加久藤城跡、鶴寿丸の墓 (海上自衛隊 VLFアンテナ、松原の家並み、麓の家並み、加久藤城、覚頭城、久藤城、かくとうじょうあと、竃門神社 (諏訪神社)、久藤会 梅林、島津義弘の長男 鶴寿丸の墓、つるひさまるの墓、島津義弘の8歳で亡くなった長男の墓)  (宮崎県 えびの市 大字小田 字城内、加久藤 麓)







<標高、位置>  「加久藤城跡(かくとうじょうあと)」は
標高 約280 m
 北緯32度03分27秒  東経130度49分16秒

<標高、位置>  島津義弘の長男 「鶴寿丸の墓」は
標高 約220 m
 北緯32度03分08秒  東経130度49分13秒


 「加久藤城跡」は宮崎県 えびの市 大字小田 字城内にあります。
 「史跡 加久藤城跡」の説明板から、
(昭和49年1月24日 市指定)
 島津忠平 公(島津義弘)は、永祿7年(1564年)5月 加世田(鹿児島県西部 薩摩半島南西部の市。 南薩地方の中心都市。 海岸には砂丘が発達している。)より北原 氏の属城であった久藤城を修補して、加久藤城として、ここに移った。 時に30歳であった。 同年11月17日、城主 北原兼親が伊集院(鹿児島県 日置市の伊集院町)に、移封されると同時に飯野城に移った。 加久藤城には5男1女をもつ広瀬 夫人を置き、老臣 川上三河守忠智をして、ここに守らしめた。 加久藤城は元亀3年(1572年)5月4日 木崎原合戦において、伊東 勢 攻撃の主目標となったが伊東 勢は、攻略に失敗し、木崎原に退き大合戦となり、壊滅的敗戦を喫(きっ)した。

 加久藤城は北原 氏が応永年間(1394年〜1428年)に築城しました。 北原が真幸院 小田村の山に久藤城(ひさふじじょう)を造りました。 北原が滅ぶと島津の城となり、島津義弘が中城と新城を造って加え、加久藤城と改称しました。 川上忠智に守らせて、義弘の正妻 広瀬と長男の鶴寿丸(つるひさまる)が住んでいました。 木崎原の戦いのときには鶴寿丸は3歳でした。
 元亀3年(1572年5月)の木崎原の戦いのとき、伊東の軍は間違えて、加久藤城の西の徳泉寺に通じる徳泉寺口にある樺山浄慶の屋敷を攻撃した後、計略にかかり北側の鑰掛口(「鑰掛うど」と呼ばれる断崖絶壁(だんがいぜっぺき)です。)から加久藤城を攻撃しました。 川上忠智は遠矢良賢が率(ひき)いる飯野城からの援軍と共に伊東の軍を撃退しました。

 加久藤城の本丸跡には「加久藤城 竃門神社」があります。 竃は「かまど」と読みます(かまどは昔、料理をするために鍋(なべ)や釜(かま)を載せ、下から薪(まき)を燃やす装置です。)。 地図には、この神社は諏訪神社(すわじんじゃ)と書いてあります。
 伊東 側の資料では加久藤城は「覚頭城」と書かれています。
 城主は北原、島津義弘、川上忠智、南郷若狭守がなりました。
 島津義弘が居る飯野城(えびの市、加久藤城の東 約4.7 km)と義弘の妻が住む加久藤城の間には連絡道がありました。 また、飯野城と加久藤城の間に、木崎原の戦いのとき島津義弘が陣を敷いた二八坂のある大明司があります。
 元和元年(1615年)の江戸幕府の一国一城令で加久藤城は廃城になりました。
* 島津義弘が居た「飯野城」と長男(鶴寿丸)の供養樹「飯野の大イチョウ」のホームページは

 「鶴寿丸の墓」は宮崎県 えびの市 加久藤 麓区にあります。
 「史跡(金石文字) 鶴寿丸の墓」の説明板から、
 昭和45年12月20日市指定
 鶴寿丸は、島津義弘 公の長子で、永祿12年(1569年)加久藤城に生まれた。 天正4年(1576年)の8歳の時、赤痢(せきり)の病で亡くなったと言われ、城中(加久藤城の)に葬(ほうむ)られた。 法名(戒名(かいみょう))は涼山幻生大禅定門。 この(天正)10年に霊骨が不動寺跡(現在地)に移され、菩提所(ぼだいしょ)として飯野町に、幻生寺が建てられた。
 寛政8年(1796年)に金泥(きんでい、膠(にかわ)をといた水に金粉をまぜたもの)の漢字体で書いた由来(ゆらい)が石棺(せっかん)の石蓋(いしぶた)裏に記されている。
 現在の墓石は、明治元年の廃仏令(廃仏毀釈(はいぶつきしゃく))のとき、神道型に造られたものである。
「天正四丙子 蘆鶴雲翔男命 12月23日」とある(とかいてある)
 (鶴寿丸の供養樹として、飯野城の近くにある地頭仮屋(今のえびの市役所 飯野出張所)の敷地に島津義弘が銀杏(いちょう)の木を植えました。 これは現在でも「飯野の大イチョウ」と呼ばれ、秋には見事な黄色の葉になり、観光客が訪(おとず)れます。)

 1572年(島津義弘 37歳)の木崎原の戦い(島津-伊東、えびの市)、1577年(義弘 42歳)の都於郡城(とのこおりじょう)の落城(島津-伊東、西都市)、1578年(義弘 42歳)の高城川合戦(高城合戦、耳川の戦い)(島津-大友、木城町 川南町 日向市など)、1587年(義弘 52歳)の根白坂の戦い(豊臣-島津、木城町)のときは、島津義弘はこの加久藤城の東 約4.7 kmの所にある飯野城(えびの市)を、義弘の夫人(広瀬)はこの加久藤城を居城にしていました。 豊臣秀吉の朝鮮出兵(1592年 義弘 57歳、1597年 義弘 62歳)、関ヶ原の戦い(1600年 義弘 66歳)のときはもう島津義弘は飯野城から別の城に移っていました。

 島津家薩摩藩(77万石)は、1615年の一国一城令で、鶴丸城だけ残して他の城は壊(こわ)しました。 代わりに外城(とじょう)と呼(よ)ばれる麓(ふもと)を置きました。 地頭仮屋(あるいは御仮屋)と呼ばれる在地役所を中心にして、そのまわりに石垣(いしがき)、イヌマキの生垣の郷士(ごうし)屋敷の集落を造りました(郷士は普段は農業を行ない、有事の時には戦う武士です。 私領地では郷士ではなく家中士と呼ばれました。)。 地頭や私領主は鹿児島城下に住みました。 各地の行政執行は麓3役といわれる郷士年寄、組頭、横目が行いました。 「野町」と呼ばれる町人町は麓のそばに造られました。 今でも「麓」の地名、馬術教練を行う「馬場」という地名が残っています。 薩摩藩の外城は島津宗家直轄の地頭所が90ヵ所、島津一門や重臣の私領地が21ヵ所ありました。 薩摩藩はキリスト教、一向宗(浄土真宗)を禁止しました。 租税(そぜい)は8公2民(普通は4公6民)と重税でした。
薩摩藩の日向国(ほぼ宮崎県)の「郷」は、馬関田郷、吉田郷、加久藤郷、飯野郷、小林郷、野尻郷、高岡郷、穆佐郷(むかさごう)、倉岡郷、高原郷、高崎郷、高城郷、都城郷、須木郷、綾郷、山之口郷、勝岡郷、庄内郷、松山郷、志布志郷、大崎郷がありました。 計21郷でした。 すべて諸県郡に属します。 これとは別に、佐土原島津藩が宮崎市 佐土原町にありました。 佐土原島津藩は薩摩藩とは別に江戸への参勤交代を行なっていました。


写真A: 加久藤城跡(かくとうじょうあと)に行くには国道221号線をえびの市 飯野からえびの市 加久藤の方へ西に行きます。 途中、右手に家電量販店があります。
ここは宮崎県 えびの市 大字大明司 字脇ノ下1180-2 です。
飯野城と加久藤城の間に、「木崎原の戦い」のとき島津義弘が陣を敷いた二八坂のある大明司があります。



写真B: このあたりは南方向が開けていて、霧島連山が美しく見えます。 えびの市の加久藤地区は良質の米がとれる所として有名です。
ここは宮崎県 えびの市 大字大明司 字脇ノ下1180-2 です。
飯野城と加久藤城の間に、「木崎原の戦い」のとき島津義弘が陣を敷いた二八坂のある大明司があります。



写真C: 加久藤城跡はここより京町の方(西)に国道221号線を行きます。
ここは宮崎県 えびの市 大字大明司 字脇ノ下1180-2 です。
飯野城と加久藤城の間に、「木崎原の戦い」のとき島津義弘が陣を敷いた二八坂のある大明司があります。



写真D: ここは「えびの市 松原交差点」です。 緑色の「生鮮館」が左に見えています。



写真E: 「えびの市 松原交差点」と書いてあります。



写真F: 国道221号線の北側に大きな古い石碑(せきひ)が見えます。 ここは「松原交差点」のそばです。



写真G: 「松原交差点」のそばに、「えびの整形外科」の看板が国道221号線の北側にあります。 この看板(かんばん)の所から北に曲がります。 そうすると「加久藤城跡」、島津義弘の長男 「鶴寿丸の墓」に行きます。



写真H: この道を北に進んで加久藤城跡、鶴寿丸(つるひさまる)の墓に行きます。 「えびの整形外科」の看板が見えます。 右に石垣があります。  「加久藤城跡」へはまっすぐ進んで突き当たり、右に曲がります。 そうすると十字路があって左に曲がります。



写真I: 高い山の手前に低い山があります。 その低い方の山の上に「加久藤城跡」があります。
北の山の上に海上自衛隊のVLFアンテナが数本見えています。
VLF(very low frequency、超長波)通信基地は海上自衛隊の電波送信施設です。 VLFは波長 10〜100 kmの非常に長い波長を持つ電波で、潜水艦との通信などに用います。 主に地表波で伝わり、低い山も越えます。 水中でも伝わります。 この基地は1991年(平成3年)にえびの市の国有林に建設され、周波数 22.2 kHz、出力 500 W。 高さ 160 mから270 mの4基2列 計8基の鉄塔間にアンテナワイヤーを張ってあります。 宮崎県 えびの市 大字大明司 字六本原にあります。



写真J: ここに十字路があります。 奥のほうからこちらに来ました。



写真K: この十字路を左に曲がって加久藤城跡に行きます。



写真L: この道を先に進みます。



写真M: 後ろの山の上には加久藤城の物見郭(ものみかく)がありました。 先に進みます。



写真N: ここに三叉路(さんさろ)があります。 ここが大手門跡(おおてもんあと)です。 加久藤城跡へは左の道を登ります。 三叉路の所に石垣があります。



写真O: 「加久藤城 大手門跡」の標識棒があります。 大手門跡は加久藤城の南東部にあります。
加久藤城跡は宮崎県 えびの市 大字小田 字城内にあります。
 1572年(島津義弘 37歳)の木崎原の戦い(島津-伊東、えびの市)、1577年(義弘 42歳)の都於郡城(とのこおりじょう)の落城(島津-伊東、西都市)、1578年(義弘 42歳)の高城川合戦(高城合戦、耳川の戦い)(島津-大友、木城町 川南町 日向市など)、1587年(義弘 52歳)の根白坂の戦い(豊臣-島津、木城町)のときは、島津義弘はこの加久藤城の東 約4.7 kmの所にある飯野城(えびの市)に、義弘の夫人(広瀬)はこの加久藤城に居ました。 豊臣秀吉の朝鮮出兵(1592年 義弘 57歳、1597年 義弘 62歳)、関ヶ原の戦い(1600年 義弘 66歳)のときはもう島津義弘は飯野城から別の城に移っていました。



写真P: そばに稲刈りの藁(わら)が組んでありました。 えびの市の加久藤地区は良質の米がとれる所として有名です。



写真Q: 登城路の左に2つ第二次世界大戦のときの防空壕(ぼうくうごう)が残っています。



写真R: 左先の道から来て、ここで左に大きく曲がります。



写真S: モウソウ竹の立派な竹林があります。



写真T: 登城路の途中(とちゅう)にコンクリート製の水タンクがあります。



写真U: 坂道を登って行くと右手に曲輪(くるわ、平らな所)があります。



写真V: 登城路が開けてきました。



写真W: 「市指定史跡 加久藤城跡、昭和49年1月24日指定」と書いてある標識棒があります。 奥は、曲輪が畑になっています。
加久藤城跡は宮崎県 えびの市 大字小田 字城内にあります。
 1572年(島津義弘 37歳)の木崎原の戦い(島津-伊東、えびの市)、1577年(義弘 42歳)の都於郡城(とのこおりじょう)の落城(島津-伊東、西都市)、1578年(義弘 42歳)の高城川合戦(高城合戦、耳川の戦い)(島津-大友、木城町 川南町 日向市など)、1587年(義弘 52歳)の根白坂の戦い(豊臣-島津、木城町)のときは、島津義弘はこの加久藤城の東 約4.7 kmの所にある飯野城(えびの市)に、義弘の夫人(広瀬)はこの加久藤城に居ました。 豊臣秀吉の朝鮮出兵(1592年 義弘 57歳、1597年 義弘 62歳)、関ヶ原の戦い(1600年 義弘 66歳)のときはもう島津義弘は飯野城から別の城に移っていました。



写真X: 「市指定史跡 加久藤城跡、昭和49年1月24日指定」と書いてある標識棒があります。
 1572年(島津義弘 37歳)の木崎原の戦い(島津-伊東、えびの市)、1577年(義弘 42歳)の都於郡城(とのこおりじょう)の落城(島津-伊東、西都市)、1578年(義弘 42歳)の高城川合戦(高城合戦、耳川の戦い)(島津-大友、木城町 川南町 日向市など)、1587年(義弘 52歳)の根白坂の戦い(豊臣-島津、木城町)のときは、島津義弘はこの加久藤城の東 約4.7 kmの所にある飯野城(えびの市)に、義弘の夫人(広瀬)はこの加久藤城に居ました。 豊臣秀吉の朝鮮出兵(1592年 義弘 57歳、1597年 義弘 62歳)、関ヶ原の戦い(1600年 義弘 66歳)のときはもう島津義弘は飯野城から別の城に移っていました。



写真Y: ハゼの木が紅葉していました。



写真Z: 紅葉したハゼの木が美しい。



写真AA: 左に「市指定史跡 加久藤城跡、昭和49年1月24日指定」と書いてある標識棒があります。
奥が西、右手が北です。



写真AB: 道の奥に説明板が見えます。 大根が見事に育っていました。
畑のところは加久藤城の桝形(ますがた)がありました。
奥が西、右手が北です。



写真AC: 「史跡 加久藤城跡」の説明板。
(昭和49年1月24日 市指定)
 島津忠平 公(島津義弘)は、永祿7年(1564年)5月 加世田(鹿児島県西部 薩摩半島南西部の市。 南薩地方の中心都市。 海岸には砂丘が発達している。)より北原 氏の属城であった久藤城を修補して、加久藤城として、ここに移った。 時に30歳であった。 同年11月17日、城主 北原兼親が伊集院(鹿児島県 日置市の伊集院町)に、移封されると同時に飯野城に移った。 加久藤城には5男1女をもつ広瀬 夫人を置き、老臣 川上三河守忠智をして、ここに守らしめた。 加久藤城は元亀3年(1572年)5月4日 木崎原合戦において、伊東 勢 攻撃の主目標となったが伊東 勢は、攻略に失敗し、木崎原に退き大合戦となり、壊滅的敗戦を喫(きっ)した。
えびの市教育委員会
と書かれています。
「加久藤城跡の地図」
も載(の)っています。
北原 氏が応永年間(1394年〜1428年)に築城しました。
伊東 側の資料では「覚頭城」と書かれています。
島津義弘が中城と新城を加えて加久藤城と名前を変えました。
城主は北原、島津義弘、川上忠智、南郷若狭守がなりました。



写真AD: 「史跡 加久藤城跡」の説明板。
(昭和49年1月24日 市指定)
 島津忠平 公(島津義弘)は、永祿7年(1564年)5月 加世田(鹿児島県西部 薩摩半島南西部の市。 南薩地方の中心都市。 海岸には砂丘が発達している。)より北原 氏の属城であった久藤城を修補して、加久藤城として、ここに移った。 時に30歳であった。 同年11月17日、城主 北原兼親が伊集院(鹿児島県 日置市の伊集院町)に、移封されると同時に飯野城に移った。 加久藤城には5男1女をもつ広瀬 夫人を置き、老臣 川上三河守忠智をして、ここに守らしめた。 加久藤城は元亀3年(1572年)5月4日 木崎原合戦において、伊東 勢 攻撃の主目標となったが伊東 勢は、攻略に失敗し、木崎原に退き大合戦となり、壊滅的敗戦を喫(きっ)した。
えびの市教育委員会
と書かれています。
「加久藤城跡の地図」
も載(の)っています。
北原 氏が応永年間(1394年〜1428年)に築城しました。
伊東 側の資料では「覚頭城」と書かれています。
島津義弘が中城と新城を加えて加久藤城と名前を変えました。
城主は北原、島津義弘、川上忠智、南郷若狭守がなりました。



写真AE: 「史跡 加久藤城跡」の説明板。
(昭和49年1月24日 市指定)
 島津忠平 公(島津義弘)は、永祿7年(1564年)5月 加世田(鹿児島県西部 薩摩半島南西部の市。 南薩地方の中心都市。 海岸には砂丘が発達している。)より北原 氏の属城であった久藤城を修補して、加久藤城として、ここに移った。 時に30歳であった。 同年11月17日、城主 北原兼親が伊集院(鹿児島県 日置市の伊集院町)に、移封されると同時に飯野城に移った。 加久藤城には5男1女をもつ広瀬 夫人を置き、老臣 川上三河守忠智をして、ここに守らしめた。 加久藤城は元亀3年(1572年)5月4日 木崎原合戦において、伊東 勢 攻撃の主目標となったが伊東 勢は、攻略に失敗し、木崎原に退き大合戦となり、壊滅的敗戦を喫(きっ)した。
えびの市教育委員会
と書かれています。
「加久藤城跡の地図」
も載(の)っています。
北原 氏が応永年間(1394年〜1428年)に築城しました。
伊東 側の資料では「覚頭城」と書かれています。
島津義弘が中城と新城を加えて加久藤城と名前を変えました。
城主は北原、島津義弘、川上忠智、南郷若狭守がなりました。



写真AF: 説明板のところで道が右に折れます。 桜の並木が見えています。 春は桜の花がきれいなことでしょう。
奥右手には二の丸跡、左奥には本丸跡があります。
奥が北です。



写真AG: 「久藤会 梅園」と「みどりの募金事業」の看板(かんばん)があります。 久藤とは改修して加久藤城と名前が変わる前の久藤城にちなんだ名称です。



写真AH: これが加久藤城の本丸跡にある「梅園」です(久藤会梅園)。
加久藤城跡は宮崎県 えびの市 大字小田 字城内にあります。



写真AI: これが加久藤城の本丸跡にある「梅園」です。
奥が南です。



写真AJ: 加久藤城 本丸跡には神社もあります。 諏訪神社(すわじんじゃ)と地図には書いてあります。
鳥居(とりい)には「加久藤城 竃門神社」と書いてあります。 竃は「かまど」と読みます(かまどは昔、料理をするために鍋(なべ)や釜(かま)を載せ、下から薪(まき)を燃やす装置です。)。
 1572年(島津義弘 37歳)の木崎原の戦い(島津-伊東、えびの市)、1577年(義弘 42歳)の都於郡城(とのこおりじょう)の落城(島津-伊東、西都市)、1578年(義弘 42歳)の高城川合戦(高城合戦、耳川の戦い)(島津-大友、木城町 川南町 日向市など)、1587年(義弘 52歳)の根白坂の戦い(豊臣-島津、木城町)のときは、島津義弘はこの加久藤城の東 約4.7 kmの所にある飯野城(えびの市)に、義弘の夫人(広瀬)はこの加久藤城に居ました。 豊臣秀吉の朝鮮出兵(1592年 義弘 57歳、1597年 義弘 62歳)、関ヶ原の戦い(1600年 義弘 66歳)のときはもう島津義弘は飯野城から別の城に移っていました。



写真AK: 鳥居(とりい)の額(がく)に「加久藤城 竃門神社」と書いてあります。 竃は「かまど」と読みます(かまどは昔、料理をするために鍋(なべ)や釜(かま)を載せ、下から薪(まき)を燃やす装置です。)。
加久藤城跡は宮崎県 えびの市 大字小田 字城内にあります。



写真AL: 鳥居(とりい)の額(がく)に「加久藤城 竃門神社」と書いてあります。 竃は「かまど」と読みます(かまどは昔、料理をするために鍋(なべ)や釜(かま)を載せ、下から薪(まき)を燃やす装置です。)。
加久藤城跡は宮崎県 えびの市 大字小田 字城内にあります。



写真AM: 神社改築の記念碑があります。



写真AN: このあたりも本丸跡です。



写真AO: 「加久藤城 竃門神社」が見えてきました。 地図には諏訪神社(すわじんじゃ)と書いてあります。
 1572年(島津義弘 37歳)の木崎原の戦い(島津-伊東、えびの市)、1577年(義弘 42歳)の都於郡城(とのこおりじょう)の落城(島津-伊東、西都市)、1578年(義弘 42歳)の高城川合戦(高城合戦、耳川の戦い)(島津-大友、木城町 川南町 日向市など)、1587年(義弘 52歳)の根白坂の戦い(豊臣-島津、木城町)のときは、島津義弘はこの加久藤城の東 約4.7 kmの所にある飯野城(えびの市)に、義弘の夫人(広瀬)はこの加久藤城に居ました。 豊臣秀吉の朝鮮出兵(1592年 義弘 57歳、1597年 義弘 62歳)、関ヶ原の戦い(1600年 義弘 66歳)のときはもう島津義弘は飯野城から別の城に移っていました。
奥が南です。



写真AP: 加久藤城 本丸跡にある「加久藤城 竃門神社」。 横木の上に彫(ほ)り物があります。 しめ縄と御幣(ごへい)が見えます。
 1572年(島津義弘 37歳)の木崎原の戦い(島津-伊東、えびの市)、1577年(義弘 42歳)の都於郡城(とのこおりじょう)の落城(島津-伊東、西都市)、1578年(義弘 42歳)の高城川合戦(高城合戦、耳川の戦い)(島津-大友、木城町 川南町 日向市など)、1587年(義弘 52歳)の根白坂の戦い(豊臣-島津、木城町)のときは、島津義弘はこの加久藤城の東 約4.7 kmの所にある飯野城(えびの市)に、義弘の夫人(広瀬)はこの加久藤城に居ました。 豊臣秀吉の朝鮮出兵(1592年 義弘 57歳、1597年 義弘 62歳)、関ヶ原の戦い(1600年 義弘 66歳)のときはもう島津義弘は飯野城から別の城に移っていました。



写真AQ: 御手洗(みたらい)、石碑(せきひ)、石などがあります。
奥が西です。



写真AR: 境内(けいだい)には石などがあります。
奥が北西です。



写真AS: 本丸の西部は険(けわ)しい崖(がけ)になっています。



写真AT: このあたりも本丸跡です。
奥が北です。
 加久藤城は北原 氏が応永年間(1394年〜1428年)に築城しました。 北原が真幸院 小田村の山に久藤城(ひさふじじょう)を造りました。 北原が滅ぶと島津の城となり、島津義弘が中城と新城を造って加え、加久藤城と改称しました。 川上忠智に守らせて、義弘の正妻 広瀬と長男の鶴寿丸(つるひさまる)が住んでいました。 木崎原の戦いのときには鶴寿丸は3歳でした。
 元亀3年(1572年5月)の木崎原の戦いのとき、伊東の軍は間違えて、加久藤城の西の徳泉寺に通じる徳泉寺口にある樺山浄慶の屋敷を攻撃した後、計略にかかり北側の鑰掛口(「鑰掛うど」と呼ばれる断崖絶壁(だんがいぜっぺき)です。)から加久藤城を攻撃しました。 川上忠智は遠矢良賢が率(ひき)いる飯野城からの援軍と共に伊東の軍を撃退しました。



写真AU: 林の先は先程の梅園になっています。 神社の境内、梅園ともに加久藤城の本丸跡です。



写真AV: 林の先は先程の梅園になっています。 神社の境内、梅園ともに加久藤城の本丸跡です。



写真AW: 林の先は先程の梅園になっています。 神社の境内、梅園ともに加久藤城の本丸跡です。
右は神社の拝殿です。



写真AX: 拝殿の上の方にも見事な彫り物(ほりもの)があります。



写真AY: ロウソク立てがあり、7本のロウソクが見えます。 左の机の引き出しの中に、記帳がピニールの袋に入れてありました。



写真AZ: 「加久藤城 竃門神社」の拝殿。 地図には諏訪神社(すわじんじゃ)と書いてあります。



写真BA: 加久藤城跡は宮崎県 えびの市 大字小田 字城内にあります。
本丸跡にある神社と参道です。



写真BB: 「加久藤城 竃門神社」の拝殿。 地図には諏訪神社(すわじんじゃ)と書いてあります。



写真BC: 左が本殿、右が拝殿です。 ここは加久藤城の本丸跡です。



写真BD: 加久藤城の本丸跡にある神社の境内(けいだい)。



写真BE: 本殿の裏(南方向)も険しい崖(がけ)になっています。



写真BF: 神社の西も険しい崖になっています。
 加久藤城は北原 氏が応永年間(1394年〜1428年)に築城しました。 北原が真幸院 小田村の山に久藤城(ひさふじじょう)を造りました。 北原が滅ぶと島津の城となり、島津義弘が中城と新城を造って加え、加久藤城と改称しました。 川上忠智に守らせて、義弘の正妻 広瀬と長男の鶴寿丸(つるひさまる)が住んでいました。 木崎原の戦いのときには鶴寿丸は3歳でした。
 元亀3年(1572年5月)の木崎原の戦いのとき、伊東の軍は間違えて、加久藤城の西の徳泉寺に通じる徳泉寺口にある樺山浄慶の屋敷を攻撃した後、計略にかかり北側の鑰掛口(「鑰掛うど」と呼ばれる断崖絶壁(だんがいぜっぺき)です。)から加久藤城を攻撃しました。 川上忠智は遠矢良賢が率(ひき)いる飯野城からの援軍と共に伊東の軍を撃退しました。



写真BG: 南西方向から神社を見たもの。



写真BH: 本丸跡の南側も険しい崖(がけ)になっています。 加久藤城が良い山城だったことが分かります。
 加久藤城は北原 氏が応永年間(1394年〜1428年)に築城しました。 北原が真幸院 小田村の山に久藤城(ひさふじじょう)を造りました。 北原が滅ぶと島津の城となり、島津義弘が中城と新城を造って加え、加久藤城と改称しました。 川上忠智に守らせて、義弘の正妻 広瀬と長男の鶴寿丸(つるひさまる)が住んでいました。 木崎原の戦いのときには鶴寿丸は3歳でした。
 元亀3年(1572年5月)の木崎原の戦いのとき、伊東の軍は間違えて、加久藤城の西の徳泉寺に通じる徳泉寺口にある樺山浄慶の屋敷を攻撃した後、計略にかかり北側の鑰掛口(「鑰掛うど」と呼ばれる断崖絶壁(だんがいぜっぺき)です。)から加久藤城を攻撃しました。 川上忠智は遠矢良賢が率(ひき)いる飯野城からの援軍と共に伊東の軍を撃退しました。



写真BI: 本丸跡の神社の裏からの展望。 えびの盆地の建物も見えています。 右の山には加久藤城の物見郭(ものみかく)がありました。



写真BJ: 本丸跡から南西を見たもの。 高い崖(がけ)になっています。



写真BK: 本丸跡から西を見たもの。 高い崖(がけ)になっています。



写真BL: 本丸跡から北西を見たもの。 険しい崖になっています。
 加久藤城は北原 氏が応永年間(1394年〜1428年)に築城しました。 北原が真幸院 小田村の山に久藤城(ひさふじじょう)を造りました。 北原が滅ぶと島津の城となり、島津義弘が中城と新城を造って加え、加久藤城と改称しました。 川上忠智に守らせて、義弘の正妻 広瀬と長男の鶴寿丸(つるひさまる)が住んでいました。 木崎原の戦いのときには鶴寿丸は3歳でした。
 元亀3年(1572年5月)の木崎原の戦いのとき、伊東の軍は間違えて、加久藤城の西の徳泉寺に通じる徳泉寺口にある樺山浄慶の屋敷を攻撃した後、計略にかかり北側の鑰掛口(「鑰掛うど」と呼ばれる断崖絶壁(だんがいぜっぺき)です。)から加久藤城を攻撃しました。 川上忠智は遠矢良賢が率(ひき)いる飯野城からの援軍と共に伊東の軍を撃退しました。



写真BM: 崖(がけ)の付近の様子です。



写真BN: 崖の付近から北を見たもの。 本殿と拝殿の一部が見えます。



写真BO: 本丸跡の神社の裏からの展望。 南を見たもの。えびの盆地の建物も見えています。 右の近くの山には加久藤城の物見郭(ものみかく)がありました。



写真BP: 崖の方から見た神社の本殿(右)と拝殿(左)。



写真BQ: 本丸跡の神社の裏からの展望。 南を見たもの。 えびの盆地の建物も見えています。 右の山には加久藤城の物見郭(ものみかく)がありました。



写真BR: 本丸跡の神社の裏からの展望。 南を見たもの。 えびの盆地の建物も見えています。 近くの右の山には加久藤城の物見郭(ものみかく)がありました。



写真BS: 本丸跡から登城路を下って、大手門跡の近くまで戻(もど)ってきました。 左に、刈り取った稲が束(たば)ねて田んぼに並べてあります。



写真BT: 大手門跡のところです。 左に「加久藤城 大手門跡」の標識棒が見えます。



写真BU: 「加久藤城 大手門跡」の標識棒。



写真BV: 下ってきた道を振り返ったもの。 右に「加久藤城 大手門跡」の標識棒が見えます。



写真BW: 大手門跡の近くの様子(ようす)です。



写真BX: 右の山の上には加久藤城の物見郭(ものみかく)がありました。



写真BY: 右の山の上には加久藤城の物見郭(ものみかく)がありました。



写真BZ: 大手門跡の少し南のところです。



写真CA: 十字路から西を見たものです。 この道を帰ります。



写真CB: 加久藤 麓(ふもと)地区の景色。 北を見たもの。 手前の山の上に加久藤城跡があります。 自動車修理工場の看板(かんばん)が右手に見えます。



写真CC: 加久藤 麓(ふもと)地区の景色。 北を見たもの。 手前の山の上に加久藤城跡があります。 自動車修理工場の看板(かんばん)が右手に見えます。
北の山の上に海上自衛隊のVLFアンテナが数本見えています。
VLF(very low frequency、超長波)通信基地は海上自衛隊の電波送信施設です。 VLFは波長 10〜100 kmの非常に長い波長を持つ電波で、潜水艦との通信などに用います。 主に地表波で伝わり、低い山も越えます。 水中でも伝わります。 この基地は1991年(平成3年)にえびの市の国有林に建設され、周波数 22.2 kHz、出力 500 W。 高さ 160 mから270 mの4基2列 計8基の鉄塔間にアンテナワイヤーを張ってあります。 宮崎県 えびの市 大字大明司 字六本原にあります。



写真CD: 北の山の上に海上自衛隊のVLFアンテナが数本見えています。
VLF(very low frequency、超長波)通信基地は海上自衛隊の電波送信施設です。 VLFは波長 10〜100 kmの非常に長い波長を持つ電波で、潜水艦との通信などに用います。 主に地表波で伝わり、低い山も越えます。 水中でも伝わります。 この基地は1991年(平成3年)にえびの市の国有林に建設され、周波数 22.2 kHz、出力 500 W。 高さ 160 mから270 mの4基2列 計8基の鉄塔間にアンテナワイヤーを張ってあります。 宮崎県 えびの市 大字大明司 字六本原にあります。



写真CE: 加久藤 麓(ふもと)地区の景色。 北を見たもの。



写真CF: 右上に「←人吉 30 km」の道路標識があります。



写真CG: 加久藤 麓(ふもと)地区の景色。 南を見たもの。 右にえびの整形外科、左に「鶴寿丸の墓」の標識が見えます。



写真CH: 「えびの市指定文化財 鶴寿丸の墓 (つるひさまるの墓)」の標識があります。 少し東に入ります。



写真CI: 「えびの市指定文化財 鶴寿丸の墓 (つるひさまるの墓)」の標識。



写真CJ: 右手前の家の角を東に入ります。



写真CK: ここを東に入ります。



写真CL: 少しこの道を進みます。 右に石垣(いしがき)が見えます。



写真CM: 石垣です。



写真CN: 「ピラカンサ」の赤い実が鈴なりに付いています。 美しい実です。



写真CO: 奥に8歳で亡くなった島津義弘の長男 「鶴寿丸の墓(つるひさまるの墓)」が見えてきました。 手前右に石垣があります。



写真CP: 「鶴寿丸の墓」は小山の西にあります。 宮崎県 えびの市 加久藤 麓区にあります。



写真CQ: 「市指定 史跡 鶴寿丸の墓、昭和45年2月20日指定」と書いてあります。



写真CR: 石碑(せきひ)もあります。



写真CS: 供養碑(くようひ)と思われるものもあります。



写真CT: 石碑(せきひ)もあります。



写真CU: 宮崎県 えびの市 加久藤 麓にある「鶴寿丸の墓」です。
明治元年の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)より前には、ここは不動寺がありました。



写真CV: 「鶴寿丸の墓」の左の部分。
ここは不動寺跡です。



写真CW: 「鶴寿丸の墓」の右の部分。 説明板の左下に御手洗(みたらい)が見えます。
明治元年の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)より前には、ここは不動寺がありました。



写真CX: えびの市 加久藤 麓にある「鶴寿丸の墓」です。



写真CY: えびの市 加久藤 麓にある「鶴寿丸の墓」です。



写真CZ: 東(後ろ)から見た鶴寿丸(つるひさまる)の墓。



写真DA: 東(後ろ)から見た鶴寿丸(つるひさまる)の墓の上部。



写真DB: 東(後ろ)から見た鶴寿丸(つるひさまる)の墓の下部。



写真DC: 8角形の御手洗(みたらい)があります。



写真DD: 「史跡(金石文字) 鶴寿丸の墓」の説明板。
 昭和45年12月20日市指定
 鶴寿丸は、島津義弘 公の長子で、永祿12年(1569年)加久藤城に生まれた。 天正4年(1576年)の8歳の時、赤痢(せきり)の病で亡くなったと言われ、城中(加久藤城の)に葬(ほうむ)られた。 法名(戒名(かいみょう))は涼山幻生大禅定門。 この(天正)10年に霊骨が不動寺跡(現在地)に移され、菩提所(ぼだいしょ)として飯野町に、幻生寺が建てられた。
 寛政8年(1796年)に金泥(きんでい、膠(にかわ)をといた水に金粉をまぜたもの)の漢字体で書いた由来(ゆらい)が石棺(せっかん)の石蓋(いしぶた)裏に記されている。
 現在の墓石は、明治元年の廃仏令(廃仏毀釈(はいぶつきしゃく))のとき、神道型に造られたものである。
「天正四丙子 蘆鶴雲翔男命 12月23日」とある(とかいてある)
石棺蓋(せきかんふた)の裏に金箔(きんぱく)で書かれていた文字
と書かれています。
 1572年(島津義弘 37歳)の木崎原の戦い(島津-伊東、えびの市)、1577年(義弘 42歳)の都於郡城(とのこおりじょう)の落城(島津-伊東、西都市)、1578年(義弘 42歳)の高城川合戦(高城合戦、耳川の戦い)(島津-大友、木城町 川南町 日向市など)、1587年(義弘 52歳)の根白坂の戦い(豊臣-島津、木城町)のときは、島津義弘はこの加久藤城の東 約4.7 kmの所にある飯野城(えびの市)に、義弘の夫人(広瀬)はこの加久藤城に居ました。 豊臣秀吉の朝鮮出兵(1592年 義弘 57歳、1597年 義弘 62歳)、関ヶ原の戦い(1600年 義弘 66歳)のときはもう島津義弘は飯野城から別の城に移っていました。



写真DE: 「史跡(金石文字) 鶴寿丸の墓」の説明板。
 昭和45年12月20日市指定
 鶴寿丸は、島津義弘 公の長子で、永祿12年(1569年)加久藤城に生まれた。 天正4年(1576年)の8歳の時、赤痢(せきり)の病で亡くなったと言われ、城中(加久藤城の)に葬(ほうむ)られた。 法名(戒名(かいみょう))は涼山幻生大禅定門。 この(天正)10年に霊骨が不動寺跡(現在地)に移され、菩提所(ぼだいしょ)として飯野町に、幻生寺が建てられた。
 寛政8年(1796年)に金泥(きんでい、膠(にかわ)をといた水に金粉をまぜたもの)の漢字体で書いた由来(ゆらい)が石棺(せっかん)の石蓋(いしぶた)裏に記されている。
 現在の墓石は、明治元年の廃仏令(廃仏毀釈(はいぶつきしゃく))のとき、神道型に造られたものである。
「天正四丙子 蘆鶴雲翔男命 12月23日」とある(とかいてある)
石棺蓋(せきかんふた)の裏に金箔(きんぱく)で書かれていた文字
と書かれています。
 1572年(島津義弘 37歳)の木崎原の戦い(島津-伊東、えびの市)、1577年(義弘 42歳)の都於郡城(とのこおりじょう)の落城(島津-伊東、西都市)、1578年(義弘 42歳)の高城川合戦(高城合戦、耳川の戦い)(島津-大友、木城町 川南町 日向市など)、1587年(義弘 52歳)の根白坂の戦い(豊臣-島津、木城町)のときは、島津義弘はこの加久藤城の東 約4.7 kmの所にある飯野城(えびの市)に、義弘の夫人(広瀬)はこの加久藤城に居ました。 豊臣秀吉の朝鮮出兵(1592年 義弘 57歳、1597年 義弘 62歳)、関ヶ原の戦い(1600年 義弘 66歳)のときはもう島津義弘は飯野城から別の城に移っていました。



写真DF: 「史跡(金石文字) 鶴寿丸の墓」の説明板。
 昭和45年12月20日市指定
 鶴寿丸は、島津義弘 公の長子で、永祿12年(1569年)加久藤城に生まれた。 天正4年(1576年)の8歳の時、赤痢(せきり)の病で亡くなったと言われ、城中(加久藤城の)に葬(ほうむ)られた。 法名(戒名(かいみょう))は涼山幻生大禅定門。 この(天正)10年に霊骨が不動寺跡(現在地)に移され、菩提所(ぼだいしょ)として飯野町に、幻生寺が建てられた。
 寛政8年(1796年)に金泥(きんでい、膠(にかわ)をといた水に金粉をまぜたもの)の漢字体で書いた由来(ゆらい)が石棺(せっかん)の石蓋(いしぶた)裏に記されている。
 現在の墓石は、明治元年の廃仏令(廃仏毀釈(はいぶつきしゃく))のとき、神道型に造られたものである。
「天正四丙子 蘆鶴雲翔男命 12月23日」とある(とかいてある)
石棺蓋(せきかんふた)の裏に金箔(きんぱく)で書かれていた文字
と書かれています。
 1572年(島津義弘 37歳)の木崎原の戦い(島津-伊東、えびの市)、1577年(義弘 42歳)の都於郡城(とのこおりじょう)の落城(島津-伊東、西都市)、1578年(義弘 42歳)の高城川合戦(高城合戦、耳川の戦い)(島津-大友、木城町 川南町 日向市など)、1587年(義弘 52歳)の根白坂の戦い(豊臣-島津、木城町)のときは、島津義弘はこの加久藤城の東 約4.7 kmの所にある飯野城(えびの市)に、義弘の夫人(広瀬)はこの加久藤城に居ました。 豊臣秀吉の朝鮮出兵(1592年 義弘 57歳、1597年 義弘 62歳)、関ヶ原の戦い(1600年 義弘 66歳)のときはもう島津義弘は飯野城から別の城に移っていました。



写真DG: この説明板はえびの市教育委員会によって建てられました。



写真DH: 明治元年の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)より前には、ここは不動寺がありました。 そこに鶴寿丸の墓があります。



写真DI: 「鶴寿丸の墓」に供(そな)え物と花がありました。



写真DJ: 宮崎県 えびの市 加久藤 麓にある「鶴寿丸の墓」に供(そな)え物と花がありました。



写真DK: 鶴寿丸の墓から北を見た景色。 田んぼもあります。



写真DL: 宮崎県 えびの市 加久藤 麓にある「鶴寿丸の墓」から北を見た景色。
北の山の上に海上自衛隊のVLFアンテナが数本見えています。
VLF(very low frequency、超長波)通信基地は海上自衛隊の電波送信施設です。 VLFは波長 10〜100 kmの非常に長い波長を持つ電波で、潜水艦との通信などに用います。 主に地表波で伝わり、低い山も越えます。 水中でも伝わります。 この基地は1991年(平成3年)にえびの市の国有林に建設され、周波数 22.2 kHz、出力 500 W。 高さ 160 mから270 mの4基2列 計8基の鉄塔間にアンテナワイヤーを張ってあります。 宮崎県 えびの市 大字大明司 字六本原にあります。



by 南陽彰悟 (NANYO Shogo)