霞神社、皇子原公園、皇子原神社、狭野神社 (かすみ神社、おうじばる公園、おうじばる神社、さの神社)  (宮崎県西諸県郡高原町)







<標高、位置>  霞神社は
標高 約310 m
 北緯31度55分20秒  東経131度02分59秒

<標高、位置>  狭野神社は
標高 約270 m
 北緯31度54分31秒  東経130度58分12秒

<標高、位置>  皇子原公園は
標高 約330 m
 北緯31度54分27秒  東経130度57分39秒

<標高、位置>  皇子原神社は
標高 約350 m
 北緯31度54分23秒  東経130度57分34秒


 霞神社は宮崎県西諸県郡 高原町大字後川内にあり、主祭神はオオアナムチノミコト(大国主命)、スクナビコナノミコト、ウケモチノミコト(豊受姫命)です。 白蛇様の神社として知られています。 都城市高崎町と高原町の境界に近い霞ヶ丘(標高 約310 m)にあります。 古くは霞権現(かすみごんげん)と呼ばれ、畜産の神様として信仰されました。 霧島六所権現(第62代村上天皇の時代(平安時代中期、946年−967年)に性空上人によって霧島六所神社権現が創建されました。 霧島神宮、霧島岑神社(きりしまみねじんじゃ)、霧島東神社、東霧島神社、狭野神社、夷守神社(明治時代に霧島岑神社に合祀)、の6社です。 今は、日向三代の神々が祭られていますが、元々は霧島山を信仰の対象とする山岳信仰の修験者(しゅげんじゃ)たちの拠点でした。 道場は霧島山でした。)の1つである狭野神社(さのじんじゃ)の別当寺でした。 山岳宗教(霧島信仰)修験者の修行場で、五色の蛇と呼ばれる白蛇(白蛇様)が境内の馬頭観音神社の岩々の隙間(すきま)にいて、その姿を見ると幸せになると言われています。 新修は1815年(文化12年)に薩摩島津藩主によって為されました。

 皇子原公園(おうじばるこうえん)は宮崎県西諸県郡 高原町大字蒲牟田にあります。 高原町一帯を見下ろす高原(標高 約330 m)にあります。 公園の真ん中付近に皇子原神社(おうじばるじんじゃ)、5世紀後半から6世紀前半に造られた6基の古墳、神武の館、民族体験資料館、公園管理事務所、遊具類(ミニSL 、バッテリーカー、ゴーカート)、修景水路、ジャブジャブ池、森林浴遊歩道、自然渓流釣り場、テニスコート、バンガロー、バーベキュウー棟、ちびっ子ゲレンデ、ローンスキー、ローラースライダー、たかはる清流らんどなどがあります。 大正14年のトロッコ道建設のときに、6号古墳付近から土器が出土しました。 神武天皇が生まれたところと言われています。 南西に高千穂峰が見えます。 公園内には霧島に降った雨が永年たった後、湧(わ)きだしています。 この水は高崎川に流れていきます。 公園の斜面からは東方向がよく見えます。

 皇子原神社(おうじばるじんじゃ)は、皇子原公園の中の高いところ(標高 約350 m)にあり、1号古墳の上にあります。 狭野神社(さのじんじゃ)の末社です。 石を撫(な)でて安産祈願する「産婆石(うべし)」という石が社(やしろ)のすぐ裏にあります。 これは神武天皇が生まれた産屋があったところと言われています。

 狭野神社(さのじんじゃ)は宮崎県西諸県郡 高原町大字蒲牟田にあります。 御祭神は神武天皇です。 霧島六所権現(第62代村上天皇の時代に性空上人によって霧島六所神社権現が創建されました。)の1つです。 以前は宮崎神宮別宮でしたが、昭和51年(1976年)から別表神社です。 神武天皇がお生まれになった地に、第5代孝昭天皇の時代(紀元前475年−紀元前393年、実在するという説もありますが、一般的には実在しないとされています。)に創建されました。 霧島の噴火で焼失と遷座を繰り返し、慶長15年(1610年)、別の説では第30代敏達天皇(びたつてんのう)のとき(6世紀中頃)に高千穂峰の麓(ふもと)の皇子原(社殿から約1 km南にあります。)から、今の場所(狭野)に移りました。 現在の社殿は明治40年に建てられました。 参道の大杉(狭野の大杉)は樹齢400年で、大正13年(1924年)に国の天然記念物に指定されました。 明治40年に宮崎神宮は狭野杉を使って造られ、それまでの宮崎神宮の本殿などは狭野神社に移設されました。 日本書紀によると、狭野尊(さののみこと)は神武天皇の幼名です。 狭野は生誕の地名で、その跡に狭野神社が創建されたと伝えられています。 秀吉の朝鮮出兵の時、文禄元年(1592年)に島津義弘は出陣を命じられました。 そのとき狭野神社に戦勝祈願をしました。 帰った後、慶長5年(1600年)に家臣の新納忠元を狭野神社に送って杉の苗(なえ)を奉納しました。 参道の杉はその時のものですが、枯れたものも多く若木も植えられています。 また、狭野神楽(さのかぐら)、御田植祭もあります。


写真A: 霞神社(かすみじんじゃ)の一の鳥居(とりい)です。 手前は車道があります。 杉の御神木にしめ縄がしてあります。 奥に階段が見えています。 これを登って本殿に行きます。 本殿は奥の霞ヶ丘の上にあります。 左に駐車場があります。



写真B: 霞神社(かすみじんじゃ)の一の鳥居(とりい)にある額(がく)。 「霞神社」と書いてあります。



写真C: 杉の御神木にしめ縄がしてあります。 社殿に上る階段、石灯籠(いしどうろう)、左に説明板も見えます。 左に駐車場があります。



写真D: 「霞神社(白蛇様)由来」の看板(かんばん)。
当地より、南西の位置にそびえる霧島連山は、往古から、山岳信仰の一大中心地として、多くの人々の心をとらえてまいりました。
 霧島山麓に鎮座する当神社の由来を示す歴史的な遺物として確認できるものが、境内にはいくつかあります。 文化(1804年ー1818年)12年の年号が刻(きざ)まれた石灯籠(いしどうろう)など数基が、25代島津藩主のお取り立てにより、当神社に奉納されています。
 「霞」とは、修験道の縄張りを意味する言葉であることから、かっての六所権現参りを行う前に、修験者達が当所に詣(もう)で、白蛇様の棲息(せいそく)する山頂岩座を依代(よりしろ)にして、修行の無事と世の安泰を祈願いたしました。 白蛇様との出会いを求めて、石巌の縫隙(ほうげき、割れ目)に目をやる修験者達の往古の姿が尊くも厳(おごそ)かに思い偲(しの)ばれます。 太古の昔より、当地山頂岩座に棲息するこの白蛇様は、現在もなお、遠近を問わず、多くの参詣人の心を惹(ひ)きつけてやみません。
 五色の蛇と伝わる、この全長30 cm程度の大変小さな蛇が、白蛇様と呼ばれる理由は、保護色であるために、いくつもの体色を有し、特に、岩肌の白色に反応し、白い姿を我々の前に現すことがあるからであります。 俗に伝(い)う青大将の白化したものとは、全く種類の異なるものであります。
当神社の白蛇様に関しては、江戸期天保14年(西暦1843年)に刊行された文献「三国名勝図会」に、図入りで紹介されております。
と書かれています。 



写真E: 「霞神社 宮日新観光地百景」と彫(ほ)られた石碑(せきひ)。



写真F: 霞神社の境内(けいだい)にある階段。 中央に手すりがあります。 階段は二百数十段あります。



写真G: この階段の上に霞神社の社殿があります。 かなり長い階段(二百数十段)です。



写真H: 霞神社の長い階段の上部。 ここからは細い舗装道路が続きます。 「神社まであと100メートルです。 お疲れ様でした。」と書いた看板(かんばん)があります。



写真I: 坂を上っていくと建物、自動販売機などが見えてきます。



写真J: 宮崎県西諸県郡 高原町大字後川内にある霞神社(かすみじんじゃ)。 正面は「御神門」です。 左の赤いものは御手洗(みたらい)(手水舎(ちょうずしゃ))です。
 霞神社は宮崎県西諸県郡 高原町大字後川内にあり、主祭神はオオアナムチノミコト(大国主命)、スクナビコナノミコト、ウケモチノミコト(豊受姫命)です。 白蛇様の神社として知られています。 都城市高崎町と高原町の境界に近い霞ヶ丘(標高 約310 m)にあります。 古くは霞権現(かすみごんげん)と呼ばれ、畜産の神様として信仰されました。 霧島六所権現(第62代村上天皇の時代(平安時代中期、946年−967年)に性空上人によって霧島六所神社権現が創建されました。)の1つである狭野神社(さのじんじゃ)の別当寺でした。 山岳宗教(霧島信仰)修験者の修行場で、五色の蛇と呼ばれる白蛇(白蛇様)が境内の馬頭観音神社の岩々の隙間(すきま)にいて、その姿を見ると幸せになると言われています。 新修は1815年(文化12年)に薩摩島津藩主によって為されました。



写真K: 「霞神社境内案内図 (霞権現(かすみごんげん))」。



写真L: 宮崎県西諸県郡 高原町大字後川内にある霞神社の御手洗(手水舎(ちょうずしゃ))。



写真M: 宮崎県西諸県郡 高原町大字後川内にある霞神社の神門。



写真N: 宮崎県西諸県郡 高原町大字後川内にある霞神社の神門。



写真O: 霞神社の説明板。
 この神社は、霞権現と称し、大己貴尊、小彦名尊、保食尊を祀(まつ)ってあり、古来から、畜産、縁結び、商売繁盛の神として知られ、神殿裏の岩窟に住む白蛇を拝すると幸運に恵まれると言われています。 例祭日 毎年4月15日 宮崎県
と書いてあります。



写真P: 霞神社(霞権現)の説明板。
由緒 創建年代詳らかならず。 古来より農業、畜産、疾病、縁結び、開運の神様として霊験著しく、旧藩時代(薩摩藩)領主島津家の信仰厚く、たびたび鹿児島より神司と遣(つか)わし祭紀を執り行うと記録に見る。 丘の東面社殿後方岩巌縫隙(ほうげき)に白蛇棲息す。 霧島六所権現の使神と称されこれを神様と崇(あが)め別に祠廟(奥の院)を設ける。 この白蛇を拝した者は幸福になると言われる。
と書かれています。



写真Q: 霞神社の末社と多くの石燈籠(いしどうろう)があります。



写真R: 霞神社の石灯籠(いしどうろう)、説明板、末社が見えています。
 霞神社は宮崎県西諸県郡 高原町大字後川内にあり、主祭神はオオアナムチノミコト(大国主命)、スクナビコナノミコト、ウケモチノミコト(豊受姫命)です。 白蛇様の神社として知られています。 都城市高崎町と高原町の境界に近い霞ヶ丘(標高 約310 m)にあります。 古くは霞権現(かすみごんげん)と呼ばれ、畜産の神様として信仰されました。 霧島六所権現(第62代村上天皇の時代(平安時代中期、946年−967年)に性空上人によって霧島六所神社権現が創建されました。)の1つである狭野神社(さのじんじゃ)の別当寺でした。 山岳宗教(霧島信仰)修験者の修行場で、五色の蛇と呼ばれる白蛇(白蛇様)が境内の馬頭観音神社の岩々の隙間(すきま)にいて、その姿を見ると幸せになると言われています。 新修は1815年(文化12年)に薩摩島津藩主によって為されました。



写真S: 宮崎県西諸県郡 高原町大字後川内にある霞神社の社殿。
 霞神社は宮崎県西諸県郡 高原町大字後川内にあり、主祭神はオオアナムチノミコト(大国主命)、スクナビコナノミコト、ウケモチノミコト(豊受姫命)です。 白蛇様の神社として知られています。 都城市高崎町と高原町の境界に近い霞ヶ丘(標高 約310 m)にあります。 古くは霞権現(かすみごんげん)と呼ばれ、畜産の神様として信仰されました。 霧島六所権現(第62代村上天皇の時代(平安時代中期、946年−967年)に性空上人によって霧島六所神社権現が創建されました。)の1つである狭野神社(さのじんじゃ)の別当寺でした。 山岳宗教(霧島信仰)修験者の修行場で、五色の蛇と呼ばれる白蛇(白蛇様)が境内の馬頭観音神社の岩々の隙間(すきま)にいて、その姿を見ると幸せになると言われています。 新修は1815年(文化12年)に薩摩島津藩主によって為されました。



写真T: 宮崎県西諸県郡 高原町大字後川内にある霞神社の中。



写真U: 宮崎県西諸県郡 高原町大字後川内にある霞神社。 絵馬も見えます。 この門を通って、白蛇様がいる岩場に行きます。



写真V: 霞神社。 この道を先に行くと馬頭観音、白蛇がいる岩場などがあります。 「馬頭観音(牛馬の神様)」と書かれた看板があります。



写真W: 霞神社の境内にある白蛇が住む岩場。 この岩の隙間(すきま)に白蛇がいるそうです。 クマザサも上に見えます。 「危険 岩の上に登らないでください。」と書かれた看板(かんばん)があります。



写真X: 霞神社の境内にある白蛇が住む岩場。 この岩の隙間(すきま)に白蛇がいるそうです。 クマザサも上に見えます。 「岩の中にお金や米、塩などを入れないでください。」と書かれた看板があります。



写真Y: 田中澄江の詩碑があります。



写真Z: 白蛇が住む岩場のそばの建物。



写真AA: 霞神社の境内にある神蛇祠(ほこら)。 ここから展望する景色は素晴らしいものです。
 霞神社は宮崎県西諸県郡 高原町大字後川内にあり、主祭神はオオアナムチノミコト(大国主命)、スクナビコナノミコト、ウケモチノミコト(豊受姫命)です。 白蛇様の神社として知られています。 都城市高崎町と高原町の境界に近い霞ヶ丘(標高 約310 m)にあります。 古くは霞権現(かすみごんげん)と呼ばれ、畜産の神様として信仰されました。 霧島六所権現(第62代村上天皇の時代(平安時代中期、946年−967年)に性空上人によって霧島六所神社権現が創建されました。)の1つである狭野神社(さのじんじゃ)の別当寺でした。 山岳宗教(霧島信仰)修験者の修行場で、五色の蛇と呼ばれる白蛇(白蛇様)が境内の馬頭観音神社の岩々の隙間(すきま)にいて、その姿を見ると幸せになると言われています。 新修は1815年(文化12年)に薩摩島津藩主によって為されました。



写真AB: 霞神社の境内にある地蔵尊。



写真AC: 霞神社の境内にある神蛇祠(ほこら)。



写真AD: 霞神社の境内にある神蛇祠(ほこら)。



写真AE: 霞神社の境内にある神蛇祠(ほこら)。
 霞神社は宮崎県西諸県郡 高原町大字後川内にあり、主祭神はオオアナムチノミコト(大国主命)、スクナビコナノミコト、ウケモチノミコト(豊受姫命)です。 白蛇様の神社として知られています。 都城市高崎町と高原町の境界に近い霞ヶ丘(標高 約310 m)にあります。 古くは霞権現(かすみごんげん)と呼ばれ、畜産の神様として信仰されました。 霧島六所権現(第62代村上天皇の時代(平安時代中期、946年−967年)に性空上人によって霧島六所神社権現が創建されました。)の1つである狭野神社(さのじんじゃ)の別当寺でした。 山岳宗教(霧島信仰)修験者の修行場で、五色の蛇と呼ばれる白蛇(白蛇様)が境内の馬頭観音神社の岩々の隙間(すきま)にいて、その姿を見ると幸せになると言われています。 新修は1815年(文化12年)に薩摩島津藩主によって為されました。



写真AF: 白蛇の住む岩場。 霞神社。



写真AG: 霞神社の境内にある「馬頭観音」。



写真AH: 馬頭観音のそばの岩場。 この岩の隙間(すきま)に白蛇がいるそうです。



写真AI: 霞神社の境内。 絵馬も見えています。 奥に階段も見えます。
 霞神社は宮崎県西諸県郡 高原町大字後川内にあり、主祭神はオオアナムチノミコト(大国主命)、スクナビコナノミコト、ウケモチノミコト(豊受姫命)です。 白蛇様の神社として知られています。 都城市高崎町と高原町の境界に近い霞ヶ丘(標高 約310 m)にあります。 古くは霞権現(かすみごんげん)と呼ばれ、畜産の神様として信仰されました。 霧島六所権現(第62代村上天皇の時代(平安時代中期、946年−967年)に性空上人によって霧島六所神社権現が創建されました。)の1つである狭野神社(さのじんじゃ)の別当寺でした。 山岳宗教(霧島信仰)修験者の修行場で、五色の蛇と呼ばれる白蛇(白蛇様)が境内の馬頭観音神社の岩々の隙間(すきま)にいて、その姿を見ると幸せになると言われています。 新修は1815年(文化12年)に薩摩島津藩主によって為されました。



写真AJ: 宮崎県西諸県郡 高原町大字後川内にある霞神社(かすみ神社)。 ここからの眺望は素晴らしいものがあります。



写真AK: 宮崎県西諸県郡 高原町大字後川内にある霞神社からの景色。



写真AL: 宮崎県西諸県郡 高原町大字後川内にある霞神社からの展望。



写真AM: 宮崎県西諸県郡 高原町大字後川内にある霞神社からの眺望(ちょうぼう)。



写真AN: 右の建物は霞神社の神蛇祠(ほこら)。
 霞神社は宮崎県西諸県郡 高原町大字後川内にあり、主祭神はオオアナムチノミコト(大国主命)、スクナビコナノミコト、ウケモチノミコト(豊受姫命)です。 白蛇様の神社として知られています。 都城市高崎町と高原町の境界に近い霞ヶ丘(標高 約310 m)にあります。 古くは霞権現(かすみごんげん)と呼ばれ、畜産の神様として信仰されました。 霧島六所権現(第62代村上天皇の時代(平安時代中期、946年−967年)に性空上人によって霧島六所神社権現が創建されました。)の1つである狭野神社(さのじんじゃ)の別当寺でした。 山岳宗教(霧島信仰)修験者の修行場で、五色の蛇と呼ばれる白蛇(白蛇様)が境内の馬頭観音神社の岩々の隙間(すきま)にいて、その姿を見ると幸せになると言われています。 新修は1815年(文化12年)に薩摩島津藩主によって為されました。



写真AO: 霞神社の馬頭観音。 鳥居(昭和31年7月29日建立)もあります。



写真AP: 霞神社にある白蛇が住むという岩場。



写真AQ: 霞神社にある詩碑。  日本のふるさと 日向のくに乃 かすみが丘に 白妙も美し 神の蛇を 岩が根しるき 道にたづねて 松みどりいや濃き 道にたずねて
1975年7月 田中澄江
と書かれています。



写真AR: 詩碑の説明板。
日本のふるさと 日向のくに乃 かすみが丘に 白妙も美し 神の蛇を 岩が根しるき 道にたづねて 松みどりいや濃き 道にたずねて
1975年7月 田中澄江
と書かれています。



写真AS: 霞神社の店舗(てんぽ)。



写真AT: 「ここは参道の中間点です。 足もとに気をつけて。」と書かれた看板があります。



写真AU: 再び階段を下って、駐車場の近くに戻ってきました。



写真AV: 宮崎県西諸県郡 高原町大字蒲牟田にある皇子原公園(おうじばるこうえん)。 皇子原公園の絵地図、高原町観光案内図の看板(かんばん)。 ここは駐車場になっています。



写真AW: 宮崎県西諸県郡 高原町大字蒲牟田にある皇子原公園(おうじばるこうえん)の駐車場。



写真AX: 皇子原公園の案内板。
皇子原(おうじばる)
 伝承によると、神武天皇(御幼名は狭野尊)はこの地にお生まれお育ちになったとされている。 この地域一帯には、神話やこれにまつわる地名、行事もたくさん残っている。 ここから東方800 mの狭野神社には神武天皇をお祀(まつ)りしてあり、また参道には、樹齢400年の狭野杉が空を覆(おおい)深遠な神域を形作っている。 皇子原は、霊峰高千穂峰への登山口にもなっており、近くには霧島東神社、霧島最大の火口湖 御池(みいけ)、キャンプ村、国設野鳥の森などがあり、訪れる人々のやすらぎの場となっている。



写真AY: 皇子原公園の絵地図。 遊ぶ、学ぶ、食べる 家族でとびっきりのリゾート気分を満喫! と書いてあります。 左寄りの階段の上に「皇子原神社(おうじばるじんじゃ)」も書いてあります。
 皇子原公園(おうじばるこうえん)は宮崎県西諸県郡 高原町大字蒲牟田にあります。 高原町一帯を見下ろす高原(標高 約330 m)にあります。 公園の真ん中付近に皇子原神社(おうじばるじんじゃ)、5世紀後半から6世紀前半に造られた6基の古墳、神武の館、民族体験資料館、公園管理事務所、遊具類(ミニSL 、バッテリーカー、ゴーカート)、修景水路、ジャブジャブ池、森林浴遊歩道、自然渓流釣り場、テニスコート、バンガロー、バーベキュウー棟、ちびっ子ゲレンデ、ローンスキー、ローラースライダー、たかはる清流らんどなどがあります。 大正14年のトロッコ道建設のときに、6号古墳付近から土器が出土しました。 神武天皇が生まれたところと言われています。 南西に高千穂峰が見えます。 公園内には霧島に降った雨が永年たった後、湧(わ)きだしています。 この水は高崎川に流れていきます。 公園の斜面からは東方向がよく見えます。



写真AZ: 皇子原公園。 霧島山系からの伏流水が公園内を流れています。 鯉のぼり(こいのぼり)も見えています。 左に階段が見えます。



写真BA: 宮崎県西諸県郡 高原町大字蒲牟田にある皇子原公園。



写真BB: 宮崎県西諸県郡 高原町大字蒲牟田にある皇子原公園(おうじばるこうえん)。



写真BC: 皇子原公園にある歌碑。
君が行く 道のながてを くりたたね 焼きほろぼさむ 天の火もがも
佐野芽上娘子



写真BD: 皇子原公園にある歌碑。
君が行く 道のながてを くりたたね 焼きほろぼさむ 天の火もがも
佐野芽上娘子(作)
この短歌の作者である万葉集の女流歌人 野芽上娘子は、日向の国 狭野地方(当地)の出身と言われており、この歌は、娘子との恋をとがめられ流罪となってしまった恋人、官人 中臣宅守をどうにかして引き止めたいという愛情の強さと、切ない恋心を詠ったものである。
と書かれています。



写真BE: 皇子原公園にある歌碑の説明板。
この短歌の作者である万葉集の女流歌人 野芽上娘子は、日向の国 狭野地方(当地)の出身と言われており、この歌は、娘子との恋をとがめられ流罪となってしまった恋人、官人 中臣宅守をどうにかして引き止めたいという愛情の強さと、切ない恋心を詠ったものである。
と書かれています。



写真BF: 皇子原公園にある黄色のアヤメの花。 右の建物は神武の館。



写真BG: 「神武の里 皇子原公園」と書いてあります。 駐車場の車も見えます。 奥の建物は公園管理事務所。
 皇子原公園(おうじばるこうえん)は宮崎県西諸県郡 高原町大字蒲牟田にあります。 高原町一帯を見下ろす高原(標高 約330 m)にあります。 公園の真ん中付近に皇子原神社(おうじばるじんじゃ)、5世紀後半から6世紀前半に造られた6基の古墳、神武の館、民族体験資料館、公園管理事務所、遊具類(ミニSL 、バッテリーカー、ゴーカート)、修景水路、ジャブジャブ池、森林浴遊歩道、自然渓流釣り場、テニスコート、バンガロー、バーベキュウー棟、ちびっ子ゲレンデ、ローンスキー、ローラースライダー、たかはる清流らんどなどがあります。 大正14年のトロッコ道建設のときに、6号古墳付近から土器が出土しました。 神武天皇が生まれたところと言われています。 南西に高千穂峰が見えます。 公園内には霧島に降った雨が永年たった後、湧(わ)きだしています。 この水は高崎川に流れていきます。 公園の斜面からは東方向がよく見えます。



写真BH: 皇子原公園にある看板(かんばん)。 「高千穂峰登山口(5.5 km)、御池キャンプ村(6.1 km)、神武の里 たかはる」と書いてあります。



写真BI: 高原町の絵地図。



写真BJ: 皇子原神社の石碑(せきひ)。
皇子原神社(おうじばるじんじゃ)は、皇子原公園の中の高いところ(標高 約350 m)にあり、1号古墳の上にあります。 狭野神社(さのじんじゃ)の末社です。 石を撫(な)でて安産祈願する「産婆石(うべし)」という石が社(やしろ)のすぐ裏にあります。 これは神武天皇が生まれた産屋があったところと言われています。



写真BK: 「県史跡 高原町古墳(皇子原古墳)」の説明板。
地番 宮崎県西諸県郡高原町大字蒲牟田 字 狭野3−115(2−6号墳)、3−116(1号墳)、指定年月日 昭和19年12月15日
 高原町古墳は、別名皇子原古墳とも呼ばれており、皇子原神社を中心に6基散在しています。 大正14年のトロッコ道開設時に、6号墳付近から土器が出土したと言われています。
 現状保存のため発掘調査は実施していませんが、現在残されている土盛りは、5世紀後半から6世紀前半に作られた、西諸県地方特有の「地下式横穴墓」の墳丘と思われます。
平成16年3月31日 高原町教育委員会
と書かれています。



写真BL: 皇子原公園の皇子原神社のそばにある「高千穂峰 登山口」と書いてある案内棒。



写真BM: 皇子原神社の一の鳥居(とりい)。 鳥居の先には階段があります。
皇子原神社(おうじばるじんじゃ)は、皇子原公園の中の高いところ(標高 約350 m)にあり、1号古墳の上にあります。 狭野神社(さのじんじゃ)の末社です。 石を撫(な)でて安産祈願する「産婆石(うべし)」という石が社(やしろ)のすぐ裏にあります。 これは神武天皇が生まれた産屋があったところと言われています。



写真BN: 皇子原神社の階段を登って行くと、建設中の鳥居(とりい)がありました。 2本の丸い柱にはまだ紙が巻いてあります。



写真BO: 皇子原神社の社殿です。 この後ろに「産婆石(うべし)」という石があります。
皇子原神社(おうじばるじんじゃ)は、皇子原公園の中の高いところ(標高 約350 m)にあり、1号古墳の上にあります。 狭野神社(さのじんじゃ)の末社です。 石を撫(な)でて安産祈願する「産婆石(うべし)」という石が社(やしろ)のすぐ裏にあります。 これは神武天皇が生まれた産屋があったところと言われています。



写真BP: 皇子原神社。 神話史跡 皇子権現と神話史跡 産婆石(うべし)の説明棒。
 皇子権現: 狭野尊(神武天皇)の兄弟の官居の跡が皇子権現と伝えられ、現在では皇子神社(皇子原)に移転されている。
神話史跡 産婆石(うべし): 狭野尊(神武天皇)が御産になったとき、産湯を使われた場所と伝えられている。
と書いてあります。



写真BQ: 皇子原神社。 神話史跡 皇子権現と神話史跡 産婆石(うべし)の説明棒。
神話史跡 皇子権現: 狭野尊(神武天皇)の兄弟の官居の跡が皇子権現と伝えられ、現在では皇子神社(皇子原)に移転されている。
神話史跡 産婆石(うべし): 狭野尊(神武天皇)が御産になったとき、産湯を使われた場所と伝えられている。
と書いてあります。



写真BR: 「皇子原神社 由緒」の説明板。
御祭神 神武天皇 御幼名 狭野尊、御社格 狭野神社末社、御神徳 安産 縁結び 家内安全。



写真BS: 皇子原神社の社殿の後ろにある産婆石(うべし)。 石を撫(な)でて安産祈願する「産婆石(うべし)」という石です。 これは神武天皇が生まれた産屋があったところと言われています。



写真BT: 皇子原神社の社殿の後ろにある産婆石(うべし)。 石を撫(な)でて安産祈願する「産婆石(うべし)」という石です。 これは神武天皇が生まれた産屋があったところと言われています。



写真BU: 皇子原神社の社殿の後ろにある産婆石(うべし)。 石を撫(な)でて安産祈願する「産婆石(うべし)」という石です。 これは神武天皇が生まれた産屋があったところと言われています。
皇子原神社(おうじばるじんじゃ)は、皇子原公園の中の高いところ(標高 約350 m)にあり、1号古墳の上にあります。 狭野神社(さのじんじゃ)の末社です。



写真BV: 皇子原公園の「古代の少年像」。 神武天皇ご兄弟の像と思われます。
 皇子原公園(おうじばるこうえん)は宮崎県西諸県郡 高原町大字蒲牟田にあります。 高原町一帯を見下ろす高原(標高 約330 m)にあります。 公園の真ん中付近に皇子原神社(おうじばるじんじゃ)、5世紀後半から6世紀前半に造られた6基の古墳、神武の館、民族体験資料館、公園管理事務所、遊具類(ミニSL 、バッテリーカー、ゴーカート)、修景水路、ジャブジャブ池、森林浴遊歩道、自然渓流釣り場、テニスコート、バンガロー、バーベキュウー棟、ちびっ子ゲレンデ、ローンスキー、ローラースライダー、たかはる清流らんどなどがあります。 大正14年のトロッコ道建設のときに、6号古墳付近から土器が出土しました。 神武天皇が生まれたところと言われています。 南西に高千穂峰が見えます。 公園内には霧島に降った雨が永年たった後、湧(わ)きだしています。 この水は高崎川に流れていきます。 公園の斜面からは東方向がよく見えます。



写真BW: 皇子原(おうじばる)の説明板。
この眺(なが)め美しい皇子原は人皇第一代 神武天皇のおうまれになった地で、ご幼名 狭野尊は狭野の地名からとられたと伝えられる。
 次にかかげる場所はご誕生から高原を出発されるまでの由緒深い場所である。 皇子原(おうじばる)、赤池(あかいけ)、血捨木(ちしゃのき)、祓原(はらいばる)、祓川(はらいがわ)、高千穂宮(たかちほぐう)、宮の宇都(みやのうと)、皇子港、狭野渡、馬登、鳥井原。



写真BX:  皇子原には高原町古墳(こふん)があります。 これは3号墳です。 頂上にコンクリートの標識があります。
皇子原公園(おうじばるこうえん)は宮崎県西諸県郡 高原町大字蒲牟田にあります。 高原町一帯を見下ろす高原(標高 約330 m)にあります。 公園の真ん中付近に皇子原神社(おうじばるじんじゃ)、5世紀後半から6世紀前半に造られた6基の古墳、神武の館、民族体験資料館、公園管理事務所、遊具類(ミニSL 、バッテリーカー、ゴーカート)、修景水路、ジャブジャブ池、森林浴遊歩道、自然渓流釣り場、テニスコート、バンガロー、バーベキュウー棟、ちびっ子ゲレンデ、ローンスキー、ローラースライダー、たかはる清流らんどなどがあります。 大正14年のトロッコ道建設のときに、6号古墳付近から土器が出土しました。 神武天皇が生まれたところと言われています。 南西に高千穂峰が見えます。 公園内には霧島に降った雨が永年たった後、湧(わ)きだしています。 この水は高崎川に流れていきます。 公園の斜面からは東方向がよく見えます。



写真BY: 皇子原には高原町古墳(こふん)があります。 これは4号墳です。



写真BZ: 「県指定 高原町古墳(こふん)」の説明板。
地番 宮崎県西諸県郡高原町大字蒲牟田 字 狭野3−115(2−6号墳)、3−116(1号墳)、指定年月日 昭和19年12月15日
 高原町古墳は、別名皇子原古墳とも呼ばれており、皇子原神社を中心に6基散在しています。 大正14年のトロッコ道開設時に、6号墳付近から土器が出土したと言われています。
 現状保存のため発掘調査は実施していませんが、現在残されている土盛りは、5世紀後半から6世紀前半に作られた、西諸県地方特有の「地下式横穴墓」の墳丘と思われます。
平成16年3月31日 高原町教育委員会
と書かれています。



写真CA: 皇子原神社の階段。 霧島山系の噴火による溶岩が、冷えたものと思われます。 小さな穴が開いています。



写真CB: 皇子原神社の階段。 小さな穴が開いています。 霧島山系の噴火による溶岩が、冷えたものと思われます。



写真CC:  皇子原公園の公園管理事務所。 そばに駐車場もあります。
 皇子原公園(おうじばるこうえん)は宮崎県西諸県郡 高原町大字蒲牟田にあります。 高原町一帯を見下ろす高原(標高 約330 m)にあります。 公園の真ん中付近に皇子原神社(おうじばるじんじゃ)、5世紀後半から6世紀前半に造られた6基の古墳、神武の館、民族体験資料館、公園管理事務所、遊具類(ミニSL 、バッテリーカー、ゴーカート)、修景水路、ジャブジャブ池、森林浴遊歩道、自然渓流釣り場、テニスコート、バンガロー、バーベキュウー棟、ちびっ子ゲレンデ、ローンスキー、ローラースライダー、たかはる清流らんどなどがあります。 大正14年のトロッコ道建設のときに、6号古墳付近から土器が出土しました。 神武天皇が生まれたところと言われています。 南西に高千穂峰が見えます。 公園内には霧島に降った雨が永年たった後、湧(わ)きだしています。 この水は高崎川に流れていきます。 公園の斜面からは東方向がよく見えます。



写真CD:  皇子原公園の神武の館(やかた)。



写真CE: 皇子原公園の神武の館(やかた)。



写真CF:  皇子原公園の「神武の館(やかた)」。 御輿(みこし)、農機具などの民族資料も見えます。
 皇子原公園(おうじばるこうえん)は宮崎県西諸県郡 高原町大字蒲牟田にあります。 高原町一帯を見下ろす高原(標高 約330 m)にあります。 公園の真ん中付近に皇子原神社(おうじばるじんじゃ)、5世紀後半から6世紀前半に造られた6基の古墳、神武の館、民族体験資料館、公園管理事務所、遊具類(ミニSL 、バッテリーカー、ゴーカート)、修景水路、ジャブジャブ池、森林浴遊歩道、自然渓流釣り場、テニスコート、バンガロー、バーベキュウー棟、ちびっ子ゲレンデ、ローンスキー、ローラースライダー、たかはる清流らんどなどがあります。 大正14年のトロッコ道建設のときに、6号古墳付近から土器が出土しました。 神武天皇が生まれたところと言われています。 南西に高千穂峰が見えます。 公園内には霧島に降った雨が永年たった後、湧(わ)きだしています。 この水は高崎川に流れていきます。 公園の斜面からは東方向がよく見えます。



写真CG: 皇子原公園の「神武の館(やかた)」。 神様の人形があります。 これは、左の天照大神(あまてらすおおみかみ)が岩の扉(とびら)を右の神が開けたので、出てこられた場面です。



写真CH:  皇子原公園の「神武の館(やかた)」の中。
 皇子原公園(おうじばるこうえん)は宮崎県西諸県郡 高原町大字蒲牟田にあります。 高原町一帯を見下ろす高原(標高 約330 m)にあります。 公園の真ん中付近に皇子原神社(おうじばるじんじゃ)、5世紀後半から6世紀前半に造られた6基の古墳、神武の館、民族体験資料館、公園管理事務所、遊具類(ミニSL 、バッテリーカー、ゴーカート)、修景水路、ジャブジャブ池、森林浴遊歩道、自然渓流釣り場、テニスコート、バンガロー、バーベキュウー棟、ちびっ子ゲレンデ、ローンスキー、ローラースライダー、たかはる清流らんどなどがあります。 大正14年のトロッコ道建設のときに、6号古墳付近から土器が出土しました。 神武天皇が生まれたところと言われています。 南西に高千穂峰が見えます。 公園内には霧島に降った雨が永年たった後、湧(わ)きだしています。 この水は高崎川に流れていきます。 公園の斜面からは東方向がよく見えます。



写真CI: 皇子原公園の「神武の館(やかた)」の中。



写真CJ:  皇子原公園の遊具。



写真CK:  皇子原公園の水車。



写真CL:  皇子原公園の鯉のぼり(こいのぼり)。
 皇子原公園(おうじばるこうえん)は宮崎県西諸県郡 高原町大字蒲牟田にあります。 高原町一帯を見下ろす高原(標高 約330 m)にあります。 公園の真ん中付近に皇子原神社(おうじばるじんじゃ)、5世紀後半から6世紀前半に造られた6基の古墳、神武の館、民族体験資料館、公園管理事務所、遊具類(ミニSL 、バッテリーカー、ゴーカート)、修景水路、ジャブジャブ池、森林浴遊歩道、自然渓流釣り場、テニスコート、バンガロー、バーベキュウー棟、ちびっ子ゲレンデ、ローンスキー、ローラースライダー、たかはる清流らんどなどがあります。 大正14年のトロッコ道建設のときに、6号古墳付近から土器が出土しました。 神武天皇が生まれたところと言われています。 南西に高千穂峰が見えます。 公園内には霧島に降った雨が永年たった後、湧(わ)きだしています。 この水は高崎川に流れていきます。 公園の斜面からは東方向がよく見えます。



写真CM: 皇子原公園の広場。



写真CN:  皇子原公園の鯉のぼり(こいのぼり)。



写真CO:  皇子原公園から見た「高千穂峰(たかちほのみね)」。 中央付近の霞(かす)んでいる山が、高千穂峰です。



写真CP: 皇子原公園から見た「高千穂峰(たかちほのみね)」。 右の霞(かす)んでいる山が、高千穂峰です。



写真CQ:  皇子原公園(おうじばるこうえん)の広場。 建物と鯉のぼりも見えます。



写真CR: 皇子原公園(おうじばるこうえん)の広場。



写真CS: 高千穂峰。 右端の峰(みね)が高千穂峰です。 皇子原公園と狭野神社(さのじんじゃ)の間の道から見たもの。



写真CT:  狭野神社の鳥居(とりい)、石灯籠(いしどうろう)、石碑。
 狭野神社(さのじんじゃ)は宮崎県西諸県郡 高原町大字蒲牟田にあります。 御祭神は神武天皇です。 霧島六所権現(第62代村上天皇の時代(平安時代中期、946年−967年)に性空上人によって霧島六所神社権現が創建されました。 霧島神宮、霧島岑神社(きりしまみねじんじゃ)、霧島東神社、東霧島神社、狭野神社、夷守神社(明治時代に霧島岑神社に合祀)、の6社です。 今は、日向三代の神々が祭られていますが、元々は霧島山を信仰の対象とする山岳信仰の修験者(しゅげんじゃ)たちの拠点でした。 道場は霧島山でした。)の1つです。 以前は宮崎神宮別宮でしたが、昭和51年(1976年)から別表神社です。 神武天皇がお生まれになった地に、第5代孝昭天皇の時代(紀元前475年−紀元前393年、実在するという説もありますが、一般的には実在しないとされています。)に創建されました。 霧島の噴火で焼失と遷座を繰り返し、慶長15年(1610年)、別の説では第30代敏達天皇(びたつてんのう)のとき(6世紀中頃)に高千穂峰の麓(ふもと)の皇子原(社殿から約1 km南にあります。)から、今の場所(狭野)に移りました。 現在の社殿は明治40年に建てられました。 参道の大杉(狭野の大杉)は樹齢400年で、大正13年(1924年)に国の天然記念物に指定されました。 明治40年に宮崎神宮は狭野杉を使って造られ、それまでの宮崎神宮の本殿などは狭野神社に移設されました。 日本書紀によると、狭野尊(さののみこと)は神武天皇の幼名です。 狭野は生誕の地名で、その跡に狭野神社が創建されたと伝えられています。 秀吉の朝鮮出兵の時、文禄元年(1592年)に島津義弘は出陣を命じられました。 そのとき狭野神社に戦勝祈願をしました。 帰った後、慶長5年(1600年)に家臣の新納忠元を狭野神社に送って杉の苗(なえ)を奉納しました。 参道の杉はその時のものですが、枯れたものも多く若木も植えられています。 また、狭野神楽(さのかぐら)、御田植祭もあります。



写真CU: 狭野神社にある、大きな古い杉の木(狭野杉)。 樹齢は約400年。 樹高: 61.3 m、目通り: 6−7 m、根本: 9 m。
秀吉の朝鮮出兵の時、文禄元年(1592年)に島津義弘は出陣を命じられました。 そのとき狭野神社に戦勝祈願をしました。 帰った後、慶長5年(1600年)に家臣の新納忠元を狭野神社に送って杉の苗(なえ)を奉納しました。 参道の杉はその時のものですが、枯れたものも多く若木も植えられています。



写真CV: 「狭野杉(さのすぎ)の由来」の説明板。
慶長4年薩摩藩主 島津義弘公、重臣 新納武蔵守忠元を遣(つか)わし当神社別当寺 神徳院の住職 宥淳法印(ゆうじゅんほういん)と協力し植栽せるものと云う。 樹齢まさに400年になんなんとす。 大正13年国の天然記念物に指定せらる。 樹高: 61.3 m、目通り: 6−7 m、根本: 9 m。
と書いてあります。
後ろの木が狭野杉(さのすぎ)です。



写真CW:  狭野神社(さのじんじゃ)の拝殿。
 狭野神社(さのじんじゃ)は宮崎県西諸県郡 高原町大字蒲牟田にあります。 御祭神は神武天皇です。 霧島六所権現(第62代村上天皇の時代(平安時代中期、946年−967年)に性空上人によって霧島六所神社権現が創建されました。 霧島神宮、霧島岑神社(きりしまみねじんじゃ)、霧島東神社、東霧島神社、狭野神社、夷守神社(明治時代に霧島岑神社に合祀)、の6社です。 今は、日向三代の神々が祭られていますが、元々は霧島山を信仰の対象とする山岳信仰の修験者(しゅげんじゃ)たちの拠点でした。 道場は霧島山でした。)の1つです。 以前は宮崎神宮別宮でしたが、昭和51年(1976年)から別表神社です。 神武天皇がお生まれになった地に、第5代孝昭天皇の時代(紀元前475年−紀元前393年、実在するという説もありますが、一般的には実在しないとされています。)に創建されました。 霧島の噴火で焼失と遷座を繰り返し、慶長15年(1610年)、別の説では第30代敏達天皇(びたつてんのう)のとき(6世紀中頃)に高千穂峰の麓(ふもと)の皇子原(社殿から約1 km南にあります。)から、今の場所(狭野)に移りました。 現在の社殿は明治40年に建てられました。 参道の大杉(狭野の大杉)は樹齢400年で、大正13年(1924年)に国の天然記念物に指定されました。 明治40年に宮崎神宮は狭野杉を使って造られ、それまでの宮崎神宮の本殿などは狭野神社に移設されました。 日本書紀によると、狭野尊(さののみこと)は神武天皇の幼名です。 狭野は生誕の地名で、その跡に狭野神社が創建されたと伝えられています。 秀吉の朝鮮出兵の時、文禄元年(1592年)に島津義弘は出陣を命じられました。 そのとき狭野神社に戦勝祈願をしました。 帰った後、慶長5年(1600年)に家臣の新納忠元を狭野神社に送って杉の苗(なえ)を奉納しました。 参道の杉はその時のものですが、枯れたものも多く若木も植えられています。 また、狭野神楽(さのかぐら)、御田植祭もあります。



写真CX: 狭野神社(さのじんじゃ)の拝殿。



写真CY: 狭野神社(さのじんじゃ)の境内(けいだい)。 狭野神社と書かれたテントも見えます。



写真CZ: 「狭野神社」の説明板。
狭野神社(略記)
御祭神 第一代の天皇 神武天皇 御幼名 狭野尊
 当社は、孝昭天皇(人皇第5代(紀元前475年−紀元前393年、実在説もあるが、実在しない天皇という見方が一般的))の御代、神武天皇の御降誕の地に社殿の創建があったのが当社の創祀という。 その後、再三に亘(わた)る霧島山の噴火により社殿など炎上の災厄にあったが、慶長15年(1610年)現在地に社殿を造営遷座された。 その他、藩主島津氏より社殿の改築、社領の寄進などが行われた。
 太古、天皇は日向の国(宮崎県)より大和の国(奈良県)に入り、2月11日橿原(かしはら)の宮に即位された。 我が国ではこの年を建国の時として紀元元年としている。 そして天皇は、民政安定を目標とし、同胞一体、国土の開発経営に当たられた。 その治績徳望をたたえて、はつくにしらすすめらみこと とも申し上げている。
 ここに日本国の基礎、政治の基本が定められた。 日本人は神武天皇を建国の英主と仰(あお)ぎその聖徳を忘れない。 また天皇は127歳まで長寿であったと言われている。
 当社は、古来 霧島六社権現(霧島神宮他)の1つとして、事始めの神(事業所安定)、厄除開運、交通安全、子供達の守り神、長寿の神として人々の篤(あつ)い崇敬をあつめている。
主な祭典行事
例祭 10月23日 当社最大の祭典
祈年祭 2月18日 同日 苗代田祭りの特殊神事
その他
紀元祭2月11日、御田植祭5月16日(棒踊り、奴(やっこ)踊りなどの奉納)、狭野夜神楽12月第1土曜日(第2鳥居付近にて)
史蹟名勝
皇子原: 当社より西約1 km 高千穂峰の麓で神武天皇御降誕の聖地と伝えられている。
狭野杉: 参道の巨杉は、今から400年前植栽され現在10本残り国の天然記念物に指定されている。
と書かれています。



写真DA:  狭野神社の拝殿。
 狭野神社(さのじんじゃ)は宮崎県西諸県郡 高原町大字蒲牟田にあります。 御祭神は神武天皇です。 霧島六所権現(第62代村上天皇の時代(平安時代中期、946年−967年)に性空上人によって霧島六所神社権現が創建されました。 霧島神宮、霧島岑神社(きりしまみねじんじゃ)、霧島東神社、東霧島神社、狭野神社、夷守神社(明治時代に霧島岑神社に合祀)、の6社です。 今は、日向三代の神々が祭られていますが、元々は霧島山を信仰の対象とする山岳信仰の修験者(しゅげんじゃ)たちの拠点でした。 道場は霧島山でした。)の1つです。 以前は宮崎神宮別宮でしたが、昭和51年(1976年)から別表神社です。 神武天皇がお生まれになった地に、第5代孝昭天皇の時代(紀元前475年−紀元前393年、実在するという説もありますが、一般的には実在しないとされています。)に創建されました。 霧島の噴火で焼失と遷座を繰り返し、慶長15年(1610年)、別の説では第30代敏達天皇(びたつてんのう)のとき(6世紀中頃)に高千穂峰の麓(ふもと)の皇子原(社殿から約1 km南にあります。)から、今の場所(狭野)に移りました。 現在の社殿は明治40年に建てられました。 参道の大杉(狭野の大杉)は樹齢400年で、大正13年(1924年)に国の天然記念物に指定されました。 明治40年に宮崎神宮は狭野杉を使って造られ、それまでの宮崎神宮の本殿などは狭野神社に移設されました。 日本書紀によると、狭野尊(さののみこと)は神武天皇の幼名です。 狭野は生誕の地名で、その跡に狭野神社が創建されたと伝えられています。 秀吉の朝鮮出兵の時、文禄元年(1592年)に島津義弘は出陣を命じられました。 そのとき狭野神社に戦勝祈願をしました。 帰った後、慶長5年(1600年)に家臣の新納忠元を狭野神社に送って杉の苗(なえ)を奉納しました。 参道の杉はその時のものですが、枯れたものも多く若木も植えられています。 また、狭野神楽(さのかぐら)、御田植祭もあります。



写真DB: 狭野神社の拝殿。 中央上に金色の「菊の御紋」が見えます。
 

写真DC: 左は狭野神社の拝殿。



写真DD: 狭野神社にある「御神牛」。 中央下に牛の像が見えます。



写真DE: 狭野神社の神門。 この奥に参道があり、その両側に樹齢400年の大杉(狭野杉)があります。



写真DF: 「みやざきの巨樹百選」の看板(かんばん)。 樹木名: スギ、樹齢: 400年、幹周: 900 cm、樹高: 40 m、所有者: 神社
平成4年3月認定 宮崎県
と書いてあります。



写真DG: 狭野神社(さのじんじゃ)の建物。



写真DH: 狭野神社の境内に咲いていた紫色の「立浪草(たつなみそう、タツナミソウ)」の花。



写真DI: 「狭野杉後継木植樹 狭野杉樹齢400年記念事業実行委員会」と書いてある標識棒。



写真DJ: 後ろは、狭野神社の境内にある樹齢400年の狭野杉。



写真DK: 狭野神社の参道のそばに咲いていた「シャガ」の花。



写真DL: 狭野神社の赤い鳥居にある定礎。 平成11年12月9日建立。



写真DM:  狭野神社の赤い鳥居のそばにある「定」。
 狭野神社(さのじんじゃ)は宮崎県西諸県郡 高原町大字蒲牟田にあります。 御祭神は神武天皇です。 霧島六所権現(第62代村上天皇の時代(平安時代中期、946年−967年)に性空上人によって霧島六所神社権現が創建されました。 霧島神宮、霧島岑神社(きりしまみねじんじゃ)、霧島東神社、東霧島神社、狭野神社、夷守神社(明治時代に霧島岑神社に合祀)、の6社です。 今は、日向三代の神々が祭られていますが、元々は霧島山を信仰の対象とする山岳信仰の修験者(しゅげんじゃ)たちの拠点でした。 道場は霧島山でした。)の1つです。 以前は宮崎神宮別宮でしたが、昭和51年(1976年)から別表神社です。 神武天皇がお生まれになった地に、第5代孝昭天皇の時代(紀元前475年−紀元前393年、実在するという説もありますが、一般的には実在しないとされています。)に創建されました。 霧島の噴火で焼失と遷座を繰り返し、慶長15年(1610年)、別の説では第30代敏達天皇(びたつてんのう)のとき(6世紀中頃)に高千穂峰の麓(ふもと)の皇子原(社殿から約1 km南にあります。)から、今の場所(狭野)に移りました。 現在の社殿は明治40年に建てられました。 参道の大杉(狭野の大杉)は樹齢400年で、大正13年(1924年)に国の天然記念物に指定されました。 明治40年に宮崎神宮は狭野杉を使って造られ、それまでの宮崎神宮の本殿などは狭野神社に移設されました。 日本書紀によると、狭野尊(さののみこと)は神武天皇の幼名です。 狭野は生誕の地名で、その跡に狭野神社が創建されたと伝えられています。 秀吉の朝鮮出兵の時、文禄元年(1592年)に島津義弘は出陣を命じられました。 そのとき狭野神社に戦勝祈願をしました。 帰った後、慶長5年(1600年)に家臣の新納忠元を狭野神社に送って杉の苗(なえ)を奉納しました。 参道の杉はその時のものですが、枯れたものも多く若木も植えられています。 また、狭野神楽(さのかぐら)、御田植祭もあります。



写真DN: 狭野神社の赤い鳥居のそばにある「定」。

一、車馬を乗り入れること。 一、魚鳥を捕らえること。 一、竹木を伐ること。 その他境内の尊厳を傷つける行為を禁止す。
平成11年12月9日 狭野神社
と書いてあります。



写真DO: 遠く奥に赤い「一の鳥居(とりい)」が小さく見えます。



写真DP: 狭野神社(さのじんじゃ)の「一の鳥居(とりい)」。



写真DQ:  「別表 狭野神社」と彫(ほ)られた石碑(せきひ)と赤い鳥居(とりい)。
 狭野神社(さのじんじゃ)は宮崎県西諸県郡 高原町大字蒲牟田にあります。 御祭神は神武天皇です。 霧島六所権現(第62代村上天皇の時代(平安時代中期、946年−967年)に性空上人によって霧島六所神社権現が創建されました。 霧島神宮、霧島岑神社(きりしまみねじんじゃ)、霧島東神社、東霧島神社、狭野神社、夷守神社(明治時代に霧島岑神社に合祀)、の6社です。 今は、日向三代の神々が祭られていますが、元々は霧島山を信仰の対象とする山岳信仰の修験者(しゅげんじゃ)たちの拠点でした。 道場は霧島山でした。)の1つです。 以前は宮崎神宮別宮でしたが、昭和51年(1976年)から別表神社です。 神武天皇がお生まれになった地に、第5代孝昭天皇の時代(紀元前475年−紀元前393年、実在するという説もありますが、一般的には実在しないとされています。)に創建されました。 霧島の噴火で焼失と遷座を繰り返し、慶長15年(1610年)、別の説では第30代敏達天皇(びたつてんのう)のとき(6世紀中頃)に高千穂峰の麓(ふもと)の皇子原(社殿から約1 km南にあります。)から、今の場所(狭野)に移りました。 現在の社殿は明治40年に建てられました。 参道の大杉(狭野の大杉)は樹齢400年で、大正13年(1924年)に国の天然記念物に指定されました。 明治40年に宮崎神宮は狭野杉を使って造られ、それまでの宮崎神宮の本殿などは狭野神社に移設されました。 日本書紀によると、狭野尊(さののみこと)は神武天皇の幼名です。 狭野は生誕の地名で、その跡に狭野神社が創建されたと伝えられています。 秀吉の朝鮮出兵の時、文禄元年(1592年)に島津義弘は出陣を命じられました。 そのとき狭野神社に戦勝祈願をしました。 帰った後、慶長5年(1600年)に家臣の新納忠元を狭野神社に送って杉の苗(なえ)を奉納しました。 参道の杉はその時のものですが、枯れたものも多く若木も植えられています。 また、狭野神楽(さのかぐら)、御田植祭もあります。



写真DR: 狭野神社にある大きな狭野杉の切り株(かぶ)。



写真DS: 狭野神社(さのじんじゃ)の近くの車道から見た景色。 中央の霞(かす)んでいる山が高千穂峰です。



by 南陽彰悟 (NANYO Shogo)