広瀬城跡、島津御殿跡、広瀬護国神社、蓮光寺、広瀬神社 (宮崎市佐土原町下田島)





<標高、位置>   広瀬護国神社は
標高 約10 m
 北緯32度00分36秒  東経131度28分23秒

<標高、位置>   蓮光寺は
標高 約10 m
 北緯32度01分57秒  東経131度28分37秒

<標高、位置>   広瀬神社は
標高 約10 m
 北緯32度00分53秒  東経131度28分27秒


広瀬城跡は、明治の初めに佐土原上田島の佐土原城から転城しましたが、まもなく完成しないうちに壊されました。
 島津御殿跡には廃藩置県の後に、東京に転居された島津家の方が、時折帰郷されたときに使われた建物がありました。
 広瀬護国神社は裏山に西南戦争の石碑があり、鹿児島の城山で戦死された島津啓次郎の名前も側面に彫られています。
 蓮光寺は浄土真宗の古いお寺で、「浜の寺」とも呼ばれています。
 広瀬神社は、もと佐土原城内にあった佐土原藩の氏神をここ広瀬に移したもので、近くの神社も合祀(ごうし)されています。


写真A: 広瀬小学校の正門。 広瀬城は広瀬小学校の所にありました。



写真B: 広瀬小学校。 明治2年から明治4年までの短い期間、佐土原城から広瀬に転城されました。 広瀬城は完成する前に、廃藩置県になり、取り壊されました。 広瀬小学校のどこに建物が配置され、どの程度出来ていたのかは分かっていないそうです。



写真C: 広瀬城跡の標識。 広瀬小学校の門のそばにあります。 明治2年10月1日最後の佐土原藩主(後島津 第10代) 島津忠寛(ただひろ)は江戸より帰国し、佐土原城の転城先を広瀬と決めて直ちに着工しました。 この城はわずか1年余りで建設が中止となり、完成することなく姿を消しました。 どのような建物があったのか、また配置はどうなっていたのかは分かっていません。 佐土原城は廃城になりました。 明治4年(1871年)7月14日の廃藩置県などが実施されたのに伴い、全国約200万人の藩士の大量解雇が行われました。 知藩事(旧藩主)は失職し、東京への移住が命じられました。 各県には知藩事に代わって中央政府から県令が派遣されました。 廃藩置県が行われてから約4ヶ月間 「佐土原県」がありました。 宮崎市佐土原町下田島にあります。



写真D: 佐土原城をこの地に移し、広瀬城としました。 廃藩置県のあと一時(約4ヶ月間)「佐土原県」となりました。



写真E: 広瀬小学校の正門そばにある二宮金次郎の像。



写真F: 最後の佐土原藩主(後島津 第10代)だった島津忠寛(ただひろ)は廃藩置県で、東京への移住が命じられました。 こちらに時折 帰郷されたときの住居が、島津御殿です。 原口公民館や原口保育園があるところが、島津御殿跡です。 左が原口公民館、奥のオレンジ色の建物が原口保育園です。 右手前の大きな石碑が「島津御殿跡」の石碑です。



写真G: 島津御殿跡の石碑です。 手前下の二つの四角の石は、島津御殿の門に使われていた敷石です。 宮崎市佐土原町下田島にあります。



写真H: 島津御殿跡の石碑。



写真I: 島津御殿跡の石碑に碑文が書いてあります。 この石碑は昭和44年に建てられました。



写真J: 広瀬護国神社。 国道10号線に沿っています。 石の鳥居、石灯籠(いしどうろう)なども見えています。 宮崎市佐土原町下田島にあります。



写真K: 広瀬護国神社の鳥居。 大正15年に作られた鳥居です。



写真L: 広瀬護国神社の境内に和田山公園があります。



写真M: 広瀬護国神社の社務所。 新町自治公民館にもなっています。



写真N: 広瀬護国神社の社殿と階段。



写真O: 広瀬護国神社の石灯籠(いしどうろう)です。 戊辰戦役(ぼしんせんえき)50年祭の時に作られた物です。



写真P: 広瀬護国神社の御手洗(みたらい)。



写真Q: 広瀬護国神社の社殿。



写真R: 境内にある石像。



写真S: 社殿の右手から上に登る道があります。 西南戦争、島津啓次郎の石碑はこの道から登ります。



写真T: この道を登っていきます。



写真U: 広瀬護国神社にある西南戦争の「戦役招魂塚」。 この石碑の側面に島津啓次郎の名があります。



写真V: 西南戦争の石碑と石灯籠(いしどうろう)。



写真W: 西南戦争の石碑(せきひ)。



写真X: 広瀬護国神社にある西南戦争の「戦役招魂塚」。



写真Y: 広瀬護国神社にある西南戦争の「戦役招魂塚」。 西南戦争で、鹿児島の城山で戦死した島津啓次郎の名が刻(きざ)まれています。
島津啓次郎は、最後の佐土原藩主(後島津 第10代) 島津忠寛(ただひろ)の三男として佐土原に生まれました。 1870年(明治3年)勝海舟の勧めでアメリカに6年半留学しました。 帰国後、広瀬の天神に自由民主の思想を理想とする「外字文黌(きょうぶんこう)」という私学校を作りました。 この私学校跡は今はパナソニックCC宮崎株式会社(もと九州松下電器)の工場の敷地内になっています。パナソニックCC宮崎株式会社(もと九州松下電器)の工場が出来る前は、茶畑になっていたそうです(天神の方にお話を伺うことが出来ました。 御礼申し上げます)。 西南戦争に、藩閥エリートの独断的政治からの解放を求めて参戦し、西郷隆盛らと鹿児島の城山で戦死しました。 島津啓次郎 (20歳)は、明治10年(1877年)9月24日(西郷隆盛と同じ日)に鹿児島 城山での官軍との戦いで戦死されました。 広瀬中学校に島津啓次郎の胸像があります。



写真Z: 広瀬護国神社の社殿と奥の院。



写真AA: 浄土真宗本願寺派(西本願寺)の蓮光寺。 「浜の寺」とも呼ばれています。 1566年に寺の公称が許されたと本願寺史に記されています。 庭には、町の名木のイチョウの木やイスの木などがあります。 左は鐘楼、中央は山門、右は親鸞聖人(しんらんしょうにん、1173−1262年))の像です。 宮崎市佐土原町下田島にあります。



写真AB: 蓮光寺の山門の門札。 奥の建物は本殿です。



写真AC: 蓮光寺の山門。



写真AD: 蓮光寺の本殿と寺務所。



写真AE: 本殿のそばに置いてある「古い鬼瓦(おにがわら)」。



写真AF: ふるさとの名木に指定されているイチョウの木。



写真AG: イチョウの木(ふるさとの名木)の標識。 説明も書かれています。



写真AH: 蓮光寺にある親鸞聖人(1173−1262年)の像。 親鸞(しんらん)は、鎌倉初期の僧で浄土真宗の開祖。 慈円、のちに法然の弟子となりました。 1207年念仏弾圧により新潟県に流され、のちの恵信尼を妻にしました。 1211年赦免され、晩年に帰京するまで茨城県の城里町、下妻市、笠間市に草庵を開き、関東で信心為本などの教義をもって伝道布教を行いました。



写真AI: 広瀬神社は石崎川の北岸にあります。 隣に広瀬郵便局があります。



写真AJ: 広瀬神社と刻(きざ)まれた石碑(せきひ)。



写真AK: 広瀬神社の入り口。 左に駐車場もあります。 鳥居も見えています。



写真AL: 広瀬神社の説明板。 佐土原藩の氏神は、天下大明神、諏訪大明神、稲荷大明神でした。 1550年島津忠将(後島津の初代島津以久の父)が佐土原城内に創建しました。 明治2年の広瀬転城のあと、明治5年に佐土原上田島の佐土原城内にあったものを現在の場所に移し、新城下の氏神として祀(まつ)りました。 その後、石崎神社、八坂神社、千代稲荷が合祀されました。 明治政府の強権に反発した島津啓次郎 (最後の佐土原藩主・忠寛の三男)が率(ひき)いる西南戦争 佐土原隊は、鹿児島に向けての出陣の時にこの広瀬神社で、武運長久を祈願しました。 宮崎市佐土原町下田島にあります。



写真AM: 広瀬神社の鳥居。



写真AN: 鳥居の両柱には、金具が付けてあり、榊(さかき)に御幣(ごへい)が飾ってありました。



写真AO: 広瀬神社の登り坂。



写真AP: 広瀬神社の本殿、御手洗(みたらい)、石灯籠(いしどうろう)などが見えています。



写真AQ: 広瀬神社の境内。



写真AR: 広瀬神社の境内。



写真AS: 広瀬神社の社務所。



写真AT: 広瀬神社の石灯籠(いしどうろう)。



写真AU: 広瀬神社の本殿。



写真AV: 広瀬神社の本殿。



写真AW: 広瀬神社にある古い石像など。



写真AX: 広瀬神社の本殿の側面。 絵馬が掛けてあります。



by 南陽彰悟 (NANYO Shogo)