三納城跡 (みのう城跡、ミノウ城跡、みのうじょうあと)(信古堂跡、三納小学校発祥の地)  (西都市大字三納)







<標高、位置>  三納城跡は
標高 約90 m
 北緯32度07分12秒  東経131度20分54秒


  三納城は、宮崎県西都市大字三納(みのう)字府下にあります。 自然の山丘を活用した上下二段から成る平山城である三納城は、都於郡伊東家48城の1城であるが、築城者、年代などは不明である。
永禄(1558-1569年)の頃から、飯田肥前守祐恵(伊東氏門川13族の内)が城主となり、長谷観音の復興にも当たったが、天正5年伊東氏没落に際し、孤忠を守りここに戦死す。 同年、伊東氏豊後落ちの後、都於郡奪回を図った残党が策成らずして三納城に籠城し、兵糧もわずか敵に策ありと知りつつ城を出て六野原の大激戦となり、翌年11月18日までに武将や三十余名の兵士全員討ち死にさせ死守した。 落城後は佐土原藩(前島津)の外城となるが、元和元年(1615年)江戸幕府の大名統制策の「一国一城の制」によって廃城される。
難攻不落を誇った三納城は、今も中世城郭として残されている。


写真A: 宮崎県西都市大字三納にある「三納城跡」の道しるべ。 三納の郵便局から長谷観音に行く途中の十字路の近くにあります。



写真B: 三納の郵便局から長谷観音に行く途中の、十字路の近くの細い道を登っていくと、三納城跡があります。 上の写真の「道しるべ」は、この道の左角に小さく見えています。



写真C: この建物の右を登ると、三納城跡です。 左の道を進むと、長谷観音に行きます。



写真D: 三納の郵便局から長谷観音に行く途中の、十字路です。 右に進むと、長谷観音に行きます。 この右の建物が、三納城跡に行くときの目印(めじるし)になります。



写真E: 三納城跡に行くときに、目印になる建物は、「三納っ子見守り所」になっています。



写真F: 三納城跡に行く道を登ると、駐車場があります。 そこにはトイレもあります。



写真G: 三納城跡に行く道を登ると、駐車場があります。



写真H: 「史跡 三納城跡入口」の石碑(せきひ)。 後ろの建物は、駐車場のトイレです。



写真I: 駐車場の近くには、「信古堂跡」の石碑があります。



写真J: 駐車場の近くにある「信古堂跡」の石碑のそばには、「三納小学校発祥の地 西都市教育委員会」と書かれた木の標識が置いてありました。



写真K: 信古堂跡(三納小学校発祥の地)には、古い鬼瓦(おにがわら)が残っていました。



写真L: 信古堂跡(三納小学校発祥の地)には、新緑の楓(かえで)の葉がきれいでした。



写真M: 信古堂跡(三納小学校発祥の地)には、広場もあります。



写真N: 信古堂跡(三納小学校発祥の地)の広場。



写真O: 駐車場わきにある、三納城跡への登山道。



写真P: 三納城跡への登山道には、多くの石仏があります。 この石仏には、26番の札(ふだ)が立ててあります。 石仏のデザインは色々変化があって楽しめます。



写真Q: 三納城跡への登城路には、孟宗竹(もうそうだけ)の竹林もあります。



写真R: 27番と札が立てられている石仏。



写真S: 三納城跡への登山道に、孟宗竹(もうそうだけ)の竹の子が出ていました。



写真T: 三納城跡(みのうじょうあと)への登山道に、階段、孟宗竹(もうそうだけ)もあります。



写真U: 28番と札が立てられている石像。



写真V: 29番と札が立てられている石仏。



写真W: 三納城跡(みのうじょうあと)への登山道。



写真X: 三納城跡(みのうじょうあと)への登山道にある石像。 石仏のデザインは色々変化があって楽しめます。



写真Y: 31番の札が立てられている石仏。



写真Z: 三納城跡(みのうじょうあと)への登山道から下方の景色が、立木の間から見えています。



写真AA: 三納城跡(みのうじょうあと)にある説明板、手すり、階段などが見えています。



写真AB: 三納城跡(みのうじょうあと)に着きました。 空を背景に桜の花も見えています。



写真AC: 三納城跡(みのうじょうあと)にある石仏。 石仏のデザインは色々変化があって楽しめます。



写真AD: 「史跡 三納城跡」と彫(ほ)られた石碑(せきひ)。



写真AE: 「三納史跡公園」と書かれた標識。 両側に、三納城の2枚の説明板も見えています。 シダも生えています。



写真AF: 「三納城跡」の説明板。
自然の山丘を活用した上下二段から成る平山城である三納城は、都於郡伊東家48城の1城であるが、築城者、年代などは不明である。
永禄(1558-1569年)の頃から、飯田肥前守祐恵(伊東氏門川13族の内)が城主となり、長谷観音の復興にも当たったが、天正5年伊東氏没落に際し、孤忠を守りここに戦死す。 同年、伊東氏豊後落ちの後、都於郡奪回を図った残党が策成らずして三納城に籠城し、兵糧もわずか敵に策ありと知りつつ城を出て六野原の大激戦となり、翌年11月18日までに武将や三十余名の兵士全員討ち死にさせ死守した。 
難攻不落を誇った三納城は、今も中世城郭として残されている。
平成3年 西都市教育委員会  と書かれています。



写真AG: 「史跡 三納城跡」の案内板。
西都市市街地の西方5.4 km、九州山地が南に延びた、標高87メートルの断崖台地上に位置しており、西側は断崖絶壁で三納川が南流し、東側は渓谷、北側は馬背稜線が続いて山地に接する強固な構えである。 南側には曲折登坂の追手口を配し、その眼下には三納の町並みを有する三納平野が広がっている。
 築造年代などは不詳であるが、南北朝時代の正平19年(1364年)南方三納蜂起とある。 日向記による伊東氏48城に含まれ、飯田肥前守が城主とあり、天正5年(1577年)伊東氏豊後落ちのあと、最後の砦(とりで)となって、島津氏と対決した有名な城である。
 落城後は佐土原藩(前島津)の外城となるが、元和元年(1615年)一国一城の制によって廃城される。
 本年度、三納城の公園整備事業(県営農村広域生活環境整備事業西都地区平城工区)が行われることになり、事前調査を宮崎県児湯農林振興局の委託を受けて、市教育委員会が主体となり実施した。
 調査の結果、虎口(入口)と推定される遺構3カ所や掘立柱建物跡2棟および多数のピット群が、検出されたが、なかでも、虎口は本丸西側中央部分に集中し、「L」あるいは「U」字状の形をしており、両脇に排水用の溝を有しているものも見受けられた。
 遺物は、土師器・須恵器・陶磁器・青磁・古銭などが出土したが、土師器が最も多い。 器形的には杯・皿類が多く、高台付椀などが含まれている。 また、注目されるものとして、中国からの輸入銭「元祐通宝」「開元通宝」のほかに、東北地方の仙台藩で鋳造されたと推定される正方形の「仙台通宝」(天明4年、1784年)が土坑から出土した。 いずれも市内では初めての出土である。
 以上、本丸の中心的な建物跡と思われる遺構は検出されなかったが、虎口や掘立柱建物跡および土坑・ピット群などが検出され、城の機能および性格を少しでも解明できる資料になったことは、大きな成果であった。
平成8年3月  西都市教育委員会   と書かれています。



写真AH: 「史跡 三納城跡」の案内板。
西都市市街地の西方5.4 km、九州山地が南に延びた、標高87メートルの断崖台地上に位置しており、西側は断崖絶壁で三納川が南流し、東側は渓谷、北側は馬背稜線が続いて山地に接する強固な構えである。 南側には曲折登坂の追手口を配し、その眼下には三納の町並みを有する三納平野が広がっている。
 築造年代などは不詳であるが、南北朝時代の正平19年(1364年)南方三納蜂起とある。 日向記による伊東氏48城に含まれ、飯田肥前守が城主とあり、天正5年(1577年)伊東氏豊後落ちのあと、最後の砦(とりで)となって、島津氏と対決した有名な城である。
 落城後は佐土原藩(前島津)の外城となるが、元和元年(1615年)一国一城の制によって廃城される。
 本年度、三納城の公園整備事業(県営農村広域生活環境整備事業西都地区平城工区)が行われることになり、事前調査を宮崎県児湯農林振興局の委託を受けて、市教育委員会が主体となり実施した。
 調査の結果、虎口(入口)と推定される遺構3カ所や掘立柱建物跡2棟および多数のピット群が、検出されたが、なかでも、虎口は本丸西側中央部分に集中し、「L」あるいは「U」字状の形をしており、両脇に排水用の溝を有しているものも見受けられた。
 遺物は、土師器・須恵器・陶磁器・青磁・古銭などが出土したが、土師器が最も多い。 器形的には杯・皿類が多く、高台付椀などが含まれている。 また、注目されるものとして、中国からの輸入銭「元祐通宝」「開元通宝」のほかに、東北地方の仙台藩で鋳造されたと推定される正方形の「仙台通宝」(天明4年、1784年)が土坑から出土した。 いずれも市内では初めての出土である。
 以上、本丸の中心的な建物跡と思われる遺構は検出されなかったが、虎口や掘立柱建物跡および土坑・ピット群などが検出され、城の機能および性格を少しでも解明できる資料になったことは、大きな成果であった。
平成8年3月  西都市教育委員会   と書かれています。



写真AI: 「史跡 三納城跡」の案内板。
西都市市街地の西方5.4 km、九州山地が南に延びた、標高87メートルの断崖台地上に位置しており、西側は断崖絶壁で三納川が南流し、東側は渓谷、北側は馬背稜線が続いて山地に接する強固な構えである。 南側には曲折登坂の追手口を配し、その眼下には三納の町並みを有する三納平野が広がっている。
 築造年代などは不詳であるが、南北朝時代の正平19年(1364年)南方三納蜂起とある。 日向記による伊東氏48城に含まれ、飯田肥前守が城主とあり、天正5年(1577年)伊東氏豊後落ちのあと、最後の砦(とりで)となって、島津氏と対決した有名な城である。
 落城後は佐土原藩(前島津)の外城となるが、元和元年(1615年)一国一城の制によって廃城される。
 本年度、三納城の公園整備事業(県営農村広域生活環境整備事業西都地区平城工区)が行われることになり、事前調査を宮崎県児湯農林振興局の委託を受けて、市教育委員会が主体となり実施した。
 調査の結果、虎口(入口)と推定される遺構3カ所や掘立柱建物跡2棟および多数のピット群が、検出されたが、なかでも、虎口は本丸西側中央部分に集中し、「L」あるいは「U」字状の形をしており、両脇に排水用の溝を有しているものも見受けられた。
 遺物は、土師器・須恵器・陶磁器・青磁・古銭などが出土したが、土師器が最も多い。 器形的には杯・皿類が多く、高台付椀などが含まれている。 また、注目されるものとして、中国からの輸入銭「元祐通宝」「開元通宝」のほかに、東北地方の仙台藩で鋳造されたと推定される正方形の「仙台通宝」(天明4年、1784年)が土坑から出土した。 いずれも市内では初めての出土である。
 以上、本丸の中心的な建物跡と思われる遺構は検出されなかったが、虎口や掘立柱建物跡および土坑・ピット群などが検出され、城の機能および性格を少しでも解明できる資料になったことは、大きな成果であった。
平成8年3月  西都市教育委員会   と書かれています。



写真AJ: 「史跡 三納城跡」の案内板や「三納史跡公園」の標識など。 



写真AK: 「史跡 三納城跡」の案内板や「三納史跡公園」の標識、「史跡 三納城跡」と彫(ほ)られた石碑(せきひ)など。



写真AL: 三納城跡の様子。 「三納城跡公園」の案内板も見えています。



写真AM: 三納城跡の平らなところ。 シダも生えています。



写真AN: 三納城跡の景色。 祠(ほこら)も左端に見えています。 シダも生えています。



写真AO: 三納城跡の景色。 祠(ほこら)も見えています。 シダも生えています。



写真AP: 三納城跡の様子。 ベンチ、シダも見えています。



写真AQ: 三納城跡の様子。 まわりの柵(さく)、「史跡 三納城跡」の案内板も見えています。



写真AR: 三納城跡の様子。 祠(ほこら)、土塁(どるい)とも思われる土盛りも見えています。



写真AS: 三納城跡。 祠(ほこら)のそばに、石で作った御手洗(みたらい)がありました。



写真AT: 三納城跡。 祠(ほこら)や石造物も見えています。



写真AU: 三納城跡には五輪塔もあります。 墓と思われます。



写真AV: 三納城跡には石仏もあります。



写真AW: 三納城跡の様子。 石仏や五輪塔もあります。 ベンチやまわりの柵(さく)も見えています。



写真AX: 高い方の三納城跡からは、下方に曲輪(くるわ、平らなところ)も見えています。



写真AY: 高い方の三納城跡からは、下方に曲輪(くるわ、平らなところ)も見えています。



写真AZ: 三納城跡の様子。



写真BA: 三納城跡。 祠(ほこら)や石造物も見えています。



写真BB: 三納城跡公園の説明板。



写真BC: 三納城跡公園の説明板。 絵地図も載っています。



写真BD: 三納城跡公園の説明板。
 この公園整備は、歴史上の遺跡、風土などの保存を図りながら、周辺の住民および来訪者に憩いの場を提供することを目的として、農林水産省の補助事業でつくられたものである。 標高125 mの頂きの広場に芝・ベンチ・植栽などの修景施設および遊歩道・駐車場の整備を行った。
 三納城主飯田肥前守祐恵は、天正5年(1577年)伊東氏没落に際し、敵の大軍と孤軍奮闘し一族郎党ことごとく討死した。 この忠節の武勇伝はあまりにも有名な話である。
事業の概要
1.事業名 農村自然環境整備事業
2.地区名 西都(平城農村公園緑地整備)
3.施工年度 平成6-7年度
と書かれています。



写真BE: 三納城跡。 ベンチ、周囲の柵(さく)や石造物も見えています。 柵の外には、孟宗竹(もうそうだけ)の竹林もあります。



写真BF: 三納城跡。 祠(ほこら)、土塁(どるい)とも思われる土盛りも見えています。



写真BG: 三納城跡。



写真BH: 三納城跡の様子。



写真BI: 三納城跡。



写真BJ: 三納城跡の様子。



写真BK: 三納城跡。



写真BL: 三納城跡の様子。 祠(ほこら)、土塁(どるい)とも思われる土盛りも見えています。



写真BM: 三納城跡の様子。 まわりの柵、石造物、ベンチ、祠(ほこら)、土塁(どるい)とも思われる土盛りも見えています。



写真BN: 三納城跡の様子。 スミレの花が群生していました。



写真BO: 三納城跡。 ベンチ、まわりの柵も見えています。



写真BP: 三納城跡から見下ろした景色。 三納川や長谷観音に行く道路、集落、ビニールハウス、田んぼ、畑、山並みなども見えています。



写真BQ: 三納城跡から見下ろした眺望(ちょうぼう)。 三納川や長谷観音に行く道路、集落、ビニールハウス、田んぼ、山並みなども見えています。



写真BR: 三納城跡から見下ろした景色。



写真BS: 三納城跡から見下ろした眺望(ちょうぼう)。 三納川や長谷観音に行く道路、集落、ビニールハウス、田んぼ、山並みなども見えています。



写真BT: 三納城跡から見下ろした景色。 三納川や長谷観音に行く道路、集落、ビニールハウス、田んぼ、畑、山並みなども見えています。



写真BU: 三納城跡から見下ろした眺望(ちょうぼう)。



写真BV: 三納城跡から見下ろした景色。



写真BW: 三納城跡から見下ろした眺望(ちょうぼう)。



写真BX: 三納城跡から見下ろした景色。 三納川や長谷観音に行く道路、集落、ビニールハウス、田んぼ、畑、山並みなども見えています。



写真BY: 三納城跡。 登ってきた道とは反対側にも登山道があるようです。 石仏も見えています。



写真BZ: 三納城跡。 石仏もあります。 37番の札(ふだ)が立っています。 ベンチもあります。



写真CA: 三納城跡。 シダも生えています。



写真CB: 三納城跡。 シダも生えています。



写真CC: 三納城跡。 祠(ほこら)の裏が見えています。



写真CD: 三納城跡。 土塁(どるい)のような土盛りがあります。



写真CE: 三納城跡の様子。



写真CF: 「史跡 三納城跡」と彫(ほ)られた石碑。



写真CG: 「史跡 三納城跡」と彫(ほ)られた石碑の裏。
 築城者などは不詳であるが、南北朝時代の正平19年(1364年)南朝方三納城に蜂起とある。 山上の山城は北方が堀を境に山峰に連なり、東は渓谷、西は断崖、南の急坂大手道には堀が横断する。 この城は都於郡48城の1城で、永禄の頃飯田肥前守が城主となり中段にも郭(くるわ、平らなところ)を配した。 これを平山城とも称する。 そして伊東氏豊後落ちの後、残党が籠城し島津軍に挑んだと古書に記され、落城後は佐土原藩の外城となるが、元和元年(1615年)一国一城の制によって廃城される。
平成4年1月吉日  西都市教育委員会   と書かれています。



写真CH: 「史跡 三納城跡」と彫(ほ)られた石碑、説明板。 柵(さく)のあるところから登ってきました。



写真CI: 三納城跡。 この登城路を登ってきました。



写真CJ: 三納城跡。 この登ってきた登城路を、今度は下ります。



by 南陽彰悟 (NANYO Shogo)