久峰観音、久峰総合公園、佐土原藩十六烈士の墓、 正学寺跡(ひさみね観音、佐土原藩じゅうろくれっしの墓) (宮崎市佐土原町下田島と下那珂)





<標高、位置>   久峰観音は
標高 約80 m
 北緯32度01分27秒  東経131度27分44秒

<標高、位置>   佐土原藩十六烈士の墓は
標高 約数 m
 北緯32度02分43秒  東経131度28分04秒

久峰観音は真言宗の寺院です。 古い石塔、撫地蔵(なでじぞう)、松尾芭蕉の句碑、和泉式部の古鏡、西南戦争の時の墓などがあります。 古くからのお土産品の久峰うずら車、米飴(こめあめ)などもあります。
 佐土原藩十六烈士の墓は徳ヶ渕(とくがふち)の正学寺跡にあります。 江戸時代の、論語で教える忠義の典型的な出来事で亡くなった16人の墓です。 江戸城の工事に用いる栂(つが)の木材を積んだ船が、伊豆半島の近くで嵐に遭(あ)いました。 下田で全員、割腹しました。


写真A: 久峰総合公園。 運動施設が見えています。 久峰総合公園は、総面積24ヘクタールで運動公園的性格も兼ねた憩いの場です。 主な施設として、メイン広場、芝生広場、草スキー場、展望台、遊歩道、冒険広場、陸上競技場、バターゴルフ場、テニスコート、弓道場などがあります。 宮崎市佐土原町下那珂にあります。



写真B: 久峰観音(ひさみねかんのん)はこの三叉路(さんさろ)を右に進みます。 左は久峰総合公園です。



写真C: 久峰観音の標識。



写真D: 久峰観音に行く道です。



写真E: 久峰観音の駐車場です。



写真F: 久峰観音の階段と石灯籠(いしどうろう)です。 久峰観音は宮崎県佐土原町下那珂久谷13822−3にあります。



写真G: 久峰観音の説明陶板。 敏建天皇(572−585年)の時代、勅命により高僧 日羅上人が建てたと伝えられています。 小さな観音堂ですが、有名な和泉式部奉納の古鏡を今に伝える寺として、1400年以上続いています。 病む人の患部に当たるところを撫でれば治ると言われる撫地蔵(なでじぞう)や、久峰うずら車も有名です。 また、松尾芭蕉の句碑も境内にあります。 かっては、門前に集落があり、門前町としてにぎわいました。 東側にスダジイの巨木があり、その根元近くに石塔群があります。



写真H: 階段を登り切ったところの両側に仁王石像があります。 建物は本殿です。



写真I: 仁王石像、石灯籠、説明板なども見えています。



写真J: 久峰観音。 左手に芭蕉の句碑、右に弘法大師像と古い石塔群、、右奥に撫地蔵があります。



写真K: 久峰観音の説明板。 境内には、1494年、1535年の古石群があります。 文化文政に建てられた松尾芭蕉の句碑「旅に病んで夢は枯野をかけ巡る」、寛永年間に作られた撫地蔵があります。 この久峰観音は、日向七堂伽藍(がらん)の一つで別称 日向七観音とも呼ばれています。 日向七堂伽藍とは、久峰観音、浅倉観音(倉岡)、黒坂観音(清武)、日之御崎観音(青島)、円南寺(海江田、加江田のこと)、松崎観音(赤江)、伊満福寺(古城)で日羅上人が開いたものです。
 都於郡 黒貫寺が明治七年に炎上しました。 このため久峰寺の本堂が黒貫寺に移築されたので、ここには明治八年富田村(新富町) 伝宗寺の正観音仏を譲り受け再建され、現在に至っています。



写真L: 西都市都於郡(とのこおり)の黒貫寺の本堂。 この本堂は、明治7年までここ久峰観音にありました。 都於郡 黒貫寺が明治7年に炎上しました。 このためここ久峰寺の本堂が黒貫寺に移築されました。



写真M: 久峰観音の御手洗(みたらい)。



写真N: 久峰観音の社務所への説明板。



写真O: 石碑と石塔。



写真P: 松尾芭蕉の句碑。



写真Q: 久峰観音。



写真R: 久峰観音の境内に彼岸花が咲いていました。



写真S: 久峰観音の石塔。



写真T: 久峰観音。



写真U: 階段を下ります。 右に古い石塔群、左に撫地蔵があります。



写真V: 久峰観音の古い石塔群。



写真W: 久峰観音の撫地蔵(なでじぞう)。



写真X: 久峰観音の撫地蔵(なでじぞう)。 江戸期の寛永年間(1624−1644年)に作られました。 その人の体の病気の部分に、相当する所を撫でると、病気が良くなると言われています。 衣服や帽子もつけてあります。 ミカンなどの供え物も見えています。



写真Y: 弘法大師(空海)像。



写真Z: 左右の柱に、ものが詰まった袋が掛(か)けてあります。



写真AA: 久峰観音の近くにある久峰総合公園の「展望台」。 標高 約89 m。



写真AB: 久峰総合公園の展望台からの展望。 下に見えているのは光陽台団地です。



写真AC: 久峰総合公園の展望台から見た景色。



写真AD: 久峰総合公園の展望台からの眺望。 遠くの海岸に2つのホテル、近くに運動施設のナイターランプも見えています。



写真AE: 久峰総合公園の展望台から携帯電話のアンテナ群も見えています。



写真AF: 久峰総合公園の展望台からの景色。 孟宗竹(もうそうだけ)の竹林も見えています。



写真AG: 久峰総合公園の展望台の近くにある「三角点」です。 標高 88.7 m。



写真AH: 佐土原藩十六烈士の墓は宮崎市佐土原町下田島の徳ヶ渕(とくがふち)にあります。 国道10号線の一ッ瀬川にかかる日向大橋の南袂(みなみたもと)にバス停 「徳ヶ渕」があります。



写真AI: ここは明治4年の廃仏毀釈で廃寺になる前は、正学寺がありました。 この墓地に「佐土原藩十六烈士の墓」はあります。 徳ヶ渕にあります。



写真AJ: 正学寺跡の標識。



写真AK: 真言宗 正学寺は1470年頃、荒武が建立したと言われます。 明治4年廃仏毀釈で廃寺となりました。 「佐土原藩十六烈士の墓」の東隣にあります。



写真AL: 本家の都於郡城 伊東祐賀が田島の養子になると、城主の田島休助は、急死しました。 祐賀は田島一族を下田島に封置しました。 下田島の統治は祐賀の家臣 荒武が徳ヶ渕に居住し、その任に当たりました。 この荒武が正学寺を建立したと言われます。



写真AM: 佐土原藩十六烈士の墓(正面のもの)と説明板。 宮崎県宮崎市佐土原町下田島徳ヶ渕(とくがふち)にあります。



写真AN: 「佐土原藩十六烈士の墓」の説明板。 1688年薩摩藩の江戸城普請材を積み込んだ船は、遠州灘で暴風雨に遭い、宰領3人は乗務員13人を助けるために、死を覚悟して材木(ツゲの木)を捨てさせました。 無事嵐を抜け、かろうじて下田港に漂着しました。 貴重な材木を失ったことに責任を感じ、宰領3人は割腹しました。 これを見て船頭など13人も殉死しました。 この中には、15歳の少年 七蔵も入っています。 現在、徳ヶ渕地区に十六烈士の墓として祀(まつ)られ、語り継がれています。 またその時の材木の一つが鶴松館に保護展示されています。
静岡県下田市の大安寺にも墓があります。 その大安寺の本堂の柱は、船に残っていたツゲの木で作られています。



写真AO: 「佐土原十六烈士の墓」の説明板。 1688年、佐土原藩の日向丸は、薩摩藩の要請により、江戸城改修の用材を三重県の伊勢で積み込んで江戸へ向かいました。 その船には、佐土原藩から宰領3人と船頭を含む乗務員13人の合わせて16人が乗っていました。 途中、伊豆半島の沖合を航海してるときに、暴風雨に遭いました。 船頭は乗務員の安全を考え、積み荷の木材を縛っている縄をほどき、海に投げ捨てる相談を宰領たちにしました。 宰領たちは、乗組員の安全を守るために、船頭の指示通りに木材を海に投げ捨てさせました。 船はどうにか下田(静岡県下田市)の港に流れ着きました。 目的を果たせなかったことに責任を感じた3人の宰領は自ら腹を切り、それを追うように船頭以下15歳の見習い乗務員までも自害しました。 大安寺(静岡県下田市)に16人は丁重に弔(とむら)われました。 この事件について、佐土原藩が当時残した記録と、大安寺に残る墓に刻まれた記録が異なることが昭和8年に明らかになりました。 当時、佐土原藩はこの事件を隠し、あくまで暴風雨で全員水死したと伝えていました。 人々は、佐土原にも亡骸のない16人の墓をつくって弔っていました。 これは、静岡の郷土史家 村松春水が大安寺で、16人の墓を発見し、その石碑に刻まれていた碑文や地元の古老からの聞き取りで、明らかになりました。 その後、平成16年に下田の大安寺の床下から栂(つが)の木が3本発見され、内1本が佐土原歴史資料館 鶴松館に寄贈されました。 この木は、日向丸に積まれていた木材です。
 佐土原藩では、島津本家に対する遠慮から、その慰霊については家々に任せていました。 しかし、いつのころからか、宰領の出身地である徳ヶ渕地区の住民が墓石を集め十六烈士の墓として供養し、語り継いでいます。 (市広報みやざきを参考にしました。)



写真AP: 「佐土原十六烈士の墓」の説明板。 



写真AQ: 「佐土原藩十六烈士の墓」の拡大写真。



写真AR: 「佐土原藩十六烈士の墓」の拡大写真。



写真AS: 「佐土原藩十六烈士の墓」の拡大写真。



写真AT: 「佐土原藩十六烈士の墓」の拡大写真。



写真AU: 正学寺跡の墓、石像など。 円筒形の墓は僧の墓です。



写真AV: 正学寺跡の墓、石像など。 円筒形の墓は僧侶のものです。



by 南陽彰悟 (NANYO Shogo)