古月禅師誕生地、はぜ馬場、日本九峰修行供養碑、ダンジリ喧嘩祭り、水神様、曼荼羅寺跡、祇園様、石散燈、釈迦堂、学習館、商家資料館 (こげつぜんし誕生地、まんだら寺跡、ぎおん様、せきさんとう、しゃか堂) (宮崎市佐土原町上田島と下田島)





<標高、位置>   古月禅師誕生地は
標高 約 0 m
 北緯32度02分52秒  東経131度26分51秒

<標高、位置>   日本九峰修行供養碑は
標高 約数 m
 北緯32度02分59秒  東経131度26分06秒

<標高、位置>   水神様は
標高 約数 m
 北緯32度03分10秒  東経131度25分55秒

<標高、位置>   曼荼羅寺跡(まんだらでらあと)
標高 約数 m
 北緯32度02分55秒  東経131度25分57秒

<標高、位置>   祇園様(ぎおんさま)
標高 約数 m
 北緯32度02分56秒  東経131度25分56秒

<標高、位置>   釈迦堂(しゃかどう)
標高 約数 m
 北緯32度02分54秒  東経131度25分45秒


 日本九峰修行供養碑は佐土原の修験者(山伏ともいいます) 野田泉光院の日本九峰修行供養碑で、50歳代で1812年10月から約6年間、佐土原から出発して、全国を歩きました。 金柏寺は伊東義祐が建立した彼の菩提寺といわれています。 金柏寺釈迦堂には木食上人が彫った木製の仏像があります。 1877年(明治10年)の西南戦争でこの堂宇は炎上しました。 人々はこの木製の仏像を救おうとして努力し、その上半身だけは取り出すことができました。


写真A: 古月禅師誕生地は県道326線のバス停 西田島 のところから北へ進んだところにあります。



写真B: この道を北に進みます。



写真C: 古月禅師誕生地に行く途中に、廃線になった国鉄の「妻線」の鉄橋が残っています。 この下付近で、私が10歳ぐらいの時、魚釣りをしたことがあります。



写真D: 佐土原佐賀利(さがり)にある古月禅師誕生地の説明板。 古月禅師は1667年9月12日に宮崎市佐土原町の佐賀利のこの地に男4人、女1人の3男として生まれました。 「東の白隠、西の古月」と称されたほどの江戸時代の禅宗中興の祖 古月禅師は、佐賀利瑞光院宗密和尚について学び、その後 松巌寺一道和尚に弟子入り、10歳で禅宗の仏門に入りました。 後に後島津の島津惟久の命により大光寺四十二世住職となり庶民の生活善導に心を配りました。 禅師の人生訓を歌い込んだ盆踊り唄「いろは口説」は有名で、今も町民に親しまれ、歌い継がれています。 説教の日は、寺院の内外に人が溢れ、彼が歩いた足跡の砂を持ち帰る人がいたほどだったそうです。 ここは宮崎市佐土原町下田島です。



写真E: 古月禅師誕生地の標識。
 古月禅師は、佐賀利で金丸家の4男として生まれ、10歳で佐土原の松巌寺(しょうがんじ) 一道和尚のもとで出家しました。 21歳で一道和尚に随行して京都に行き、近畿内と九州を行脚しました。 その後も徳島県、東京都、宮城県にも行きました。 古月禅師が28歳で宮城県にいたとき、一道和尚が亡くなられたという知らせを受け、佐土原に帰郷し、松巌寺を監護しました。 38歳で大光寺に入りました。 41歳で佐土原藩主 惟久の命を受け大光寺の42世住職になりました。 この後、古月禅師は本山の出世の拝請が来ても固辞し、九州地方を中心に布教活動を行いました。 古月禅師の下には、東北地方の雲水(若い僧)も少なくありません。



写真F: 古月禅師誕生地の石碑。 大正11年9月に建てられました。 臨済宗の中興の祖白隠と並び称され、東の白隠、西の古月と言われました。 1667年9月12日佐賀利で生まれました。 金丸という名字でした。
 禅の教えを分かりやすく説くために作った「いろは口説き」は、現在も盆踊り歌として親しまれています。 また寺を回りやすくするために、「佐土原33ヶ所巡拝歌」を作りました。



写真G: 古月禅師誕生地の石碑。 古月禅師は、佐土原の佐賀利で生まれ、1687年京都智勝院に入り、元禄年間 阿波、豊後を回って江戸に出ました。 1704年9月、大光寺住職 英山に請われ、大光寺第42代住職として帰ってきました。 5代佐土原藩主 惟久は深く帰依しました。 1751年5月筑後(久留米) 福聚寺において、85歳で亡くなられました。 遺言により火葬し、分骨して、5代、6代佐土原藩主の菩提寺 自得寺に葬られました。 この分骨も廃仏毀釈のときに、大光寺に移されました。



写真H: 古月禅師誕生地の石碑の裏。



写真I: 古月禅師誕生325年祭記念植樹でイチョウの木が植えられました。



写真J: 古月禅師誕生325年祭記念植樹で植えられたイチョウの木。



写真K: 古月禅師誕生地の角(すみ)にセンダンの木があります。



写真L: 古月禅師誕生地のセンダンの木には、穴があります。



写真M: 古月禅師誕生地の石碑には、発起人として、大光寺、松巌寺、高月院、誓念寺、称崇寺、吉祥寺(鬼子母神)などの文字が見えます。



写真N: 古月禅師誕生地の説明板、センダンの木、道の右は工場です。 



写真O: 「はぜ馬場とはぜの木」。 古月禅師誕生地の近くにあります。 ここは宮崎市佐土原町下田島です。 最後の佐土原藩主忠寛は、藩の財政の助けとして、ハゼ(ハジとも言います。)の木を植え、ロウを造らせ特産品にしました。 ここは武士たちの乗馬練習場でもありました。 それで ハゼ馬場 と言われました。



写真P: これは国鉄時代まであった妻線(広瀬駅から杉安駅までの単線)の跡です。 ここではぜ馬場の道路と交差していました。



写真Q: 「はぜ馬場と、はぜの木」の説明板。 この道は、その昔、城下町と藩の米倉庫のあった佐賀利や徳ヶ渕の港に通じる重要な産業道路でした。 この道路脇に沿って、はぜの木が植えられ、お侍さんがこの道で馬をとばすので、誰言うとなく「はぜ馬場」と言うようになりました。 1870年ごろ、はぜの木が植えられました。 そのころは佐土原藩は、財政に行き詰まり、立て直しのために藩内各地の道路脇や空き地に はぜの木 を植えさせ、その実からローソクを製造し、藩の専売品として大阪に送り出し、現金収入をはかったのです。 佐土原にとって、この はぜ は工業生産導入の第一歩となりました。 世が変わり、昔を物語るその面影を残すのは、ここ「はぜ馬場」のはぜの木だけになりました。



写真R: 平成4年6月に建てられた「はぜ馬場と、はぜの木」の説明板。



写真S: 「はぜ馬場のはぜ並木」は宮崎市指定史跡になっています。



写真T: ここの「はぜの実」です。 昔、この実でローソクを作っていました。



写真U: 佐土原の修験者(山伏ともいいます) 野田泉光院の日本九峰修行供養碑の標識。 ここは、安宮寺跡です。 安宮寺は島津家の祈願寺として大切にされましたが、明治初期の廃仏毀釈で廃寺になりました。 奥にその石碑が見えています。 野田泉光院の墓は宝塔山の大光寺登山口からの階段を上ったところにあります。 泉光院は真言宗安宮寺の8代目住職で、修験僧であり、当時最高水準の知識人であり、高僧でした。泉光院は「日向の小天狗(こてんぐ)」、西の松尾芭蕉とも言われます。 新城にある安宮寺跡に泉光院の「日本九峰修行供養碑」もあります。 泉光院は藩内 修験者 八代の頭領でした。 泉光院は56歳で1812年10月から6年2ヶ月間、佐土原から出発して、全国を歩きました。 全国の山伏寺を回る旅でした。 足を入れてないのは、北海道、沖縄、青森、岩手、香川、徳島、高知県だそうです。 そのとき、書いた日記が残っていて、講談社から「泉光院江戸旅日記」(石田英輔 著)が出ているそうです。 この日記は当時の庶民の生活資料として、高く評価されています。 この6年間、一度も野宿はしなかったそうです。 泊めてくれる人がいつもいたのでしょう。 いっしょに30歳代でお供をした斉藤平四郎の墓は誓念寺の墓地にあります。
 ここは宮崎市佐土原町上田島です。



写真V: 野田泉光院の石碑。 泉光院は藩内 修験者 八代の頭領でした。
 野田泉光院の日本九峰とは(1) 英彦山 (2) 石鎚山 (3) 箕面山 (4) 金剛山 (5) 大峯山 (6) 熊野山 (7) 富士山 (8) 羽黒山 (9) 湯殿山 だと泉光院は言っていますが、実際はもっと多くの山に登りました。
 九州・・阿蘇山 太郎岳(多良岳)黒髪山 求菩提山(くぼてやま)、  山陰・・妙見山 大江山 三滝山(三岳山)、 山陽・・後山 瑜伽(ゆか)山、 近畿・・比叡山 朝熊(あさま)山 愛宕山、 北陸・・白山 石動山 立山、 東海・・光明山 秋葉山、 信越・・浅間山 米山、 関東・・行道山 中ノ岳(妙義) 八溝山 加波・足尾山 筑波山 鹿野(かのう)山、 奥羽・・月山 鳥海山 金華山 水晶山 にも野田泉光院は登りました。


写真W: 修験者(山伏) 野田泉光院の石碑。



写真X: 修験者(山伏) 野田泉光院の石碑。 供(そな)え物がありました。



写真Y: 佐土原 愛宕神社(あたごじんじゃ)の夏祭りで「ダンジリの喧嘩(けんか)」が行われます。 以前は、旧 佐土原役場の前の道で行われていましたが、今は、国鉄 西佐土原駅(昔の佐土原駅)跡の広場で開催されます。 ここは宮崎市佐土原町上田島です。



写真Z: 佐土原の「ダンジリ喧嘩祭り」は、赤団と青団に分かれ、ぶつかり合います。 これは赤団の試合の前の様子です。
 左手前に、子供や女の子も赤団の着物を作ってもらい、着ています。 晴れ姿です。 ダンジリ喧嘩のときは、もちろん危険防止のために子供は見て声援しているだけです。
子供ダンジリは3台(赤2台、青1台)あり、これを100人以上の子供が担ぎます。
喧嘩より前の日は、は「サッサイ、サッサイ」と大きな声で、太鼓を打ちながら町内を練り歩きます。
大人のダンジリは約1.2トンで、50人がまわりに付きます。 同時に担いでいるのは35人ほどです。 一人あたり、34キログラムを担ぐことになります。 もちろん、喧嘩の時にはこれ以上の力がかかります。



写真AA: 「ダンジリ喧嘩祭り」。 駅跡の広場にテントも張られ、人々も集まってきました。 2台の消防自動車も来ています。 開始と終了の時にサイレンを鳴らします。



写真AB: 「ダンジリ喧嘩祭り」。 試合前の青団の様子です。
 ダンジリは御輿(みこし)を大きく、頑丈(がんじょう)にした様なものです。左から3人目の若者は、大きな「青の団扇(うちわ)」を持っていますが、この人など4人が、ダンジリ喧嘩のときにダンジリの屋根の上に登って、喧嘩の指揮(各一名)と気合い入れを行います。 喧嘩の時は、ダンジリ内のタイコははずします。
喧嘩は、10分で勝負がつかないときは休息が入ります。 審判が両者を離します。 3回喧嘩をしても勝負がつかないときは、その年は引き分けになります。
 中に太鼓(たいこ)が入れてあり、柱の所に座った人がたたきます。
 太鼓をたたく人を乗せて、町を練り歩きます。 この太鼓の音で、町中がお祭り気分になります。 町を練り歩くときの太鼓のたたき方は「どんどんどん どでどんどでどんどでどん サッサイ(これはかけ声)」です。 また、調子の速いドロスコと言う打ち方もあります。 試合の前日は試合の予行演習があります。 これは赤団と青団のダンジリが押し合うだけです。
 電柱のような丸棒を4本水平に付け、そこを担(かつ)いだり押したりします。 ダンジリは車は付いていませんが、傾けたり、回転させたり、コジッタリして、喧嘩の戦法を考えます。
 私が幼児の時に、おじいさんがダンジリ用の タイコばち を木で作ってくれ、名前を毛筆で書いてくれました。 当時も、子供用の小さなダンジリ(子供ダンジリ)があって、父が、私を乗せてくれたことを覚えています。 佐土原の男の子は小さな時から、ダンジリダイコのたたき方を練習して、身につけています。



写真AC: 「ダンジリ喧嘩祭り」。 お巡(まわ)りさんも会場整理に来ています。



写真AD: 「ダンジリ喧嘩祭り」。 駅跡の会場には、地面に白線が3本(仕切り線)引かれています。



写真AE: 会場前の酢屋さんです。



写真AF: 「ダンジリ喧嘩祭り」。 青団、赤団のダンジリが会場にそろいました。 この直前に、赤団は生ビール、青団は湯飲みで焼酎(しょうちゅう)が配られました。 アルコールを入れて、闘志をかき立てます。



写真AG: 「ダンジリ喧嘩祭り」。 代表者が、それぞれのダンジリの屋根の上に登りました。 屋根の上には赤団、青団、それぞれ4人が乗り、大きな赤と青の団扇(うちわ)を持ち戦法に従って、指揮(指揮者は各1名)と気合い入れを行います。



写真AH: ダンジリ喧嘩祭りが、消防車のサイレンの音と同時に開始されました。



写真AI: 「ダンジリ喧嘩祭り」。 土煙が上がっています。 右手奥には、テレビ局が足場を組んで撮影しています。 右端に棒の先のマイクも見えています。



写真AJ: 「ダンジリ喧嘩祭り」。 現在、喧嘩は互角です。 右方で腰を落として、見ている半分が赤、半分が青の着物姿のおじさんは審判員です。 この人が勝ち負けを宣告します。 審判員は2名います。



写真AK: 「ダンジリ喧嘩祭り」。 傾いて赤団のダンジリの屋根が見えています。 赤団の団扇(うちわ)を持った指揮者は、まだ必死につかまって、指揮を執っています。 右手前の審判員の着物を見てください。 赤と青半分ずつの着物を着ている人が審判員です。



写真AL: 「ダンジリ喧嘩祭り」。 青団が優勢のようです。



写真AM: 「ダンジリ喧嘩祭り」。 ダンジリ屋根が地面に着いた方が負けになるので、赤団の担(かつ)ぎ手は、必死で支えています。



写真AN: 「ダンジリ喧嘩祭り」。 赤団のダンジリの屋根が地面に着いて、審判員が勝ち負けを宣告しました。 すぐに消防車のサイレンが鳴らされ、ダンジリ喧嘩は終わりました。



写真AO: 「ダンジリ喧嘩祭り」。 「青団大勝利」 の大きな幟(のぼり)が青のダンジリの上に掲げられました。 人々が毎年楽しみにしている佐土原 「ダンジリ喧嘩祭り」は終わりました。



写真AP: ダンジリ喧嘩祭りの日 (愛宕神社大祭)の佐土原町 上田島の上中小路です。 料理屋の「太田屋」が中央に見えます。 しめ縄、御幣 (ごへい)、提灯 (ちょうちん)が両側にあります。 愛宕神社大祭の幟 (のぼり)も見えます。 手前に進むと佐土原小学校があります。



写真AQ: ダンジリ喧嘩祭りの日 (愛宕神社大祭)の 宮崎市 佐土原町 上田島の本町です。 出店があります。 提灯 (ちょうちん)もあります。 食堂の「三万石」が見えます。 上田島交差点です。 手前に進むと西都市に行きます。



写真AR: 上田島交差点です。 提灯 (ちょうちん)に明かりが点 (つ)いています。 左の道を奥に進むと西佐土原駅跡 (ダンジリ喧嘩の会場)に行きます。



写真AS: 東を見たものです。 上田島交差点。 左右に出店があります。 両側に提灯 (ちょうちん)があります。



写真AT: 上田島交差点。 こちらにも出店があります。



写真AU: 西を見たものです。 上田島交差点。 出店が並んでいます。 提灯 (ちょうちん)が見えます。 先に進むと西都市に行きます。



写真AV: 旧 西佐土原駅の北側沿いの道を西に進むと、大きなクスノキが右手に見えてきます。 これが宮崎市佐土原町上田島にある水神様(下之川水神宮)の鎮守の森です。 夏の祭りの時には、出店が出ます。



写真AW: ここを右に階段を下ります。 水神様(下之川水神宮)の石の鳥居(とりい)が見えています。 左の木の陰に水神様の社殿が見えています。 夏の祭りの時には、出店が出ます。



写真AX: 水神様(下之川水神宮)に下る階段。 左に井戸の手押しポンプが見えています。 このように水神様は低いところにあります。 2005年の台風の時には、水神様の社殿の床が水に浸(つ)かりました。



写真AY: 宮崎市佐土原町上田島にある水神様(下之川水神宮)の鳥居と社殿、御手洗(みたらい)、石碑(せきひ)などが見えています。 夏の祭りの時には、出店が出ます。



写真AZ: 水神様(下之川水神宮)の境内(けいだい)には、大きな楠(くすのき)が2本あります。



写真BA: 水神様(下之川水神宮)の境内。 見えにくいですが、この所に相撲の土俵があります。



写真BB: 境内の北側には、一ッ瀬川の支流が流れています。 昭和時代の初め頃、佐土原小学校の上級生たちは、先生に連れられてこの川に水遊びに来ていたそうです。 そのあたりは、「へはれ」と呼んでいたそうです。 そのころは、まだ水神様に錨(いかり)は奉納されていなかったそうです。



写真BC: 水神様(下之川水神宮)の境内の北側には、一ッ瀬川の支流が流れています。 昭和時代の初め頃、佐土原小学校の上級生たちは、先生に連れられてこの川に水遊びに来ていたそうです。 そのあたりは、「へはれ」と呼んでいたそうです。 そのころは、まだ水神様に錨(いかり)は奉納されていなかったそうです。



写真BD: 大きな楠(くすのき)の下には、「紀元2600年記念」と彫(ほ)られた石碑(せきひ)。 下段には、「玉垣 参道建設」と彫られています。 昭和15年4月吉日建立。



写真BE: 「紀元2600年記念」と彫(ほ)られた石碑(せきひ)。 下段には、「玉垣 参道建設」と彫られています。 昭和15年4月吉日建立。



写真BF: 大きなクスノキの下には、鳥居奉納者が彫(ほ)られた石碑があります。 太田弥兵衛さんなどの名前が見えます。



写真BG: 水神様(下之川水神宮)の社殿。 夏の祭りの時には、出店が出ます。



写真BH: 水神様(下之川水神宮)の社殿に掛(か)けてある額。 「下之川水神宮」と書かれています。 後ろの白い丸いものは、電球のカサです。



写真BI: 水神様(下之川水神宮)の社殿の中。 手前はお賽銭箱(さいせんばこ)。



写真BJ: 水神様(下之川水神宮)の境内。 大きなクスノキ、鳥居、石碑、御手洗(みたらい)があります。 クスノキの右側に、船の大きな錨(いかり)が小さく見えています。 この錨(いかり)は2000年頃に奉納されたものです。



写真BK: 「下之川水神宮 再建記念碑 昭和57年7月吉日竣工」と書いてある石碑(せきひ)。



写真BL: 水神様(下之川水神宮)の御手洗(みたらい)。



写真BM: 「奉寄進 石灯籠(いしどうろう)一基、宝暦(江戸中期、1751年−1764年) 8年6月吉日建立」と彫(ほ)られた石碑。



写真BN: 御手洗(みたらい)のそばにある大きなクスノキの下に、船の錨(いかり)が見えています。 この錨(いかり)は2000年頃に奉納されたものです。 夏の祭りの時には、出店が出ます。



写真BO: 船の「大きなイカリ」が奉納してあります。 この錨(いかり)は2000年頃に奉納されたものです。



写真BP: 社殿の北側の木に、アブラゼミが2匹とまっているのが見えています。



写真BQ: 宮崎市佐土原町上田島にある水神様(下之川水神宮)の境内から見た、北側の景色。 真ん中の大きな山は尾鈴山(標高 1405 m)です。



写真BR: 宮崎市佐土原町上田島では、日本酒と、焼酎(しょうちゅう)が作られていました。 これは日本酒を搾(しぼ)ったりした建物で、はしごを掛けて上に上がる大きな木の桶(おけ)が入っていた「蔵(くら、酒蔵)」です。 昔は、日本酒の蔵、焼酎の蔵、もろ(室(むろ)、麹室(こうじむろ)、平釜に炭を入れて暖める部屋で、米麹(こめこうじ)を作る部屋)、地下のタンク、2つの井戸、大きな桶(おけ)を洗うスノコがあるところなど、いくつも建物がありました。 この残っているものは大正時代より前からの蔵(くら)で、歴史的に貴重な建物です。



写真BS: 宮崎市佐土原町上田島では、日本酒と、焼酎(しょうちゅう)が作られていました。 これは日本酒を搾(しぼ)ったりした建物で、はしごを掛けて上に上がる大きな木の桶(おけ)が入っていた「蔵(くら、酒蔵)」です。 昔は、日本酒の蔵、焼酎の蔵、もろ(室(むろ)、麹室(こうじむろ)、平釜に炭を入れて暖める部屋で、米麹(こめこうじ)を作る部屋)、地下のタンク、2つの井戸、大きな桶(おけ)を洗うスノコがあるところなど、いくつも建物がありました。 この残っているものは大正時代より前からの蔵(くら)で、歴史的に貴重な建物です。



写真BT: 佐土原の曼荼羅寺跡(まんだらでらあと)の標識。 近くにNTT の施設があります。 曼荼羅寺跡は、昭和初期まで舞鶴座という芝居小屋(のち映画館)があり歌舞伎(佐土原歌舞伎)や芝居でにぎわいました。 ここは宮崎市佐土原町上田島です。



写真BU: 曼荼羅寺跡の説明板。 昔、ここに曼荼羅寺(浄土宗)がありました。 1539年に如法大姉(にょほうだいし)によって建てられました。 伊東三位入道義祐の保護を受けて、上皇から賜った衣服をほどいて、曼荼羅一幅を織り曼荼羅寺を開きました。 お寺は明治時代初めの廃仏毀釈で取り壊されるまで続きました。 この曼荼羅は現在、高月院に保管されています。 曼荼羅小路(まんだらこうじ)の地名は今でも残っています。



写真BV: 曼荼羅寺跡には、明治42年に建てられた石碑があります。



写真BW: 佐土原の祇園様(ぎおんさま、八坂神社)。 NTT の施設のそばにあります。 鳥居、社殿が見えています。 ここは宮崎市佐土原町上田島です。



写真BX: 佐土原の祇園様(八坂神社)の説明板。 島津氏が治める前に治めていた、田島(伊東の分家)祐明(初代) の娘(安姫)が恋を貫いたため、非業の最期を遂げました。 安姫は安宮姫とも言います。 安姫は美男の猿楽師と恋仲になりました。 それを知った祐明は姫を池(祇園社の月宮池、今は池はなくなり祇園社が建っています。)に投げ込んだりした末に、現王口で斬り、相手の猿楽師も八日町で惨殺しました。 その後、田島氏にいろいろ不幸が起こったため、安姫を安姫大明神として宝塔山の東側に祀(まつ)ったそうです。 その墓も残っています。 猿楽師は宝塔山の西側にある稲荷神社に祀りました。 なお、安姫は最後の領主の娘とする説もあります。



写真BY: 祇園様にある石灯籠(いしどうろう)。 佐土原藩第一家老の樺山久寛が奉納したもの。



写真BZ: 佐土原の祇園様にある石造物。



写真CA: 佐土原の祇園様にある石像と御手洗(みたらい)。



写真CB: 「石散燈」の説明板。 正確には、石敢當(せきかんとう) と言います。 佐土原藩時代 T字型 に交差する道路の突き当たりは魔物のたまり場と恐れられ、自然とここに「魔よけ」の石敢當が建立されました。 この風習は中国から沖縄へ、次いで薩摩藩内へ定着しながら佐土原へ、特にT字交差点の多い当城下商人町には、数多く見られたそうですが、現在は下中小路に残されたこの一基のみです。 ここは宮崎市佐土原町上田島です。



写真CC: 小さな祠(ほこら)の中の石が石敢當(せきかんとう)です。 右奥の建物は、元、佐土原町役場(今は佐土原地区公民館)です。 昔は、ここも金柏寺がありました。 金柏寺は明治4年の廃仏毀釈で廃寺になりました。
室町時代に日向国を治めていた伊東義祐(よしすけ)は、1562年に世継ぎの義益に家督をゆずり本拠地の都於郡城(とのこおり城)から支城の佐土原城に移り住みました。 (一般に、地方の守護大名は城下を小京都化しました。) 将軍足利義晴に献金し、義晴の義の字をもらい「義祐」と改名しました。 佐土原、都於郡に京都、奈良をまねした寺、神社を建て、祇園(ぎおん)、愛宕(あたご)、五条などの地名を付けました。 ここにあった金柏寺は1552年に伊東義祐が京都金閣寺をまねて作ったもので、寄進した鐘(かね)の銘文に自分のことを「日薩隅三州ノ太守」と書いています。
日向、薩摩、大隅の三州を領したいという願望から「三州ノ太守」と書いたのでしょう。
金柏寺の鐘は「三州太守」の銘文を鹿児島藩が嫌ってはずされていました。 江戸幕末の1854年幕府参与の前水戸藩主徳川斉昭(なりあき)が、黒船来襲に供え「梵鐘取り上げ武器鋳造」を献策し、鹿児島藩主島津斉彬(なりあきら)は従いました。 1863年金柏寺の鐘を大砲に作り替えるため、高岡商人の炭船で大淀川から鹿児島に搬出しました。 薩英戦争のイギリス艦隊の砲撃で鹿児島の海岸に沈みました。 後年この鐘は引き上げられたそうです。
<参考>
 三財川をはさんで都於郡城の対岸にある「下三財神社」の境内にある「六地蔵塔(1569年(永禄12年)建立)」にも「三州太守」の文字が彫(ほ)られています。 もとは「奉為前三州太守桂圓(円)法光速証大覚位」と彫(ほ)られていました。 今は島津によって加筆され「三州」が「日州」になっています。
 桂圓(円)法光(けいえんほうこう)は伊東善益(よします)の戒名です。 伊東義祐(よしすけ、室町時代)は日向侵略を図る島津に破れ、1577年(天正5年)に大分県(豊後)に逃れました。 それで、後にこの地を支配した島津が「三州」に加筆して「日州」にしたと伝えられています。
 この六地蔵塔は都於郡城(本拠地)を世継ぎの善益(よします)にゆずり(1562年(永禄5年))、佐土原城に居た伊東義祐(よしすけ)が建てたものです。 善益(よします)はこの下三財神社に籠(こ)もって祈願中に24歳で急死しました。 これを供養するために立てられた六地蔵塔(1569年(永禄12年)建立)で、「三州」は日向(ひゅうが)、大隈(おおすみ)、薩摩(さつま)を指(さ)します。 太守は国主大名の意味です。
 (伊東義祐は三州制覇を願って三州の太守を自称していました。 1552年(天文21年)に佐土原小学校の隣の所に建てられた金柏寺(きんぱく寺)の鐘(かね)の銘文にも自己を「日薩隈三州ノ太守」と記しています。 金柏寺(京都金閣寺になぞらえたと言われています)の鐘は「三州太守」の銘文を島津藩が嫌ってはずされていました。 この鐘は江戸時代末期(1863年)に大砲に鋳造(ちゅうぞう)するため、高岡商人の炭船で大淀川から鹿児島に搬出されました。 薩英戦争のイギリス艦隊の攻撃で鹿児島の海岸に沈みましたが、後年引き上げられたそうです。)




写真CD:  「石散燈(石敢當(せきかんとう))」。 T字路の突き当たりに建てる魔よけの石です。 「敢闘するところ敵なし」の意味だそうです。 「いしがんとう」が本来の呼び方ですが、佐土原では「せっかんとう」と呼ばれています。 散は敢の間違いと思われます。



写真CE: 佐土原の追手川の釈迦堂橋(しゃかどうはし)。 左に金柏寺釈迦堂が見えています。



写真CF: 佐土原の金柏寺釈迦堂。 ここは宮崎市佐土原町上田島です。
室町時代に日向国を治めていた伊東義祐(よしすけ)は、1562年に世継ぎの義益に家督をゆずり本拠地の都於郡城(とのこおり城)から支城の佐土原城に移り住みました。 (一般に、地方の守護大名は城下を小京都化しました。) 将軍足利義晴に献金し、義晴の義の字をもらい「義祐」と改名しました。 佐土原、都於郡に京都、奈良をまねした寺、神社を建て、祇園(ぎおん)、愛宕(あたご)、五条などの地名を付けました。 ここにあった金柏寺は1552年に伊東義祐が京都金閣寺をまねて作ったもので、寄進した鐘(かね)の銘文に自分のことを「日薩隅三州ノ太守」と書いています。
日向、薩摩、大隅の三州を領したいという願望から「三州ノ太守」と書いたのでしょう。
金柏寺の鐘は「三州太守」の銘文を鹿児島藩が嫌ってはずされていました。 江戸幕末の1854年幕府参与の前水戸藩主徳川斉昭(なりあき)が、黒船来襲に供え「梵鐘取り上げ武器鋳造」を献策し、鹿児島藩主島津斉彬(なりあきら)は従いました。 1863年金柏寺の鐘を大砲に作り替えるため、高岡商人の炭船で大淀川から鹿児島に搬出しました。 薩英戦争のイギリス艦隊の砲撃で鹿児島の海岸に沈みました。 後年この鐘は引き上げられたそうです。
<参考>
 三財川をはさんで都於郡城の対岸にある「下三財神社」の境内にある「六地蔵塔(1569年(永禄12年)建立)」にも「三州太守」の文字が彫(ほ)られています。 もとは「奉為前三州太守桂圓(円)法光速証大覚位」と彫(ほ)られていました。 今は島津によって加筆され「三州」が「日州」になっています。
 桂圓(円)法光(けいえんほうこう)は伊東善益(よします)の戒名です。 伊東義祐(よしすけ、室町時代)は日向侵略を図る島津に破れ、1577年(天正5年)に大分県(豊後)に逃れました。 それで、後にこの地を支配した島津が「三州」に加筆して「日州」にしたと伝えられています。
 この六地蔵塔は都於郡城(本拠地)を世継ぎの善益(よします)にゆずり(1562年(永禄5年))、佐土原城に居た伊東義祐(よしすけ)が建てたものです。 善益(よします)はこの下三財神社に籠(こ)もって祈願中に24歳で急死しました。 これを供養するために立てられた六地蔵塔(1569年(永禄12年)建立)で、「三州」は日向(ひゅうが)、大隈(おおすみ)、薩摩(さつま)を指(さ)します。 太守は国主大名の意味です。
 (伊東義祐は三州制覇を願って三州の太守を自称していました。 1552年(天文21年)に佐土原小学校の隣の所に建てられた金柏寺(きんぱく寺)の鐘(かね)の銘文にも自己を「日薩隈三州ノ太守」と記しています。 金柏寺(京都金閣寺になぞらえたと言われています)の鐘は「三州太守」の銘文を島津藩が嫌ってはずされていました。 この鐘は江戸時代末期(1863年)に大砲に鋳造(ちゅうぞう)するため、高岡商人の炭船で大淀川から鹿児島に搬出されました。 薩英戦争のイギリス艦隊の攻撃で鹿児島の海岸に沈みましたが、後年引き上げられたそうです。)



写真CG: 佐土原の金柏寺釈迦堂の門。 御手洗(みたらい)、説明板も見えています。



写真CH: 佐土原の金柏寺釈迦堂の門です。 追手川の釈迦堂橋のたもとにあります。



写真CI: 佐土原の金柏寺釈迦堂。



写真CJ: 金柏寺釈迦堂にある、凹んだ穴がたくさんある石です。



写真CK: 金柏寺釈迦堂の説明板。 金柏寺は伊東義祐が建立した彼の菩提寺といわれています。 現在、釈迦堂があり、20 cm ほどの金銅製の降誕釈迦仏の像が残り(背に金柏寺の記入あり)旧暦4月8日に、この像に甘茶をかけてお祭りするのが佐土原の「花まつり」です。 木食仏はこの堂に座る丈六仏です。 寛政8年の末、佐土原に木食上人が足をとどめました。 人々が懇願して、金柏寺釈迦堂に安置する釈迦仏を彫ってもらいました。 1877年(明治10年)の西南戦争で堂宇は炎上しました。 人々はこの木造仏を救おうとして努力し、その上半身だけは取り出すことができ、現存しています。
室町時代に日向国を治めていた伊東義祐(よしすけ)は、1562年に世継ぎの義益に家督をゆずり本拠地の都於郡城(とのこおり城)から支城の佐土原城に移り住みました。 (一般に、地方の守護大名は城下を小京都化しました。) 将軍足利義晴に献金し、義晴の義の字をもらい「義祐」と改名しました。 佐土原、都於郡に京都、奈良をまねした寺、神社を建て、祇園(ぎおん)、愛宕(あたご)、五条などの地名を付けました。 ここにあった金柏寺は1552年に伊東義祐が京都金閣寺をまねて作ったもので、寄進した鐘(かね)の銘文に自分のことを「日薩隅三州ノ太守」と書いています。
日向、薩摩、大隅の三州を領したいという願望から「三州ノ太守」と書いたのでしょう。
金柏寺の鐘は「三州太守」の銘文を鹿児島藩が嫌ってはずされていました。 江戸幕末の1854年幕府参与の前水戸藩主徳川斉昭(なりあき)が、黒船来襲に供え「梵鐘取り上げ武器鋳造」を献策し、鹿児島藩主島津斉彬(なりあきら)は従いました。 1863年金柏寺の鐘を大砲に作り替えるため、高岡商人の炭船で大淀川から鹿児島に搬出しました。 薩英戦争のイギリス艦隊の砲撃で鹿児島の海岸に沈みました。 後年この鐘は引き上げられたそうです。
<参考>
 三財川をはさんで都於郡城の対岸にある「下三財神社」の境内にある「六地蔵塔(1569年(永禄12年)建立)」にも「三州太守」の文字が彫(ほ)られています。 もとは「奉為前三州太守桂圓(円)法光速証大覚位」と彫(ほ)られていました。 今は島津によって加筆され「三州」が「日州」になっています。
 桂圓(円)法光(けいえんほうこう)は伊東善益(よします)の戒名です。 伊東義祐(よしすけ、室町時代)は日向侵略を図る島津に破れ、1577年(天正5年)に大分県(豊後)に逃れました。 それで、後にこの地を支配した島津が「三州」に加筆して「日州」にしたと伝えられています。
 この六地蔵塔は都於郡城(本拠地)を世継ぎの善益(よします)にゆずり(1562年(永禄5年))、佐土原城に居た伊東義祐(よしすけ)が建てたものです。 善益(よします)はこの下三財神社に籠(こ)もって祈願中に24歳で急死しました。 これを供養するために立てられた六地蔵塔(1569年(永禄12年)建立)で、「三州」は日向(ひゅうが)、大隈(おおすみ)、薩摩(さつま)を指(さ)します。 太守は国主大名の意味です。
 (伊東義祐は三州制覇を願って三州の太守を自称していました。 1552年(天文21年)に佐土原小学校の隣の所に建てられた金柏寺(きんぱく寺)の鐘(かね)の銘文にも自己を「日薩隈三州ノ太守」と記しています。 金柏寺(京都金閣寺になぞらえたと言われています)の鐘は「三州太守」の銘文を島津藩が嫌ってはずされていました。 この鐘は江戸時代末期(1863年)に大砲に鋳造(ちゅうぞう)するため、高岡商人の炭船で大淀川から鹿児島に搬出されました。 薩英戦争のイギリス艦隊の攻撃で鹿児島の海岸に沈みましたが、後年引き上げられたそうです。)



写真CL: 金柏寺釈迦堂の御手洗(みたらい)。



写真CM: 佐土原の金柏寺釈迦堂の石碑。



写真CN: 佐土原の金柏寺釈迦堂。



写真CO: 佐土原の金柏寺釈迦堂の中。 右の木像が西南戦争で建物が焼け、上半身だけ残っている木食上人が彫(ほ)った木製の仏像。 金柏寺釈迦堂の中にある木喰仏は、1797年当時80歳の木喰上人が愛宕神社社務所わきの池に浮かべて釈迦像を彫ったと言われています。



写真CP: 佐土原城の外堀跡(そとぼりあと)。 お堀の残っている石垣が見えています。 奥の建物は佐土原小学校。



写真CQ: 佐土原藩校「学習館」跡の標識。 佐土原小学校の門のそばにあります。 ここは宮崎市佐土原町上田島です。



写真CR: 学習館の門札。 学習館は1825年に出来ました。 開校前年、御牧赤報(みまきせきほう)を師範として迎えることに賛成の文教派と反対する武道派(鴫之口(しぎのくち)弓場組中心)で争いになり、処理できずに宗藩に裁定を仰ぎました。 その結果、武道派13人が奄美大島などに流罪になりました。 学習館は明治2年広瀬転城で、石崎川南に移りましたが、明治5年の学制公布により無くなりました。



写真CS: 佐土原藩の藩校「学習館」の門。 今は、佐土原小学校の門になっています。 この門は復元されたものです。



写真CT: 商家資料館。 「商家 旧阪本家」。 宮崎市指定有形文化財になっています。 郵便局の近くにあります。 この前の道は、旧 飫肥街道(おびがいどう)です。 ここは宮崎市佐土原町上田島です。



写真CU: 「商家資料館」。



写真CV: 商家資料館の説明板。 この建物は明治38年に造られました。 阪本家は江戸時代から続いた味噌・醤油醸造販売を営む旧商家でした。 明治期を語る商家建造物として保存することになりました。



写真CW: 商家資料館の玄関。



写真CX: 昔の用水溝。 



写真CY: 用水溝の説明板。 佐土原町の町人町は、道路から戸を開けて、一歩踏み込んだ土間に水路があり、きれいな水が流れていました。 この水は防火用水の役割を持っていました。



写真CZ: 裏から見た商家資料館 旧阪本家の建物。 普通の町屋は、間口3間の奥に長い形をしていますが、阪本商家は周囲3軒を購入したものと思われます。



写真DA: 商家資料館 旧阪本家の中。 柱は2階までの通し柱で、四面正目(まさめ)です。 廊下(ろうか)は桜の木で作られています。 桜の木は桧(ひのき)より良く、高級なものだそうです。 桜の木などは米良で切り出し、一ッ瀬川を筏(いかだ)に組んで運んできたそうです。 佐土原町時代にこの家を町に寄贈し、町は1700万円かけて軒(のき)などを改修しました。 第二次世界大戦直後の台風で瓦が飛び雨漏りし、一部、壁にシミが残っています。 この家を建てられた方のお孫さんに貴重なお話を伺うことができました。 御礼申し上げます。



写真DB: 宮崎市指定文化財 「商家資料館」の旗。 この前の道は、旧 飫肥街道(おびがいどう)です。



by 南陽彰悟 (NANYO Shogo)