胸薬師、平等寺、西上那珂神社(八幡神社)、東上那珂神社、下那珂神社、那珂小学校 (むねやくし、はちまん神社、しもなか神社)(石崎川、観音橋、夜泣橋、津倉地区の戦災の碑) (宮崎市佐土原町西上那珂、東上那珂、下那珂)
<標高、位置> 胸薬師は
標高 約40 m
北緯32度00分47秒 東経131度27分15秒
<標高、位置> 平等寺は
標高 約20 m
北緯32度01分26秒 東経131度24分37秒
<標高、位置> 西上那珂神社(八幡神社)は
標高 約30 m
北緯32度01分28秒 東経131度24分33秒
<標高、位置> 東上那珂神社は
標高 約30 m
北緯32度01分33秒 東経131度25分52秒
<標高、位置> 下那珂神社は
標高 約20 m
北緯32度00分24秒 東経131度27分16秒
胸薬師は病気に御利益がある古いお寺です(1253年建立)。 下那珂神社は958年に遷座されました。 これらは宮崎市佐土原町下那珂にあります。
真言宗 平等寺は1191年に開山され、10町歩の広さがありました。 千手観音菩薩などの木像もあります。 ここに永年あった鐘(かね)は今は大阪の寺にありますが、国宝になっています。 西上那珂神社(八幡神社)は丘の中腹にあります。 これらは宮崎市佐土原町西上那珂にあります。
東上那珂神社はバス停「岩見堂」近くの丘の上にあります。 宮崎市佐土原町東上那珂にあります。
写真A: 宮崎市佐土原町下那珂にある「胸薬師(むねやくし)」は佐土原町墓地公園の近くにあります。 この十字路を左に行くと佐土原墓地公園に行きます。 先に進むと黒田に行きます。
写真B: 横山商店の左の細い道が、「胸薬師」の参道です。 入り口に陶板の説明板が見えています。
写真C: 宮崎市佐土原町下那珂にある胸薬師の参道。 左が説明陶板。
写真D: 胸薬師の説明板。 胸薬師は1253年の創建と伝えられ、祭神は病気、災厄を除くといわれる薬師如来です。 境内に湧き出る清水を飲むと治癒効果があると伝えられ、(現在は清水は湧き出ていないようです。)毎年1月8日と旧暦の1月8日には旗が立ち、地区の人々がお餅を供えて初祭りが行われます。 境内には六地蔵幢(ろくじぞうしょう、六地蔵塔)があり、天正9年と彫(ほ)られています。
写真E: 胸薬師の標識。 胸薬師参拝と書かれています。 この道は車は入れません。
写真F: 胸薬師の参道。 竹林もあります。
写真G: 胸薬師の参道。 階段もあります。
写真H: 宮崎市佐土原町下那珂にある胸薬師参拝入口と書かれた標識。
写真I: 胸薬師の参道。 手すり付きの階段もあります。
写真J: 胸薬師のお堂が見えてきました。
写真K: 宮崎市佐土原町下那珂にある「胸薬師」。
私の母も子供だった昭和10年頃、母のクマおばあさんなどと3人で、佐土原町上田島からお参りに来たことがあるそうです。 お弁当を持ってきて、このお堂の中で皆と食べたそうです。 ジャガイモの煮物をもらって美味しかったそうです。 その頃も、湧き出る清水はなかったようです。
写真L: 胸薬師の階段を、登り切ったところにある石燈籠(いしどうろう)。
写真M: これが登ってきた階段です。
写真N: 宮崎市佐土原町下那珂にある「胸薬師」のお堂。
写真O: 胸薬師。 お堂の中の様子。 左手前はお賽銭箱(さいせんばこ)。 格子の向こうにも床があります。 昭和時代の初め頃は、自由にお堂の中に入れたそうです。
私の母も子供だった昭和10年頃、母のクマおばあさんなどと3人で、佐土原町上田島からお参りに来たことがあるそうです。 お弁当を持ってきて、このお堂の中で皆と食べたそうです。 ジャガイモの煮物をもらって美味しかったそうです。
写真P: 胸薬師にある石灯籠(いしどうろう)。 右の方に御手洗(みたらい)も見えています。
写真Q: 上の写真の石灯籠の拡大したもの。 大正11年11月20日と彫(ほ)られています。 母が子供の頃来たときには、すでにこの石灯籠は建っていたことになります。
写真R: 胸薬師の御手洗(みたらい)。 水道が引いてあります。
写真S: 胸薬師の御手洗に奉納してある手ふき。 胸薬師堂と書かれています。
写真T: 胸薬師の境内にある石像。
写真U: 胸薬師堂。
写真V: 胸薬師堂の側面。
写真W: 胸薬師堂の側面。
写真X: 古い龍の鬼瓦(おにがわら)。
写真Y: 宮崎市佐土原町下那珂にある胸薬師。
写真Z: 胸薬師にある六地蔵幢(ろくじぞうしょう、六地蔵塔)。 天正9年と彫(ほ)られています。 主に戦国時代に多く造られた石塔。 側面に6体の地蔵像が彫られているのが特徴で、燈籠型が多いが、それ以外の形の物もある。 供養塔として街道に面して建てられたものが多い。 九州に分布が集中している。
写真AA: 胸薬師の六地蔵幢(ろくじぞうしょう、六地蔵塔)。
写真AB: 六地蔵幢(ろくじぞうしょう、六地蔵塔)。 六角形の部分に6体の地蔵像が彫(ほ)られています。
写真AC: 胸薬師にある六地蔵幢(ろくじぞうしょう、六地蔵塔)。 天正9年と彫(ほ)られています。 主に戦国時代に多く造られた石塔。 側面に6体の地蔵像が彫られているのが特徴で、燈籠型が多いが、それ以外の形の物もある。 供養塔として街道に面して建てられたものが多い。 九州に分布が集中している。
写真AD: 胸薬師には小さなお堂もあります。
写真AE: 胸薬師の別の小さなお堂。
写真AF: 胸薬師の小さなお堂。 花などが供えてあります。
写真AG: 胸薬師の右手を登ると、江戸時代以前の古い墓があります。
写真AH: 胸薬師のこの墓のそばから、広瀬西小学校と水道施設の円形の建物が見えています。
写真AI: 胸薬師の墓のそばには、大きな石碑があります。
写真AJ: 胸薬師には、このような石塔もあります。
写真AK: 佐土原町下那珂にある胸薬師のお堂です。
写真AL: 佐土原町西上那珂にある「真言宗 平等寺」。 左の大きな楠(くすのき)のある高台に、源頼朝を供養する五輪塔があります。 この高台は経塚と言われています。
経塚は仏教の経典を永く後世に伝えるために、筒などに入れて地中に埋めて塚を築いたものです。 上に五輪塔などを建てることもあります。
車道に沿っています。 この車道は右に行けば那珂交差点で、左に行けば八幡神社(西上那珂神社)を通り、国富、綾に行きます。
写真AM: 真言宗 平等寺。 右の石碑は「国宝 平等寺の鐘(かね)」について書かれています。 この階段の上の建物が、平等寺のお堂です。
写真AN: 真言宗 平等寺。 大きな木は、経塚にある楠(くすのき)です。
写真AO: 「国宝平等寺の鐘」という平等寺の石碑(せきひ)。 後で国宝となった平等寺の鐘は、明治時代初期の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)で廃寺となると、いつのまにか行方不明となりました。 明治7年、大阪の正祐寺の住職が古物商からこの鐘を買い取りました。 大正3年頃 学者たちによって、1019年鋳造の朝鮮鐘と判明し、「国宝」となりました。
写真AP: 平等寺の鐘についての石碑。 永年 ここ平等寺で音を響かせていて、後に国宝となった鐘は、現在は大阪の正祐寺に下半分だけが安置されています。 これは、第二次世界大戦の時の大阪空襲で、寺ごと焼かれたためです。
写真AQ: 宮崎市佐土原町西上那珂にある真言宗 「平等寺観音堂」。 平等寺は明治4年の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)で廃寺になりましたが、現在は再建されています。
写真AR: 平等寺観音堂の中。 酒などの供え物(そなえもの)もあります。
写真AS: 真言宗 平等寺遺跡の説明陶板。 平等寺は1191年に盛融によりこの地に創建されました。 日照山千手院平等寺と称し、境内10町歩に及ぶ寺院でした。 千手院とはご本尊が千手観音菩薩だったためです。 観音堂の厨子(仏像などを安置する仏具)に左右に不動明王と毘沙門天(びしゃもんてん)の二仏と並び納まる観音様です。 三尊の頭髪や衣服のあつかいは鎌倉後期の作風を受けた木彫りのすばらしい仏像です。 堂内に源頼朝の位牌があり境内の経塚と称する台地に、源頼朝の供養のためと伝えられる五輪塔が建っています。 寺の楼門に据えられた仁王像は、現在は都於郡の黒貫寺にあり、鐘楼の鐘はその竜頭に綱をかけ観音渕(かんのんぶち、平等寺の近くを石崎川が流れています。 観音橋という橋があります。 石崎川に観音渕があったのでしょう。)に沈めると、どんな日照り続きでも慈雨を恵むという霊験があったと伝えられています。
いつの頃か、平等寺は全焼し、寺宝や古記録を失いました。 鐘もその魔力を失い、明治4年の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)によって大阪の正祐寺に流れ、そこでその鐘は1019年鋳造の朝鮮鐘と判明し国宝指定の名鐘になりました。
平等寺は伊東の祈願寺でした。 この鐘だけでも中世の伊東と平等寺の隆盛が伺(うかが)えます。
平等寺は明治4年の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)で廃寺になりましたが、現在は再建されています。
写真AT: 明治時代の初めまで、ここ平等寺にあった仁王像(におうぞう)2体の右のもの。 今は西都市都於郡(とのこおり)の黒貫寺の本堂の前に安置されています。
写真AU: 明治時代の初めまで、ここ平等寺にあった仁王像(におうぞう)2体の左のもの。 今は西都市都於郡(とのこおり)の黒貫寺の本堂の前に安置されています。
写真AV: 平等寺観音堂建立記念の石碑(2005年6月に建てられました)。 県道の拡張工事に伴い由緒ある観音堂が移動を余儀なくされることになりました。 先祖代々より崇拝した千手観音様を安置したお堂は数百年を経過し老朽化しているので、新築されました。 建立中の御仏の保護対策は都於郡の黒貫寺に依頼されました。 平等寺は明治4年の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)で廃寺になりましたが、現在は再建されています。
写真AW: 平等寺。 経塚には大きな楠(くすのき)があります。 右の建物は、平等寺地区営農研修施設、経塚の下には石仏などがあります。 手前に石灯籠(いしどうろう)、平等寺観音堂が見えています。
写真AX: 平等寺の石灯籠(いしどうろう)。
写真AY: 宮崎市佐土原町西上那珂にある平等寺の観音堂など。 平等寺は明治4年の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)で廃寺になりましたが、現在は再建されています。
写真AZ: 平等寺にある平等寺地区営農研修施設。
写真BA: 平等寺の経塚。 下に仏像など、階段、上に源頼朝を供養する五輪塔などがあります。
写真BB: 平等寺から見た車道。 先は国富、綾で、手前方向は那珂交差点があります。
写真BC: 平等寺の経塚の下にある石仏。
写真BD: 平等寺の経塚に登る階段。
写真BE: 平等寺の経塚。 楠(くすのき)が大きく茂っています。
写真BF: 平等寺の経塚にある石碑。 源頼朝を供養する五輪塔は、角柱の白っぽい石碑の左の木の陰に少し見えています。
写真BG: 平等寺の経塚にある源頼朝を供養する五輪塔の標識。
写真BH: 平等寺の経塚の石碑。 左奥は源頼朝を供養する五輪塔。
写真BI: 宮崎市佐土原町西上那珂にある平等寺の経塚にある石碑群。
写真BJ: 平等寺の経塚にある源頼朝を供養する五輪塔。
写真BK: 平等寺の経塚から見た車道。 先は那珂交差点があります。
写真BL: 平等寺の経塚から見た車道。 先は国富、綾があります。
写真BM: 平等寺にある平等寺地区営農研修施設。 ここに車がとめられます。
写真BN: 平等寺地区営農研修館の落成記念の石碑。
写真BO: 平等寺から約100 m、車道を国富の方向に行ったところの右手に西上那珂神社の一の鳥居があります。
写真BP: 西上那珂神社はこの民家の右の丘にあります。
写真BQ: 民家の右に西上那珂神社の鳥居が見えています。
写真BR: 西上那珂神社の参道と一の鳥居。
写真BS: 西上那珂神社の参道と石の鳥居。
写真BT: 西上那珂神社の鳥居と階段。
写真BU: 西上那珂神社の社殿。
写真BV: 宮崎市佐土原町の西上那珂神社。
写真BW: 西上那珂神社の社殿。 「悠仁親王殿下御誕生」の幟(のぼり)が掛けてありました。
写真BX: 西上那珂神社の「悠仁親王殿下御誕生」の幟(のぼり)。
写真BY: 西上那珂神社の奥の院。
写真BZ: 西上那珂神社の奥の院。
写真CA: 西上那珂神社。
写真CB: 西上那珂神社の参道からの景色。 一の鳥居、「愛知ゴルフクラブゴルフ場の建物」が遠くの丘の上に見えています。
写真CC: 平等寺と西上那珂神社の南の方に、石崎川が流れています。 石崎川は下田島で太平洋に注ぎます。
写真CD: 平等寺の昔あった鐘を、雨乞いのために、沈めたのは観音渕でした。 観音渕は、この石崎川の観音橋の近くだったかもしれません。
写真CE: 平等寺と西上那珂神社の近くにある、観音橋から見た石崎川。
写真CF: 宮崎市佐土原町東上那珂にあるバス停(岩見堂、岩見堂は福城寺)。 この近くに「東上那珂神社」があります。
写真CG: 東上那珂神社の一の鳥居。 バス停「岩見堂」のそばにあります。
写真CH: 東上那珂神社の参道。 上り坂です。 ケイトウの赤と黄色の花が咲いていました。
写真CI: 東上那珂神社の参道。 先の丘に東上那珂神社があります。 両側に民家があります。
写真CJ: 東上那珂神社の参道には階段もあります。 カンナの花が咲いていました。
写真CK: 東上那珂神社の御手洗(みたらい)が見えてきました。
写真CL: 御手洗の奥に東上那珂神社の社殿があります。
写真CM: 東上那珂神社の御手洗(みたらい)。
写真CN: 東上那珂神社。
写真CO: 東上那珂神社の社殿と石灯籠(いしどうろう)。
写真CP: 東上那珂神社の石灯籠。
写真CQ: 東上那珂神社には、西上那珂神社と同じものの「悠仁親王殿下御誕生」の幟(のぼり)がありました。
写真CR: 東上那珂神社の中。
写真CS: 宮崎市佐土原町の東上那珂神社。
写真CT: 左は、東上那珂神社の奥の院です。
写真CU: 東上那珂神社の社殿の側面に「東上那珂神社 裏入口」の標識が立てかけてありました。
写真CV: 東上那珂神社の奥の院です。
写真CW: 東上那珂神社。
写真CX: 東上那珂神社の境内に、石碑(せきひ)などがあります。
写真CY: 宮崎市佐土原町東上那にある東上那珂神社。
写真CZ: 東上那珂神社の参道から見た景色。 春田バイパスも見えています。
写真DA: 東上那珂神社の参道からの眺望。 送電線の鉄塔も見えています。
写真DB: 東上那珂神社の参道からの展望。 送電線の鉄塔と春田バイパスも見えています。
写真DC: 東上那珂神社の参道から見たもの。
写真DD: 東上那珂神社の一の鳥居と車道。 近くにバス停の「岩見堂」があります。
写真DE: 道の左手に石碑があります。 右に進むと、下那珂神社があります。 宮崎市佐土原町下那珂にあります。
写真DF: 下那珂神社の鳥居。 この鳥居は昭和14年2月に建てられました。
写真DG: 下那珂神社の鳥居の下から見た景色。
写真DH: 下那珂神社の鳥居の下から見たもの。
写真DI: 下那珂神社。
写真DJ: 下那珂神社の鳥居。
写真DK: 下那珂神社の2番目の鳥居。 江戸時代後期の天明時代に建てられました。 天明2−7年には天明の飢饉(ききん)が起こりました。 天明のこのころに、各地に多数の石碑(せきひ)などが建てられました。 宮崎城跡にもその時の石碑があります。
写真DL: 下那珂神社の御手洗(みたらい)。 井戸の手押しポンプがあります。
写真DM: 側面からの下那珂神社の参道。 鳥居があります。
写真DN: 下那珂神社の石碑。 左から2番目の石碑には、大正8年9月1日と彫(ほ)られています。
写真DO: 下那珂神社の石碑。 「兵役記念碑」と彫られています。
写真DP: 下那珂神社の石碑。 下那珂神社は958年にこの地に遷座されました。 1450年に藤原秋賀により、また、1610年に島津忠興によって復興されました。 創建は958年、西都市の都万(つま)神社祠官
写真DQ: 下那珂神社の境内にある末社。
写真DR: 宮崎市佐土原町下那珂にある「下那珂神社」。 左の建物は奥の院です。
写真DS: 下那珂神社の境内。
写真DT: 下那珂神社の境内。
写真DU: 下那珂神社の社殿。
写真DV: 下那珂神社の境内にある「厄払記念碑(やくばらいきねんひ)」。
写真DW: 下那珂神社の「奥の院」。 奥の院は朱色に塗られています。
写真DX: 下那珂神社の鈴の紐(ひも)。 「奉納 昭和64年厄払記念」と書かれています。
写真DY: 下那珂神社の中。
写真DZ: 下那珂神社。
写真EA: 下那珂神社の宮司さんは、安藤定彦さんです。
写真EB: 下那珂神社の御手洗(みたらい)。 井戸の手押しポンプが見えています。
写真EC: 下那珂神社。
写真ED: 下那珂神社の側面からの参道。
写真EE: 佐土原那珂郵便局。 民営化されて、24日目です。
写真EF: 宮崎市東上那珂にある「夜泣橋」の近くにある石仏。 夜泣橋は石崎川にかかっています。
写真EG: 夜泣橋の近くにある石仏。
写真EH: 「夜泣橋の由来」の石碑。
昔、この橋は木の橋で、宮崎飫肥(おび)に至る街道筋にありました(飫肥街道)。 岩見堂の福城寺前には、茶屋や馬の水飲み場があり昼間はにぎわいましたが、夜は人も通らない寂しい村里だったそうです。 言い伝えでは、双子を持った母親がその一人をこの橋に捨て子し、赤ちゃんは一晩中泣き続けていました。 里人が朝早く行ってみたら、その姿はなく人々は口々に星の世界に昇ったと言い、また心ある人が、拾い上げ育てたとも語り伝えられています。 それ以来、橋の欄干(らんかん)の柱の角を削り取り、その木片に火を付け明るく輝く炎を泣き叫ぶ赤ん坊の全身の上にかざし、大きく輪を描くとピタリと泣きやみ安らかな寝息に変わるそうです。
人々はこの橋が、我が身を燃やし夜泣き子をなおしてくださると、救いを求めて「夜泣橋」と呼ぶようになったそうです。(宮崎の神話と伝説より)
写真EI: 石崎川にかかる「夜泣橋」。
写真EJ: 夜泣橋から見た石崎川。
写真EK: 那珂(なか)のバス停近くの交差点(那珂交差点)。 煉瓦色(れんが)の2階建ては、JA宮崎中央那珂支店です。 バス停は左端に見えています。
写真EL: 那珂のバス停です。
写真EM: 那珂交差点。 左はJAガソリンスタンド、レンガ色の2階建てはJA宮崎中央那珂支店です。 右端はマーケットです。 左に行くと国富町、綾町(あやちょう)、西都市都於郡(とのこおり)に、右に進むと佐土原町下田島に行きます。 先に進むと佐土原町上田島です。
左に行くと、那珂小学校、平等寺、八幡神社(西上那珂神社)があります。 手前に戻ると夜泣橋、東上那珂神社があります。
写真EN: 左はJAガソリンスタンド、レンガ色の建物はJA宮崎中央那珂支店です。 先に進むと、佐土原町上田島に行きます。
写真EO: 那珂のJAガソリンスタンドです。
写真EP: 那珂小学校(なか小学校)です。 バス停もあります。
写真EQ: 那珂小学校には、創立130周年記念の看板がありました。
写真ER: 那珂小学校。 土手で囲われています。 大きな木もあります。
写真ES: 那珂小学校の正門です。 右の木はケヤキです。
写真ET: 宮崎市立那珂小学校の門札。
写真EU: 那珂小学校の校舎。 花がきれいです。 左に2人の銅像が見えています。
写真EV: 那珂小学校の体育館、時計、二人の銅像など。
写真EW: 「那珂っ子の木」けやき。 説明板があります。
写真EX: 「那珂っ子の木」けやき です。 このけやきは、明治36年それまで江原と下浦に分かれていた学校を合併して、今のこの場所に那珂尋常小学校ができたとき、つとめておられた黒木先生が、米良の山奥からせおって運んでこられたものだそうです。 それから今までこの那珂小学校で学んだ人たちが、自分もこんなにたくましく大きいけやきのようになろうと目標にしてきました。
写真EY: 那珂小学校の運動場です。
写真EZ: 宮崎市立那珂小学校の運動場。
写真FA: 那珂小学校。 きれいな花が植えてあります。
写真FB: 那珂小学校の土手と木です。 「花いっぱい」と書かれています。
写真FC: 宮崎市佐土原町東上那珂の津倉公民館に、平成7年4月18日に建立された「戦災の碑(ひ)」。
第二次世界大戦の時、昭和20年4月18日午前中に、米軍の爆撃機B29 による東上那珂地域の空襲がありました。 津倉地区は死者11名、負傷者8名、焼失家屋19戸、半壊家屋多数、田畑山林に及ぶ大きな被害を受ける惨事となりました。 恒久平和を願い50周年記念として、戦災の碑が建てられました。
写真FD: 宮崎市佐土原町東上那珂の津倉公民館に、平成7年4月18日に建立された「戦災の碑(ひ)」。 恒久平和を願い建てられました。
by 南陽彰悟 (NANYO Shogo)