金丸井堰 (かねまるいせき)、一ツ瀬川、金丸惣八 (かねまるそうはち) (金丸頭首工、柳瀬大橋 (やなぜおおはし)、新瀬口橋 (しんせぐちはし)、山角橋 (やますみばし)、とぐろ、用水路、石碑 (せきひ)、佐土原浄水場、九州山地の展望)  (宮崎県 西都市 大字右松、児湯郡 新富町 柳瀬、新田 春日、宮崎市 佐土原町 下田島)







<標高、位置>  一ツ瀬川の「山角橋(やますみばし)」は
標高 約10 m
 北緯32度06分45秒  東経131度25分06秒

<標高、位置>  一ツ瀬川の「金丸井堰(いせき)」は
標高 数 m
 北緯32度05分39秒  東経131度24分52秒

<標高、位置>  新瀬口橋 (しんせぐちはし)
標高 約10 m
 北緯32度04分55秒  東経131度24分56秒

<標高、位置>  柳瀬大橋 (やなぜおおはし)は
標高 約10 m
 北緯32度04分00秒  東経131度25分32秒

<標高、位置>  金丸井堰と金丸用水路の「石碑 (せきひ)」は
標高 数 m
 北緯32度02分44秒  東経131度26分27秒


 「金丸井堰 (金丸堰(せき))」は宮崎県 西都市 大字右松にあります。
一ツ瀬川の新瀬口橋と山角橋の間にあり、川をせき止めて水面を上げ用水路に水を引き、田んぼや畑に水を送ります。 井堰(堰)は農業用施設です。
 「金丸幹線用水路」の説明板から、
金丸幹線用水路の歴史
 この地域の水田は、明治4年金丸惣八 (かねまるそうはち)が建設された金丸堰(せき)から用水しています。
氏は、旧佐土原藩士として、江戸時代の安政3年 (1856年)に時の家老 曽小川久郷 (そおかわひささと)と共に全国を視察して、開田 (水を引いて水田を作ること)の必要性を説(と)き、藩主の命令により自ら設計し、井堰(いせき)を築くと共に約 4 km 用水路を引き、黒生野、柳瀬 一帯の約 40 ha の開田を行ないました。
 その後、度重(たびかさ)なる台風により金丸堰は、何度も壊(こわ)れましたが、昭和50年に今の井堰(いせき)が完成しました。 また、用水路は次々に延長工事が行われ、現在では、約 17 km にもおよぶ用水路で大字上田島、下田島 一帯をかんがいし、地域の発展に大きく役立っています。
金丸用水路の概要
1.水路延長 17020 m、2.受益面積 364 ha。
*井堰とは!!
 川の水をせき止め、(水面を上げ)水路を通して田畑に水を引き入れたり、水の量を調節するための施設で、別名「頭首工 (とうしゅこう)」とも呼んでいます。

 明治時代に一ツ瀬川の井堰(いせき)(金丸井堰、金丸堰)と用水路(金丸用水路)を造った金丸惣八 (かねまるそうはち)は、1825年(文政9年)5月5日に新富町 柳瀬 (やなぜ)で金丸景住の長男として生まれた佐土原藩士です。 若くして佐土原藩の水利係の役人になりました。 家老のお供をして、京、大坂(大阪)、江戸に行きました。 惣八は佐土原藩内に溜池(ためいけ)も造りました。 栗唐瀬井堰は長さ 約270 m、高さ 約3 mの石積みの堰堤を持っていました。 水路は約 4 kmで黒生野、岡富、現王島、柳瀬などに水が来ました (明治4年3月18日)。 その後、新田村 伊倉の松本覚兵衛がこの井堰から水を分けてもらって、下富田まで用水路を作りました。 現在は金丸井堰は宮崎県 最大のかんがい面積を持っています。 金丸惣八はその後、養蚕(ようさん)を地区の人々に教え、宮崎県の養蚕業のさきがけとなりました。 1898年(明治31年7月4日)に74歳で亡くなりました。 金丸井堰は以前は地名から「栗唐瀬 井堰」と呼ばれていました。

 「山角橋」は宮崎県 西都市 大字調殿にあります。

 「新瀬口橋」は宮崎県 西都市 大字岡富にあります。

 「濁川橋 (にごりがわはし)」は宮崎県 西都市 大字黒生野にあります。

 「柳瀬大橋」は宮崎県 児湯郡 新富町 柳瀬にあります。

 上水の「佐土原浄水場」は宮崎県 宮崎市 佐土原町 下田島 5025にあります。



写真A: 右の土手の上は国道219号線 (春田バイパス)で、黄色のセンターラインのある車道は旧 国道219号線です。 左に曲がると一ツ瀬川の柳瀬大橋(やなぜおおはし)を通って新富町に行きます。 左の建物は株式会社 一ツ瀬青物市場です。
国道219号線と旧国道219号線はすぐ先に三財川の濁川橋 (にごりがわはし)があります。 「濁川橋 (にごりがわはし)」は宮崎県 西都市 大字黒生野にあります。



写真B: 南東を見たもの。 三叉路(さんさろ)に(株)一ツ瀬青物市場があります。



写真C: 「いちば食堂」の看板(かんばん)もあります。 この道を進んで一ツ瀬川の「柳瀬大橋(やなぜおおはし)」に行きます。



写真D: 奥に一ツ瀬川の柳瀬大橋 (やなぜおおはし)があります。 左端に尾鈴山(標高 1405.2 m)が見えます。 右の集落は新富町 柳瀬(やなぜ)地区です。 一ツ瀬川の南岸の集落です。



写真E: 一ツ瀬川の柳瀬大橋が見えます。 「柳瀬大橋」は宮崎県 児湯郡 新富町 柳瀬にあります。 一ツ瀬川の南岸です。 右は児湯郡 新富町 柳瀬(やなぜ)の人家です。
明治時代に一ツ瀬川の井堰(いせき)と用水路を造った金丸惣八 (かねまるそうはち)は、1825年に新富町 柳瀬 (やなぜ)で生まれた佐土原藩士で1898年に亡くなりました。 一ツ瀬川に堰(せき)を造り、水路を建設しました。 私財をつぎ込んで約 4 km のかんがい用水路を造りました。 金丸井堰は1871年に完成しました。 旧 伊倉村の松本覚兵衛らが水路を作り、一ツ瀬川下流両岸の水田 約1000 ヘクタールを潤(うるお)しています。



写真F: 一ツ瀬川の柳瀬大橋 (やなぜおおはし)です。 平成18年6月竣工(しゅんこう、完成)。 北東を見たもの。



写真G: 「やなぜおおはし」と書いてあります。



写真H: 一ツ瀬川の柳瀬大橋 (平成18年6月竣工(しゅんこう))。 左端に尾鈴山(標高 1405.2 m)が見えます。 その手前は新田原台地 (にゅうたばるだいち)です。 北東を見たもの。



写真I: 「平成18年6月竣工(しゅんこう)」と書いてあります。



写真J: 柳瀬橋から下流を見た景色です。



写真K: 下流を見た景色。 潜水橋 (川が増水すると水没する橋です。)、一ツ瀬橋のそばの高い送電線鉄塔も見えます。 南東を見たもの。



写真L: 柳瀬大橋から上流方向を見たもの。 遠くに東九州自動車道の瀬口橋が見えます。
右端に尾鈴山(標高 1405.2 m)、その左に大瀬内山(標高 978.6 m)、その左寄りに稗畑山(ひえはたやま、標高 853.4 m)、地蔵岳(標高 1089 m)、猪田山(標高 741 m)などが見えます。 北西を見たもの。



写真M: 大瀬内山(標高 978.6 m)、その左寄りに稗畑山(ひえはたやま、標高 853.4 m)、地蔵岳(標高 1089 m)などが見えます。 北西を見たもの。



写真N: 右端の稗畑山(ひえはたやま、標高 853.4 m)、地蔵岳(標高 1089 m)、猪田山(標高 741 m)などが見えます。



写真O: 一ツ瀬川の柳瀬大橋 (やなぜおおはし)です。 平成18年6月竣工(しゅんこう、完成)。 北東を見たもの。



写真P: 右端に尾鈴山(標高 1405.2 m)、その左に大瀬内山(標高 978.6 m)、その左寄りに稗畑山(ひえはたやま、標高 853.4 m)、地蔵岳(標高 1089 m)、猪田山(標高 741 m)などが見えます。 北西を見たもの。



写真Q: 右寄りに地蔵岳(標高 1089 m)、猪田山(標高 741 m)などが見えます。 そのずっと左に国見山(標高 1036.3 m)も見えています。 北西を見たもの。



写真R: 遠くに茶色の屋根の一ツ瀬青物市場、その右に春田バイパスが見えます。 西を見たもの。



写真S: 一ツ瀬川の柳瀬大橋 (やなぜおおはし)です。 平成18年6月竣工(しゅんこう、完成)。 南西を見たもの。
新富町 柳瀬地区の人家が見えます。
明治時代に一ツ瀬川の井堰(いせき)(金丸井堰、金丸堰)と用水路(金丸用水路)を造った金丸惣八 (かねまるそうはち)は、1825年(文政9年)5月5日に新富町 柳瀬 (やなぜ)で金丸景住の長男として生まれた佐土原藩士です。 若くして佐土原藩の水利係の役人になりました。 家老のお供をして、京、大坂(大阪)、江戸に行きました。 惣八は佐土原藩内に溜池(ためいけ)も造りました。 栗唐瀬井堰は長さ 約270 m、高さ 約3 mの石積みの堰堤を持っていました。 水路は約 4 kmで黒生野、岡富、現王島、柳瀬などに水が来ました (明治4年3月18日)。 その後、新田村 伊倉の松本覚兵衛がこの井堰から水を分けてもらって、下富田まで用水路を作りました。 現在は金丸井堰は宮崎県 最大のかんがい面積を持っています。 金丸惣八はその後、養蚕(ようさん)を地区の人々に教え、宮崎県の養蚕業のさきがけとなりました。 1898年(明治31年7月4日)に74歳で亡くなりました。 金丸井堰は以前は地名から「栗唐瀬 井堰」と呼ばれていました。



写真T: 川岸に竹林があります。 南西を見たもの。
明治時代に一ツ瀬川の井堰(いせき)(金丸井堰、金丸堰)と用水路(金丸用水路)を造った金丸惣八 (かねまるそうはち)は、1825年(文政9年)5月5日に新富町 柳瀬 (やなぜ)で金丸景住の長男として生まれた佐土原藩士です。 若くして佐土原藩の水利係の役人になりました。 家老のお供をして、京、大坂(大阪)、江戸に行きました。 惣八は佐土原藩内に溜池(ためいけ)も造りました。 栗唐瀬井堰は長さ 約270 m、高さ 約3 mの石積みの堰堤を持っていました。 水路は約 4 kmで黒生野、岡富、現王島、柳瀬などに水が来ました (明治4年3月18日)。 その後、新田村 伊倉の松本覚兵衛がこの井堰から水を分けてもらって、下富田まで用水路を作りました。 現在は金丸井堰は宮崎県 最大のかんがい面積を持っています。 金丸惣八はその後、養蚕(ようさん)を地区の人々に教え、宮崎県の養蚕業のさきがけとなりました。 1898年(明治31年7月4日)に74歳で亡くなりました。 金丸井堰は以前は地名から「栗唐瀬 井堰」と呼ばれていました。



写真U: 護岸のコンクリートブロックが見えます。 竹林があります。 南を見たもの。



写真V: 左寄りに船が通っています。 下流を見た景色。 東を見たもの。



写真W: 河原(かわら)に人が見えます。 船も動いています。 遠くは新富町の新田原台地(にゅうたばるだいち)です。



写真X: 一ツ瀬川の柳瀬大橋 (やなぜおおはし)です。 平成18年6月竣工(しゅんこう、完成)。 北東を見たもの。



写真Y: 船が白波を起こして走っています。 東を見たもの。



写真Z: 柳瀬大橋から見た尾鈴山(標高 1405.2 m)です。 北を見たもの。



写真AA: 九州自動車道の一ツ瀬川の瀬口橋が見えます。 その少し奥に新 瀬口橋があります。
大瀬内山(標高 978.6 m)、その左寄りに稗畑山(ひえはたやま、標高 853.4 m)、地蔵岳(標高 1089 m)などが見えます。



写真AB: 右端に大瀬内山(標高 978.6 m)、その左寄りに稗畑山(ひえはたやま、標高 853.4 m)、地蔵岳(標高 1089 m)、猪田山(標高 741 m)などが見えます。
九州自動車道の一ツ瀬川の瀬口橋が見えます。



写真AC: 遠くに国道219号線 (春田バイパス)が見えます。 水門も見えます。



写真AD: 左は国見山(標高 1036.3 m)です。



写真AE: 右端に国見山(標高 1036.3 m)が見えます。



写真AF: 左の茶色の屋根は一ツ瀬青物市場です。 国道219号線 (春田バイパス)が見えます。 竹林も手前にあります。 西を見たもの。



写真AG: 茶色の屋根は一ツ瀬青物市場です。 国道219号線 (春田バイパス)が見えます。 西を見たもの。



写真AH: 柳瀬大橋の南端の十字路が見えます。



写真AI: 宮崎市 佐土原町の山も見えます。 柳瀬地区の建物も見えています。
明治時代に一ツ瀬川の井堰(いせき)と用水路を造った金丸惣八 (かねまるそうはち)は、1825年に新富町 柳瀬 (やなぜ)で生まれた佐土原藩士で1898年に亡くなりました。 一ツ瀬川に堰(せき)を造り、水路を建設しました。 私財をつぎ込んで約 4 km のかんがい用水路を造りました。 金丸井堰は1871年に完成しました。 旧 伊倉村の松本覚兵衛らが水路を作り、一ツ瀬川下流両岸の水田 約1000 ヘクタールを潤(うるお)しています。



写真AJ: 宮崎市 佐土原町の山。 柳瀬地区の建物も見えています。
明治時代に一ツ瀬川の井堰(いせき)と用水路を造った金丸惣八 (かねまるそうはち)は、1825年に新富町 柳瀬 (やなぜ)で生まれた佐土原藩士で1898年に亡くなりました。 一ツ瀬川に堰(せき)を造り、水路を建設しました。 私財をつぎ込んで約 4 km のかんがい用水路を造りました。 金丸井堰は1871年に完成しました。 旧 伊倉村の松本覚兵衛らが水路を作り、一ツ瀬川下流両岸の水田 約1000 ヘクタールを潤(うるお)しています。



写真AK: 柳瀬地区の建物も見えています。 南を見たもの。
明治時代に一ツ瀬川の井堰(いせき)と用水路を造った金丸惣八 (かねまるそうはち)は、1825年に新富町 柳瀬 (やなぜ)で生まれた佐土原藩士で1898年に亡くなりました。 一ツ瀬川に堰(せき)を造り、水路を建設しました。 私財をつぎ込んで約 4 km のかんがい用水路を造りました。 金丸井堰は1871年に完成しました。 旧 伊倉村の松本覚兵衛らが水路を作り、一ツ瀬川下流両岸の水田 約1000 ヘクタールを潤(うるお)しています。



写真AL: 右岸(下流を見て右)のコンクリート ブロックも見えます。 南を見たもの。



写真AM: 左に下流の潜水橋が見えます。 洲(す)に車の轍(わだち)もあります。 南東を見たもの。



写真AN: 柳瀬橋から下流に見える潜水橋です。 南東を見たもの。



写真AO: 東を見た景色です。 河川敷(かせんじき)と新富町が見えています。 東を見たもの。



写真AP: 新富町の西体育館、新田小学校、新田中学校も見えます。 奥は新田原台地 (にゅうたばるだいち)です。



写真AQ: 北東を見た景色です。 人家、集落、新田原台地も見えます。



写真AR: 一ツ瀬川の柳瀬大橋 (やなぜおおはし)です。 平成18年6月竣工(しゅんこう、完成)。 北東を見たもの。



写真AS: 北を見たもの。



写真AT: 尾鈴山(標高 1405.2 m)が見えます。 北を見たもの。



写真AU: 大瀬内山(標高 978.6 m)、その左寄りに稗畑山(ひえはたやま、標高 853.4 m)、地蔵岳(標高 1089 m)などが見えます。
北西を見たもの。



写真AV: 尾鈴山(標高 1405.2 m)、その左に大瀬内山(標高 978.6 m)、その左寄りに稗畑山(ひえはたやま、標高 853.4 m)、地蔵岳(標高 1089 m)、猪田山(標高 741 m)などが見えます。 北西を見たもの。



写真AW: 北西を見た景色。



写真AX: 国見山(標高 1036.3 m)が見えます。



写真AY: 南西を見たもの。



写真AZ: 大瀬内山(標高 978.6 m)、その左寄りに稗畑山(ひえはたやま、標高 853.4 m)、地蔵岳(標高 1089 m)、猪田山(標高 741 m)などが見えます。 北西を見たもの。



写真BA: 右に稗畑山(ひえはたやま、標高 853.4 m)、地蔵岳(標高 1089 m)
などが見えます。 北西を見たもの。



写真BB: 尾鈴山(標高 1405.2 m)、その左に大瀬内山(標高 978.6 m)、その左寄りに稗畑山(ひえはたやま、標高 853.4 m)、地蔵岳(標高 1089 m)、猪田山(標高 741 m)などが見えます。 北西を見たもの。



写真BC: 「一ツ瀬川」と書いてあります。



写真BD: 「柳瀬大橋」と書いてあります。



写真BE: 一ツ瀬川の柳瀬大橋の北端の十字路から北東を見たもの。 新田の家並み(いえなみ)、田んぼ、農業用ビニールハウス、新田原台地などが見えます。



写真BF: 北西を見たもの。 東九州自動車道の瀬口橋が土手の奥に見えます。 北西を見たもの。



写真BG: 柳瀬大橋から南東を見たもの。 佐土原町の山、土手の内側の畑、農業用ビニールハウス、携帯電話の基地局アンテナなどが見えます。



写真BH: 柳瀬大橋の南端から南東を見たもの。 柳瀬地区の人家が見えます。



写真BI: 柳瀬大橋の南端から北西を見たもの。



写真BJ: 柳瀬大橋の南端から北西を見たもの。 水門も見えます。



写真BK: 一ツ瀬川の新瀬口橋 (しんせぐちはし)です。 「新瀬口橋」は宮崎県 西都市 大字岡富にあります。 右に東九州自動車道の瀬口橋が見えます。 北東を見たもの。 奥の高台は新田原台地です。 「金丸井堰 (かねまるいせき)」に行くにはこの十字路を左に曲がって堤防の上の車道を進みます。 新瀬口は先程の柳瀬大橋の上流にあります。 金丸井堰は新瀬口橋と山角橋 (やますみばし)の間にあります。



写真BL: 少し下流に東九州自動車道の瀬口橋が見えます。 新瀬口橋は平成元年12月に竣工 (しゅんこう、完成)しました。



写真BM: 南東に東九州自動車道の瀬口橋、一ツ瀬川の南岸の堤防の道が見えます。



写真BN: 南東に東九州自動車道の上を走っている大型トラックが見えます。



写真BO: 新瀬口橋の南端から南西を見たもの。 西都市の人家も見えます。



写真BP: 北東を見たもの。 新瀬口橋の南端から土手の上を上流側に進んで「金丸井堰 (かねまるいせき)」に行きます。



写真BQ: 尾鈴山(標高 1405.2 m)、その左に大瀬内山(標高 978.6 m)などが見えます。 北を見たもの。 西都市にあるマンションも見えます。



写真BR: 竹林の手前の用水路が「金丸用水路」です。 これには金丸井堰から引いた水が流れます。



写真BS: 尾鈴山(標高 1405.2 m)が見えます。 北を見たもの。
よく見ると金丸井堰(いせき)が見えています。



写真BT: 「しんせぐちはし」と書いてあります。 平成元年12月に竣工 (しゅんこう、完成)した新瀬口橋の南端。



写真BU: 下流を見た景色。



写真BV: 「平成元年12月竣工 (しゅんこう、完成)」と書いてあります。 新瀬口橋の南端。



写真BW: 尾鈴山(標高 1405.2 m)、その左に大瀬内山(標高 978.6 m)、その左寄りに稗畑山(ひえはたやま、標高 853.4 m)、地蔵岳(標高 1089 m)などが見えます。



写真BX: 尾鈴山(標高 1405.2 m)、その下に木城町の白木八重牧場がある山、その下に西都市の茶臼原台地(ちゃうすばるだいち)が見えます。



写真BY: 大瀬内山(標高 978.6 m)、その左寄りに稗畑山(ひえはたやま、標高 853.4 m)、地蔵岳(標高 1089 m)などが見えます。



写真BZ: この土手の道を上流側に進んで金丸井堰に行きます。



写真CA: この土手の道を上流側に進んで金丸井堰に行きます。



写真CB: 金丸井堰に行く途中(とちゅう)に逆江保樋門があります。
一ツ瀬川堤防の内側です。



写真CC: 「逆江保樋門 西都土木事務所」と書いてあります。



写真CD: 用水路が土手の外に見えます。 旧 国道219号線沿(ぞ)いのガソリンスタンドも見えます。



写真CE: 用水路が土手の外にあります。 土手に野焼きの跡(あと)があります。
明治時代に一ツ瀬川の井堰(いせき)と用水路を造った金丸惣八 (かねまるそうはち)は、1825年に新富町 柳瀬 (やなぜ)で生まれた佐土原藩士で1898年に亡くなりました。 一ツ瀬川に堰(せき)を造り、水路を建設しました。 私財をつぎ込んで約 4 km のかんがい用水路を造りました。 金丸井堰は1871年に完成しました。 旧 伊倉村の松本覚兵衛らが水路を作り、一ツ瀬川下流両岸の水田 約1000 ヘクタールを潤(うるお)しています。



写真CF: 尾鈴山(標高 1405.2 m)、その左に大瀬内山(標高 978.6 m)、その左寄りに稗畑山(ひえはたやま、標高 853.4 m)、地蔵岳(標高 1089 m)、猪田山(標高 741 m)などが見えます。
手前に金丸用水路があります。 このあたりは西都市 大字右松です。
明治時代に一ツ瀬川の井堰(いせき)と用水路を造った金丸惣八 (かねまるそうはち)は、1825年に新富町 柳瀬 (やなぜ)で生まれた佐土原藩士で1898年に亡くなりました。 一ツ瀬川に堰(せき)を造り、水路を建設しました。 私財をつぎ込んで約 4 km のかんがい用水路を造りました。 金丸井堰は1871年に完成しました。 旧 伊倉村の松本覚兵衛らが水路を作り、一ツ瀬川下流両岸の水田 約1000 ヘクタールを潤(うるお)しています。



写真CG: 西都市にある一ツ瀬川の南岸堤防の上です。 左に金丸用水路、奥に尾鈴山(標高 1405.2 m)が見えます。 北を見たもの。



写真CH: 堤防の内側の様子(ようす)です。



写真CI: 尾鈴山(標高 1405.2 m)、その左に大瀬内山(標高 978.6 m)、その左寄りに稗畑山(ひえはたやま、標高 853.4 m)、地蔵岳(標高 1089 m)などが見えます。
左に金丸用水路が見えます。 北を見たもの。 このあたりは西都市 大字右松です。



写真CJ: 右の杉の木の左に、金丸井堰 (かねまるいせき)が見えて来ました。
明治時代に一ツ瀬川の井堰(いせき)(金丸井堰、金丸堰)と用水路(金丸用水路)を造った金丸惣八 (かねまるそうはち)は、1825年(文政9年)5月5日に新富町 柳瀬 (やなぜ)で金丸景住の長男として生まれた佐土原藩士です。 若くして佐土原藩の水利係の役人になりました。 家老のお供をして、京、大坂(大阪)、江戸に行きました。 惣八は佐土原藩内に溜池(ためいけ)も造りました。 栗唐瀬井堰は長さ 約270 m、高さ 約3 mの石積みの堰堤を持っていました。 水路は約 4 kmで黒生野、岡富、現王島、柳瀬などに水が来ました (明治4年3月18日)。 その後、新田村 伊倉の松本覚兵衛がこの井堰から水を分けてもらって、下富田まで用水路を作りました。 現在は金丸井堰は宮崎県 最大のかんがい面積を持っています。 金丸惣八はその後、養蚕(ようさん)を地区の人々に教え、宮崎県の養蚕業のさきがけとなりました。 1898年(明治31年7月4日)に74歳で亡くなりました。 金丸井堰は以前は地名から「栗唐瀬 井堰」と呼ばれていました。



写真CK: 右の杉の木の左に、「金丸井堰 (かねまるいせき)」が見えます。
明治時代に一ツ瀬川の井堰(いせき)と用水路を造った金丸惣八 (かねまるそうはち)は、1825年に新富町 柳瀬 (やなぜ)で生まれた佐土原藩士で1898年に亡くなりました。 一ツ瀬川に堰(せき)を造り、水路を建設しました。 私財をつぎ込んで約 4 km のかんがい用水路を造りました。 金丸井堰は1871年に完成しました。 旧 伊倉村の松本覚兵衛らが水路を作り、一ツ瀬川下流両岸の水田 約1000 ヘクタールを潤(うるお)しています。



写真CL: 来た土手の道を振り返ったもの。 南を見たもの。



写真CM: 金丸井堰の近くの河川敷(かせんじき)です。 一ツ瀬川の西岸。 奥は新田原台地です。



写真CN: 河川敷の奥に「金丸井堰」が見えます。 「金丸井堰 (金丸堰(せき))」は宮崎県 西都市 大字右松にあります。 このあたりは新田原台地のすぐそばを一ツ瀬川が流れています。
手前は西都市 大字右松で対岸は児湯郡 新富町 新田 春日です。
明治時代に一ツ瀬川の井堰(いせき)と用水路を造った金丸惣八 (かねまるそうはち)は、1825年に新富町 柳瀬 (やなぜ)で生まれた佐土原藩士で1898年に亡くなりました。 一ツ瀬川に堰(せき)を造り、水路を建設しました。 私財をつぎ込んで約 4 km のかんがい用水路を造りました。 金丸井堰は1871年に完成しました。 旧 伊倉村の松本覚兵衛らが水路を作り、一ツ瀬川下流両岸の水田 約1000 ヘクタールを潤(うるお)しています。



写真CO: 新瀬口橋と山角橋(やますみばし)の間に「金丸井堰」はあります。 右が下流側です。 今、井堰の改修工事中で左にテント、車両などが見えます。
明治時代に一ツ瀬川の井堰(いせき)(金丸井堰、金丸堰)と用水路(金丸用水路)を造った金丸惣八 (かねまるそうはち)は、1825年(文政9年)5月5日に新富町 柳瀬 (やなぜ)で金丸景住の長男として生まれた佐土原藩士です。 若くして佐土原藩の水利係の役人になりました。 家老のお供をして、京、大坂(大阪)、江戸に行きました。 惣八は佐土原藩内に溜池(ためいけ)も造りました。 栗唐瀬井堰は長さ 約270 m、高さ 約3 mの石積みの堰堤を持っていました。 水路は約 4 kmで黒生野、岡富、現王島、柳瀬などに水が来ました (明治4年3月18日)。 その後、新田村 伊倉の松本覚兵衛がこの井堰から水を分けてもらって、下富田まで用水路を作りました。 現在は金丸井堰は宮崎県 最大のかんがい面積を持っています。 金丸惣八はその後、養蚕(ようさん)を地区の人々に教え、宮崎県の養蚕業のさきがけとなりました。 1898年(明治31年7月4日)に74歳で亡くなりました。 金丸井堰は以前は地名から「栗唐瀬 井堰」と呼ばれていました。



写真CP: 井堰の上流側は、川の水位が上がり水量が多くなっています。 井堰の改修工事のプレハブの建物、車、テントなどが見えます。



写真CQ: 尾鈴山(標高 1405.2 m)、その左に大瀬内山(標高 978.6 m)、その左寄りに稗畑山(ひえはたやま、標高 853.4 m)、地蔵岳(標高 1089 m)、猪田山(標高 741 m)などが見えます。
土手の外に金丸頭首工(とうしゅこう、井堰)の操作室の建物が見えます。 このあたりは西都市 大字右松です。
明治時代に一ツ瀬川の井堰(いせき)と用水路を造った金丸惣八 (かねまるそうはち)は、1825年に新富町 柳瀬 (やなぜ)で生まれた佐土原藩士で1898年に亡くなりました。 一ツ瀬川に堰(せき)を造り、水路を建設しました。 私財をつぎ込んで約 4 km のかんがい用水路を造りました。 金丸井堰は1871年に完成しました。 旧 伊倉村の松本覚兵衛らが水路を作り、一ツ瀬川下流両岸の水田 約1000 ヘクタールを潤(うるお)しています。



写真CR: このあたりは西都市 大字右松です。



写真CS: 右松の人家も見えます。 手前に金丸用水路が見えます。



写真CT: 来た土手の道を振り返ったもの。 南を見たもの。



写真CU: 金丸用水路と金丸頭首工の操作室が見えます。 土手に野焼きの跡が見えてます。
明治時代に一ツ瀬川の井堰(いせき)と用水路を造った金丸惣八 (かねまるそうはち)は、1825年に新富町 柳瀬 (やなぜ)で生まれた佐土原藩士で1898年に亡くなりました。 一ツ瀬川に堰(せき)を造り、水路を建設しました。 私財をつぎ込んで約 4 km のかんがい用水路を造りました。 金丸井堰は1871年に完成しました。 旧 伊倉村の松本覚兵衛らが水路を作り、一ツ瀬川下流両岸の水田 約1000 ヘクタールを潤(うるお)しています。



写真CV: 金丸頭首工の操作室の上に赤いサイレンがあります。 一部工事中でした。 操作室は用水路の上にあります。
明治時代に一ツ瀬川の井堰(いせき)(金丸井堰、金丸堰)と用水路(金丸用水路)を造った金丸惣八 (かねまるそうはち)は、1825年(文政9年)5月5日に新富町 柳瀬 (やなぜ)で金丸景住の長男として生まれた佐土原藩士です。 若くして佐土原藩の水利係の役人になりました。 家老のお供をして、京、大坂(大阪)、江戸に行きました。 惣八は佐土原藩内に溜池(ためいけ)も造りました。 栗唐瀬井堰は長さ 約270 m、高さ 約3 mの石積みの堰堤を持っていました。 水路は約 4 kmで黒生野、岡富、現王島、柳瀬などに水が来ました (明治4年3月18日)。 その後、新田村 伊倉の松本覚兵衛がこの井堰から水を分けてもらって、下富田まで用水路を作りました。 現在は金丸井堰は宮崎県 最大のかんがい面積を持っています。 金丸惣八はその後、養蚕(ようさん)を地区の人々に教え、宮崎県の養蚕業のさきがけとなりました。 1898年(明治31年7月4日)に74歳で亡くなりました。 金丸井堰は以前は地名から「栗唐瀬 井堰」と呼ばれていました。



写真CW: 一ツ瀬川の金丸井堰です。 西岸堤防の上から見たものです。 手前は西都市 大字右松で対岸は児湯郡 新富町 新田 春日です。
明治時代に一ツ瀬川の井堰(いせき)と用水路を造った金丸惣八 (かねまるそうはち)は、1825年に新富町 柳瀬 (やなぜ)で生まれた佐土原藩士で1898年に亡くなりました。 一ツ瀬川に堰(せき)を造り、水路を建設しました。 私財をつぎ込んで約 4 km のかんがい用水路を造りました。 金丸井堰は1871年に完成しました。 旧 伊倉村の松本覚兵衛らが水路を作り、一ツ瀬川下流両岸の水田 約1000 ヘクタールを潤(うるお)しています。



写真CX: 井堰の少し下流の様子(ようす)です。



写真CY: 宮崎県 西都市 大字右松にある金丸井堰です。 東を見たもの。



写真CZ: 西都市 大字右松にある金丸井堰です。
明治時代に一ツ瀬川の井堰(いせき)(金丸井堰、金丸堰)と用水路(金丸用水路)を造った金丸惣八 (かねまるそうはち)は、1825年(文政9年)5月5日に新富町 柳瀬 (やなぜ)で金丸景住の長男として生まれた佐土原藩士です。 若くして佐土原藩の水利係の役人になりました。 家老のお供をして、京、大坂(大阪)、江戸に行きました。 惣八は佐土原藩内に溜池(ためいけ)も造りました。 栗唐瀬井堰は長さ 約270 m、高さ 約3 mの石積みの堰堤を持っていました。 水路は約 4 kmで黒生野、岡富、現王島、柳瀬などに水が来ました (明治4年3月18日)。 その後、新田村 伊倉の松本覚兵衛がこの井堰から水を分けてもらって、下富田まで用水路を作りました。 現在は金丸井堰は宮崎県 最大のかんがい面積を持っています。 金丸惣八はその後、養蚕(ようさん)を地区の人々に教え、宮崎県の養蚕業のさきがけとなりました。 1898年(明治31年7月4日)に74歳で亡くなりました。 金丸井堰は以前は地名から「栗唐瀬 井堰」と呼ばれていました。



写真DA: 金丸井堰の改修工事が行われていました。



写真DB: 改修工事の車が見えます。



写真DC:  金丸頭首工(かねまるとうしゅこう)の操作室です。 屋上にサイレンがあります。 西を見たもの。



写真DD: 金丸井堰から引いた水を流す金丸用水路です。 左は金丸頭首工の操作室です。 このあたりは宮崎県 西都市 大字右松です。



写真DE: 尾鈴山(標高 1405.2 m)、その左に大瀬内山(標高 978.6 m)、その左寄りに稗畑山(ひえはたやま、標高 853.4 m)、地蔵岳(標高 1089 m)などが見えます。



写真DF: 「金丸頭首工」の金属製説明板。
発注者 宮崎県知事 黒木博
土砂吐水門 幅 10 mx高さ 1.5 m、鋼製可動ゲート 1門、取入水門 1.3 m x1.2 m、鋼製スライドゲート 2門、駆動方式 油圧式、昭和47年竣工。
洪水吐水門 40 m x 1.2 m、鋼製可動ゲート 2門、駆動方式 油圧式、昭和48年竣工。
と書いてあります。



写真DG: 「金丸頭首工」の金属製説明板。
発注者 宮崎県知事 黒木博
土砂吐水門 幅 10 mx高さ 1.5 m、鋼製可動ゲート 1門、取入水門 1.3 m x1.2 m、鋼製スライドゲート 2門、駆動方式 油圧式、昭和47年竣工。
洪水吐水門 40 m x 1.2 m、鋼製可動ゲート 2門、駆動方式 油圧式、昭和48年竣工。
と書いてあります。



写真DH: 金丸井堰。 手前は西都市 大字右松で対岸は児湯郡 新富町 新田 春日です。 東を見たもの。



写真DI: 金丸井堰は改修工事中で。 プレハブの建物、テント、車などが見えます。 手前は西都市 大字右松で対岸は児湯郡 新富町 新田 春日です。 東を見たもの。
明治時代に一ツ瀬川の井堰(いせき)(金丸井堰、金丸堰)と用水路(金丸用水路)を造った金丸惣八 (かねまるそうはち)は、1825年(文政9年)5月5日に新富町 柳瀬 (やなぜ)で金丸景住の長男として生まれた佐土原藩士です。 若くして佐土原藩の水利係の役人になりました。 家老のお供をして、京、大坂(大阪)、江戸に行きました。 惣八は佐土原藩内に溜池(ためいけ)も造りました。 栗唐瀬井堰は長さ 約270 m、高さ 約3 mの石積みの堰堤を持っていました。 水路は約 4 kmで黒生野、岡富、現王島、柳瀬などに水が来ました (明治4年3月18日)。 その後、新田村 伊倉の松本覚兵衛がこの井堰から水を分けてもらって、下富田まで用水路を作りました。 現在は金丸井堰は宮崎県 最大のかんがい面積を持っています。 金丸惣八はその後、養蚕(ようさん)を地区の人々に教え、宮崎県の養蚕業のさきがけとなりました。 1898年(明治31年7月4日)に74歳で亡くなりました。 金丸井堰は以前は地名から「栗唐瀬 井堰」と呼ばれていました。



写真DJ: 井堰の上流側は水位が上がり、水量が多くなっています。 北東を見たもの。



写真DK: 北を見たもの。



写真DL: 旧国道219号線の商店も見えています。 南西を見たもの。



写真DM: 河川敷(かせんじき)と金丸井堰。 手前は西都市 大字右松で対岸は児湯郡 新富町 新田 春日です。
明治時代に一ツ瀬川の井堰(いせき)(金丸井堰、金丸堰)と用水路(金丸用水路)を造った金丸惣八 (かねまるそうはち)は、1825年(文政9年)5月5日に新富町 柳瀬 (やなぜ)で金丸景住の長男として生まれた佐土原藩士です。 若くして佐土原藩の水利係の役人になりました。 家老のお供をして、京、大坂(大阪)、江戸に行きました。 惣八は佐土原藩内に溜池(ためいけ)も造りました。 栗唐瀬井堰は長さ 約270 m、高さ 約3 mの石積みの堰堤を持っていました。 水路は約 4 kmで黒生野、岡富、現王島、柳瀬などに水が来ました (明治4年3月18日)。 その後、新田村 伊倉の松本覚兵衛がこの井堰から水を分けてもらって、下富田まで用水路を作りました。 現在は金丸井堰は宮崎県 最大のかんがい面積を持っています。 金丸惣八はその後、養蚕(ようさん)を地区の人々に教え、宮崎県の養蚕業のさきがけとなりました。 1898年(明治31年7月4日)に74歳で亡くなりました。 金丸井堰は以前は地名から「栗唐瀬 井堰」と呼ばれていました。



写真DN: 河川敷(かせんじき)に降りました。



写真DO: 南を見たもの。 河川敷です。



写真DP: 金丸井堰の下流の方を見たもの。 石、コンクリートが河床(かしょう)に転(ころ)がっています。



写真DQ: 金丸井堰。 井堰の少し下流はこのように石、コンクリートが河床に敷き詰(つ)めてあります。 手前は西都市 大字右松で対岸は児湯郡 新富町 新田 春日です。
明治時代に一ツ瀬川の井堰(いせき)(金丸井堰、金丸堰)と用水路(金丸用水路)を造った金丸惣八 (かねまるそうはち)は、1825年(文政9年)5月5日に新富町 柳瀬 (やなぜ)で金丸景住の長男として生まれた佐土原藩士です。 若くして佐土原藩の水利係の役人になりました。 家老のお供をして、京、大坂(大阪)、江戸に行きました。 惣八は佐土原藩内に溜池(ためいけ)も造りました。 栗唐瀬井堰は長さ 約270 m、高さ 約3 mの石積みの堰堤を持っていました。 水路は約 4 kmで黒生野、岡富、現王島、柳瀬などに水が来ました (明治4年3月18日)。 その後、新田村 伊倉の松本覚兵衛がこの井堰から水を分けてもらって、下富田まで用水路を作りました。 現在は金丸井堰は宮崎県 最大のかんがい面積を持っています。 金丸惣八はその後、養蚕(ようさん)を地区の人々に教え、宮崎県の養蚕業のさきがけとなりました。 1898年(明治31年7月4日)に74歳で亡くなりました。 金丸井堰は以前は地名から「栗唐瀬 井堰」と呼ばれていました。



写真DR: 宮崎県 西都市 大字右松にある「金丸井堰(かねまるいせき)」です。
明治時代に一ツ瀬川の井堰(いせき)(金丸井堰、金丸堰)と用水路(金丸用水路)を造った金丸惣八 (かねまるそうはち)は、1825年(文政9年)5月5日に新富町 柳瀬 (やなぜ)で金丸景住の長男として生まれた佐土原藩士です。 若くして佐土原藩の水利係の役人になりました。 家老のお供をして、京、大坂(大阪)、江戸に行きました。 惣八は佐土原藩内に溜池(ためいけ)も造りました。 栗唐瀬井堰は長さ 約270 m、高さ 約3 mの石積みの堰堤を持っていました。 水路は約 4 kmで黒生野、岡富、現王島、柳瀬などに水が来ました (明治4年3月18日)。 その後、新田村 伊倉の松本覚兵衛がこの井堰から水を分けてもらって、下富田まで用水路を作りました。 現在は金丸井堰は宮崎県 最大のかんがい面積を持っています。 金丸惣八はその後、養蚕(ようさん)を地区の人々に教え、宮崎県の養蚕業のさきがけとなりました。 1898年(明治31年7月4日)に74歳で亡くなりました。 金丸井堰は以前は地名から「栗唐瀬 井堰」と呼ばれていました。



写真DS: 井堰の左部分の改修工事が行われています。 北を見たもの。
明治時代に一ツ瀬川の井堰(いせき)(金丸井堰、金丸堰)と用水路(金丸用水路)を造った金丸惣八 (かねまるそうはち)は、1825年(文政9年)5月5日に新富町 柳瀬 (やなぜ)で金丸景住の長男として生まれた佐土原藩士です。 若くして佐土原藩の水利係の役人になりました。 家老のお供をして、京、大坂(大阪)、江戸に行きました。 惣八は佐土原藩内に溜池(ためいけ)も造りました。 栗唐瀬井堰は長さ 約270 m、高さ 約3 mの石積みの堰堤を持っていました。 水路は約 4 kmで黒生野、岡富、現王島、柳瀬などに水が来ました (明治4年3月18日)。 その後、新田村 伊倉の松本覚兵衛がこの井堰から水を分けてもらって、下富田まで用水路を作りました。 現在は金丸井堰は宮崎県 最大のかんがい面積を持っています。 金丸惣八はその後、養蚕(ようさん)を地区の人々に教え、宮崎県の養蚕業のさきがけとなりました。 1898年(明治31年7月4日)に74歳で亡くなりました。 金丸井堰は以前は地名から「栗唐瀬 井堰」と呼ばれていました。



写真DT: 西の土手を見たもの金丸頭首工の操作室が見えます。 手前は河原(かわら)です。



写真DU: 南西を見たもの。 河原と西岸の堤防が見えます。



写真DV: 金丸井堰の少し下流に石、コンクリートが敷き詰(つ)めてあります。
明治時代に一ツ瀬川の井堰(いせき)と用水路を造った金丸惣八 (かねまるそうはち)は、1825年に新富町 柳瀬 (やなぜ)で生まれた佐土原藩士で1898年に亡くなりました。 一ツ瀬川に堰(せき)を造り、水路を建設しました。 私財をつぎ込んで約 4 km のかんがい用水路を造りました。 金丸井堰は1871年に完成しました。 旧 伊倉村の松本覚兵衛らが水路を作り、一ツ瀬川下流両岸の水田 約1000 ヘクタールを潤(うるお)しています。



写真DW: 金丸井堰の東端部分です。 アユなどの魚が遡(さかのぼ)る階段状のもの(魚道)があります。



写真DX: 西都市 大字右松にある金丸井堰です。



写真DY: コンクリートの上に「土のう」のようなものが見えます。



写真DZ: 手前の階段状のものはアユなどの魚が遡(さかのぼ)るためのもの(魚道)でしょう。



写真EA: この部分は改修工事中でした。



写真EB: 工事のプレハブの建物、テント、車などがあります。



写真EC: 西都市にある一ツ瀬川の金丸井堰(かねまるいせき)です。



写真ED: 一ツ瀬川の金丸井堰(かねまるいせき)です。



写真EE: 一ツ瀬川の金丸井堰(かねまるいせき)。



写真EF: 金丸井堰の西端です。



写真EG: 西都市にある一ツ瀬川の金丸井堰(かねまるいせき)。



写真EH: 西都市にある金丸井堰。



写真EI: 一ツ瀬川の金丸井堰です。



写真EJ: 改修工事中でした。



写真EK: 左寄りの陸にあるものは用水路へ流れる水の門(水門)のようです。



写真EL: 改修工事が行われていました。



写真EM: 階段状のものはアユなどの魚が遡(さかのぼ)るためのものでしょう。



写真EN: アユなどの魚が遡(さかのぼ)るためのものの下流側です。 白波が見えます。



写真EO: アユなどの魚が遡(さかのぼ)るためのものの下流側です。 白波が見えます。



写真EP: 石、コンクリートが河床(かしょう)に敷き詰(つ)めてあります。



写真EQ: 石、コンクリートが河床(かしょう)に敷き詰(つ)めてあります。
明治時代に一ツ瀬川の井堰(いせき)と用水路を造った金丸惣八 (かねまるそうはち)は、1825年に新富町 柳瀬 (やなぜ)で生まれた佐土原藩士で1898年に亡くなりました。 一ツ瀬川に堰(せき)を造り、水路を建設しました。 私財をつぎ込んで約 4 km のかんがい用水路を造りました。 金丸井堰は1871年に完成しました。 旧 伊倉村の松本覚兵衛らが水路を作り、一ツ瀬川下流両岸の水田 約1000 ヘクタールを潤(うるお)しています。



写真ER: 南を見たもの。



写真ES: 用水路へ流れる水の門(水門)のようです。



写真ET: 一ツ瀬川の金丸井堰の改修工事。
明治時代に一ツ瀬川の井堰(いせき)と用水路を造った金丸惣八 (かねまるそうはち)は、1825年に新富町 柳瀬 (やなぜ)で生まれた佐土原藩士で1898年に亡くなりました。 一ツ瀬川に堰(せき)を造り、水路を建設しました。 私財をつぎ込んで約 4 km のかんがい用水路を造りました。 金丸井堰は1871年に完成しました。 旧 伊倉村の松本覚兵衛らが水路を作り、一ツ瀬川下流両岸の水田 約1000 ヘクタールを潤(うるお)しています。



写真EU: 金丸井堰の改修工事。



写真EV: 南を見たもの。



写真EW: 西から見た一ツ瀬川の金丸井堰です。



写真EX: 南を見たもの。



写真EY: 工事中の金丸井堰。



写真EZ: 井堰(いせき)の上流側は水位が上がり、水量が多くなっています。
明治時代に一ツ瀬川の井堰(いせき)(金丸井堰、金丸堰)と用水路(金丸用水路)を造った金丸惣八 (かねまるそうはち)は、1825年(文政9年)5月5日に新富町 柳瀬 (やなぜ)で金丸景住の長男として生まれた佐土原藩士です。 若くして佐土原藩の水利係の役人になりました。 家老のお供をして、京、大坂(大阪)、江戸に行きました。 惣八は佐土原藩内に溜池(ためいけ)も造りました。 栗唐瀬井堰は長さ 約270 m、高さ 約3 mの石積みの堰堤を持っていました。 水路は約 4 kmで黒生野、岡富、現王島、柳瀬などに水が来ました (明治4年3月18日)。 その後、新田村 伊倉の松本覚兵衛がこの井堰から水を分けてもらって、下富田まで用水路を作りました。 現在は金丸井堰は宮崎県 最大のかんがい面積を持っています。 金丸惣八はその後、養蚕(ようさん)を地区の人々に教え、宮崎県の養蚕業のさきがけとなりました。 1898年(明治31年7月4日)に74歳で亡くなりました。 金丸井堰は以前は地名から「栗唐瀬 井堰」と呼ばれていました。



写真FA: 金丸井堰(いせき)の上流側は水位が上がり、水量が多くなっています。



写真FB: 井堰(いせき)の上流側は水位が上がり、水量が多くなっています。



写真FC: 東岸、左寄りのところに水門のようなものが見えます。
一ツ瀬川の左岸(下流に向かって左)の伊倉、新田(にゅうた)の方に水を引くための取水口でしょう。



写真FD: 上流側から見た金丸井堰です。
明治時代に一ツ瀬川の井堰(いせき)(金丸井堰、金丸堰)と用水路(金丸用水路)を造った金丸惣八 (かねまるそうはち)は、1825年(文政9年)5月5日に新富町 柳瀬 (やなぜ)で金丸景住の長男として生まれた佐土原藩士です。 若くして佐土原藩の水利係の役人になりました。 家老のお供をして、京、大坂(大阪)、江戸に行きました。 惣八は佐土原藩内に溜池(ためいけ)も造りました。 栗唐瀬井堰は長さ 約270 m、高さ 約3 mの石積みの堰堤を持っていました。 水路は約 4 kmで黒生野、岡富、現王島、柳瀬などに水が来ました (明治4年3月18日)。 その後、新田村 伊倉の松本覚兵衛がこの井堰から水を分けてもらって、下富田まで用水路を作りました。 現在は金丸井堰は宮崎県 最大のかんがい面積を持っています。 金丸惣八はその後、養蚕(ようさん)を地区の人々に教え、宮崎県の養蚕業のさきがけとなりました。 1898年(明治31年7月4日)に74歳で亡くなりました。 金丸井堰は以前は地名から「栗唐瀬 井堰」と呼ばれていました。



写真FE: 工事中の井堰。



写真FF: 工事中の金丸井堰。



写真FG: 工事中の井堰です。



写真FH: 手前は用水路と井堰の間の水門のようです。



写真FI: 南を見たもの。



写真FJ: 金丸井堰の上流にある「山角橋 (やますみばし)」です。 「山角橋」は宮崎県 西都市 大字調殿にあります。
右に行くと西都市 大口川の十字路、新富町、高鍋町などに行きます。 左に行くと西都市の中心部、宮崎市などに行きます。
北を見たもの。



写真FK: 一ツ瀬川の「山角橋」です。 宮崎県 西都市 大字調殿 字山角にあります。 奥が上流です。



写真FL: 来た土手の道を振り返ったもの。 この先に金丸井堰があります。



写真FM: 南を見た景色です。 山角橋の少し下流側です。



写真FN: 宮崎県 宮崎市 下田島の農産物 直販店(畑ぼら)です。



写真FO: このあたりも金丸井堰からの用水路が来ています。



写真FP: 県道326号線です。 北西を見たもの。 宮崎市 佐土原町の宝塔山、大光寺のある山なども見えます。
左端に「一ツ瀬川筋土地改良事業 記念碑、 宮崎県知事 黒木博 一ツ瀬川筋土地改良区」と書いてある石碑(せきひ)があります。



写真FQ: 「一ツ瀬川筋土地改良事業 記念碑、 宮崎県知事 黒木博 一ツ瀬川筋土地改良区」と書いてある石碑(せきひ)があります。
左に金丸井堰、用水路などの説明板もあります。 宮崎県 宮崎市 佐土原町 下田島です。



写真FR: 金丸井堰、用水路などの説明板と石碑(せきひ)が県道326号線沿(ぞ)いにあります。



写真FS: 説明板、石碑(せきひ)の近くです。



写真FT: 石碑の近くの県道326号線です。 先に行くとパナソニックを通って、宮崎市 佐土原町 下田島の国道10号線に行きます。



写真FU: 農産物 直販店の近くです。



写真FV: 金丸井堰、金丸用水路の説明板、石碑の近くにある農産物直販店(畑ぼら)です。



写真FW: 金丸井堰、金丸用水路の説明板、石碑の近くにある農産物直販店(畑ぼら)。



写真FX: 県道326号線。 先に行くと宮崎市 佐土原町 上田島、西都市、一ツ瀬川の一ツ瀬橋、児湯郡 新富町などに行きます。 左に石碑が見えます。



写真FY: 金丸井堰、金丸用水路の説明板、石碑です。



写真FZ: 「一ツ瀬川筋土地改良事業 記念碑、 宮崎県知事 黒木博 一ツ瀬川筋土地改良区」と書いてある石碑(せきひ)。 昭和45年2月建立。



写真GA: 「一ツ瀬川筋土地改良事業 記念碑、 宮崎県知事 黒木博 一ツ瀬川筋土地改良区」と書いてある石碑(せきひ)があります。
昭和45年2月建立。



写真GB: 「一ツ瀬川筋土地改良事業 記念碑、 宮崎県知事 黒木博 一ツ瀬川筋土地改良区」と書いてある石碑(せきひ)の裏です。
昭和45年2月建立。



写真GC: 「一ツ瀬川筋土地改良事業 記念碑、 宮崎県知事 黒木博 一ツ瀬川筋土地改良区」と書いてある石碑(せきひ)の裏です。
昭和45年2月建立。



写真GD: 「一ツ瀬川筋土地改良事業 記念碑、 宮崎県知事 黒木博 一ツ瀬川筋土地改良区」と書いてある石碑(せきひ)の裏。
昭和45年2月建立。



写真GE: 「一ツ瀬川筋土地改良事業 記念碑、 宮崎県知事 黒木博 一ツ瀬川筋土地改良区」と書いてある石碑(せきひ)の裏です。
昭和45年2月建立。



写真GF: 「金丸幹線用水路」の説明板です。
 この用水路は、「農業用の施設」です。
農家の人たちがこの水路から田に水を引いて米や野菜を作っているとても大切な施設ですから、ゴミや空きかんをすてないようにしましょう。
金丸幹線用水路の歴史
 この地域の水田は、明治4年金丸惣八 (かねまるそうはち)が建設された金丸堰(せき)から用水しています。
氏は、旧佐土原藩士として、江戸時代の安政3年 (1856年)に時の家老 曽小川久郷 (そおかわひささと)と共に全国を視察して、開田 (水を引いて水田を作ること)の必要性を説(と)き、藩主の命令により自ら設計し、井堰(いせき)を築くと共に約 4 km 用水路を引き、黒生野、柳瀬 一帯の約 40 ha の開田を行ないました。
 その後、度重(たびかさ)なる台風により金丸堰は、何度も壊(こわ)れましたが、昭和50年に今の井堰(いせき)が完成しました。 また、用水路は次々に延長工事が行われ、現在では、約 17 km にもおよぶ用水路で大字上田島、下田島 一帯をかんがいし、地域の発展に大きく役立っています。
金丸用水路の概要
1.水路延長 17020 m、2.受益面積 364 ha。
*井堰とは!!
 川の水をせき止め、(水面を上げ)水路を通して田畑に水を引き入れたり、水の量を調節するための施設で、別名「頭首工 (とうしゅこう)」とも呼んでいます。
地区概要図も載っています。
管理者 一ツ瀬川筋土地改良区、製作者 宮崎県土地改良事業団体連合会
と書かれています。



写真GG: 「金丸幹線用水路」の説明板です。
 この用水路は、「農業用の施設」です。
農家の人たちがこの水路から田に水を引いて米や野菜を作っているとても大切な施設ですから、ゴミや空きかんをすてないようにしましょう。
金丸幹線用水路の歴史
 この地域の水田は、明治4年金丸惣八 (かねまるそうはち)が建設された金丸堰(せき)から用水しています。
氏は、旧佐土原藩士として、江戸時代の安政3年 (1856年)に時の家老 曽小川久郷 (そおかわひささと)と共に全国を視察して、開田 (水を引いて水田を作ること)の必要性を説(と)き、藩主の命令により自ら設計し、井堰(いせき)を築くと共に約 4 km 用水路を引き、黒生野、柳瀬 一帯の約 40 ha の開田を行ないました。
 その後、度重(たびかさ)なる台風により金丸堰は、何度も壊(こわ)れましたが、昭和50年に今の井堰(いせき)が完成しました。 また、用水路は次々に延長工事が行われ、現在では、約 17 km にもおよぶ用水路で大字上田島、下田島 一帯をかんがいし、地域の発展に大きく役立っています。
金丸用水路の概要
1.水路延長 17020 m、2.受益面積 364 ha。
*井堰とは!!
 川の水をせき止め、(水面を上げ)水路を通して田畑に水を引き入れたり、水の量を調節するための施設で、別名「頭首工 (とうしゅこう)」とも呼んでいます。
地区概要図も載っています。
管理者 一ツ瀬川筋土地改良区、製作者 宮崎県土地改良事業団体連合会
と書かれています。



写真GH: 「金丸幹線用水路」の説明板です。
 この用水路は、「農業用の施設」です。
農家の人たちがこの水路から田に水を引いて米や野菜を作っているとても大切な施設ですから、ゴミや空きかんをすてないようにしましょう。
金丸幹線用水路の歴史
 この地域の水田は、明治4年金丸惣八 (かねまるそうはち)が建設された金丸堰(せき)から用水しています。
氏は、旧佐土原藩士として、江戸時代の安政3年 (1856年)に時の家老 曽小川久郷 (そおかわひささと)と共に全国を視察して、開田 (水を引いて水田を作ること)の必要性を説(と)き、藩主の命令により自ら設計し、井堰(いせき)を築くと共に約 4 km 用水路を引き、黒生野、柳瀬 一帯の約 40 ha の開田を行ないました。
 その後、度重(たびかさ)なる台風により金丸堰は、何度も壊(こわ)れましたが、昭和50年に今の井堰(いせき)が完成しました。 また、用水路は次々に延長工事が行われ、現在では、約 17 km にもおよぶ用水路で大字上田島、下田島 一帯をかんがいし、地域の発展に大きく役立っています。
金丸用水路の概要
1.水路延長 17020 m、2.受益面積 364 ha。
*井堰とは!!
 川の水をせき止め、(水面を上げ)水路を通して田畑に水を引き入れたり、水の量を調節するための施設で、別名「頭首工 (とうしゅこう)」とも呼んでいます。
地区概要図も載っています。
管理者 一ツ瀬川筋土地改良区、製作者 宮崎県土地改良事業団体連合会
と書かれています。



写真GI: 「金丸幹線用水路」の説明板です。
 この用水路は、「農業用の施設」です。
農家の人たちがこの水路から田に水を引いて米や野菜を作っているとても大切な施設ですから、ゴミや空きかんをすてないようにしましょう。
金丸幹線用水路の歴史
 この地域の水田は、明治4年金丸惣八 (かねまるそうはち)が建設された金丸堰(せき)から用水しています。
氏は、旧佐土原藩士として、江戸時代の安政3年 (1856年)に時の家老 曽小川久郷 (そおかわひささと)と共に全国を視察して、開田 (水を引いて水田を作ること)の必要性を説(と)き、藩主の命令により自ら設計し、井堰(いせき)を築くと共に約 4 km 用水路を引き、黒生野、柳瀬 一帯の約 40 ha の開田を行ないました。
 その後、度重(たびかさ)なる台風により金丸堰は、何度も壊(こわ)れましたが、昭和50年に今の井堰(いせき)が完成しました。 また、用水路は次々に延長工事が行われ、現在では、約 17 km にもおよぶ用水路で大字上田島、下田島 一帯をかんがいし、地域の発展に大きく役立っています。
金丸用水路の概要
1.水路延長 17020 m、2.受益面積 364 ha。
*井堰とは!!
 川の水をせき止め、(水面を上げ)水路を通して田畑に水を引き入れたり、水の量を調節するための施設で、別名「頭首工 (とうしゅこう)」とも呼んでいます。
地区概要図も載っています。
管理者 一ツ瀬川筋土地改良区、製作者 宮崎県土地改良事業団体連合会
と書かれています。



写真GJ: 石碑(せきひ)から北東を見たもの。



写真GK: 「佐土原浄水場」の建物が見えます。 手前は用水路です。
佐土原浄水場は宮崎市 佐土原町 下田島 5025にあります。 北西を見たもの。



写真GL: 南を見たもの。



写真GM: 石碑の近くの農産物直販店です。



写真GN: 左手前は用水路です。 左奥に上水の大きな円筒形のタンクが見えます。



写真GO: 手前は用水路です。 右奥に上水の大きな円筒形のタンクが見えます。



写真GP: 手前は用水路です。 「佐土原浄水場」の建物が見えます。 佐土原浄水場は宮崎市 佐土原町 下田島 5025にあります。 北を見た景色です。



写真GQ: 石碑の近くの用水路です。 大光寺のある山も見えます。 高い送電線鉄塔もあります。 西を見たもの。



写真GR: 右端は用水路です。



写真GS: 西を見たもの。



写真GT: 西を見たもの。



写真GU: 用水路の橋があります。



写真GV: 石碑の近くの用水路です。



写真GW: 用水路の橋があります。



写真GX: 北を見た景色です。 左端は佐土原浄水場です。 用水路も見えます。



写真GY: 東を見たもの。 用水路の橋の上から見たものです。 左は上水の大きな円筒形のタンクです。



写真GZ: 東を見たもの。



写真HA: 北を見た景色です。



写真HB: 「とぐろ」と呼ばれている用水路です。 東を見たもの。 上水の大きな円筒形のタンクが見えます。
明治時代に一ツ瀬川の井堰(いせき)(金丸井堰、金丸堰)と用水路(金丸用水路)を造った金丸惣八 (かねまるそうはち)は、1825年(文政9年)5月5日に新富町 柳瀬 (やなぜ)で金丸景住の長男として生まれた佐土原藩士です。 若くして佐土原藩の水利係の役人になりました。 家老のお供をして、京、大坂(大阪)、江戸に行きました。 惣八は佐土原藩内に溜池(ためいけ)も造りました。 栗唐瀬井堰は長さ 約270 m、高さ 約3 mの石積みの堰堤を持っていました。 水路は約 4 kmで黒生野、岡富、現王島、柳瀬などに水が来ました (明治4年3月18日)。 その後、新田村 伊倉の松本覚兵衛がこの井堰から水を分けてもらって、下富田まで用水路を作りました。 現在は金丸井堰は宮崎県 最大のかんがい面積を持っています。 金丸惣八はその後、養蚕(ようさん)を地区の人々に教え、宮崎県の養蚕業のさきがけとなりました。 1898年(明治31年7月4日)に74歳で亡くなりました。 金丸井堰は以前は地名から「栗唐瀬 井堰」と呼ばれていました。



写真HC: 「とぐろ」と呼ばれている用水路です。



写真HD: 「とぐろ」と呼ばれている用水路。
明治時代に一ツ瀬川の井堰(いせき)と用水路を造った金丸惣八 (かねまるそうはち)は、1825年に新富町 柳瀬 (やなぜ)で生まれた佐土原藩士で1898年に亡くなりました。 一ツ瀬川に堰(せき)を造り、水路を建設しました。 私財をつぎ込んで約 4 km のかんがい用水路を造りました。 金丸井堰は1871年に完成しました。 旧 伊倉村の松本覚兵衛らが水路を作り、一ツ瀬川下流両岸の水田 約1000 ヘクタールを潤(うるお)しています。



写真HE: 用水路は、現在はコンクリートで造られています。



写真HF: 「とぐろ」と呼ばれている用水路です。



写真HG: 「とぐろ」と呼ばれている用水路。
明治時代に一ツ瀬川の井堰(いせき)(金丸井堰、金丸堰)と用水路(金丸用水路)を造った金丸惣八 (かねまるそうはち)は、1825年(文政9年)5月5日に新富町 柳瀬 (やなぜ)で金丸景住の長男として生まれた佐土原藩士です。 若くして佐土原藩の水利係の役人になりました。 家老のお供をして、京、大坂(大阪)、江戸に行きました。 惣八は佐土原藩内に溜池(ためいけ)も造りました。 栗唐瀬井堰は長さ 約270 m、高さ 約3 mの石積みの堰堤を持っていました。 水路は約 4 kmで黒生野、岡富、現王島、柳瀬などに水が来ました (明治4年3月18日)。 その後、新田村 伊倉の松本覚兵衛がこの井堰から水を分けてもらって、下富田まで用水路を作りました。 現在は金丸井堰は宮崎県 最大のかんがい面積を持っています。 金丸惣八はその後、養蚕(ようさん)を地区の人々に教え、宮崎県の養蚕業のさきがけとなりました。 1898年(明治31年7月4日)に74歳で亡くなりました。 金丸井堰は以前は地名から「栗唐瀬 井堰」と呼ばれていました。



写真HH: 用水路の近くです。



写真HI: 用水路の近く。



写真HJ: 南東を見たもの。



写真HK: 東を見たもの。 「とぐろ」と呼ばれる用水路です。 上水の円筒形タンクも見えます。
明治時代に一ツ瀬川の井堰(いせき)(金丸井堰、金丸堰)と用水路(金丸用水路)を造った金丸惣八 (かねまるそうはち)は、1825年(文政9年)5月5日に新富町 柳瀬 (やなぜ)で金丸景住の長男として生まれた佐土原藩士です。 若くして佐土原藩の水利係の役人になりました。 家老のお供をして、京、大坂(大阪)、江戸に行きました。 惣八は佐土原藩内に溜池(ためいけ)も造りました。 栗唐瀬井堰は長さ 約270 m、高さ 約3 mの石積みの堰堤を持っていました。 水路は約 4 kmで黒生野、岡富、現王島、柳瀬などに水が来ました (明治4年3月18日)。 その後、新田村 伊倉の松本覚兵衛がこの井堰から水を分けてもらって、下富田まで用水路を作りました。 現在は金丸井堰は宮崎県 最大のかんがい面積を持っています。 金丸惣八はその後、養蚕(ようさん)を地区の人々に教え、宮崎県の養蚕業のさきがけとなりました。 1898年(明治31年7月4日)に74歳で亡くなりました。 金丸井堰は以前は地名から「栗唐瀬 井堰」と呼ばれていました。



写真HL: 奥に「とぐろ」と呼ばれる用水路の橋も見えます。 左は上水の大きな円筒形タンクです。
明治時代に一ツ瀬川の井堰(いせき)と用水路を造った金丸惣八 (かねまるそうはち)は、1825年に新富町 柳瀬 (やなぜ)で生まれた佐土原藩士で1898年に亡くなりました。 一ツ瀬川に堰(せき)を造り、水路を建設しました。 私財をつぎ込んで約 4 km のかんがい用水路を造りました。 金丸井堰は1871年に完成しました。 旧 伊倉村の松本覚兵衛らが水路を作り、一ツ瀬川下流両岸の水田 約1000 ヘクタールを潤(うるお)しています。



写真HM: 「とぐろ」と呼ばれる用水路です。 コンクリートで護岸工事がなされています。
明治時代に一ツ瀬川の井堰(いせき)と用水路を造った金丸惣八 (かねまるそうはち)は、1825年に新富町 柳瀬 (やなぜ)で生まれた佐土原藩士で1898年に亡くなりました。 一ツ瀬川に堰(せき)を造り、水路を建設しました。 私財をつぎ込んで約 4 km のかんがい用水路を造りました。 金丸井堰は1871年に完成しました。 旧 伊倉村の松本覚兵衛らが水路を作り、一ツ瀬川下流両岸の水田 約1000 ヘクタールを潤(うるお)しています。



写真HN: 用水路から西を見たもの。



写真HO: 用水路が分岐(ぶんき)しています。 西を見たもの。



写真HP: 石碑の近くの用水路です。 東を見たもの。 黒く野焼きの跡(あと)が見えます。



写真HQ: 東を見たもの。 黒く野焼きの跡があります。 右端は用水路。



写真HR: 北を見た景色です。



写真HS: 北西を見たもの。 佐土原浄水場が見えます。



写真HT: 大光寺のある山、その左に宝塔山が見えます。 宝塔山には小さく展望台が見えています。



写真HU: 石碑の近くの用水路。



写真HV: 手前は用水路です。 西を見たもの。



写真HW: 東を見たもの。



写真HX: 手前は用水路です。



写真HY: 西を見たもの。 農産物直販店が見えます。



写真HZ: 北西を見たもの。 送電線鉄塔が続いています。



写真IA: 大光寺のある山、その左に宝塔山が見えます。 宝塔山には小さく展望台が見えています。



写真IB: 右端に尾鈴山(標高 1405.2 m)が見えます。



写真IC: 北を見た景色です。 用水路の奥に尾鈴山(標高 1405.2 m)が見えます。



写真ID: 北東を見たもの。 上水の大きな円筒形のタンクが用水路の奥に見えます。



写真IE: 用水路の橋です。



写真IF: 北東を見たもの。 上水の円筒形タンクが見えます。 その手前に「とぐろ」と呼ばれる用水路があります。



写真IG: 用水路の橋です。 西を見たもの。 右奥は農産物直販店です。 山の上にも送電線鉄塔があります。



写真IH: 用水路の橋の上から見たものです。 大光寺のある山、その左に宝塔山が見えます。



写真II: 橋の上から東を見たもの。 用水路です。 細波(さざなみ)が水面に見えます。



by 南陽彰悟 (NANYO Shogo)