新しき村、えほんの郷 (武者小路実篤、むしゃのこうじさねあつ、日向新しき村、第一新しき村、前坂展望台 (石河内展望台)、武者小路実篤の詩碑、木城町 石河内の展望、武者小路実篤記念館、小丸川発電所展示館(ピノッQパーク)、川原ダム(浜口ダム)、石河内第二発電所、木城えほんの郷、旧 石河内小学校 (2012年3月31日閉校)、石河内本村遺跡、郷の駅 石河内、鹿遊茶屋、石城跡、揚水発電所、小丸川発電所、下池の石河内ダム、鹿遊連山(かなすみれんざん)、尾鈴山脈、小丸川渓谷)  (宮崎県 児湯郡 木城町 石河内)







<標高、位置>  日向 新しき村 (第一新しき村)は
標高 約110 m
 北緯32度12分55秒  東経131度24分55秒

<標高、位置>  木城えほんの郷は
標高 約140 m
 北緯32度13分19秒  東経131度25分01秒

<標高、位置>  川原ダム(浜口ダム)は
標高 約80 m
 北緯32度12分48秒  東経131度25分02秒

<標高、位置>  ピノッQパーク(小丸川発電所展示館)は
標高 約80 m
 北緯32度13分24秒  東経131度24分32秒

<標高、位置>  小丸川の「中八重橋」は
標高 約30 m
 北緯32度13分14秒  東経131度24分48秒

<標高、位置>  石河内第二発電所は
標高 約80 m
 北緯32度13分41秒  東経131度23分56秒

<標高、位置>  なかおづるトンネルの北出口は
標高 約150 m
 北緯32度14分25秒  東経131度23分37秒

<標高、位置>  旧 石河内小学校は
標高 約130 m
 北緯32度13分17秒  東経131度25分06秒

<標高、位置>  石河内簡易郵便局は
標高 約90 m
 北緯32度13分09秒  東経131度24分52秒

<標高、位置>  新しき村などがみえる「前坂展望台」は
標高 約170 m
 北緯32度12分49秒  東経131度25分20秒

<標高、位置>  揚水発電所である小丸川発電所の下池 「石河内ダム」は
標高 約100 m
 北緯32度14分29秒  東経131度23分25秒


 日向新しき村、木城えほんの郷、前坂展望所(石河内展望台)、郷の駅 石河内は宮崎県 木城町 石河内にあります。
 前坂展望所にある「日向新しき村、郷の駅 石河内、木城えほんの郷」の説明板から、
<日向新しき村>
 新しき村は宮崎県 木城町 石河内 1333 にあります。 土地は5.5 ヘクタールです。
 日向国児湯郡木城村石河内字城。 之が私達の最初に住む土地の名称です。 字を城と云ふのは昔の城あとだからです。 実篤(さねあつ)。
大正7年秋、武者小路実篤(1885年〜1976年)が、「自他全生」、仕事と生命を尊重しつつ美・愛・真の人生を探求することを理想とし、共鳴する同志会員達と共に創始しました。 (新しき村は大正7年(1918年)11月14日に開村しました(武者小路実篤 33歳、実篤の夫人 房子 26歳)。 その後、第2夫人に実篤の長女が新しき村で生まれ、実篤はこの新しき村を出て(大正12年)、奈良県に住みました。) 後に埼玉県に「東の新しき村」が建設され、当地は「日向新しき村」と呼ばれており、両村とも財団法人となっています。
<郷の駅石河内>
 施設内には、自分で打ったそばを食べられるそば打ち体験道場、手打ちそばや、山菜弁当など石河内の味が楽しめる鹿遊(かなすみ)茶屋があり、石河内の特産品の販売も行っています。
<木城えほんの郷>
 ここには世界の色とりどりの絵本や絵本原画を展示している森のえほん館、自然の素材を使った手作り遊びや絵本の販売をしている森のきこり館、森の芝居小屋、森のコテージなどの施設が点在しています。 星空や月明かりのもと、演劇や音楽を楽しむ日もあり、自然の中でゆったりとした時間を過ごせる郷です。

 「石城跡(いしじょうあと)」は宮崎県 木城町 石河内にあります。
「伊東氏48城における石城について」の説明板から、
 県内における戦国時代に名高い、高城合戦では、大友氏と島津氏による壮絶な戦いが繰り広げられましたが、それ以前は、伊東氏が日向国における権力を誇示していました。 この伊東氏が、島津氏と凌(しの)ぎを削(けず)り、抗争を繰り広げられた南北朝期から戦国時代中頃の山城(やまじろ)が石城(いしじょう)であります。
 日向国における伊東氏の支配体制は本部基地の役割を果すべく、西都市の都於郡城(とのこおりじょう)を本城として10〜15 km内外の間隔で、出城(でじろ)を県内に48ヶ所構え、戦乱時および領内の統治体制を作りました。 これは、日向48城といわれ、北は門川城(門川町)で県(延岡市)の土持氏(つちもちし)と境を接し、南は飫肥酒谷城(日南市)と田野城(田野町)、西南は三之山城(小林市)で、南の島津氏と接していました。 児湯郡内においては、都於郡本城の他、三納城(西都市)、穂北城(西都市)、富田城(新富町)、財部城(高鍋町)、そして本町内にある高城とこの石城です。
 石城は、ここ石河内(いしがわち)に位置し、あの武者小路実篤が理想郷とした、日向新しき村が見られるところがそうであったと言われます。 地形的には、小丸川が極端に迂曲(うきょく)したところに、鹿遊連峰の一角が突出した三面に川を巡(めぐ)らし、西隅の一端がわずかに山領に接し、東西200 m、南北350 mの中世山城特有の要害地を形成しています。 前坂展望台から、遠望すると、亀の形に見えることから、「亀城」という別の名称も持っています。
 詳細な発掘調査は実施しておらず、山城としての特徴をつかむには、困難であり、現在でもどの程度が破壊を免れてるかは、不明瞭です。
 合戦については、伊東市一族のものや、長倉勘解由佐衛門尉など普代の衆が石城に立てこもり、島津氏と一戦を交えようとしていました。 そして天正6年(1578年)に島津氏の軍勢が押し寄せ、決戦の時がやってきました。 島津氏は、様々(さまざま)な戦法を駆使し、相手方の家臣などを味方に引き入れようと画策したりしたが、難攻不落の特徴を持ち、また伊東氏には、勇猛な家臣が篭(こも)っており、この壮絶な戦いは3日に及んで繰り広げられました。 その間、数多くの死傷者を出した伊東氏は、ついに石城を捨てることにしました。 ここから、間もなく、大友氏と島津氏が争う高城合戦(高城川合戦)へとつながります。
(長倉勘解由佐衛門尉は伊東の家臣で、木崎原の戦いで伊東が大敗した後、高原城を守りましたが、1576年(天正4年)9月21日に島津の攻撃を受けて開城しました。 1577年(天正5年)の伊東の豊後(大分県)への退去(米良越えをして)に同行しました。 1577年(天正5年)に旧伊東領を奪回しようと三納(西都市)で一揆(いっき)を起こしました。 綾城へ放火し、伊東48城の旧家臣を集めて一揆を起こして都於郡城(とのこおりじょう、西都市)を攻撃しましたが、成功しませんでした。 天正5年9月に大友が日向に侵攻したときに、呼応して石城(木城町)に敗残の伊東旧家臣を集めて立て篭(こ)もりました。 石城の戦いは天正6年7月(旧暦)に島津が押し寄せ3日間続きました。 伊東は石城を捨てました。 引き続いて、高城川合戦(高城合戦、耳川の戦い)で島津と戦いましたが、長倉勘解由佐衛門尉は次男 六郎太郎と共に自害しました。)

 「ピノッQパーク」は宮崎県 木城町 石河内にあります。
九州電力がつくった小丸川発電所展示館、芝生に遊具がある公園からなっています。

 「旧 石河内小学校」: 2012年(平成24年)3月31日に石河内小学校は閉校となりました。 同校は1887年(明治20年)に開校し、125年間に1676人の卒業生を出しました。 近年は児童数が減少し、最後の年は4人の学童がいました。 在学中の児童は4月から木城小学校に通うことになりました。


写真A: 宮崎県 木城町 石河内にある小丸川の「川原ダム(浜口ダム)」です。 ダムの左の小さな山の上には、大正7年に武者小路実篤(むしゃのこうじさねあつ)が造った「新しき村 (日向新しき村)」があります。 ここの「新しき村」が第一の新しき村です。
後年、実篤は村を離れました。 昭和13年に小丸川のダム建設(川原ダム(浜口ダム))のため村人の多くは埼玉県の「第二の新しき村」に移住しました。 ここの第一の「新しき村」 (日向新しき村)は実篤の前夫人房子さんたちが続けました。 実篤の精神は現在まで受け継がれています。
武者小路実篤(1885年〜1979年)は東京生まれで、東京帝大中退し文学に進みました。 文芸誌「白樺」創刊同人。 33歳の時「新しき村」を提唱し建設の地を宮崎県 木城町 石河内に決めました。 40歳の時、一村外会員となり、生涯新しき村の存続に尽力(じんりょく)しました。 昭和14年、埼玉県 毛呂山町に第二の新しき村(東の新しき村)を建設しました。 平成20年、毛呂山町と木城町は「友情都市」となりました。
前坂展望台(石河内展望台)の詩碑(しひ)には「山と山とが賛嘆しあうように 星と星とが賛嘆しあうように 人間と人間とが賛嘆しあいたいものだ 昭和四十三年 武者小路実篤」と彫(ほ)られています。
奥の山は尾鈴山脈の山です。



写真B: 左端は小丸川の「川原ダム(浜口ダム)」。 県道22号線のそばにあります。 手前に行くと木城町の中心部、先に行くと石河内の町並み、中之又、東郷町に行きます。
奥の山は尾鈴山脈の山です。



写真C: 小丸川の「川原ダム(浜口ダム)」の周(まわ)りの景色。
奥の山は尾鈴山脈の山です。



写真D: 小丸川の「川原ダム(浜口ダム)」の周(まわ)りの様子。



写真E: 小丸川の「川原ダム(浜口ダム)」のそばの景色。



写真F: 小丸川の「川原ダム(浜口ダム)」のそばの様子(ようす)。



写真G: 小丸川の「川原ダム(浜口ダム)」のそばの様子(ようす)。



写真H: 「川原ダム(浜口ダム)」のそばの小丸川の様子(ようす)。



写真I: 小丸川の「川原ダム(浜口ダム)」。



写真J: 左手前は県道19号線、ガードレールが見えているところは県道22号線です。 ここは三叉路(さんさろ)になっています。 奥には川原ダムがあります。 手前に行くと坂を登って「前坂展望台(石河内展望台)」があります。 そこからは新しき村、石河内地区が見渡せます。 さらに進むと小屋町峠をへて木城町高城に行きます。



写真K: ダム湖のそばの三叉路(さんさろ)。 手前は県道19号線、ガードレールが見えているところは県道22号線です。 奥には川原ダムがあります。
右の手前の山に「新しき村」があります。



写真L: この三叉路には黄花コスモスがありました。 左手前の山に武者小路実篤の「新しき村」があります。



写真M: 「木城えほんの郷→」、「川原キャンプ場←」と書いてある看板(かんばん)があります。



写真N: 小丸川にある川原ダムのダム湖です。 奥に川原ダムが見えています。 右手前の山に「日向新しき村(第一新しき村)」があります。
手前に葛(くず)の花と葉が見えます。



写真O: 川原ダムとダム湖。 右は新しき村の一部です。
手前に葛(クズ)の紫色の花が見えています。



写真P: 先に行くとえほんの郷、石河内小学校、新しき村やピノッQパークに行く中八重橋など石河内の中心部があります。 さらに先に行くと中之又、東郷町に行きます。



写真Q: 右に行くと、坂を登って「前坂展望台(石河内展望台)」があります。 そこからは新しき村、石河内地区が見渡せます。 さらに進むと小屋町峠をへて木城町高城に行きます。



写真R: 「武者小路実篤 文学ロード 木城町、この道を歩く、主要地方道 東郷・西都線 開通 2002年2月」と書いてある標識棒が三叉路にあります。 下にアジサイが植えてあります。



写真S: 「武者小路実篤 文学ロード 木城町、この道を歩く、主要地方道 東郷・西都線 開通 2002年2月」と書いてある標識棒が三叉路にあります。 アジサイが植えてあります。



写真T: 「武者小路実篤 文学ロード 木城町、この道を歩く、主要地方道 東郷・西都線 開通 2002年2月」と書いてある標識棒が三叉路にあります。 アジサイが植えてあります。



写真U: 県道22号線。 先に行くと木城町の中心部があります。



写真V: 右に行くと、前坂展望台があります。



写真W: 県道22号線。 先に行くと石河内の中心部を経(へ)て中之又、東郷町に行きます。



写真X: 小丸川の水面も見えます。



写真Y: 川原ダム湖が見えます。 手前は茶畑。



写真Z: 川原ダム湖が見えます。 手前は茶畑。



写真AA: 「いしかわうちはし 平成13年7月竣工」と彫(ほ)ってある橋の石。



写真AB: 「いしかわうちはし 平成13年7月竣工」と彫(ほ)ってある橋の石。



写真AC: 県道22号線。 先に行くと石河内の中心部を経(へ)て、中之又、東郷町に行きます。 左に鹿遊連山(かなすみれんざん)が見えます。 人家も見えます。 三角形の建物も見えています。



写真AD: 左に鹿遊連山(かなすみれんざん)が見えます。 人家も見えます。 三角形の建物も見えています。



写真AE: 三叉路(さんさろ)に黄花コスモスが咲いていました。



写真AF: 旧道です。 「日向新しき村 これより2.5 km、木城町 木城町観光協会」と書いてある看板(かんばん)があります。



写真AG: 県道19号線。 この坂道を登って前坂展望台(石河内展望台)に行きます。 そこからは新しき村、石河内が展望できます。
さらに先に進むと小野町峠をへて木城町 高城に行きます。



写真AH: 前坂展望台(石河内展望台)の駐車場です。 鹿遊連山(かなすみれんざん)が見えています。



写真AI: 右に駐車場があります。 鹿遊連山(かなすみれんざん)が見えています。



写真AJ: ここが前坂展望台(石河内展望台)です。 とんがり屋根の休息所が見えます。 その左に武者小路実篤の詩碑があります。



写真AK: 前坂展望台(石河内展望台)から見た景色。 鹿遊連山(かなすみれんざん)が見えています。 「自分たちは峠の上から見下ろした。 喜んだ。 あそこが我等の仕事の第一の根を張る處(ところ)だ。 幸いあれ。」 小説「土地」 (武者小路実篤35歳)から。



写真AL: 前坂展望台(石河内展望台)から。 木城町 石河内の中心部が見えます。



写真AM: 前坂展望台(石河内展望台)からの様子(ようす)。



写真AN: 前坂展望台(石河内展望台)からの眺望。



写真AO: 宮崎県 木城町 石河内にある前坂展望台(石河内展望台)。 ベンチもあります。



写真AP: 県道19号線。 前坂展望台のところでヘアピンカーブになっています。



写真AQ: 県道19号線。 前坂展望台のところでヘアピンカーブになっています。



写真AR: 「自分たちは峠の上から見下ろした。 喜んだ。 あそこが我等の仕事の第一の根を張る處(ところ)だ。 幸いあれ。」 小説「土地」 (武者小路実篤35歳)から。



写真AS: 「自分たちは峠の上から見下ろした。 喜んだ。 あそこが我等の仕事の第一の根を張る處(ところ)だ。 幸いあれ。」 小説「土地」 (武者小路実篤35歳)から。
前坂展望台(石河内展望台)から見た「新しき村(第一新しき村、日向新しき村)」です。 鹿遊連山が小丸川に半島のように突き出たところが「新しき村」です。 その場所は戦国時代に石城(いしじょう)という城がありました。 (新しき村は大正7年11月14日に開村しました。 その後、第2夫人に実篤の長女が新しき村で生まれ、実篤はこの新しき村を出て(大正12年)、奈良県に住みました。) 稲が育っていました(水田)。 水田の左に新しき村の人家が見えます。
3家族4人の方が新しき村で生活していらっしゃいます。 そこには武者小路実篤記念館もあります。 水田の右の木立に屋根が少し見えている建物が武者小路実篤記念館です。
「新しき村」は小丸川の右岸(川下を見て右)にあります。



写真AT: 「自分たちは峠の上から見下ろした。 喜んだ。 あそこが我等の仕事の第一の根を張る處(ところ)だ。 幸いあれ。」 小説「土地」 (武者小路実篤35歳)から。
鹿遊連山(かなすみれんざん)に「新しき村」はあります。
前坂展望台(石河内展望台)から見た「新しき村(第一新しき村、日向新しき村)」です。 鹿遊連山が小丸川に半島のように突き出たところが「新しき村」です。 その場所は戦国時代に石城(いしじょう)という城がありました。 稲が育っていました(水田)。 水田の左に新しき村の人家が見えます。
3家族4人の方が新しき村で生活していらっしゃいます。 そこには武者小路実篤記念館もあります。 水田の右の木立に屋根が少し見えている建物が武者小路実篤記念館です。



写真AU: 前坂展望台(石河内展望台)から見た木城町 石河内の中心部。 右に石河内小学校、木城えほんの郷、茶色の屋根の体育館型 石河内へき地集会室、左寄の高台にピノッQパーク、左端近くに小丸川、中央に県道22号線が見えています。



写真AV: 前坂展望台(石河内展望台)から見た木城町 石河内の中心部。 右に石河内小学校、木城えほんの郷、茶色の屋根の体育館型 石河内へき地集会室、田んぼなどが見えます。



写真AW: 前坂展望台(石河内展望台)から見た木城町 石河内の中心部。 高台にピノッQパーク、左端近くに小丸川、中央に県道22号線が見えています。 左右に田んぼが見えています。



写真AX: 左に小丸川、右上にピノッQパーク、その下に県道22号線が見えます。



写真AY: 小丸川の左岸(下流を見て左)の山にある県道19号線沿(ぞ)いの前坂展望台(石河内展望台)。



写真AZ: 「武者小路実篤文学碑←」と書いてある看板(かんばん)があります。



写真BA: 「日本の文化 緑と水を大切に、緑資源を守る会」と書いてある木の棒があります。



写真BB: 「日本の文化 緑と水を大切に、緑資源を守る会」と書いてある木の棒があります。 その下に「武者小路実篤文学碑←」と書いてある看板(かんばん)があります。



写真BC: 「自分たちは峠の上から見下ろした。 喜んだ。 あそこが我等の仕事の第一の根を張る處(ところ)だ。 幸いあれ。」 小説「土地」 (武者小路実篤35歳)から。
「新しき村」は小丸川がU字型に曲がったところにあります。 鹿遊連山の半島のようになった所に黄緑の平地が見えます。 そこが「新しき村」です。
そばに川原ダムがあります。 ひだりは前坂展望台です。



写真BD: 左端に「新しき村」があります。 木城町 石河内の中心部が見えます。



写真BE: 前坂展望台からの景色。 左に石河内小学校が見えます。



写真BF: 前坂展望台からの景色。



写真BG: 前坂展望台からの景色。 ここは県道19号線がU字型に曲がっています。



写真BH: 「自分たちは峠の上から見下ろした。 喜んだ。 あそこが我等の仕事の第一の根を張る處(ところ)だ。 幸いあれ。」 小説「土地」 (武者小路実篤35歳)から。
右上の緑の平地が「新しき村」です。 (新しき村は大正7年11月14日に開村しました(武者小路実篤 33歳、実篤の夫人 房子 26歳)。 その後、第2夫人に実篤の長女が新しき村で生まれ、実篤はこの新しき村を出て(大正12年)、奈良県に住みました。) 人家も見えます。 その下に小丸川の川原ダムが見えます。 左端は前坂展望台の休息所。



写真BI: 「自分たちは峠の上から見下ろした。 喜んだ。 あそこが我等の仕事の第一の根を張る處(ところ)だ。 幸いあれ。」 小説「土地」 (武者小路実篤35歳)から。
鹿遊連山(かなすみれんざん)に「新しき村」はあります。
前坂展望台(石河内展望台)から見た「新しき村(第一新しき村、日向新しき村)」です。 鹿遊連山が小丸川に半島のように突き出たところが「新しき村」です。 その場所は戦国時代に石城(いしじょう)という城がありました。 稲が育っていました(水田)。 水田の左に新しき村の人家が見えます。
3家族4人の方が新しき村で生活していらっしゃいます。 そこには武者小路実篤記念館もあります。 水田の右の木立に屋根が少し見えている建物が武者小路実篤記念館です。
左下に川原ダムが見えます。



写真BJ: 「自分たちは峠の上から見下ろした。 喜んだ。 あそこが我等の仕事の第一の根を張る處(ところ)だ。 幸いあれ。」 小説「土地」 (武者小路実篤35歳)から。
下の黄緑の平地が「新しき村」です。 鹿遊連山(かなすみれんざん)の様子がよくわかります。 鹿遊連山は小丸川の右岸(下流を見て右)にあります。



写真BK: 前坂展望台から見た小丸川と木城町 石河内の建物。 右上はピノッQパークです。 手前に三角形の建物も見えます。 その少し先に「郷の駅 石河内」も見えています。 水田、県道22号線も見えます。



写真BL: 前坂展望所から見た石河内の中心部。 ピノッQパーク、「郷の駅 石河内」、送電線なども見えます。



写真BM: 前坂展望所から見た石河内の中心部。 右の建物は石河内小学校、その奥に「えほんの郷」、左に茶色の屋根の体育館型 石河内へき地集会室、その右の茶色の屋根の公営住宅も見えます。
奥の山は尾鈴山脈の山です。



写真BN: 前坂展望台(石河内展望台)の詩碑(しひ)には「山と山とが賛嘆しあうように 星と星とが賛嘆しあうように 人間と人間とが賛嘆しあいたいものだ 昭和四十三年 武者小路実篤」と彫(ほ)られています。



写真BO: 前坂展望台(石河内展望台)の詩碑(しひ)には「山と山とが賛嘆しあうように 星と星とが賛嘆しあうように 人間と人間とが賛嘆しあいたいものだ 昭和四十三年 武者小路実篤」と彫(ほ)られています。



写真BP: 前坂展望台(石河内展望台)の詩碑(しひ)には「山と山とが賛嘆しあうように 星と星とが賛嘆しあうように 人間と人間とが賛嘆しあいたいものだ 昭和四十三年 武者小路実篤」と彫(ほ)られています。



写真BQ: 武者小路実篤の文学碑から見た景色と前坂展望所の駐車場。
奥の山は尾鈴山脈の山です。



写真BR: 前坂展望所(石河内展望所)。 宮崎県 木城町 石河内にあります。
奥の山は尾鈴山脈の山です。



写真BS: 前坂展望所(石河内展望所)。 木城町 石河内にあります。



写真BT: 前坂展望所(石河内展望所)。 石河内にあります。



写真BU: 前坂展望所(石河内展望所)。 木城町 石河内にあります。



写真BV: 前坂展望所にある「日向新しき村、郷の駅 石河内、木城えほんの郷」の説明板。
<日向新しき村>
 日向国児湯郡木城村石河内字城。 之が私達の最初に住む土地の名称です。 字を城と云ふのは昔の城あとだからです。 実篤(さねあつ)。
大正7年秋、武者小路実篤(1885年〜1976年)が、「自他全生」、仕事と生命を尊重しつつ美・愛・真の人生を探求することを理想とし、共鳴する同志会員達と共に創始しました。 後に埼玉県に「東の新しき村」が建設され、当地は「日向新しき村」と呼ばれており、両村とも財団法人となっています。
<郷の駅石河内>
 施設内には、自分で打ったそばを食べられるそば打ち体験道場、手打ちそばや、山菜弁当など石河内の味が楽しめる鹿遊(かなすみ)茶屋があり、石河内の特産品の販売も行っています。
<木城えほんの郷>
 ここには世界の色とりどりの絵本や絵本原画を展示している森のえほん館、自然の素材を使った手作り遊びや絵本の販売をしている森のきこり館、森の芝居小屋、森のコテージなどの施設が点在しています。 星空や月明かりのもと、演劇や音楽を楽しむ日もあり、自然の中でゆったりとした時間を過ごせる郷です。
と書かれています。



写真BW: 前坂展望所にある「日向新しき村、郷の駅 石河内、木城えほんの郷」の説明板。
<日向新しき村>
 日向国児湯郡木城村石河内字城。 之が私達の最初に住む土地の名称です。 字を城と云ふのは昔の城あとだからです。 実篤(さねあつ)。
大正7年秋、武者小路実篤(1885年〜1976年)が、「自他全生」、仕事と生命を尊重しつつ美・愛・真の人生を探求することを理想とし、共鳴する同志会員達と共に創始しました。 後に埼玉県に「東の新しき村」が建設され、当地は「日向新しき村」と呼ばれており、両村とも財団法人となっています。
<郷の駅石河内>
 施設内には、自分で打ったそばを食べられるそば打ち体験道場、手打ちそばや、山菜弁当など石河内の味が楽しめる鹿遊(かなすみ)茶屋があり、石河内の特産品の販売も行っています。
<木城えほんの郷>
 ここには世界の色とりどりの絵本や絵本原画を展示している森のえほん館、自然の素材を使った手作り遊びや絵本の販売をしている森のきこり館、森の芝居小屋、森のコテージなどの施設が点在しています。 星空や月明かりのもと、演劇や音楽を楽しむ日もあり、自然の中でゆったりとした時間を過ごせる郷です。
と書かれています。



写真BX: 前坂展望所にある「日向新しき村、郷の駅 石河内、木城えほんの郷」の説明板。
<日向新しき村>
 日向国児湯郡木城村石河内字城。 之が私達の最初に住む土地の名称です。 字を城と云ふのは昔の城あとだからです。 実篤(さねあつ)。
大正7年秋、武者小路実篤(1885年〜1976年)が、「自他全生」、仕事と生命を尊重しつつ美・愛・真の人生を探求することを理想とし、共鳴する同志会員達と共に創始しました。 後に埼玉県に「東の新しき村」が建設され、当地は「日向新しき村」と呼ばれており、両村とも財団法人となっています。
<郷の駅石河内>
 施設内には、自分で打ったそばを食べられるそば打ち体験道場、手打ちそばや、山菜弁当など石河内の味が楽しめる鹿遊(かなすみ)茶屋があり、石河内の特産品の販売も行っています。
<木城えほんの郷>
 ここには世界の色とりどりの絵本や絵本原画を展示している森のえほん館、自然の素材を使った手作り遊びや絵本の販売をしている森のきこり館、森の芝居小屋、森のコテージなどの施設が点在しています。 星空や月明かりのもと、演劇や音楽を楽しむ日もあり、自然の中でゆったりとした時間を過ごせる郷です。
と書かれています。



写真BY: 前坂展望所にある「日向新しき村、郷の駅 石河内、木城えほんの郷」の説明板。
<日向新しき村>
 日向国児湯郡木城村石河内字城。 之が私達の最初に住む土地の名称です。 字を城と云ふのは昔の城あとだからです。 実篤(さねあつ)。
大正7年秋、武者小路実篤(1885年〜1976年)が、「自他全生」、仕事と生命を尊重しつつ美・愛・真の人生を探求することを理想とし、共鳴する同志会員達と共に創始しました。 後に埼玉県に「東の新しき村」が建設され、当地は「日向新しき村」と呼ばれており、両村とも財団法人となっています。
<郷の駅石河内>
 施設内には、自分で打ったそばを食べられるそば打ち体験道場、手打ちそばや、山菜弁当など石河内の味が楽しめる鹿遊(かなすみ)茶屋があり、石河内の特産品の販売も行っています。
<木城えほんの郷>
 ここには世界の色とりどりの絵本や絵本原画を展示している森のえほん館、自然の素材を使った手作り遊びや絵本の販売をしている森のきこり館、森の芝居小屋、森のコテージなどの施設が点在しています。 星空や月明かりのもと、演劇や音楽を楽しむ日もあり、自然の中でゆったりとした時間を過ごせる郷です。
と書かれています。



写真BZ: 「伊東氏48城における石城について」の説明板。
 県内における戦国時代に名高い、高城合戦では、大友氏と島津氏による壮絶な戦いが繰り広げられましたが、それ以前は、伊東氏が日向国における権力を誇示していました。 この伊東氏が、島津氏と凌(しの)ぎを削(けず)り、抗争を繰り広げられた南北朝期から戦国時代中頃の山城(やまじろ)が石城(いしじょう)であります。
 日向国における伊東氏の支配体制は本部基地の役割を果すべく、西都市の都於郡城(とのこおりじょう)を本城として10〜15 km内外の間隔で、出城(でじろ)を県内に48ヶ所構え、戦乱時および領内の統治体制を作りました。 これは、日向48城といわれ、北は門川城(門川町)で県(延岡市)の土持氏(つちもちし)と境を接し、南は飫肥酒谷城(日南市)と田野城(田野町)、西南は三之山城(小林市)で、南の島津氏と接していました。 児湯郡内においては、都於郡本城の他、三納城(西都市)、穂北城(西都市)、富田城(新富町)、財部城(高鍋町)、そして本町内にある高城とこの石城です。
 石城は、ここ石河内(いしがわち)に位置し、あの武者小路実篤が理想郷とした、日向新しき村が見られるところがそうであったと言われます。 地形的には、小丸川が極端に迂曲(うきょく)したところに、鹿遊連峰の一角が突出した三面に川を巡(めぐ)らし、西隅の一端がわずかに山領に接し、東西200 m、南北350 mの中世山城特有の要害地を形成しています。 この展望台から、遠望すると、亀の形に見えることから、「亀城」という別の名称も持っています。
 詳細な発掘調査は実施しておらず、山城としての特徴をつかむには、困難であり、現在でもどの程度が破壊を免れてるかは、不明瞭です。
 合戦については、伊東市一族のものや、長倉勘解由佐衛門尉など普代の衆が石城に立てこもり、島津氏と一戦を交えようとしていました。 そして天正6年(1578年)に島津氏の軍勢が押し寄せ、決戦の時がやってきました。 島津氏は、様々(さまざま)な戦法を駆使し、相手方の家臣などを味方に引き入れようと画策したりしたが、難攻不落の特徴を持ち、また伊東氏には、勇猛な家臣が篭(こも)っており、この壮絶な戦いは3日に及んで繰り広げられました。 その間、数多くの死傷者を出した伊東氏は、ついに石城を捨てることにしました。 ここから、間もなく、大友氏と島津氏が争う高城合戦(高城川合戦)へとつながります。
平成14年 木城町教育委員会
石城の想像図 (新納仁著「山と川と城と」より抜粋)
と書かれています。
 「石城」は南北朝時代に築城されました。 伊東48城の一つで、城主には長友源次郎がいました。 豊後(大分県)の大友宗麟(おおともそうりん)が日向侵攻したとき(耳川の戦い(高城川合戦、高城合戦))に長倉勘解由佐衛門尉など伊東の旧家臣が石城に立てこもりました。 天正6年(1578年)に島津の軍勢が押し寄せました。 壮絶な戦いが3日続きました。 多くの死傷者を出した伊東は石城を捨てました。 まもなく大友と島津の天正6年(1578年)に起こった高城合戦(高城川合戦、耳川の戦い)が始まり島津が大勝しました。
(長倉勘解由佐衛門尉は伊東の家臣で、木崎原の戦いで伊東が大敗した後、高原城を守りましたが、1576年(天正4年)9月21日に島津の攻撃を受けて開城しました。 1577年(天正5年)の伊東の豊後(大分県)への退去(米良越えをして)に同行しました。 1577年(天正5年)に旧伊東領を奪回しようと三納(西都市)で一揆(いっき)を起こしました。 綾城へ放火し、伊東48城の旧家臣を集めて一揆を起こして都於郡城(とのこおりじょう、西都市)を攻撃しましたが、成功しませんでした。 天正5年9月に大友が日向に侵攻したときに、呼応して石城(木城町)に敗残の伊東旧家臣を集めて立て篭(こ)もりました。 石城の戦いは天正6年7月(旧暦)に島津が押し寄せ3日間続きました。 伊東は石城を捨てました。 引き続いて、高城川合戦(高城合戦、耳川の戦い)で島津と戦いましたが、長倉勘解由佐衛門尉は次男 六郎太郎と共に自害しました。)



写真CA: 「伊東氏48城における石城について」の説明板。
 県内における戦国時代に名高い、高城合戦では、大友氏と島津氏による壮絶な戦いが繰り広げられましたが、それ以前は、伊東氏が日向国における権力を誇示していました。 この伊東氏が、島津氏と凌(しの)ぎを削(けず)り、抗争を繰り広げられた南北朝期から戦国時代中頃の山城(やまじろ)が石城(いしじょう)であります。
 日向国における伊東氏の支配体制は本部基地の役割を果すべく、西都市の都於郡城(とのこおりじょう)を本城として10〜15 km内外の間隔で、出城(でじろ)を県内に48ヶ所構え、戦乱時および領内の統治体制を作りました。 これは、日向48城といわれ、北は門川城(門川町)で県(延岡市)の土持氏(つちもちし)と境を接し、南は飫肥酒谷城(日南市)と田野城(田野町)、西南は三之山城(小林市)で、南の島津氏と接していました。 児湯郡内においては、都於郡本城の他、三納城(西都市)、穂北城(西都市)、富田城(新富町)、財部城(高鍋町)、そして本町内にある高城とこの石城です。
 石城は、ここ石河内(いしがわち)に位置し、あの武者小路実篤が理想郷とした、日向新しき村が見られるところがそうであったと言われます。 地形的には、小丸川が極端に迂曲(うきょく)したところに、鹿遊連峰の一角が突出した三面に川を巡(めぐ)らし、西隅の一端がわずかに山領に接し、東西200 m、南北350 mの中世山城特有の要害地を形成しています。 この展望台から、遠望すると、亀の形に見えることから、「亀城」という別の名称も持っています。
 詳細な発掘調査は実施しておらず、山城としての特徴をつかむには、困難であり、現在でもどの程度が破壊を免れてるかは、不明瞭です。
 合戦については、伊東市一族のものや、長倉勘解由佐衛門尉など普代の衆が石城に立てこもり、島津氏と一戦を交えようとしていました。 そして天正6年(1578年)に島津氏の軍勢が押し寄せ、決戦の時がやってきました。 島津氏は、様々(さまざま)な戦法を駆使し、相手方の家臣などを味方に引き入れようと画策したりしたが、難攻不落の特徴を持ち、また伊東氏には、勇猛な家臣が篭(こも)っており、この壮絶な戦いは3日に及んで繰り広げられました。 その間、数多くの死傷者を出した伊東氏は、ついに石城を捨てることにしました。 ここから、間もなく、大友氏と島津氏が争う高城合戦(高城川合戦)へとつながります。
平成14年 木城町教育委員会
石城の想像図 (新納仁著「山と川と城と」より抜粋)
と書かれています。
 「石城」は南北朝時代に築城されました。 伊東48城の一つで、城主には長友源次郎がいました。 豊後(大分県)の大友宗麟(おおともそうりん)が日向侵攻したとき(耳川の戦い(高城川合戦、高城合戦))に長倉勘解由佐衛門尉など伊東の旧家臣が石城に立てこもりました。 天正6年(1578年)に島津の軍勢が押し寄せました。 壮絶な戦いが3日続きました。 多くの死傷者を出した伊東は石城を捨てました。 まもなく大友と島津の天正6年(1578年)に起こった高城合戦(高城川合戦、耳川の戦い)が始まり島津が大勝しました。
(長倉勘解由佐衛門尉は伊東の家臣で、木崎原の戦いで伊東が大敗した後、高原城を守りましたが、1576年(天正4年)9月21日に島津の攻撃を受けて開城しました。 1577年(天正5年)の伊東の豊後(大分県)への退去(米良越えをして)に同行しました。 1577年(天正5年)に旧伊東領を奪回しようと三納(西都市)で一揆(いっき)を起こしました。 綾城へ放火し、伊東48城の旧家臣を集めて一揆を起こして都於郡城(とのこおりじょう、西都市)を攻撃しましたが、成功しませんでした。 天正5年9月に大友が日向に侵攻したときに、呼応して石城(木城町)に敗残の伊東旧家臣を集めて立て篭(こ)もりました。 石城の戦いは天正6年7月(旧暦)に島津が押し寄せ3日間続きました。 伊東は石城を捨てました。 引き続いて、高城川合戦(高城合戦、耳川の戦い)で島津と戦いましたが、長倉勘解由佐衛門尉は次男 六郎太郎と共に自害しました。)



写真CB: 「伊東氏48城における石城について」の説明板。
 県内における戦国時代に名高い、高城合戦では、大友氏と島津氏による壮絶な戦いが繰り広げられましたが、それ以前は、伊東氏が日向国における権力を誇示していました。 この伊東氏が、島津氏と凌(しの)ぎを削(けず)り、抗争を繰り広げられた南北朝期から戦国時代中頃の山城(やまじろ)が石城(いしじょう)であります。
 日向国における伊東氏の支配体制は本部基地の役割を果すべく、西都市の都於郡城(とのこおりじょう)を本城として10〜15 km内外の間隔で、出城(でじろ)を県内に48ヶ所構え、戦乱時および領内の統治体制を作りました。 これは、日向48城といわれ、北は門川城(門川町)で県(延岡市)の土持氏(つちもちし)と境を接し、南は飫肥酒谷城(日南市)と田野城(田野町)、西南は三之山城(小林市)で、南の島津氏と接していました。 児湯郡内においては、都於郡本城の他、三納城(西都市)、穂北城(西都市)、富田城(新富町)、財部城(高鍋町)、そして本町内にある高城とこの石城です。
 石城は、ここ石河内(いしがわち)に位置し、あの武者小路実篤が理想郷とした、日向新しき村が見られるところがそうであったと言われます。 地形的には、小丸川が極端に迂曲(うきょく)したところに、鹿遊連峰の一角が突出した三面に川を巡(めぐ)らし、西隅の一端がわずかに山領に接し、東西200 m、南北350 mの中世山城特有の要害地を形成しています。 この展望台から、遠望すると、亀の形に見えることから、「亀城」という別の名称も持っています。
 詳細な発掘調査は実施しておらず、山城としての特徴をつかむには、困難であり、現在でもどの程度が破壊を免れてるかは、不明瞭です。
 合戦については、伊東市一族のものや、長倉勘解由佐衛門尉など普代の衆が石城に立てこもり、島津氏と一戦を交えようとしていました。 そして天正6年(1578年)に島津氏の軍勢が押し寄せ、決戦の時がやってきました。 島津氏は、様々(さまざま)な戦法を駆使し、相手方の家臣などを味方に引き入れようと画策したりしたが、難攻不落の特徴を持ち、また伊東氏には、勇猛な家臣が篭(こも)っており、この壮絶な戦いは3日に及んで繰り広げられました。 その間、数多くの死傷者を出した伊東氏は、ついに石城を捨てることにしました。 ここから、間もなく、大友氏と島津氏が争う高城合戦(高城川合戦)へとつながります。
平成14年 木城町教育委員会
石城の想像図 (新納仁著「山と川と城と」より抜粋)
と書かれています。
 「石城」は南北朝時代に築城されました。 伊東48城の一つで、城主には長友源次郎がいました。 豊後(大分県)の大友宗麟(おおともそうりん)が日向侵攻したとき(耳川の戦い(高城川合戦、高城合戦))に長倉勘解由佐衛門尉など伊東の旧家臣が石城に立てこもりました。 天正6年(1578年)に島津の軍勢が押し寄せました。 壮絶な戦いが3日続きました。 多くの死傷者を出した伊東は石城を捨てました。 まもなく大友と島津の天正6年(1578年)に起こった高城合戦(高城川合戦、耳川の戦い)が始まり島津が大勝しました。
(長倉勘解由佐衛門尉は伊東の家臣で、木崎原の戦いで伊東が大敗した後、高原城を守りましたが、1576年(天正4年)9月21日に島津の攻撃を受けて開城しました。 1577年(天正5年)の伊東の豊後(大分県)への退去(米良越えをして)に同行しました。 1577年(天正5年)に旧伊東領を奪回しようと三納(西都市)で一揆(いっき)を起こしました。 綾城へ放火し、伊東48城の旧家臣を集めて一揆を起こして都於郡城(とのこおりじょう、西都市)を攻撃しましたが、成功しませんでした。 天正5年9月に大友が日向に侵攻したときに、呼応して石城(木城町)に敗残の伊東旧家臣を集めて立て篭(こ)もりました。 石城の戦いは天正6年7月(旧暦)に島津が押し寄せ3日間続きました。 伊東は石城を捨てました。 引き続いて、高城川合戦(高城合戦、耳川の戦い)で島津と戦いましたが、長倉勘解由佐衛門尉は次男 六郎太郎と共に自害しました。)



写真CC: 「伊東氏48城における石城について」の説明板。
 県内における戦国時代に名高い、高城合戦では、大友氏と島津氏による壮絶な戦いが繰り広げられましたが、それ以前は、伊東氏が日向国における権力を誇示していました。 この伊東氏が、島津氏と凌(しの)ぎを削(けず)り、抗争を繰り広げられた南北朝期から戦国時代中頃の山城(やまじろ)が石城(いしじょう)であります。
 日向国における伊東氏の支配体制は本部基地の役割を果すべく、西都市の都於郡城(とのこおりじょう)を本城として10〜15 km内外の間隔で、出城(でじろ)を県内に48ヶ所構え、戦乱時および領内の統治体制を作りました。 これは、日向48城といわれ、北は門川城(門川町)で県(延岡市)の土持氏(つちもちし)と境を接し、南は飫肥酒谷城(日南市)と田野城(田野町)、西南は三之山城(小林市)で、南の島津氏と接していました。 児湯郡内においては、都於郡本城の他、三納城(西都市)、穂北城(西都市)、富田城(新富町)、財部城(高鍋町)、そして本町内にある高城とこの石城です。
 石城は、ここ石河内(いしがわち)に位置し、あの武者小路実篤が理想郷とした、日向新しき村が見られるところがそうであったと言われます。 地形的には、小丸川が極端に迂曲(うきょく)したところに、鹿遊連峰の一角が突出した三面に川を巡(めぐ)らし、西隅の一端がわずかに山領に接し、東西200 m、南北350 mの中世山城特有の要害地を形成しています。 この展望台から、遠望すると、亀の形に見えることから、「亀城」という別の名称も持っています。
 詳細な発掘調査は実施しておらず、山城としての特徴をつかむには、困難であり、現在でもどの程度が破壊を免れてるかは、不明瞭です。
 合戦については、伊東市一族のものや、長倉勘解由佐衛門尉など普代の衆が石城に立てこもり、島津氏と一戦を交えようとしていました。 そして天正6年(1578年)に島津氏の軍勢が押し寄せ、決戦の時がやってきました。 島津氏は、様々(さまざま)な戦法を駆使し、相手方の家臣などを味方に引き入れようと画策したりしたが、難攻不落の特徴を持ち、また伊東氏には、勇猛な家臣が篭(こも)っており、この壮絶な戦いは3日に及んで繰り広げられました。 その間、数多くの死傷者を出した伊東氏は、ついに石城を捨てることにしました。 ここから、間もなく、大友氏と島津氏が争う高城合戦(高城川合戦)へとつながります。
平成14年 木城町教育委員会
石城の想像図 (新納仁著「山と川と城と」より抜粋)
と書かれています。
 「石城」は南北朝時代に築城されました。 伊東48城の一つで、城主には長友源次郎がいました。 豊後(大分県)の大友宗麟(おおともそうりん)が日向侵攻したとき(耳川の戦い(高城川合戦、高城合戦))に長倉勘解由佐衛門尉など伊東の旧家臣が石城に立てこもりました。 天正6年(1578年)に島津の軍勢が押し寄せました。 壮絶な戦いが3日続きました。 多くの死傷者を出した伊東は石城を捨てました。 まもなく大友と島津の天正6年(1578年)に起こった高城合戦(高城川合戦、耳川の戦い)が始まり島津が大勝しました。
(長倉勘解由佐衛門尉は伊東の家臣で、木崎原の戦いで伊東が大敗した後、高原城を守りましたが、1576年(天正4年)9月21日に島津の攻撃を受けて開城しました。 1577年(天正5年)の伊東の豊後(大分県)への退去(米良越えをして)に同行しました。 1577年(天正5年)に旧伊東領を奪回しようと三納(西都市)で一揆(いっき)を起こしました。 綾城へ放火し、伊東48城の旧家臣を集めて一揆を起こして都於郡城(とのこおりじょう、西都市)を攻撃しましたが、成功しませんでした。 天正5年9月に大友が日向に侵攻したときに、呼応して石城(木城町)に敗残の伊東旧家臣を集めて立て篭(こ)もりました。 石城の戦いは天正6年7月(旧暦)に島津が押し寄せ3日間続きました。 伊東は石城を捨てました。 引き続いて、高城川合戦(高城合戦、耳川の戦い)で島津と戦いましたが、長倉勘解由佐衛門尉は次男 六郎太郎と共に自害しました。)



写真CD: 「伊東氏48城における石城について」の説明板。
 県内における戦国時代に名高い、高城合戦では、大友氏と島津氏による壮絶な戦いが繰り広げられましたが、それ以前は、伊東氏が日向国における権力を誇示していました。 この伊東氏が、島津氏と凌(しの)ぎを削(けず)り、抗争を繰り広げられた南北朝期から戦国時代中頃の山城(やまじろ)が石城(いしじょう)であります。
 日向国における伊東氏の支配体制は本部基地の役割を果すべく、西都市の都於郡城(とのこおりじょう)を本城として10〜15 km内外の間隔で、出城(でじろ)を県内に48ヶ所構え、戦乱時および領内の統治体制を作りました。 これは、日向48城といわれ、北は門川城(門川町)で県(延岡市)の土持氏(つちもちし)と境を接し、南は飫肥酒谷城(日南市)と田野城(田野町)、西南は三之山城(小林市)で、南の島津氏と接していました。 児湯郡内においては、都於郡本城の他、三納城(西都市)、穂北城(西都市)、富田城(新富町)、財部城(高鍋町)、そして本町内にある高城とこの石城です。
 石城は、ここ石河内(いしがわち)に位置し、あの武者小路実篤が理想郷とした、日向新しき村が見られるところがそうであったと言われます。 地形的には、小丸川が極端に迂曲(うきょく)したところに、鹿遊連峰の一角が突出した三面に川を巡(めぐ)らし、西隅の一端がわずかに山領に接し、東西200 m、南北350 mの中世山城特有の要害地を形成しています。 この展望台から、遠望すると、亀の形に見えることから、「亀城」という別の名称も持っています。
 詳細な発掘調査は実施しておらず、山城としての特徴をつかむには、困難であり、現在でもどの程度が破壊を免れてるかは、不明瞭です。
 合戦については、伊東市一族のものや、長倉勘解由佐衛門尉など普代の衆が石城に立てこもり、島津氏と一戦を交えようとしていました。 そして天正6年(1578年)に島津氏の軍勢が押し寄せ、決戦の時がやってきました。 島津氏は、様々(さまざま)な戦法を駆使し、相手方の家臣などを味方に引き入れようと画策したりしたが、難攻不落の特徴を持ち、また伊東氏には、勇猛な家臣が篭(こも)っており、この壮絶な戦いは3日に及んで繰り広げられました。 その間、数多くの死傷者を出した伊東氏は、ついに石城を捨てることにしました。 ここから、間もなく、大友氏と島津氏が争う高城合戦(高城川合戦)へとつながります。
平成14年 木城町教育委員会
石城の想像図 (新納仁著「山と川と城と」より抜粋)
と書かれています。
 「石城」は南北朝時代に築城されました。 伊東48城の一つで、城主には長友源次郎がいました。 豊後(大分県)の大友宗麟(おおともそうりん)が日向侵攻したとき(耳川の戦い(高城川合戦、高城合戦))に長倉勘解由佐衛門尉など伊東の旧家臣が石城に立てこもりました。 天正6年(1578年)に島津の軍勢が押し寄せました。 壮絶な戦いが3日続きました。 多くの死傷者を出した伊東は石城を捨てました。 まもなく大友と島津の天正6年(1578年)に起こった高城合戦(高城川合戦、耳川の戦い)が始まり島津が大勝しました。
(長倉勘解由佐衛門尉は伊東の家臣で、木崎原の戦いで伊東が大敗した後、高原城を守りましたが、1576年(天正4年)9月21日に島津の攻撃を受けて開城しました。 1577年(天正5年)の伊東の豊後(大分県)への退去(米良越えをして)に同行しました。 1577年(天正5年)に旧伊東領を奪回しようと三納(西都市)で一揆(いっき)を起こしました。 綾城へ放火し、伊東48城の旧家臣を集めて一揆を起こして都於郡城(とのこおりじょう、西都市)を攻撃しましたが、成功しませんでした。 天正5年9月に大友が日向に侵攻したときに、呼応して石城(木城町)に敗残の伊東旧家臣を集めて立て篭(こ)もりました。 石城の戦いは天正6年7月(旧暦)に島津が押し寄せ3日間続きました。 伊東は石城を捨てました。 引き続いて、高城川合戦(高城合戦、耳川の戦い)で島津と戦いましたが、長倉勘解由佐衛門尉は次男 六郎太郎と共に自害しました。)



写真CE: 「伊東氏48城における石城について」の説明板。
 県内における戦国時代に名高い、高城合戦では、大友氏と島津氏による壮絶な戦いが繰り広げられましたが、それ以前は、伊東氏が日向国における権力を誇示していました。 この伊東氏が、島津氏と凌(しの)ぎを削(けず)り、抗争を繰り広げられた南北朝期から戦国時代中頃の山城(やまじろ)が石城(いしじょう)であります。
 日向国における伊東氏の支配体制は本部基地の役割を果すべく、西都市の都於郡城(とのこおりじょう)を本城として10〜15 km内外の間隔で、出城(でじろ)を県内に48ヶ所構え、戦乱時および領内の統治体制を作りました。 これは、日向48城といわれ、北は門川城(門川町)で県(延岡市)の土持氏(つちもちし)と境を接し、南は飫肥酒谷城(日南市)と田野城(田野町)、西南は三之山城(小林市)で、南の島津氏と接していました。 児湯郡内においては、都於郡本城の他、三納城(西都市)、穂北城(西都市)、富田城(新富町)、財部城(高鍋町)、そして本町内にある高城とこの石城です。
 石城は、ここ石河内(いしがわち)に位置し、あの武者小路実篤が理想郷とした、日向新しき村が見られるところがそうであったと言われます。 地形的には、小丸川が極端に迂曲(うきょく)したところに、鹿遊連峰の一角が突出した三面に川を巡(めぐ)らし、西隅の一端がわずかに山領に接し、東西200 m、南北350 mの中世山城特有の要害地を形成しています。 この展望台から、遠望すると、亀の形に見えることから、「亀城」という別の名称も持っています。
 詳細な発掘調査は実施しておらず、山城としての特徴をつかむには、困難であり、現在でもどの程度が破壊を免れてるかは、不明瞭です。
 合戦については、伊東市一族のものや、長倉勘解由佐衛門尉など普代の衆が石城に立てこもり、島津氏と一戦を交えようとしていました。 そして天正6年(1578年)に島津氏の軍勢が押し寄せ、決戦の時がやってきました。 島津氏は、様々(さまざま)な戦法を駆使し、相手方の家臣などを味方に引き入れようと画策したりしたが、難攻不落の特徴を持ち、また伊東氏には、勇猛な家臣が篭(こも)っており、この壮絶な戦いは3日に及んで繰り広げられました。 その間、数多くの死傷者を出した伊東氏は、ついに石城を捨てることにしました。 ここから、間もなく、大友氏と島津氏が争う高城合戦(高城川合戦)へとつながります。
平成14年 木城町教育委員会
石城の想像図 (新納仁著「山と川と城と」より抜粋)
と書かれています。
 「石城」は南北朝時代に築城されました。 伊東48城の一つで、城主には長友源次郎がいました。 豊後(大分県)の大友宗麟(おおともそうりん)が日向侵攻したとき(耳川の戦い(高城川合戦、高城合戦))に長倉勘解由佐衛門尉など伊東の旧家臣が石城に立てこもりました。 天正6年(1578年)に島津の軍勢が押し寄せました。 壮絶な戦いが3日続きました。 多くの死傷者を出した伊東は石城を捨てました。 まもなく大友と島津の天正6年(1578年)に起こった高城合戦(高城川合戦、耳川の戦い)が始まり島津が大勝しました。
(長倉勘解由佐衛門尉は伊東の家臣で、木崎原の戦いで伊東が大敗した後、高原城を守りましたが、1576年(天正4年)9月21日に島津の攻撃を受けて開城しました。 1577年(天正5年)の伊東の豊後(大分県)への退去(米良越えをして)に同行しました。 1577年(天正5年)に旧伊東領を奪回しようと三納(西都市)で一揆(いっき)を起こしました。 綾城へ放火し、伊東48城の旧家臣を集めて一揆を起こして都於郡城(とのこおりじょう、西都市)を攻撃しましたが、成功しませんでした。 天正5年9月に大友が日向に侵攻したときに、呼応して石城(木城町)に敗残の伊東旧家臣を集めて立て篭(こ)もりました。 石城の戦いは天正6年7月(旧暦)に島津が押し寄せ3日間続きました。 伊東は石城を捨てました。 引き続いて、高城川合戦(高城合戦、耳川の戦い)で島津と戦いましたが、長倉勘解由佐衛門尉は次男 六郎太郎と共に自害しました。)



写真CF: 「伊東氏48城における石城について」の説明板。
 県内における戦国時代に名高い、高城合戦では、大友氏と島津氏による壮絶な戦いが繰り広げられましたが、それ以前は、伊東氏が日向国における権力を誇示していました。 この伊東氏が、島津氏と凌(しの)ぎを削(けず)り、抗争を繰り広げられた南北朝期から戦国時代中頃の山城(やまじろ)が石城(いしじょう)であります。
 日向国における伊東氏の支配体制は本部基地の役割を果すべく、西都市の都於郡城(とのこおりじょう)を本城として10〜15 km内外の間隔で、出城(でじろ)を県内に48ヶ所構え、戦乱時および領内の統治体制を作りました。 これは、日向48城といわれ、北は門川城(門川町)で県(延岡市)の土持氏(つちもちし)と境を接し、南は飫肥酒谷城(日南市)と田野城(田野町)、西南は三之山城(小林市)で、南の島津氏と接していました。 児湯郡内においては、都於郡本城の他、三納城(西都市)、穂北城(西都市)、富田城(新富町)、財部城(高鍋町)、そして本町内にある高城とこの石城です。
 石城は、ここ石河内(いしがわち)に位置し、あの武者小路実篤が理想郷とした、日向新しき村が見られるところがそうであったと言われます。 地形的には、小丸川が極端に迂曲(うきょく)したところに、鹿遊連峰の一角が突出した三面に川を巡(めぐ)らし、西隅の一端がわずかに山領に接し、東西200 m、南北350 mの中世山城特有の要害地を形成しています。 この展望台から、遠望すると、亀の形に見えることから、「亀城」という別の名称も持っています。
 詳細な発掘調査は実施しておらず、山城としての特徴をつかむには、困難であり、現在でもどの程度が破壊を免れてるかは、不明瞭です。
 合戦については、伊東市一族のものや、長倉勘解由佐衛門尉など普代の衆が石城に立てこもり、島津氏と一戦を交えようとしていました。 そして天正6年(1578年)に島津氏の軍勢が押し寄せ、決戦の時がやってきました。 島津氏は、様々(さまざま)な戦法を駆使し、相手方の家臣などを味方に引き入れようと画策したりしたが、難攻不落の特徴を持ち、また伊東氏には、勇猛な家臣が篭(こも)っており、この壮絶な戦いは3日に及んで繰り広げられました。 その間、数多くの死傷者を出した伊東氏は、ついに石城を捨てることにしました。 ここから、間もなく、大友氏と島津氏が争う高城合戦(高城川合戦)へとつながります。
平成14年 木城町教育委員会
石城の想像図 (新納仁著「山と川と城と」より抜粋)
と書かれています。
 「石城」は南北朝時代に築城されました。 伊東48城の一つで、城主には長友源次郎がいました。 豊後(大分県)の大友宗麟(おおともそうりん)が日向侵攻したとき(耳川の戦い(高城川合戦、高城合戦))に長倉勘解由佐衛門尉など伊東の旧家臣が石城に立てこもりました。 天正6年(1578年)に島津の軍勢が押し寄せました。 壮絶な戦いが3日続きました。 多くの死傷者を出した伊東は石城を捨てました。 まもなく大友と島津の天正6年(1578年)に起こった高城合戦(高城川合戦、耳川の戦い)が始まり島津が大勝しました。
(長倉勘解由佐衛門尉は伊東の家臣で、木崎原の戦いで伊東が大敗した後、高原城を守りましたが、1576年(天正4年)9月21日に島津の攻撃を受けて開城しました。 1577年(天正5年)の伊東の豊後(大分県)への退去(米良越えをして)に同行しました。 1577年(天正5年)に旧伊東領を奪回しようと三納(西都市)で一揆(いっき)を起こしました。 綾城へ放火し、伊東48城の旧家臣を集めて一揆を起こして都於郡城(とのこおりじょう、西都市)を攻撃しましたが、成功しませんでした。 天正5年9月に大友が日向に侵攻したときに、呼応して石城(木城町)に敗残の伊東旧家臣を集めて立て篭(こ)もりました。 石城の戦いは天正6年7月(旧暦)に島津が押し寄せ3日間続きました。 伊東は石城を捨てました。 引き続いて、高城川合戦(高城合戦、耳川の戦い)で島津と戦いましたが、長倉勘解由佐衛門尉は次男 六郎太郎と共に自害しました。)



写真CG: 「伊東氏48城における石城について」の説明板。
 県内における戦国時代に名高い、高城合戦では、大友氏と島津氏による壮絶な戦いが繰り広げられましたが、それ以前は、伊東氏が日向国における権力を誇示していました。 この伊東氏が、島津氏と凌(しの)ぎを削(けず)り、抗争を繰り広げられた南北朝期から戦国時代中頃の山城(やまじろ)が石城(いしじょう)であります。
 日向国における伊東氏の支配体制は本部基地の役割を果すべく、西都市の都於郡城(とのこおりじょう)を本城として10〜15 km内外の間隔で、出城(でじろ)を県内に48ヶ所構え、戦乱時および領内の統治体制を作りました。 これは、日向48城といわれ、北は門川城(門川町)で県(延岡市)の土持氏(つちもちし)と境を接し、南は飫肥酒谷城(日南市)と田野城(田野町)、西南は三之山城(小林市)で、南の島津氏と接していました。 児湯郡内においては、都於郡本城の他、三納城(西都市)、穂北城(西都市)、富田城(新富町)、財部城(高鍋町)、そして本町内にある高城とこの石城です。
 石城は、ここ石河内(いしがわち)に位置し、あの武者小路実篤が理想郷とした、日向新しき村が見られるところがそうであったと言われます。 地形的には、小丸川が極端に迂曲(うきょく)したところに、鹿遊連峰の一角が突出した三面に川を巡(めぐ)らし、西隅の一端がわずかに山領に接し、東西200 m、南北350 mの中世山城特有の要害地を形成しています。 この展望台から、遠望すると、亀の形に見えることから、「亀城」という別の名称も持っています。
 詳細な発掘調査は実施しておらず、山城としての特徴をつかむには、困難であり、現在でもどの程度が破壊を免れてるかは、不明瞭です。
 合戦については、伊東市一族のものや、長倉勘解由佐衛門尉など普代の衆が石城に立てこもり、島津氏と一戦を交えようとしていました。 そして天正6年(1578年)に島津氏の軍勢が押し寄せ、決戦の時がやってきました。 島津氏は、様々(さまざま)な戦法を駆使し、相手方の家臣などを味方に引き入れようと画策したりしたが、難攻不落の特徴を持ち、また伊東氏には、勇猛な家臣が篭(こも)っており、この壮絶な戦いは3日に及んで繰り広げられました。 その間、数多くの死傷者を出した伊東氏は、ついに石城を捨てることにしました。 ここから、間もなく、大友氏と島津氏が争う高城合戦(高城川合戦)へとつながります。
平成14年 木城町教育委員会
石城の想像図 (新納仁著「山と川と城と」より抜粋)
と書かれています。
 「石城」は南北朝時代に築城されました。 伊東48城の一つで、城主には長友源次郎がいました。 豊後(大分県)の大友宗麟(おおともそうりん)が日向侵攻したとき(耳川の戦い(高城川合戦、高城合戦))に長倉勘解由佐衛門尉など伊東の旧家臣が石城に立てこもりました。 天正6年(1578年)に島津の軍勢が押し寄せました。 壮絶な戦いが3日続きました。 多くの死傷者を出した伊東は石城を捨てました。 まもなく大友と島津の天正6年(1578年)に起こった高城合戦(高城川合戦、耳川の戦い)が始まり島津が大勝しました。
(長倉勘解由佐衛門尉は伊東の家臣で、木崎原の戦いで伊東が大敗した後、高原城を守りましたが、1576年(天正4年)9月21日に島津の攻撃を受けて開城しました。 1577年(天正5年)の伊東の豊後(大分県)への退去(米良越えをして)に同行しました。 1577年(天正5年)に旧伊東領を奪回しようと三納(西都市)で一揆(いっき)を起こしました。 綾城へ放火し、伊東48城の旧家臣を集めて一揆を起こして都於郡城(とのこおりじょう、西都市)を攻撃しましたが、成功しませんでした。 天正5年9月に大友が日向に侵攻したときに、呼応して石城(木城町)に敗残の伊東旧家臣を集めて立て篭(こ)もりました。 石城の戦いは天正6年7月(旧暦)に島津が押し寄せ3日間続きました。 伊東は石城を捨てました。 引き続いて、高城川合戦(高城合戦、耳川の戦い)で島津と戦いましたが、長倉勘解由佐衛門尉は次男 六郎太郎と共に自害しました。)



写真CH: 「伊東氏48城における石城について」の説明板。
 県内における戦国時代に名高い、高城合戦では、大友氏と島津氏による壮絶な戦いが繰り広げられましたが、それ以前は、伊東氏が日向国における権力を誇示していました。 この伊東氏が、島津氏と凌(しの)ぎを削(けず)り、抗争を繰り広げられた南北朝期から戦国時代中頃の山城(やまじろ)が石城(いしじょう)であります。
 日向国における伊東氏の支配体制は本部基地の役割を果すべく、西都市の都於郡城(とのこおりじょう)を本城として10〜15 km内外の間隔で、出城(でじろ)を県内に48ヶ所構え、戦乱時および領内の統治体制を作りました。 これは、日向48城といわれ、北は門川城(門川町)で県(延岡市)の土持氏(つちもちし)と境を接し、南は飫肥酒谷城(日南市)と田野城(田野町)、西南は三之山城(小林市)で、南の島津氏と接していました。 児湯郡内においては、都於郡本城の他、三納城(西都市)、穂北城(西都市)、富田城(新富町)、財部城(高鍋町)、そして本町内にある高城とこの石城です。
 石城は、ここ石河内(いしがわち)に位置し、あの武者小路実篤が理想郷とした、日向新しき村が見られるところがそうであったと言われます。 地形的には、小丸川が極端に迂曲(うきょく)したところに、鹿遊連峰の一角が突出した三面に川を巡(めぐ)らし、西隅の一端がわずかに山領に接し、東西200 m、南北350 mの中世山城特有の要害地を形成しています。 この展望台から、遠望すると、亀の形に見えることから、「亀城」という別の名称も持っています。
 詳細な発掘調査は実施しておらず、山城としての特徴をつかむには、困難であり、現在でもどの程度が破壊を免れてるかは、不明瞭です。
 合戦については、伊東市一族のものや、長倉勘解由佐衛門尉など普代の衆が石城に立てこもり、島津氏と一戦を交えようとしていました。 そして天正6年(1578年)に島津氏の軍勢が押し寄せ、決戦の時がやってきました。 島津氏は、様々(さまざま)な戦法を駆使し、相手方の家臣などを味方に引き入れようと画策したりしたが、難攻不落の特徴を持ち、また伊東氏には、勇猛な家臣が篭(こも)っており、この壮絶な戦いは3日に及んで繰り広げられました。 その間、数多くの死傷者を出した伊東氏は、ついに石城を捨てることにしました。 ここから、間もなく、大友氏と島津氏が争う高城合戦(高城川合戦)へとつながります。
平成14年 木城町教育委員会
石城の想像図 (新納仁著「山と川と城と」より抜粋)
と書かれています。
 「石城」は南北朝時代に築城されました。 伊東48城の一つで、城主には長友源次郎がいました。 豊後(大分県)の大友宗麟(おおともそうりん)が日向侵攻したとき(耳川の戦い(高城川合戦、高城合戦))に長倉勘解由佐衛門尉など伊東の旧家臣が石城に立てこもりました。 天正6年(1578年)に島津の軍勢が押し寄せました。 壮絶な戦いが3日続きました。 多くの死傷者を出した伊東は石城を捨てました。 まもなく大友と島津の天正6年(1578年)に起こった高城合戦(高城川合戦、耳川の戦い)が始まり島津が大勝しました。
(長倉勘解由佐衛門尉は伊東の家臣で、木崎原の戦いで伊東が大敗した後、高原城を守りましたが、1576年(天正4年)9月21日に島津の攻撃を受けて開城しました。 1577年(天正5年)の伊東の豊後(大分県)への退去(米良越えをして)に同行しました。 1577年(天正5年)に旧伊東領を奪回しようと三納(西都市)で一揆(いっき)を起こしました。 綾城へ放火し、伊東48城の旧家臣を集めて一揆を起こして都於郡城(とのこおりじょう、西都市)を攻撃しましたが、成功しませんでした。 天正5年9月に大友が日向に侵攻したときに、呼応して石城(木城町)に敗残の伊東旧家臣を集めて立て篭(こ)もりました。 石城の戦いは天正6年7月(旧暦)に島津が押し寄せ3日間続きました。 伊東は石城を捨てました。 引き続いて、高城川合戦(高城合戦、耳川の戦い)で島津と戦いましたが、長倉勘解由佐衛門尉は次男 六郎太郎と共に自害しました。)



写真CI: 「自分たちは峠の上から見下ろした。 喜んだ。 あそこが我等の仕事の第一の根を張る處(ところ)だ。 幸いあれ。」 小説「土地」 (武者小路実篤35歳)から。
「新しき村」は高い平地と低い平地からできています。 川原ダムの右の半島型の黄緑に見えている2つがそれです。 左の平地が高く、右の平地が低くなっています。 そこには戦国時代には石城(いしじょう)という城がありました。



写真CJ: 「自分たちは峠の上から見下ろした。 喜んだ。 あそこが我等の仕事の第一の根を張る處(ところ)だ。 幸いあれ。」 小説「土地」 (武者小路実篤35歳)から。
上の平地には新しき村の人家(左)と武者小路実篤記念館(右)も見えています。 (新しき村は大正7年11月14日に開村しました(武者小路実篤 33歳、実篤の夫人 房子 26歳)。 その後、第2夫人に実篤の長女が新しき村で生まれ、実篤はこの新しき村を出て(大正12年)、奈良県に住みました。)



写真CK: 前坂展望所(石河内展望所)。 宮崎県 木城町 石河内にあります。



写真CL: 前坂展望所(石河内展望所)。 木城町 石河内にあります。



写真CM: 前坂展望所(石河内展望所)。 宮崎県 木城町 石河内にあります。



写真CN: 後ろに武者小路実篤(むしゃのこうじさねあつ)の文学碑が見えています。



写真CO: 前坂展望台の屋根の部分。



写真CP: 「郷土の森 350 m」と書いてあります。



写真CQ: 「森林ふれあい基地(郷土の森) フォレストピア石河内」の説明板。



写真CR: 「郷土の森入口←」、「熊本営林署開局100周年記念育樹の森」と書いてあります。



写真CS: 右は詩碑です。 前坂展望台(石河内展望台)の詩碑(しひ)には「山と山とが賛嘆しあうように 星と星とが賛嘆しあうように 人間と人間とが賛嘆しあいたいものだ 昭和四十三年 武者小路実篤」と彫(ほ)られています。



写真CT: 前坂展望台(石河内展望台)。



写真CU: 前坂展望台(石河内展望台)。



写真CV: 木城町の前坂展望台(石河内展望台)。



写真CW: 「路面凍結防止剤、高鍋土木事務所」と書いてあります。



写真CX: 「郷の駅 石河内」です。 「そば道場 鹿遊茶屋(かなすみちゃや)」と書いてあります。 県道22号線の石河内の中心部にあります。
<郷の駅石河内>
 施設内には、自分で打ったそばを食べられるそば打ち体験道場、手打ちそばや、山菜弁当など石河内の味が楽しめる鹿遊(かなすみ)茶屋があり、石河内の特産品の販売も行っています。



写真CY: 「郷の駅 石河内」です。 「そば道場 鹿遊茶屋(かなすみちゃや)」。 県道22号線の石河内の中心部にあります。



写真CZ: 「郷の駅 石河内」の西隣りにある「第三期 山村振興農林漁業対策事業、石河内基幹集落センター」。



写真DA: 「昭和59年度 第三期 山村振興農林漁業対策事業、石河内基幹集落センター」と書いてあります。



写真DB: 「石河内地区 土砂災害危険区域図」の看板(かんばん)。



写真DC: 石河内基幹集落センターの掲示板。



写真DD: 宮崎県 木城町 石河内にある石河内基幹集落センター。



写真DE: 中央奥が郷の駅 石河内。
奥の山は尾鈴山脈の山です。



写真DF: 左は県道22号線。 「そば道場 鹿遊茶屋(かなすみちゃや)」と書いてあります。
<郷の駅石河内>
 施設内には、自分で打ったそばを食べられるそば打ち体験道場、手打ちそばや、山菜弁当など石河内の味が楽しめる鹿遊(かなすみ)茶屋があり、石河内の特産品の販売も行っています。
奥の山は尾鈴山脈の山です。



写真DG: 「手打ちそば道場」の看板があります。



写真DH: 「お食事 そば道場 売店」と書いてあります。



写真DI: 郷の駅 石河内の中です。 右下にスズメバチの巣があります。 鹿遊ヨウカン(かなすみようかん)、梅干しなど地元の物産品などが売っています。



写真DJ: 「鹿遊茶屋(かなすみちゃや)」ののれんです。



写真DK: 石河内にある郷の駅 石河内。 奥は食堂になっています。



写真DL: 「そば道場」ののれんがあります。 奥はそばを打つところです。



写真DM: 「郷の駅 石河内」のそばを打つところです。



写真DN: 「郷の駅 石河内」に置いてあるスズメバチの巣。



写真DO: 「郷の駅 石河内」。



写真DP: 「郷の駅 石河内」から東を見た景色。 三角の建物が見えます。 稲が実っていました。
奥の山は尾鈴山脈の山です。



写真DQ: 三角の建物の左上に先程の「前坂展望台(石河内展望台)」が見えています。 郷の駅 石河内から見たもの。
見えている山は尾鈴山脈の山です。



写真DR: 県道22号線。 「←木城えほんの郷 0.4 km」の標識が見えています。 奥の山に前坂展望台があります。 先に行くと川原ダムを経(へ)て木城町の中心部に行きます。
奥の山は尾鈴山脈の山です。



写真DS: 宮崎県 木城町 石河内の中心部。 左端は石河内簡易郵便局です。 先に行くと左に中八重橋があり、それを渡ると「新しき村」、ピノッQパークがあります。 曲がらずに真っ直ぐ行くと石河内第二発電所を経て中之又、東郷町に行きます。



写真DT: 石河内簡易郵便局です。



写真DU: 「石河内簡易郵便局」と入口に書いてあります。



写真DV: 児湯農業協同組合 石河内事業所です。



写真DW: 「児湯農業協同組合 石河内事業所」と書いてあります。



写真DX: ガソリンスタンドがあります。 レギュラー 129円/Lでした。 宅急便の看板(かんばん)も見えます。



写真DY: 左はガソリンスタンド。



写真DZ: 石河内商会。



写真EA: 手前は県道22号線。 石河内の中心部。



写真EB: 木城町 石河内。



写真EC: 木城町 石河内のガソリンスタンド。 「車修理メンテナンス、焼酎、ビール、日本酒、みそ、しょうゆ、白だし、木炭、指定ごみ袋あります。 タバコあります。」と書いてあります。



写真ED: 県道22号線から左折して中八重橋を渡るとまもなく右岸(下流を見て右)に石河内総合福祉センターがあります。



写真EE: 県道22号線から左折して中八重橋を渡るとまもなく右岸(下流を見て右)に石河内総合福祉センターがあります。



写真EF: さらに坂道を登って行くと「←日向新しき村入口 1460 m」と書いてある看板があります。 右に「→木城ふくし村 土日食堂」の看板もあります。 後ろの建物は「ピノッQパーク」です。



写真EG: 建物は「小丸川発電所展示館 ピノッQパーク 九州電力」です。



写真EH: 「小丸川発電所展示館 ピノッQパーク 九州電力」と書いてあります。 入場料: 無料、営業時間: 9:00-17:00、休館日: 月曜日。
 「新しき村」へはこの車道を先に進みます。



写真EI: 「小丸川発電所展示館 ピノッQパーク 九州電力」の中。



写真EJ: 小丸川発電所展示館のエコロジー大作戦の展示です。



写真EK: 小丸川発電所展示館の中。 大型テレビで発電所の説明などが行われていました。



写真EL: 小丸川発電所展示館の展示です。



写真EM: 小丸川の橋です。 新しき村に行く中八重橋の1つ上流側の橋です。



写真EN: 県道22号線と小丸川の橋。



写真EO: 小丸川の橋です。 新しき村に行く中八重橋の1つ上流側の橋です。



写真EP: 小丸川の石河内第二発電所です。 発電所の太いパイプ、建物、送電鉄塔なども見えます。
石河内第二発電所は昭和18年に建設されました。



写真EQ: 小丸川の石河内第二発電所です。 発電所の太いパイプ、建物、送電鉄塔なども見えます。
石河内第二発電所は昭和18年に建設されました。



写真ER: 小丸川の石河内第二発電所です。 発電所の太いパイプ、建物、送電鉄塔なども見えます。 石河内第二発電所は昭和18年に建設されました。



写真ES: 木の奥に小丸川のダムが見えます。
これは揚水発電所(ようすいはつでんしょ)の下池のダムです。 小丸川発電所の下池である「石河内ダム」です。 揚水発電所は夜に余った電力で水を山の上の上池に持ち上げ、昼には逆に水を落として発電します。 2007年7月10日から営業運転を開始しました。 上池は大瀬内山の上にある大瀬内ダムとかなすみダムです。 上池と下池の間に水を往復させ、最大120万キロワットの電力を発生しています。 有効落差は646.2 mです。
この石河内ダムはダム形式 重力式コンクリートダム、堤高 47.5 m、堤頂長 185.0 m、堤体積 134000 立方メートル、流域面積 329.0 平方キロメートル、湛水面積 41.0 ha、総貯水容量 6900000 立方メートル、有効貯水容量 5600000 立方メートル、利用目的 発電、事業主体 九州電力、電気事業者 九州電力、着工は1997年で完成は2006年。



写真ET: 木の奥に小丸川のダムが見えます。
これは揚水発電所(ようすいはつでんしょ)の下池のダムです。 小丸川発電所の下池である「石河内ダム」です。 揚水発電所は夜に余った電力で水を山の上の上池に持ち上げ、昼には逆に水を落として発電します。 2007年7月10日から営業運転を開始しました。 上池は大瀬内山の上にある大瀬内ダムとかなすみダムです。 上池と下池の間に水を往復させ、最大120万キロワットの電力を発生しています。 有効落差は646.2 mです。
この石河内ダムはダム形式 重力式コンクリートダム、堤高 47.5 m、堤頂長 185.0 m、堤体積 134000 立方メートル、流域面積 329.0 平方キロメートル、湛水面積 41.0 ha、総貯水容量 6900000 立方メートル、有効貯水容量 5600000 立方メートル、利用目的 発電、事業主体 九州電力、電気事業者 九州電力、着工は1997年で完成は2006年。



写真EU: 県道22号線の「なかおづるトンネル」とその少し北の「鈴音トンネル」の間のところから見た小丸川渓谷(おまるがわけいこく)。



写真EV: 県道22号線の「なかおづるトンネル」とその少し北の「鈴音トンネル」の間のところから見た小丸川渓谷(おまるがわけいこく)。



写真EW: 県道22号線の「なかおづるトンネル」の北出口のところです。 片側1車線と歩道も見えます。 右側は小丸川渓谷です。



写真EX: 県道22号線の「なかおづるトンネル」の北出口のところです。 右側は小丸川渓谷です。



写真EY: 先程のピノッQパークのところに戻ります。



写真EZ: ピノッQパークのトイレの建物が見えます。 「新しき村」へは車道を先に進みます。 「新しき村」は右奥の方にあります。
奥の山は尾鈴山脈の山です。



写真FA: 「新しき村」に行く道です。



写真FB: 新しき村に行く道です。



写真FC: ここに車を置けます。



写真FD: 木立の下方には小丸川が見えます。



写真FE: 木立の下方には小丸川が見えます。



写真FF: ここが宮崎県 木城町 石河内にある「新しき村」の入り口です。 ここは戦国時代に「石城(いしじょう)」という城があった場所です。

<新しき村の精神>は

一、全世界の人間が天命を全うし各個人の内にすむ自我を完全に成長させることを理想とする。

一、その為に、自己を生かす為に他人の自我を害してはいけない。

一、その為に自己を正しく生かすようにする。自分の快楽、幸福、自由の為に他人の天命と正しき要求を害してはいけない。

一、全世界の人間が我等と同一の精神をもち、同一の生活方法をとる事で全世界の人間が同じく義務を果たせ、自由を楽しみ正しく生きられ、天命(個性もふくむ)を全うする道を歩くように心がける。

一、かくの如き生活をしようとするもの、かくの如き生活の可能を信じ全世界の人が實行する事を祈るもの、又は切に望むもの、それは新しき村の会員である、我等の兄弟姉妹である。

一、されば我等は国と国との争い、階級と階級との争いをせずに、正しき生活にすべての人が入る事で、入ろうとすることで、それ等の人が本当に協力する事で、我等の欲する世界が来ることを信じ、又その為に骨折るものである。



写真FG: ここが宮崎県 木城町 石河内にある「新しき村」の入り口です。 ここは戦国時代に「石城(いしじょう)」という城があった場所です。 (新しき村は大正7年11月14日に開村しました。 その後、第2夫人に実篤の長女が新しき村で生まれ、実篤はこの新しき村を出て(大正12年)、奈良県に住みました。)



写真FH: ここが宮崎県 木城町 石河内にある「新しき村」の入り口です。 ここは戦国時代に「石城(いしじょう)」という城があった場所です。



写真FI: 新しき村に来た道です。



写真FJ: 「日向新しき村(武者小路実篤がつくった第一新しき村)」に来た道です。



写真FK: 門に「日向新しき村 実篤(さねあつ)」と彫(ほ)られた石碑(せきひ)があります。
<日向新しき村>
 日向国児湯郡木城村石河内字城。 之が私達の最初に住む土地の名称です。 字を城と云ふのは昔の城あとだからです。 実篤(さねあつ)。
大正7年秋、武者小路実篤(1885年〜1976年)が、「自他全生」、仕事と生命を尊重しつつ美・愛・真の人生を探求することを理想とし、共鳴する同志会員達と共に創始しました。 後に埼玉県に「東の新しき村」が建設され、当地は「日向新しき村」と呼ばれており、両村とも財団法人となっています。 (新しき村は大正7年11月14日に開村しました(武者小路実篤 33歳、実篤の夫人 房子 26歳)。)

新しき村は戦国時代に「石城(いしじょう)」という城があったところに建設されました。
 「石城(いしじょう)跡」は宮崎県 木城町 石河内にあります。
「伊東氏48城における石城について」の説明板から、
 県内における戦国時代に名高い、高城合戦では、大友氏と島津氏による壮絶な戦いが繰り広げられましたが、それ以前は、伊東氏が日向国における権力を誇示していました。 この伊東氏が、島津氏と凌(しの)ぎを削(けず)り、抗争を繰り広げられた南北朝期から戦国時代中頃の山城(やまじろ)が石城(いしじょう)であります。
 日向国における伊東氏の支配体制は本部基地の役割を果すべく、西都市の都於郡城(とのこおりじょう)を本城として10〜15 km内外の間隔で、出城(でじろ)を県内に48ヶ所構え、戦乱時および領内の統治体制を作りました。 これは、日向48城といわれ、北は門川城(門川町)で県(延岡市)の土持氏(つちもちし)と境を接し、南は飫肥酒谷城(日南市)と田野城(田野町)、西南は三之山城(小林市)で、南の島津氏と接していました。 児湯郡内においては、都於郡本城の他、三納城(西都市)、穂北城(西都市)、富田城(新富町)、財部城(高鍋町)、そして本町内にある高城とこの石城です。
 石城は、ここ石河内(いしがわち)に位置し、あの武者小路実篤が理想郷とした、日向新しき村が見られるところがそうであったと言われます。 地形的には、小丸川が極端に迂曲(うきょく)したところに、鹿遊連峰の一角が突出した三面に川を巡(めぐ)らし、西隅の一端がわずかに山領に接し、東西200 m、南北350 mの中世山城特有の要害地を形成しています。 前坂展望台から、遠望すると、亀の形に見えることから、「亀城」という別の名称も持っています。
 詳細な発掘調査は実施しておらず、山城としての特徴をつかむには、困難であり、現在でもどの程度が破壊を免れてるかは、不明瞭です。
 合戦については、伊東市一族のものや、長倉勘解由佐衛門尉など普代の衆が石城に立てこもり、島津氏と一戦を交えようとしていました。 そして天正6年(1578年)に島津氏の軍勢が押し寄せ、決戦の時がやってきました。 島津氏は、様々(さまざま)な戦法を駆使し、相手方の家臣などを味方に引き入れようと画策したりしたが、難攻不落の特徴を持ち、また伊東氏には、勇猛な家臣が篭(こも)っており、この壮絶な戦いは3日に及んで繰り広げられました。 その間、数多くの死傷者を出した伊東氏は、ついに石城を捨てることにしました。 ここから、間もなく、大友氏と島津氏が争う高城合戦(高城川合戦)へとつながります。
 「石城」は南北朝時代に築城されました。 伊東48城の一つで、城主には長友源次郎がいました。 豊後(大分県)の大友宗麟(おおともそうりん)が日向侵攻したとき(耳川の戦い(高城川合戦、高城合戦))に長倉勘解由佐衛門尉など伊東の旧家臣が石城に立てこもりました。 天正6年(1578年)に島津の軍勢が押し寄せました。 壮絶な戦いが3日続きました。 多くの死傷者を出した伊東は石城を捨てました。 まもなく大友と島津の天正6年(1578年)に起こった高城合戦(高城川合戦、耳川の戦い)が始まり島津が大勝しました。
(長倉勘解由佐衛門尉は伊東の家臣で、木崎原の戦いで伊東が大敗した後、高原城を守りましたが、1576年(天正4年)9月21日に島津の攻撃を受けて開城しました。 1577年(天正5年)の伊東の豊後(大分県)への退去(米良越えをして)に同行しました。 1577年(天正5年)に旧伊東領を奪回しようと三納(西都市)で一揆(いっき)を起こしました。 綾城へ放火し、伊東48城の旧家臣を集めて一揆を起こして都於郡城(とのこおりじょう、西都市)を攻撃しましたが、成功しませんでした。 天正5年9月に大友が日向に侵攻したときに、呼応して石城(木城町)に敗残の伊東旧家臣を集めて立て篭(こ)もりました。 石城の戦いは天正6年7月(旧暦)に島津が押し寄せ3日間続きました。 伊東は石城を捨てました。 引き続いて、高城川合戦(高城合戦、耳川の戦い)で島津と戦いましたが、長倉勘解由佐衛門尉は次男 六郎太郎と共に自害しました。)



写真FL: 「新しき村」の中の道です。奥には水田と人家などがあります。
ここはクヌギ並木道で、百間道路と呼ばれます。



写真FM: この道が新しき村の「百間道路」です。
「日向新しき村(武者小路実篤がつくった第一新しき村)」の中の道です。奥には水田と人家などがあります。
自他共に生きる理想の世界を掲げ、新しき村は宮崎県 児湯郡 木城町 石河内に建設されました。 先発隊は18人で、日豊本線高鍋駅から山道を徒歩で行きました。 最初の土地は田畑・山林併せて7600坪だったそうです。
ここはクヌギ並木道で、百間道路と呼ばれます。



写真FN: 「新しき村」に蜜蜂(ミツバチ)の巣(養蜂箱)がありました。



写真FO: 宮崎県 木城町 石河内にある「日向新しき村(武者小路実篤がつくった第一新しき村)」の中です。 右に建物が2つ見えています。 新しき村は小丸川の右岸(川下を見て右)にあります。 奥の山は小丸川の川原ダムの左岸の山です。
この道が新しき村の「百間道路」です。



写真FP: 新しき村の中の道です。
この道が新しき村の「百間道路」です。



写真FQ: 宮崎県 木城町 石河内にある「新しき村」の中の建物です。



写真FR: 「日向新しき村(武者小路実篤がつくった第一新しき村)」。 3つの建物が見えてます。
<日向新しき村>
 日向国児湯郡木城村石河内字城。 之が私達の最初に住む土地の名称です。 字を城と云ふのは昔の城あとだからです。 実篤(さねあつ)。
大正7年秋、武者小路実篤(1885年〜1976年)が、「自他全生」、仕事と生命を尊重しつつ美・愛・真の人生を探求することを理想とし、共鳴する同志会員達と共に創始しました。 後に埼玉県に「東の新しき村」が建設され、当地は「日向新しき村」と呼ばれており、両村とも財団法人となっています。

新しき村は戦国時代に「石城(いしじょう)」という城があったところに建設されました。
 「石城(いしじょう)跡」は宮崎県 木城町 石河内にあります。
「伊東氏48城における石城について」の説明板から、
 県内における戦国時代に名高い、高城合戦では、大友氏と島津氏による壮絶な戦いが繰り広げられましたが、それ以前は、伊東氏が日向国における権力を誇示していました。 この伊東氏が、島津氏と凌(しの)ぎを削(けず)り、抗争を繰り広げられた南北朝期から戦国時代中頃の山城(やまじろ)が石城(いしじょう)であります。
 日向国における伊東氏の支配体制は本部基地の役割を果すべく、西都市の都於郡城(とのこおりじょう)を本城として10〜15 km内外の間隔で、出城(でじろ)を県内に48ヶ所構え、戦乱時および領内の統治体制を作りました。 これは、日向48城といわれ、北は門川城(門川町)で県(延岡市)の土持氏(つちもちし)と境を接し、南は飫肥酒谷城(日南市)と田野城(田野町)、西南は三之山城(小林市)で、南の島津氏と接していました。 児湯郡内においては、都於郡本城の他、三納城(西都市)、穂北城(西都市)、富田城(新富町)、財部城(高鍋町)、そして本町内にある高城とこの石城です。
 石城は、ここ石河内(いしがわち)に位置し、あの武者小路実篤が理想郷とした、日向新しき村が見られるところがそうであったと言われます。 地形的には、小丸川が極端に迂曲(うきょく)したところに、鹿遊連峰の一角が突出した三面に川を巡(めぐ)らし、西隅の一端がわずかに山領に接し、東西200 m、南北350 mの中世山城特有の要害地を形成しています。 前坂展望台から、遠望すると、亀の形に見えることから、「亀城」という別の名称も持っています。
 詳細な発掘調査は実施しておらず、山城としての特徴をつかむには、困難であり、現在でもどの程度が破壊を免れてるかは、不明瞭です。
 合戦については、伊東市一族のものや、長倉勘解由佐衛門尉など普代の衆が石城に立てこもり、島津氏と一戦を交えようとしていました。 そして天正6年(1578年)に島津氏の軍勢が押し寄せ、決戦の時がやってきました。 島津氏は、様々(さまざま)な戦法を駆使し、相手方の家臣などを味方に引き入れようと画策したりしたが、難攻不落の特徴を持ち、また伊東氏には、勇猛な家臣が篭(こも)っており、この壮絶な戦いは3日に及んで繰り広げられました。 その間、数多くの死傷者を出した伊東氏は、ついに石城を捨てることにしました。 ここから、間もなく、大友氏と島津氏が争う高城合戦(高城川合戦)へとつながります。
奥の山は尾鈴山脈の山です。



写真FS: 新しき村の中の道です。
この道が新しき村の「百間道路」です。



写真FT: 「新しき村」。 手前にイノシシ避(よ)けの電線が張ってあります。
 大正7年(1918年)に新しき村ができ(武者小路実篤 33歳、実篤の夫人 房子 26歳)、大正12年実篤が離村し村外会員になりました。 昭和14年(1939年)に県営の川原ダム建設のため土地買収がありました(水田の一部 40アールが水没し土地の1/4を失いました)。 実篤が離村した後、新しき村の村民だった杉山正雄(房子より11歳年下)と房子(武者小路実篤の前夫人)は結ばれました。 房子は明治25年(1892年)生まれで実篤と大正元年(1912年)に結婚しました。 房子は途中8年間は鎌倉に住みましたが、71年間この新しき村に住みました。 杉山正雄と結ばれてから67年間ここに住みました。 第二次世界大戦中と戦後しばらくは杉山正雄と房子だけによってこの新しき村は守り続けられました。 その後、村民は増えました。 実篤は6年間、杉山正雄は50余年この新しき村で生活しました。



写真FU: 新しき村にある「武者小路実篤(むしゃのこうじさねあつ) 記念館」が見えます。
<日向新しき村>
 日向国児湯郡木城村石河内字城。 之が私達の最初に住む土地の名称です。 字を城と云ふのは昔の城あとだからです。 実篤(さねあつ)。
大正7年秋、武者小路実篤(1885年〜1976年)が、「自他全生」、仕事と生命を尊重しつつ美・愛・真の人生を探求することを理想とし、共鳴する同志会員達と共に創始しました。 後に埼玉県に「東の新しき村」が建設され、当地は「日向新しき村」と呼ばれており、両村とも財団法人となっています。
奥の山は尾鈴山脈の山です。



写真FV: 新しき村から見た先程の「前坂展望台(石河内展望台)」です。 奥の送電線鉄塔の右下に見えています。 前坂展望台は小丸川の対岸の山にあります。 手前の施設は新しき村のものです。
新しき村にももちろん電線が来ています。 手前に見えている電線がそれです。
山は尾鈴山脈の山です。



写真FW: 日向新しき村にある「武者小路実篤記念館」です。
<日向新しき村>
 日向国児湯郡木城村石河内字城。 之が私達の最初に住む土地の名称です。 字を城と云ふのは昔の城あとだからです。 実篤(さねあつ)。
大正7年秋、武者小路実篤(1885年〜1976年)が、「自他全生」、仕事と生命を尊重しつつ美・愛・真の人生を探求することを理想とし、共鳴する同志会員達と共に創始しました。 後に埼玉県に「東の新しき村」が建設され、当地は「日向新しき村」と呼ばれており、両村とも財団法人となっています。
奥の山は尾鈴山脈の山です。
1998年の新しき村80周年のとき、武者小路実篤の旧居(大正時代に日向の村に建てられ、老朽化していた)が復元されました。 2001年に完成、建物は木城町に寄付されました。日向新しき村が管理の委託を受け、来訪者に公開されています。 (新しき村は大正7年11月14日に開村しました。 その後、第2夫人に実篤の長女が新しき村で生まれ、実篤はこの新しき村を出て(大正12年)、奈良県に住みました。)



写真FX: 新しき村からの景色です。 文豪 武者小路実篤も毎日このような景色を見ていたことでしょう。
奥の山は尾鈴山脈の山です。
 新しき村の仕事は、人々に人間的生活を知らせ、そして自己および兄弟姉妹が、人間らしく生きるのに邪魔になるあらゆる思想、制度、人生観、根性と戦い、それに打ち勝ち、人間的社会を建設するために働くのが我等の使命である。



写真FY: 「日向新しき村(武者小路実篤がつくった第一新しき村)」です。 道の右に水田があって稲が見事に実っていました。
奥の山は尾鈴山脈の山です。
新しき村は3方を小丸川で囲まれ、対岸の石河内中心部から新しき村に行くには、小舟で渡りました。 初めは対岸の家を借りてここ新しき村に通いました。 その後、家を建て、2年目には母屋(合宿所)が出来ました。 毎月5の日を休日として、1月1日、4月8日(釈迦)、8月28日(トルストイ)、11月14日(ロダン)、12月25日(イエス)の誕生日を祭日と定めました。
この道が新しき村の「百間道路」です。
この新しき村の場所には昔は「石城(いしじょう)」という城がありました。
 「石城」は南北朝時代に築城されました。 伊東48城の一つで、城主には長友源次郎がいました。 豊後(大分県)の大友宗麟(おおともそうりん)が日向侵攻したとき(耳川の戦い(高城川合戦、高城合戦))に長倉勘解由佐衛門尉など伊東の旧家臣が石城に立てこもりました。 天正6年(1578年)に島津の軍勢が押し寄せました。 壮絶な戦いが3日続きました。 多くの死傷者を出した伊東は石城を捨てました。 まもなく大友と島津の天正6年(1578年)に起こった高城合戦(高城川合戦、耳川の戦い)が始まり島津が大勝しました。
(長倉勘解由佐衛門尉は伊東の家臣で、木崎原の戦いで伊東が大敗した後、高原城を守りましたが、1576年(天正4年)9月21日に島津の攻撃を受けて開城しました。 1577年(天正5年)の伊東の豊後(大分県)への退去(米良越えをして)に同行しました。 1577年(天正5年)に旧伊東領を奪回しようと三納(西都市)で一揆(いっき)を起こしました。 綾城へ放火し、伊東48城の旧家臣を集めて一揆を起こして都於郡城(とのこおりじょう、西都市)を攻撃しましたが、成功しませんでした。 天正5年9月に大友が日向に侵攻したときに、呼応して石城(木城町)に敗残の伊東旧家臣を集めて立て篭(こ)もりました。 石城の戦いは天正6年7月(旧暦)に島津が押し寄せ3日間続きました。 伊東は石城を捨てました。 引き続いて、高城川合戦(高城合戦、耳川の戦い)で島津と戦いましたが、長倉勘解由佐衛門尉は次男 六郎太郎と共に自害しました。)



写真FZ: 「日向新しき村(武者小路実篤がつくった第一新しき村)」。 武者小路実篤はこの右の家付近に住んでいました(古い絵地図より)。 そばには稲が実っていました。
奥の山は尾鈴山脈の山です。
 大正13年実篤は村を出ました。一村外会員として文筆活動に専念し、積極的に活動します。 実篤が新しき村で書いた作品の主なものは、「幸福者」「友情」「耶蘇」「土地」「人間万歳」「第三の隠者の運命」です。この内、「幸福者」「第三の隠者の運命」は村生活なくしては生まれなかったかもしれないそうです。



写真GA: 右にも人家があります。 そこで農機具を動かしている「新しき村」の村民の男の方がいらっしゃいました。 そばの水田に稲が見事に育っていました。
武者小路実篤は左の家付近に住んでいました(古い絵地図より)。
この新しき村の場所には昔は「石城(いしじょう)」という城がありました。
 「石城」は南北朝時代に築城されました。 伊東48城の一つで、城主には長友源次郎がいました。 豊後(大分県)の大友宗麟(おおともそうりん)が日向侵攻したとき(耳川の戦い(高城川合戦、高城合戦))に長倉勘解由佐衛門尉など伊東の旧家臣が石城に立てこもりました。 天正6年(1578年)に島津の軍勢が押し寄せました。 壮絶な戦いが3日続きました。 多くの死傷者を出した伊東は石城を捨てました。 まもなく大友と島津の天正6年(1578年)に起こった高城合戦(高城川合戦、耳川の戦い)が始まり島津が大勝しました。
(長倉勘解由佐衛門尉は伊東の家臣で、木崎原の戦いで伊東が大敗した後、高原城を守りましたが、1576年(天正4年)9月21日に島津の攻撃を受けて開城しました。 1577年(天正5年)の伊東の豊後(大分県)への退去(米良越えをして)に同行しました。 1577年(天正5年)に旧伊東領を奪回しようと三納(西都市)で一揆(いっき)を起こしました。 綾城へ放火し、伊東48城の旧家臣を集めて一揆を起こして都於郡城(とのこおりじょう、西都市)を攻撃しましたが、成功しませんでした。 天正5年9月に大友が日向に侵攻したときに、呼応して石城(木城町)に敗残の伊東旧家臣を集めて立て篭(こ)もりました。 石城の戦いは天正6年7月(旧暦)に島津が押し寄せ3日間続きました。 伊東は石城を捨てました。 引き続いて、高城川合戦(高城合戦、耳川の戦い)で島津と戦いましたが、長倉勘解由佐衛門尉は次男 六郎太郎と共に自害しました。)



写真GB: 新しき村の中にある三叉路(さんさろ)です。 右の木は柿の木で実がなっていました。 右の道の奥に新しき村の入り口があります。 見えている山は鹿遊連山(かなすみれんざん)です。 鹿遊連山は小丸川の右岸(川下を見て右)の連山です。



写真GC: 「日向新しき村(武者小路実篤がつくった第一新しき村)」。 左の木は柿の木です。 この道の先に新しき村の入り口があり、そこに武者小路実篤が書いた「日向新しき村 実篤」の石碑(せきひ)があります。
この道が新しき村の「百間道路」です。



写真GD: 新しき村にある「武者小路実篤記念館」です。
 大正7年に新しき村ができ(武者小路実篤 33歳、実篤の夫人 房子 26歳)、大正12年実篤が離村し村外会員になりました。 昭和14年に県営の川原ダム建設のため土地買収がありました(水田の一部 40アールが水没し土地の1/4を失いました)。 実篤が離村した後、新しき村の村民だった杉山正雄(房子より11歳年下)と房子(武者小路実篤の前夫人)は結ばれました。 房子は明治25年生まれで実篤と大正元年に結婚しました。 房子は途中8年間は鎌倉に住みましたが、71年間この新しき村に住みました。 杉山正雄と結ばれてから67年間ここに住みました。 第二次世界大戦中と戦後しばらくは杉山正雄と房子だけによってこの新しき村は守り続けられました。 その後、村民は増えました。 実篤は6年間、杉山正雄は50余年この新しき村で生活しました。



写真GE: 新しき村にある「武者小路実篤記念館」。
<日向新しき村>
 日向国児湯郡木城村石河内字城。 之が私達の最初に住む土地の名称です。 字を城と云ふのは昔の城あとだからです。 実篤(さねあつ)。
大正7年秋、武者小路実篤(1885年〜1976年)が、「自他全生」、仕事と生命を尊重しつつ美・愛・真の人生を探求することを理想とし、共鳴する同志会員達と共に創始しました。 後に埼玉県に「東の新しき村」が建設され、当地は「日向新しき村」と呼ばれており、両村とも財団法人となっています。



写真GF: 新しき村の景色です。 左端はショベルカー、その右はテントです。 電柱と電線も見えます。
奥の山は尾鈴山脈の山です。
この新しき村の場所には昔は「石城(いしじょう)」という城がありました。
 「石城」は南北朝時代に築城されました。 伊東48城の一つで、城主には長友源次郎がいました。 豊後(大分県)の大友宗麟(おおともそうりん)が日向侵攻したとき(耳川の戦い(高城川合戦、高城合戦))に長倉勘解由佐衛門尉など伊東の旧家臣が石城に立てこもりました。 天正6年(1578年)に島津の軍勢が押し寄せました。 壮絶な戦いが3日続きました。 多くの死傷者を出した伊東は石城を捨てました。 まもなく大友と島津の天正6年(1578年)に起こった高城合戦(高城川合戦、耳川の戦い)が始まり島津が大勝しました。
(長倉勘解由佐衛門尉は伊東の家臣で、木崎原の戦いで伊東が大敗した後、高原城を守りましたが、1576年(天正4年)9月21日に島津の攻撃を受けて開城しました。 1577年(天正5年)の伊東の豊後(大分県)への退去(米良越えをして)に同行しました。 1577年(天正5年)に旧伊東領を奪回しようと三納(西都市)で一揆(いっき)を起こしました。 綾城へ放火し、伊東48城の旧家臣を集めて一揆を起こして都於郡城(とのこおりじょう、西都市)を攻撃しましたが、成功しませんでした。 天正5年9月に大友が日向に侵攻したときに、呼応して石城(木城町)に敗残の伊東旧家臣を集めて立て篭(こ)もりました。 石城の戦いは天正6年7月(旧暦)に島津が押し寄せ3日間続きました。 伊東は石城を捨てました。 引き続いて、高城川合戦(高城合戦、耳川の戦い)で島津と戦いましたが、長倉勘解由佐衛門尉は次男 六郎太郎と共に自害しました。)



写真GG: 武者小路実篤の「新しき村」の中です。 左にトラック、ショベルカー、テントもあります。



写真GH: 新しき村。 人家の手前に農機具を動かしている村民の男の方がいらっしゃいました。 手前に実った稲穂があります。



写真GI: 宮崎県 木城町 石河内にある「日向新しき村(武者小路実篤がつくった第一新しき村)」の実った稲穂です。 稲穂が垂(た)れています。



写真GJ: 日向新しき村。 新しき村は大正7年にできました(武者小路実篤 33歳、実篤の夫人 房子 26歳)。 左端に一輪車があります。 4つの建物があります。 左の建物は大きな作業用のもののようです。 右に新しき村の村民である松田省吾さんが中心になって造った「公会堂」が見えます。
 松田省吾さんは1976年(昭和51年)、33歳の時に日向新しき村に住むようになりました。 夫人のヤイ子さんと共に暮らしていらっしゃいます。

武者小路実篤は当時、この公会堂付近に住んでいました(古い絵地図より)。 道の両側は水田です。
この新しき村には第二次世界大戦前のころ、多いときには50人以上が生活していました。 戦中から第二次世界大戦後しばらく、杉山正雄と房子 夫婦の1家族だけがこの新しき村に生活していらっしゃいましたが、その後 入村者が増えました。 房子さんは武者小路実篤の前妻でした。 杉山正雄と房子 夫婦の墓は新しき村の入口付近にあります。 「屡々空(しばしば空)」の墓碑がそれです。 その自然石は生前から用意してあったものだそうです。 「屡々空」とは<道(真理)に最も近いが、食事にも事欠く貧しい暮らし>の意味だそうです。 昭和58年4月28日に杉山正雄は亡くなりました(80歳)。 房子 夫人は平成元年10月25日に新しき村の家でこの世を去られました(97歳)。
この新しき村の場所には昔は「石城(いしじょう)」という城がありました。
 「石城」は南北朝時代に築城されました。 伊東48城の一つで、城主には長友源次郎がいました。 豊後(大分県)の大友宗麟(おおともそうりん)が日向侵攻したとき(耳川の戦い(高城川合戦、高城合戦))に長倉勘解由佐衛門尉など伊東の旧家臣が石城に立てこもりました。 天正6年(1578年)に島津の軍勢が押し寄せました。 壮絶な戦いが3日続きました。 多くの死傷者を出した伊東は石城を捨てました。 まもなく大友と島津の天正6年(1578年)に起こった高城合戦(高城川合戦、耳川の戦い)が始まり島津が大勝しました。
(長倉勘解由佐衛門尉は伊東の家臣で、木崎原の戦いで伊東が大敗した後、高原城を守りましたが、1576年(天正4年)9月21日に島津の攻撃を受けて開城しました。 1577年(天正5年)の伊東の豊後(大分県)への退去(米良越えをして)に同行しました。 1577年(天正5年)に旧伊東領を奪回しようと三納(西都市)で一揆(いっき)を起こしました。 綾城へ放火し、伊東48城の旧家臣を集めて一揆を起こして都於郡城(とのこおりじょう、西都市)を攻撃しましたが、成功しませんでした。 天正5年9月に大友が日向に侵攻したときに、呼応して石城(木城町)に敗残の伊東旧家臣を集めて立て篭(こ)もりました。 石城の戦いは天正6年7月(旧暦)に島津が押し寄せ3日間続きました。 伊東は石城を捨てました。 引き続いて、高城川合戦(高城合戦、耳川の戦い)で島津と戦いましたが、長倉勘解由佐衛門尉は次男 六郎太郎と共に自害しました。)



写真GK: 水田のそばに一輪車が置いてありました。



写真GL: 新しき村。 ここは十字路になっています。 先に行くと「新しき村」の下の段の部分に行きます。 下の段には平地と石碑があります。 この下の方の平地も前坂展望台からよく見えました。



写真GM: 新しき村。 左はテントです。
奥の山は尾鈴山脈の山です。



写真GN: 新しき村にある「武者小路実篤記念館」です。 右はテントです。
この新しき村には第二次世界大戦前のころ、多いときには50人以上が生活していました。



写真GO: 先に行くと「新しき村」の入り口があります。
新しき村は戦国時代に「石城(いしじょう)」という城があったところに建設されました。
 「石城(いしじょう)跡」は宮崎県 木城町 石河内にあります。
「伊東氏48城における石城について」の説明板から、
 県内における戦国時代に名高い、高城合戦では、大友氏と島津氏による壮絶な戦いが繰り広げられましたが、それ以前は、伊東氏が日向国における権力を誇示していました。 この伊東氏が、島津氏と凌(しの)ぎを削(けず)り、抗争を繰り広げられた南北朝期から戦国時代中頃の山城(やまじろ)が石城(いしじょう)であります。
 日向国における伊東氏の支配体制は本部基地の役割を果すべく、西都市の都於郡城(とのこおりじょう)を本城として10〜15 km内外の間隔で、出城(でじろ)を県内に48ヶ所構え、戦乱時および領内の統治体制を作りました。 これは、日向48城といわれ、北は門川城(門川町)で県(延岡市)の土持氏(つちもちし)と境を接し、南は飫肥酒谷城(日南市)と田野城(田野町)、西南は三之山城(小林市)で、南の島津氏と接していました。 児湯郡内においては、都於郡本城の他、三納城(西都市)、穂北城(西都市)、富田城(新富町)、財部城(高鍋町)、そして本町内にある高城とこの石城です。
 石城は、ここ石河内(いしがわち)に位置し、あの武者小路実篤が理想郷とした、日向新しき村が見られるところがそうであったと言われます。 地形的には、小丸川が極端に迂曲(うきょく)したところに、鹿遊連峰の一角が突出した三面に川を巡(めぐ)らし、西隅の一端がわずかに山領に接し、東西200 m、南北350 mの中世山城特有の要害地を形成しています。 前坂展望台から、遠望すると、亀の形に見えることから、「亀城」という別の名称も持っています。
 詳細な発掘調査は実施しておらず、山城としての特徴をつかむには、困難であり、現在でもどの程度が破壊を免れてるかは、不明瞭です。
 合戦については、伊東市一族のものや、長倉勘解由佐衛門尉など普代の衆が石城に立てこもり、島津氏と一戦を交えようとしていました。 そして天正6年(1578年)に島津氏の軍勢が押し寄せ、決戦の時がやってきました。 島津氏は、様々(さまざま)な戦法を駆使し、相手方の家臣などを味方に引き入れようと画策したりしたが、難攻不落の特徴を持ち、また伊東氏には、勇猛な家臣が篭(こも)っており、この壮絶な戦いは3日に及んで繰り広げられました。 その間、数多くの死傷者を出した伊東氏は、ついに石城を捨てることにしました。 ここから、間もなく、大友氏と島津氏が争う高城合戦(高城川合戦)へとつながります。
この道が新しき村の「百間道路」です。



写真GP: 先に行くと「新しき村」の入り口があります。 稲穂が実っています。
この道が新しき村の「百間道路」です。
この新しき村には第二次世界大戦前のころ、多いときには50人以上が生活していました。



写真GQ: 見えている山は鹿遊連山(かなすみれんざん)です。 鹿遊連山は小丸川の右岸(川下を見て右)の連山です。 手前は水田。



写真GR: 新しき村の人家。 手前は水田。



写真GS: 新しき村の公会堂。 左にトラクター、自動車も見えます。 武者小路実篤は当時、この公会堂付近に住んでいました(古い絵地図より)。
新しき村の村民である松田省吾さんが中心になって造った「公会堂」が見えます。
 松田省吾さんは1976年(昭和51年)、33歳の時に日向新しき村に住むようになりました。 夫人のヤイ子さんと共に暮らしていらっしゃいます。




写真GT: 新しき村にある「武者小路実篤記念館」。
<日向新しき村>
 日向国児湯郡木城村石河内字城。 之が私達の最初に住む土地の名称です。 字を城と云ふのは昔の城あとだからです。 実篤(さねあつ)。
大正7年秋、武者小路実篤(1885年〜1976年)が、「自他全生」、仕事と生命を尊重しつつ美・愛・真の人生を探求することを理想とし、共鳴する同志会員達と共に創始しました。 後に埼玉県に「東の新しき村」が建設され、当地は「日向新しき村」と呼ばれており、両村とも財団法人となっています。



写真GU: 左後は、新しき村にある「武者小路実篤記念館」です。 十字路付近で。
奥の山は尾鈴山脈の山です。



写真GV: 新しき村の十字路で。



写真GW: 左後は、新しき村にある「武者小路実篤記念館」です。
奥の山は尾鈴山脈の山です。



写真GX: 左後は、新しき村にある「武者小路実篤記念館」です。
奥の山は尾鈴山脈の山です。



写真GY: 新しき村。 2つの建物が見えます。



写真GZ: 日向新しき村。 建物は大きな作業用のもののようです。



写真HA: 水田と一輪車。



写真HB: 日向新しき村の入り口に戻(もど)る途中に、柿の実が落ちていました。



写真HC: 新しき村に里芋(さといも)が大きく育っていました。



写真HD: 新しき村に入ってすぐ左手にこのような窪地(くぼち)と小さな島があります。 石も見えています。
これが「心の字池」です。



写真HE: 栗(くり)の実が育っていました。



写真HF: 新しき村に入ってすぐ左手にあります。
「屡々空の墓碑」です。
 この新しき村には第二次世界大戦前のころ、多いときには50人以上が生活していました。 戦中から第二次世界大戦後しばらく、杉山正雄と房子 夫婦の1家族だけがこの新しき村に生活していらっしゃいましたが、その後 入村者が増えました。 房子さんは武者小路実篤の前妻でした。 杉山正雄と房子 夫婦の墓は新しき村の入口付近にあります。 「屡々空(しばしば空)」の墓碑がそれです。 その自然石は生前から用意してあったものだそうです。 「屡々空」とは<道(真理)に最も近いが、食事にも事欠く貧しい暮らし>の意味だそうです。 昭和58年4月28日に杉山正雄は亡くなりました(80歳)。 房子 夫人は平成元年10月25日に新しき村の家でこの世を去られました(97歳)。
 大正7年に新しき村ができ(武者小路実篤 33歳、実篤の夫人 房子 26歳)、大正12年実篤が離村し村外会員になりました。 昭和14年に県営の川原ダム建設のため土地買収がありました(水田の一部 40アールが水没し土地の1/4を失いました)。 実篤が離村した後、新しき村の村民だった杉山正雄(房子より11歳年下)と房子(武者小路実篤の前夫人)は結ばれました。 房子は明治25年生まれで実篤と大正元年に結婚しました。 房子は途中8年間は鎌倉に住みましたが、71年間この新しき村に住みました。 杉山正雄と結ばれてから67年間ここに住みました。 第二次世界大戦中と戦後しばらくは杉山正雄と房子だけによってこの新しき村は守り続けられました。 その後、村民は増えました。 実篤は6年間、杉山正雄は50余年この新しき村で生活しました。



写真HG: 新しき村に入ってすぐ左手にあります。 お供え物とお酒があります。
「屡々空の墓碑」です。
この新しき村には第二次世界大戦前のころ、多いときには50人以上が生活していました。 戦中から第二次世界大戦後しばらく、杉山正雄と房子 夫婦の1家族だけがこの新しき村に生活していらっしゃいましたが、その後 入村者が増えました。 房子さんは武者小路実篤の前妻でした。 杉山正雄と房子 夫婦の墓は新しき村の入口付近にあります。 「屡々空(しばしば空)」の墓碑がそれです。 その自然石は生前から用意してあったものだそうです。 「屡々空」とは<道(真理)に最も近いが、食事にも事欠く貧しい暮らし>の意味だそうです。 昭和58年4月28日に杉山正雄は亡くなりました(80歳)。 房子 夫人は平成元年10月25日に新しき村の家でこの世を去られました(97歳)。
 大正7年に新しき村ができ(武者小路実篤 33歳、実篤の夫人 房子 26歳)、大正12年実篤が離村し村外会員になりました。 昭和14年に県営の川原ダム建設のため土地買収がありました(水田の一部 40アールが水没し土地の1/4を失いました)。 実篤が離村した後、新しき村の村民だった杉山正雄(房子より11歳年下)と房子(武者小路実篤の前夫人)は結ばれました。 房子は明治25年生まれで実篤と大正元年に結婚しました。 房子は途中8年間は鎌倉に住みましたが、71年間この新しき村に住みました。 杉山正雄と結ばれてから67年間ここに住みました。 第二次世界大戦中と戦後しばらくは杉山正雄と房子だけによってこの新しき村は守り続けられました。 その後、村民は増えました。 実篤は6年間、杉山正雄は50余年この新しき村で生活しました。



写真HH: 新しき村に入ってすぐ左手にこのような窪地(くぼち)と小さな島があります。 石も見えています。
これが「心の字池」です。



写真HI: 新しき村に入ってすぐ左手にこのような窪地(くぼち)と小さな島があります。 石も見えています。
これが「心の字池」です。



写真HJ: 塚(つか)のような盛土があります。



写真HK: 石がたくさん集めてあります。



写真HL: 先に行くと新しき村の入り口があります。
この道が新しき村の「百間道路」です。



写真HM: 先に行くと新しき村の入り口があります。
この道が新しき村の「百間道路」です。



写真HN: 新しき村の入り口にある石碑(せきひ)。 「日向新しき村 実篤」、裏には「創立 1918(大正7)年11月14日 新しき村80周年を記念して 1998年11月14日 日向新しき村」と彫ってあります。



写真HO: 新しき村の入り口にある石碑(せきひ)。 「日向新しき村 実篤」、裏には「創立 1918(大正7)年11月14日 新しき村80周年を記念して 1998年11月14日 日向新しき村」と彫ってあります。



写真HP: 新しき村の入り口にある石碑(せきひ)。 「日向新しき村 実篤」、裏には「創立 1918(大正7)年11月14日 新しき村80周年を記念して 1998年11月14日 日向新しき村」と彫ってあります。



写真HQ: 新しき村の入り口にある石碑(せきひ)。 「日向新しき村 実篤」、裏には「創立 1918(大正7)年11月14日 新しき村80周年を記念して 1998年11月14日 日向新しき村」と彫ってあります。



写真HR: 新しき村の入り口にある石碑(せきひ)。 「日向新しき村 実篤」、裏には「創立 1918(大正7)年11月14日 新しき村80周年を記念して 1998年11月14日 日向新しき村」と彫ってあります。



写真HS: 車を置いたところに戻(もど)ってきました。



写真HT: 「新しき村」の入り口。 石碑(せきひ)が見えます。



写真HU: 新しき村の窪地(くぼち)と島が見えます。
 昭和13年に小丸川に川原ダムが出来る事になり、水田の一部(新しき村の約1/4)が水没し、その補償額三千円で、新しい土地を探し、埼玉県入間郡毛呂山町に、第二の新しき村が出来ました。



写真HV: 新しき村の入り口付近です。



写真HW: 新しき村の入り口付近。



写真HX: この道を来て新しき村に行きました。



写真HY: 新しき村に行く道です。



写真HZ: 新しき村に行く道に赤い鳥居(とりい)があります。 このあたりには梅の木があります。



写真IA: ペットボトルで作ったカザグルマがありました。



写真IB: 新しき村に行く道に赤い鳥居(とりい)があります。 このあたりには梅の木があります。



写真IC: 九州電力のピノッQパークに戻(もど)ってきました。



写真ID: 九州電力のピノッQパークの付近の景色です。



写真IE: 九州電力のピノッQパーク付近。



写真IF: 九州電力のピノッQパークの付近。 右の建物はトイレです。
奥の山は尾鈴山脈の山です。



写真IG: 宮崎県 木城町 石河内にある九州電力のピノッQパーク。 美しい芝生(しばふ)があって遊具が備(そな)え付けてあります。
奥の山は尾鈴山脈の山です。



写真IH: 木城町 石河内にある九州電力のピノッQパーク。 美しい芝生(しばふ)があって遊具が備(そな)え付けてあります。



写真II: 木城町 石河内にある九州電力のピノッQパーク。 美しい芝生(しばふ)があって遊具が備(そな)え付けてあります。



写真IJ: 木城町 石河内にある九州電力のピノッQパーク。



写真IK: 木城町 石河内にある九州電力のピノッQパーク。 トイレもあります。



写真IL: コーラを飲みました。



写真IM: 昭和50年3月に竣工した「石河内へき地集会室」です。 体育館のように見えます。 手前に刈り取った稲が干(ほ)してあります。



写真IN: この道を進むと石河内小学校と木城えほんの郷(さと)に行きます。
奥の山は尾鈴山脈の山です。



写真IO: 「木城えほんの郷 駐車場」、 「←木城えほんの郷」の標識があります。



写真IP: 石河内小学校の古い方の門柱です。



写真IQ: 宮崎県 木城町 石河内にある「石河内小学校」です。
2012年(平成24年)3月31日に石河内小学校は閉校となりました。 同校は1887年(明治20年)に開校し、125年間に1676人の卒業生を出しました。 近年は児童数が減少し、最後の年は4人の学童がいました。 在学中の児童は4月から木城小学校に通うことになりました。



写真IR: 「石河内小学校」と書いてあります。 石河内小学校の校舎です。 階段も見えています。
2012年(平成24年)3月31日に石河内小学校は閉校となりました。 同校は1887年(明治20年)に開校し、125年間に1676人の卒業生を出しました。 近年は児童数が減少し、最後の年は4人の学童がいました。 在学中の児童は4月から木城小学校に通うことになりました。



写真IS: 木城町 石河内にある「石河内小学校」。



写真IT: 右手に石河内小学校、左手に木城えほんの郷があります。



写真IU: 木城町 石河内にある「石河内小学校」の正門です。 左は石河内小学校の木である「コウヤマキ」の木です。 奥に校舎が見えます。
2012年(平成24年)3月31日に石河内小学校は閉校となりました。 同校は1887年(明治20年)に開校し、125年間に1676人の卒業生を出しました。 近年は児童数が減少し、最後の年は4人の学童がいました。 在学中の児童は4月から木城小学校に通うことになりました。



写真IV: 木城町 石河内にある「石河内小学校」の正門のそば。



写真IW: 木城町 石河内にある「石河内小学校」の正門のそば。



写真IX: 右が来た道です。



写真IY: 「木城町立 石河内小学校」と書いてある門札(もんさつ)。
2012年(平成24年)3月31日に石河内小学校は閉校となりました。 同校は1887年(明治20年)に開校し、125年間に1676人の卒業生を出しました。 近年は児童数が減少し、最後の年は4人の学童がいました。 在学中の児童は4月から木城小学校に通うことになりました。



写真IZ: 校舎に校章があります。
2012年(平成24年)3月31日に石河内小学校は閉校となりました。 同校は1887年(明治20年)に開校し、125年間に1676人の卒業生を出しました。 近年は児童数が減少し、最後の年は4人の学童がいました。 在学中の児童は4月から木城小学校に通うことになりました。



写真JA: 石河内小学校の木である「コウヤマキ」の木です。
2012年(平成24年)3月31日に石河内小学校は閉校となりました。 同校は1887年(明治20年)に開校し、125年間に1676人の卒業生を出しました。 近年は児童数が減少し、最後の年は4人の学童がいました。 在学中の児童は4月から木城小学校に通うことになりました。



写真JB: 石河内小学校の木である「コウヤマキ」の木です。



写真JC: 「石河内小学校の木 コウヤマキ」 と書いてあります。



写真JD: 「天に星 地に花 人に愛」と書いてあります。
2012年(平成24年)3月31日に石河内小学校は閉校となりました。 同校は1887年(明治20年)に開校し、125年間に1676人の卒業生を出しました。 近年は児童数が減少し、最後の年は4人の学童がいました。 在学中の児童は4月から木城小学校に通うことになりました。



写真JE: 「木城 えほんの郷」の看板(かんばん)があります。
<木城えほんの郷>
 ここには世界の色とりどりの絵本や絵本原画を展示している森のえほん館、自然の素材を使った手作り遊びや絵本の販売をしている森のきこり館、森の芝居小屋、森のコテージなどの施設が点在しています。 星空や月明かりのもと、演劇や音楽を楽しむ日もあり、自然の中でゆったりとした時間を過ごせる郷です。



写真JF: 「木城 えほんの郷」の建物です。



写真JG: 「森の芝居小屋」と書いてあります。



写真JH: 「木城えほんの郷」と車に書いてあります。



写真JI; 「木城えほんの郷」の絵地図があります。
<木城えほんの郷>
 ここには世界の色とりどりの絵本や絵本原画を展示している森のえほん館、自然の素材を使った手作り遊びや絵本の販売をしている森のきこり館、森の芝居小屋、森のコテージなどの施設が点在しています。 星空や月明かりのもと、演劇や音楽を楽しむ日もあり、自然の中でゆったりとした時間を過ごせる郷です。



写真JJ: 「木城えほんの郷」の中の道と建物。



写真JK: 「木城えほんの郷」の中の道と建物。



写真JL: 水のステージが見えます。



写真JM: 「天の川のさざなみ駅 水のステージ」の看板があります。



写真JN: 「木城えほんの郷」の中の建物。



写真JO: 「木城えほんの郷」の中の道と建物。



写真JP: 「木城えほんの郷」の中の道と建物。



写真JQ: 「木城えほんの郷 受付」、「森の受付棟」と書いてあります。
木城えほんの郷には1万4千冊の絵本や、アジアの土の香りのする絵本原画などを展示してあります。
<木城えほんの郷>
 ここには世界の色とりどりの絵本や絵本原画を展示している森のえほん館、自然の素材を使った手作り遊びや絵本の販売をしている森のきこり館、森の芝居小屋、森のコテージなどの施設が点在しています。 星空や月明かりのもと、演劇や音楽を楽しむ日もあり、自然の中でゆったりとした時間を過ごせる郷です。



写真JR: 「森のコーヒーやさん」の看板があります。



写真JS: 「森のコーヒーやさん」の建物です。



写真JT: 「←森のえほん館」、「→森のほんやさん」、「←森のコテージ」と書いてあります。



写真JU: 木城えほんの郷には森のコテージもあります。



写真JV: 「←森のコテージ」と書いてある看板(かんばん)。



写真JW: 「えほんの郷」の中の景色です。



写真JX: 宮崎県 木城町 石河内にある「木城えほんの郷」。
<木城えほんの郷>
 ここには世界の色とりどりの絵本や絵本原画を展示している森のえほん館、自然の素材を使った手作り遊びや絵本の販売をしている森のきこり館、森の芝居小屋、森のコテージなどの施設が点在しています。 星空や月明かりのもと、演劇や音楽を楽しむ日もあり、自然の中でゆったりとした時間を過ごせる郷です。



写真JY: 「木城えほんの郷」にある水のステージも見えています。



写真JZ: 「えほんの郷」からの景色です。



写真KA: 木城えほんの郷。



写真KB: 石河内小学校のそばの道です。



写真KC: 茶色の屋根の公営住宅があります。



写真KD: 「山村留学実施校 石河内小学校」の立派な木の柱があります。 左右に2本あります。



写真KE: 「石河内本村遺跡」の説明板。
石河内本村遺跡は、平成9年度県営ほ場整備事業に基づく発掘調査によって確認されました。 その結果、石河内では今から3500〜4000年前の縄文時代後期に家を作って生活をしていたことが明らかになりました。
 当時の生活スタイルは、周囲の自然環境を利用していくのが常とされており、尾鈴山脈が東に迫(せま)り、小丸川に囲まれた石河内では、正に当時の生活を営(いと)むには、最適な環境であったということが言えます。
 縄文時代の人々が生活の基盤としていた住まいは、地面に大きな穴を掘り、その上に屋根を取り付けた竪穴住居(たてあなじゅうきょ)と呼ばれる家です。 当遺跡で見つかった家の数は、55件を数え、宮崎県では、大規模な縄文集落の部類にあげられます。 
 また、遺跡の時期を判断するうえで重要な土器(縄文土器)も大量に見つかりました。 当時の食糧は、シカやイノシシなどの肉以外にもトチやドングリなどの木の実などもありました。 それらを食べるには、アクを抜(ぬ)かねばならず、そのための煮炊きようの道具として土器が利用されていました。
 遺跡そのものは、調査終了後消滅しましたが、ここから縄文時代の暮らしぶりを感じとってもらえたらと思います。
平成11年 木城町教育委員会
と書かれています。



写真KF: 「石河内本村遺跡」の説明板。
石河内本村遺跡は、平成9年度県営ほ場整備事業に基づく発掘調査によって確認されました。 その結果、石河内では今から3500〜4000年前の縄文時代後期に家を作って生活をしていたことが明らかになりました。
 当時の生活スタイルは、周囲の自然環境を利用していくのが常とされており、尾鈴山脈が東に迫(せま)り、小丸川に囲まれた石河内では、正に当時の生活を営(いと)むには、最適な環境であったということが言えます。
 縄文時代の人々が生活の基盤としていた住まいは、地面に大きな穴を掘り、その上に屋根を取り付けた竪穴住居(たてあなじゅうきょ)と呼ばれる家です。 当遺跡で見つかった家の数は、55件を数え、宮崎県では、大規模な縄文集落の部類にあげられます。 
 また、遺跡の時期を判断するうえで重要な土器(縄文土器)も大量に見つかりました。 当時の食糧は、シカやイノシシなどの肉以外にもトチやドングリなどの木の実などもありました。 それらを食べるには、アクを抜(ぬ)かねばならず、そのための煮炊きようの道具として土器が利用されていました。
 遺跡そのものは、調査終了後消滅しましたが、ここから縄文時代の暮らしぶりを感じとってもらえたらと思います。
平成11年 木城町教育委員会
と書かれています。



写真KG: 「石河内本村遺跡」の説明板。
 石河内本村遺跡は、平成9年度県営ほ場整備事業に基づく発掘調査によって確認されました。 その結果、石河内では今から3500〜4000年前の縄文時代後期に家を作って生活をしていたことが明らかになりました。
 当時の生活スタイルは、周囲の自然環境を利用していくのが常とされており、尾鈴山脈が東に迫(せま)り、小丸川に囲まれた石河内では、正に当時の生活を営(いと)むには、最適な環境であったということが言えます。
 縄文時代の人々が生活の基盤としていた住まいは、地面に大きな穴を掘り、その上に屋根を取り付けた竪穴住居(たてあなじゅうきょ)と呼ばれる家です。 当遺跡で見つかった家の数は、55件を数え、宮崎県では、大規模な縄文集落の部類にあげられます。 
 また、遺跡の時期を判断するうえで重要な土器(縄文土器)も大量に見つかりました。 当時の食糧は、シカやイノシシなどの肉以外にもトチやドングリなどの木の実などもありました。 それらを食べるには、アクを抜(ぬ)かねばならず、そのための煮炊きようの道具として土器が利用されていました。
 遺跡そのものは、調査終了後消滅しましたが、ここから縄文時代の暮らしぶりを感じとってもらえたらと思います。
平成11年 木城町教育委員会
と書かれています。



写真KH: 「石河内本村遺跡」の説明板。
石河内本村遺跡は、平成9年度県営ほ場整備事業に基づく発掘調査によって確認されました。 その結果、石河内では今から3500〜4000年前の縄文時代後期に家を作って生活をしていたことが明らかになりました。
 当時の生活スタイルは、周囲の自然環境を利用していくのが常とされており、尾鈴山脈が東に迫(せま)り、小丸川に囲まれた石河内では、正に当時の生活を営(いと)むには、最適な環境であったということが言えます。
 縄文時代の人々が生活の基盤としていた住まいは、地面に大きな穴を掘り、その上に屋根を取り付けた竪穴住居(たてあなじゅうきょ)と呼ばれる家です。 当遺跡で見つかった家の数は、55件を数え、宮崎県では、大規模な縄文集落の部類にあげられます。 
 また、遺跡の時期を判断するうえで重要な土器(縄文土器)も大量に見つかりました。 当時の食糧は、シカやイノシシなどの肉以外にもトチやドングリなどの木の実などもありました。 それらを食べるには、アクを抜(ぬ)かねばならず、そのための煮炊きようの道具として土器が利用されていました。
 遺跡そのものは、調査終了後消滅しましたが、ここから縄文時代の暮らしぶりを感じとってもらえたらと思います。
平成11年 木城町教育委員会
と書かれています。



写真KI: 「石河内本村遺跡」の説明板。
石河内本村遺跡は、平成9年度県営ほ場整備事業に基づく発掘調査によって確認されました。 その結果、石河内では今から3500〜4000年前の縄文時代後期に家を作って生活をしていたことが明らかになりました。
 当時の生活スタイルは、周囲の自然環境を利用していくのが常とされており、尾鈴山脈が東に迫(せま)り、小丸川に囲まれた石河内では、正に当時の生活を営(いと)むには、最適な環境であったということが言えます。
 縄文時代の人々が生活の基盤としていた住まいは、地面に大きな穴を掘り、その上に屋根を取り付けた竪穴住居(たてあなじゅうきょ)と呼ばれる家です。 当遺跡で見つかった家の数は、55件を数え、宮崎県では、大規模な縄文集落の部類にあげられます。 
 また、遺跡の時期を判断するうえで重要な土器(縄文土器)も大量に見つかりました。 当時の食糧は、シカやイノシシなどの肉以外にもトチやドングリなどの木の実などもありました。 それらを食べるには、アクを抜(ぬ)かねばならず、そのための煮炊きようの道具として土器が利用されていました。
 遺跡そのものは、調査終了後消滅しましたが、ここから縄文時代の暮らしぶりを感じとってもらえたらと思います。
平成11年 木城町教育委員会
と書かれています。



写真KJ: 「石河内本村遺跡」の説明板。
石河内本村遺跡は、平成9年度県営ほ場整備事業に基づく発掘調査によって確認されました。 その結果、石河内では今から3500〜4000年前の縄文時代後期に家を作って生活をしていたことが明らかになりました。
 当時の生活スタイルは、周囲の自然環境を利用していくのが常とされており、尾鈴山脈が東に迫(せま)り、小丸川に囲まれた石河内では、正に当時の生活を営(いと)むには、最適な環境であったということが言えます。
 縄文時代の人々が生活の基盤としていた住まいは、地面に大きな穴を掘り、その上に屋根を取り付けた竪穴住居(たてあなじゅうきょ)と呼ばれる家です。 当遺跡で見つかった家の数は、55件を数え、宮崎県では、大規模な縄文集落の部類にあげられます。 
 また、遺跡の時期を判断するうえで重要な土器(縄文土器)も大量に見つかりました。 当時の食糧は、シカやイノシシなどの肉以外にもトチやドングリなどの木の実などもありました。 それらを食べるには、アクを抜(ぬ)かねばならず、そのための煮炊きようの道具として土器が利用されていました。
 遺跡そのものは、調査終了後消滅しましたが、ここから縄文時代の暮らしぶりを感じとってもらえたらと思います。
平成11年 木城町教育委員会
と書かれています。



写真KK: 「山村留学実施校 石河内小学校」の立派な木の柱があります。 左右に2本あります。



写真KL: 「昭和50年3月竣工 石河内へき地集会室」と書いてあります。



写真KM: 昭和50年3月に竣工した「石河内へき地集会室」。



写真KN: 昭和50年3月に竣工した「石河内へき地集会室」。



写真KO: 木城えほんの郷、石河内小学校、石河内へき地集会室のそばの景色です。 手前は稲が実っています。



写真KP: 木城えほんの郷、石河内小学校、石河内へき地集会室のそばの景色です。 手前は稲が実っています。



by 南陽彰悟 (NANYO Shogo)