半ぴどん の墓 (はんぴどん、半平、江戸時代のトンチ者、江戸時代の知恵者)  (宮崎県 宮崎市 大字跡江)







<標高、位置>  半ぴどん の墓は
標高 約10 m
 北緯31度56分55秒  東経131度23分26秒


 「跡江の半ぴどん」の説明板から、
 半ぴどんは、跡江に生まれ、名を半平といい貧しい農民として1785年(天明5年)に死去、大分の吉四六(キツチヨム)、熊本の彦市とともに、宮崎のトンチ者として県内外に有名である。
 反骨、知恵者で奇行も多く、役人の権力には、物言わぬ農民の代弁者として堂々と渡り合い、ユーモアを交えて役人の鼻を明かしたそうである。 また焼酎クレのヨダキゴロでもあった。 数多くの逸話があるが、ある時役人が村の溜池の堤(つつみ)を丈夫にする土木作業を村人に命じた。 「今日は村中総立ち(総出)じゃ、手抜きは許さんぞ」と厳命したが、半ぴどんは裏手で腕組みをし一向に仕事をしないので、役人がとがめると「総立ちで手を抜くなと言われたのでそんげしちょる」と答えた。 役人は怒り「お前が居ると皆が仕事をせん、明日から役目に出なくてもよい」と言って帰したそうである。
「名を残し 財を残さず 惜しい人」と書いてあります。


写真A: 県道9号線です。 先に行くと大淀川の相生橋(あいおいはし)に行きます。 手前は生目中学校などに行きます。
西側に「←はんぴどんの墓 生目地区振興会・生目商工会」と書いてある看板(かんばん)があります。 半ぴどんの墓に行くには、ここの三叉路(さんさろ)を西に入ります。 東側には「とんかつ ひがしや」と書いてある看板が見えています。
ここは宮崎県 宮崎市 大字跡江です。



写真B: 西側に「←はんぴどんの墓 生目地区振興会・生目商工会」と書いてある看板(かんばん)があります。



写真C: 南方向を見た景色。



写真D: 半ぴどんの墓に行くには、この三叉路(さんさろ)を西に入ります。



写真E: この道を進みます。



写真F: 右手に跡江公園墓地(あとえこうえんぼち)が見えてきました。



写真G: 右奥に駐車場があります。 石灯籠(いしどうろう)が見えます。 跡江公園墓地。
ここは宮崎県 宮崎市 大字跡江です。



写真H: 「はんぴどんの墓←」と書いてある石碑(せきひ)があります。



写真I: 「跡江公園墓地」と書いてある石碑があります。 その右先に「半ぴどんの墓←」と書いてある看板(かんばん)があります。
ここは宮崎県 宮崎市 大字跡江です。



写真J: 「半ぴどんの墓←、北西の隅(すみ)」と書いてある看板(かんばん)があります。



写真K: 「跡江公園墓地」と書いてある石碑。
謹誌
 跡江部落においては跡江墓地、間越墓地、松無田墓地、寺墓地と4ヶ所に墓地があり、それぞれ埋葬によって葬祭を営(いとな)んできた。
 しかしながら長い歳月を経(へ)て墓地は狭隘(きょうあい)となり、近年においては墓地問題は部落民の重要な懸案課題であった。 尚(なお)社会の情勢も土葬より火葬に移り替わりつつあり、部落民においても公園墓地建設への機運が高まり、審議検討を重ねた末、各墓地を整理統合して納骨堂方式による共同墓地を建設することとなり、昭和51年12月吉日に4墓地共見事に完成を見たのである。 この大事業達成を契機として地域住民の協調性と豊かな郷土建設への意欲が助長され、もって祖先の霊を慰(なぐさ)めると共に跡江部落発展の礎(いしずえ)として永久に子孫に継承される様祈念するものである。
昭和51年12月吉日
と書かれています。



写真L: 跡江公園墓地に石の仏像もあります。



写真M: 跡江公園墓地。



写真N: 半ぴどんの墓のある跡江公園墓地のそばの道。



写真O: 左に半ぴどんの墓の説明板が見えてきました。



写真P: 宮崎市の跡江公園墓地の北西の角に「半ぴどんの墓(はんぴどんのはか)」はあります。



写真Q: 「半ぴどんの墓」のそばの道。



写真R: ここに半ぴどんの墓があります。



写真S: 「名を残し 財を残さず 惜しい人」と書いてあります。
「跡江の半ぴどん」の説明板。
 半ぴどんは、跡江に生まれ、名を半平といい貧しい農民として1785年(天明5年)に死去、大分の吉四六(キツチヨム)、熊本の彦市とともに、宮崎のトンチ者として県内外に有名である。
 反骨、知恵者で奇行も多く、役人の権力には、物言わぬ農民の代弁者として堂々と渡り合い、ユーモアを交えて役人の鼻を明かしたそうである。 また焼酎クレのヨダキゴロでもあった。 数多くの逸話があるが、ある時役人が村の溜池の堤(つつみ)を丈夫にする土木作業を村人に命じた。 「今日は村中総立ち(総出)じゃ、手抜きは許さんぞ」と厳命したが、半ぴどんは裏手で腕組みをし一向に仕事をしないので、役人がとがめると「総立ちで手を抜くなと言われたのでそんげしちょる」と答えた。 役人は怒り「お前が居ると皆が仕事をせん、明日から役目に出なくてもよい」と言って帰したそうである。
平成10年4月吉日
跡江自治会
と書かれています。



写真T: 「跡江の半ぴどん」の説明板。
 半ぴどんは、跡江に生まれ、名を半平といい貧しい農民として1785年(天明5年)に死去、大分の吉四六(キツチヨム)、熊本の彦市とともに、宮崎のトンチ者として県内外に有名である。
 反骨、知恵者で奇行も多く、役人の権力には、物言わぬ農民の代弁者として堂々と渡り合い、ユーモアを交えて役人の鼻を明かしたそうである。 また焼酎クレのヨダキゴロでもあった。 数多くの逸話があるが、ある時役人が村の溜池の堤(つつみ)を丈夫にする土木作業を村人に命じた。 「今日は村中総立ち(総出)じゃ、手抜きは許さんぞ」と厳命したが、半ぴどんは裏手で腕組みをし一向に仕事をしないので、役人がとがめると「総立ちで手を抜くなと言われたのでそんげしちょる」と答えた。 役人は怒り「お前が居ると皆が仕事をせん、明日から役目に出なくてもよい」と言って帰したそうである。
平成10年4月吉日
跡江自治会
と書かれています。



写真U: 「跡江の半ぴどん」の説明板。
 半ぴどんは、跡江に生まれ、名を半平といい貧しい農民として1785年(天明5年)に死去、大分の吉四六(キツチヨム)、熊本の彦市とともに、宮崎のトンチ者として県内外に有名である。
 反骨、知恵者で奇行も多く、役人の権力には、物言わぬ農民の代弁者として堂々と渡り合い、ユーモアを交えて役人の鼻を明かしたそうである。 また焼酎クレのヨダキゴロでもあった。 数多くの逸話があるが、ある時役人が村の溜池の堤(つつみ)を丈夫にする土木作業を村人に命じた。 「今日は村中総立ち(総出)じゃ、手抜きは許さんぞ」と厳命したが、半ぴどんは裏手で腕組みをし一向に仕事をしないので、役人がとがめると「総立ちで手を抜くなと言われたのでそんげしちょる」と答えた。 役人は怒り「お前が居ると皆が仕事をせん、明日から役目に出なくてもよい」と言って帰したそうである。
平成10年4月吉日
跡江自治会
と書かれています。



写真V: 中央のところに半ぴどんの墓があります。 ここは跡江公園墓地の北西の隅(すみ)です。
ここは宮崎県 宮崎市 大字跡江です。



写真W: 手前の3つの墓の中央が「半ぴどん(半平)の墓」です。 宮崎県 宮崎市 大字跡江にあります。
左に「半ぴどんの墓 1785年(天明5年)没、平成22年3月吉日 跡江自治会 (建立)」と書かれた石碑(せきひ)があります。
3つの墓の左端は半平の妻、右端は半平の子供(男)の墓です。 妻の墓には「半平妻 室妙蓮信女 宝暦12年5月(1762年)」と刻(きざ)まれています。



写真X: 「半ぴどんの墓 1785年(天明5年)没、平成22年3月吉日 跡江自治会 (建立)」と書かれた石碑(せきひ)があります。



写真Y: 手前の3つの墓の中央が「半ぴどんの墓」です。 宮崎市 跡江にあります。 花が供(そな)えてあります。
3つの墓の左端は半平の妻、右端は半平の子供(男)の墓です。 妻の墓には「半平妻 室妙蓮信女 宝暦12年5月(1762年)」と刻(きざ)まれています。



写真Z: 「月潤目光信士」と彫(ほ)られた墓が「半ぴどんの墓」です。 花が供(そな)えてあります。
3つの墓の中央が「半ぴどんの墓」です。 宮崎市 跡江にあります。
半ぴどんの墓には、「俗名半平 月潤自光信士 天明5乙巳年8月7日(1785年)」と刻(きざ)まれています。
3つの墓の左端は半平の妻、右端は半平の子供(男)の墓です。 妻の墓には「半平妻 室妙蓮信女 宝暦12年5月(1762年)」と刻(きざ)まれています。



写真AA: はんぴどんの墓の近く。 赤い花はヒガンバナです。



写真AB: はんぴどんの墓の近く。



写真AC: はんぴどんの墓とその後ろの墓。



写真AD: はんぴどんの墓の近く。



写真AE: 「半ぴどん」の説明板が見えます。



写真AF: 「半ぴどん」の説明板が見えます。



写真AG: はんぴどんの墓の近く。 ベンチがあります。



写真AH: はんぴどんの墓の近く。



写真AI: 「彼岸花(ひがんばな)」が咲いていました。



写真AJ: 仏像、石灯籠(いしどうろう)などが見えます。



写真AK: 真ん中の墓は「半ぴどんの墓」の裏側です。



写真AL: 手前は「はんぴどんの妻の墓」、その向こうは「はんぴどんの墓」です。



写真AM: そばにある墓。 円筒形の墓は昔あった寺の「僧職の人の墓」です。



写真AN: 功労者の墓。



写真AO: 「功労者之墓」と書かれた石碑(せきひ)があります。



写真AP: 左から、はんぴどんの息子(むすこ)の墓、はんぴどんの墓、はんぴどんの妻の墓。



写真AQ: 「半ぴどんの墓 1785年(天明5年)没、平成22年3月吉日 跡江自治会 (建立)」と書かれた石碑(せきひ)があります。



写真AR: 半ぴどんの墓のそばの様子(ようす)。



写真AS: 宮崎県 宮崎市 大字跡江にある「半ぴどんの墓」。



写真AT: 宮崎県 宮崎市 大字跡江にある「半ぴどんの墓」。



写真AU: 宮崎県 宮崎市 大字跡江にある「半ぴどんの墓」。



写真AV: 井戸もあります。



写真AW: 駐車場。



写真AX: 跡江公園墓地。



写真AY: 跡江公園墓地。



写真AZ: 跡江公園墓地。



写真BA: 跡江公園墓地。



写真BB: 跡江公園墓地。



写真BC: 百日紅(さるすべり)の花が咲いていました。



by 南陽彰悟 (NANYO Shogo)