飯野城跡、飯野の大イチョウ(黄葉)、霧島連山の展望 (亀城、亀城公園、飯野のイチョウ、南日本最古の石敢當(石敢当、せっかんとう)、庚申塚(こうしんづか)、えびの市役所 飯野出張所、飯野高等学校、飯野小学校、飯野中学校、川内川、飯野城跡の紅葉、麓の武家門、八幡丘公園、霧島山、霧島連山、霧島山系、麓橋)  (宮崎県 えびの市 飯野、原田、麓)







<標高、位置>  「飯野の大イチョウ」があるえびの市役所 飯野出張所は
標高 約250 m
 北緯32度03分00秒  東経130度52分03秒

<標高、位置>  「飯野城跡」 (亀城公園)は
標高 約300 m
 北緯32度03分15秒  東経130度52分04秒

<標高、位置>  川内川の「麓橋(ふもとはし)」は
標高 約250 m
 北緯32度02分58秒  東経130度52分14秒


 「飯野城跡(亀城公園)」は宮崎県 えびの市 大字原田 字城内にあります。
 「史跡 飯野城 昭和49年9月4日市指定」の説明板から、
 飯野城(別名 亀城)は永暦元年(1160年)に(当時の領主であった)日下部重貞が入城(築城)し、康永4年(1345年)には北原兼幸が、永祿7年(1564年)には島津義弘が城主となりました。 元和元年(1615年)一国一城令によって廃城になるまでの間、真幸院の領主の居城として繁栄していました。
 この城は、飯野一帯を眺望できる断崖(だんがい)と深い谷に囲まれた要害の地に立地しています。 丘陵頂部は平坦に造成され、本丸や二の丸・三の丸・物見曲輪などを備えた強固な山城となっていました。

 「飯野城と島津義弘」の説明板から、
 島津義弘は、島津15代 貴久の男兄弟4人の次男として、天文4年(1535年)7月23日 薩摩の伊作城(日置郡吹上町)に生まれた。
 少年期より、加世田の祖父 日新公の元に通い、文武の道を錬磨し、特に中国伝来の軍法の道を究(きわ)めた。 天文23年(1554年)、姶良(あいら)の岩剣城の戦いで初陣を飾った。 義弘は貴久の命を受け、永祿7年(1564年)精兵60人を率(ひき)いて加世田をたち、11月飯野城に入った。 小田村の久藤城を修築し、新城を加えて加久藤城と改称し、広瀬 夫人を置いた。
 義弘は、飯野城に30歳から56歳までの26年間居城し、数々の合戦(木崎原の戦い、高城川合戦(高城合戦、耳川の戦い)、根白坂の戦いなど)に出陣した。 元亀3年(1572年)5月4日、木崎原合戦で、義弘は伊東義祐の軍勢に大勝。 天正6年(1578年)、兄 義久らと高城合戦(児湯郡 木城町)で豊後(ぶんご)の大友宗麟の大軍を破った。 勢いに乗った島津軍は、肥後の相良義陽、肥前の竜造寺隆信らの軍を次々と破り、九州をほぼ制覇した。
天正18年(1590年)6月、義弘は栗野の松尾城に移った。 元和5年(1619年)7月21日、義弘は加治木屋形で生涯を閉じた。 享年85歳。 法名、松齢自貞庵主

 天正15年(1587年)5月25日に豊臣秀吉は島津義弘に大隅国を与えました。 それからは、義弘は豊臣大名として京都にも行きましたが、本拠地は飯野城でした。 飯野城は、天正15年(1587年)に義弘の嫡男(ちゃくなん) 島津久保の居城になりましたが、文禄の役(秀吉の朝鮮出兵)に参戦中のとき島津久保は病死しました(文禄2年(1593年))。 天正18年(1590年)に栗野の松尾城に島津義弘は移りました。 飯野城の西 約4.7 kmのところには加久藤城があります。 加久藤城には島津義弘の 妻 広瀬が住んでいました。 飯野城と加久藤城の間は連絡道があります。
* 義弘の妻が居た「加久藤城跡」のホームページは

 「飯野の大イチョウ」があるえびの市役所飯野出張所は宮崎県 えびの市 大字原田 3453にあります。
 「県指定 天然記念物 飯野のイチョウ 昭和10年7月2日 指定」の説明板から、
 この大銀杏樹(大イチョウ)は、天正5年(1577年)4月吉日(木崎原の戦いの5年後) 島津義弘の長男 鶴寿丸(幻生童子)の供養のために、方形の供養壇を作り、供養塔を立て供養樹として植えられたといわれている。
 根回り 9.6 m、高さ 21 m、樹齢 400年以上、碑文は長男 鶴寿丸(幻生童子 天正4年11月22日 没8歳)の供養のために84000本の卒塔婆(そとば)を方形に埋め、13仏に祈願したとの表示がある。 (雄株なので実はなりません。)
 なお、ここは、江戸時代に地頭仮屋(役所、地頭の御旅所)があったところである。
 島津家薩摩藩(77万石)は、1615年の一国一城令で、鶴丸城だけ残して他の城は壊(こわ)しました。 代わりに外城(とじょう)と呼(よ)ばれる麓(ふもと)を置きました。 地頭仮屋(あるいは御仮屋)と呼ばれる在地役所を中心にして、そのまわりに石垣(いしがき)、イヌマキの生垣の郷士(ごうし)屋敷の集落を造りました(郷士は普段は農業を行ない、有事の時には戦う武士です。 私領地では郷士ではなく家中士と呼ばれました。)。 地頭や私領主は鹿児島城下に住みました。 各地の行政執行は麓3役といわれる郷士年寄、組頭、横目が行いました。 「野町」と呼ばれる町人町は麓のそばに造られました。 今でも「麓」の地名、馬術教練を行う「馬場」という地名が残っています。 薩摩藩の外城は島津宗家直轄の地頭所が90ヵ所、島津一門や重臣の私領地が21ヵ所ありました。 薩摩藩はキリスト教、一向宗(浄土真宗)を禁止しました。 租税(そぜい)は8公2民(普通は4公6民)と重税でした。
薩摩藩の日向国(ほぼ宮崎県)の「郷」は、馬関田郷、吉田郷、加久藤郷、飯野郷、小林郷、野尻郷、高岡郷、穆佐郷(むかさごう)、倉岡郷、高原郷、高崎郷、高城郷、都城郷、須木郷、綾郷、山之口郷、勝岡郷、庄内郷、松山郷、志布志郷、大崎郷がありました。 計21郷でした。 すべて諸県郡に属します。 これとは別に、佐土原島津藩が宮崎市 佐土原町にありました。 佐土原島津藩は薩摩藩とは別に江戸への参勤交代を行なっていました。

 えびの市役所飯野出張所のそばの旧道にある「石敢當(石敢当、せっかんとう)」の説明板から、
市指定年月日 平成7年7月17日
 この石敢當は、宝寿院 第五世 誠意法師が元禄2年(1689年)に建立したもので、記念銘のある石敢當では南日本最古のものです。
 「この道」の説明板から、 庚申塚(こうしんづか)や石敢当(せっかんとう)は、その昔、支那の国(中共(中国))より伝来した魔除(まよ)けの神様であって、道路の要所要所に建てられ、道行く人々によって作物の豊作と交通の安全が祈願されたと言う。 この碑(ひ)は享保7年(徳川時代)に建立(こんりゅう)されたものである。 この道は、明治の初め頃までは昔の国道筋であって、明治10年の西南の役の折(おり)は、西郷軍や官軍がこの道を往来したと言われている。


写真A: 飯野城跡 (亀城公園)、飯野のイチョウ、麓橋(ふもとはし)に行くにはここを右に曲がります。 国道221号線の「飯野中学校入口」交差点です。 右はガソリンスタンド。 西方向を見たもの。 先に行くと加久藤、京町などに行きます。 手前は小林市に行きます。 左に曲がると飯野中学校、飯野高等学校に行きます。



写真B: 「飯野中学校入口」と書いてあります。



写真C: 国道221号線。 東方向を見たもの。



写真D: 国道221号線の「飯野中学校入口」交差点。 南を見たもの。 先に行くと飯野中学校、飯野高等学校があります。



写真E: 国道221号線の「飯野中学校入口」交差点。 北を見たもの。 先に行くと飯野城跡があります。 右の建物はガソリンスタンド。



写真F: 「飯野城跡→」の標識があります。



写真G: 右の建物は麓(ふもと)消防詰所 えびの市消防団第1分団第2部です。 見えている山は鉄山(標高 715.3 m)です。 先に川内川(せんだいがわ)が流れています。



写真H: 麓(ふもと)消防詰所 えびの市消防団第1分団第2部。



写真I: 川内川の麓橋(ふもとはし)が見えてきました。 遠くの山は鉄山(標高 715.3 m)です。



写真J: 川内川の麓橋の南たもとに西に行く道があります。 この道を行くと「飯野の大イチョウ」があります。



写真K: 北西方向の山の上に海上自衛隊のVLFアンテナが数本見えます。
VLF(very low frequency、超長波)通信基地は海上自衛隊の電波送信施設です。 VLFは波長 10〜100 kmの非常に長い波長を持つ電波で、潜水艦との通信などに用います。 主に地表波で伝わり、低い山も越えます。 水中でも伝わります。 この基地は1991年(平成3年)にえびの市の国有林に建設され、周波数 22.2 kHz、出力 500 W。 高さ 160 mから270 mの4基2列 計8基の鉄塔間にアンテナワイヤーを張ってあります。 宮崎県 えびの市 大字大明司 字六本原にあります。



写真L: えびの市にある川内川の麓橋。 奥に鉄山(標高 715.3 m)が見えます。



写真M: 「麓橋(ふもとはし)」と書いてあります。



写真N: 「えびの市役所 飯野出張所」です。 この敷地内に「飯野のイチョウ」があります。
ここは、江戸時代に地頭仮屋(役所、地頭の御旅所)があったところで、明治時代には小学校になっていました。
宮崎県 えびの市 大字原田3453にあります。



写真O: 「えびの市役所 飯野出張所」です。 この敷地内に「飯野のイチョウ」があります。
ここは、江戸時代に地頭仮屋(役所、地頭の御旅所)があったところで、明治時代には小学校になっていました。



写真P: えびの市にある「飯野のイチョウ」です。 北から見たもの。 そばに、えびの市消防団第1分団第12部の建物があります。
宮崎県 えびの市 大字原田3453にあります。
明治10年の西南の役のときに幹(みき)の一部が焼けましたが、現在も見事に茂っています。 人吉から宮崎に転戦する西郷軍と追う官軍の戦火の跡が幹の空洞に残っているそうです。  雄株なので実はなりません。



写真Q: 宮崎県 えびの市にある「飯野の大イチョウ」です。 えびの市役所 飯野出張所の敷地内にあります。 そばの十字路に古風な街灯があります。 南から見たもの。



写真R: 「飯野の大イチョウ」のそばに島津氏の家紋「丸に十の字」が書いてる街灯があります。 後ろは飯野の大イチョウです。



写真S: 飯野の大イチョウの下にある「えびの市役所 飯野出張所」の看板(かんばん)。
ここは、江戸時代に地頭仮屋(役所、地頭の御旅所)があったところで、明治時代には小学校になっていました。
宮崎県 えびの市 大字原田3453にあります。
島津家薩摩藩(77万石)は、1615年の一国一城令で、鶴丸城だけ残して他の城は壊(こわ)しました。 代わりに外城(とじょう)と呼(よ)ばれる麓(ふもと)を置きました。 地頭仮屋(あるいは御仮屋)と呼ばれる在地役所を中心にして、そのまわりに石垣(いしがき)、イヌマキの生垣の郷士(ごうし)屋敷の集落を造りました(郷士は普段は農業を行ない、有事の時には戦う武士です。 私領地では郷士ではなく家中士と呼ばれました。)。 地頭や私領主は鹿児島城下に住みました。 各地の行政執行は麓3役といわれる郷士年寄、組頭、横目が行いました。 「野町」と呼ばれる町人町は麓のそばに造られました。 今でも「麓」の地名、馬術教練を行う「馬場」という地名が残っています。 薩摩藩の外城は島津宗家直轄の地頭所が90ヵ所、島津一門や重臣の私領地が21ヵ所ありました。 薩摩藩はキリスト教、一向宗(浄土真宗)を禁止しました。 租税(そぜい)は8公2民(普通は4公6民)と重税でした。
薩摩藩の日向国(ほぼ宮崎県)の「郷」は、馬関田郷、吉田郷、加久藤郷、飯野郷、小林郷、野尻郷、高岡郷、穆佐郷(むかさごう)、倉岡郷、高原郷、高崎郷、高城郷、都城郷、須木郷、綾郷、山之口郷、勝岡郷、庄内郷、松山郷、志布志郷、大崎郷がありました。 計21郷でした。 すべて諸県郡に属します。 これとは別に、佐土原島津藩が宮崎市 佐土原町にありました。 佐土原島津藩は薩摩藩とは別に江戸への参勤交代を行なっていました。



写真T: 「えびの市役所 飯野出張所」です。 この敷地内に「飯野のイチョウ」があります。 郵便ポストも見えます。
ここは、江戸時代に地頭仮屋(役所、地頭の御旅所)があったところで、明治時代には小学校になっていました。
宮崎県 えびの市 大字原田3453にあります。



写真U: 飯野出張所から見た「飯野城跡 (亀城公園)」です。 外灯の左の建物が飯野城の物見曲輪(ものみぐるわ)にある「飯野城東屋(あずまや)」です。 その右の大きな楠(くすのき)が見えます。 さらに奥の山は鉄山(標高 715.3 m)です。 飯野城跡 (亀城公園)は宮崎県 えびの市 大字原田 字城内にあります。
右の建物は「えびの市役所 飯野出張所」。



写真V: 飯野の大イチョウ。



写真W: えびの市にある「飯野の大イチョウ」。 右上に火事の時に打ち鳴らす鐘(かね)が見えます。
明治10年の西南の役のときに幹(みき)の一部が焼けましたが、現在も見事に茂っています。 人吉から宮崎に転戦する西郷軍と追う官軍の戦火の跡が幹の空洞に残っているそうです。 雄株なので実はなりません。



写真X: 「飯野の大イチョウ」は飯野出張所の南東の隅(すみ)にあります。



写真Y: 飯野出張所の入り口。 古い門柱があります。 右に見えるのが飯野の大イチョウ。
宮崎県 えびの市 大字原田3453にあります。



写真Z: 宮崎県 えびの市 大字原田3453にある「飯野の大イチョウ」です。
明治10年の西南の役のときに幹(みき)の一部が焼けましたが、現在も見事に茂っています。 人吉から宮崎に転戦する西郷軍と追う官軍の戦火の跡が幹の空洞に残っているそうです。 雄株なので実はなりません。



写真AA: 宮崎県 えびの市 大字原田3453にある「飯野の大イチョウ」です。



写真AB: 左は飯野の大イチョウ。



写真AC: えびの市にある「飯野の大イチョウ」。 下に石碑(せきひ)がいくつか見えます。 この石碑は、天正10年(1582年)に8歳で亡くなった長男 鶴寿丸の供養のために、島津義弘が建立したものと言われています。



写真AD: 「飯野の大イチョウ」。 飯野のイチョウの説明板も見えます。



写真AE: 「県指定 天然記念物 飯野のイチョウ 昭和10年7月2日 指定」
 この大銀杏樹(大イチョウ)は、天正5年(1577年)4月吉日(木崎原の戦いの5年後) 島津義弘の長男 鶴寿丸(幻生童子)の供養のために、方形の供養壇を作り、供養塔を立て供養樹として植えられたといわれている。
 根回り 9.6 m、高さ 21 m、樹齢 400年以上、碑文は長男 鶴寿丸(幻生童子 天正4年11月22日 没8歳)の供養のために84000本の卒塔婆(そとば)を方形に埋め、13仏に祈願したとの表示がある。
 なお、ここは、江戸時代に地頭仮屋(役所、地頭の御旅所)があったところである。
えびの市教育委員会
と書かれています。



写真AF: 「宮崎県指定天然記念物 飯野のイチョウ えびの市教育委員会」と書いてあります。



写真AG: 飯野の大イチョウ (飯野のイチョウ)。



写真AH: 飯野の大イチョウ (飯野のイチョウ)。



写真AI: 「えびの市役所飯野出張所」の入り口。 表札があります。 中の机の右に田の神(たのかんさあ)の像が見えます。



写真AJ: 飯野の大イチョウ。
雄株なので実はなりません。



写真AK: 奥に鉄山(標高 715.3 m)が見えます。 右はえびの市役所飯野出張所。



写真AL: 飯野の大イチョウの手前に、丸に十の字の島津の家紋(かもん)が書いてある街灯があります。



写真AM: 飯野のイチョウの手前に、丸に十の字の島津の家紋(かもん)が書いてある街灯があります。



写真AN: えびの市役所飯野出張所の東の道の角に「石敢當(石敢当、せっかんとう)」と庚申塚(こうしんづか)があります。 二つの説明板の間の下にあるのが「石敢當(石敢当、せっかんとう)」で、その左にあるのが庚申塚(こうしんづか)です。 記念銘のある石敢當では南日本最古のもの。



写真AO: えびの市役所飯野出張所の東の道の角ある「石敢當(石敢当、せっかんとう)」(右)と庚申塚(こうしんづか)(左)。 記念銘のある石敢當では南日本最古のもの。



写真AP: 「石敢當(石敢当、せっかんとう)」の説明板。
市指定年月日 平成7年7月17日
 この石敢當は、宝寿院 第五世 誠意法師が元禄2年(1689年)に建立したもので、記念銘のある石敢當では南日本最古のものです。
平成8年3月 えびの市教育委員会
と書いてあります。



写真AQ: 「この道。 庚申塚や石敢当は、その昔、支那の国(中共(中国))より伝来した魔除(まよ)けの神様であって、道路の要所要所に建てられ、道行く人々によって作物の豊作と交通の安全が祈願されたと言う。 この碑(ひ)は享保7年(徳川時代)に建立(こんりゅう)されたものである。
 この道は、明治の初め頃までは昔の国道筋であって、明治10年の西南の役の折(おり)は、西郷軍や官軍がこの道を往来したと言われている。」
と書いてあります。



写真AR: 川内川の麓橋(ふもとはし)です。 標高 約250 mです。 遠い方の高い山は鉄山(標高 715.3 m)です。 その手前に低い山が見えます。 飯野城跡(亀城公園、標高 約300 m)は低い方の山の少し左寄りのところにあります。
川は右から左に流れています。 見えているところはえびの市 麓(ふもと)です。



写真AS: 川内川の右岸(川下を見て右)の堤防です。 麓橋の少し上流です。 そこに広くなっている所があって、車を置きました。



写真AT: 川内川の右岸(川下を見て右)の堤防です。 麓橋の少し上流です。



写真AU: 川内川の右岸(川下を見て右)の堤防です。 麓橋の少し上流です。



写真AV: 麓橋が見えます。



写真AW: 川内川の麓橋(ふもとはし)。



写真AX: 麓橋の北のたもとからの景色です。 車道が右に曲がっています。 ビニールハウスも見えます。



写真AY: 川内川の下流方向(西)を見たもの。 水深を測る目盛りもあります。



写真AZ: 川内川の下流方向(西)を見たもの。



写真BA: 川内川の上流方向(東)の景色。 川の左岸(川の下流を見て左)に杉の木が見えます。 遠くの丘は八幡丘公園(標高 396.1 m)です。



写真BB: 下のトラックの上に杉林があります。 その上に大きな楠(くすのき)が見えます。 そこが飯野城跡です。 クスノキは飯野城跡の物見曲輪(ものみぐるわ)跡にあります。 飯野城跡に行くにはこのトラックの道を進みます。



写真BC: 麓橋の北の十字路です。 飯野城跡に行くには左に曲がります。



写真BD: 「亀城公園(飯野城跡)入口」と書いてある標識があります。



写真BE: 麓橋に「昭和42年10月(完成年月日)」と書いてあります。



写真BF: 飯野城跡の大きな楠(くすのき)も見えます。 左上に海上自衛隊のVLFアンテナ数本が見えています。
VLF(very low frequency、超長波)通信基地は海上自衛隊の電波送信施設です。 VLFは波長 10〜100 kmの非常に長い波長を持つ電波で、潜水艦との通信などに用います。 主に地表波で伝わり、低い山も越えます。 水中でも伝わります。 この基地は1991年(平成3年)にえびの市の国有林に建設され、周波数 22.2 kHz、出力 500 W。 高さ 160 mから270 mの4基2列 計8基の鉄塔間にアンテナワイヤーを張ってあります。 宮崎県 えびの市 大字大明司 字六本原にあります。



写真BG: 左の道は川内川の堤防(ていぼう)です。 飯野城跡へは、ここから右の道を下ります。



写真BH: 人家も見えています。



写真BI: 飯野城跡に行く道です。 左手には川内川があります。



写真BJ: 右の木は桜です。 春になると桜並木の花が美しいことでしょう。



写真BK: 麓にある武家門です。



写真BL: 道を進んでいくと左手に武家門があります。



写真BM: 武家門と石垣(いしがき)です。 来た道を振り返ったもの。



写真BN: ここで小川の橋(亀城橋)の工事をやっていました。



写真BO: 「←飯野城跡」と書いてある標識があります。



写真BP: 「史跡 飯野城 昭和49年9月4日市指定」
 飯野城(別名 亀城)は永暦元年(1160年)に(当時の領主であった)日下部重貞が入城(築城)し、康永4年(1345年)には北原兼幸が、永祿7年(1564年)には島津義弘が城主となりました。 元和元年(1615年)一国一城令によって廃城になるまでの間、真幸院の領主の居城として繁栄していました。
 この城は、飯野一帯を眺望できる断崖(だんがい)と深い谷に囲まれた要害の地に立地しています。 丘陵頂部は平坦に造成され、本丸や二の丸・三の丸・物見曲輪などを備えた強固な山城となっていました。
えびの市教育委員会
飯野城跡 縄張り図
と書かれています。
 天正15年(1587年)5月25日に豊臣秀吉は島津義弘に大隅国を与えました。 それからは、義弘は豊臣大名として京都にも行きましたが、本拠地は飯野城でした。 飯野城は、天正15年(1587年)に義弘の嫡男(ちゃくなん) 島津久保の居城になりましたが、文禄の役(秀吉の朝鮮出兵)に参戦中のとき島津久保は病死しました(文禄2年(1593年))。 天正18年(1590年)に栗野の松尾城に島津義弘は移りました。 飯野城の西 約4.7 kmのところには加久藤城があります。 加久藤城には島津義弘の 妻 広瀬が住んでいました。 飯野城と加久藤城の間は連絡道があります。



写真BQ: 「史跡 飯野城 昭和49年9月4日市指定」
 飯野城(別名 亀城)は永暦元年(1160年)に(当時の領主であった)日下部重貞が入城(築城)し、康永4年(1345年)には北原兼幸が、永祿7年(1564年)には島津義弘が城主となりました。 元和元年(1615年)一国一城令によって廃城になるまでの間、真幸院の領主の居城として繁栄していました。
 この城は、飯野一帯を眺望できる断崖(だんがい)と深い谷に囲まれた要害の地に立地しています。 丘陵頂部は平坦に造成され、本丸や二の丸・三の丸・物見曲輪などを備えた強固な山城となっていました。
えびの市教育委員会
飯野城跡 縄張り図
と書かれています。
 天正15年(1587年)5月25日に豊臣秀吉は島津義弘に大隅国を与えました。 それからは、義弘は豊臣大名として京都にも行きましたが、本拠地は飯野城でした。 飯野城は、天正15年(1587年)に義弘の嫡男(ちゃくなん) 島津久保の居城になりましたが、文禄の役(秀吉の朝鮮出兵)に参戦中のとき島津久保は病死しました(文禄2年(1593年))。 天正18年(1590年)に栗野の松尾城に島津義弘は移りました。 飯野城の西 約4.7 kmのところには加久藤城があります。 加久藤城には島津義弘の 妻 広瀬が住んでいました。 飯野城と加久藤城の間は連絡道があります。



写真BR: 「史跡 飯野城 昭和49年9月4日市指定」
 飯野城(別名 亀城)は永暦元年(1160年)に(当時の領主であった)日下部重貞が入城(築城)し、康永4年(1345年)には北原兼幸が、永祿7年(1564年)には島津義弘が城主となりました。 元和元年(1615年)一国一城令によって廃城になるまでの間、真幸院の領主の居城として繁栄していました。
 この城は、飯野一帯を眺望できる断崖(だんがい)と深い谷に囲まれた要害の地に立地しています。 丘陵頂部は平坦に造成され、本丸や二の丸・三の丸・物見曲輪などを備えた強固な山城となっていました。
えびの市教育委員会
飯野城跡 縄張り図
と書かれています。
 天正15年(1587年)5月25日に豊臣秀吉は島津義弘に大隅国を与えました。 それからは、義弘は豊臣大名として京都にも行きましたが、本拠地は飯野城でした。 飯野城は、天正15年(1587年)に義弘の嫡男(ちゃくなん) 島津久保の居城になりましたが、文禄の役(秀吉の朝鮮出兵)に参戦中のとき島津久保は病死しました(文禄2年(1593年))。 天正18年(1590年)に栗野の松尾城に島津義弘は移りました。 飯野城の西 約4.7 kmのところには加久藤城があります。 加久藤城には島津義弘の 妻 広瀬が住んでいました。 飯野城と加久藤城の間は連絡道があります。



写真BS: 「史跡 飯野城 昭和49年9月4日市指定」
 飯野城(別名 亀城)は永暦元年(1160年)に(当時の領主であった)日下部重貞が入城(築城)し、康永4年(1345年)には北原兼幸が、永祿7年(1564年)には島津義弘が城主となりました。 元和元年(1615年)一国一城令によって廃城になるまでの間、真幸院の領主の居城として繁栄していました。
 この城は、飯野一帯を眺望できる断崖(だんがい)と深い谷に囲まれた要害の地に立地しています。 丘陵頂部は平坦に造成され、本丸や二の丸・三の丸・物見曲輪などを備えた強固な山城となっていました。
えびの市教育委員会
飯野城跡 縄張り図
と書かれています。
 天正15年(1587年)5月25日に豊臣秀吉は島津義弘に大隅国を与えました。 それからは、義弘は豊臣大名として京都にも行きましたが、本拠地は飯野城でした。 飯野城は、天正15年(1587年)に義弘の嫡男(ちゃくなん) 島津久保の居城になりましたが、文禄の役(秀吉の朝鮮出兵)に参戦中のとき島津久保は病死しました(文禄2年(1593年))。 天正18年(1590年)に栗野の松尾城に島津義弘は移りました。 飯野城の西 約4.7 kmのところには加久藤城があります。 加久藤城には島津義弘の 妻 広瀬が住んでいました。 飯野城と加久藤城の間は連絡道があります。



写真BT: 両側に石垣(いしがき)があります。



写真BU: 奥に飯野城の大手門(おおてもん)が見えてきました。



写真BV: 飯野城の大手門(おおてもん)です。 右に石垣が見えます。 坂道になっています。
宮崎県 えびの市 大字原田 字城内にあります。



写真BW: 「大手門(おおてもん) えびの市教育委員会」と書いてあります。



写真BX: 宮崎県 えびの市 原田 城内にある飯野城の大手門。



写真BY: えびの市 原田 城内にある飯野城の大手門。



写真BZ: シイタケ栽培の原木が並べてありました。



写真CA: 大手門を通り抜(ぬ)けて、坂道を登っていきます。



写真CB: 「弓場(ゆみば) えびの市教育委員会」と書いてある標識があります。



写真CC: ここで弓矢の練習が行われたそうです。



写真CD: 「射場跡」の標識があります。 ここでは銃の練習が行われていました。 今は駐車場にもなっています。



写真CE: 「亀城公園 駐車場」と書いてあります。 車はここまで来ることができます。



写真CF: ここでは銃の練習が行われていました。 今は駐車場にもなっています。



写真CG: 本丸、物見曲輪(ものみぐるわ)などは左に曲がります。 加久藤城連絡道はまっすぐに行きます。 加久藤城連絡道は整備はされていません。 右方向には三の丸がありました。



写真CH: 「本丸、桝形(ますがた)」、「三の丸」、「二の丸」、「加久藤城連絡道」、(飯野城跡、えびの市教育委員会)の道しるべがあります。
そばに樹齢400年以上の杉の木が数本あります。 飯野城の西 約4.7 kmのところには加久藤城があります。 加久藤城には島津義弘の 妻 広瀬が住んでいました。 飯野城と加久藤城の間は連絡道があります。
「島津義弘、飯野城 入府(領主などが初めて領地にいること)時に植えられたと思われる。 約430年前の杉」と書いてあります。



写真CI: 「本丸、桝形(ますがた)」、「三の丸」、「二の丸」、「加久藤城連絡道」、(飯野城跡、えびの市教育委員会)の道しるべがあります。 飯野城の西 約4.7 kmのところには加久藤城があります。 加久藤城には島津義弘の 妻 広瀬が住んでいました。 飯野城と加久藤城の間は連絡道があります。
そばに樹齢400年以上の杉の木が数本あります。



写真CJ: 大きな杉の木の説明板。 「島津義弘、飯野城 入府(領主などが初めて領地にいること)時に植えられたと思われる。 約430年前の杉」と書いてあります。



写真CK: 大きな数本の杉の木の下部。 「島津義弘、飯野城 入府(領主などが初めて領地にいること)時に植えられたと思われる。 約430年前の杉」と書いてあります。
宮崎県 えびの市 大字原田 字城内にあります。



写真CL: 大きな数本の杉の木の中部。 「島津義弘、飯野城 入府(領主などが初めて領地にいること)時に植えられたと思われる。 約430年前の杉」と書いてあります。



写真CM: 大きな数本の杉の木の上部。 「島津義弘、飯野城 入府(領主などが初めて領地にいること)時に植えられたと思われる。 約430年前の杉」と書いてあります。



写真CN: 飯野城にある「加久藤城連絡道」の入り口。 西方のえびの市 加久藤に加久藤城があります。 そこへの古い連絡道で、加久藤城には島津義弘の夫人が住んでいました。



写真CO: 「搦手門(からめてもん) えびの市教育委員会」と書いてあります。



写真CP: 樹齢四百数十年の杉の木。



写真CQ: 坂道を登っていきます。



写真CR: 樹木の「ゴンズイ」の赤い果皮と黒い種子がきれいでした。



写真CS: 飯野城跡の物見曲輪(ものみぐるわ)です。 曲輪とは城の平らなところです。 えびの市、霧島連山、八幡丘公園、川内川などが展望できます。 「飯野城 東屋(あずまや)」とその左に大きな楠(くすのき)があります。 この東屋と大きなクスノキはえびの市役所飯野出張所のそばの道からも見えました。 東屋の屋根には「丸に十の字と飯野城」が書いてあります。 「丸に十の字」は島津の家紋(かもん)です。



写真CT: 飯野城跡の物見曲輪(ものみぐるわ)です。 曲輪とは城の平らなところです。 えびの市、霧島連山、八幡丘公園、川内川などが展望できます。 「飯野城 東屋(あずまや)」とその左に大きな楠(くすのき)があります。 この東屋と大きなクスノキはえびの市役所飯野出張所のそばの道からも見えました。 東屋の屋根には「丸に十の字と飯野城」が書いてあります。 「丸に十の字」は島津の家紋(かもん)です。



写真CU: 東屋の屋根には「丸に十の字と飯野城」が書いてあります。 「丸に十の字」は島津の家紋(かもん)です。
宮崎県 えびの市 大字原田 字城内にあります。



写真CV: ここは三叉路(さんさろ)になっています。 右に行くと本丸、左に行くと飯野城跡の物見曲輪(ものみぐるわ)、桝形(ますがた)があります。
「夫婦真木(めおとしんぼく)」の木があります。 「夫婦真木(めおとしんぼく)、いち樫(イチイガシ)と楠(クスノキ)の木が仲むつまじく寄り添(そ)っています」の説明板も見えます。



写真CW: ここは三叉路(さんさろ)になっています。 右に行くと本丸、左に行くと飯野城跡の物見曲輪(ものみぐるわ)、桝形(ますがた)があります。
「夫婦真木(めおとしんぼく)」の木があります。 「夫婦真木(めおとしんぼく)、いち樫(イチイガシ)と楠(クスノキ)の木が仲むつまじく寄り添(そ)っています」の説明板も見えます。



写真CX: 「夫婦真木(めおとしんぼく)」の木の中部。 2本の木のうち左がクスノキ、右がイチイガシです。
宮崎県 えびの市 大字原田 字城内にあります。



写真CY: 「夫婦真木(めおとしんぼく)」の木の上部。 2本の木のうち左がクスノキ、右がイチイガシです。



写真CZ: 「夫婦真木(めおとしんぼく)、いち樫(イチイガシ)と楠(クスノキ)の木が仲むつまじく寄り添(そ)っています」と書いてある説明板。



写真DA: 左のクスノキと右のイチイガシの木が合体しています。 これはその境目(さかいめ)です。 夫婦真木(めおとしんぼく)と呼ばれています。



写真DB: 右に登ると、見晴らしの良い飯野城跡の「物見曲輪(ものみぐるわ)」です。 左の平らなところは「枡形(ますがた)」です。



写真DC: 後ろに「物見曲輪(ものみぐるわ)」の大きな楠(くすのき)が見えています。



写真DD: 物見曲輪(ものみぐるわ)の西にも曲輪(くるわ、平らな所)があり、楓(かえで)の木が紅葉していました。



写真DE: カエデの木が紅葉していました。 美しい色です。



写真DF: 飯野城跡の物見曲輪(ものみぐるわ)。 後ろに国旗掲揚台(こっきけいようだい)と東屋(あずまや)が見えます。
宮崎県 えびの市 大字原田 字城内にあります。



写真DG: えびの市にある飯野城跡にひるがえる国旗です。 すがすがしく感じられます。



写真DH: これが下からも見えた大きな楠(くすのき)です。 左に複数の国旗掲揚台も見えます。 右には安全のためのロープがあります。 遠くの丘は八幡丘公園です。



写真DI: 「枡形(ますがた)」と書いてあります。 これも飯野城跡の曲輪(くるわ、平らな所)の一つです。



写真DJ: 大きなクスノキの左にも3本の国旗掲揚台が見えます。 「枡形(ますがた)」から見たもの。
宮崎県 えびの市 大字原田 字城内にあります。



写真DK: 物見曲輪(ものみぐるわ)から「枡形(ますがた)」を見下ろしたもの。



写真DL: 物見曲輪に登る階段です。 左に大きなクスノキ、国旗、東屋が見えます。
宮崎県 えびの市 大字原田 字城内にあります。



写真DM: 「物見曲輪(ものみぐるわ) えびの市教育委員会」と書いてある標識があります。



写真DN: 遠く東の方に八幡丘公園(標高 396.1 m)の丘が見えています。 手前右は大きなクスノキ、左に3本の国旗掲揚台も見えます。 飯野城跡の物見曲輪からの眺望(ちょうぼう)。



写真DO: 飯野城跡 物見曲輪(ものみぐるわ)からの展望。 遠くの霧島連山が素晴らしい。 左から夷守岳(ひなもりだけ、標高 1344 m)、大幡山(おおはたやま、標高 1353 m)、韓国岳(からくにだけ、標高 1700 m)、甑岳(こしきだけ、標高1301 m)、白鳥山(しらとりやま、標高 1363 m)が見えています。 左は八幡丘公園(標高 396.1 m)です。 手前に川内川と先程の麓橋(ふもとはし)が見えます。



写真DP: 飯野城跡 物見曲輪(ものみぐるわ)からの眺望(ちょうぼう)。 遠くの霧島連山が素晴らしい。 左から夷守岳(ひなもりだけ、標高 1344 m)、大幡山(おおはたやま、標高 1353 m)、韓国岳(からくにだけ、標高 1700 m)、甑岳(こしきだけ、標高1301 m)、白鳥山(しらとりやま、標高 1363 m)が見えています。 白鳥山にはアンテナが見えます。 手前に川内川(せんだいがわ)が見えます。



写真DQ: 飯野城跡 物見曲輪からの景色。 下の川内川は、飯野城跡の真下でU字型に曲がっています。 霧島連山の、左から甑岳(こしきだけ、標高1301 m)、白鳥山(しらとりやま、標高 1363 m)、栗野岳(標高 1087.7 m)、飯盛山(標高 846.3 m) が見えています。 白鳥山にはアンテナが見えます。
日本穀物検定協会 (東京)の2015年産米の食味ランキングで、霧島地区のヒノヒカリ (えびの市産)が最上級の「特A」評価を獲得しました。 それまでは宮崎県は九州で唯一特Aを獲得していませんでした。



写真DR: U字型に曲がった川内川が見えています。



写真DS: 東屋(あずまや)のそばに2本の国旗掲揚台(こっきけいようだい)があります。 国旗掲揚台は合計5本あります。



写真DT: 物見曲輪にある東屋。



写真DU: 右に枡形(ますがた)が見えます。



写真DV: 枡形(ますがた)には「丸に十の字」の島津の家紋(かもん)が描かれていて、コスマスの花が咲いていました。



写真DW: 物見曲輪(ものみぐるわ)から北を見た様子(ようす)。



写真DX: 飯野城跡 物見曲輪からの展望。 飯野中学校、団地、川内川の麓橋(ふもとはし)も見えます。
遠くの霧島連山は夷守岳(ひなもりだけ、標高 1344 m)が見えています。



写真DY: 飯野城跡 物見曲輪からの眺望(ちょうぼう)。 飯野高等学校、左に飯野中学校も見えています。
遠くの霧島連山は左から夷守岳(ひなもりだけ、標高 1344 m)、大幡山(おおはたやま、標高 1353 m)、韓国岳(からくにだけ、標高 1700 m)が見えています。



写真DZ: 飯野城跡 物見曲輪からの景色。 飯野小学校も見えています。 左寄りの下に先程の黄色になった飯野の大イチョウが見えています。 そのわきに、えびの市役所飯野出張所の建物も良く見えます。
遠くの霧島連山は左から韓国岳(からくにだけ、標高 1700 m)、甑岳(こしきだけ、標高1301 m)、白鳥山(しらとりやま、標高 1363 m)が見えています。 白鳥山にはアンテナが見えます。



写真EA: 飯野城跡 物見曲輪からの展望。 飯野高等学校、飯野小学校、黄色に色づいた飯野の大イチョウ、えびの市役所飯野出張所、川内川(せんだいがわ)などが見えます。



写真EB: えびの市の飯野城跡 物見曲輪からの展望。 飯野小学校、団地、川内川の堤防(ていぼう)、実った稲の田んぼなどが見えます。
日本穀物検定協会 (東京)の2015年産米の食味ランキングで、霧島地区のヒノヒカリ (えびの市産)が最上級の「特A」評価を獲得しました。 それまでは宮崎県は九州で唯一特Aを獲得していませんでした。



写真EC: えびの市の飯野城跡 物見曲輪からの景色。 川内川(せんだいがわ)の井堰(いせき、田んぼに水を引くために川をせき止めて、水位を上げる物)が見えます。 これは飯野井堰と呼ばれます。 この付近で川内川はU字型に曲がっています。



写真ED: 川内川にかかる国道221号線の橋が見えます。 右(西)に行くと加久藤、京町などに行きます。 手前に川内川の井堰(いせき、田んぼに水を引くために川をせき止めて、水位を上げる物)が見えます。 これは飯野井堰と呼ばれています。 田んぼが実っています。 この、えびの盆地は良質の米がとれる穀倉地帯として有名です。 団地も見えます。
霧島連山の、左から栗野岳(標高 1087.7 m)、飯盛山(標高 846.3 m) が見えています。



写真EE: 物見曲輪の東屋(あずまや)。



写真EF: 天井(てんじょう)に「上棟 飯野城あずま屋」と書いてあります。



写真EG: 「火の使用は出来ません。 亀城(飯野城)を復元する会」と書いてあります。



写真EH: 宮崎県 えびの市にある飯野城の本丸です。 サッカー場ほどの広さがあります。



写真EI: 物見曲輪の方からこの坂道を登って本丸跡に行きます。



写真EJ: 飯野城跡(本丸)にある石碑(せきひ)と説明板。 木の後ろに北のほうの山が見えます。
宮崎県 えびの市 大字原田 字城内にあります。
飯野城跡の石碑には「亀城址」、「大正14年(建立) 飯野村」と彫(ほ)ってあります。



写真EK: えびの市の飯野城(亀城)の本丸跡です。 木が紅葉していました。 本丸の広さはサッカー場ほどの広さがあります。 物見曲輪から登って来た所です。



写真EL: ナンキンハゼが紅葉していました。 本丸跡の石碑(せきひ)、説明板が見えます。



写真EM: 宮崎県 えびの市 大字原田 字城内にある飯野城跡(本丸)の石碑(せきひ)と説明板。



写真EN: えびの市 大字原田 字城内にある飯野城跡(本丸)の石碑(せきひ)と説明板。



写真EO: 本丸跡にも東屋(あずまや)があります。



写真EP: 飯野城跡の石碑には「亀城址」、「大正14年(建立) 飯野村」と彫(ほ)ってあります。



写真EQ: 飯野城跡の石碑には「亀城址」、「大正14年(建立) 飯野村」と彫(ほ)ってあります。



写真ER: 「飯野城と島津義弘」の説明板。
 島津義弘は、島津15代 貴久の男兄弟4人の次男として、天文4年(1535年)7月23日 薩摩の伊作城(日置郡吹上町)に生まれた。
 少年期より、加世田の祖父 日新公の元に通い、文武の道を錬磨し、特に中国伝来の軍法の道を究(きわ)めた。 天文23年(1554年)、姶良(あいら)の岩剣城の戦いで初陣を飾った。 義弘は貴久の命を受け、永祿7年(1564年)精兵60人を率(ひき)いて加世田をたち、11月飯野城に入った。 小田村の久藤城を修築し、新城を加えて加久藤城と改称し、広瀬 夫人を置いた。
 義弘は、飯野城に30歳から56歳までの26年間居城し、数々の合戦(木崎原の戦い、高城川合戦(高城合戦、耳川の戦い)、根白坂の戦いなど)に出陣した。 元亀3年(1572年)5月4日、木崎原合戦で、義弘は伊東義祐の軍勢に大勝。 天正6年(1578年)、兄 義久らと高城合戦(児湯郡 木城町)で豊後(ぶんご)の大友宗麟の大軍を破った。 勢いに乗った島津軍は、肥後の相良義陽、肥前の竜造寺隆信らの軍を次々と破り、九州をほぼ制覇した。
天正18年(1590年)6月、義弘は栗野の松尾城に移った。 元和5年(1619年)7月21日、義弘は加治木屋形で生涯を閉じた。 享年85歳。 法名、松齢自貞庵主
えびの市教育委員会
と書かれています。
 天正15年(1587年)5月25日に豊臣秀吉は島津義弘に大隅国を与えました。 それからは、義弘は豊臣大名として京都にも行きましたが、本拠地は飯野城でした。 飯野城は、天正15年(1587年)に義弘の嫡男(ちゃくなん) 島津久保の居城になりましたが、文禄の役(秀吉の朝鮮出兵)に参戦中のとき島津久保は病死しました(文禄2年(1593年))。 天正18年(1590年)に栗野の松尾城に島津義弘は移りました。 飯野城の西 約4.7 kmのところには加久藤城があります。 加久藤城には島津義弘の 妻 広瀬が住んでいました。 飯野城と加久藤城の間は連絡道があります。



写真ES: 「飯野城と島津義弘」の説明板。
 島津義弘は、島津15代 貴久の男兄弟4人の次男として、天文4年(1535年)7月23日 薩摩の伊作城(日置郡吹上町)に生まれた。
 少年期より、加世田の祖父 日新公の元に通い、文武の道を錬磨し、特に中国伝来の軍法の道を究(きわ)めた。 天文23年(1554年)、姶良(あいら)の岩剣城の戦いで初陣を飾った。 義弘は貴久の命を受け、永祿7年(1564年)精兵60人を率(ひき)いて加世田をたち、11月飯野城に入った。 小田村の久藤城を修築し、新城を加えて加久藤城と改称し、広瀬 夫人を置いた。
 義弘は、飯野城に30歳から56歳までの26年間居城し、数々の合戦(木崎原の戦い、高城川合戦(高城合戦、耳川の戦い)、根白坂の戦いなど)に出陣した。 元亀3年(1572年)5月4日、木崎原合戦で、義弘は伊東義祐の軍勢に大勝。 天正6年(1578年)、兄 義久らと高城合戦(児湯郡 木城町)で豊後(ぶんご)の大友宗麟の大軍を破った。 勢いに乗った島津軍は、肥後の相良義陽、肥前の竜造寺隆信らの軍を次々と破り、九州をほぼ制覇した。
天正18年(1590年)6月、義弘は栗野の松尾城に移った。 元和5年(1619年)7月21日、義弘は加治木屋形で生涯を閉じた。 享年85歳。 法名、松齢自貞庵主
えびの市教育委員会
と書かれています。
 天正15年(1587年)5月25日に豊臣秀吉は島津義弘に大隅国を与えました。 それからは、義弘は豊臣大名として京都にも行きましたが、本拠地は飯野城でした。 飯野城は、天正15年(1587年)に義弘の嫡男(ちゃくなん) 島津久保の居城になりましたが、文禄の役(秀吉の朝鮮出兵)に参戦中のとき島津久保は病死しました(文禄2年(1593年))。 天正18年(1590年)に栗野の松尾城に島津義弘は移りました。 飯野城の西 約4.7 kmのところには加久藤城があります。 加久藤城には島津義弘の 妻 広瀬が住んでいました。 飯野城と加久藤城の間は連絡道があります。



写真ET: 「飯野城と島津義弘」の説明板。
 島津義弘は、島津15代 貴久の男兄弟4人の次男として、天文4年(1535年)7月23日 薩摩の伊作城(日置郡吹上町)に生まれた。
 少年期より、加世田の祖父 日新公の元に通い、文武の道を錬磨し、特に中国伝来の軍法の道を究(きわ)めた。 天文23年(1554年)、姶良(あいら)の岩剣城の戦いで初陣を飾った。 義弘は貴久の命を受け、永祿7年(1564年)精兵60人を率(ひき)いて加世田をたち、11月飯野城に入った。 小田村の久藤城を修築し、新城を加えて加久藤城と改称し、広瀬 夫人を置いた。
 義弘は、飯野城に30歳から56歳までの26年間居城し、数々の合戦(木崎原の戦い、高城川合戦(高城合戦、耳川の戦い)、根白坂の戦いなど)に出陣した。 元亀3年(1572年)5月4日、木崎原合戦で、義弘は伊東義祐の軍勢に大勝。 天正6年(1578年)、兄 義久らと高城合戦(児湯郡 木城町)で豊後(ぶんご)の大友宗麟の大軍を破った。 勢いに乗った島津軍は、肥後の相良義陽、肥前の竜造寺隆信らの軍を次々と破り、九州をほぼ制覇した。
天正18年(1590年)6月、義弘は栗野の松尾城に移った。 元和5年(1619年)7月21日、義弘は加治木屋形で生涯を閉じた。 享年85歳。 法名、松齢自貞庵主
えびの市教育委員会
と書かれています。
 天正15年(1587年)5月25日に豊臣秀吉は島津義弘に大隅国を与えました。 それからは、義弘は豊臣大名として京都にも行きましたが、本拠地は飯野城でした。 飯野城は、天正15年(1587年)に義弘の嫡男(ちゃくなん) 島津久保の居城になりましたが、文禄の役(秀吉の朝鮮出兵)に参戦中のとき島津久保は病死しました(文禄2年(1593年))。 天正18年(1590年)に栗野の松尾城に島津義弘は移りました。 飯野城の西 約4.7 kmのところには加久藤城があります。 加久藤城には島津義弘の 妻 広瀬が住んでいました。 飯野城と加久藤城の間は連絡道があります。



写真EU: 飯野城跡の石碑には「亀城址」、「大正14年(建立) 飯野村」と彫(ほ)ってあります。 この側面には「飯野村」と彫ってあります。



写真EV: 飯野城跡の石碑には「亀城址」、「大正14年(建立) 飯野村」と彫(ほ)ってあります。



写真EW: 石碑の裏側です。



写真EX: 本丸跡の石碑(せきひ)。



写真EY: えびの市の飯野城跡(本丸)。 手前にナンキンハゼ、右に東屋(あずまや)が見えます。



写真EZ: 飯野城の本丸跡。 サッカー場ほどの広さがあります。



写真FA: 飯野城の本丸跡。



写真FB: えびの市にある飯野城の本丸跡。



写真FC: 飯野城の本丸跡。



写真FD: えびの市にある飯野城の本丸跡。 右は説明板。



写真FE: 本丸跡にある東屋(あずまや)。



写真FF: 本丸跡から帰るのにこちらの坂道を下りました。



写真FG: 登城路の脇(わき)に溝(みぞ)があります。



写真FH: ここに、山水が湧(わ)いていました。



写真FI: はじめの大手門が見えてきました。



写真FJ: 「(丸に十の字)と飯野城大手門」と書いてあります。



写真FK: 広場があります。



写真FL: 大手門のそばから見た景色。 遠くの霧島連山が素晴らしい。 左から夷守岳(ひなもりだけ、標高 1344 m)、大幡山(おおはたやま、標高 1353 m)、韓国岳(からくにだけ、標高 1700 m)、甑岳(こしきだけ、標高1301 m)、白鳥山(しらとりやま、標高 1363 m)が見えています。 白鳥山にはアンテナが見えます。



写真FM: 大手門のそばから見た景色。 霧島連山の、左から白鳥山(しらとりやま、標高 1363 m)、栗野岳(標高 1087.7 m)、飯盛山(標高 846.3 m) が見えています。 白鳥山にはアンテナが見えます。



写真FN: 近くの景色。



写真FO: 武家門のある桜並木の道が見えてきました。 このあたりは麓(ふもと)地区です。



写真FP: 大手門の方を振り返ったもの。 立派な石垣が見えます。



写真FQ: 「工事中 工事名 平成22年度 亀城橋橋梁維持工事 場所 えびの市大字原田 期間 平成22年10月5日〜平成22年11月22日 発注者 えびの市役所建設課」
と書いてあります。



写真FR: 振り返った景色。 橋の工事中でした。



写真FS: 飯野城跡のそばにある桜並木の道です。 川内川の堤防(ていぼう)が見えます。



写真FT: 車を置いた川内川の麓橋(ふもとはし)の所まで戻(もど)ってきました。 遠くの山は八幡丘公園(標高 396.1 m)です。



写真FU: 車を置いた川内川の麓橋(ふもとはし)の所まで戻(もど)ってきました。 遠くの山は八幡丘公園(標高 396.1 m)です。



写真FV: 堤防から北を見た景色。 麓橋からの車道も見えます。 奥の山は鉄山(標高 715.3 m)です。



写真FW: 川内川の堤防から北を見たもの。 遠い方の高い山は鉄山(標高 715.3 m)です。



by 南陽彰悟 (NANYO Shogo)