月山日和城跡 (がつさんひわじょうあと)、高城町郷土資料館、旧後藤家商家交流資料館、牧之原古墳群、古事記の髪長媛の像 (かみながひめのぞう) (三股院 高城 (日向国 3高城の一つ)、月山日和城、月山日和城址、三股院兼重本城、日和城、南朝、肝付兼重 (肝属兼重)、古事記 (日本書紀) での仁徳天皇の妃(きさき)になった髪長媛、高城神社、慶正寺、高城町商工会館、高城町区 八坂神社、庚申塔 (こうしんとう)、(明治45年に建立された)石の道しるべ、牧之原古墳群、牧之原古墳、高城町古墳、牧の原古墳 (牧ノ原古墳)、牧之原の茶畑、高城郷 地頭仮屋跡、都城盆地の展望、霧島連山の展望、旧 高城小学校跡、高城小学校、高城幼稚園、JA都城 高城支所、高城中学校、高城高等学校、都城市役所 高城総合支所(旧 高城町役場))  (宮崎県 都城市 高城町 大井手、高城、穂満坊)







<標高、位置>  月山日和城 (がつさんひわじょう)は
標高 約160 m
 北緯31度48分03秒  東経131度08分05秒

<標高、位置>  旧後藤家商家交流資料館は
標高 約140 m
 北緯31度48分07秒  東経131度07分54秒

<標高、位置>  慶正寺は
標高 約140 m
 北緯31度48分05秒  東経131度08分03秒

<標高、位置>  高城町区 八坂神社は
標高 約140 m
 北緯31度48分04秒  東経131度08分00秒

<標高、位置>  高城神社は
標高 約160 m
 北緯31度48分06秒  東経131度08分08秒

<標高、位置>  高城小学校は
標高 約140 m
 北緯31度47分57秒  東経131度07分57秒

<標高、位置>  牧之原古墳群 (まきのはらこふんぐん)は
標高 約170 m
 北緯31度48分10秒  東経131度08分42秒

<標高、位置>  髪長媛の像は
標高 約170 m
 北緯31度48分11秒  東経131度08分44秒

<標高、位置>  牧之原 (まきのはら)の茶畑は
標高 約170 m
 北緯31度48分15秒  東経131度08分41秒


 「月山日和城(がつさんひわじょう)、高城町郷土資料館」は宮崎県 都城市 高城町 大井手 字横馬場 2643 にあります。
高城町制施行50周年記念事業として平成4年3月22日に地下2階、地上3階の高城町郷土資料館として開館しました。 平成18年1月1日、周辺市町との合併に伴い「都城市高城郷土資料館」となりました。 館内には高城の歴史・文化を紹介する考古資料や歴史資料、民俗資料などが展示され、最上階の展望室からは都城盆地、高千穂峰、霧島連山、鰐塚山などを一望することができます。 当館の建つ中世城址「高城(月山日和城)」は南北朝時代の武将 肝付兼重による築城とされ、廃城になるまでの約280年間、都城盆地をめぐる争いの要所であった城跡です。
「日和城 (ひわじょう)」の説明板から、
この城は、今から650余年前、肝付兼重が築いたもので、当時は兼重本城といわれました。 兼重は、この城に、南朝方から受けた錦(にしき)の御旗(みはた)をひるがえし、北朝方の畠山 軍と戦い、孤軍奮闘しましたが、延元4年(1339年)8月、力つきて落城、肝付兼重は高山(鹿児島県 肝付町の高山城)へ退きました。 その後は日向守護職の畠山直顕のものとなり、高城とよばれ、月山日和城 (がつさんひわじょう)ともいわれました。 畠山 氏のあと和田 氏の居城となり、さらに島津 氏の領となったが、明應4年(1495年)伊東 氏との飫肥(おび)・三股(みまた)の交換によって、伊東 氏のものとなりました。
都城の北郷忠相は、47年の長い間かかって、やっと伊東 氏を追い払って、ここを居城としました。 戦国時代の終わりには、伊集院 氏の領有となり、庄内の乱では、この城下で激戦がくりかえされました。
乱後はまた北郷 氏のものとなりましたが、元和元年(1615年)一国一城の令によって、戦火を重ねたこの城も廃城となりました。
南北朝の争乱から、戦国時代を経(へ)て、庄内の乱まで約260年間、三股千町といわれた美田の要地として戦火に包まれた歴史を持つ、全国にも例の少ない山城です。 城の構(かま)えは、後方の台地から突出した要害の地に、空堀(からぼり)にしきられた8城郭(じょうかく)からなり、約4ヘクタールの広さです。
伊東8外城時代には、ここを中心本城として、山之口城、松尾城、梶山城、勝岡城、小山城、野々美谷城、下ノ城を支城として、扇形の雄大なかまえでした。
昭和10年の陸軍特別大演習には、野外統監部となり、昭和天皇がここにお立ちになり、演習をごらんになりました。
 「日向3高城」は穆佐院 高城(宮崎市 高岡町)、三股院 高城(都城市)、新納院 高城(にいろいんたかじょう、木城町)です。 高城町は三股町、山之口町とともに三股院という荘園がありました。 月山日和城跡は都城市指定史跡で、肝付兼重が元弘年間(鎌倉末期、1331年〜1334年)に築城した山城(平山城)の形式の城です。 曲輪(くるわ、平らな所)、土塁(どるい)、空堀(からぼり)が残っています。 月山日和城の別名は高城、三股院兼重本城、日和城です。 形式は山城(平山城)で模擬城があるところは池ノ城、菅原神社があるところは内ノ城、高城神社があるところは中ノ城です。 その他の曲輪(くるわ、平らな所)は池ノ城、内ノ城、中ノ城、真城、本城、樽原、桶広、取添です。 肝付兼重が後醍醐天皇の叔父にあたる五辻宮から錦の御旗(にしきのみはた)を授与されました。 錦の御旗の上部に月と日が刺繍(ししゅう)してあるので、それにちなんで城の名前が「月山日和城」となりました。 歴代城主は肝付[肝属]、畠山、和田、島津、伊東(八代長門守、落合兼佳)、北郷、伊集院(肥志島[比志島」義智、小牟田清五左衛門)、北郷などです。 徳川家康の一国一城令によって廃城となりました。

 「旧後藤家商家交流資料館」は宮崎県 都城市 高城町 高城 2857 にあります。
「旧後藤家商家交流資料館」の説明板から、
この旧後藤家商家交流資料館は、本家の後藤家より後藤伊助の時代に分家し、明治33年頃 後藤伊助と息子の五兵衛が建設したもので約100年を経(へ)ております。 五兵衛は、石山の方に干拓事業(かんたくじぎょう)をなし、町内の田畑はもとより周辺の志和池、高木にも所有するほどの大地主でありました。 また、明治17年〜18年頃は不況のどん底でしたので、桑園を仕立て、養蚕(ようさん)を盛んにしようと計画し養蚕教師を熊本から招くなど地域の発展に尽力(じんりょく)しました。 また町内には製糸業者も20戸ぐらいいて繭(まゆ)どころとして発達しました。 この中心的な働きをしたのが後藤伊助と五兵衛で、その頃この商家も建てられ、当時の養蚕事業のシンボル的な建物でした。

 「牧之原古墳群 (牧の原古墳群、牧ノ原古墳群)」は宮崎県 都城市 高城町 大井手 にあります。

 「髪長媛 (かみながひめ)の像(銅像)」は宮崎県 都城市 高城町 大井手 にあります。 牧之原古墳群の中の公園にあります。
 「牧之原古墳群」の説明板から、
 高城町内には、史跡として22基の県指定古墳(こふん)があります。 ここにある高塚古墳は、前方後円墳が3基、ほかの10基は円墳で、6〜7世紀にかけて造られたものと推定されています。
またこの付近からは、6世紀ごろのものといわれる地下式横穴古墳や、箱式石棺(せっかん)が数多く発見され、人骨や鉄剣・まが玉などが出てきました。
この古墳の被葬者は誰かわかりません。 しかし古墳の大きさやつくりから当時日向の諸県地方(もろかたちほう)を支配していた諸県の君牛諸井 一族の墓と推定されています。
なお、この牧之原は当時牧場だったといわれ、牛諸井のむすめで仁徳天皇の妃(きさき)となった麗(うるわ)しい「髪長媛 (かみながひめ)」が長い髪をなびかせながら噴煙たなびく霧島連山をバックに、この台地(牧之原台地)に馬を走らせていた姿がしのばれます。

 髪長媛 (かみながひめ)の銅像の台座から、
 「髪長媛。 日向の国におとめあり、名を髪長媛、すなわち諸県(もろかた)の君牛諸井が女なり、天皇専使を遣(つか)わして髪長媛を召(め)し給(たま)う (古事記 仁徳帝妃(きさき))」
  <古事記によると> 天皇、日向国の諸縣君の女、名は髪長比売、その顔容麗美しと聞こしめして、使いたまはむとして喚上げたまふし時、その太子大雀命、その媛女の難波津に泊てたるを見て、その姿容の端正しきに感でて、すなわち建内宿禰大臣に誂へて告りたまひけらく、「この日向より喚上げたまひし髪長比売は、天皇の大御所に請ひ白して、吾に賜はしめよ」とのりたまひき。
 ここに建内宿禰大臣、大命を請へば、天皇すなわち髪長比売をその御子に賜ひき。 賜ひし状は、天皇豊明聞こしめしし日に、髪長比売に大御酒の柏を握らしめて、その太子に賜ひき。
 (略)故、その媛女を賜はりて後、太子歌ひたまひしく、道の後、子波陀媛女を、雷の如、聞こえしかども、相枕枕くとうたひたまひき。 また歌ひたまひしく、道の後、子波陀媛女は、争わず、寝しくをしぞも、愛しみ思ふとうたひたまひき。
 <日本書紀>の応神天皇の条に「十三年春三月、天皇専使を遣(つか)わして髪長媛を徴さしめたまう。 秋九月中に、髪長媛 日向より至(いた)れり。 便ち桑津邑(くわつむら)に安置らしむ。」と記(しる)されています。 すなわち、髪長媛は神として、神の資格を持った采女(さいじょ)として、宮中の新嘗祭(にいなめさい)に奉仕するために、日向の国より召(め)され(宮崎県 都城市が髪長媛誕生の地と言われています。)、仁徳天皇妃(きさき)となられ、現 大阪市の桑津にお住(すま)いになった。 後に、髪長媛の住居跡に金蓮寺が建立されました。 髪長媛と仁徳天皇の間には1男、1女の子供が生まれました。
 (諸縣(諸県)はもろもろの県(あがた)の意味です。 当時の諸県は、今の宮崎県の東・西・北諸県郡と鹿児島県 曽於郡、それに宮崎市の一部です。)
 (諸県君に限らず隼人など九州南部の豪族は娘を天皇家に入内しています。)
 <日本書紀によると> 一一年、人有りて奏して曰さく、「日向国に媛子有り。 名は髪長媛。 即ち諸県君牛諸井(もろがたのうしもろい)の女なり。 是、国色之秀者なり」とまうす。  天皇、悦ぼて、心の裏に徴さむと欲す。
   一三年春三月、天皇専使を遣して、髪長媛を徴さしむ。 秋九月中、髪長媛、日向より至れり。 便ち桑津邑に安置らしむ。 爰に皇子大鷦鷯尊、髪長媛を見たまふに及りて、其の形の美麗に感でて、常に恋ぶ情有します。
 是に天皇、大鷦鷯尊の髪長媛を感づるを知しめして配せむと欲す。 是を以て、天皇、後宮に宴きこします日に、始めて髪長媛を喚して、因りて、宴の席に坐らしむ。 時に大鷦鷯をめして、髪長媛を指したまひて、乃ち歌して曰はく、(略)
 是に大鷦鷯尊、御歌を蒙りて、便ち髪長媛を賜ふこと得ることを知りて、大きに悦びて、報歌たてまつりて曰はく、(略)大鷦鷯尊、髪長媛と既に得交すること慇懃なり。 独髪長媛に対ふて歌して曰はく、「道の後、古破儷嬢女を、神の如、聞えしかど、相枕枕く」、又、歌して曰はく、「道の後、古破儷嬢女、争はず、寝しくをぞ、愛しみ思ふ」。
 <書紀一書によると>  
日本書紀巻第十応神天皇十三年九月の項の原文は、
 一云 日向諸縣君牛 仕于朝庭 年既耆耈之不能仕 仍致仕退於本土 則貢上己女髪長
媛 始至播磨 時天皇幸淡路嶋 而遊獵之 於是 天皇西望之 數十麋鹿 浮海來之 便
入于播磨鹿子水門 天皇謂左右曰 其何麋鹿也 泛巨海多來 爰左右共視而奇 則遣使令
察 使者至見 皆人也 唯以著角鹿皮 爲衣服耳 間曰 誰人也 對曰 諸縣君牛 是年
耆之 雖致仕 不得忘朝 故以己女<髪長媛>而貢上矣 天皇悦之 即喚令從御船 是以 時
人號其著岸之處 曰鹿子水門也 凡水手曰鹿子 蓋始起于是時也
(その意味は)、
一に曰く、日向の諸県君牛、朝庭に仕へて、年既に老いて仕ふる能はず。 即ち己が女髪長媛を貢上る。 始めて播磨に至る。 時に天皇、淡路嶋に幸して、遊猟したまふ。 是に天皇、西を望すに、数十の大鹿、海に浮きて来たれり。 便ち播磨の鹿子水門に入りぬ。
 天皇、左右に語りて曰はく、「其、何なる大鹿ぞ。巨海に泛びて多に来る」とのたまふ。 爰に左右共に視て奇びて、即ち使を遣して察しむ。 皆人なり。 唯角著ける皮を以て、衣服とせらくのみ。
 対へて曰さく、「諸県君牛、己が女髪長媛を以て貢上る」とまうす。 天皇悦びて、即ち喚して御船に従へまつらしむ。
 (船で日向の国から来た髪長媛には鹿の角(つの)が付いた鹿の皮を身に着けた人達が付き添っていました。)
 仁徳天皇は難波(大阪市 中央区)の高津宮に即位し、 葛城襲津彦の娘 磐之媛を「皇后」としました。 その他に数人の妃((きさき)がいました。 髪長媛は妃の中の1人です。
 仁徳天皇の妃(きさき)である髪長媛(かみながひめ)について、
<日向髪長媛、髪長比売(古事記)>
父は諸県君 牛諸井 応神11年にある人、髪長媛の美貌を応神天皇に奏す。
応神13年に応神天皇、専使を遣わし髪長媛を召す(3月)。
髪長媛が摂津国桑津(大阪市 東住吉区)に至る(9月)、大鷦鷯尊(仁徳天皇)に見初(みそ)められる。
応神天皇が宴の席にて髪長媛を大鷦鷯尊(仁徳天皇)に賜(たまわ)る 。
 髪長媛と仁徳天皇の間には皇子と皇女が生まれましたが、王権をめぐる内紛をへて日向系の勢力は断絶しました。 現在の天皇には髪長媛の遺伝子は伝わってはいません。
 都城市の早水神社(旧沖水神社)の祭神は<髪長媛>、応神天皇、牛諸井(髪長媛の父)です。

 「県指定史跡 高城町古墳」の説明板から、
指定年月日 昭和10年7月2日
 高城地区内には、大井手、石山、有水の各地域に23基の古墳があり、そのうち22基が宮崎県の文化財(史跡)となっています。 この高城町古墳は、高崎塚原古墳、志和池村古墳とともに、日向において最も内陸部に進出した前方後円墳を有するという点で、非常に重要な意義をもつ古墳群です。
 この古墳群内で最も大きいものは牧ノ原(牧之原)にある1号墳です。 この1号墳は前方後円墳で、最大長 52 m、最大幅 33 m、最大高 6 m の規模を誇り、都城盆地内でも高崎塚原1号墳に次ぐ大きさです。 この地域にはこうした前方後円墳が3基(1・3・6号)ありますが、これらは畿内(皇居が置かれた所。)の影響を強く受けた形態とされており、5世紀中頃から6世紀前半頃に築造されたものと見られます。 これらがつくられた頃は南九州で墳墓(ふんぼ)が盛んに築造された時期にあたり、全長 175 m を誇る九州最大級古墳・女狭穂塚 (西都原古墳群)は、牧ノ原の古墳群とほぼ同時期(わずかに女狭穂塚が先行か)と考えられています。
 また、ここで特徴的なのは、地下式横穴墓・箱式石棺墓・木棺墓・土坑墓といった多種多様な墓制が入り混じっていることです。 地下式横穴墓は、地表面から縦に穴を掘り、そこから横穴を掘って遺体を納(おさ)める空間を造り出して埋葬したものです。 これは南九州特有の墓制といわれており、これまで16基が見つかっています。 箱式石棺は、板石を箱状に配置して棺としたものであり、これまで7基(他に木棺墓が1基)見つかっています。 古墳時代の中頃のものと考えられるこれらの墓と、畿内(きない、天皇の皇居があった所、大和・山城・河内・和泉・摂津の5カ国)の影響を受けているとされる高塚古墳との関係が注目されています。

 「都城市立 高城小学校」は宮崎県 都城市 高城町 穂満坊 20 にあります。

 「慶正寺」は宮崎県 都城市 高城町 大井手 2643 にあります。

 「JA 都城 高城支所」は宮崎県 都城市 高城町 大井手 510 にあります。



写真A: 宮崎県 都城市 高城町の県道47号線です。 左の山の上に小さく月山日和城(がつさんひわじょう)跡にある高城郷土資料館の城型の建物が見えています。 これは模擬城で昔、このような形の城があったわけではありません。 東を見たものです。
手前に行くと国道10号線との交差点(穂満坊 交差点)があります。



写真B: 左上に月山日和城(がつさんひわじょう)跡にある高城郷土資料館の城型の建物が見えています。 右寄りに赤い鳥居(とりい)の高城町区 八坂神社が見えます。 八坂神社のところを左に曲がって月山日和城の駐車場に行きます。



写真C: 赤い鳥居の八坂神社が見えます。 この道を進み八坂神社のところを左に曲がって高城町郷土資料館の駐車場に行きます。



写真D: 山の上の「月山日和城跡」の高城町郷土資料館と平地に赤い鳥居の八坂神社が見えます。 ここを左に進んで月山日和城跡の駐車場に行きます。



写真E: 「高城町区 八坂神社」です。



写真F: 右は八坂神社、左奥は慶正寺です。



写真G: 奥に「慶正寺」が見えます。 月山日和城跡の駐車場は右に曲がります。



写真H: 宮崎県 都城市 高城町 大井手 2643にある「慶正寺」です。 右に鐘(かね)つき堂があります。 寺の門柱も見えます。 大きな木もあります。



写真I: 高城町にある慶正寺の本堂です。



写真J: 慶正寺の塀(へい)も見えます。



写真K: 左は鐘つき堂です。



写真L: 「高城小学校跡、平成10年3月 高城町教育委員会」と書いてある標識があります。



写真M: 「高城町 郷土資料館 50 m→」と書いてある看板(かんばん)があります。



写真N: 慶正寺の鐘(かね)つき堂です。 左に門柱も見えます。 上に大きな木があります。



写真O: 来た道を振(ふ)り返ったもの。



写真P: 慶正寺の境内(けいだい)です。 左は本堂です。



写真Q: 都城市 高城町 大井手 2643にある慶正寺の本堂です。



写真R: 都城市 高城町にある慶正寺の門柱、本堂です。 左に墓も見えます。



写真S: 本堂のそばです。



写真T: 「浄土真宗 本願寺派 龍松山 慶正寺」と本堂に書いてあります。 浄土真宗は一向宗(いっこうしゅう)とも呼(よ)ばれます。 江戸時代、島津藩は一向宗を禁止していました。



写真U: 「浄土真宗 本願寺派 龍松山 慶正寺」と本堂に書いてあります。 浄土真宗は一向宗(いっこうしゅう)とも呼(よ)ばれます。 江戸時代、島津藩は一向宗を禁止していました。



写真V: 浄土真宗のお寺 慶正寺の本堂です。 上の横木に彫(ほ)り物があります。 本堂内の蛍光灯が光っています。



写真W: 境内(けいだい)の内側から門柱、鐘楼(しょうろう)を見たもの。



写真X: 木と鐘楼。 左の建物は外の高城町商工会館です。



写真Y: バス停「乗合バス 高城町商工会 のりば」があります。



写真Z: 「高城町商工会館」の門札(もんさつ)があります。 慶正寺の南隣(どなり)にあります。



写真AA: 「高城町商工会館」です。 この裏に月山日和城の駐車場があります。



写真AB: 左に慶正寺の鐘つき堂が見えます。



写真AC: 高城町商工会館から鐘つき堂を見たもの。 鐘(かね)も見えます。 右に大きな木が見えています。



写真AD: 右奥に駐車場があります。



写真AE: 駐車場です。



写真AF: 駐車場側から見た高城町商工会館です。



写真AG: 奥にも駐車場があります。 これは高城町郷土資料館(月山日和城)の駐車場を兼(か)ねています。



写真AH: 古い社殿(あるいはお堂)と思われます。 この右の細い道から高城町郷土資料館 (月山日和城)へ登る道に行きます。



写真AI: 右の細い道から高城町郷土資料館 (月山日和城)へ登る道に行きます。



写真AJ: これが細い道です。



写真AK: 高城町郷土資料館 (月山日和城)へ登る道です。 下の方を見たものです。 車止めが2個見えます。 舗装(ほそう)してあります。 左は崖(がけ)になっています。 その上に高城町郷土資料館 (月山日和城)があります。



写真AL: 先ほどの駐車場、建物が見えます。



写真AM: この道を歩いて登ります。



写真AN: 坂道を登ります。



写真AO: 美しい苔(こけ)があります。



写真AP: かなり登って来ました。



写真AQ: ここで登城路が曲がっています。



写真AR: 宮崎県 都城市 高城町 大井手 2643にある「月山日和城 (がつさんひわじょう)」が見えてきました。 これは模擬城で、昔の城はこのような形ではありませんでした。



写真AS: 月山日和城 (がつさんひわじょう)の登城路です。



写真AT: 都城市 高城町 大井手 字横馬場 2643にある「月山日和城 (がつさんひわじょう)」です。 これは模擬城で、昔の城はこのような形ではありませんでした。



写真AU: 月山日和城跡にある高城町郷土資料館です。 最上階が展望台になっています。



写真AV: 月山日和城跡にある高城町郷土資料館。 最上階が展望台になっています。
「日向3高城」は穆佐院 高城(宮崎市 高岡町)、三股院 高城(都城市)、新納院 高城(にいろいんたかじょう、木城町)です。 高城町は三股町、山之口町とともに三股院という荘園がありました。 月山日和城跡は都城市指定史跡で、肝付兼重が元弘年間(鎌倉末期、1331年〜1334年)に築城した山城(平山城)の形式の城です。 曲輪(くるわ、平らな所)、土塁(どるい)、空堀(からぼり)が残っています。 月山日和城の別名は高城、三股院兼重本城、日和城です。 形式は山城(平山城)で模擬城があるところは池ノ城、菅原神社があるところは内ノ城、高城神社があるところは中ノ城です。 その他の曲輪(くるわ、平らな所)は池ノ城、内ノ城、中ノ城、真城、本城、樽原、桶広、取添です。 肝付兼重が後醍醐天皇の叔父にあたる五辻宮から錦の御旗(にしきのみはた)を授与されました。 錦の御旗の上部に月と日が刺繍(ししゅう)してあるので、それにちなんで城の名前が「月山日和城」となりました。 歴代城主は肝付[肝属]、畠山、和田、島津、伊東(八代長門守、落合兼佳)、北郷、伊集院(肥志島[比志島」義智、小牟田清五左衛門)、北郷などです。 徳川家康の一国一城令によって廃城となりました。



写真AW: 高城町郷土資料館、石碑(せきひ)などがある広場に行くには真(ま)っすぐ進みます。 右上にツツジの花が見えます。



写真AX: 石垣(いしがき)もあります。 奥に鯉(こい)のぼりが見えます。



写真AY: 左手はこのようになっています。 階段があります。



写真AZ: 高城町郷土資料館の角(かど)の部分です。



写真BA: 左手はこのようになっています。



写真BB: 日和城跡にある「肝付兼重 公 誠忠碑(ひ)」です。
肝付兼重はこの城を初めて築城した人です。



写真BC: 月山日和城跡にある「聖上御統監之地」の石碑です。
昭和10年の陸軍特別大演習には、野外統監部となり、昭和天皇がここにお立ちになり、演習をごらんになりました。



写真BD: 右奥に「招魂塚」(昭和29年3月21日建立)、その左に「戦没忠魂碑」(明治43年4月建立)が見えます。 日和城跡です。



写真BE: 高城町郷土資料館の入口が見えています。



写真BF: 都城市 高城町にある高城町郷土資料館と鯉のぼりです。
「日向3高城」は穆佐院 高城(宮崎市 高岡町)、三股院 高城(都城市)、新納院 高城(にいろいんたかじょう、木城町)です。 高城町は三股町、山之口町とともに三股院という荘園がありました。 月山日和城跡は都城市指定史跡で、肝付兼重が元弘年間(鎌倉末期、1331年〜1334年)に築城した山城(平山城)の形式の城です。 曲輪(くるわ、平らな所)、土塁(どるい)、空堀(からぼり)が残っています。 月山日和城の別名は高城、三股院兼重本城、日和城です。 形式は山城(平山城)で模擬城があるところは池ノ城、菅原神社があるところは内ノ城、高城神社があるところは中ノ城です。 その他の曲輪(くるわ、平らな所)は池ノ城、内ノ城、中ノ城、真城、本城、樽原、桶広、取添です。 肝付兼重が後醍醐天皇の叔父にあたる五辻宮から錦の御旗(にしきのみはた)を授与されました。 錦の御旗の上部に月と日が刺繍(ししゅう)してあるので、それにちなんで城の名前が「月山日和城」となりました。 歴代城主は肝付[肝属]、畠山、和田、島津、伊東(八代長門守、落合兼佳)、北郷、伊集院(肥志島[比志島」義智、小牟田清五左衛門)、北郷などです。 徳川家康の一国一城令によって廃城となりました。



写真BG: 建物の角(かど)の部分です。



写真BH: 「日和城 (ひわじょう)」の説明板です。
 この城は、今から650余年前、肝付兼重が築いたもので、当時は兼重本城といわれました。 兼重は、この城に、南朝方から受けた錦(にしき)の御旗(みはた)をひるがえし、北朝方の畠山 軍と戦い、孤軍奮闘しましたが、延元4年(1339年)8月、力つきて落城、兼重は高山へ退きました。 その後は日向守護職の畠山直顕のものとなり、高城とよばれ、月山日和城 (がつさんひわじょう)ともいわれました。 畠山 氏のあと和田 氏の居城となり、さらに島津 氏の領となったが、明應4年(1495年)伊東 氏との飫肥(おび)・三股(みまた)の交換によって、伊東 氏のものとなりました。
 都城の北郷忠相は、47年の長い間かかって、やっと伊東 氏を追い払って、ここを居城としました。 戦国時代の終わりには、伊集院 氏の領有となり、庄内の乱では、この城下で激戦がくりかえされました。
 乱後はまた北郷 氏のものとなりましたが、元和元年(1615年)一国一城の令によって、戦火を重ねたこの城も廃城となりました。
 南北朝の争乱から、戦国時代を経(へ)て、庄内の乱まで約260年間、三股千町といわれた美田の要地として戦火に包まれた歴史を持つ、全国にも例の少ない山城です。 城の構(かま)えは、後方の台地から突出した要害の地に、空堀(からぼり)にしきられた8城郭(じょうかく)からなり、約4ヘクタールの広さです。
 伊東8外城時代には、ここを中心本城として、山之口城、松尾城、梶山城、勝岡城、小山城、野々美谷城、下ノ城を支城として、扇形の雄大なかまえでした。
 昭和10年の陸軍特別大演習には、野外統監部となり、昭和天皇がここにお立ちになり、演習をごらんになりました。
高城町 むらおこし実行委員会
と書かれています。
月山日和城址 略図も載っています。



写真BI: 「日和城 (ひわじょう)」の説明板です。
 この城は、今から650余年前、肝付兼重が築いたもので、当時は兼重本城といわれました。 兼重は、この城に、南朝方から受けた錦(にしき)の御旗(みはた)をひるがえし、北朝方の畠山 軍と戦い、孤軍奮闘しましたが、延元4年(1339年)8月、力つきて落城、兼重は高山へ退きました。 その後は日向守護職の畠山直顕のものとなり、高城とよばれ、月山日和城 (がつさんひわじょう)ともいわれました。 畠山 氏のあと和田 氏の居城となり、さらに島津 氏の領となったが、明應4年(1495年)伊東 氏との飫肥(おび)・三股(みまた)の交換によって、伊東 氏のものとなりました。
 都城の北郷忠相は、47年の長い間かかって、やっと伊東 氏を追い払って、ここを居城としました。 戦国時代の終わりには、伊集院 氏の領有となり、庄内の乱では、この城下で激戦がくりかえされました。
 乱後はまた北郷 氏のものとなりましたが、元和元年(1615年)一国一城の令によって、戦火を重ねたこの城も廃城となりました。
 南北朝の争乱から、戦国時代を経(へ)て、庄内の乱まで約260年間、三股千町といわれた美田の要地として戦火に包まれた歴史を持つ、全国にも例の少ない山城です。 城の構(かま)えは、後方の台地から突出した要害の地に、空堀(からぼり)にしきられた8城郭(じょうかく)からなり、約4ヘクタールの広さです。
 伊東8外城時代には、ここを中心本城として、山之口城、松尾城、梶山城、勝岡城、小山城、野々美谷城、下ノ城を支城として、扇形の雄大なかまえでした。
 昭和10年の陸軍特別大演習には、野外統監部となり、昭和天皇がここにお立ちになり、演習をごらんになりました。
高城町 むらおこし実行委員会
と書かれています。
月山日和城址 略図も載っています。



写真BJ: 「日和城 (ひわじょう)」の説明板です。
 この城は、今から650余年前、肝付兼重が築いたもので、当時は兼重本城といわれました。 兼重は、この城に、南朝方から受けた錦(にしき)の御旗(みはた)をひるがえし、北朝方の畠山 軍と戦い、孤軍奮闘しましたが、延元4年(1339年)8月、力つきて落城、兼重は高山へ退きました。 その後は日向守護職の畠山直顕のものとなり、高城とよばれ、月山日和城 (がつさんひわじょう)ともいわれました。 畠山 氏のあと和田 氏の居城となり、さらに島津 氏の領となったが、明應4年(1495年)伊東 氏との飫肥(おび)・三股(みまた)の交換によって、伊東 氏のものとなりました。
 都城の北郷忠相は、47年の長い間かかって、やっと伊東 氏を追い払って、ここを居城としました。 戦国時代の終わりには、伊集院 氏の領有となり、庄内の乱では、この城下で激戦がくりかえされました。
 乱後はまた北郷 氏のものとなりましたが、元和元年(1615年)一国一城の令によって、戦火を重ねたこの城も廃城となりました。
 南北朝の争乱から、戦国時代を経(へ)て、庄内の乱まで約260年間、三股千町といわれた美田の要地として戦火に包まれた歴史を持つ、全国にも例の少ない山城です。 城の構(かま)えは、後方の台地から突出した要害の地に、空堀(からぼり)にしきられた8城郭(じょうかく)からなり、約4ヘクタールの広さです。
 伊東8外城時代には、ここを中心本城として、山之口城、松尾城、梶山城、勝岡城、小山城、野々美谷城、下ノ城を支城として、扇形の雄大なかまえでした。
 昭和10年の陸軍特別大演習には、野外統監部となり、昭和天皇がここにお立ちになり、演習をごらんになりました。
高城町 むらおこし実行委員会
と書かれています。
月山日和城址 略図も載っています。



写真BK: 「日和城 (ひわじょう)」の説明板です。
 この城は、今から650余年前、肝付兼重が築いたもので、当時は兼重本城といわれました。 兼重は、この城に、南朝方から受けた錦(にしき)の御旗(みはた)をひるがえし、北朝方の畠山 軍と戦い、孤軍奮闘しましたが、延元4年(1339年)8月、力つきて落城、兼重は高山へ退きました。 その後は日向守護職の畠山直顕のものとなり、高城とよばれ、月山日和城 (がつさんひわじょう)ともいわれました。 畠山 氏のあと和田 氏の居城となり、さらに島津 氏の領となったが、明應4年(1495年)伊東 氏との飫肥(おび)・三股(みまた)の交換によって、伊東 氏のものとなりました。
 都城の北郷忠相は、47年の長い間かかって、やっと伊東 氏を追い払って、ここを居城としました。 戦国時代の終わりには、伊集院 氏の領有となり、庄内の乱では、この城下で激戦がくりかえされました。
 乱後はまた北郷 氏のものとなりましたが、元和元年(1615年)一国一城の令によって、戦火を重ねたこの城も廃城となりました。
 南北朝の争乱から、戦国時代を経(へ)て、庄内の乱まで約260年間、三股千町といわれた美田の要地として戦火に包まれた歴史を持つ、全国にも例の少ない山城です。 城の構(かま)えは、後方の台地から突出した要害の地に、空堀(からぼり)にしきられた8城郭(じょうかく)からなり、約4ヘクタールの広さです。
 伊東8外城時代には、ここを中心本城として、山之口城、松尾城、梶山城、勝岡城、小山城、野々美谷城、下ノ城を支城として、扇形の雄大なかまえでした。
 昭和10年の陸軍特別大演習には、野外統監部となり、昭和天皇がここにお立ちになり、演習をごらんになりました。
高城町 むらおこし実行委員会
と書かれています。
月山日和城址 略図も載っています。



写真BL: 「日和城 (ひわじょう)」の説明板です。
 この城は、今から650余年前、肝付兼重が築いたもので、当時は兼重本城といわれました。 兼重は、この城に、南朝方から受けた錦(にしき)の御旗(みはた)をひるがえし、北朝方の畠山 軍と戦い、孤軍奮闘しましたが、延元4年(1339年)8月、力つきて落城、兼重は高山へ退きました。 その後は日向守護職の畠山直顕のものとなり、高城とよばれ、月山日和城 (がつさんひわじょう)ともいわれました。 畠山 氏のあと和田 氏の居城となり、さらに島津 氏の領となったが、明應4年(1495年)伊東 氏との飫肥(おび)・三股(みまた)の交換によって、伊東 氏のものとなりました。
 都城の北郷忠相は、47年の長い間かかって、やっと伊東 氏を追い払って、ここを居城としました。 戦国時代の終わりには、伊集院 氏の領有となり、庄内の乱では、この城下で激戦がくりかえされました。
 乱後はまた北郷 氏のものとなりましたが、元和元年(1615年)一国一城の令によって、戦火を重ねたこの城も廃城となりました。
 南北朝の争乱から、戦国時代を経(へ)て、庄内の乱まで約260年間、三股千町といわれた美田の要地として戦火に包まれた歴史を持つ、全国にも例の少ない山城です。 城の構(かま)えは、後方の台地から突出した要害の地に、空堀(からぼり)にしきられた8城郭(じょうかく)からなり、約4ヘクタールの広さです。
 伊東8外城時代には、ここを中心本城として、山之口城、松尾城、梶山城、勝岡城、小山城、野々美谷城、下ノ城を支城として、扇形の雄大なかまえでした。
 昭和10年の陸軍特別大演習には、野外統監部となり、昭和天皇がここにお立ちになり、演習をごらんになりました。
高城町 むらおこし実行委員会
と書かれています。
月山日和城址 略図も載っています。



写真BM: 「日和城 (ひわじょう)」の説明板です。
 この城は、今から650余年前、肝付兼重が築いたもので、当時は兼重本城といわれました。 兼重は、この城に、南朝方から受けた錦(にしき)の御旗(みはた)をひるがえし、北朝方の畠山 軍と戦い、孤軍奮闘しましたが、延元4年(1339年)8月、力つきて落城、兼重は高山へ退きました。 その後は日向守護職の畠山直顕のものとなり、高城とよばれ、月山日和城 (がつさんひわじょう)ともいわれました。 畠山 氏のあと和田 氏の居城となり、さらに島津 氏の領となったが、明應4年(1495年)伊東 氏との飫肥(おび)・三股(みまた)の交換によって、伊東 氏のものとなりました。
 都城の北郷忠相は、47年の長い間かかって、やっと伊東 氏を追い払って、ここを居城としました。 戦国時代の終わりには、伊集院 氏の領有となり、庄内の乱では、この城下で激戦がくりかえされました。
 乱後はまた北郷 氏のものとなりましたが、元和元年(1615年)一国一城の令によって、戦火を重ねたこの城も廃城となりました。
 南北朝の争乱から、戦国時代を経(へ)て、庄内の乱まで約260年間、三股千町といわれた美田の要地として戦火に包まれた歴史を持つ、全国にも例の少ない山城です。 城の構(かま)えは、後方の台地から突出した要害の地に、空堀(からぼり)にしきられた8城郭(じょうかく)からなり、約4ヘクタールの広さです。
 伊東8外城時代には、ここを中心本城として、山之口城、松尾城、梶山城、勝岡城、小山城、野々美谷城、下ノ城を支城として、扇形の雄大なかまえでした。
 昭和10年の陸軍特別大演習には、野外統監部となり、昭和天皇がここにお立ちになり、演習をごらんになりました。
高城町 むらおこし実行委員会
と書かれています。
月山日和城址 略図も載っています。



写真BN: 「日和城 (ひわじょう)」の説明板です。
 この城は、今から650余年前、肝付兼重が築いたもので、当時は兼重本城といわれました。 兼重は、この城に、南朝方から受けた錦(にしき)の御旗(みはた)をひるがえし、北朝方の畠山 軍と戦い、孤軍奮闘しましたが、延元4年(1339年)8月、力つきて落城、兼重は高山へ退きました。 その後は日向守護職の畠山直顕のものとなり、高城とよばれ、月山日和城 (がつさんひわじょう)ともいわれました。 畠山 氏のあと和田 氏の居城となり、さらに島津 氏の領となったが、明應4年(1495年)伊東 氏との飫肥(おび)・三股(みまた)の交換によって、伊東 氏のものとなりました。
 都城の北郷忠相は、47年の長い間かかって、やっと伊東 氏を追い払って、ここを居城としました。 戦国時代の終わりには、伊集院 氏の領有となり、庄内の乱では、この城下で激戦がくりかえされました。
 乱後はまた北郷 氏のものとなりましたが、元和元年(1615年)一国一城の令によって、戦火を重ねたこの城も廃城となりました。
 南北朝の争乱から、戦国時代を経(へ)て、庄内の乱まで約260年間、三股千町といわれた美田の要地として戦火に包まれた歴史を持つ、全国にも例の少ない山城です。 城の構(かま)えは、後方の台地から突出した要害の地に、空堀(からぼり)にしきられた8城郭(じょうかく)からなり、約4ヘクタールの広さです。
 伊東8外城時代には、ここを中心本城として、山之口城、松尾城、梶山城、勝岡城、小山城、野々美谷城、下ノ城を支城として、扇形の雄大なかまえでした。
 昭和10年の陸軍特別大演習には、野外統監部となり、昭和天皇がここにお立ちになり、演習をごらんになりました。
高城町 むらおこし実行委員会
と書かれています。
月山日和城址 略図も載っています。



写真BO: 「日和城 (ひわじょう)」の説明板です。
 この城は、今から650余年前、肝付兼重が築いたもので、当時は兼重本城といわれました。 兼重は、この城に、南朝方から受けた錦(にしき)の御旗(みはた)をひるがえし、北朝方の畠山 軍と戦い、孤軍奮闘しましたが、延元4年(1339年)8月、力つきて落城、兼重は高山へ退きました。 その後は日向守護職の畠山直顕のものとなり、高城とよばれ、月山日和城 (がつさんひわじょう)ともいわれました。 畠山 氏のあと和田 氏の居城となり、さらに島津 氏の領となったが、明應4年(1495年)伊東 氏との飫肥(おび)・三股(みまた)の交換によって、伊東 氏のものとなりました。
 都城の北郷忠相は、47年の長い間かかって、やっと伊東 氏を追い払って、ここを居城としました。 戦国時代の終わりには、伊集院 氏の領有となり、庄内の乱では、この城下で激戦がくりかえされました。
 乱後はまた北郷 氏のものとなりましたが、元和元年(1615年)一国一城の令によって、戦火を重ねたこの城も廃城となりました。
 南北朝の争乱から、戦国時代を経(へ)て、庄内の乱まで約260年間、三股千町といわれた美田の要地として戦火に包まれた歴史を持つ、全国にも例の少ない山城です。 城の構(かま)えは、後方の台地から突出した要害の地に、空堀(からぼり)にしきられた8城郭(じょうかく)からなり、約4ヘクタールの広さです。
 伊東8外城時代には、ここを中心本城として、山之口城、松尾城、梶山城、勝岡城、小山城、野々美谷城、下ノ城を支城として、扇形の雄大なかまえでした。
 昭和10年の陸軍特別大演習には、野外統監部となり、昭和天皇がここにお立ちになり、演習をごらんになりました。
高城町 むらおこし実行委員会
と書かれています。
月山日和城址 略図も載っています。



写真BP: 都城市 高城町にある月山日和城跡に高城町郷土資料館があります。 最上階が展望所になっています。 これは模擬城です。 昔、このような城があったわけではありません。 模擬城があるところは池ノ城、菅原神社があるところは内ノ城、高城神社があるところは中ノ城です。
高城町制施行50周年記念事業として平成4年3月22日に地下2階、地上3階の高城町郷土資料館として開館しました。 平成18年1月1日、周辺市町との合併に伴い「都城市高城郷土資料館」となりました。 館内には高城の歴史・文化を紹介する考古資料や歴史資料、民俗資料などが展示され、最上階の展望室からは都城盆地、高千穂峰、霧島連山、鰐塚山などを一望することができます。 当館の建つ中世城址「高城(月山日和城)」は南北朝時代の武将 肝付兼重による築城とされ、廃城になるまでの約280年間、都城盆地をめぐる争いの要所であった城跡です。



写真BQ: 都城市 高城町にある日和城跡に高城町郷土資料館があります。



写真BR: ここから坂道を登って来ました。



写真BS: 高城町にある高城町郷土資料館。



写真BT: 高城町郷土資料館です。



写真BU: 日和城跡にある「聖上御統監之地」の石碑とこいのぼりです。
昭和10年の陸軍特別大演習には、野外統監部となり、昭和天皇がここにお立ちになり、演習をごらんになりました。



写真BV: 「肝付兼重(きもつきかねしげ) 公 誠忠碑」の説明板があります。
 この誠忠碑は、昭和10年11月行われた陸軍大演習直前の10月18日、高城町民の協力と奉仕によって内之城 (月山日和城の)に建てられた。
 その後66星霜(せいそう、歳月のこと)、周囲を樹木に囲まれ人目(ひとめ)にもつきにくくなったので、平成13年この池之城 (月山日和城の)の地に移設し、工事終了の今日の日を吉日として、改めて祭祀(さいし)を行ない、その業績を顕彰するとともに、その霊(みたま)を供養(くよう)したものである。
 今を去る約670年前の昔、南朝方としてこの月山日和城 (がつさんひわじょう)に錦旗(きんき)を奉じて立てこもり、武家方 畠山直顕 一統の大軍を相手に壮絶な戦いを演じた肝付兼重 (三股八郎兼重)公の誠忠、永遠(とわ)ならんことを。
平成13年4月27日 高城町教育委員会
と書かれています。



写真BW: 右の丸い「日清日露戦没記念碑」と中央の「肝付兼重 公 誠忠碑(ひ)」です。
肝付兼重はこの城を初めて築城した人です。



写真BX: 日和城跡にある「聖上御統監之地」の石碑です。
昭和10年の陸軍特別大演習には、野外統監部となり、昭和天皇がここにお立ちになり、演習をごらんになりました。



写真BY: 左は「招魂塚」(昭和29年3月21日建立)。 その他の石碑(せきひ)も見えます。



写真BZ: 右に「招魂塚」(昭和29年3月21日建立、西南戦争の慰霊碑です。 高城町から西郷軍として30名の戦死者が出ました。 また、官軍として4名が従軍しました。)、その左に「戦没忠魂碑」(明治43年4月建立)があります。  月山日和城跡です。



写真CA: 月山日和城跡にある高城町郷土資料館
高城町制施行50周年記念事業として平成4年3月22日に地下2階、地上3階の高城町郷土資料館として開館しました。 平成18年1月1日、周辺市町との合併に伴い「都城市高城郷土資料館」となりました。 館内には高城の歴史・文化を紹介する考古資料や歴史資料、民俗資料などが展示され、最上階の展望室からは都城盆地、高千穂峰、霧島連山、鰐塚山などを一望することができます。 当館の建つ中世城址「高城(月山日和城)」は南北朝時代の武将 肝付兼重による築城とされ、廃城になるまでの約280年間、都城盆地をめぐる争いの要所であった城跡です。



写真CB: 月山日和城跡にある高城町郷土資料館。



写真CC: 日和城跡にある高城町郷土資料館。



写真CD: 白い色のニワゼキショウの花がありました。 普通は紫色の花のものが多い。



写真CE: 「戦没忠魂碑」(明治43年4月建立)です。 「この先は崖(がけ)が崩(くず)れていますので大変危険です。 中に入らないで下さい。 高城町」と書いてある看板(かんばん)があります。



写真CF: 右の大きな建物は高城小学校です。 左の建物はJA都城 高城支所です。 城の形をした高城町郷土資料館の最上階から見た景色です。 南西を見たもの。 都城盆地が展望できます。



写真CG: 左の建物は高城小学校、その右奥に高城高等学校、さらにその右に高城中学校、都城市役所 高城総合支所 (旧 高城町役場)が見えます。 城の形の高城町郷土資料館の最上階から南西を見た景色です。 奥の方に都城市の中心部が見えます。 都城盆地が展望できます。



写真CH: 城の形の高城町郷土資料館の最上階にはこのような双眼鏡が設置してあります。



写真CI: 北西方向に高千穂峰 (たかちほのみね、標高 1574.0 m)などの霧島連山が見えます。 左の尖(とが)った山が高千穂峰 (たかちほのみね、標高 1574.0 m)です。 左下にコンクリートの高城町郵便局、その右に「旧後藤家商家交流資料館」が見えています。 県道47号線、奥に大淀川の堤防も見えます。 北西を見た展望です。 霧島連山が展望できます。



写真CJ: 北を見た眺望(ちょうぼう)です。 携帯電話の基地局アンテナも見えます。 右下に城の形の高城町郷土資料館の屋根が見えます。



写真CK: 高城町郷土資料館の最上階から北を見た景色です。 こちらにも双眼鏡があります。 外側に通路があって一回り東西南北を展望することが出来ます。



写真CL: 高城町郷土資料館の最上階のまわりです。



写真CM: このような窓があります。



写真CN: 登ってきた坂道が見えます。



写真CO: 北を見た景色です。 携帯電話の基地局アンテナも見えます。



写真CP: 北を見たものです。 右に忠霊塔が見えます。 左下には登ってきた坂道が見えます。



写真CQ: 忠霊塔の右奥に白い広場が見えます。 そこも月山日和城 (がつさんひわじょう)の曲輪(くるわ、平らな所)の一つです。



写真CR: 北東を見たものです。 右端に鰐塚山(わにづかやま、1118.1 m)が見えます。



写真CS: 左上は忠霊塔です。 そこに登る階段も右寄りに見えます。



写真CT: 城の形の高城町郷土資料館から見た忠霊塔です。 右奥に白い広場が見えます。 そこは今は神社になっていて、月山日和城の曲輪(くるわ、平らな所)の一つです。 北を見た景色です。



写真CU: 鰐塚山(わにづかやま、標高 1118.1 m)が見えます。 北東を見たものです。



写真CV: 北を見た景色です。



写真CW: 北東を見たものです。 右端は鰐塚山(わにづかやま、標高 1118.1 m)です。



写真CX: 東に高い鰐塚山(わにづかやま、1118.1 m)が見えます。 手前に都城市 山之口町につながる県道47号線が見えます。



写真CY: 南を見た展望です。 右端にJA都城 高城支所が見えます。 手前に県道47号線、その奥に牧之原古墳群 (まきのはらこふんぐん)、髪長媛(かみながひめ)の像に行く車道が見えます。



写真CZ: 右端に高城小学校、左にJA都城 高城支所が見えます。 その奥に左右に通っている牧之原古墳群 (まきのはらこふんぐん)、髪長媛(かみながひめ)の像に行く車道が見えます。 右手前は双眼鏡です。



写真DA: 右端に高城小学校が見えます。 左右に通っている牧之原古墳群 (まきのはらこふんぐん)、髪長媛(かみながひめ)の像に行く車道が見えます。 NIKONの双眼鏡が高城町郷土資料館の最上階にあります。



写真DB: このような窓があります。 まわりの通路には手すりがあります。



写真DC: 高城町郷土資料館の最上階の部屋にまわりの写真の展示があります。 東の写真です。



写真DD: 高城町郷土資料館の最上階の部屋にまわりの写真の展示があります。 南の写真です。 手前の石碑の広場はまだ新しく木などが茂っていません。



写真DE: 高城町郷土資料館の最上階の部屋にまわりの写真の展示があります。 手前の石碑の広場はまだ新しく木などが茂っていません。



写真DF: 高城町郷土資料館の最上階の部屋にまわりの写真の展示があります。 この写真にも高千穂峰などの霧島連山が見えます。



写真DG: 高城町郷土資料館の最上階の部屋にまわりの写真の展示があります。



写真DH: 内側から見た窓です。 最上階です。



写真DI: 高城町郷土資料館の最上階にはこのような椅子(いす)などがあります。



写真DJ: 高城町郷土資料館の最上階です。 右奥のドアからまわりの通路に出て景色を展望できます。 左に階段の手すりが見えます。 消火器も置いてあります。



写真DK: 最上階からこの階段で下に降(お)ります。



写真DL: この階段を下(くだ)ります。



写真DM: このような窓があります。



写真DN: 高城町郷土資料館の階段です。



写真DO: 広場に降りてきました。 先ほどの最上階の展望所の手すり、窓、ドアなどが見えます。



写真DP: 広場の「招魂塚」(昭和29年3月21日建立)の近くから東を見た景色です。 左に高い鰐塚山(わにづかやま、1118.1 m)が見えます。



写真DQ: 左の丸い「日清日露戦没記念碑」と右の「肝付兼重 公 誠忠碑(ひ)」が見えます。



写真DR: 広場の周(まわ)りには木があります。



写真DS: 木の向こうにJA都城 高城支所の建物が見えます。



写真DT: 南西の角(かど)にこのような石があります。



写真DU: 角から見た丸い「日清日露戦没記念碑」です。



写真DV: 北西に先の尖(とが)った高千穂峰 (たかちほのみね、標高 1574.0 m)とその右にうっすらと霧島連山が見えます。



写真DW: 北西に先の尖(とが)った高千穂峰 (たかちほのみね、標高 1574.0 m)とその右にうっすらと霧島連山が見えます。
月山日和城跡の広場から見たもの。
県道47号線とその左に旧後藤家商家交流資料館も見えます。



写真DX: 北西に先の尖(とが)った高千穂峰 (たかちほのみね、標高 1574.0 m)とその右にうっすらと霧島連山が見えます。
月山日和城跡の広場から見たもの。
県道47号線、旧後藤家商家交流資料館も見えます。



写真DY: ツツジの花が咲いていました。 右端に高城高等学校。その左に高城小学校が見えます。 都城市 高城町の月山日和城跡。



写真DZ: このような石が下にあります。 石橋の一種でしょう。



写真EA: 左は説明板です。



写真EB: 高城町にある月山日和城跡の高城町郷土資料館です。 高い所に鯉(こい)のぼりが泳いでいます。



写真EC: この道を戻(もど)ります。



写真ED: 模擬城の北に階段があり、そこに忠霊塔があります。



写真EE: 下に降りる階段もあります。 右は高城町郷土資料館です。



写真EF: こちらの階段を登ります。



写真EG: 月山日和城の曲輪(くるわ、平らな所)にある「忠霊塔」です。 この模擬城の北の忠霊塔は日中戦争、太平洋戦争で亡くなった人のために造られたものです。



写真EH: 広場の角に「菅原神社」があります。
模擬城があるところは池ノ城、菅原神社があるところは内ノ城、高城神社があるところは中ノ城です。



写真EI: トイレが見えます。



写真EJ: 高城町にある月山日和城跡の「忠霊塔」です。
模擬城があるところは池ノ城、菅原神社があるところは内ノ城、高城神社があるところは中ノ城です。



写真EK: ここは日和城の曲輪(くるわ、平らな所)です。



写真EL: 曲輪(くるわ、平らな所)から見た高城町郷土資料館です。



写真EM: 曲輪(くるわ、平らな所)から見た高城町郷土資料館。



写真EN: ここから階段を登って来ました。



写真EO: 都城市にある高城町郷土資料館です。 北から見たもの。



写真EP: 都城市にある高城町郷土資料館。 北から見たもの。



写真EQ: 「菅原神社 建設之碑(ひ) (昭和62年、第二自治公民館 建立)」です。
菅原神社は、約450年前に都城島津の北郷忠相が城主となった頃に菅原道真を祀(まつ)ったものです。



写真ER: 「菅原神社 建設之碑(ひ) (昭和62年、第二自治公民館 建立)」です。
菅原神社は、約450年前に都城島津の北郷忠相が城主となった頃に菅原道真を祀(まつ)ったものです。



写真ES: 月山日和城跡にある菅原神社です。



写真ET: 石像と石碑(せきひ)が菅原神社にあります。 榊(さかき)が供(そな)えてあります。



写真EU: こちらにも石像があります。 榊(さかき)が供(そな)えてあります。



写真EV: 「菅原神社」と書いてある額(がく)があります。 しめ縄と御幣(ごへい)があります。



写真EW: 菅原神社です。



写真EX: 曲輪(くるわ、平らな所)にある忠霊塔です。 右はトイレです。 国旗掲揚ポール、外灯もあります。



写真EY: 記念碑などの石碑があります。 国旗掲揚ポールも見えます。



写真EZ: 石碑も見えます。



写真FA: 曲輪(くるわ、平らな所)にある「忠霊塔」です。
この模擬城の北の忠霊塔は日中戦争、太平洋戦争で亡くなった人のために造られたものです。
「日向3高城」は穆佐院 高城(宮崎市 高岡町)、三股院 高城(都城市)、新納院 高城(にいろいんたかじょう、木城町)です。 高城町は三股町、山之口町とともに三股院という荘園がありました。 月山日和城跡は都城市指定史跡で、肝付兼重が元弘年間(鎌倉末期、1331年〜1334年)に築城した山城(平山城)の形式の城です。 曲輪(くるわ、平らな所)、土塁(どるい)、空堀(からぼり)が残っています。 月山日和城の別名は高城、三股院兼重本城、日和城です。 形式は山城(平山城)で模擬城があるところは池ノ城、菅原神社があるところは内ノ城、高城神社があるところは中ノ城です。 その他の曲輪(くるわ、平らな所)は池ノ城、内ノ城、中ノ城、真城、本城、樽原、桶広、取添です。 肝付兼重が後醍醐天皇の叔父にあたる五辻宮から錦の御旗(にしきのみはた)を授与されました。 錦の御旗の上部に月と日が刺繍(ししゅう)してあるので、それにちなんで城の名前が「月山日和城」となりました。 歴代城主は肝付[肝属]、畠山、和田、島津、伊東(八代長門守、落合兼佳)、北郷、伊集院(肥志島[比志島」義智、小牟田清五左衛門)、北郷などです。 徳川家康の一国一城令によって廃城となりました。



写真FB: 曲輪(くるわ、平らな所)にある「忠霊塔」。



写真FC: 石灯籠(いしどうろう)もあります。



写真FD: こちらにも石灯籠があります。



写真FE: 国旗掲揚ポールと外灯もあります。



写真FF: 月山日和城跡にある「忠霊塔」です。



写真FG: 月山日和城跡にある「忠霊塔」。



写真FH: 北の方に空堀(からぼり)があって、その奥の曲輪(くるわ、平らな所)に「高城神社」が見えています。
模擬城があるところは池ノ城、菅原神社があるところは内ノ城、高城神社があるところは中ノ城です。
「日向3高城」は穆佐院 高城(宮崎市 高岡町)、三股院 高城(都城市)、新納院 高城(にいろいんたかじょう、木城町)です。 高城町は三股町、山之口町とともに三股院という荘園がありました。 月山日和城跡は都城市指定史跡で、肝付兼重が元弘年間(鎌倉末期、1331年〜1334年)に築城した山城(平山城)の形式の城です。 曲輪(くるわ、平らな所)、土塁(どるい)、空堀(からぼり)が残っています。 月山日和城の別名は高城、三股院兼重本城、日和城です。 形式は山城(平山城)で模擬城があるところは池ノ城、菅原神社があるところは内ノ城、高城神社があるところは中ノ城です。 その他の曲輪(くるわ、平らな所)は池ノ城、内ノ城、中ノ城、真城、本城、樽原、桶広、取添です。 肝付兼重が後醍醐天皇の叔父にあたる五辻宮から錦の御旗(にしきのみはた)を授与されました。 錦の御旗の上部に月と日が刺繍(ししゅう)してあるので、それにちなんで城の名前が「月山日和城」となりました。 歴代城主は肝付[肝属]、畠山、和田、島津、伊東(八代長門守、落合兼佳)、北郷、伊集院(肥志島[比志島」義智、小牟田清五左衛門)、北郷などです。 徳川家康の一国一城令によって廃城となりました。



写真FI: 空堀(からぼり)があって、その奥の曲輪(くるわ、平らな所)に「高城神社」が見えています。



写真FJ: 空堀(からぼり)があって、その奥の曲輪(くるわ、平らな所)に「高城神社」が見えています。 その神社の石灯籠(いしどうろう)も左に見えています。
模擬城があるところは池ノ城、菅原神社があるところは内ノ城、高城神社があるところは中ノ城です。



写真FK: 日和城の曲輪(くるわ、平らな所)に「高城神社」が見えています。 北を見たものです。
模擬城があるところは池ノ城、菅原神社があるところは内ノ城、高城神社があるところは中ノ城です。



写真FL: 「オドリコソウの花」が咲いていました。 花びらが編笠(あみがさ)をかぶった踊(おど)り子に似ています。



写真FM: 「記念」と彫(ほ)ってある石碑(せきひ)があります。



写真FN: 空堀(からぼり)の向こうにある「高城神社」の参道が見えます。



写真FO: 左に「高城神社」の赤い鳥居(とりい)が見えます。 手前は空堀(からぼり)です。



写真FP: 北西に先の尖(とが)った高千穂峰 (たかちほのみね、標高 1574.0 m)とその右にうっすらと霧島連山が見えます。
月山日和城跡の忠霊塔のそばから見たもの。



写真FQ: 北から見た都城市にある高城町郷土資料館です。 左は忠霊塔です。
高城町制施行50周年記念事業として平成4年3月22日に地下2階、地上3階の高城町郷土資料館として開館しました。 平成18年1月1日、周辺市町との合併に伴い「都城市高城郷土資料館」となりました。 館内には高城の歴史・文化を紹介する考古資料や歴史資料、民俗資料などが展示され、最上階の展望室からは都城盆地、高千穂峰、霧島連山、鰐塚山などを一望することができます。 当館の建つ中世城址「高城(月山日和城)」は南北朝時代の武将 肝付兼重による築城とされ、廃城になるまでの約280年間、都城盆地をめぐる争いの要所であった城跡です。



写真FR: 高城町の町並み(まちなみ)と都城盆地が見えます。 西を見た景色です。



写真FS: 月山日和城跡です。



写真FT: 「ムラサキカタバミの花」が咲いていました。



写真FU: はじめの駐車場に戻って来ました。 「高城町郷土資料館 高城町商工会 駐車場」と書いてある看板(かんばん)があります。



写真FV: はじめの駐車場です。 左の建物は高城町商工会館です。



写真FW: 車道の真ん中に木があります。 その木の下に「高城郷 地頭仮屋 跡」の標識棒 (標柱)があります。
「高城郷 地頭仮屋 跡 (たかじょうごうじとうかりやあと)」の標識棒。
「地頭館(じとうやかた)とも言います。 高城郷の行政、軍事の中心となり、地頭は城下士の200石ぐらいの者が任命されました。 初めはここに赴任(ふにん)しましたが、寛政(1789年〜1801年)以後は年2回〜4回ぐらい郷へ出張して、郷中を巡視監督したものです。 明治以後、昭和33年 現庁舎に移転するまで、ここが役場として村、町政の中心となりました。 平成10年3月高城町教育委員会」
と書いてあります。



写真FX: 老人施設がそばにあります。



写真FY: 「高城郷 地頭仮屋 跡 (たかじょうごうじとうかりやあと)」の標識棒 (標柱)。
「地頭館(じとうやかた)とも言います。 高城郷の行政、軍事の中心となり、地頭は城下士の200石ぐらいの者が任命されました。 初めはここに赴任(ふにん)しましたが、寛政(1789年〜1801年)以後は年2回〜4回ぐらい郷へ出張して、郷中を巡視監督したものです。 明治以後、昭和33年 現庁舎に移転するまで、ここが役場として村、町政の中心となりました。 平成10年3月高城町教育委員会」
と書いてあります。
島津家薩摩藩(77万石)は、1615年の一国一城令で、鶴丸城だけ残して他の城は壊(こわ)しました。 代わりに外城(とじょう)と呼(よ)ばれる麓(ふもと)を置きました。 地頭仮屋(あるいは御仮屋)と呼ばれる在地役所を中心にして、そのまわりに石垣(いしがき)、イヌマキの生垣の郷士(ごうし)屋敷の集落を造りました(郷士は普段は農業を行ない、有事の時には戦う武士です。 私領地では郷士ではなく家中士と呼ばれました。)。 地頭や私領主は鹿児島城下に住みました。 各地の行政執行は麓3役といわれる郷士年寄、組頭、横目が行いました。 「野町」と呼ばれる町人町は麓のそばに造られました。 今でも「麓」の地名、馬術教練を行う「馬場」という地名が残っています。 薩摩藩の外城は島津宗家直轄の地頭所が90ヵ所、島津一門や重臣の私領地が21ヵ所ありました。 薩摩藩はキリスト教、一向宗(浄土真宗)を禁止しました。 租税(そぜい)は8公2民(普通は4公6民)と重税でした。
薩摩藩の日向国(ほぼ宮崎県)の「郷」は、馬関田郷、吉田郷、加久藤郷、飯野郷、小林郷、野尻郷、高岡郷、穆佐郷(むかさごう)、倉岡郷、高原郷、高崎郷、高城郷、都城郷、須木郷、綾郷、山之口郷、勝岡郷、庄内郷、松山郷、志布志郷、大崎郷がありました。 計21郷でした。 すべて諸県郡に属します。 これとは別に、佐土原島津藩が宮崎市 佐土原町にありました。 佐土原島津藩は薩摩藩とは別に江戸への参勤交代を行なっていました。



写真FZ: 「高城郷 地頭仮屋 跡 (たかじょうごうじとうかりやあと)」の標識棒 (標柱)。
「地頭館(じとうやかた)とも言います。 高城郷の行政、軍事の中心となり、地頭は城下士の200石ぐらいの者が任命されました。 初めはここに赴任(ふにん)しましたが、寛政(1789年〜1801年)以後は年2回〜4回ぐらい郷へ出張して、郷中を巡視監督したものです。 明治以後、昭和33年 現庁舎に移転するまで、ここが役場として村、町政の中心となりました。 平成10年3月高城町教育委員会」
と書いてあります。
島津家薩摩藩(77万石)は、1615年の一国一城令で、鶴丸城だけ残して他の城は壊(こわ)しました。 代わりに外城(とじょう)と呼(よ)ばれる麓(ふもと)を置きました。 地頭仮屋(あるいは御仮屋)と呼ばれる在地役所を中心にして、そのまわりに石垣(いしがき)、イヌマキの生垣の郷士(ごうし)屋敷の集落を造りました(郷士は普段は農業を行ない、有事の時には戦う武士です。 私領地では郷士ではなく家中士と呼ばれました。)。 地頭や私領主は鹿児島城下に住みました。 各地の行政執行は麓3役といわれる郷士年寄、組頭、横目が行いました。 「野町」と呼ばれる町人町は麓のそばに造られました。 今でも「麓」の地名、馬術教練を行う「馬場」という地名が残っています。 薩摩藩の外城は島津宗家直轄の地頭所が90ヵ所、島津一門や重臣の私領地が21ヵ所ありました。 薩摩藩はキリスト教、一向宗(浄土真宗)を禁止しました。 租税(そぜい)は8公2民(普通は4公6民)と重税でした。
薩摩藩の日向国(ほぼ宮崎県)の「郷」は、馬関田郷、吉田郷、加久藤郷、飯野郷、小林郷、野尻郷、高岡郷、穆佐郷(むかさごう)、倉岡郷、高原郷、高崎郷、高城郷、都城郷、須木郷、綾郷、山之口郷、勝岡郷、庄内郷、松山郷、志布志郷、大崎郷がありました。 計21郷でした。 すべて諸県郡に属します。 これとは別に、佐土原島津藩が宮崎市 佐土原町にありました。 佐土原島津藩は薩摩藩とは別に江戸への参勤交代を行なっていました。



写真GA: 「高城郷 地頭仮屋 跡 (たかじょうごうじとうかりやあと)」の標識棒 (標柱)。
「地頭館(じとうやかた)とも言います。 高城郷の行政、軍事の中心となり、地頭は城下士の200石ぐらいの者が任命されました。 初めはここに赴任(ふにん)しましたが、寛政(1789年〜1801年)以後は年2回〜4回ぐらい郷へ出張して、郷中を巡視監督したものです。 明治以後、昭和33年 現庁舎に移転するまで、ここが役場として村、町政の中心となりました。 平成10年3月高城町教育委員会」
と書いてあります。
島津家薩摩藩(77万石)は、1615年の一国一城令で、鶴丸城だけ残して他の城は壊(こわ)しました。 代わりに外城(とじょう)と呼(よ)ばれる麓(ふもと)を置きました。 地頭仮屋(あるいは御仮屋)と呼ばれる在地役所を中心にして、そのまわりに石垣(いしがき)、イヌマキの生垣の郷士(ごうし)屋敷の集落を造りました(郷士は普段は農業を行ない、有事の時には戦う武士です。 私領地では郷士ではなく家中士と呼ばれました。)。 地頭や私領主は鹿児島城下に住みました。 各地の行政執行は麓3役といわれる郷士年寄、組頭、横目が行いました。 「野町」と呼ばれる町人町は麓のそばに造られました。 今でも「麓」の地名、馬術教練を行う「馬場」という地名が残っています。 薩摩藩の外城は島津宗家直轄の地頭所が90ヵ所、島津一門や重臣の私領地が21ヵ所ありました。 薩摩藩はキリスト教、一向宗(浄土真宗)を禁止しました。 租税(そぜい)は8公2民(普通は4公6民)と重税でした。
薩摩藩の日向国(ほぼ宮崎県)の「郷」は、馬関田郷、吉田郷、加久藤郷、飯野郷、小林郷、野尻郷、高岡郷、穆佐郷(むかさごう)、倉岡郷、高原郷、高崎郷、高城郷、都城郷、須木郷、綾郷、山之口郷、勝岡郷、庄内郷、松山郷、志布志郷、大崎郷がありました。 計21郷でした。 すべて諸県郡に属します。 これとは別に、佐土原島津藩が宮崎市 佐土原町にありました。 佐土原島津藩は薩摩藩とは別に江戸への参勤交代を行なっていました。



写真GB: 「高城郷 地頭仮屋 跡 (たかじょうごうじとうかりやあと)」の標識棒 (標柱)。
「地頭館(じとうやかた)とも言います。 高城郷の行政、軍事の中心となり、地頭は城下士の200石ぐらいの者が任命されました。 初めはここに赴任(ふにん)しましたが、寛政(1789年〜1801年)以後は年2回〜4回ぐらい郷へ出張して、郷中を巡視監督したものです。 明治以後、昭和33年 現庁舎に移転するまで、ここが役場として村、町政の中心となりました。 平成10年3月高城町教育委員会」
と書いてあります。
島津家薩摩藩(77万石)は、1615年の一国一城令で、鶴丸城だけ残して他の城は壊(こわ)しました。 代わりに外城(とじょう)と呼(よ)ばれる麓(ふもと)を置きました。 地頭仮屋(あるいは御仮屋)と呼ばれる在地役所を中心にして、そのまわりに石垣(いしがき)、イヌマキの生垣の郷士(ごうし)屋敷の集落を造りました(郷士は普段は農業を行ない、有事の時には戦う武士です。 私領地では郷士ではなく家中士と呼ばれました。)。 地頭や私領主は鹿児島城下に住みました。 各地の行政執行は麓3役といわれる郷士年寄、組頭、横目が行いました。 「野町」と呼ばれる町人町は麓のそばに造られました。 今でも「麓」の地名、馬術教練を行う「馬場」という地名が残っています。 薩摩藩の外城は島津宗家直轄の地頭所が90ヵ所、島津一門や重臣の私領地が21ヵ所ありました。 薩摩藩はキリスト教、一向宗(浄土真宗)を禁止しました。 租税(そぜい)は8公2民(普通は4公6民)と重税でした。
薩摩藩の日向国(ほぼ宮崎県)の「郷」は、馬関田郷、吉田郷、加久藤郷、飯野郷、小林郷、野尻郷、高岡郷、穆佐郷(むかさごう)、倉岡郷、高原郷、高崎郷、高城郷、都城郷、須木郷、綾郷、山之口郷、勝岡郷、庄内郷、松山郷、志布志郷、大崎郷がありました。 計21郷でした。 すべて諸県郡に属します。 これとは別に、佐土原島津藩が宮崎市 佐土原町にありました。 佐土原島津藩は薩摩藩とは別に江戸への参勤交代を行なっていました。



写真GC: はじめの八坂神社の赤い鳥居(とりい)が左に見えます。



写真GD: 高城町区 八坂神社の近くの様子(ようす)です。 ここを右に行くと左側に旧後藤家商家交流資料館、高城町郵便局などがあります。



写真GE: 「高城町区 八坂神社 (やさかじんじゃ)」です。



写真GF: 県道47号線が見えます。 これを先(北西)に進んで「旧後藤家商家交流資料館」に行きます。



写真GG: ここを先に進むと「髪長媛 (かみながひめ)の銅像」のある牧之原古墳群、高城小学校などに行きます。



写真GH: 宮崎銀行の看板(かんばん)と建物があります。



写真GI: 宮崎銀行の西隣(となり)に後藤家の本家が見えます。



写真GJ: 高城町郵便局です。 その右の2階建ての古い木造建築が「旧後藤家商家交流資料館」です。 道は県道47号線です。 西を見たもの。



写真GK: 高城町郵便局です。 その右の2階建ての古い木造建築が「旧後藤家商家交流資料館」。



写真GL: 「高城町郵便局」と壁(かべ)に書いてあります。



写真GM: これが「旧後藤家商家交流資料館」です。
「旧後藤家商家交流資料館」は宮崎県 都城市 高城町 高城 2857 にあります。



写真GN: 都城市 高城町にある「旧後藤家商家交流資料館」です。 左は高城町郵便局です。



写真GO: 高城町郵便局です。 県道47号線に沿(そ)ってあります。



写真GP: 右は高城町郵便局。



写真GQ: 奥の山の上に月山日和城跡があります。 宮崎銀行の看板も見えます。



写真GR: 「旧後藤家商家交流資料館」と書いてあります。



写真GS: 旧後藤家商家資料館です。 丸型の郵便ポスト、壷(つぼ)、説明板もあります。
格子(こうし)の窓、紋(もん)の付いた暖簾(のれん)も見えます。



写真GT: 屋根の部分はこのようになっています。



写真GU: 「旧後藤家商家交流資料館」の説明板です。
 この旧後藤家商家交流資料館は、本家の後藤家より後藤伊助の時代に分家し、明治33年頃 後藤伊助と息子の五兵衛が建設したもので約100年を経(へ)ております。
 五兵衛は、石山の方に干拓事業(かんたくじぎょう)をなし、町内の田畑はもとより周辺の志和池、高木にも所有するほどの大地主でありました。
 また、明治17年〜18年頃は不況のどん底でしたので、桑園を仕立て、養蚕(ようさん)を盛んにしようと計画し養蚕教師を熊本から招くなど地域の発展に尽力(じんりょく)しました。 また町内には製糸業者も20戸ぐらいいて繭(まゆ)どころとして発達しました。
 この中心的な働きをしたのが後藤伊助と五兵衛で、その頃この商家も建てられ、当時の養蚕事業のシンボル的な建物でした。
と書かれています。



写真GV: 「登録有形文化財 第45-0044〜0045号 この建造物は貴重な国民的財産です 文化庁」と書いてある金属板があります。



写真GW: 壷(つぼ)があります。 格子(こうし)も見えます。



写真GX: 「旧後藤家商家交流資料館」の説明板です。
 この旧後藤家商家交流資料館は、本家の後藤家より後藤伊助の時代に分家し、明治33年頃 後藤伊助と息子の五兵衛が建設したもので約100年を経(へ)ております。
 五兵衛は、石山の方に干拓事業(かんたくじぎょう)をなし、町内の田畑はもとより周辺の志和池、高木にも所有するほどの大地主でありました。
 また、明治17年〜18年頃は不況のどん底でしたので、桑園を仕立て、養蚕(ようさん)を盛んにしようと計画し養蚕教師を熊本から招くなど地域の発展に尽力(じんりょく)しました。 また町内には製糸業者も20戸ぐらいいて繭(まゆ)どころとして発達しました。
 この中心的な働きをしたのが後藤伊助と五兵衛で、その頃この商家も建てられ、当時の養蚕事業のシンボル的な建物でした。
と書かれています。



写真GY: 鯉(こい)のぼりもあります。



写真GZ: 石塀(いしべい)も見えます。



写真HA: 旧後藤家商家交流資料館の2階です。 廊下(ろうか)、ガラス戸、障子(しょうじ)、洋室の一部などが見えます。



写真HB: 2階から見た後藤本家です。 手前の道は県道47号線です。 手前の街路樹に「ヤマボウシの花」が咲いていました。



写真HC: 2階から見た後藤本家です。 手前の道は県道47号線。



写真HD: 2階から見た後藤本家です。 手前の道は県道47号線です。 手前の街路樹に「ヤマボウシの花」が咲いていました。



写真HE: 2階から見た後藤本家です。 手前の道は県道47号線です。 左に旧後藤家商家交流資料館の石塀(いしべい)も見えます。



写真HF: 都城市 高城町にある旧後藤家商家交流資料館の2階です。



写真HG: 手前の街路樹に「ヤマボウシの花」が咲いていました。



写真HH: 高城町にある「旧後藤家商家交流資料館」です。



写真HI: 土蔵を改良したお食事処(どころ)「ママの店」です。 旧後藤家商家交流資料館の敷地内にあります。



写真HJ: 旧後藤家商家交流資料館と右の後藤本家です。 県道47号線をバスが走っていました。



写真HK: 高城町にある旧後藤家商家交流資料館。



写真HL: 土蔵を改良したお食事処(どころ)「ママの店」です。 旧後藤家商家交流資料館の敷地内にあります。 左は高城町郵便局です。



写真HM: 高城町郵便局です。



写真HN: 宮崎県 都城市 高城町にある高城町郵便局です。



写真HO: 「〒 JP 郵便局 高城町郵便局 P →」と書いてあります。 赤いポストも見えます。



写真HP: 「〒 JP 郵便局 高城町郵便局 P →」と書いてあります。 赤いポストも見えます。



写真HQ: 県道47号線の北(右)は後藤本家、左は分家だった旧後藤家商家交流資料館と左端は高城町郵便局です。



写真HR: 右端は宮崎銀行です。



写真HS: 高城町にある宮崎銀行です。



写真HT: 高城町の後藤本家を南東から見たもの。



写真HU: 県道47号線です。 北西を見たものです。



写真HV: 高城町郵便局から月山日和城の近くに戻(もど)り、高城町区 八坂神社を少し過ぎた所です。 県道47号線。 県道47号線はこの先を左に曲がります。 しかし、牧之原古墳群にある「髪長媛 (かみながひめ)の銅像」に行くのにもう少しこのまままっすぐに歩いて高城小学校の十字路を左(東)に曲がります。



写真HW: 「都城IC、都城↑、山之口←県道47号線」の道路標識があります。



写真HX: 左奥の角(かど)は高城小学校です。



写真HY: 十字路のところに鉄筋コンクリート造りの「高城小学校」が見えます。 ここを左(東)に曲がります。



写真HZ: 見えている「都城市立 高城小学校」は宮崎県 都城市 高城町 穂満坊 20 にあります。
月山日和城跡からも見えました。



写真IA: この車道を先(東)に進みます。 そして、クロネコヤマトの宅急便の近くの信号のある十字路を左に曲がって、牧之原古墳群に行きます。 牧之原古墳群の中の公園に古事記に載っている仁徳天皇の妃(きさき)になられた「髪長媛 (かみながひめ)」の像があります。 今から歩いてそこに行きます。



写真IB: このあたりから見た月山日和城 (がつさんひわじょう)です。



写真IC: 右に「高城幼稚園」があります。



写真ID: 「高城町郷土資料館 ←200 M」の標識があります。



写真IE: 「高城幼稚園→」と「←高城町商工会 (先ほどの駐車場がある所です。)」の標識があります。



写真IF: 振り返ったもの。 左は高城幼稚園の建物です。



写真IG: 右の建物の下に「高城幼稚園」と書いてあります。 木の奥の建物は高城小学校です。



写真IH: 高城小学校の近くです。



写真II: 仁徳天皇の妃(きさき)になった「髪長媛 (かみながひめ)の銅像」がある牧之原古墳群に行く道です。



写真IJ: 「JA都城 高城支所」の看板(かんばん)があります。



写真IK: 「JA都城 高城支所」です。 月山日和城跡からも見えました。



写真IL: 「JA都城 高城支所」です。



写真IM: ここから月山日和城跡の高城町郷土資料館が見えます。 奥に見える山全体が広い月山日和城跡です。



写真IN: 牧之原古墳群にある「髪長媛 (かみながひめ)の銅像」に行く途中の景色です。



写真IO: 牧之原古墳群にある「髪長媛 (かみながひめ)の銅像」に行く途中の景色。



写真IP: 右にパチンコ店(GYAOGYAO)があります。 東に鰐塚山(わにづかやま、標高 1118.1 m)が見えます。



写真IQ: パチンコ店(GYAOGYAO)があります。



写真IR: パチンコ店の近くの様子(ようす)です。



写真IS: 来た道を振り返ったもの。 右にコイン式精米機の店が見えます。



写真IT: ここから月山日和城跡の高城町郷土資料館が見えます。



写真IU: 月山日和城跡の高城町郷土資料館が見えます。



写真IV: 「ヘビイチゴの実」がありました。



写真IW: 来た道(西)を振り返ったもの。 左はパチンコ店(GYAOGYAO)。



写真IX: 見える山全体が広い月山日和城跡です。 月山日和城跡にある高城町郷土資料館が見えます。



写真IY: まわりの景色です。



写真IZ: この車道を先(東)に進みます。



写真JA: 左はクロネコヤマトの宅急便の建物と看板(かんばん)です。 この先の見えている信号を左折(北へ)します。 そうすると牧之原古墳群にある「髪長媛(かみながひめ)の銅像」に行きます。



写真JB: クロネコヤマトの宅急便の貨物車と建物が見えます。



写真JC: 石造物が車道のそばにあります。 庚申塔(こうしんとう)でしょうか(?)。



写真JD: 左はクロネコヤマトの宅急便の看板と建物です。



写真JE: 高城町にあるクロネコヤマトの宅急便の看板が目印になります。 この近くの信号を左折(北へ)して「髪長媛 (かみながひめ)の像」に行きます。



写真JF: この信号を左折します。 ランドリー(洗濯)の店が角(かど)にあります。



写真JG: 「ひむか神話街道 牧之原古墳 髪長媛 300 m 右折」と書いてある看板があります。



写真JH: 「野草のコバンソウ」が生(は)えていました。



写真JI: 「広域農道 都城盆地朝霧ロード」の道路標識があります。 この道を真っすぐ進みます。



写真JJ: 左右に通る県道47号線との信号のある十字路(立喰(たちばみ))を真っすぐ進みます。 見えている坂道を登って牧之原台地の上に登ります。



写真JK: 「立喰(たちばみ)」交差点があります。 「髪長媛の銅像」に行くには真(ま)っすぐ進み、坂道を登ります。



写真JL: 「レンゲの花とマツバウンランの花」が群生していました。



写真JM: 右手に墓地があります。 「立喰(たちばみ)霊苑(れいえん)」です。



写真JN: 「立喰(たちばみ)霊苑(れいえん)(昭和55年1月30日完工)」の石碑(せきひ)があります。



写真JO: 坂を登り切ると十字路があります。 右に「ひむか神話街道 牧之原古墳 髪長媛 150 m 先」、「↑観音さくらの里、←観音池公園 総合運動公園、↑いきいきふれあいランド 子ども村プール」の看板(かんばん)があります。
ここを右に曲がり、牧之原古墳群、髪長媛 (かみながひめ)の像に行きます。



写真JP: 右に「ひむか神話街道 牧之原古墳 髪長媛 150 m 先」、「↑観音さくらの里、←観音池公園 総合運動公園、↑いきいきふれあいランド 子ども村プール」の看板(かんばん)があります。



写真JQ: 右に「ひむか神話街道 牧之原古墳 髪長媛 150 m 先」、「↑観音さくらの里、←観音池公園 総合運動公園、↑いきいきふれあいランド 子ども村プール」の看板(かんばん)があります。



写真JR: 右に「ひむか神話街道 牧之原古墳 髪長媛 150 m 先」、「↑観音さくらの里、←観音池公園 総合運動公園、↑いきいきふれあいランド 子ども村プール」の看板(かんばん)があります。



写真JS: この道をまっすぐに進みます。 左に茶畑の防霜扇(ぼうそうせん、霜よけの扇風機)がいくつも見えます。



写真JT: 髪長媛の看板のある十字路(実は5差路)を振り返ったもの。



写真JU: 右の坂道を登って来ました。 その左は集落に行く道のようです(この道を入れると5差路となります。)。 髪長年の先ほどの看板が見えます。



写真JV: このあたりは牧之原古墳群があります。 中央と左端に古墳が見えます。 建物は畜舎です。



写真JW: 古墳の上に石碑(せきひ)があるのが見えます。 都城市 高城町にある「牧之原古墳群」の中の古墳です。



写真JX: この古墳は前方後円墳のようです。 高城町にある牧之原古墳群です。



写真JY: 近くに茶畑があります。 防霜扇(ぼうそうせん、霜よけの扇風機)が見えます。



写真JZ: 牧之原古墳群のあたりに広い茶畑があります。 牧之原台地です。



写真KA: 牧之原古墳群のあたりに広い茶畑があります。 宮崎県 都城市 高城町の牧之原台地。



写真KB: 右手前の電柱の奥に見える小さな森が公園になっています。 そこに「髪長媛 (かみながひめ)の像」があります。



写真KC: 右端は牧之原古墳です。 畜舎も見えます。



写真KD: 牧之原古墳も見えています。



写真KE: まわりの景色です。



写真KF: 先ほどの髪長媛の看板が右に見えます。
その奥の道を左から登って来ました。



写真KG: 先ほどの5差路をトラクターが通っています。 右奥に葉たばこが栽培(さいばい)されています。



写真KH: 右はお茶、奥は葉たばこが栽培されています。



写真KI: 茶畑と防霜扇が見えます。 奥に畜舎が見えます。



写真KJ: 奥に畜舎も見えます。 お茶が栽培されています。 右に遠くの山も見えます。



写真KK: 古墳の奥の木が見える森が公園になっています。 その公園に「髪長媛の銅像」があります。 ちょうどパトカーが通っていました。



写真KL: 宮崎県 都城市 高城町にある牧之原古墳の一つです。 頂上に石碑(せきひ)が建(た)ててあります。 右端に畜産のサイロが見えています。 遠くに鰐塚山(わにづかやま、標高 1118.1 m)が見えます。



写真KM: 都城市 高城町にある牧之原古墳の一つです。 頂上に石碑(せきひ)が建(た)ててあります。



写真KN: ここが「髪長媛 (かみながひめ)の像」がある公園です。 牧之原古墳群と高城町古墳の説明板が見えます。



写真KO: 刈(か)ってある牧草地と畜舎が右に見えます。 左は「髪長媛 (かみながひめ)の像」がある公園です。 説明板が左端に見えます。



写真KP: 「牧之原古墳群」の説明板が髪長媛の像のある公園にあります。
 高城町内には、史跡として22基の県指定古墳(こふん)があります。 ここにある高塚古墳は、前方後円墳が3基、ほかの10基は円墳で、6〜7世紀にかけて造られたものと推定されています。
 またこの付近からは、6世紀ごろのものといわれる地下式横穴古墳や、箱式石棺(せっかん)が数多く発見され、人骨や鉄剣・まが玉などが出てきました。
 この古墳の被葬者は誰かわかりません。 しかし古墳の大きさやつくりから当時日向の諸県地方(もろかたちほう)を支配していた諸県の君牛諸井 一族の墓と推定されています。
 なお、この牧之原は当時牧場だったといわれ、牛諸井のむすめで仁徳天皇の妃(きさき)となった麗(うるわ)しい「髪長媛 (かみながひめ)」が長い髪をなびかせながら噴煙たなびく霧島連山をバックに、この台地(牧之原台地)に馬を走らせていた姿がしのばれます。
高城町教育委員会
と書かれています。
牧之原古墳群の地図も載っています。



写真KQ: 「牧之原古墳群」の説明板が髪長媛の像のある公園にあります。
 高城町内には、史跡として22基の県指定古墳(こふん)があります。 ここにある高塚古墳は、前方後円墳が3基、ほかの10基は円墳で、6〜7世紀にかけて造られたものと推定されています。
 またこの付近からは、6世紀ごろのものといわれる地下式横穴古墳や、箱式石棺(せっかん)が数多く発見され、人骨や鉄剣・まが玉などが出てきました。
 この古墳の被葬者は誰かわかりません。 しかし古墳の大きさやつくりから当時日向の諸県地方(もろかたちほう)を支配していた諸県の君牛諸井 一族の墓と推定されています。
 なお、この牧之原は当時牧場だったといわれ、牛諸井のむすめで仁徳天皇の妃(きさき)となった麗(うるわ)しい「髪長媛 (かみながひめ)」が長い髪をなびかせながら噴煙たなびく霧島連山をバックに、この台地(牧之原台地)に馬を走らせていた姿がしのばれます。
高城町教育委員会
と書かれています。
牧之原古墳群の地図も載っています。



写真KR: 「牧之原古墳群」の説明板が髪長媛の像のある公園にあります。
 高城町内には、史跡として22基の県指定古墳(こふん)があります。 ここにある高塚古墳は、前方後円墳が3基、ほかの10基は円墳で、6〜7世紀にかけて造られたものと推定されています。
 またこの付近からは、6世紀ごろのものといわれる地下式横穴古墳や、箱式石棺(せっかん)が数多く発見され、人骨や鉄剣・まが玉などが出てきました。
 この古墳の被葬者は誰かわかりません。 しかし古墳の大きさやつくりから当時日向の諸県地方(もろかたちほう)を支配していた諸県の君牛諸井 一族の墓と推定されています。
 なお、この牧之原は当時牧場だったといわれ、牛諸井のむすめで仁徳天皇の妃(きさき)となった麗(うるわ)しい「髪長媛 (かみながひめ)」が長い髪をなびかせながら噴煙たなびく霧島連山をバックに、この台地(牧之原台地)に馬を走らせていた姿がしのばれます。
高城町教育委員会
と書かれています。
牧之原古墳群の地図も載っています。



写真KS: 「古墳群標柱建・・・」と書いてある石碑(せきひ)があります。 右に石が見えます。



写真KT: このような石があります。



写真KU: 「県指定史跡 高城町古墳」の説明板があります。
指定年月日 昭和10年7月2日
 高城地区内には、大井手、石山、有水の各地域に23基の古墳があり、そのうち22基が宮崎県の文化財(史跡)となっています。 この高城町古墳は、高崎塚原古墳、志和池村古墳とともに、日向において最も内陸部に進出した前方後円墳を有するという点で、非常に重要な意義をもつ古墳群です。
 この古墳群内で最も大きいものは牧ノ原(牧之原)にある1号墳です。 この1号墳は前方後円墳で、最大長 52 m、最大幅 33 m、最大高 6 m の規模を誇り、都城盆地内でも高崎塚原1号墳に次ぐ大きさです。 この地域にはこうした前方後円墳が3基(1・3・6号)ありますが、これらは畿内(皇居が置かれた所。)の影響を強く受けた形態とされており、5世紀中頃から6世紀前半頃に築造されたものと見られます。 これらがつくられた頃は南九州で墳墓(ふんぼ)が盛んに築造された時期にあたり、全長 175 m を誇る九州最大級古墳・女狭穂塚 (西都原古墳群)は、牧ノ原の古墳群とほぼ同時期(わずかに女狭穂塚が先行か)と考えられています。
 また、ここで特徴的なのは、地下式横穴墓・箱式石棺墓・木棺墓・土坑墓といった多種多様な墓制が入り混じっていることです。 地下式横穴墓は、地表面から縦に穴を掘り、そこから横穴を掘って遺体を納(おさ)める空間を造り出して埋葬したものです。 これは南九州特有の墓制といわれており、これまで16基が見つかっています。 箱式石棺は、板石を箱状に配置して棺としたものであり、これまで7基(他に木棺墓が1基)見つかっています。 古墳時代の中頃のものと考えられるこれらの墓と、畿内(きない、天皇の皇居があった所、大和・山城・河内・和泉・摂津の5カ国)の影響を受けているとされる高塚古墳との関係が注目されています。
平成20年3月 都城市教育委員会
と書かれています。



写真KV: 「県指定史跡 高城町古墳」の説明板があります。
指定年月日 昭和10年7月2日
 高城地区内には、大井手、石山、有水の各地域に23基の古墳があり、そのうち22基が宮崎県の文化財(史跡)となっています。 この高城町古墳は、高崎塚原古墳、志和池村古墳とともに、日向において最も内陸部に進出した前方後円墳を有するという点で、非常に重要な意義をもつ古墳群です。
 この古墳群内で最も大きいものは牧ノ原(牧之原)にある1号墳です。 この1号墳は前方後円墳で、最大長 52 m、最大幅 33 m、最大高 6 m の規模を誇り、都城盆地内でも高崎塚原1号墳に次ぐ大きさです。 この地域にはこうした前方後円墳が3基(1・3・6号)ありますが、これらは畿内(皇居が置かれた所。)の影響を強く受けた形態とされており、5世紀中頃から6世紀前半頃に築造されたものと見られます。 これらがつくられた頃は南九州で墳墓(ふんぼ)が盛んに築造された時期にあたり、全長 175 m を誇る九州最大級古墳・女狭穂塚 (西都原古墳群)は、牧ノ原の古墳群とほぼ同時期(わずかに女狭穂塚が先行か)と考えられています。
 また、ここで特徴的なのは、地下式横穴墓・箱式石棺墓・木棺墓・土坑墓といった多種多様な墓制が入り混じっていることです。 地下式横穴墓は、地表面から縦に穴を掘り、そこから横穴を掘って遺体を納(おさ)める空間を造り出して埋葬したものです。 これは南九州特有の墓制といわれており、これまで16基が見つかっています。 箱式石棺は、板石を箱状に配置して棺としたものであり、これまで7基(他に木棺墓が1基)見つかっています。 古墳時代の中頃のものと考えられるこれらの墓と、畿内(きない、天皇の皇居があった所、大和・山城・河内・和泉・摂津の5カ国)の影響を受けているとされる高塚古墳との関係が注目されています。
平成20年3月 都城市教育委員会
と書かれています。



写真KW: 「県指定史跡 高城町古墳」の説明板があります。
指定年月日 昭和10年7月2日
 高城地区内には、大井手、石山、有水の各地域に23基の古墳があり、そのうち22基が宮崎県の文化財(史跡)となっています。 この高城町古墳は、高崎塚原古墳、志和池村古墳とともに、日向において最も内陸部に進出した前方後円墳を有するという点で、非常に重要な意義をもつ古墳群です。
 この古墳群内で最も大きいものは牧ノ原(牧之原)にある1号墳です。 この1号墳は前方後円墳で、最大長 52 m、最大幅 33 m、最大高 6 m の規模を誇り、都城盆地内でも高崎塚原1号墳に次ぐ大きさです。 この地域にはこうした前方後円墳が3基(1・3・6号)ありますが、これらは畿内(皇居が置かれた所。)の影響を強く受けた形態とされており、5世紀中頃から6世紀前半頃に築造されたものと見られます。 これらがつくられた頃は南九州で墳墓(ふんぼ)が盛んに築造された時期にあたり、全長 175 m を誇る九州最大級古墳・女狭穂塚 (西都原古墳群)は、牧ノ原の古墳群とほぼ同時期(わずかに女狭穂塚が先行か)と考えられています。
 また、ここで特徴的なのは、地下式横穴墓・箱式石棺墓・木棺墓・土坑墓といった多種多様な墓制が入り混じっていることです。 地下式横穴墓は、地表面から縦に穴を掘り、そこから横穴を掘って遺体を納(おさ)める空間を造り出して埋葬したものです。 これは南九州特有の墓制といわれており、これまで16基が見つかっています。 箱式石棺は、板石を箱状に配置して棺としたものであり、これまで7基(他に木棺墓が1基)見つかっています。 古墳時代の中頃のものと考えられるこれらの墓と、畿内(きない、天皇の皇居があった所、大和・山城・河内・和泉・摂津の5カ国)の影響を受けているとされる高塚古墳との関係が注目されています。
平成20年3月 都城市教育委員会
と書かれています。



写真KX: 「県指定史跡 高城町古墳」の説明板があります。
指定年月日 昭和10年7月2日
 高城地区内には、大井手、石山、有水の各地域に23基の古墳があり、そのうち22基が宮崎県の文化財(史跡)となっています。 この高城町古墳は、高崎塚原古墳、志和池村古墳とともに、日向において最も内陸部に進出した前方後円墳を有するという点で、非常に重要な意義をもつ古墳群です。
 この古墳群内で最も大きいものは牧ノ原(牧之原)にある1号墳です。 この1号墳は前方後円墳で、最大長 52 m、最大幅 33 m、最大高 6 m の規模を誇り、都城盆地内でも高崎塚原1号墳に次ぐ大きさです。 この地域にはこうした前方後円墳が3基(1・3・6号)ありますが、これらは畿内(皇居が置かれた所。)の影響を強く受けた形態とされており、5世紀中頃から6世紀前半頃に築造されたものと見られます。 これらがつくられた頃は南九州で墳墓(ふんぼ)が盛んに築造された時期にあたり、全長 175 m を誇る九州最大級古墳・女狭穂塚 (西都原古墳群)は、牧ノ原の古墳群とほぼ同時期(わずかに女狭穂塚が先行か)と考えられています。
 また、ここで特徴的なのは、地下式横穴墓・箱式石棺墓・木棺墓・土坑墓といった多種多様な墓制が入り混じっていることです。 地下式横穴墓は、地表面から縦に穴を掘り、そこから横穴を掘って遺体を納(おさ)める空間を造り出して埋葬したものです。 これは南九州特有の墓制といわれており、これまで16基が見つかっています。 箱式石棺は、板石を箱状に配置して棺としたものであり、これまで7基(他に木棺墓が1基)見つかっています。 古墳時代の中頃のものと考えられるこれらの墓と、畿内(きない、天皇の皇居があった所、大和・山城・河内・和泉・摂津の5カ国)の影響を受けているとされる高塚古墳との関係が注目されています。
平成20年3月 都城市教育委員会
と書かれています。



写真KY: 「県指定史跡 高城町古墳」の説明板があります。
指定年月日 昭和10年7月2日
 高城地区内には、大井手、石山、有水の各地域に23基の古墳があり、そのうち22基が宮崎県の文化財(史跡)となっています。 この高城町古墳は、高崎塚原古墳、志和池村古墳とともに、日向において最も内陸部に進出した前方後円墳を有するという点で、非常に重要な意義をもつ古墳群です。
 この古墳群内で最も大きいものは牧ノ原(牧之原)にある1号墳です。 この1号墳は前方後円墳で、最大長 52 m、最大幅 33 m、最大高 6 m の規模を誇り、都城盆地内でも高崎塚原1号墳に次ぐ大きさです。 この地域にはこうした前方後円墳が3基(1・3・6号)ありますが、これらは畿内(皇居が置かれた所。)の影響を強く受けた形態とされており、5世紀中頃から6世紀前半頃に築造されたものと見られます。 これらがつくられた頃は南九州で墳墓(ふんぼ)が盛んに築造された時期にあたり、全長 175 m を誇る九州最大級古墳・女狭穂塚 (西都原古墳群)は、牧ノ原の古墳群とほぼ同時期(わずかに女狭穂塚が先行か)と考えられています。
 また、ここで特徴的なのは、地下式横穴墓・箱式石棺墓・木棺墓・土坑墓といった多種多様な墓制が入り混じっていることです。 地下式横穴墓は、地表面から縦に穴を掘り、そこから横穴を掘って遺体を納(おさ)める空間を造り出して埋葬したものです。 これは南九州特有の墓制といわれており、これまで16基が見つかっています。 箱式石棺は、板石を箱状に配置して棺としたものであり、これまで7基(他に木棺墓が1基)見つかっています。 古墳時代の中頃のものと考えられるこれらの墓と、畿内(きない、天皇の皇居があった所、大和・山城・河内・和泉・摂津の5カ国)の影響を受けているとされる高塚古墳との関係が注目されています。
平成20年3月 都城市教育委員会
と書かれています。



写真KZ: 「県指定史跡 高城町古墳」の説明板があります。
指定年月日 昭和10年7月2日
 高城地区内には、大井手、石山、有水の各地域に23基の古墳があり、そのうち22基が宮崎県の文化財(史跡)となっています。 この高城町古墳は、高崎塚原古墳、志和池村古墳とともに、日向において最も内陸部に進出した前方後円墳を有するという点で、非常に重要な意義をもつ古墳群です。
 この古墳群内で最も大きいものは牧ノ原(牧之原)にある1号墳です。 この1号墳は前方後円墳で、最大長 52 m、最大幅 33 m、最大高 6 m の規模を誇り、都城盆地内でも高崎塚原1号墳に次ぐ大きさです。 この地域にはこうした前方後円墳が3基(1・3・6号)ありますが、これらは畿内(皇居が置かれた所。)の影響を強く受けた形態とされており、5世紀中頃から6世紀前半頃に築造されたものと見られます。 これらがつくられた頃は南九州で墳墓(ふんぼ)が盛んに築造された時期にあたり、全長 175 m を誇る九州最大級古墳・女狭穂塚 (西都原古墳群)は、牧ノ原の古墳群とほぼ同時期(わずかに女狭穂塚が先行か)と考えられています。
 また、ここで特徴的なのは、地下式横穴墓・箱式石棺墓・木棺墓・土坑墓といった多種多様な墓制が入り混じっていることです。 地下式横穴墓は、地表面から縦に穴を掘り、そこから横穴を掘って遺体を納(おさ)める空間を造り出して埋葬したものです。 これは南九州特有の墓制といわれており、これまで16基が見つかっています。 箱式石棺は、板石を箱状に配置して棺としたものであり、これまで7基(他に木棺墓が1基)見つかっています。 古墳時代の中頃のものと考えられるこれらの墓と、畿内(きない、天皇の皇居があった所、大和・山城・河内・和泉・摂津の5カ国)の影響を受けているとされる高塚古墳との関係が注目されています。
平成20年3月 都城市教育委員会
と書かれています。



写真LA: 「県指定史跡 高城町古墳」の説明板があります。
指定年月日 昭和10年7月2日
 高城地区内には、大井手、石山、有水の各地域に23基の古墳があり、そのうち22基が宮崎県の文化財(史跡)となっています。 この高城町古墳は、高崎塚原古墳、志和池村古墳とともに、日向において最も内陸部に進出した前方後円墳を有するという点で、非常に重要な意義をもつ古墳群です。
 この古墳群内で最も大きいものは牧ノ原(牧之原)にある1号墳です。 この1号墳は前方後円墳で、最大長 52 m、最大幅 33 m、最大高 6 m の規模を誇り、都城盆地内でも高崎塚原1号墳に次ぐ大きさです。 この地域にはこうした前方後円墳が3基(1・3・6号)ありますが、これらは畿内(皇居が置かれた所。)の影響を強く受けた形態とされており、5世紀中頃から6世紀前半頃に築造されたものと見られます。 これらがつくられた頃は南九州で墳墓(ふんぼ)が盛んに築造された時期にあたり、全長 175 m を誇る九州最大級古墳・女狭穂塚 (西都原古墳群)は、牧ノ原の古墳群とほぼ同時期(わずかに女狭穂塚が先行か)と考えられています。
 また、ここで特徴的なのは、地下式横穴墓・箱式石棺墓・木棺墓・土坑墓といった多種多様な墓制が入り混じっていることです。 地下式横穴墓は、地表面から縦に穴を掘り、そこから横穴を掘って遺体を納(おさ)める空間を造り出して埋葬したものです。 これは南九州特有の墓制といわれており、これまで16基が見つかっています。 箱式石棺は、板石を箱状に配置して棺としたものであり、これまで7基(他に木棺墓が1基)見つかっています。 古墳時代の中頃のものと考えられるこれらの墓と、畿内(きない、天皇の皇居があった所、大和・山城・河内・和泉・摂津の5カ国)の影響を受けているとされる高塚古墳との関係が注目されています。
平成20年3月 都城市教育委員会
と書かれています。



写真LB: 「県指定史跡 高城町古墳」の説明板があります。
指定年月日 昭和10年7月2日
 高城地区内には、大井手、石山、有水の各地域に23基の古墳があり、そのうち22基が宮崎県の文化財(史跡)となっています。 この高城町古墳は、高崎塚原古墳、志和池村古墳とともに、日向において最も内陸部に進出した前方後円墳を有するという点で、非常に重要な意義をもつ古墳群です。
 この古墳群内で最も大きいものは牧ノ原(牧之原)にある1号墳です。 この1号墳は前方後円墳で、最大長 52 m、最大幅 33 m、最大高 6 m の規模を誇り、都城盆地内でも高崎塚原1号墳に次ぐ大きさです。 この地域にはこうした前方後円墳が3基(1・3・6号)ありますが、これらは畿内(皇居が置かれた所。)の影響を強く受けた形態とされており、5世紀中頃から6世紀前半頃に築造されたものと見られます。 これらがつくられた頃は南九州で墳墓(ふんぼ)が盛んに築造された時期にあたり、全長 175 m を誇る九州最大級古墳・女狭穂塚 (西都原古墳群)は、牧ノ原の古墳群とほぼ同時期(わずかに女狭穂塚が先行か)と考えられています。
 また、ここで特徴的なのは、地下式横穴墓・箱式石棺墓・木棺墓・土坑墓といった多種多様な墓制が入り混じっていることです。 地下式横穴墓は、地表面から縦に穴を掘り、そこから横穴を掘って遺体を納(おさ)める空間を造り出して埋葬したものです。 これは南九州特有の墓制といわれており、これまで16基が見つかっています。 箱式石棺は、板石を箱状に配置して棺としたものであり、これまで7基(他に木棺墓が1基)見つかっています。 古墳時代の中頃のものと考えられるこれらの墓と、畿内(きない、天皇の皇居があった所、大和・山城・河内・和泉・摂津の5カ国)の影響を受けているとされる高塚古墳との関係が注目されています。
平成20年3月 都城市教育委員会
と書かれています。



写真LC: 「髪長媛 (かみながひめ)の像」がある公園です。 右に椅子(いす)があります。



写真LD: 「髪長媛 (かみながひめ)の像」がある公園です。 広場に椅子(いす)があります。 奥に古墳 (牧之原古墳)が見えます。



写真LE: 牧之原古墳群の中にある公園です。 左端は古墳です。



写真LF: 奥に畜舎が見えます。



写真LG: これが公園の中にある、仁徳天皇 (にんとくてんのう)の妃(きさき)になった「髪長年 (かみながひめ)の像」です。 銅像です。
「髪長媛 (かみながひめ)の像(銅像)」は宮崎県 都城市 高城町 大井手 にあります。 牧之原古墳群の中の公園にあります。
髪長媛の像は高城町によって平成3年11月吉日に建立されました。

 髪長媛 (かみながひめ)の銅像の台座から、
 「髪長媛。 日向の国におとめあり、名を髪長媛、すなわち諸県(もろかた)の君牛諸井が女なり、天皇専使を遣(つか)わして髪長媛を召(め)し給(たま)う (古事記 仁徳帝妃(きさき))」
  <古事記によると> 天皇、日向国の諸縣君の女、名は髪長比売、その顔容麗美しと聞こしめして、使いたまはむとして喚上げたまふし時、その太子大雀命、その媛女の難波津に泊てたるを見て、その姿容の端正しきに感でて、すなわち建内宿禰大臣に誂へて告りたまひけらく、「この日向より喚上げたまひし髪長比売は、天皇の大御所に請ひ白して、吾に賜はしめよ」とのりたまひき。
 ここに建内宿禰大臣、大命を請へば、天皇すなわち髪長比売をその御子に賜ひき。 賜ひし状は、天皇豊明聞こしめしし日に、髪長比売に大御酒の柏を握らしめて、その太子に賜ひき。
 (略)故、その媛女を賜はりて後、太子歌ひたまひしく、道の後、子波陀媛女を、雷の如、聞こえしかども、相枕枕くとうたひたまひき。 また歌ひたまひしく、道の後、子波陀媛女は、争わず、寝しくをしぞも、愛しみ思ふとうたひたまひき。
 <日本書紀>の応神天皇の条に「十三年春三月、天皇専使を遣(つか)わして髪長媛を徴さしめたまう。 秋九月中に、髪長媛 日向より至(いた)れり。 便ち桑津邑(くわつむら)に安置らしむ。」と記(しる)されています。 すなわち、髪長媛は神として、神の資格を持った采女(さいじょ)として、宮中の新嘗祭(にいなめさい)に奉仕するために、日向の国より召(め)され(宮崎県 都城市が髪長媛誕生の地と言われています。)、仁徳天皇妃(きさき)となられ、現 大阪市の桑津にお住(すま)いになった。 後に、髪長媛の住居跡に金蓮寺が建立されました。 髪長媛と仁徳天皇の間には1男、1女の子供が生まれました。
 (諸縣(諸県)はもろもろの県(あがた)の意味です。 当時の諸県は、今の宮崎県の東・西・北諸県郡と鹿児島県 曽於郡、それに宮崎市の一部です。)
 (諸県君に限らず隼人など九州南部の豪族は娘を天皇家に入内しています。)
 <日本書紀によると> 一一年、人有りて奏して曰さく、「日向国に媛子有り。 名は髪長媛。 即ち諸県君牛諸井(もろがたのうしもろい)の女なり。 是、国色之秀者なり」とまうす。  天皇、悦ぼて、心の裏に徴さむと欲す。
   一三年春三月、天皇専使を遣して、髪長媛を徴さしむ。 秋九月中、髪長媛、日向より至れり。 便ち桑津邑に安置らしむ。 爰に皇子大鷦鷯尊、髪長媛を見たまふに及りて、其の形の美麗に感でて、常に恋ぶ情有します。
 是に天皇、大鷦鷯尊の髪長媛を感づるを知しめして配せむと欲す。 是を以て、天皇、後宮に宴きこします日に、始めて髪長媛を喚して、因りて、宴の席に坐らしむ。 時に大鷦鷯をめして、髪長媛を指したまひて、乃ち歌して曰はく、(略)
 是に大鷦鷯尊、御歌を蒙りて、便ち髪長媛を賜ふこと得ることを知りて、大きに悦びて、報歌たてまつりて曰はく、(略)大鷦鷯尊、髪長媛と既に得交すること慇懃なり。 独髪長媛に対ふて歌して曰はく、「道の後、古破儷嬢女を、神の如、聞えしかど、相枕枕く」、又、歌して曰はく、「道の後、古破儷嬢女、争はず、寝しくをぞ、愛しみ思ふ」。
 <書紀一書によると>  
日本書紀巻第十応神天皇十三年九月の項の原文は、
 一云 日向諸縣君牛 仕于朝庭 年既耆耈之不能仕 仍致仕退於本土 則貢上己女髪長
媛 始至播磨 時天皇幸淡路嶋 而遊獵之 於是 天皇西望之 數十麋鹿 浮海來之 便
入于播磨鹿子水門 天皇謂左右曰 其何麋鹿也 泛巨海多來 爰左右共視而奇 則遣使令
察 使者至見 皆人也 唯以著角鹿皮 爲衣服耳 間曰 誰人也 對曰 諸縣君牛 是年
耆之 雖致仕 不得忘朝 故以己女<髪長媛>而貢上矣 天皇悦之 即喚令從御船 是以 時
人號其著岸之處 曰鹿子水門也 凡水手曰鹿子 蓋始起于是時也
(その意味は)、
一に曰く、日向の諸県君牛、朝庭に仕へて、年既に老いて仕ふる能はず。 即ち己が女髪長媛を貢上る。 始めて播磨に至る。 時に天皇、淡路嶋に幸して、遊猟したまふ。 是に天皇、西を望すに、数十の大鹿、海に浮きて来たれり。 便ち播磨の鹿子水門に入りぬ。
 天皇、左右に語りて曰はく、「其、何なる大鹿ぞ。巨海に泛びて多に来る」とのたまふ。 爰に左右共に視て奇びて、即ち使を遣して察しむ。 皆人なり。 唯角著ける皮を以て、衣服とせらくのみ。
 対へて曰さく、「諸県君牛、己が女髪長媛を以て貢上る」とまうす。 天皇悦びて、即ち喚して御船に従へまつらしむ。
 (船で日向の国から来た髪長媛には鹿の角(つの)が付いた鹿の皮を身に着けた人達が付き添っていました。)
 仁徳天皇は難波(大阪市 中央区)の高津宮に即位し、 葛城襲津彦の娘 磐之媛を「皇后」としました。 その他に数人の妃((きさき)がいました。 髪長媛は妃の中の1人です。
 仁徳天皇の妃(きさき)である髪長媛(かみながひめ)について、
<日向髪長媛、髪長比売(古事記)>
父は諸県君 牛諸井 応神11年にある人、髪長媛の美貌を応神天皇に奏す。
応神13年に応神天皇、専使を遣わし髪長媛を召す(3月)。
髪長媛が摂津国桑津(大阪市 東住吉区)に至る(9月)、大鷦鷯尊(仁徳天皇)に見初(みそ)められる。
応神天皇が宴の席にて髪長媛を大鷦鷯尊(仁徳天皇)に賜(たまわ)る 。
 髪長媛と仁徳天皇の間には皇子と皇女が生まれましたが、王権をめぐる内紛をへて日向系の勢力は断絶しました。 現在の天皇には髪長媛の遺伝子は伝わってはいません。
 都城市の早水神社(旧沖水神社)の祭神は<髪長媛>、応神天皇、牛諸井(髪長媛の父)です。



写真LH: 公園の中にある、仁徳天皇 (にんとくてんのう)の妃(きさき)になった「髪長年 (かみながひめ)の像」です。
仁徳天皇は難波(大阪市 中央区)の高津宮に即位し、 葛城襲津彦の娘 磐之媛を「皇后」としました。 その他に数人の妃((きさき)がいました。 髪長媛は妃の中の1人です。
 仁徳天皇の妃(きさき)である髪長媛(かみながひめ)について、
<日向髪長媛、髪長比売(古事記)>
父は諸県君 牛諸井 応神11年にある人、髪長媛の美貌を応神天皇に奏す。
応神13年に応神天皇、専使を遣わし髪長媛を召す(3月)。
髪長媛が摂津国桑津(大阪市 東住吉区)に至る(9月)、大鷦鷯尊(仁徳天皇)に見初(みそ)められる。
応神天皇が宴の席にて髪長媛を大鷦鷯尊(仁徳天皇)に賜(たまわ)る 。



写真LI: 「髪長媛 (かみながひめ)の像(銅像)」は宮崎県 都城市 高城町 大井手 にあります。 牧之原古墳群の中の公園にあります。
この像の胸にまが玉の首飾りが見えます。 帯(おび)は前で結(むす)んであります。
髪長媛の像は高城町によって平成3年11月吉日に建立されました。



写真LJ: 「髪長媛の銅像」の中部です。 背景に茶畑の防霜扇(ぼうそうせん、霜を防ぐ扇風機です。)、民家、山などが見えます。



写真LK: 「髪長媛の銅像」の下部です。



写真LL: 銅像の土台の石です。



写真LM: 「髪長媛 日向の国におとめあり、名を髪長媛、すなわち諸県(もろかた)の君牛諸井が女なり、天皇専使を遣(つか)わして髪長媛を召(め)し給(たま)う (古事記 仁徳帝妃(きさき))」
と彫(ほ)ってある銅像の台座です。



写真LN: 「髪長媛 日向の国におとめあり、名を髪長媛、すなわち諸県(もろかた)の君牛諸井が女なり、天皇専使を遣(つか)わして髪長媛を召(め)し給(たま)う (古事記 仁徳帝妃(きさき))」
と彫(ほ)ってある銅像の台座。



写真LO: 髪長媛の像は高城町によって平成3年11月吉日に建立されました。



写真LP: 美しい仁徳天皇の妃(きさき)「髪長媛」の銅像です。 髪長媛のお父さんの君牛諸井がここ牧之原古墳の1号墳に埋葬されているという説もあります。
それで、牧之原古墳群に「髪長媛」の銅像が建てられました。
髪長媛 日向の国におとめあり、名を髪長媛、すなわち諸県(もろかた)の君牛諸井が女なり、天皇専使を遣(つか)わして髪長媛を召(め)し給(たま)う (古事記 仁徳帝妃(きさき))。
 日本書紀の応神天皇の条に「十三年春三月、天皇専使を遣(つか)わして髪長媛を徴さしめたまう。 秋九月中に、髪長媛 日向より至(いた)れり。 便ち桑津邑(くわつむら)に安置らしむ。」と記(しる)されています。 すなわち、髪長媛は神として、神の資格を持った采女(さいじょ)として、宮中の新嘗祭(にいなめさい)に奉仕するために、日向の国より召(め)され(宮崎県 都城市が髪長媛誕生の地と言われています。)、仁徳天皇妃(きさき)となられ、現 大阪市の桑津にお住(すま)いになった。 後に、髪長媛の住居跡に金蓮寺が建立されました。 髪長媛と仁徳天皇の間には1男、1女の子供が生まれました。



写真LQ: 「髪長媛」の銅像の中部です。



写真LR: 「髪長媛」の銅像の下部です。



写真LS: 美しい「髪長媛」の銅像です。 宮崎県 都城市 高城町の牧之原古墳群にあります。
この像の胸にまが玉の首飾りが見えます。 帯(おび)は前で結(むす)んでいます。



写真LT: 両手を重ねている銅像です。



写真LU: 足の爪先(つまさき)が長い衣服の下から見えます。



写真LV: 横から見た銅像です。 名前の通り床(ゆか)まで長い美しい髪の毛も見えます。



写真LW: 髪長媛の像の下部です。 奥に畜舎が見えます。 髪長媛の時代はこのあたりは牧場でした。 それからずっと畜産が続いているのでしょう。 地名の「牧之原」もそれを表しています。



写真LX: 下部の石です。



写真LY: 髪飾りも見えます。 銅像の作者はよく考えてこの銅像を作られたようです。



写真LZ: 髪長媛の腰も美しい。



写真MA: 長い髪の先が床(ゆか)に届いています。



写真MB: 下から見上げた銅像です。 左奥に説明板の裏が見えています。
髪長媛 日向の国におとめあり、名を髪長媛、すなわち諸県(もろかた)の君牛諸井が女なり、天皇専使を遣(つか)わして髪長媛を召(め)し給(たま)う (古事記 仁徳帝妃(きさき))。
 日本書紀の応神天皇の条に「十三年春三月、天皇専使を遣(つか)わして髪長媛を徴さしめたまう。 秋九月中に、髪長媛 日向より至(いた)れり。 便ち桑津邑(くわつむら)に安置らしむ。」と記(しる)されています。 すなわち、髪長媛は神として、神の資格を持った采女(さいじょ)として、宮中の新嘗祭(にいなめさい)に奉仕するために、日向の国より召(め)され(宮崎県 都城市が髪長媛誕生の地と言われています。)、仁徳天皇妃(きさき)となられ、現 大阪市の桑津にお住(すま)いになった。 後に、髪長媛の住居跡に金蓮寺が建立されました。 髪長媛と仁徳天皇の間には1男、1女の子供が生まれました。



写真MC: 足元です。 左奥に説明板の裏が見えています。



写真MD: 台座の部分です。



写真ME: 公園の広場です。 イスもあります。



写真MF: 銅像がある公園です。 この外に車道が左右に通っています。



写真MG: 中央奥に髪長媛の銅像が見えます。



写真MH: 牧之原古墳群にある公園です。



写真MI: 牧之原古墳群にある公園。



写真MJ: 奥に畜舎が見えます。



写真MK: 公園の隣(とな)りに古墳があります。



写真ML: この奥は古墳になっています。



写真MM: 公園にある髪長媛の像です。



写真MN: 公園にある髪長媛の像。



写真MO: 牧之原古墳群の公園にある髪長媛の像です。



写真MP: 公園の入口から見た景色です。 奥に茶畑の防霜扇が多く見えます。



写真MQ: 奥に茶畑の防霜扇が多く見えます。 牧之原台地です。



写真MR: 茶畑の手前に葉たばこの畑も見えます。



写真MS: 公園の林です。



写真MT: 外から見た公園です。 右に髪長媛の銅像が見えます。



写真MU: 公園の中に髪長媛の銅像が見えます。 車道から見たもの。



写真MV: 左は公園のとなりにある古墳です。



写真MW: 大きな前方後円墳 (ぜんぽうこうえんふん)があります。 髪長媛の銅像のある公園の隣(とな)りです。 右の森が公園です。



写真MX: 大きな前方後円墳 (ぜんぽうこうえんふん)があります。 髪長媛の銅像のある公園の隣(とな)りです。 都城市 高城町にある牧之原古墳群です。



写真MY: 家畜の飼料を入れる円筒形のタンクが3つ見えています。



写真MZ: 右に紫陽花(あじさい)の花が咲いていました。 左はタバコの畑です。 奥は茶畑です。



写真NA: 左は髪長媛の像のある公園です。



写真NB: 2度目に来た時はここに車を止めました。 1度目は歩いて髪長媛の銅像のある所に来ました。



写真NC: 車道から見たもの。 銅像が見えます。
髪長媛 (かみながひめ)の銅像の台座から、
 「髪長媛。 日向の国におとめあり、名を髪長媛、すなわち諸県(もろかた)の君牛諸井が女なり、天皇専使を遣(つか)わして髪長媛を召(め)し給(たま)う (古事記 仁徳帝妃(きさき))」
  <古事記によると> 天皇、日向国の諸縣君の女、名は髪長比売、その顔容麗美しと聞こしめして、使いたまはむとして喚上げたまふし時、その太子大雀命、その媛女の難波津に泊てたるを見て、その姿容の端正しきに感でて、すなわち建内宿禰大臣に誂へて告りたまひけらく、「この日向より喚上げたまひし髪長比売は、天皇の大御所に請ひ白して、吾に賜はしめよ」とのりたまひき。
 ここに建内宿禰大臣、大命を請へば、天皇すなわち髪長比売をその御子に賜ひき。 賜ひし状は、天皇豊明聞こしめしし日に、髪長比売に大御酒の柏を握らしめて、その太子に賜ひき。
 (略)故、その媛女を賜はりて後、太子歌ひたまひしく、道の後、子波陀媛女を、雷の如、聞こえしかども、相枕枕くとうたひたまひき。 また歌ひたまひしく、道の後、子波陀媛女は、争わず、寝しくをしぞも、愛しみ思ふとうたひたまひき。
 <日本書紀>の応神天皇の条に「十三年春三月、天皇専使を遣(つか)わして髪長媛を徴さしめたまう。 秋九月中に、髪長媛 日向より至(いた)れり。 便ち桑津邑(くわつむら)に安置らしむ。」と記(しる)されています。 すなわち、髪長媛は神として、神の資格を持った采女(さいじょ)として、宮中の新嘗祭(にいなめさい)に奉仕するために、日向の国より召(め)され(宮崎県 都城市が髪長媛誕生の地と言われています。)、仁徳天皇妃(きさき)となられ、現 大阪市の桑津にお住(すま)いになった。 後に、髪長媛の住居跡に金蓮寺が建立されました。 髪長媛と仁徳天皇の間には1男、1女の子供が生まれました。
 (諸縣(諸県)はもろもろの県(あがた)の意味です。 当時の諸県は、今の宮崎県の東・西・北諸県郡と鹿児島県 曽於郡、それに宮崎市の一部です。)
 (諸県君に限らず隼人など九州南部の豪族は娘を天皇家に入内しています。)
 <日本書紀によると> 一一年、人有りて奏して曰さく、「日向国に媛子有り。 名は髪長媛。 即ち諸県君牛諸井(もろがたのうしもろい)の女なり。 是、国色之秀者なり」とまうす。  天皇、悦ぼて、心の裏に徴さむと欲す。
   一三年春三月、天皇専使を遣して、髪長媛を徴さしむ。 秋九月中、髪長媛、日向より至れり。 便ち桑津邑に安置らしむ。 爰に皇子大鷦鷯尊、髪長媛を見たまふに及りて、其の形の美麗に感でて、常に恋ぶ情有します。
 是に天皇、大鷦鷯尊の髪長媛を感づるを知しめして配せむと欲す。 是を以て、天皇、後宮に宴きこします日に、始めて髪長媛を喚して、因りて、宴の席に坐らしむ。 時に大鷦鷯をめして、髪長媛を指したまひて、乃ち歌して曰はく、(略)
 是に大鷦鷯尊、御歌を蒙りて、便ち髪長媛を賜ふこと得ることを知りて、大きに悦びて、報歌たてまつりて曰はく、(略)大鷦鷯尊、髪長媛と既に得交すること慇懃なり。 独髪長媛に対ふて歌して曰はく、「道の後、古破儷嬢女を、神の如、聞えしかど、相枕枕く」、又、歌して曰はく、「道の後、古破儷嬢女、争はず、寝しくをぞ、愛しみ思ふ」。
 <書紀一書によると>  
日本書紀巻第十応神天皇十三年九月の項の原文は、
 一云 日向諸縣君牛 仕于朝庭 年既耆耈之不能仕 仍致仕退於本土 則貢上己女髪長
媛 始至播磨 時天皇幸淡路嶋 而遊獵之 於是 天皇西望之 數十麋鹿 浮海來之 便
入于播磨鹿子水門 天皇謂左右曰 其何麋鹿也 泛巨海多來 爰左右共視而奇 則遣使令
察 使者至見 皆人也 唯以著角鹿皮 爲衣服耳 間曰 誰人也 對曰 諸縣君牛 是年
耆之 雖致仕 不得忘朝 故以己女<髪長媛>而貢上矣 天皇悦之 即喚令從御船 是以 時
人號其著岸之處 曰鹿子水門也 凡水手曰鹿子 蓋始起于是時也
(その意味は)、
一に曰く、日向の諸県君牛、朝庭に仕へて、年既に老いて仕ふる能はず。 即ち己が女髪長媛を貢上る。 始めて播磨に至る。 時に天皇、淡路嶋に幸して、遊猟したまふ。 是に天皇、西を望すに、数十の大鹿、海に浮きて来たれり。 便ち播磨の鹿子水門に入りぬ。
 天皇、左右に語りて曰はく、「其、何なる大鹿ぞ。巨海に泛びて多に来る」とのたまふ。 爰に左右共に視て奇びて、即ち使を遣して察しむ。 皆人なり。 唯角著ける皮を以て、衣服とせらくのみ。
 対へて曰さく、「諸県君牛、己が女髪長媛を以て貢上る」とまうす。 天皇悦びて、即ち喚して御船に従へまつらしむ。
 (船で日向の国から来た髪長媛には鹿の角(つの)が付いた鹿の皮を身に着けた人達が付き添っていました。)
 仁徳天皇は難波(大阪市 中央区)の高津宮に即位し、 葛城襲津彦の娘 磐之媛を「皇后」としました。 その他に数人の妃((きさき)がいました。 髪長媛は妃の中の1人です。
 仁徳天皇の妃(きさき)である髪長媛(かみながひめ)について、
<日向髪長媛、髪長比売(古事記)>
父は諸県君 牛諸井 応神11年にある人、髪長媛の美貌を応神天皇に奏す。
応神13年に応神天皇、専使を遣わし髪長媛を召す(3月)。
髪長媛が摂津国桑津(大阪市 東住吉区)に至る(9月)、大鷦鷯尊(仁徳天皇)に見初(みそ)められる。
応神天皇が宴の席にて髪長媛を大鷦鷯尊(仁徳天皇)に賜(たまわ)る 。
 髪長媛と仁徳天皇の間には皇子と皇女が生まれましたが、王権をめぐる内紛をへて日向系の勢力は断絶しました。 現在の天皇には髪長媛の遺伝子は伝わってはいません。
 都城市の早水神社(旧沖水神社)の祭神は<髪長媛>、応神天皇、牛諸井(髪長媛の父)です。



写真ND: 車の所に戻(もど)ります。



写真NE: 左手前は公園です。 来た道を振り返ったもの。



写真NF: 茶畑、畜舎が見えます。 手前の野草はスカンポ(すいば)です。



写真NG: 牧之原台地は景色が美しい所です。



写真NH: 来た道を帰ります。



写真NI: アザミが咲いていました。



写真NJ: キンポウゲ (ウマノアシガタ)の花が咲いていました。



写真NK: クロネコヤマトの会社の所に来ました。 左の店に飲料水の自動販売機が見えます。



写真NL: 飲料水の自動販売機。



写真NM: 「ここの住所は都城市 高城町  大井手 54-3」と自動販売機に書いてあります。



写真NN: コーラを飲みました。



写真NO: 月山日和城跡の高城町郷土資料館が見えます。



写真NP: 月山日和城跡の高城町郷土資料館。



写真NQ: 月山日和城跡の高城町郷土資料館です。



写真NR: 「JA 都城 高城支所」の看板があります。



写真NS: 「JA 都城 高城支所」です。



写真NT: 左奥は高城小学校です。



写真NU: ここからも月山日和城跡の高城町郷土資料館が見えます。



写真NV: バス停「高城上町 宮崎交通」があります。



写真NW: 県道47号線を見たものです。 先に行くと都城市 山之口町に行きます。



写真NX: 県道47号線から見上げた月山日和城跡の高城町郷土資料館です。 険(けわ)しい崖(がけ)が見えます。



写真NY: 「八坂神社」の所に戻(もど)りました。



写真NZ: 八坂神社に古い石碑(せきひ)があります。



写真OA: 「庚申塔 (こうしんとう、庚申塚)」と思われます。



写真OB: 「明治百年記念 昭和43年4月27日 第6公民館」と彫(ほ)ってあります。



写真OC: 「高城町区 八坂神社」の額(がく)が赤い鳥居(とりい)にあります。



写真OD: 「高城町区 八坂神社」です。 星型の紋(もん)、彫(ほ)り物がある横木が見えます。



写真OE: 「高城町区 八坂神社」。



写真OF: 「石の道しるべ」があります。 



写真OG: 石の道しるべに「鹿児島県管轄界へ4里 町拾五、都城へ貳里・・・有水へ・・・、明治4拾(十)五年参(三)月建立」と彫ってあります。




写真OH: 石の道しるべに「鹿児島県管轄界へ4里 町拾五、都城へ貳里・・・有水へ・・・、明治4拾(十)五年参(三)月建立」と彫ってあります。



写真OI: 石の道しるべに「鹿児島県管轄界へ4里 町拾五、都城へ貳里・・・有水へ・・・、明治4拾(十)五年参(三)月建立」と彫ってあります。



写真OJ: 石の道しるべに「鹿児島県管轄界へ4里 町拾五、都城へ貳里・・・有水へ・・・、明治4拾(十)五年参(三)月建立」と彫ってあります。



写真OK: 石の道しるべに「鹿児島県管轄界へ4里 町拾五、都城へ貳里・・・有水へ・・・、明治4拾(十)五年参(三)月建立」と彫ってあります。



写真OL: 石の道しるべに「鹿児島県管轄界へ4里 町拾五、都城へ貳里・・・有水へ・・・、明治4拾(十)五年参(三)月建立」と彫ってあります。



写真OM: 左奥に八坂神社の本殿が見えます。 右は拝殿です。
手前に末社があります。



写真ON: 手前に末社があります。



写真OO: 拝殿の側面です。



写真OP: 拝殿の側面。



写真OQ: 八坂神社の本殿、拝殿、末社が見えます。



写真OR: はじめの慶正寺が見えてきました。



写真OS: 右に白いコンクリートの「高城町商工会館」、左に慶正寺の鐘(かね)つき堂が見えます。



写真OT: 「高城郷 地頭仮屋 跡 (たかじょうごうじとうかりやあと)」の標識棒 (標柱)が下にある道の真中(まんなか)の大きな木が見えてきました。。
標柱には、「地頭館(じとうやかた)とも言います。 高城郷の行政、軍事の中心となり、地頭は城下士の200石ぐらいの者が任命されました。 初めはここに赴任(ふにん)しましたが、寛政(1789年〜1801年)以後は年2回〜4回ぐらい郷へ出張して、郷中を巡視監督したものです。 明治以後、昭和33年 現庁舎に移転するまで、ここが役場として村、町政の中心となりました。 平成10年3月高城町教育委員会」
と書いてあります。



写真OU: はじめの駐車場。



写真OV: はじめの駐車場に戻(もど)って来ました。



by 南陽彰悟 (NANYO Shogo)