宝塔山 (桜まつり) (ほうとう山、ホウトウ山、ほうとうざん)(松巌寺、愛宕神社、大光寺、宝塔山稲荷神社、多楽院、崇称寺(しゅうしょうじ)、御牧赤報の墓、茶屋稲荷、茶屋遺跡)  (宮崎市佐土原町上田島)







<標高、位置>  宝塔山は
標高 61.6 m
 北緯32度02分44秒  東経131度26分00秒


 宝塔山は宮崎市佐土原町上田島にある丘陵にあります。 まわりに寺や神社がいくつかあります。 寺は松巌寺(しょうがん寺)、大光寺(だいこう寺)、多楽院(たらく院)、崇称寺(しゅうしょう寺)などがあり、神社は愛宕神社(あたご神社)、宝塔山稲荷神社、茶屋稲荷などがあります。
 山頂には昔から桜の木があり、見晴らしが良く市民の憩(いこ)いの場になっています。 最近は車でも上に登れるようになりましたが、やはり歩いて登るのは楽しいものです。 歩いて登るには、崇称寺から、大光寺から、愛宕神社からのコースなどがあります。 また、車道は大光寺のそばから山頂付近まで整備されています。 山頂には展望台、東屋(あずまや)、水飲み場、遊園地、野外ステージ、広場、慰霊碑、石碑、大きな円筒形をしたタイル製の絵(宝塔山の昔の桜見が描かれています)、上水道の大きなタンク、トイレ、駐車場などがあります。 弁天山は町並みをはさんで北西の方に見えます。 昔は弁天山、城山(本丸のあった山)、愛宕山と共にこの一帯は山城になっていました。 茶屋稲荷、茶屋遺跡(茶屋村跡)は御牧赤報の墓のある自得寺跡に近く、飫肥街道(おびかいどう)沿いにあります。 このあたりは、尾根道になっています。


写真A: 宝塔山(標高 61.6 m)。 左端の大きな屋根は崇称寺(しゅうしょうじ)で、右端の屋根は多楽院(たらくいん)。



写真B: 松巌寺(しょうがん寺)。 宝塔山(ほうとうざん)の近くにあります。



写真C: 松巌寺(しょうがん寺)の門。 右手に子安観世音菩薩霊場と書かれています。



写真D: 右の建物が松巌寺(しょうがん寺)の本堂です。



写真E: 松巌寺(しょうがん寺)の井戸。 手押しポンプがまだ使えています。



写真F: 松巌寺(しょうがん寺)の前の道。



写真G: 臨済宗 松巌寺(しょうがん寺)の本堂。 臨済宗中興の祖、白隠禅師と並び称される、佐賀利生まれの古月禅師(1667−1752年)とこの松巌寺は深い関係があります。
 古月禅師は、佐賀利で金丸家の4男として生まれ、10歳で佐土原のこの松巌寺 一道和尚のもとで出家しました。 21歳で一道和尚に随行して京都に行き、近畿内と九州を行脚しました。 その後も徳島県、東京都、宮城県にも行きました。 古月禅師が28歳で宮城県にいたとき、一道和尚が亡くなられたという知らせを受け、佐土原に帰郷し、この松巌寺を監護しました。 38歳で大光寺に入りました。 41歳で佐土原藩主 惟久の命を受け大光寺の42世住職になりました。 この後、古月禅師は本山の出世の拝請が来ても固辞し、九州地方を中心に布教活動を行いました。 古月禅師の下には、東北地方の雲水(若い僧)も少なくありません。



写真H: 松巌寺(しょうがん寺)。 左の建物には「安産行願」と書かれています。



写真I: 松巌寺(しょうがん寺)の門の外にある豊臣秀吉の家来 木村長門守重成の像。 ここが木村長門守重成の誕生地とされています。



写真J: 木村長門守重成の像の台座に 「木村長門守重成誕生地」と書いてあります。



写真K: 宝塔山稲荷神社。 松巌寺(しょうがん寺)の門の近くにあります。



写真L: 2007年8月2日の台風で、大きな杉の木が根ごと倒れました。 その根の底の部分です。



写真M: 上の写真の倒れた杉の木で、宝塔山稲荷神社の赤い鳥居が折れて壊れました。



写真N: 台風で倒れた杉の先端部分が鳥居にかかっています。



写真O: 宝塔山稲荷神社の参道。 山道を登ります。



写真P: 宝塔山稲荷神社の社殿が見えてきました。 孟宗竹(もうそうだけ)も生えています。



写真Q: 宝塔山稲荷神社の参道。 第二次世界大戦のときに、この右側の崖に防空壕(ぼうくうごう)が掘ってあったそうです。 ゼロ歳児だった私も母に抱かれてこの防空壕に入ったことがあるそうです。



写真R: 宝塔山稲荷神社の社殿。



写真S: 宝塔山稲荷神社の社殿の右手奥に、小さな赤い鳥居があって、その後ろに昔から穴があり、供え物を入れる風習があります。



写真T: 上の写真にある、小さな赤い鳥居の後ろにある穴。 参拝に来た人が願をかけ、この穴に油揚げ、卵、赤飯などを入れて供えます。



写真U: 宝塔山稲荷神社の社殿から見た参道。



写真V: 松巌寺の近くの 曼荼羅(まんだら) にある三叉路(さんさろ)。



写真W: 宮崎市佐土原町上田島の4丁目(しちょうめ)と呼ばれている十字路。 先は公民館へ、左は下田島へ、右は西都市へ、手前は旧国鉄 西佐土原駅跡へ。 左の店は肥田木 電器店。



写真X: 曼荼羅(まんだら)には佐土原名物の「鯨羊羹(鯨ようかん、くじらようかん)」を作っている店があります。



写真Y: 鯨羊羹(くじらようかん、鯨ようかん)です。 米の粉を水で練って伸ばし、さらに あんこ ではさんで蒸したものです。 伝統ある佐土原の和菓子で、後島津五代藩主 惟久が幼少の頃、生母が鯨のように大きく力強くなってほしいと願いを込めて作らせたのが由来とされています。



写真Z: 鯨ようかん です。



写真AA: 宝塔山稲荷神社の近くにある佐土原幼稚園。



写真AB: 崇称寺(しゅうしょう寺)の門。 左の黄色い建物は佐土原幼稚園。 正面奥が崇称寺(しゅうしょう寺)の建物。



写真AC: 崇称寺(しゅうしょう寺)の門。



写真AD: 崇称寺(しゅうしょう寺)。 右手前が鐘つき堂。 奥が本堂。 左の黄色の建物は佐土原幼稚園。



写真AE: 浄土真宗 崇称寺(しゅうしょう寺)の本堂。



写真AF: 崇称寺(しゅうしょう寺)の山門。



写真AG: 宝塔山の崇称寺(しゅうしょう寺)登山口。 崇称寺(しゅうしょう寺)の近くにあります。



写真AH: 宝塔山の登山道にも倒木がありました。 2007年8月の台風で倒れたものと思われます。



写真AI: 宝塔山の登山道にある第二次世界大戦の時の防空壕(ぼうくうごう)。



写真AJ: 崇称寺(しゅうしょう寺)登山口からの宝塔山の登山道。



写真AK: 宝塔山の登山道。



写真AL: 宝塔山への登り道。



写真AM: 宝塔山登山道。



写真AN: 尾根にたどり着きました。



写真AO: 大光寺(だいこうじ)に下る道。



写真AP: 大光寺の境内に着きました。



写真AQ: 大光寺の本堂です。 大光寺は田島氏ゆかりの寺です。 1335年創建された禅宗臨済宗のお寺です。



写真AR: 鉄砲百合(テッポウユリ)が咲いていました。



写真AS: 佐土原を島津が治める前は、田島(伊東の分家)が治めていました。 そのころの墓です。



写真AT: 田島五輪塔。 田島(伊東の分家) 氏の五輪の塔(墓です)。



写真AU: 大光寺から見た景色。 右の広い道は宝塔山への車道です。



写真AV: 大光寺にある佐土原藩島津家御廟所。



写真AW: 佐土原藩島津家の墓(大光寺)。 佐土原島津家は以久(ゆくひさ) いらい 代々浄土宗でしたが、佐土原藩主5代と6代は、古月禅師に深く帰依し、禅宗に転宗しました。 愛宕山にあった古月禅師の隠居寺 自得寺にあった後島津の藩主2方(5代の島津惟久(これひさ)、6代の島津忠雅(ただまさ))の墓と側室の墓は、明治時代の初めの廃仏毀釈で自得寺が廃寺になったので、この大光寺に移されました。



写真AX: 大光寺の孔雀(クジャク)。 佐土原小学校で飼われていた孔雀が逃げ出し、大光寺に住み付きました。 近くの松巌寺にもこの孔雀は遊びに行きます。



写真AY: 臨済宗 妙心寺派 大光寺の自国宝殿(開山堂、文殊堂、仏殿、禅堂ともいう)。 ここで座禅の行が行われます。



写真AZ: 耳の病を治したいときに、奉納する「穴の開いた石」。 4個の穴のある石が、ヒモで、自国宝殿の壁の柱に吊してあります。



写真BA: 大光寺にある宝塔山の説明板。



写真BB: 大光寺にある宝塔山の説明板(地図)。



写真BC: 大光寺の鐘楼と宝物殿。



写真BD: 大光寺の説明板(乾峯士曇墨跡六種)。



写真BE: 大光寺の説明板(木造騎獅文殊菩薩 および 脇侍付天蓋一面)。 



写真BF: 大光寺。 右が本堂で左が禅堂。 中央手前は御手洗。



写真BG: 大光寺の案内板(木造地蔵菩薩半跏像)。 この像は右手を耳に当てています。 このことからか耳の病気の人は、穴の開いた小石を大光寺に供えて祈願すると耳が良くなると伝えられています。 その穴の開いた小石が紐(ひも)で禅堂の窓の所に多くつるされています。



写真BH: 大光寺と古月禅師分骨塔の案内板。



写真BI: 大光寺にある古月禅師分骨塔。 古月禅師は、佐土原の佐賀利で生まれ、1687年京都智勝院に入り、元禄年間 阿波、豊後を回って江戸に出ました。 1751年5月筑後(久留米) 福聚寺において、85歳で亡くなられました。 遺言により火葬し、分骨して、5代、6代佐土原藩主の菩提寺 自得寺に葬られました。 この分骨も廃仏毀釈のときに、大光寺に移されました。
 古月禅師は、佐賀利で金丸家の4男として生まれ、10歳で佐土原の松巌寺 一道和尚のもとで出家しました。 21歳で一道和尚に随行して京都に行き、近畿内と九州を行脚しました。 その後も徳島県、東京都、宮城県にも行きました。 古月禅師が28歳で宮城県にいたとき、一道和尚が亡くなられたという知らせを受け、佐土原に帰郷し、松巌寺を監護しました。 38歳で大光寺に入りました。 41歳で佐土原藩主 惟久の命を受け大光寺の42世住職になりました。 この後、古月禅師は本山の出世の拝請が来ても固辞し、九州地方を中心に布教活動を行いました。 古月禅師の下には、東北地方の雲水(若い僧)も少なくありません。



写真BJ: 大光寺の本堂。



写真BK: 大光寺に住みついている雄の孔雀(クジャク)。 もとは、佐土原小学校に飼われていたものが、逃げ出したものです。 昼間には、近くの松巌寺にもこの孔雀は行っています。 このときは、大光寺の本堂にいました。



写真BL: 大光寺。



写真BM: 大光寺の本堂から見た鐘楼と禅堂。



写真BN: 鐘楼の2階から見た大光寺。



写真BO: 大光寺の鐘(かね)。 鐘楼にあります。



写真BP: 大光寺の鐘。



写真BQ: 大光寺の鐘楼にある「佛日山」の文字。



写真BR: 大光寺の鐘楼(山門にもなっています。鐘楼門)。 この手前左に、「薫酒山門に入るを許さず」と書かれた戒壇石があります。 これは、匂いのある野菜は、不浄なため、酒は浄念を乱すために共に境内にいることは許されない とする禅宗の戒めです。



写真BS: 「薫酒山門に入るを許さず」と書かれた戒壇石。 これは、匂いのある野菜は、不浄なため、酒は浄念を乱すために共に境内にいることは許されない とする禅宗の戒めです。 山門前の参道にあります。



写真BT: 宝塔山への大光寺登山口。



写真BU: 宝塔山への登山道。



写真BV: 宝塔山登山道。 階段もあります。



写真BW: 安宮大明神之墓。 安姫(やすひめ)の墓です。 安姫は安宮姫とも言います。 島津氏が治める前に治めていた、田島(伊東の分家)祐明(初代) の娘(安姫)が恋を貫いたため、非業の最期を遂げた。 その墓と伝えられている。 安宮大明神之墓は標識の右に少し草に隠れている白い石です。 安姫は美男の猿楽師と恋仲になりました。 それを知った祐明は姫を池(祇園社の月宮池、今は池はなくなり祇園社が建っています。)投げ込んだりした末に、現王口で斬り、相手の猿楽師も八日町で惨殺しました。 その後、田島氏にいろいろ不幸が起こったため、安姫を安姫大明神として宝塔山の東側に祀(まつ)ったそうです。 猿楽師は宝塔山の西側にある稲荷神社に祀りました。 なお、安姫は最後の領主の娘とする説もあります。



写真BX: 野田泉光院の墓。 泉光院は「日向の小天狗(こてんぐ)」、西の松尾芭蕉とも言われます。 新城にある安宮寺跡に泉光院の「日本九峰修行供養碑」もあります。 泉光院は藩内 修験者 八代の頭領でした。 泉光院は50歳代で1812年10月から約6年間、佐土原から出発して、全国を歩きました。 足を入れてないのは、北海道、沖縄、青森、岩手、香川、徳島、高知県だそうです。 そのとき、書いた日記が残っていて、講談社から「泉光院江戸旅日記」(石田英輔 著)が出ているそうです。 この日記は当時の庶民の生活資料として、高く評価されています。 この6年間、一度も野宿はしなかったそうです。 泊めてくれる人がいつもいたのでしょう。 いっしょにお供をした斉藤平四郎の墓は誓念寺の墓地にあります。
野田泉光院の日本九峰とは(1) 英彦山 (2) 石鎚山 (3) 箕面山 (4) 金剛山 (5) 大峯山 (6) 熊野山 (7) 富士山 (8) 羽黒山 (9) 湯殿山 だと泉光院は言っていますが、実際はもっと多くの山に登りました。
 九州・・阿蘇山 太郎岳(多良岳)黒髪山 求菩提山(くぼてやま)、  山陰・・妙見山 大江山 三滝山(三岳山)、 山陽・・後山 瑜伽(ゆか)山、 近畿・・比叡山 朝熊(あさま)山 愛宕山、 北陸・・白山 石動山 立山、 東海・・光明山 秋葉山、 信越・・浅間山 米山、 関東・・行道山 中ノ岳(妙義) 八溝山 加波・足尾山 筑波山 鹿野(かのう)山、 奥羽・・月山 鳥海山 金華山 水晶山 にも野田泉光院は登りました。



写真BY: 弓削筑前之墓(ゆげちくぜんのはか) (百貫地元祖)。 筑前は佐賀利(さがり)の人。 大富豪で大光寺周辺の土地を金百貫で寺に寄付した。 現在も百貫地という地名が残っている。 大光寺の内祖航庵にいた筑前の弟、弓削雅楽は四体千字文を佐土原で出版した。 兄の筑前の経済力があったからであろうと考えられています。



写真BZ: 宝塔山への登山道。 銀色の手すりの所から、左に下ることもできます。



写真CA: 宝塔山登山道の三叉路(さんさろ)。



写真CB: 手すりが壊れているところもあります。



写真CC: 宝塔山の上に着きます。



写真CD: 野外ステージと見物席。 左上が宝塔山の山頂です。



写真CE: 山頂付近には、水飲み場、遊園器具、東屋(あずまや)もあります。



写真CF: 遊園器具。



写真CG: 東屋(あずまや)と時計台。



写真CH: 上部の建物が宝塔山展望台です。 左の小さな家は子供が入って遊びます。



写真CI: 宝塔山の山頂にある 展望台。 コンクリート製です。



写真CJ: 宝塔山展望台の登り階段。



写真CK: 宝塔山の展望台の2階。



写真CL: 宝塔山山頂の展望台から見た景色。 一ッ瀬川の橋(新田原に行く)、新田原、佐土原の町並みなどが見えています。



写真CM: 宝塔山の展望台から。 一ッ瀬川の橋。 送電線の鉄塔、ハットリー マーケットの十字路、佐賀利なども見えています。



写真CN: 宝塔山の山頂から。 遠くの右の山は新富町富田の観音山(富田灯台があります)、一ッ瀬川、ハジ馬場(江戸時代からのロウソクを作ったハゼの木(ハジの木)があります。 佐賀利の当時の船着き場と佐土原城の間を馬に乗った人が行き交ったそうです)、ハットリーの駐車場なども見えています。 富田(とんだ)、新田(にゅうた)も江戸時代は佐土原藩でした。



写真CO: 宝塔山の上から。 一ッ瀬川の河口方面、徳ヶ淵(とくがふち)、佐賀利なども見えています。



写真CP: 宝塔山展望台から宮崎サンシャイン国際ゴルフクラブ - ゴルフ場も見えています。



写真CQ: 展望台から宝塔山公園を望む。



写真CR: 展望台から弁天山方面(北西方向)を望む。



写真CS: 宝塔山公園にある公園開発記念碑(
昭和43年3月建立、明治が始まってから100年目)と上水道配水池(大きな水道のタンク)。



写真CT: 宝塔山公園にある東屋(あずまや)。 昔は、ここに お大師様のお堂があったそうです。 わたしは、このお堂の跡に、柱の下の敷石が残っていたのを父から教えてもらったことがあります。
 また、今は宝塔山の山麓にある多楽院の境内に移されていますが、数多くのお大師様の石像がこのまわりの宝塔山公園に設置されていました。 山頂のお大師様のお堂のすぐ下の方には住職さんが住んでいらっしゃった家があったそうです。



写真CU: 宝塔山公園 東屋の中の様子。



写真CV: 西北に弁天山が見えます。



写真CW: 宝塔山公園内の道。 良く整備されています。



写真CX: 宝塔山公園にある石碑。 右は慰霊塔(昭和28年4月に建立)。 左は明治33年に建てられた石碑です。 これは関ヶ原の戦いの頃、清武町にある清武城の稲津掃部助(いなづかもんのすけ)に攻められ下那珂で戦死した人を弔ってます。 *[「稲津掃部助重政の墓」は清武町にあります。 稲津掃部助重政は若年より初代飫肥藩主 伊東祐兵(いとうすけたけ)の小姓となり、元来 勇気知謀に長(た)けていたため朝鮮出兵時は19歳ながら祐兵に重用され、さらに25歳にして地頭職を給(たま)わり清武城主となった人物である。
 慶長5年(1600年)の関ヶ原の合戦にあたり、参戦したものの大阪で病に倒れた主君  祐兵の功績にと、稲津掃部助は延岡藩高橋氏の宮崎城(現 宮崎市池内)を攻め落とし、城主 権藤種盛を討ち取った。 しかしこのとき石田方(豊臣方)と思われていた高橋氏は徳川方に寝返っており、結果的に同士討ちとなってしまった。 さらに伊東祐兵もそのまま病死し、跡を継いだ祐慶(すけのり)が幼少であったことから、これまで稲津掃部助の重用を疎(うと)ましく思っていた藩の重臣らがこの責任を稲津掃部助 一人に負わせるなどしたため伊東祐慶は切腹を言い渡すこととなった。
 これに納得できない稲津掃部助は清武城に立てこもるが伊東祐慶の派兵を受けてついに自刃(じじん)し、29年の生涯を閉じた (稲津の乱)。 
 またこの時、稲津掃部助の妻 雪江もわずか15歳ながら退去の勧めを退(しりぞ)けて稲津掃部助と運命を共にしている。]*
宝塔山のこの左の石碑は、この戦いの300年後に建てられたもの。



写真CY: 宝塔山公園の案内板。 ここは600年以上前から宝塔山と呼ばれていたそうです。  ミニ八十八カ所の霊山でもありました。 そのころ宝塔山の上にあった お大師様の数多くの石像は、現在は、山麓の多楽院の庭に移されています。



写真CZ: 宝塔山公園にある 島津の五代惟久に仕えた医者で朱子学者 臺岐璋庵の墓。



写真DA: 宝塔山公園の駐車場とトイレ。



写真DB: 宝塔山公園のタイル製 円筒形の絵。 昔の宝塔山公園の桜見で楽器を弾いている様子が描かれています。 後ろは車道です。



写真DC: 宝塔山公園の昔の桜祭りが描かれているようです。 佐土原のシンボル「鯨(くじら)」に子供がまたがっています。



写真DD: 「宝塔山桜まつり 佐土原くじら会」と書かれた旗。
 「くじら」は江戸時代から始まった佐土原の鯨羊羹(くじらようかん)に因(ちな)んでいます。 鯨(くじら)が佐土原の町おこしのシンボルです。 鯨のぼりは平成時代になってから、佐土原で始まりました。  鯉(こい)のぼりと同じように使用されます。



写真DE: 宝塔山の桜祭り。



写真DF: 宝塔山桜まつり。



写真DG: 宝塔山の桜の花。



写真DH: 宝塔山公園の桜祭り。



写真DI: 宝塔山桜祭り。



写真DJ: 宝塔山桜祭り。 万国旗も張られています。



写真DK: 万国旗は、広場の中心にある古い木から四方に張られていました。



写真DL: 宝塔山の展望台から見た桜の花と新田原(にゅうたばる)方向の景色。



写真DM: 宝塔山の展望台から見た桜の花と上水道の貯水池。



写真DN: 宝塔山の展望台から見た桜の花と弁天山(べんてんやま)。



写真DO: 佐土原町にある宝塔山の展望台と桜の花、弁天山。



写真DP: 宝塔山公園にある看板(かんばん)。 佐土原小学校区地域づくり協議会、宝塔山公園愛護会、宮崎市 によって書かれたもの。



写真DQ: 新しくできた宝塔山に登る車道の両側にも桜の若木が植えられました。 円筒形のタイルで出来た看板には江戸時代頃の宝塔山の桜祭りの絵があります。



写真DR: 新しく出来たばかりの駐車場。 車道の両側には桜の若木に咲いた花も見えています。



写真DS: 宝塔山公園から愛宕神社(あたご神社、あたごさん)に行く道です。 手前は車道です。



写真DT: 愛宕神社の階段が見えてきました。 真っ直ぐ進むと十輪寺 跡があります。



写真DU: 愛宕神社の長い階段です。 階段の一段の幅が広めなので、お年寄りでも比較的登りやすいと思われます。 愛宕神社は愛宕山の上にあります。



写真DV: 愛宕神社の参道。



写真DW: この階段の上に社殿があります。



写真DX: 佐土原藩5代 島津惟久が江戸幕府からの許可で、城主列になれたことを記念して1699年(元禄12年)に寄進した石灯籠(いしどうろう)。 愛宕神社の大石段を登り切った右手にあります。 同じ時に、同様の石灯籠を佐土原の巨田神社(こた神社)にも寄進しました。 これも現存しています。 デザインもよく似ています。



写真DY: 愛宕神社(あたご神社)の社殿。 この神社のあるところは標高 約50 m です。 愛宕神社の創建は古く720年頃、丹波の国(京都)桑田郡鎮座愛宕神社の分霊を祀ったと言われています。 佐土原藩の7社の一つです。



写真DZ: 愛宕神社。 第二次世界大戦の前、私の父と母はここで結婚式を挙げたそうです。



写真EA: 愛宕神社のお賽銭箱(さいせんばこ)。



写真EB: 愛宕神社の社殿の中。



写真EC: 愛宕神社の社殿。



写真ED: 愛宕神社の近くにある十輪寺 跡。 明治の初めまでは、神仏習合で、十輪寺の住職が愛宕神社の神主を兼ねていたそうです。 愛宕神社の大階段を上る途中の十字路を右に進むとこの十輪寺跡があります。



写真EE: 十輪寺跡を過ぎて進むと十字路があります。
 佐土原小学校の前身である、佐土原藩校 「学習館」の初代教主であった「御牧(みまき)赤報の墓」に行くには、そこを左に曲がります。
 先に進むと、「茶屋稲荷」と「茶屋村跡」が携帯電話のアンテナ塔(J−フォン(今のソフトバンク))のそばにあります。 さらに行くと、新町−東野久尾 線の車道に出ます。
 右に行くと、愛宕神社の神主さんの家のそばに行きます。



写真EF: 佐土原小学校の前身、佐土原藩校の「学習館」の初代教主であった「御牧(みまき)赤報の墓」に行く道。



写真EG: 途中に石碑があります。 この石碑には当時近くにあった「茶屋村」の字が彫(ほ)られています。



写真EH: 佐土原小学校の前身、佐土原藩校の「学習館」の初代教主であった「御牧赤報の墓」に行く道。



写真EI: 佐土原小学校の前身である佐土原藩校の「学習館」の初代教主であった「御牧赤報の墓」に行く道。



写真EJ: 自得寺跡の墓が見えてきました。



写真EK: 自得寺跡の標識。



写真EL: 「自得寺」は、古月禅師の隠居寺です。 明治4年の廃仏毀釈で廃寺となりました。 後島津の藩主2方(5代の島津惟久(これひさ)、6代の島津忠雅(ただまさ))の墓その他は近くの大光寺に移されて、現在に至っています。 古月禅師は、佐土原の佐賀利で生まれ、1687年京都智勝院に入り、元禄年間 阿波、豊後を回って江戸に出ました。 1751年5月筑後(久留米) 福聚寺において、85歳で亡くなられました。 遺言により火葬し、分骨して、5代、6代佐土原藩主の菩提寺 自得寺に葬られました。 この分骨も廃仏毀釈のときに、島津惟久(これひさ)、島津忠雅(ただまさ)の墓と共に大光寺に移されました。 御牧赤報(みまきせきほう)の墓はここ自得寺跡に残されています。 島津惟久(これひさ)の戒名から自得寺と名付けられました。 自得寺跡には忠雅公庶子久謐を祖とする第1曾小川家の墓所もあります。



写真EM: 自得寺は、名僧 古月禅師の隠居寺として建立されました。 大光寺と並ぶ寺でした。
 古月禅師は、佐賀利で金丸家の4男として生まれ、10歳で佐土原の松巌寺 一道和尚のもとで出家しました。 21歳で一道和尚に随行して京都に行き、近畿内と九州を行脚しました。 その後も徳島県、東京都、宮城県にも行きました。 古月禅師が28歳で宮城県にいたとき、一道和尚が亡くなられたという知らせを受け、佐土原に帰郷し、松巌寺を監護しました。 38歳で大光寺に入りました。 41歳で佐土原藩主 惟久(これひさ)の命を受け大光寺の42世住職になりました。 この後、古月禅師は本山の出世の拝請が来ても固辞し、九州地方を中心に布教活動を行いました。 古月禅師の下には、東北地方の雲水(若い僧)も少なくありません。



写真EN: 江戸期 寛政時代のお坊様の墓。 円筒形の墓は僧職の人の墓です。



写真EO: 佐土原小学校の前身、佐土原藩校の「学習館」の初代教主であった御牧赤報(みまきせきほう)の墓。 1823年暮れに、遊学の途中に佐土原を訪れた赤報は、文武両道に精通した大阪でも名の通った学者でした。 第9代藩主島津忠徹(ただゆき)が御一門格として任用し、佐土原藩学の祖として多くの人材を養成しました。



写真EP: 「赤報御牧篤好先生墓」と書かれています。



写真EQ: 佐土原小学校の前身、佐土原藩校の「学習館」の初代教主であった御牧赤報(みまきせきほう)の墓の説明板。 佐土原小学校創立記念日は学習館発足の日であり、小学生の代表者が参詣(さんけい)する日になっています。



写真ER: 佐土原小学校の前身、佐土原藩校の「学習館」の初代教主であった御牧赤報(みまきせきほう)は、佐土原に組織的な学制を打ち立て発展させました。



写真ES: 自得寺跡の石碑や墓。



写真ET: 尾根道は昔の「飫肥街道(おびかいどう)」です。 飫肥藩の大名行列も参勤交代の時に、この尾根道を通りました。 この飫肥街道に「茶屋稲荷」があります。



写真EU: 説明棒には、「飫肥街道沿い、城下町を見下ろす峠この付近、茶屋町があった。」と書かれています。 この説明棒は、昭和62年10月に建てられました。



写真EV: 説明棒には、「飫肥街道沿い、城下町を見下ろす峠この付近、茶屋町があった。」と書かれています。 この説明棒は、昭和62年10月に建てられました。



写真EW: 茶屋稲荷の境内。 古い階段が見えています。



写真EX: 宮崎市佐土原町上田島にある「茶屋稲荷」。



写真EY: 佐土原町上田島にある「茶屋稲荷」の御手洗(みたらい、手水鉢(ちょうずばち))。



写真EZ: 茶屋稲荷には、今の建物の前に、もっと大きな社殿跡が残っています。



写真FA: 茶屋稲荷の前の社殿跡。 柱の敷石も見えています。



写真FB: 宮崎市佐土原町上田島にある「茶屋稲荷神社」。



写真FC: 茶屋稲荷のそばに、J−フォン(今は、ソフトバンク)の携帯電話のアンテナ塔があります。



写真FD: 茶屋稲荷のそばに、J−フォン(今は、ソフトバンク)の携帯電話のアンテナ塔があります。



写真FE: ソフトバンクの携帯アンテナ塔の下に、「茶屋遺跡」の説明棒があります。



写真FF: 茶屋村跡は茶屋町跡、茶屋遺跡とも呼ばれます。 この付近が茶屋村跡です。



写真FG: 「遺跡名 茶屋遺跡」。 調査年月日: 平成12年10月23日から平成12年11月10日。



写真FH: 茶屋遺跡は、江戸期の飫肥街道の発着点に近く、城下を目前にして休息する茶屋村跡で、その痕跡を示す近世期の掘っ立て柱跡が確認されました。 その下層からは縄文・弥生期の石器・土器が出土し、古代からの生活痕があったと推測されます。



写真FI: 茶屋遺跡は、江戸期の飫肥街道の発着点に近く、城下を目前にして休息する茶屋村跡で、その痕跡を示す近世期の掘っ立て柱跡が確認されました。 その下層からは縄文・弥生期の石器・土器が出土し、古代からの生活痕があったと推測されます。



写真FJ: 茶屋遺跡は、江戸期の飫肥街道の発着点に近く、城下を目前にして休息する茶屋村跡で、その痕跡を示す近世期の掘っ立て柱跡が確認されました。 その下層からは縄文・弥生期の石器・土器が出土し、古代からの生活痕があったと推測されます。



写真FK: 茶屋遺跡の説明棒は、佐土原町教育委員会が調査協力者 ジェイ−フォン西日本株式会社と建てました。



写真FL: 宮崎市佐土原町上田島にある「茶屋村跡」。



写真FM: 宮崎市佐土原町上田島にある「茶屋村跡」。



写真FN: 宮崎市佐土原町上田島にある「茶屋村跡」。



写真FO: 宮崎市佐土原町上田島にある「茶屋村跡」。



写真FP: 宮崎市佐土原町上田島にある「茶屋村跡」。



写真FQ: この左寄りの道を通って、今日は茶屋村跡に来ました。 先は、愛宕神社の大階段の中段に出ます。
 


写真FR: 飫肥街道。 左手は茶屋村跡。 電柱もあります。 車の轍(わだち)も見えています。



写真FS: 茶屋村跡のそばには梅林もあります。 ちょうど花が咲いていました。 ここも茶屋村だったことでしょう。



写真FT: 茶屋村跡のそばにある梅林。



写真FU: 梅林にはコンクリートで囲ったところもあります。 中の木も梅です。



写真FV: 宮崎市佐土原町上田島の「茶屋村跡」にある梅林の花が咲いていました。



写真FW: 茶屋村跡の梅林にはミカンの木(はっさく)もあります。



写真FX: 梅林の角には、お墓がありました。 榊(さかき)の枝が供(そな)えてありました。



写真FY: 茶屋村跡のそばの飫肥街道(おびかいどう)。



写真FZ: 飫肥街道。



写真GA: 工事が行われていました。



写真GB: 飫肥街道は、新町−東野久尾 線の車道とぶつかります。 右端が今、通ってきた飫肥街道、真ん中の広い道が新町−東野久尾 線の車道です。 その左にも細い道があります。



写真GC: 水道工事中の看板がありました。



写真GD: 飫肥街道と車道との交差点。 左に少し見えているのが飫肥街道。



写真GE: 愛宕神社の下り階段。



写真GF: 愛宕山の下の鳥居など。



写真GG: 愛宕神社の鳥居。 左の建物は愛宕神社 前の宮。



写真GH: 愛宕神社の御札所。



写真GI: 愛宕神社と十輪寺の説明板。 愛宕神社は1300年代に創建されました。 愛宕さまは火の神様です。 火の災いから私たちを守ってくださいます。 夏祭りには ダンジリの喧嘩(けんか)が行われ、赤団と青団がぶつかり合います。 秋の穫(と)り入れに感謝する祭りと火の祭りには、神楽(かぐら)が奉納され参拝者も多く、町の花です。 十輪寺は明治の初めに廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)で失われました。



写真GJ: 愛宕神社社務所。



写真GK: 愛宕神社前之宮。



写真GL: 愛宕神社のそばにある ため池。 蓮(はす)が茂っていて、ホテイアオイの花が咲いていました。 金柏寺釈迦堂の中にある木喰仏は、1797年当時80歳の木喰上人が愛宕神社社務所わきのこの池に浮かべて釈迦像を彫ったと言われています。



写真GM: 愛宕神社から見た弁天山。 佐土原小学校の建物も見えています。



写真GN: 神主さんの家。



写真GO: 神主さんの家の近くに 古道 「佐土原城と飫肥城(おびじょう)を結ぶ街道」がありました。 飫肥藩主が参勤交代で細島港から船出するときには、佐土原、高鍋の城下を通って細島に向かいました。 清武を出発した飫肥藩主は、野首口の手前から山道に入り、愛宕神社の山道を横切って一ッ瀬川の渡し場に向かいました。 この道を飫肥街道と言います。 登り切ったところに茶屋があり、一休みできたそうです。 佐土原人形などもこの道を通って運ばれました。



写真GP: 愛宕神社。



写真GQ: 愛宕神社の近く。



写真GR: 参道から愛宕山を望む。



写真GS: 愛宕神社(あたご神社)の一の鳥居。



写真GT: 愛宕神社の灯籠(とうろう)。 



写真GU: 上の写真の灯籠。 昭和6年7月建立。



写真GV: 鯨幟(くじらのぼり)。 鯨のぼりは平成時代になってから、佐土原で始まりました。 鯉(こい)のぼりと同じように使用されます。 「くじら」は江戸時代から始まった佐土原の鯨羊羹(くじらようかん)に因(ちな)んでいます。 鯨(くじら)が佐土原の町おこしのシンボルです。



写真GW: 鯨幟(くじらのぼり)。 鯨のぼりは平成時代になってから、佐土原で始まりました。 鯉(こい)のぼりと同じように使用されます。 「くじら」は江戸時代から始まった佐土原の鯨羊羹(くじらようかん)に因(ちな)んでいます。 鯨(くじら)が佐土原の町おこしのシンボルです。



写真GX: 鯨幟(くじらのぼり)。 鯨のぼりは平成時代になってから、佐土原で始まりました。 鯉(こい)のぼりと同じように使用されます。 「くじら」は江戸時代から始まった佐土原の鯨羊羹(くじらようかん)に因(ちな)んでいます。 鯨(くじら)が佐土原の町おこしのシンボルです。



写真GY: 愛宕神社の一の鳥居のそばにある精米工場。 ここでは、佐土原の名物 「鯨ようかん(クジラようかん)」 を作っています。 右端に、愛宕神社の一の鳥居が見えます。 一の鳥居の右に鯨ようかんを作っている建物が見えています。



写真GZ: 愛宕神社の一の鳥居付近の景色。



写真HA: 愛宕神社の近くの三叉路(さんさろ)。 右は那珂に行く旧道。 手前は新道(しんみち)。 このあたりは新町です。



写真HB: 新町の酒屋と米屋。



写真HC: 新町の三叉路。



写真HD: 右の道の行き止まりが多楽院です。



写真HE: 米屋さんです。



写真HF: 酒屋さんです。



写真HG: 酒屋さんのそばの溝(みぞ)です。



写真HH: 米屋さんのそばの溝です。



写真HI: 酒屋さんの郵便ポスト。



写真HJ: 多楽院の参道から見える愛宕神社の ため池の堤(つつみ)。



写真HK: 多楽院。 真言宗黒貫寺末寺で(黒貫寺は西都市の都於郡(とのこおり)にあります。)、1468年盛存師によって開かれました。 佐土原に真言宗が入ったのは1335年より古く、関係寺院が他にもあったと思われます。 町の旧道に多くのお大師様があり、各地でお大師祭りが行われ、その中心が多楽院でした。 明治時代の初めの廃仏毀釈で黒貫寺に吸収されました。 昭和12年に再興されました。



写真HL: 多楽院の案内板。 多楽院は島津の時代以前は、伊東と関係が深く、境内で、二つに折れた供養塔が発見されました。 これは伊東義祐が建てたものと見られています。



写真HM: 多楽院で発見された 1565年に伊東義祐が建てた供養塔。 島津によって追われた伊東の遺跡、遺物はほとんど残っていませんが、伊東5代、6代、7代の戒名だけの供養塔が残っています。 多楽院と伊東義祐の関係を示す貴重な供養塔です。



写真HN: 真言宗 多楽院の本堂。



写真HO: 昔は宝塔山の上にあった 多くのお大師様の石像は今は多楽院に安置されています。 遠くの山は弁天山です。



写真HP: 多楽院のお大師様の石像群。



写真HQ: 多楽院から弁天山を望む。 弁天山山頂のテレビ中継アンテナも見えています。 また、佐土原小学校も見えています。



写真HR: 多楽院。



写真HS: 多楽院の裏には、睡蓮(スイレン)があります。



写真HT: 多楽院の本堂の中。



写真HU: 多楽院の境内。



写真HV: 多楽院の石碑。 大正10年建立。



写真HW: 上の石碑は大正10年に建てられました。



写真HX: 多楽院のお大師様。 佐土原では、槙(まき)の枝が供(そな)えられます。



写真HY: お大師様。 明治27年建立。 これは宝塔山の上にあったものを多楽院に移したもの。



写真HZ: 多楽院の新しいお大師様。



写真IA: 遠くから見た多楽院とお大師様の石像群。



写真IB: 左の大きな屋根は崇称寺(しゅうしょうじ)。



写真IC: 松巌寺(しょうがんじ)の参道。 右は佐土原幼稚園。



写真ID: 宮崎市佐土原町上田島にある山田昇 氏の生家。 山田昇氏は、日本最大の電気店「ヤマダ電機」を作り上げた創業者です。 佐土原町、宮崎市、宮崎県の誇る優れた経営者です。 由緒ある城下町の佐土原町にお生まれになりました。



写真IE: 佐土原名物 鯨羊羹(くじらようかん)の店が左側に2軒見えています。 鯨ようかん は、米の粉を水で練って伸ばし、さらに あんこ ではさんで蒸したものです。 伝統ある佐土原の和菓子で、後島津五代藩主 惟久が幼少の頃、生母が鯨のように大きく力強くなってほしいと願いを込めて作らせたのが由来とされています。



写真IF: 佐土原町の名物 「ぶんぐるま」と「佐土原人形」。
佐土原町の「ぶんぐるま」は竹製の うなりごま(唸り独楽) です。 竹製の黒い胴と上下の赤く塗られた蓋(ふた)、回すための竹の棒で出来ています。 江戸時代からの伝統竹細工です。 江戸時代の参勤交代の時に、お土産に渡すと、喜ばれたそうです。 胴の部分には四角の穴が開いていて、回すとぶーんぶんと唸(うな)ります。 これが名前の由来です。 胴の黒い部分は、丸の十の字(島津家の家紋)の模様の和紙を水で貼り付けて、松の枝でいぶし焼きします。 竹の皮の油と松ヤニが混ざって、黒く仕上がります。 「神代ごま」とも呼ばれますが、これは近年、地方に売り出すための商品名です。
 写真の ぶんごま の左手前にある、焼き物の人形が、「佐土原人形」です。 これも昔から佐土原に伝わる伝統工芸品です。



by 南陽彰悟 (NANYO Shogo)