狭野神社社務所です。 しめ縄もあります。
「初宮詣、七草詣、七五三詣、厄除祈願、交通安全祈願、地鎮祭、結婚式」と書いてある看板(かんばん)もあります。



写真DL: 本丸跡からこちらに来た道です。 奥に橋、左に石碑(せきひ)、説明板も見えます。 東を見たもの。



写真DM: 都城市にある狭野神社の手水舎(ちょうずや)です。 左は社務所。



写真DN: 狭野神社の御手洗(みたらい)です。



写真DO: 狭野神社の鳥居(とりい)、掲示板、看板も見えます。



写真DP: 狭野神社の説明板と石碑(せきひ)です。



写真DQ: 「都島古蹟(こせき)」の説明板です。
 この都島の地は神武天皇皇居の御跡であって天皇が御東征の途に上らせられて後この御跡を汚し奉らないように塚を築き宮古神と称(しょう)する社を祀(まつ)っていた。
 その後社は兵火にあって全焼したのでこの跡に樹を植え諸人の崇尊する所であったと伝えられている。 あんずるに天皇は高原の狭野に於いて御誕生になり御育ちになって後一大勢力を養わんために沃土(よくど)の中心のこの都島の地に御遷りになりこのところに於いて十分な御勢力を養われて後宮崎に向かって御出発あらせられたのであろう。
と書いてあります。



写真DR: 宮崎県 都城市の都城跡にある「狭野神社(さのじんじゃ)」です。 拝殿、末社、石灯籠(いしどうろう)、鳥居(とりい)などが見えます。 北を見たもの。



写真DS: 「狭野神社」の説明板です。
御祭神 神武天皇
御祭儀
歳旦祭 1月1日、七草祭 1月7日、紀元祭 2月11日、祈年祭(大祭) 2月25日、夏越大祓 6月30日、六月燈(中祭) 7月15日、例祭 (大祭) 10月15日、新嘗祭(にいなめさい、大祭) 11月25日、天長祭 12月23日、年越大祓 12月30日、除夜祭 12月31日。
と書いてあります。



写真DT: 狭野神社掲示板です。
「神武様 お船出街道」の絵地図が貼(は)ってあります。



写真DU: 「神武様 お船出街道」の絵地図です。



写真DV: 左からおみくじを縛(しば)り付ける所、石灯籠(いしどうろう)、末社、鳥居が見えます。 赤いサツキの花もあります。



写真DW: 都城市の都城跡にある「狭野神社(さのじんじゃ)」です。 拝殿、右におみくじを縛り付ける所などが見えます。



写真DX: 境内(けいだい)に赤いサツキの花が咲いていました。



写真DY: おみくじを縛り付ける所です。



写真DZ: 都城市にある狭野神社の社殿です。 石灯籠も見えます。



写真EA: 狭野神社の鈴とヒモです。



写真EB: 都城市にある狭野神社。 右に記帳台があります。 中央奥に榊(さかき)の枝が見えます。



写真EC: 「祈願札(きがんふだ)」を置く場所などがあります。



写真ED: 記帳台です。



写真EE: 狭野神社の境内(けいだい)です。 鳥居も見えます。 南を見たもの。



写真EF: 「額アジサイ(がくあじさい)の花」が咲いていました。



写真EG: 狭野神社です。 左は社務所です。



写真EH: はじめの赤い鳥居(とりい)です。



写真EI: 狭野神社の石段の上から空堀(堀切)を見下(お)ろしたもの。



写真EJ: 対岸には都城歴史資料館があります。



写真EK: 空堀(からぼり)に楓(かえで)の種子(たね)があるプロペラ状のものがありました。 これは風に飛ばされて遠くまで種子を運びます。



写真EL: 大手門の近くまで戻(もど)って来ました。



写真EM: 大手門と石垣(いしがき)です。



写真EN: 大手門と石垣(いしがき)。



写真EO: 駐車場の所に戻(もど)って来ました。



写真EP: 入り口にある飲料水の自動販売機でコカ・コーラを飲みました。



by 南陽彰悟 (NANYO Shogo)