日向国府跡、三宅神社、妻高等学校、日向国分寺跡、木喰五智館、羽黒神社、粟野右松神社 (ひゅうがこくふ跡、発掘調査中の国府跡、みやけ神社、もくじきごち館、はぐろ神社、あおんみぎまつ神社
)  (西都市)







<標高、位置>  日向国府跡は
標高 約30 m
 北緯32度06分52秒  東経131度24分02秒

 三宅神社は
標高 約60 m
 北緯32度06分19秒  東経131度23分37秒

 妻高等学校は
標高 約40 m
 北緯32度06分29秒  東経131度23分45秒

 日向国分寺跡と木喰五智館は
標高 約30 m
 北緯32度06分07秒  東経131度23分47秒

 羽黒神社は
標高 約10 m
 北緯32度06分03秒  東経131度24分42秒

 粟野右松神社は
標高 約10 m
 北緯32度06分02秒  東経131度24分12秒


 宮崎県西都市にある日向国府跡、三宅神社(みやけ神社)、妻高等学校、国分寺跡、木喰五智館(もくじきごちかん)、羽黒神社(はぐろ神社)、粟野右松神社(あおんみぎまつ神社)について、紹介してあります。

 天皇を中心に、朝廷(ちょうてい)による律令制(りつりょうせい)は7世紀後半(飛鳥時代後期)から10世紀まで実施されました。 奈良時代、日向の国府(今の県庁)は西都市にありました。 今でも、西都市の稚児ヶ池(ちごがいけ)の近くに国府跡が残っています。 その頃の特産品は牛と馬でした。 奈良時代の761年(天平宝字5年)頃(ごろ)の国司(日向守)は安倍黒麻呂でした。 それ以後も多数の人が国司(日向守)を勤(つと)めています。 平安時代の末期は、日向国も国司が赴任しない遥任(ようにん)でしたが、国司の実務は在国司職(ざいこくししき)に委(ゆだ)ねられていました。 在国司職は国衙在庁官人の筆頭です。 日向国の場合は日下部(くさかべ)が世襲していました。 しかし、平家滅亡とともに、文治三年(1187年、鎌倉幕府の始まる5年前)在国司職は日下部から土持信綱(つちもちのぶつな)に移りました。 8世紀前半に日向国から薩摩国、大隅国が独立して、日向国は今の県とほぼ同じ広さ、形になりました。
  駅使 (えきし)は天皇から駅鈴をもらって行き来しました。 駅鈴はいろいろな国にも置かれました。 大切な情報をすばやく中央と地方との間に伝えるために、駅路は直線的なものが多くありました。 集落などとは無関係に造られ、道幅も 6 m を超えていました。 駅には駅舎があり、駅長がいて、給食、宿泊、馬の中継などを行いました。 駅長の下に駅子がいて駅馬をひきました。 駅の維持のため駅田 (えきでん)が大路4町、中路3町、小路2町与えられました。 駅戸がその駅田を耕 (たがや)しました。 駅子は120人から130人ほどでした。
 古代の律令時代 (りつりょうじだい)の頃、中央と地方を結び、物資および手紙の運搬をするために、官道 (今の国道。)が作られました。 そして、約30里 (当時の1里は約550 m)ごとに、駅が作られ、駅には、駅馬が置かれました。 日向国では、16の駅が作られました。
日向16駅は、豊後 (ぶんご、大分県)より、長井、川辺、刈田、美禰 (みね)、去飛 (都農神社)、児湯、国府 (西都市、都萬神社)、当磨、江田、救麻、救仁、水俣、島津 (都城市)、大隅路へ。 それと、国府 (西都市、都萬神社)から分岐 (ぶんき)して、亜榔、野後、夷守 (霧島岑神社 (きりしまみねじんじゃ))、真 (まさき、えびの市)、肥後路へ、という官道 (今の国道。)がありました。
「日向国の駅」は、(豊後路より) 臼杵郡 長井駅 ながい 延岡市北川町長井、臼杵郡 川辺駅 かわのべ 延岡市大貫川辺 (西階児公園)、臼杵郡 刈田駅 かった 門川町刈田(かりでん)(門川中学校)、臼杵郡 美禰駅 みね 日向市美々津町、児湯郡 去飛駅 こひ 都農町福原尾 (都農駅東南)、児湯郡 児湯駅 こゆ 木城町高城、 国府 (西都市)、那珂郡 当磨駅 たいま 宮崎市佐土原町上田島、宮崎郡  田駅 いしだ 宮崎市阿波岐原町 (江田神社)、宮崎郡 救磨駅 くま 宮崎市 熊野、宮崎郡 救仁駅 くに 宮崎市田野、諸県郡 水俣駅 みまた 三股町または都城市山之口町、諸県郡 島津駅 しまづ 都城市郡元、大隅路へ。 また国府 (西都市)から分岐して国府 (西都市)、諸県郡 亜榔駅 あや 綾町、諸県郡 野後駅 のじり 小林市野尻、諸県郡 夷守駅 ひなもり 小林市夷守、諸県郡 真 駅 まさき えびの市真幸、肥後路へ、というものでした。


写真A: 「日向国府跡」は稚児ヶ池の東にあります。 左のガードレールの向こうは稚児ヶ池です。 右の建物の左脇を先に進みます。



写真B: この道を先に進みます。 遠くの高い木のあるところの右手が国府跡です。



写真C: 国府跡はこの大きな木の所を右に進みます。



写真D: カラスウリが赤く熟(う)れていました。



写真E: 右手は茶畑です。 ここが国府跡です。



写真F: 来た道を振り返ってみた景色。



写真G: 右手は茶畑、人家も見えます。 ここが国府跡です。



写真H: 国府跡の2ヘクタールが買い上げられて、史跡として整備されることになっています。 この民家も立ち退(の)きになるそうです。 この付近が「国府跡」です。 この整備前の写真は、将来貴重なものとなることでしょう。 ここは西都市の寺崎というところです。



写真I: 西都市にある「国府跡」には、茶畑、畑、林、人家などがあります。



写真J: 左手の所にカラスウリがありました。 国府跡です。



写真K: 国府跡には草地もあります。



写真L: 国府跡。 左は茶畑です。



写真M: 国府跡。 民家も見えています。



写真N: 国府跡。 そのうち、史跡として整備されます。



写真O: 西都市の国府跡。



写真P: 西都市の日向国府跡。 まだ整備されてなく、看板も立っていません。
 奈良時代から平安時代前半の「国府」では、方形区画と正殿、脇殿などで構成される政庁が他の施設にはない特徴です。
 律令制(りつりょうせい)において、国司が政務を執った施設を国庁といい、国庁の周囲は塀などによって方形に区画されていました。 国庁とそのまわりの役所群、都市域を総称して国衙(こくが)、国府といいます。
 国府には、国司の他、史生、国博士、国医師などの職員が勤務していて、小国で数十人、大国で数百人の規模でした。
国府は室町時代に完全に消滅し、ほとんどが所在不明となりました。



写真Q: 国府跡。



写真R: 国府跡。 その内、買い上げられて整備され、民家も立ち退(の)きになるそうです。



写真S: 西都市の「国府跡」。



写真T: 国府跡付近。



写真U: 2011年12月22日に発掘調査中(はっくつちょうさちゅう)の国府跡に行きました。 茶畑の茶の木は一度根元から切られて再び芽が出ていました。
右奥に発掘中のブルーシートが小さく見えます。



写真V: 宮崎県 西都市にある日向国府跡です。 奥に発掘中のブルーシートが小さく見えます。



写真W: 国府跡です。



写真X: 日向国府跡。



写真Y: 国府跡です。



写真Z: 発掘の係の人が測量機のそばにいます。 発掘調査中の国府跡。



写真AA: 日向国府跡です。



写真AB: 右は切られた茶畑です。 根元から切られて再び芽が出ていました。



写真AC: 来た道を振り返ったもの。 日向国府跡。



写真AD: 盛(さか)んに発掘作業(はっくつさぎょう)が行われています。 ブルーシート、カラーコーンも見えます。



写真AE: 発掘中の日向国府跡です。



写真AF: 柱の穴のようなものが見えます。 発掘調査中の日向国府跡。



写真AG: 建物跡の発掘中です。 日向国府跡。



写真AH: 西都市にある日向国府跡の発掘作業です。



写真AI: 発掘調査中の日向国府跡です。



写真AJ: 大きな木のそばも発掘中です。



写真AK: 宮崎県 西都市にある日向国府跡の発掘現場です。 小石も多く見えています。



写真AL: 日向国府跡の発掘現場です。 穴、小石もあります。



写真AM: 西都市にある日向国府跡の発掘(はっくつ)です。 小石も多く見えています。



写真AN: 発掘調査中の日向国府跡です。



写真AO: 日向国府跡の発掘現場です。 小石も多く見えています。



写真AP: 発掘中の国府跡です。



写真AQ: 国府跡です。



写真AR: 国府跡です。 左にブルーシートが見えます



写真AS: 来た道を振り返ったもの。 西都市にある日向国府跡です。 右に発掘調査中の係の人が2人見えています。



写真AT: 右に大きな木も見えます。



写真AU: 発掘現場の近くです。



写真AV: 発掘作業中の日向国府跡です。 2人の係の人が見えます。



写真AW: 大きな木の近くの発掘調査現場です。



写真AX: 発掘中の西都市にある日向国府跡。



写真AY: 国府跡です。



写真AZ: 発掘調査中の日向国府跡。



写真BA: 右は切られた茶畑です。



写真BB: 切られた茶畑の近く。



写真BC: 茶畑跡です。



写真BD: 茶畑跡が見えます。 この奥に稚児ヶ池(ちごがいけ)があります。



写真BE: 西都市の「三宅神社(みやけ神社)」の一の鳥居。 手前の道を右手に行くと、宮崎県立妻高等学校を経て西都原古墳群に行きます。 左手に行くと、国分寺跡、木喰五智館などに行く三叉路(さんさろ)があります。



写真BF: 西都市にある三宅神社の一の鳥居。 長い階段があります。



写真BG: 三宅神社の鳥居と階段。



写真BH: 三宅神社の一の鳥居にかけてある額。



写真BI: 三宅神社にある長い階段。



写真BJ: 三宅神社の2番目の鳥居。 小石が鳥居の上にたくさん載っています。 小石を投げ上げて、鳥居の上に載ると良いことがあると言われています。



写真BK: 見下ろした景色。 一の鳥居が見えています。



写真BL: 西都市の市街地を見下ろした風景。 手前は、妻高校のテニスコート、サッカー場、遠くの台地は新田原(にゅうたばる)、茶臼原(ちゃうすばる)で、NTT西日本のアンテナ、サンキの建物も見えています。



写真BM: 西都市の町並みの展望。 妻高校のテニスコート、サンキの建物も見えています。



写真BN: 西都市の市街地の眺望。 一ッ瀬川にかかっている山角(やますみ)の橋、NTTのアンテナ、妻高等学校のテニスコートも見えています。



写真BO: 西都市の町の展望。 手前に妻高校のサッカー場、その左にグランド、右にテニスコートも一部見えています。 遠くの台地は茶臼原(ちゃうすばる)です。



写真BP: 三宅神社の近くにベニバナボロギクが咲いていました。



写真BQ: 三宅神社の2番目の鳥居。



写真BR: 三宅神社の二の鳥居の手前には、車道があります。



写真BS: 西都市の三宅神社。



写真BT: 三宅神社の二の鳥居そばの車道。 左手は三宅神社の石垣。 この先は、西都原運動公園近くの三叉路(さんさろ)に行きます。



写真BU: 三宅神社の二の鳥居 手前にある車道。 右手は三宅神社の石垣。



写真BV: 西都市の三宅神社。 石灯籠(いしどうろう)、拝殿も見えています。



写真BW: 三宅神社の境内。



写真BX: 西都市の三宅神社の境内。



写真BY: 三宅神社の境内。



写真BZ: 三宅神社の御手洗(みたらい)。



写真CA: 三宅神社の御手洗。



写真CB: 三宅神社の石灯籠。



写真CC: この石灯籠は、大正11年10月に建立されました。



写真CD: 三宅神社の参道。



写真CE: 三宅神社の末社。



写真CF: 三宅神社の拝殿。



写真CG: 三宅神社の拝殿。



写真CH: 三宅神社の拝殿の柱。 龍が彫(ほ)ってあります。



写真CI: 西都市にある三宅神社の拝殿。 鈴も見えています。



写真CJ: 三宅神社の拝殿。



写真CK: 三宅神社の拝殿の中。



写真CL: 三宅神社の拝殿の中。



写真CM: 三宅神社の拝殿の中。



写真CN: 三宅神社の拝殿の中。



写真CO: 三宅神社の境内。



写真CP: 三宅神社の境内。



写真CQ: 三宅神社の拝殿。



写真CR: 三宅神社の拝殿、本殿など。



写真CS: 三宅神社。



写真CT: 三宅神社の境内。



写真CU: 三宅神社の建物をつなぐ丸い橋。



写真CV: 三宅神社の建物。



写真CW: 三宅神社の壁の彫り物。



写真CX: 三宅神社の本殿。



写真CY: 三宅神社の本殿。



写真CZ: 三宅神社の建物。



写真DA: 三宅神社の建物。



写真DB: 三宅神社の末社。



写真DC: 三宅神社の本殿。



写真DD: 三宅神社の本殿。



写真DE: 三宅神社の末社。



写真DF: 三宅神社の本殿。



写真DG: 三宅神社の本殿。



写真DH: 三宅神社の建物。



写真DI: 三宅神社の境内。



写真DJ: 三宅神社の石碑。



写真DK: 三宅神社の境内。



写真DL: 三宅神社の参道竣工記念碑。



写真DM: 三宅神社の境内。



写真DN: 三宅神社近くの三叉路。 先は、西都原運動公園、西都原で、右手前は妻高校、三宅神社の一の鳥居で左は三宅神社に行きます。



写真DO: 西都原運動公園 入り口の標識。



写真DP: 宮崎県立妻高等学校。 かまぼこ形屋根の体育館(1972年8月4日完成)、4階建ての校舎、公認50 mプール(1962年5月20日完成)も見えています。



写真DQ: 4階建て校舎とその玄関。
妻高等学校の前身は、宮崎県立妻中学校(大正12年創立)と同高等女学校(大正14年創立)です。 1948年4月1日に、この両者が統合されて宮崎県立妻高等学校が設置されました。
1962年5月20日: 公認50 mプール竣工、
1972年8月4日: 体育館竣工、
1981年3月31日: 図書館棟竣工、
1990年: 新聖陵会館落成、
1996年3月31日: 書道棟改築、
2003年3月15日: 特別教室(別棟)大規模改修、
2003年4月1日: 福祉科1学級新設、
2006年3月27日: 体育倉庫・更衣室新設。



写真DR: 西都原古墳群からの道。 左手は妻高校です。 右の旗が立っているところはピザハウスの店。



写真DS: 妻高校のグランド(野球場)。 遠くの台地は新田原、一ッ瀬川にかかっている山角の橋(やますみの橋)、NTTのアンテナ、サンキの建物も見えています。



写真DT: 妻高等学校にある4階建ての校舎とプール、グランドも見えています。



写真DU: 妻高校の校舎とグランドのナイター照明。 校舎の上の山は尾鈴山です。 右端の建物は、新聖陵会館(1990年落成)。



写真DV: 妻高等学校のグランドのナイター施設と校舎。 遠くの山は尾鈴山。



写真DW: 西都市にある妻高校の中を通る道。 左はグランド、校舎、体育館、プールなどがあり、右はサッカー場、テニスコートがあります。



写真DX: 旧制妻中学校門柱。 妻高校のグランド(野球場)とサッカー場、テニスコートの間の道沿いにあります。 石柱が残っています。 説明板が建っています。 背景は、野球場のバックネット、4階建ての校舎、3階建ての校舎、聖陵会館。 右手前の木は桜です。



写真DY: 妻高等学校にある旧制妻中学校の門柱。 本校の前身宮崎県立妻中学校は大正12年に設立された。 当時県内には、延岡中(延岡高校)、高鍋中(高鍋高校)、宮崎中(大宮高校)、飫肥中(日南高校)、都城中(泉ヶ丘高校)、小林中(小林高校)と妻中(妻高校)の7中学校があった。 受験生250名の中から、入学許可された55名の第1回生から数えて、第21回生まで1400余名の先輩たちが、この聖陵ヶ丘で学び現在各界の第一線で活躍している。
この門柱は、「質実剛健」の校風を身につけて、巣立った幾多の聖陵健児の青春の記念碑である。



写真DZ: 左手は妻高校。 手前は西都原、先は三宅神社の一の鳥居があり、三叉路から左手前に行くと妻高等学校です。



写真EA: 宮崎県立妻高等学校。 グラントの向こうに校舎、尾鈴山が見えています。



写真EB: 妻高等学校。 フェニックス、ワシントン椰子(やし)、時計台も見えています。



写真EC: 左は妻高のサッカー場。



写真ED: 妻高のサッカー場。 ナイター照明もあります。



写真EE: 三叉路(さんさろ)。 左は妻高等学校へ、先は三宅神社の一の鳥居、国分寺、木喰五智館へ行きます。 手前の方には西都原古墳群があります。



写真EF: 「自家用車での送迎はここまで。 (妻高等学校校長)」という看板が三叉路にはあります。



写真EG: 妻高等学校のテニスコート。 右手の木はセンダンです。



写真EH: 妻高等学校のテニスコート。



写真EI: 妻高校のテニスコート。



写真EJ: 妻高等学校のテニスコートから見たサッカー場。



写真EK: 日向国分寺跡(ひゅうがこくぶんじあと)、木喰五智館(もくじきごちかん)の標識。 右奥の小さな白い看板は三宅神社の一の鳥居。



写真EL: 日向国分寺跡(ひゅうがこくぶんじあと)、木喰五智館(もくじきごちかん)の標識。



写真EM: 日向国分寺跡、木喰五智館はこの三叉路(さんさろ)を左に進みます。 先は三宅神社、妻高等学校、西都原古墳群へ行きます。



写真EN: 三叉路にある日向国分寺跡(ひゅうがこくぶんじあと)、木喰五智館(もくじきごちかん)の標識。



写真EO: この三叉路を左に進むと、日向国分寺跡(ひゅうがこくぶんじあと)、木喰五智館(もくじきごちかん)があります。



写真EP: 三叉路にある標識。



写真EQ: 日向国分寺跡。 境内にある右に見えている建物が木喰五智館(もくじきごちかん)。 左に駐車場があります。



写真ER: 日向国分寺跡にある木喰五智館(もくじきごちかん)。 中には木喰上人が彫(ほ)った「五智如来像」があります。



写真ES: 今来た道。 左は国分寺跡。



写真ET: 日向国分寺跡にあるトイレと駐車場。



写真EU: 右は駐車場。 左は学習等供用施設国分館。



写真EV: 日向国分寺跡の近くにある学習等供用施設国分館。



写真EW: 日向国分寺跡の駐車場の看板とトイレ。



写真EX: 日向国分寺跡の駐車場。



写真EY: 国分寺跡にある木喰五智館。 木喰五智館の中には、大きな仏像があります。



写真EZ: 国分寺跡の境内。



写真FA: 国分寺跡の境内。



写真FB: 国分寺跡 入り口付近。



写真FC: 国分寺跡の門柱。 「国分寺跡」と刻んであります。



写真FD: この門柱は昭和44年3月に建立されました。



写真FE: 日向国分寺跡の境内。 建物は木喰五智館。



写真FF: 国分寺跡の境内。



写真FG: 国分寺跡の境内。



写真FH: 国分寺跡の境内。



写真FI: 国分寺跡の境内。 左に見えているのはイチョウの大木です。



写真FJ: 日向国分寺跡の境内にあるイチョウの古木。



写真FK: 国分寺跡の境内にあるイチョウの木。



写真FL: 国分寺跡の境内にある石碑。 この敷地を寄贈された松浦繁富さんのものです。



写真FM: 日向国分寺跡の境内。



写真FN: 木喰五智館の前にある石像。 中には木喰上人が彫(ほ)った「五智如来像」があります。



写真FO: 木喰五智館の説明板。
 この館は木喰上人彫像の「五智如来像」を安置するために、平成8年(1996年)3月に新築されたものです。 寛政年間(1789−1801年)に木喰上人によって再興された「館」は、明治初年まで存続しましたが、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)で、この寺域はまったくの廃墟となりました。 しかし、「五智如来像」だけは一民家に移され難を逃れました。 その後、明治20年(1887年)頃、地元の人たちによって、廃墟跡地に、瓦葺き入母屋造りの「館」が建設され、「五智如来像」は再びその「館」に安置されることになりました。 その館も老朽化し、昭和22年(1947年)3月、再び地元の人たちによって再建され、平成7年(1995年)7月まで維持されてきましたが、老朽化が進んだために今の「館」が平成8年3月に建設されました。



写真FP: 宮崎県西都市にある「木喰五智館」。 日向国分寺跡にあります。



写真FQ: 宮崎県西都市にある「木喰五智館」。 日向国分寺跡にあります。



写真FR: 木喰五智館の前にある石像。 シキミの枝が供えてありました。



写真FS: 木喰五智館の前にある石像。



写真FT: 木喰五智館。



写真TU: 木喰五智館の中にある「五智如来像」。



写真TV: 日向国分寺跡の木喰五智館の中にある「五智如来像」。



写真FW: 日向国分寺跡の木喰五智館の中にある「五智如来像」。



写真FX: 「五智如来像」の説明板。
日向国分寺再興のため、三宅村に滞在した木喰上人は、クスノキの大木を用材として五智如来像を刻(きざ)みました。 この5体の如来座像は、中央に本尊の大日如来、向かってその右側に阿弥陀如来、釈迦如来、一方左側には、薬師如来、宝生如来と並んでいます。 宝生如来座像の背面には「クハン世イ四(寛政四)子ノ8月15日、作、木喰」の刻印が残されています。



写真FY: 日向国分寺跡の木喰五智館の中にある「五智如来像」。



写真FZ: 日向国分寺跡の木喰五智館の中にある「五智如来像」。



写真GA: 日向国分寺跡の木喰五智館の中にある「五智如来像」。



写真GB: 日向国分寺跡の木喰五智館の中にある「五智如来像」。



写真GC: 木喰上人の説明板。
 木喰上人は、享保3年(1718)に甲斐国(山梨県)西八代郡丸畑村に生まれました。 21歳の時相模国(神奈川県)大山不動尊へ参詣しそこで真言宗の高僧から教えを受け仏門に入りました。 44歳の時に、常陸国(茨城県)羅漢寺の住職 木食観海上人から「木喰戒」を受け修行に励みましたが、安永2年(1773)55歳の時 日本廻国の大願を発し、大山山麓の田中村を出発し、遊行僧として全国行脚の途につきました。 
 それから92歳までの間、一千体彫仏を発願、豊後(大分県)を経て三宅村の「日向国分寺」に到達しました。 上人は地元住民に求められて国分寺住職になり、寛政9年(1797)4月までの9年間、三宅村に滞在しました。 その間、国分寺が火災にあったため、その再建に取り組み木喰彫像中最大作と言われる「五智如来座像」5体を完成させました。
 なおこのほか西都市内には、妻恵比須宮のご神体となっている恵比須像など数点の彫像が残されています。



写真GD: 木喰上人の説明板。
 木喰上人は、享保3年(1718)に甲斐国(山梨県)西八代郡丸畑村に生まれました。 21歳の時相模国(神奈川県)大山不動尊へ参詣しそこで真言宗の高僧から教えを受け仏門に入りました。 44歳の時に、常陸国(茨城県)羅漢寺の住職 木食観海上人から「木喰戒」を受け修行に励みましたが、安永2年(1773)55歳の時 日本廻国の大願を発し、大山山麓の田中村を出発し、遊行僧として全国行脚の途につきました。 
 それから92歳までの間、一千体彫仏を発願、豊後(大分県)を経て三宅村の「日向国分寺」に到達しました。 上人は地元住民に求められて国分寺住職になり、寛政9年(1797)4月までの9年間、三宅村に滞在しました。 その間、国分寺が火災にあったため、その再建に取り組み木喰彫像中最大作と言われる「五智如来座像」5体を完成させました。
 なおこのほか西都市内には、妻恵比須宮のご神体となっている恵比須像など数点の彫像が残されています。



写真GE: 木喰上人の略年譜。



写真GF: 木喰五智館の中。



写真GG: 「日向国分寺跡」の説明。
 日向国分寺跡は西都市大字三宅字国分、特別史跡西都原古墳群と市街地の間にある中段域にあります。 全国の国分寺は天平13年(741)、天智天皇により下された国分寺建立 詔(みことのり) により建立が始まり、天平勝宝8年(756)には、全国で日向国を含む26ヶ国に建立されていました。



写真GH: 「日向国分寺跡」の説明。
 日向国分寺跡は西都市大字三宅字国分、特別史跡西都原古墳群と市街地の間にある中段域にあります。 全国の国分寺は天平13年(741)、天智天皇により下された国分寺建立 詔(みことのり) により建立が始まり、天平勝宝8年(756)には、全国で日向国を含む26ヶ国に建立されていました。



写真GI: 「日向国分寺跡」の説明。
 日向国分寺跡は西都市大字三宅字国分、特別史跡西都原古墳群と市街地の間にある中段域にあります。 全国の国分寺は天平13年(741)、天智天皇により下された国分寺建立 詔(みことのり) により建立が始まり、天平勝宝8年(756)には、全国で日向国を含む26ヶ国に建立されていました。



写真GJ: 日向国分寺跡の木喰五智館の中。



写真GK: 日向国分寺跡の木喰五智館の中。



写真GL: 日向国分寺跡の木喰五智館の中。



写真GM: 日向国分寺跡の木喰五智館の中。



写真GN: 日向国分寺跡の木喰五智館の中。



写真GO: 日向国分寺跡の木喰五智館の中。



写真GP: 日向国分寺跡の木喰五智館の中。



写真GQ: 日向国分寺跡の木喰五智館の中。



写真GR: 日向国分寺跡の木喰五智館の中。



写真GS: 日向国分寺跡の木喰五智館の中から境内を見たもの。



写真GT: 日向国分寺跡の木喰五智館の前の石像。



写真GU: 日向国分寺跡の木喰五智館の前の石像。


写真GV: 日向国分寺跡の木喰五智館の前の石像。



写真GW: 日向国分寺跡の木喰五智館の前の御手洗(みたらい)。



写真GX: 日向国分寺跡の木喰五智館の前の石。



写真GY: 国分寺跡。



写真GZ: 国分寺跡。



写真HA: 国分寺跡。



写真HB: 国分寺跡。



写真HC: 国分寺跡。



写真HD: 国分寺跡。 昔の建物の敷石が残っています。



写真HE: 西都市の日向国分寺跡。 昔の建物の敷石が残っています。



写真HF: 西都市の日向国分寺跡。



写真HG: 西都市の日向国分寺跡にあるイチョウの大木。



写真HH: 西都市の日向国分寺跡にあるイチョウの古木。



写真HI: 西都市の日向国分寺跡にあるイチョウの古木の黄葉した落ち葉。



写真HJ: 西都市の日向国分寺跡のイチョウ。 手前の幹は中が空洞になっていて、縦長の割れ目があります。



写真HK: 西都市の日向国分寺跡にあるイチョウの空洞の底部。 縦長の割れ目からカメラを入れて撮(と)ったもの。 イチョウの落ち葉も入っています。



写真HL: 西都市の日向国分寺跡にあるイチョウの空洞の内側。 縦長の割れ目からカメラを入れて撮(と)ったもの。



写真HM: 西都市の日向国分寺跡にある孟宗竹(もうそうだけ)の竹林。



写真HN: 西都市の日向国分寺跡にある石灯籠(いしどうろう)。



写真HO: 上の写真の石灯籠は、江戸中期の享保13年に建立されました。



写真HP: 「日向国分寺の跡」の説明板。
 一国一寺としての国分寺建立は、通説によりますと天平12年(741)3月14日の詔(みことのり)によって始まったとされています。 後年、全国的に広まった荘園制度のもと、国分寺は衰退の方向をたどりますが、日向国分寺もその例外ではありませんでした。 
 天明8年(1788)、この地を訪れた木喰行道によって復興はされたものの、明治初年、廃仏棄釈の波は日向国にも及びました。 そのとき五智如来像は幸いにして一民家に移され、難を逃れたということです。
 館(やかた)の南側に一本の老イチョウが茂っていますが、木喰上人はこの樹に龕(がん、仏像を納める厨子(ずし、仏像などを安置する仏具。両開きの扉がある))を造り、自作の小さな像を祭って「この樹生い育ち、樹皮がガンを包み込んだとき、我、再び世に現れん...」と告げてこの地を旅立ったと伝えられています。



写真HQ: 西都市の日向国分寺跡にある石。 くぼみが刻(きざ)まれています。



写真HR: 中には石碑があります。



写真HS: 西都市の日向国分寺跡にある古い墓石。



写真HT: 西都市の日向国分寺跡の入り口付近。



写真HU: 西都市右松にある「羽黒神社(はぐろ神社)」の一の鳥居。



写真HV: 西都市右松にある「羽黒神社(はぐろ神社)」の一の鳥居。 羽黒神社と書かれた額があります。



写真HW: 西都市右松にある「羽黒神社(はぐろ神社)」の参道。 左奥が鎮守の森です。



写真HX: 左手の大きな木は羽黒神社の境内にあります。



写真HY: 羽黒神社。



写真HZ: 先は一ッ瀬川の堤防。 左は羽黒神社の鎮守の森。



写真IA: 参道から羽黒神社の一の鳥居方向を見たもの。



写真IB: 羽黒神社。



写真IC: 羽黒神社の鳥居。



写真ID: 鳥居新築記念碑。 この鳥居は2001年1月に建立されました。



写真IE: 「影向松」と彫られた石碑。



写真IF: 羽黒神社の末社。



写真IG: 羽黒神社の末社。



写真IH: 羽黒神社の境内。



写真II: 羽黒神社の拝殿と御手洗(みたらい)、石灯籠など。



写真IJ: 西都市右松にある「羽黒神社(はぐろ神社)」の御手洗(みたらい)。



写真IK: 西都市右松にある「羽黒神社(はぐろ神社)」の御手洗(みたらい)。



写真IL: 羽黒神社の拝殿と石灯籠(いしどうろう)。



写真IM: 羽黒神社の石灯籠と拝殿。



写真IN: この石灯籠は大正14年旧11月に建立されました。



写真IO: 西都市右松にある「羽黒神社(はぐろ神社)」の拝殿。



写真IP: 西都市右松にある「羽黒神社(はぐろ神社)」の拝殿。



写真IQ: 「羽黒神社(はぐろ神社)」の拝殿。



写真IR: 左は羽黒神社の本殿。



写真IS: 羽黒神社の本殿。



写真IT: 羽黒神社の末社。



写真IU: 羽黒神社。



写真IV: 羽黒神社の本殿。



写真IW: 羽黒神社の裏の景色。



写真IX: 羽黒神社の拝殿。



写真IY: 羽黒神社の拝殿。



写真IZ: 羽黒神社の拝殿。 鈴も見えています。



写真JA: 羽黒神社の拝殿。



写真JB: 羽黒神社の拝殿。 鈴の紐(ひも)とお賽銭箱。



写真JC: 羽黒神社の拝殿の中。 額も上に掛けてあります。



写真JD: 羽黒神社の拝殿の中。



写真JE: 羽黒神社の拝殿の中。



写真JF: 羽黒神社の拝殿の中。



写真JG: 羽黒神社の境内。



写真JH: 羽黒神社の境内。



写真JI: 羽黒神社の境内に、古い石の鳥居の部品が残っていました。



写真JJ: 西都市の粟野右松神社(あおんみぎまつ神社) 近くにあるA-COOP(農協のマーケット)。



写真JK: 西都市の粟野右松神社 近くにある十字路。 角にコンビニがあります。



写真JL: 西都市にある粟野右松神社(あおんみぎまつ神社)の一の鳥居。



写真JM: 西都市にある粟野右松神社の末社。



写真JN: 西都市にある粟野右松神社の一の鳥居。 額があります。



写真JO: 西都市にある粟野右松神社の石灯籠と石碑。



写真JP: 西都市にある粟野右松神社。 一の鳥居と石灯籠。



写真JQ: この石灯籠は昭和33年11月に建立されました。



写真JR: 粟野神社の鳥居建設記念碑。



写真JS: 西都市にある粟野右松神社の石碑。



写真JT: 西都市にある粟野右松神社の参道。



写真JU: 西都市にある粟野右松神社の石碑。



写真JV: 西都市にある粟野右松神社の参道。



写真JW: 粟野神社の石碑。



写真JX: 粟野神社(あおん神社)の境内。



写真JY: 沿道修景指定樹木 ナギ(マキ科)、樹高: 18メートル、直径: 0.6メートル、昭和47年6月指定(宮崎県)。 竹の葉のように葉は縦に裂けます。



写JZ: 沿道修景指定樹木 ナギ(マキ科)、樹高: 18メートル、直径: 0.6メートル、昭和47年6月指定(宮崎県)。 竹の葉のように葉は縦に裂けます。



写真KA: 沿道修景指定樹木 ナギ(マキ科)、樹高: 18メートル、直径: 0.6メートル、昭和47年6月指定(宮崎県)。



写真KB: 粟野神社の鳥居。



写真KC: 粟野神社の御手洗(みたらい)。 手押し井戸ポンプがありました。



写真KD: 粟野神社の手押し井戸ポンプ。



写真KE: 粟野神社(あおん神社)。



写真KF: 粟野神社の拝殿と石灯籠(いしどうろう)。



写真KG: この石灯籠は大正12年11月1日に建てられました。



写真KH: 粟野神社(あおん神社)の拝殿。



写真KI: 粟野神社(あおん神社)の拝殿。



写真KJ: 粟野神社(あおん神社)の拝殿。



写真KK: 粟野神社(あおん神社)の拝殿と本殿(左)。



写真KL: 粟野神社(あおん神社)のナギの木



写真KM: 粟野神社(あおん神社)の境内。



写真KN: 粟野神社(あおん神社)から見た西都市のA-COOP(JAのマーケット)。



写真KO: 粟野神社(あおん神社)の末社。



写真KP: 上の末社の前にある石造物。



写真KQ: 粟野神社(あおん神社)の境内。



写真KR: 粟野神社(あおん神社)の境内。



写真KS: 粟野神社(あおん神社)の改築記念碑。



写真KT: 粟野神社(あおん神社)の拝殿改築記念碑。



写真KU: 粟野神社(あおん神社)の社務所改築記念碑。



写真KV: 粟野神社(あおん神社)の境内。



写真KW: 粟野神社(あおん神社)の石碑。



by 南陽彰悟 (NANYO Shogo)