高鍋城跡(舞鶴城跡、舞鶴城址、財部城)、高鍋湿原(サギソウの花) (たかなべ城、まいづる城、舞鶴公園、高鍋町歴史総合資料館、舞鶴神社、国指定 天然記念物 高鍋大楠(くすのき)、高鍋護国神社、舞鶴灯籠まつり、舞鶴灯籠祭り、たかなべしつげん、鷺草の花、高鍋温泉(めいりんの湯))  (宮崎県児湯郡 高鍋町 大字上江)







<標高、位置>  高鍋城(舞鶴城)の本丸跡は
標高 約50 m
 北緯32度07分22秒  東経131度30分04秒

<標高、位置>  高鍋湿原は
標高 約20 m
 北緯32度07分10秒  東経131度28分55秒


 「高鍋城跡(舞鶴城跡、舞鶴公園)」は宮崎県児湯郡高鍋町大字上江1345にあります。
高鍋城は説明板から、
「沿革」
  もと財部城といったが、後、高鍋城に改め通常は舞鶴城と呼ばれている。
 平安時代中期(斉衛年間 854年−857年)土持氏の所有となり、在来の山城を補修し、ここにおることおよそ600年に及んだ。
 長禄元年(1457年)伊東氏の所有となり、その48城の一つとして、武将 落合民部これを守った。 およそ120年の後、天正5年伊東氏を破り島津氏の所有となった。 後 天正15年(1587年)島津氏は豊臣秀吉に降伏し、同年7月秋月氏の居城となり約280年、明治の廃藩に至るまで続いた。
 寛文9年(1669年)6月、秋月氏3代藩主種信「財部」を「高鍋」と改め居城の修復に着手、岩坂門、石垣、城堀、大手門、本丸など数年を要して完成、近世の城の様式を備えるに至った。
「構造」
 天然の要害を巧みに利用し丘の中腹に心臓部の本丸を設け一段下がった平地を二の丸とし、更に下ったところを三の丸とし、北、南、東を堀で区切り、西は背後の山に野首掘切りを設けた。
「史跡」
 旧城内は、現在舞鶴公園として整備せられ、舞鶴公園、護国神社、石垣、堀、国指定の天然記念物の「高鍋大楠(くすのき)」をはじめ、次のような社寺や建造物の跡、各種記念碑など史跡が多い。
天然記念物1、社寺跡8、歌碑2、建造物の跡12、各種記念碑11 合計34。
 「高鍋藩 (秋月藩)」は1代は種長、2代は種春、3代は種信、4代は種政、5代は種弘、6代は種美、7代は種茂、8代は種徳、9代は種任、10代は種殷です。 高鍋藩 (秋月藩)は宮崎県児湯郡の東部 (高鍋町、木城町、川南町、都農町、日向市の美々津)と串間市、宮崎市 (瓜生野、倉岡の1部)、国富町 (木脇)を持っていました。 外様 (とざま)です。 藩庁は高鍋城 (舞鶴城、高鍋町)で高鍋は初期は財部 (たからべ)と呼 (よ)ばれていました。 秋月は福岡県の筑前国を領有していました。 豊臣秀吉の九州征伐 (せいばつ)のときに島津とともに秀吉軍と戦いましたが、その後、秀吉に恭順 (きょうじゅん)して、日向国 串間 (3万石)に移封されました。 1600年 (慶長5年)関ヶ原の戦いのとき秋月種長は西軍に属して大垣城を守っていましたが、9月15日の関ヶ原の戦いの本戦で、西軍が負けると東軍に属しました。 それで所領を安堵 (あんど)されました。 1604年 (慶長9年)に居城を串間から財部城 (高鍋城)に移しました。 3代秋月種信は1673年に財部 (たからべ)から高鍋に地名を変えました。 4代種政は1689年に弟 (種封)に3000石を分け与えたため、以後高鍋藩は2万7000石となりました。 江戸中期に6代種美の次男は米沢藩 (上杉 氏)に入り、名君 上杉鷹山 (ようざん)となりました。 その兄の7代種茂も高鍋藩の名君となり、1778年 (安永7年)に藩校 明倫堂 (めいりんどう)を開校しました。 秋月は10代のときに明治時代になりました。 1871年 (明治4年)に廃藩置県で高鍋県となりました。 その後に美々津県、宮崎県、鹿児島県、宮崎県になりました。

 「高鍋湿原」は宮崎県児湯郡高鍋町大字上江 高平にあります。 高鍋温泉の隣にあります。
高鍋湿原は説明板から、
高鍋湿原は、防災ダム堤体の建設材料の土砂を採取した後にできた窪地(くぼち)に湧き水がたまり、半ば人工的に出来た湿原です。
 この湿原には体長15−20 mm程度の日本一小さいといわれる「ハッチョウトンボ」や、白鷺(しらさぎ)が羽を広げたような可憐で小さな白い花を咲かせる「サギソウ」、日本有数の群生を誇る「ヒメノボタン」など、希少種の昆虫や植物が多数自生していることが確認されています。

 「高鍋温泉(めいりんの湯)」は宮崎県児湯郡高鍋町大字上江6900にあります。 高鍋湿原の隣にあります。
高鍋町は、江戸時代は秋月家三万石・高鍋藩の城下町です。 藩校 明倫堂は1719年、五代 秋月種弘が学問・武芸の学校を開いたのが始まりで、七代 種茂が家臣千手八太郎の意見で1778年独立した藩校を創設、明倫堂(めいりんどう)と名付けました。 高鍋温泉めいりんの湯はこの藩校の名前から名付けられました。


写真A: 西都-高鍋線にある「舞鶴城址(まいづるじょうし)」の看板(かんばん)。



写真B: 西都-高鍋線の様子。 先は高鍋町、手前は西都市。 「舞鶴城址(まいづるじょうし)」の看板(かんばん)も見えています。



写真C: 「舞鶴公園」と書いてある標識があります。 この左が宮崎県児湯郡高鍋町にある舞鶴城跡です。



写真D: 「舞鶴公園」の標識。 舞鶴城跡は舞鶴公園になっています。



写真E: 高鍋城跡の駐車場。



写真F: 高鍋城跡の駐車場。



写真G: 「高鍋町歴史総合資料館」と書かれた看板(かんばん)。 石垣も見えています。 奥の建物が高鍋町歴史総合資料館です。 これは高鍋城跡(舞鶴城址)にあります。



写真H: 石垣も見えています。 奥の建物が高鍋町歴史総合資料館です。
この石垣は「打ち込み接ぎ(うちこみはぎ)」の方法で作られた石垣です。
<参考>   「石垣」は
(1)野面積み(のづらづみ): 自然石をそのまま加工せずに積み上げる方法です。
(2)打ち込み接ぎ(うちこみはぎ): 表面に出る石の角や面をたたき、平にし石同士の接合面に隙間(すきま)を減らして積み上げる方法です。 関ヶ原の戦い以後、多く造られました。 野面積みより高く、急な勾配(こうばい)が可能です。
(3)切込み接ぎ(きりこみはぎ): 方形に整形した石を密着させて、積み上げる方法です。 慶長5年(1600年)以後に、隅石(すみいし)の加工から徐々に平石にまで広がりました。 江戸時代初期(元和年間)以後に多く造られました。 石同士が密着しているので排水できないため、排水口が設置されます。

などがあります。



写真I: 高鍋町歴史総合資料館。



写真J: 高鍋町歴史総合資料館の入り口に「よってみランドたかなべ まちの駅」と書いた看板があります。



写真K: 高鍋町歴史総合資料館の玄関。



写真L: 左の建物は「萬歳亭(ばんざいてい)」。



写真M: 「刀工鍛冶場(とうこうかじば)」の建物があります。



写真N: 「刀工鍛冶場(とうこうかじば)」の建物の中には、刀を作っている2人の人形があります。



写真O: 「刀工鍛冶場(とうこうかじば)」の説明板。
 この鍛冶場(かじば)は、大字北高鍋字南道具小路(どうぐこうじ) 岩下英(盛夷)氏の鍛冶場を復元したものです。 鍛冶場は34.92平方メートルで、主要部分にはフイゴ、防火壁、金敷(床)、道具棚があり、東側の庇(ひさし)の部分は刀の仕上げ場であった。 (ここに使用している刀工具は、すべて岩下家の寄贈によるものです。) 秋月家のおかかえ刀工師は三家あり、いずれも岩下姓で筑前(福岡県)より初代種長公が召寄せられたといいます。
と書かれています。



写真P: 「御殿井戸(ごてんいど)」の説明板。
 明治24年(1891年)種樹公の住居として萬歳亭が建てられた。 それと同時に、この井戸も掘られたものであろう。 その後種英公や藩主の一族が、昭和の初めまで住まわれ、この井戸を使用された。
 この水は冷たく美味しいと言うことで、付近の新小路、宮田などの人々は「御殿にひや水を汲みに行こや」と言って、この水をもらいに行ったということです。 *萬歳亭は、この井戸のすぐ東側に建っていた。
高鍋町教育委員会
と書いてあります。



写真Q: 「御殿井戸(ごてんいど)」。



写真R: 「領国境標柱」の説明板。
 この2本の石柱は高鍋藩領の境界に立てられていたものです。 右側の標柱には「これより東南高鍋領」とあり延岡藩との境であった日向市幸脇に、左側の標柱には「これより北東高鍋領」とあり佐土原藩との境であった新富町鬼付女(きづくめ)に建てられていました。 このような標柱は県内でも7つしか発見されておらず、しかも3面に文字が刻まれているのは、他県にも例の少ない貴重な資料であります。
高鍋町教育委員会
と書かれています。



写真S: 「領国境標柱」。



写真T: 「領国境標柱」。



写真U: 「御朱印蔵跡(ごしゅいんぐらあと)」の説明板。
 御朱印は、大名であるという御墨付(おすみつき)の朱印状を保管する一番大切な蔵である。 この蔵は、元禄7年(1694年)4月19日に建てられたもので、面積は15坪(50平方メートル)あり、南向きの土蔵であったと記録されている。 この蔵には、朱印状のほか軍用金や藩の重要な書類などが収納され、常時番人がついて警護に当たっていたところです。
高鍋町教育委員会
と書かれています。



写真V: 「御朱印蔵跡(ごしゅいんぐらあと)」。



写真W: トイレもあります。



写真X: 「水琴窟(すいきんくつ)」と書いてある看板があります。



写真Y: 「水琴窟(すいきんくつ)」の説明板。



写真Z: 「水琴窟(すいきんくつ)」。 竹の樋(とい)から出てくる水が丸い石の上に落ちます。 この下の地面に空洞が作ってあって、そこに垂(た)れる水音が響きます。 琴(こと)の音のように聞こえるので、水琴窟(すいきんくつ)と呼ばれます。



写真AA: この建物は「萬歳亭(ばんざいてい)」。



写真AB: 水琴窟(すいきんくつ)がある「萬歳亭(ばんざいてい)」。



写真AC: 萬歳亭(ばんざいてい)の中。



写真AD: 「萬歳亭(ばんざいてい)」の説明板。
 萬歳亭は、秋月種樹公の住家で、明治24年、宮田の三好退蔵氏の住宅をうつして建てられましたが、昭和17年本屋約60坪(200平方メートル)を新築(秋月邸と言い現在、取り壊し歴史資料館が建てられている)し、別棟8坪(26平方メートル)はそのまま残し屋根を瓦に改め、種英公が書斎として愛好された。 その後、この別棟(萬歳亭)は内部を改修し、台所、湯殿などもつけられた。 このたび、老朽化したのでこの保存も含め復元したものです。 (昭和62年2月 復元完了)
高鍋町教育委員会
と書かれています。



写真AE: 萬歳亭(ばんざいてい)の門。



写真AF: 萬歳亭(ばんざいてい)。



写真AG: この奥に「寒山拾得石像」があります。



写真AH: 高鍋城跡に「寒山拾得石像」があります。



写真AI: これが「寒山拾得石像(寒山拾得石仏)」です。
「寒山拾得(かんざんじっとく)の石仏 銘 天文18年(1549年)」
 高鍋異色の石像で俗に「かんかん仏」と呼ばれている。 中国における民間信仰の道教神と思われる。 もと串間にあったものを秋月氏が江戸藩邸に移し、明治になって神奈川県の片瀬(藤沢市)の別邸に、更に高鍋城内に移した。 江戸(東京)麻布の藩邸にあった頃、毎夜邸内を歩き廻る怪しい者がいるので、宿直の武士が妖怪の仕業と考え、待ち伏せて一刀切りつけた。 手応えはあったが姿が消え失せ翌日その武士は高熱を発し、邸内の石仏には刀のあとが残っていた。 その後、秋月家に何か異変があるとこの傷がはっきり出て夜泣きして知らせたという。
 霊験も著しく祈願がよくかなうといわれ、年中供花の絶えることがない。
高鍋町教育委員会
と書かれています。
(寒山は唐代の僧。 天台山の近くに拾得(じっとく)と共に住み、奇行が多く、その詩は「寒山詩」の中にあります。 文殊(もんじゅ)の化身と称されています。)



写真AJ: 「寒山拾得(かんざんじっとく)の石仏 銘 天文18年(1549年)」の説明板。
 高鍋異色の石像で俗に「かんかん仏」と呼ばれている。 中国における民間信仰の道教神と思われる。 もと串間にあったものを秋月氏が江戸藩邸に移し、明治になって神奈川県の片瀬(藤沢市)の別邸に、更に高鍋城内に移した。 江戸(東京)麻布の藩邸にあった頃、毎夜邸内を歩き廻る怪しい者がいるので、宿直の武士が妖怪の仕業と考え、待ち伏せて一刀切りつけた。 手応えはあったが姿が消え失せ翌日その武士は高熱を発し、邸内の石仏には刀のあとが残っていた。 その後、秋月家に何か異変があるとこの傷がはっきり出て夜泣きして知らせたという。
 霊験も著しく祈願がよくかなうといわれ、年中供花の絶えることがない。
高鍋町教育委員会
と書かれています。
(寒山は唐代の僧。 天台山の近くに拾得(じっとく)と共に住み、奇行が多く、その詩は「寒山詩」の中にあります。 文殊(もんじゅ)の化身と称されています。)



写真AK: 「奉献 寒山拾得石像」と書かれた幟(のぼり)。



写真AL: 高鍋城跡にある「舞鶴神社(まいづるじんじゃ)」の鳥居(とりい)と建物が見えます。



写真AM: 「舞鶴公園」、「舞鶴神社」と書いた看板(かんばん)と石碑(せきひ)があります。



写真AN: 「舞鶴公園 宮日新観光地百景 昭和52年7月建立」と書いてある石碑(せきひ)があります。



写真AO: 「舞鶴公園案内図、藩政時代の高鍋城の絵図」の説明板。
「高鍋城」の説明板。
「沿革」
  もと財部城といったが、後、高鍋城に改め通常は舞鶴城と呼ばれている。
 平安時代中期(斉衛年間 854年−857年)土持氏の所有となり、在来の山城を補修し、ここにおることおよそ600年に及んだ。
 長禄元年(1457年)伊東氏の所有となり、その48城の一つとして、武将 落合民部これを守った。 およそ120年の後、天正5年伊東氏を破り島津氏の所有となった。 後 天正15年(1587年)島津氏は豊臣秀吉に降伏し、同年7月秋月氏の居城となり約280年、明治の廃藩に至るまで続いた。
 寛文9年(1669年)6月、秋月氏3代藩主種信「財部」を「高鍋」と改め居城の修復に着手、岩坂門、石垣、城堀、大手門、本丸など数年を要して完成、近世の城の様式を備えるに至った。
「構造」
 天然の要害を巧みに利用し丘の中腹に心臓部の本丸を設け一段下がった平地を二の丸とし、更に下ったところを三の丸とし、北、南、東を堀で区切り、西は背後の山に野首掘切りを設けた。
「史跡」
 旧城内は、現在舞鶴公園として整備せられ、舞鶴公園、護国神社、石垣、堀、国指定の天然記念物の「高鍋大楠(くすのき)」をはじめ、次のような社寺や建造物の跡、各種記念碑など史跡が多い。
天然記念物1、社寺跡8、歌碑2、建造物の跡12、各種記念碑11 合計34。
と書かれています。



写真AP: 藩政時代の高鍋城の絵図 (山名紫川の絵より転写)。
本丸、二の丸、三の丸なども書いてあります。



写真AQ: 「高鍋城」の説明板。
「沿革」
  もと財部城といったが、後、高鍋城に改め通常は舞鶴城と呼ばれている。
 平安時代中期(斉衛年間 854年−857年)土持氏の所有となり、在来の山城を補修し、ここにおることおよそ600年に及んだ。
 長禄元年(1457年)伊東氏の所有となり、その48城の一つとして、武将 落合民部これを守った。 およそ120年の後、天正5年伊東氏を破り島津氏の所有となった。 後 天正15年(1587年)島津氏は豊臣秀吉に降伏し、同年7月秋月氏の居城となり約280年、明治の廃藩に至るまで続いた。
 寛文9年(1669年)6月、秋月氏3代藩主種信「財部」を「高鍋」と改め居城の修復に着手、岩坂門、石垣、城堀、大手門、本丸など数年を要して完成、近世の城の様式を備えるに至った。
「構造」
 天然の要害を巧みに利用し丘の中腹に心臓部の本丸を設け一段下がった平地を二の丸とし、更に下ったところを三の丸とし、北、南、東を堀で区切り、西は背後の山に野首掘切りを設けた。
「史跡」
 旧城内は、現在舞鶴公園として整備せられ、舞鶴公園、護国神社、石垣、堀、国指定の天然記念物の「高鍋大楠(くすのき)」をはじめ、次のような社寺や建造物の跡、各種記念碑など史跡が多い。
天然記念物1、社寺跡8、歌碑2、建造物の跡12、各種記念碑11 合計34。
と書かれています。



写真AR: 舞鶴公園案内図。



写真AS: 高鍋城跡(舞鶴城跡)の石垣、階段。 手前は駐車場になっています。
この石垣は「切り込み接ぎ(きりこみはぎ)」の方法で作られた石垣です。
<参考>   「石垣」は
(1)野面積み(のづらづみ): 自然石をそのまま加工せずに積み上げる方法です。
(2)打ち込み接ぎ(うちこみはぎ): 表面に出る石の角や面をたたき、平にし石同士の接合面に隙間(すきま)を減らして積み上げる方法です。 関ヶ原の戦い以後、多く造られました。 野面積みより高く、急な勾配(こうばい)が可能です。
(3)切込み接ぎ(きりこみはぎ): 方形に整形した石を密着させて、積み上げる方法です。 慶長5年(1600年)以後に、隅石(すみいし)の加工から徐々に平石にまで広がりました。 江戸時代初期(元和年間)以後に多く造られました。 石同士が密着しているので排水できないため、排水口が設置されます。

などがあります。
「高鍋藩 (秋月藩)」は1代は種長、2代は種春、3代は種信、4代は種政、5代は種弘、6代は種美、7代は種茂、8代は種徳、9代は種任、10代は種殷です。 高鍋藩 (秋月藩)は宮崎県児湯郡の東部 (高鍋町、木城町、川南町、都農町、日向市の美々津)と串間市、宮崎市 (瓜生野、倉岡の1部)、国富町 (木脇)を持っていました。 外様 (とざま)です。 藩庁は高鍋城 (舞鶴城、高鍋町)で高鍋は初期は財部 (たからべ)と呼 (よ)ばれていました。 秋月は福岡県の筑前国を領有していました。 豊臣秀吉の九州征伐 (せいばつ)のときに島津とともに秀吉軍と戦いましたが、その後、秀吉に恭順 (きょうじゅん)して、日向国 串間 (3万石)に移封されました。 1600年 (慶長5年)関ヶ原の戦いのとき秋月種長は西軍に属して大垣城を守っていましたが、9月15日の関ヶ原の戦いの本戦で、西軍が負けると東軍に属しました。 それで所領を安堵 (あんど)されました。 1604年 (慶長9年)に居城を串間から財部城 (高鍋城)に移しました。 3代秋月種信は1673年に財部 (たからべ)から高鍋に地名を変えました。 4代種政は1689年に弟 (種封)に3000石を分け与えたため、以後高鍋藩は2万7000石となりました。 江戸中期に6代種美の次男は米沢藩 (上杉 氏)に入り、名君 上杉鷹山 (ようざん)となりました。 その兄の7代種茂も高鍋藩の名君となり、1778年 (安永7年)に藩校 明倫堂 (めいりんどう)を開校しました。 秋月は10代のときに明治時代になりました。 1871年 (明治4年)に廃藩置県で高鍋県となりました。 その後に美々津県、宮崎県、鹿児島県、宮崎県になりました。



写真AT: 高鍋城跡(舞鶴城跡)の石垣、階段。
この石垣は「切り込み接ぎ(きりこみはぎ)」の方法で作られた石垣です。
<参考>   「石垣」は
(1)野面積み(のづらづみ): 自然石をそのまま加工せずに積み上げる方法です。
(2)打ち込み接ぎ(うちこみはぎ): 表面に出る石の角や面をたたき、平にし石同士の接合面に隙間(すきま)を減らして積み上げる方法です。 関ヶ原の戦い以後、多く造られました。 野面積みより高く、急な勾配(こうばい)が可能です。
(3)切込み接ぎ(きりこみはぎ): 方形に整形した石を密着させて、積み上げる方法です。 慶長5年(1600年)以後に、隅石(すみいし)の加工から徐々に平石にまで広がりました。 江戸時代初期(元和年間)以後に多く造られました。 石同士が密着しているので排水できないため、排水口が設置されます。

などがあります。



写真AU: 「岩坂門跡、寛文10年(1670年)に完成。 もとは杉の木門という。 この門は、二の丸の正門で、これより二の丸となる。 高部町教育委員会 平成15年」と書いてある標識棒。



写真AV: 「岩坂門跡、寛文10年(1670年)に完成。 もとは杉の木門という。 この門は、二の丸の正門で、これより二の丸となる。 高部町教育委員会 平成15年」と書いてある標識棒。



写真AW: 「岩坂門跡、寛文10年(1670年)に完成。 もとは杉の木門という。 この門は、二の丸の正門で、これより二の丸となる。 高部町教育委員会 平成15年」と書いてある標識棒。



写真AX: 「岩坂門跡、寛文10年(1670年)に完成。 もとは杉の木門という。 この門は、二の丸の正門で、これより二の丸となる。 高部町教育委員会 平成15年」と書いてある標識棒。



写真AY: 「岩坂門跡、寛文10年(1670年)に完成。 もとは杉の木門という。 この門は、二の丸の正門で、これより二の丸となる。 高部町教育委員会 平成15年」と書いてある標識棒。



写真AZ: 高鍋城(舞鶴城)の二の丸跡。 見えているクスノキは郷土の名木になっています(城内にある天然記念物のクスノキとは別のものです)。



写真BA: 高鍋城(舞鶴城)の二の丸跡。 見えているクスノキは郷土の名木になっています(城内にある天然記念物のクスノキとは別のものです)。



写真BB: 「舞鶴城灯籠祭り(まいづるじょうとうろうまつり)」の説明板。
 舞鶴城灯籠まつりは、高鍋藩の全盛期を築かれた第7大藩主 秋月種茂公を偲(しの)び、種茂公の創設された藩校「明倫堂」の教えに明かりを灯(とも)すことを目的に始めました。 種茂公は、18歳の若さで「間引き」を止めさせるため、農家の子供3人目からは1日米2合または麦3合を支給するという児童手当を世界に先駆けて行われると共に、産業の振興にも力を注がれ、江戸時代の名君のひとりと数えられています。
 また、種茂公が人材育成のため創設された藩校「明倫堂」では、「各人が自分の行動規範を確立すること」という心の教育が行われました。 家庭内暴力や幼児虐待が頻繁に行われている今日、今一度「明倫堂」の教えを思い起こし、「心の教育」を町内外に広くアピールしようというものです。
 舞鶴城灯籠まつりでは、秋月家は中国漢の皇帝の末裔(まつえい)であることから石灯籠を中国より輸入し、舞鶴灯籠として舞鶴公園に設置したものです。
と書かれています。
(城内には1,300基の舞鶴灯籠(とうろう)があります。)



写真BC: 「舞鶴神社」の説明板。
 昔の政治は祭政一致であった。 それ政治は神仏を祭ることからはじめ、神仏のご加護によって国家の安泰を計り、政治の万全を期するためであった。
 秋月氏も舞鶴城内の各所に八幡宮、天満宮、白山神社、財部大明神、龍宮の神々を奉斉して、藩の隆昌を祈念せられ、五神殿様として厚く尊崇された。 明治4年廃藩置県に際し現在の地に社を建て五社を合祀して旧城名に因(ちな)み舞鶴神社と称するようになった。
御祭神
一、八幡宮 武道の神として応神天皇、底筒男神、中筒男神、上筒男神を祀る。
一、天満宮 学問の神として菅原道真公を祀る。 秋月氏が高鍋就封の際、旧領 太宰府天満宮の分霊を移し祀ったものである。
一、白山神社 秋月家の遠祖、漢高祖 後漢霊帝 阿知使主を祖神とし、大蔵春實以下秋月家代々の神霊を祀る。
一、財部大明神 財部城主初代の土持直綱公を祀る。
一、龍宮 水の神、農の神としての神を祀る。
昭和53年12月15日
舞鶴神社
と書かれています。



写真BD: 高鍋城跡にある舞鶴神社。 鳥居の奥に拝殿も見えます。



写真BE: 「国指定 天然記念物 高鍋大楠(くすのき)」の道しるべ、社務所、石灯籠(いしどうろう)、鳥居(とりい)、御神燈なども見えています。



写真BF: 宮崎県高鍋町にある舞鶴神社の社務所。



写真BG: 舞鶴神社の絵馬を掛けるところ。



写真BH: 舞鶴神社の手水舎(ちょうずや)、石灯籠(いしどうろう)。



写真BI: 舞鶴神社の拝殿。



写真BJ: 舞鶴神社の境内(けいだい)。 白い「千歳亭跡」の標識棒もあります。



写真BK: 「太宰府天満宮より拝受致しました菅公ゆかりの飛梅です」と書かれた看板(かんばん)。



写真BL: 梅の木と拝殿。



写真BM: 高鍋町にある舞鶴神社の拝殿。



写真BN: 舞鶴神社の梅の木。



写真BO: 舞鶴神社の本殿と拝殿(左)。



写真BP: 「高鍋町郷土の名木」の看板。
樹木の名称 ナギ(マキ科)、指定年月日 平成5年2月、指定番号 第38号。



写真BQ: 郷土の名木の「ナギの木」。
「高鍋町郷土の名木」
樹木の名称 ナギ(マキ科)、指定年月日 平成5年2月、指定番号 第38号。



写真BR: 郷土の名木の「ナギの木」。
「高鍋町郷土の名木」
樹木の名称 ナギ(マキ科)、指定年月日 平成5年2月、指定番号 第38号。



写真BS: 郷土の名木の「ナギの木」。
「高鍋町郷土の名木」
樹木の名称 ナギ(マキ科)、指定年月日 平成5年2月、指定番号 第38号。



写真BT: 「みやざきの 巨樹百選」の看板。
樹木名: クスノキ、樹齢: 500年、幹周: 1030 cm、樹高: 35 m、所有者: 高鍋町 平成4年3月認定 宮崎県。



写真BU: 「国指定 天然記念物 高鍋大楠(くすのき)」の説明板。
 県内でも珍しい古木で、旧八幡神社の神木であった。 明治以降、宮崎県山林会指定の老樹名木となっていたもので樹齢は500年を越えるといわれている。 高さ16メートル、根周り13メートル、目通り幹周10メートル余である。
 地上約2メートルの高さから南北の2支幹に分かれている。 枝張りは東西20メートル、南北に28メートルある。
 昭和20年終戦直後の台風により幹や枝を損傷し年々老衰が目立つようになったものの、依然として古木の風格を保っている。
注意事項 柵内に立ち入らぬこと。 平成4年3月
高鍋町教育委員会
と書かれています。



写真BV: 「国指定 天然記念物 高鍋大楠(くすのき)」を支えているワイヤーロープ。



写真BW: 中央が「国指定 天然記念物 高鍋大楠(大くすのき、大クスノキ)」。



写真BX: 中央が「国指定 天然記念物 高鍋大楠(大クスノキ)」。



写真BY: 中央が「国指定 天然記念物 高鍋大楠(大くすのき、大クスノキ)」。



写真BZ: 中央が「国指定 天然記念物 高鍋大楠(大くすのき、大クスノキ)」。



写真CA: 中央が「国指定 天然記念物 高鍋大楠(大くすのき、大クスノキ)」。



写真CB: 「国指定 天然記念物 高鍋大楠(くすのき)」の近くにある石碑(せきひ)。



写真CC: 高鍋町の舞鶴神社の本殿(右)と拝殿(左)。



写真CD: この階段を下ると広場があります。



写真CE: 宮崎県児湯郡高鍋町にある舞鶴神社の中。



写真CF: 宮崎県児湯郡高鍋町にある舞鶴神社のお賽銭箱(おさいせんばこ)など。



写真CG: 宮崎県児湯郡高鍋町にある舞鶴神社の鈴は2つあります。



写真CH: 宮崎県児湯郡高鍋町にある舞鶴神社の中。



写真CI: 宮崎県児湯郡高鍋町にある舞鶴神社の中。



写真CJ: 舞鶴神社の境内に「玉虫(たまむし)」がいました。



写真CK: 高鍋町の舞鶴神社の社殿。



写真CL: 高鍋町の舞鶴神社の境内(けいだい)。



写真CM: 「千歳亭跡」の標識棒があります。



写真CN: 「国指定 天然記念物 高鍋大楠(くすのき)」の折れた枝が展示されています。 平成19年8月の台風5号により高鍋のクスが折れました。



写真CO: 「この木は、平成19年8月の台風5号により破損した「高鍋のクス」(大クス)の枝です。」と書いてある看板。



写真CP: これが高鍋城(舞鶴城)の本丸跡に登る階段です。 舞鶴神社のそばにあります。



写真CQ: 舞鶴神社の建物。



写真CR: 山の上にある展望のきく「物見台」へ行く道しるべ。 階段のそばにあります。



写真CS: 高鍋城(舞鶴城)の本丸跡に行く階段。 両側に中国製の灯籠(とうろう)が多数あります。 「舞鶴城灯籠祭り(まいづるじょうとうろうまつり)」が行われています。



写真CT: 殉難招魂之碑。 高鍋城(舞鶴城)にある「戊辰戦争(ぼしんせんそう、江戸時代末期の戦争)の石碑(せきひ)」。



写真CU: 高鍋城(舞鶴城)にある「戊辰戦争(ぼしんせんそう、江戸時代末期の戦争)の石碑(せきひ)」。 「殉難招魂之碑、高鍋町教育委員会、平成15年」と書かれた標識棒があります。



写真CV: 高鍋城(舞鶴城)にある「戊辰戦争(ぼしんせんそう、江戸時代末期の戦争)の石碑(せきひ)」。 「殉難招魂之碑、高鍋町教育委員会、平成15年」と書かれた標識棒があります。



写真CW: 殉難招魂之碑。 高鍋城(舞鶴城)にある「戊辰戦争(ぼしんせんそう、江戸時代末期の戦争)の石碑(せきひ)」。



写真CX: 「甘木市、高鍋町 姉妹都市盟約締結記念樹」の標識。
福岡県の中央部にある甘木市には旧城下町の「秋月」地区があり、「筑前の小京都」と呼ばれる観光地になっています。 甘木市は合併して、現在は朝倉市になっています。 江戸時代の「秋月」は今の甘木市(朝倉市)から高鍋に移ってきました。
この石垣は「野面積み(のづらづみ)」の方法で作られた石垣です。
<参考>   「石垣」は
(1)野面積み(のづらづみ): 自然石をそのまま加工せずに積み上げる方法です。
(2)打ち込み接ぎ(うちこみはぎ): 表面に出る石の角や面をたたき、平にし石同士の接合面に隙間(すきま)を減らして積み上げる方法です。 関ヶ原の戦い以後、多く造られました。 野面積みより高く、急な勾配(こうばい)が可能です。
(3)切込み接ぎ(きりこみはぎ): 方形に整形した石を密着させて、積み上げる方法です。 慶長5年(1600年)以後に、隅石(すみいし)の加工から徐々に平石にまで広がりました。 江戸時代初期(元和年間)以後に多く造られました。 石同士が密着しているので排水できないため、排水口が設置されます。

などがあります。



写真CY: 殉難招魂之碑。 高鍋城(舞鶴城)にある「戊辰戦争(ぼしんせんそう、江戸時代末期の戦争)の石碑(せきひ)」。



写真CZ: 殉難招魂之碑。 高鍋城(舞鶴城)にある「戊辰戦争(ぼしんせんそう、江戸時代末期の戦争)の石碑(せきひ)」。



写真DA: 本丸跡に登る第2の階段。



写真DB: 「丁丑戦亡記念碑、西南戦争の時、西郷軍に加わり殉難した78名の慰霊記念碑」と書いてあります。



写真DC: 「丁丑戦亡記念碑、西南戦争の時、西郷軍に加わり殉難した78名の慰霊記念碑」と書いてあります。



写真DD: 「丁丑戦亡記念碑、西南戦争の時、西郷軍に加わり殉難した78名の慰霊記念碑」と書いてあります。



写真DE: 「丁丑戦亡記念碑、西南戦争の時、西郷軍に加わり殉難した78名の慰霊記念碑」。
後ろの石垣は「野面積み(のづらづみ)」の方法で作られた石垣です。
<参考>   「石垣」は
(1)野面積み(のづらづみ): 自然石をそのまま加工せずに積み上げる方法です。
(2)打ち込み接ぎ(うちこみはぎ): 表面に出る石の角や面をたたき、平にし石同士の接合面に隙間(すきま)を減らして積み上げる方法です。 関ヶ原の戦い以後、多く造られました。 野面積みより高く、急な勾配(こうばい)が可能です。
(3)切込み接ぎ(きりこみはぎ): 方形に整形した石を密着させて、積み上げる方法です。 慶長5年(1600年)以後に、隅石(すみいし)の加工から徐々に平石にまで広がりました。 江戸時代初期(元和年間)以後に多く造られました。 石同士が密着しているので排水できないため、排水口が設置されます。

などがあります。



写真DF: 「丁丑戦亡記念碑、西南戦争の時、西郷軍に加わり殉難した78名の慰霊記念碑」。



写真DG: 「丁丑戦亡記念碑、西南戦争の時、西郷軍に加わり殉難した78名の慰霊記念碑」。



写真DH: 「丁丑戦亡記念碑、西南戦争の時、西郷軍に加わり殉難した78名の慰霊記念碑」のそばにある御手洗(みたらい)。



写真DI: 「長峰門跡、延宝6年(1678年)に完成、二階建で櫨門でもとは矢倉門という。 この門は本丸の正門で、これより本丸となる。」と書いてあります。



写真DJ: 「長峰門跡、延宝6年(1678年)に完成、二階建で櫨門でもとは矢倉門という。 この門は本丸の正門で、これより本丸となる。」と書いてあります。



写真DK: 「長峰門跡、延宝6年(1678年)に完成、二階建で櫨門でもとは矢倉門という。 この門は本丸の正門で、これより本丸となる。」と書いてあります。



写真DL: この奥が高鍋城(舞鶴城)の本丸跡。



写真DM: この奥が高鍋城(舞鶴城)の本丸跡。



写真DN: 宮崎県児湯郡高鍋町にある高鍋城(舞鶴城)の「本丸跡」。



写真DO: 高鍋町にある高鍋城(舞鶴城)の「本丸跡」。



写真DP: 高鍋町にある高鍋城(舞鶴城)の「本丸跡」。 灯籠(とうろう)、石のベンチもあります。



写真DQ: 高鍋町にある高鍋城(舞鶴城)の「本丸跡」。 灯籠(とうろう)が多くあります。



写真DR: 「高鍋城本丸政庁、奥御殿跡」の説明板。
 高鍋城本丸、奥御殿は第3代藩主、種信公の延宝4年(1676年)に完成した。 長峰御門(本丸北側)を過ぎると本丸の玄関があり、玄関を上がると藩士の集まる大広間がある。 その他藩主が藩臣とお逢いになる御書院、家老や奉行が藩政をとりおこなう家老所、奉行所などがあった。
 奥御殿が完成すると同時に藩主は二の丸の仮住居から転居され本格的な藩政の充実と発展に向かって邁進なされた。
平成3年3月31日 高鍋町教育委員会
と書かれています。



写真DS: 高鍋町にある高鍋城(舞鶴城)の「本丸跡」。



写真DT: 高鍋町にある高鍋城(舞鶴城)の「本丸跡」にある「外戦忠魂之碑」。 右のビロウ樹は「串間市、高鍋町 姉妹都市盟約締結記念樹」。 串間市は江戸時代は高鍋藩の飛び地でした。



写真DU: 高鍋町にある高鍋城(舞鶴城)の「本丸跡」にある「外戦忠魂之碑」。 右のビロウ樹は「串間市、高鍋町 姉妹都市盟約締結記念樹」。 串間市は江戸時代は高鍋藩の飛び地でした。



写真DV: 高鍋町にある高鍋城(舞鶴城)の「本丸跡」にあるビロウ樹は「串間市、高鍋町 姉妹都市盟約締結記念樹」。 串間市は江戸時代は高鍋藩の飛び地でした。



写真DW: 高鍋町にある高鍋城(舞鶴城)の「本丸跡」にある「外戦忠魂之碑」。



写真DX: 高鍋城(舞鶴城)の「本丸跡」から南を見た様子。



写真DY: 高鍋城(舞鶴城)の「本丸跡」には灯籠(とうろう)、石碑(せきひ)もあります。



写真DZ: 「本丸政庁跡、延宝6年(1678年)に完成(長峰門と同じ年)。 高鍋城の中心となる建物で、高鍋藩の政治が行われた。 平成15年。」と書かれた標識棒。



写真EA: 「本丸政庁跡、延宝6年(1678年)に完成(長峰門と同じ年)。 高鍋城の中心となる建物で、高鍋藩の政治が行われた。 平成15年。」と書かれた標識棒。



写真EB: 「本丸政庁跡、延宝6年(1678年)に完成(長峰門と同じ年)。 高鍋城の中心となる建物で、高鍋藩の政治が行われた。 平成15年。」と書かれた標識棒。



写真EC: 高鍋城(舞鶴城)の「本丸跡」にはトイレがあります。



写真ED: 高鍋城(舞鶴城)の「本丸跡」のトイレ(右)と奥にある護国神社。 護国神社は階段を登っていきます。



写真EE: 高鍋城(舞鶴城)の跡にある護国神社。 これはその階段と鳥居(とりい、平成7年10月建立)です。 奥の建物は休息所です。



写真EF: 高鍋城(舞鶴城)の跡にある護国神社。 これはその鳥居(とりい、平成7年10月建立)です。 奥の建物は休息所です。



写真EG: 高鍋城(舞鶴城)の跡にある「護国神社」。 中央奥がその社殿、左手前は休息所。 社殿の前に石灯籠(いしどうろう)が見えます。



写真EH: 護国神社の境内(けいだい)にある休息所。



写真EI: 砲弾の形をしたものと石碑(せきひ)があります。 これは休息所の西側にあります。



写真EJ: 高鍋 護国神社。



写真EK: 高鍋 護国神社の境内(けいだい)。



写真EL: 高鍋 護国神社の境内(けいだい)。



写真EM: 高鍋 護国神社の境内(けいだい)。 右は休息所。



写真EN: 「平成7年10月吉日」と彫(ほ)られた護国神社の鳥居(とりい)。



写真EO: 鳥居に掛けてある「護国神社」と書いてある額(がく)。



写真EP: 高鍋町の眺望(ちょうぼう)が楽しめる高所の「物見台」への道しるべ。 この道しるべは本丸跡の近くにあります。



写真EQ: 高鍋町の眺望(ちょうぼう)が楽しめる高所の「物見台」への坂道。



写真ER: 高鍋町の眺望(ちょうぼう)が楽しめる高所の「物見台」への坂道。



写真ES: 物見台に着きました。



写真ET: 高鍋城(舞鶴城)にある「物見台」から見た景色。 NTTのアンテナ、日向灘(太平洋)、高鍋町の町並みなどが見渡せます。



写真EU: 高鍋城(舞鶴城)にある「物見台」から見た展望。 小丸川の河口の橋、NTTのアンテナ、日向灘(太平洋)、ビルなどの高鍋町の町並みなどが見渡せます。



写真EV: 高鍋城(舞鶴城)にある「物見台」から見た眺望(ちょうぼう)。 日向灘(太平洋)、ビルなどの高鍋町の町並み、道などが見渡せます。



写真EW: 高鍋城(舞鶴城)にある「物見台」から見た景色。 寺の屋根が光って白っぽく見えています。 この寺は円福寺(真言宗、宮崎県児湯郡高鍋町 大字南高鍋6405)です。



写真EX: 高鍋城跡の上部にある広場は梅林になっていました。



写真EY: 高鍋城跡の上部にある広場は梅林になっていました。



写真EZ: 高鍋城跡の上部。



写真FA: 高鍋城跡の上部。



写真FB: 先ほどの物見台よりさらに上部に「見晴らしの良い所」があります。 ベンチもあります。 大きな木もあります。



写真FC: 先ほどの物見台よりさらに上部に「見晴らしの良い所」があります。 ここからも景色が見えます。



写真FD: 先ほどの物見台よりさらに上部に「見晴らしの良い所」があります。 ここからの展望です。 NTTのアンテナ、小丸川の河口の橋、ビルなどの町並み、道などの風景が楽しめます。



写真FE: 高鍋城跡の上部。



写真FF: 高鍋城跡の上部。 大きな木もあります。



写真FG: 高鍋城跡の上部。 大きな木もあります。



写真FH: 高鍋城跡の上部。



写真FI: 高鍋城跡の上部には「遊園地」もあります。 ブランコなどの遊具もあります。



写真FJ: 「高鍋湿原」、「高鍋温泉(めいりんの湯)」にいくには西都−高鍋線から北に三叉路(さんさろ)を入ります。 ここがその三叉路です。 先に行くと高鍋町、手前に進むと西都市、左に入ると「高鍋湿原と高鍋温泉(めいりんの湯)」があります。



写真FK: 「高鍋防災ダム、高鍋湿原、総合交流ターミナル施設(高鍋温泉)」と書いてある道路標識があります。



写真FL: この三叉路(さんさろ)にはウエルグラウンズ高鍋、四季彩のむらの看板(かんばん)もあります。



写真FM: 高鍋温泉の看板(かんばん)もあります。



写真FN: 下り坂になっています。 高鍋温泉(めいりんの湯)の建物が見えてきました。 遠くには尾鈴山などの山並みが見えます。



写真FO: これが高鍋温泉(めいりんの湯)です。 駐車場と建物も見えています。 「高鍋湿原」は高鍋温泉の先にあります。



写真FP: 高鍋温泉(めいりんの湯)の駐車場と建物です。



写真FQ: 入り口には「めいりんの湯」と書いてある大きな石があります。



写真FR: 高鍋温泉(めいりんの湯)。 灯籠(とうろう)がたくさんあります。



写真FS: 「高鍋温泉 めいりんの湯」と書いてある看板(かんばん)があります。 ここが玄関です。



写真FT: 「高鍋温泉 めいりんの湯」の駐車場。 奥に下ってきた道が見えます。 遠くには携帯電話のアンテナがあります。



写真FU: 高鍋温泉と高鍋湿原の間にある駐車場。 奥にトイレも見えています。
高鍋湿原は宮崎県児湯郡高鍋町上江 高平にあります。



写真FV: 「この道路は 高鍋防災ダムの管理用道路です。 宮崎県児湯農林振興局、(高鍋湿原に住んでいるハッチョウトンボの写真もあります。)」と書いてある看板があります。



写真FW: 宮田川にかかっている橋です。 高鍋防災ダムは宮田川をせき止めて作ってあります。



写真FX: これが宮田川の「高鍋防災ダム」です。
高鍋湿原は宮崎県児湯郡高鍋町上江 高平にあります。



写真FY: 高鍋防災ダムの下流(宮田川)。



写真FZ: 上の写真の拡大したもので、「野生の狸(たぬき)」がコンクリートの段差の下に見えています。 双眼鏡でタヌキであることを確認しました。



写真GA: 高鍋湿原の周(まわ)りの景色。 右手遠くに「尾鈴山」も見えています。



写真GB: 遠くに「尾鈴山」も見えています。 高鍋町にある高鍋湿原の近くの様子。



写真GC: 「高鍋防災ダム」の説明板。
 このダムは「農業用の施設」です。
下流地域の農地や農業用施設を洪水から守る目的で作られています。
とても大切な施設ですから、ゴミや空き缶(かん)を捨てないように皆で注意しましょう。
高鍋防災ダムの歴史
 宮田川は、川の幅が狭く台風や大雨のたびに川が氾濫(はんらん、川から水があふれ出ること)し、近くの水田や畑は、土が流れ出たり、作物が倒れるなどの大きな被害を受け、下流地域の農家の人たちは大変困っていました。
 そこで、宮田川の上流である現在地に雨水が一度に流れ出ないように水をためるアースダム(土を主材料として造られるダム)をつくって、下流の被害を最小限に防ぐと共に、冬場にためた水は、田植えの時期に流して、用水として利用することにしました。 これが高鍋防災ダムです。
 このダムは、県内の防災ダム事業の第1号の施設として、昭和34年度に工事を始め10年後の昭和43年度に完成しました。
 その後、ダムや周辺の環境を改善するための、工事を行い、平成8年度に完成しました。
 現在では、このダムのおかげで農家の人たちが安心して、お米を中心に野菜などの様々な作物を作っており、地域の安全と発展に大きく役立っています。
高鍋防災ダムの大きさ
ダムの総貯水量(水をためる量) 1,431,000 立方メートル(小学校の25 mプール約3,500杯分)
ダムの高さ 25.5 m
ダムの長さ 179.1 m
関係面積 273 ha

(地区概要図も載っています。)
と書いてあります。



写真GD: 「高鍋防災ダム」の説明板。
 このダムは「農業用の施設」です。
下流地域の農地や農業用施設を洪水から守る目的で作られています。
とても大切な施設ですから、ゴミや空き缶(かん)を捨てないように皆で注意しましょう。
高鍋防災ダムの歴史
 宮田川は、川の幅が狭く台風や大雨のたびに川が氾濫(はんらん、川から水があふれ出ること)し、近くの水田や畑は、土が流れ出たり、作物が倒れるなどの大きな被害を受け、下流地域の農家の人たちは大変困っていました。
 そこで、宮田川の上流である現在地に雨水が一度に流れ出ないように水をためるアースダム(土を主材料として造られるダム)をつくって、下流の被害を最小限に防ぐと共に、冬場にためた水は、田植えの時期に流して、用水として利用することにしました。 これが高鍋防災ダムです。
 このダムは、県内の防災ダム事業の第1号の施設として、昭和34年度に工事を始め10年後の昭和43年度に完成しました。
 その後、ダムや周辺の環境を改善するための、工事を行い、平成8年度に完成しました。
 現在では、このダムのおかげで農家の人たちが安心して、お米を中心に野菜などの様々な作物を作っており、地域の安全と発展に大きく役立っています。
高鍋防災ダムの大きさ
ダムの総貯水量(水をためる量) 1,431,000 立方メートル(小学校の25 mプール約3,500杯分)
ダムの高さ 25.5 m
ダムの長さ 179.1 m
関係面積 273 ha

(地区概要図も載っています。)
と書いてあります。



写真GE: 「高鍋防災ダム」の説明板。
 このダムは「農業用の施設」です。
下流地域の農地や農業用施設を洪水から守る目的で作られています。
とても大切な施設ですから、ゴミや空き缶(かん)を捨てないように皆で注意しましょう。
高鍋防災ダムの歴史
 宮田川は、川の幅が狭く台風や大雨のたびに川が氾濫(はんらん、川から水があふれ出ること)し、近くの水田や畑は、土が流れ出たり、作物が倒れるなどの大きな被害を受け、下流地域の農家の人たちは大変困っていました。
 そこで、宮田川の上流である現在地に雨水が一度に流れ出ないように水をためるアースダム(土を主材料として造られるダム)をつくって、下流の被害を最小限に防ぐと共に、冬場にためた水は、田植えの時期に流して、用水として利用することにしました。 これが高鍋防災ダムです。
 このダムは、県内の防災ダム事業の第1号の施設として、昭和34年度に工事を始め10年後の昭和43年度に完成しました。
 その後、ダムや周辺の環境を改善するための、工事を行い、平成8年度に完成しました。
 現在では、このダムのおかげで農家の人たちが安心して、お米を中心に野菜などの様々な作物を作っており、地域の安全と発展に大きく役立っています。
高鍋防災ダムの大きさ
ダムの総貯水量(水をためる量) 1,431,000 立方メートル(小学校の25 mプール約3,500杯分)
ダムの高さ 25.5 m
ダムの長さ 179.1 m
関係面積 273 ha

(地区概要図も載っています。)
と書いてあります。



写真GF: 「高鍋防災ダム」の説明板。
 このダムは「農業用の施設」です。
下流地域の農地や農業用施設を洪水から守る目的で作られています。
とても大切な施設ですから、ゴミや空き缶(かん)を捨てないように皆で注意しましょう。
高鍋防災ダムの歴史
 宮田川は、川の幅が狭く台風や大雨のたびに川が氾濫(はんらん、川から水があふれ出ること)し、近くの水田や畑は、土が流れ出たり、作物が倒れるなどの大きな被害を受け、下流地域の農家の人たちは大変困っていました。
 そこで、宮田川の上流である現在地に雨水が一度に流れ出ないように水をためるアースダム(土を主材料として造られるダム)をつくって、下流の被害を最小限に防ぐと共に、冬場にためた水は、田植えの時期に流して、用水として利用することにしました。 これが高鍋防災ダムです。
 このダムは、県内の防災ダム事業の第1号の施設として、昭和34年度に工事を始め10年後の昭和43年度に完成しました。
 その後、ダムや周辺の環境を改善するための、工事を行い、平成8年度に完成しました。
 現在では、このダムのおかげで農家の人たちが安心して、お米を中心に野菜などの様々な作物を作っており、地域の安全と発展に大きく役立っています。
高鍋防災ダムの大きさ
ダムの総貯水量(水をためる量) 1,431,000 立方メートル(小学校の25 mプール約3,500杯分)
ダムの高さ 25.5 m
ダムの長さ 179.1 m
関係面積 273 ha

(地区概要図も載っています。)
と書いてあります。
地区概要図には県道高鍋高岡線、大平寺(字名)も書いてあります。



写真GG: 宮崎県児湯郡高鍋町にある「高鍋湿原」の駐車場。 左奥にトイレも見えます。



写真GH: 「高鍋湿原」と書いてある看板(かんばん)。
高鍋湿原は宮崎県児湯郡高鍋町上江 高平にあります。



写真GI: 高鍋湿原の入り口付近。 左はトイレ、軽トラックの所に柵(さく)があってそこから中に入ります。
高鍋湿原は宮崎県児湯郡高鍋町上江 高平にあります。



写真GJ: 「高鍋防災ダム(高鍋湿原)」の説明板。
高鍋湿原とは?
 この湿原は、防災ダム堤体の建設材料の土砂を採取した後にできた窪地(くぼち)に湧き水がたまり、半ば人工的に出来た湿原です。
 この湿原には体長15−20 mm程度の日本一小さいといわれる「ハッチョウトンボ」や、白鷺(しらさぎ)が羽を広げたような可憐で小さな白い花を咲かせる「サギソウ」、日本有数の群生を誇る「ヒメノボタン」など、希少種の昆虫や植物が多数自生していることが確認されています。
ハッチョウトンボ 5−8月頃
サギソウ 8月中旬頃
ヒメノボタン 8−9月頃



写真GK: 「高鍋湿原」と書いてある看板(かんばん)があります。 軽トラックの左から高鍋湿原の中に入ります。
高鍋湿原は宮崎県児湯郡高鍋町上江 高平にあります。



写真GL: 「お願い 網類(捕虫網など)や虫籠(むしかご)の湿原内への持ち込みはご遠慮下さい。 高鍋町社会教育課、湿原保全会」
と書いてあります。



写真GM: 「タカナベカイドウ(高鍋海棠、バラ科リンゴ属)」の説明板。
 もともと高鍋町南牛牧の湿原に自生して「牟田桜(むたざくら)」と土地の人に呼ばれていた。 現在は同地の民家に庭木として株が保存されている。
 霧島えびのにある国の天然記念物「ノカイドウ」や「ズミ」の仲間とも異なる高鍋特有の「カイドウ」である。 3月初旬から中旬にかけ、美しいピンクの花を咲かす。
平成15年3月 高鍋自然愛好会
と書いてあります。



写真GN: 「タカナベカイドウ(高鍋海棠、バラ科リンゴ属)」の木です。 高鍋湿原の入り口付近にあります。
 もともと高鍋町南牛牧の湿原に自生して「牟田桜(むたざくら)」と土地の人に呼ばれていた。 現在は同地の民家に庭木として株が保存されている。
 霧島えびのにある国の天然記念物「ノカイドウ」や「ズミ」の仲間とも異なる高鍋特有の「カイドウ」である。 3月初旬から中旬にかけ、美しいピンクの花を咲かす。
平成15年3月 高鍋自然愛好会
と書いてあります。



写真GO: 「タカナベカイドウ(高鍋海棠、バラ科リンゴ属)」の実です。 リンゴ属なので小さなリンゴに似ています。
 もともと高鍋町南牛牧の湿原に自生して「牟田桜(むたざくら)」と土地の人に呼ばれていた。 現在は同地の民家に庭木として株が保存されている。
 霧島えびのにある国の天然記念物「ノカイドウ」や「ズミ」の仲間とも異なる高鍋特有の「カイドウ」である。 3月初旬から中旬にかけ、美しいピンクの花を咲かす。



写真GP: 高鍋湿原の入り口。 「台風や大雨の時は公開できません。」、「自転車、バイク、車などで湿原内には入らないでください。 高鍋町教育委員会」、「開園時間のご案内、4−6月 8:30−17:00、7−8月 8:30−18:00、9−10月 8:30−17:00」と書いた看板があります。



写真GQ: 高鍋湿原にある高鍋湿原管理棟。 中には湿原の動植物の写真、説明板、休息所、飲料水などもあります。
高鍋湿原は宮崎県児湯郡高鍋町上江 高平にあります。



写真GR: 高鍋湿原管理棟。



写真GS: 高鍋湿原の「サギソウの花」です。
花びらに蟻(あり)が来ていました。
鷺草(さぎそう)は、ラン科の多年草で、山野の湿地に自生し、高さ約30 cmです。 夏、鷺の飛ぶ姿に似た白花を開きます。 サギソウの花は高鍋湿原では、8月中旬(お盆の頃)多く見られます。
 日当たりの良い湿原で見られますが、日本では絶滅危惧種に指定されている貴重な植物です。 花期は7月中旬から8月中旬です。



写真GT: 高鍋湿原にある「ヌマトラノオの花」です。
沼虎の尾は、サクラソウ科の多年草で高さ約50 cmで湿地に群落を作ります。 夏、茎頭に5弁の小白花を多数総状に配列します。



写真GU: 高鍋湿原にある「ミソハギ」の説明板。
生育地 山野の湿地に生える多年草です。
特徴 集団で良く茂り、茎は50 cm以上伸びて紅紫色をした花を一斉に付けますので見事です。 地方では 盆花 とも呼んでいます。
花期 8月の お盆 頃です。
分布 全国各地で観察できます。
と書いてあります。



写真GV: 高鍋湿原にある「ミソハギの花」。
生育地 山野の湿地に生える多年草です。
特徴 集団で良く茂り、茎は50 cm以上伸びて紅紫色をした花を一斉に付けますので見事です。 地方では 盆花 とも呼んでいます。
花期 8月の お盆 頃です。
分布 全国各地で観察できます。



写真GW: 高鍋湿原の「ヒメガマ(4本)と紅紫色のミソハギの花の群生」。
 姫蒲(ひめがま)はガマ科です。 高さ1.5−2 mの多年草で池や沼に生えます。 ガマより葉が細いのでこの名が付いています。 雌花穂と雄花穂の間に花の付かない裸出した軸があるのが特徴です。



写真GX: 高鍋湿原管理棟。 休憩所(きゅうけいしょ)、水飲み器、高鍋湿原の説明や写真などもあります。 湿原が一望でき真夏でも吹き抜ける風が涼しい。



写真GY: 高鍋湿原管理棟。 休憩所(きゅうけいしょ)、水飲み器、高鍋湿原の説明や写真などもあります。 湿原が一望でき真夏でも吹き抜ける風が涼しい。



写真GZ: ここから高鍋東部湿原に入ります。



写真HA: 「高鍋東部湿原」の説明板。
 本湿原は高鍋防災ダムの東側に位置する湿原です。 本湿原には貴重な植物としてミズギボウシ、ノハナショウブ、ツクシアブラガヤ、イトタヌキモ、モウセンゴケなどが生育しています。 また本湿原には数多くのめずらしいトンボが生息しており、貴重なトンボとしてヨツボシトンボ、ハッチョウトンボ、ネアカヨシヤンマなどの姿を見ることが出来ます。 この他にも、本湿原では数多くのトンボが姿を見せてくれます。
ハッチョウトンボ
ハッチョウトンボは、近年の開発の波に押され、その数はめっきり減少してきており、「幻のトンボ」の異名さえ持つトンボ科の種で、日本に生息するトンボの中で最小(体長約2 cm)のものである。
ヨツボシトンボ
 北方系トンボ科の種で、4枚の羽に1個ずつ黒点を有するのが特徴である。
と書かれています。



写真HB: 「高鍋東部湿原」の説明板。
 本湿原は高鍋防災ダムの東側に位置する湿原です。 本湿原には貴重な植物としてミズギボウシ、ノハナショウブ、ツクシアブラガヤ、イトタヌキモ、モウセンゴケなどが生育しています。 また本湿原には数多くのめずらしいトンボが生息しており、貴重なトンボとしてヨツボシトンボ、ハッチョウトンボ、ネアカヨシヤンマなどの姿を見ることが出来ます。 この他にも、本湿原では数多くのトンボが姿を見せてくれます。
ハッチョウトンボ
ハッチョウトンボは、近年の開発の波に押され、その数はめっきり減少してきており、「幻のトンボ」の異名さえ持つトンボ科の種で、日本に生息するトンボの中で最小(体長約2 cm)のものである。
ヨツボシトンボ
 北方系トンボ科の種で、4枚の羽に1個ずつ黒点を有するのが特徴である。
と書かれています。



写真HC: 「見学される皆様へ」の看板(かんばん)。
 草花や虫などをとったり、持ち帰ったりしないで下さい。
 湿原へはおりずに、観察路から観察してください。
 雨の時は観察路がすべりやすいので十分に気をつけてください。
 ゴミはすべて持ち帰ってください。
 あぶない場所へは行かないでください。
高鍋町教育委員会 社会教育課
と書いてあります。



写真HD: 宮崎県児湯郡高鍋町にある「高鍋湿原」の観察路。 ここは高鍋東部湿原と呼ばれます。



写真HE: 宮崎県児湯郡高鍋町にある「高鍋湿原」の観察路。



写真HF: 高鍋湿原の「ヒメノボタンの花」です。
ヒメノボタン(姫野牡丹)は環境省レッドデータブックで絶滅危惧IB 類(EN)で近い将来に絶滅する危険性が高い種です。 高鍋湿原はヒメノボタンの国内有数の群落として知られています。
ヒメノボタン(姫野牡丹)は低地の草地に生える多年草で、日本では唯一のノボタン科の草本植物(木でないもの)です。 ノボタン科ノボタン属で、花は直径約3 cmで高さは20−50 cmです。 葉は対生し3−6 cmで剛毛があり、ざらつきます。 花は4枚の花びらで8−9月に咲きます。 花は茎頂に数個頭状に付き、鮮やかな紅紫色で目立ちます。



写真HG: テッポウユリの花も咲いていました。



写真HH: 高鍋町にある「高鍋湿原」。



写真HI: 高鍋町にある「高鍋湿原」の観察路。



写真HJ: 高鍋湿原には沼、池もあります。



写真HK: 高鍋町にある高鍋湿原の「とんぼのはし(トンボの橋)」。 平成8年3月完成。 トンボの橋は宮田川にかかっています。 この橋を渡ると「高鍋西部湿原」があります。 橋の手前の湿原は「高鍋東部湿原」と呼ばれます。



写真HL: この舗装された遊歩道の先に高鍋湿原管理棟や入り口があります。



写真HM: 左に曲がると「トンボの橋」があります。 真っ直ぐ先へは通行止めになっていました。 休息所とそのベンチも見えています。



写真HN: 高鍋町にある高鍋湿原の「とんぼのはし(トンボの橋)」。 平成8年3月完成。



写真HO: 高鍋町にある高鍋湿原の「とんぼのはし(トンボの橋)」。 平成8年3月完成。



写真HP: 高鍋町にある高鍋湿原の「とんぼのはし(トンボの橋)」。



写真HQ: 高鍋町にある高鍋湿原の「とんぼのはし(トンボの橋)」。 下方には宮田川が流れています。



写真HR: 高鍋町にある高鍋湿原の「とんぼのはし(トンボの橋)」。 橋の手すりの上に、テグスの糸が2本張ってあります。 これはトンボが留(と)まって休むためで、観察に便利です。 高鍋湿原には珍しいトンボも住んでいます。



写真HS: 高鍋町にある高鍋湿原の「とんぼのはし(トンボの橋)」。 橋の手すりの上に、テグスの糸が2本張ってあります。 これはトンボが留(と)まって休むためで、観察に便利です。 高鍋湿原には珍しいトンボも住んでいます。



写真HT: 高鍋町にある高鍋湿原の「とんぼのはし(トンボの橋)」。 橋の手すりの上に、テグスの糸が2本張ってあります。 これはトンボが留(と)まって休むためで、観察に便利です。 高鍋湿原には珍しいトンボも住んでいます。



写真HU: トンボ橋の中程にはこのような広場も作ってあります。 平成8年3月完成。



写真HV: トンボ橋から下を見た景色。 宮田川や道も見えています。



写真HW: トンボ橋から下を見た景色。 道も見えています。



写真HX: トンボ橋から下を見た景色。 宮田川も見えています。



写真HY: トンボ橋から下を見た景色。 宮田川や道も見えています。



写真HZ: トンボ橋から下を見た景色。 宮田川も見えています。



写真IA: トンボ橋から下を見た景色。 宮田川や道も見えています。



写真IB: トンボ橋から下を見た景色。



写真IC: トンボ橋を渡り切ったところの様子。 高鍋西部湿原へは真っ直ぐ進みます。



写真ID: 高鍋湿原のトンボ橋は平成8年3月完成。 トンボの像が上にあります。



写真IE: 「高鍋西部湿原」の説明板。
 高鍋湿原は高鍋防災ダムの西側に位置する湿原です。 本湿原にはヘビノボラズやサクラバハンノキなど我が国では伊勢湾周辺にしか見られない植物が生育し、また九州唯一のミズギボウシや九州南部に固有のツクシアブラガヤが生育しています。 この他に興味ある湿原植物として、ノハナショウブ、イヌタヌキモ、モウセンゴケ、シロイヌノヒゲ、ツクシクロイヌヒゲ、ミミカキグサ、ヤマドリゼンマイ、コバトンボソウ、サギソウなどの植物群落があります。
(ヘビノボラズ(メギ科)、タヌキモ(タヌキモ科)、ホシクサ類(ホシクサ科)、サギソウ(ラン科)の写真と説明も載っています。)
と書かれています。



写真IF: 「高鍋西部湿原」の説明板。
 高鍋湿原は高鍋防災ダムの西側に位置する湿原です。 本湿原にはヘビノボラズやサクラバハンノキなど我が国では伊勢湾周辺にしか見られない植物が生育し、また九州唯一のミズギボウシや九州南部に固有のツクシアブラガヤが生育しています。 この他に興味ある湿原植物として、ノハナショウブ、イヌタヌキモ、モウセンゴケ、シロイヌノヒゲ、ツクシクロイヌヒゲ、ミミカキグサ、ヤマドリゼンマイ、コバトンボソウ、サギソウなどの植物群落があります。
(ヘビノボラズ(メギ科)、タヌキモ(タヌキモ科)、ホシクサ類(ホシクサ科)、サギソウ(ラン科)の写真と説明も載っています。)
と書かれています。



写真IG: 高鍋湿原の東部と西部を結ぶ「トンボの橋」。 高鍋西部湿原側から見たもの。



写真IH: 高鍋西部湿原の入り口。



写真II: 高鍋西部湿原の観察路。



写真IJ: 高鍋西部湿原。 高鍋東部湿原と高鍋西部湿原をあわせて高鍋湿原と呼びます。



写真IK: 高鍋西部湿原。



写真IL: 高鍋西部湿原。 高鍋東部湿原と高鍋西部湿原をあわせて高鍋湿原と呼びます。



写真IM: 「湿原には降りないでください。」と書いてあります。



写真IN: 高鍋西部湿原にも沼、池があります。



写真IO: 高鍋西部湿原。 高鍋東部湿原と高鍋西部湿原をあわせて高鍋湿原と呼びます。



写真IP: 高鍋西部湿原。



写真IQ: 高鍋西部湿原。 高鍋東部湿原と高鍋西部湿原をあわせて高鍋湿原と呼びます。
白く点々と多く見えているのはラン科の「サギソウの花」です。 群生していました。
鷺草(さぎそう)は、ラン科の多年草で、山野の湿地に自生し、高さ約30 cmです。 夏、鷺の飛ぶ姿に似た白花を開きます。 サギソウの花は高鍋湿原では、8月中旬(お盆の頃)多く見られます。
 日当たりの良い湿原で見られますが、日本では絶滅危惧種に指定されている貴重な植物です。 花期は7月中旬から8月中旬です。



写真IR: 高鍋西部湿原にも高鍋東部湿原にあった「ヒメノボ
タンの花」が咲いていました。
ヒメノボタン(姫野牡丹)は環境省レッドデータブックで絶滅危惧IB 類(EN)で近い将来に絶滅する危険性が高い種です。 高鍋湿原はヒメノボタンの国内有数の群落として知られています。
ヒメノボタン(姫野牡丹)は低地の草地に生える多年草で、日本では唯一のノボタン科の草本植物(木でないもの)です。 ノボタン科ノボタン属で、花は直径約3 cmで高さは20−50 cmです。 葉は対生し3−6 cmで剛毛があり、ざらつきます。 花は4枚の花びらで8−9月に咲きます。 花は茎頂に数個頭状に付き、鮮やかな紅紫色で目立ちます。



写真IS: 高鍋湿原の高鍋西部湿原。



写真IT: 高鍋湿原の「トンボの橋」は宮田川にかかっています。



写真IU: 高鍋湿原の舗装された歩道の脇(わき)にある「メリケンムグラ」の白い花。



写真IV: 高鍋湿原の隣にある「ウェルグラウンズ高鍋、特別養護老人ホーム 鈴山荘、鈴山荘地域交流スペース、鈴山荘デイサービスセンター、養護老人ホーム もくせい苑、鈴山荘在宅介護支援センター、ケアハウス とんぼの里」の看板(かんばん)。



写真IW: 高鍋湿原の隣に「ウェルグラウンズ高鍋、特別養護老人ホーム 鈴山荘、鈴山荘地域交流スペース、鈴山荘デイサービスセンター、養護老人ホーム もくせい苑、鈴山荘在宅介護支援センター、ケアハウス とんぼの里」の建物があります。



写真IX: 「高鍋防災ダム」の石碑(せきひ)。
着工 昭和37年4月
完工 昭和43年3月 宮崎県。
ダム型式 フィルダム(均一型)
堤長 179,00 m
堤高 25.50 m
有効貯水量 996.000 立方メートル
築堤量186,000 立方メートル
事業費 530,000 千円
施工者 株式会社 熊谷組



by 南陽彰悟 (NANYO Shogo)