天ヶ城公園 (桜祭り) (あまが城公園、アマガ城公園、あまがじょう公園、天ヶ城資料館、天ヶ城、天ヶ城跡、内山城、高岡城、高岡城跡、天ヶ城体育館、天ヶ城茶屋、内山神社、長野家武家門、本永寺、高岡小学校、産土地蔵尊、道の駅 高岡(ビタミン館)、花見橋竣工記念碑)  (宮崎市高岡町)







<標高、位置>  天ヶ城(あまがじょう、内山城、高岡城)は
標高 約120 m
 北緯31度57分41秒  東経131度17分35秒

            長野家武家門は
標高 約10 m
 北緯31度57分33秒  東経131度17分59秒

            道の駅 高岡(ビタミン館)は
標高 約20 m
 北緯31度56分45秒  東経131度20分26秒


 天ヶ城公園は宮崎県 宮崎市 高岡町 内山 字麓 3003−56 にあります。
天ヶ城本丸跡遺構については、 高岡町教育委員会が、資料館などの建設に先立ち、平成3年6月−平成4年9月の間、事前の発掘調査を行い、天ヶ城本丸に伴う建物跡などを発見しました。 特に、西側の建物跡は、二つの柵列(さくれつ)と巾約4 m、深さ約3 m、断面V 字状の堀に囲まれていました。 そしてまた、その堀の南側を一気に埋め、その上に建物を建てるという、城の作り替えの跡も見つかりました。 今回発掘された本丸跡の遺構の一部は、現在、パターゴルフ場の地下に保存されています。 
 天ヶ城は、大きく分けて7カ所の曲輪(くるわ、平らなところ)からなる中世山城です。 天ヶ城 (高岡城)は、東から天ヶ城、三の丸、本の丸、二の丸、北の丸、西の城の曲輪(くるわ)が並んでいます。 1600年に薩摩島津藩主 島津義弘 (1535年8月21日−1619年8月30日、戦国時代−安土桃山時代) が天ヶ城と命名し、1615年(元和元年)には江戸幕府の一国一城令により廃城になりました。
 天ヶ城は高岡城、内山城、麓城とも呼びます。 近く(宮崎市 高岡町 穆佐(むかさ)、高木兼寛誕生地のところ)にある穆佐城は、高城(木城町高城字城山)、月山日和城(都城市高城町大井手字横馬場)と共に日向三高城の一つです。

 1600年 第17代薩摩島津家当主 島津義弘は、石田三成側(西軍)として関ヶ原の戦いに敗れました。 このとき、佐土原島津藩主の島津豊久は、本家の義弘を救うために、しんがりを勤め、身代わりになって名誉の戦死をされました。 島津義弘は関ヶ原の戦いの帰りに、日向細島港を経て帰国途中、八代村(現 国富町)に宿泊しました。 徳川家康の勝利が全国に伝わり、島津と永年戦ってきた伊東(関ヶ原の東軍)の重臣、清武城主の稲津掃部介(稲津掃部助)は、「島津を滅ぼして、伊東の旧領を取り戻すのは、この時期以外にはない。」と考え、兵を率いて、やはり関ヶ原西軍であった(実は戦いの直前、家康側に移っていた)延岡城主高橋の所領で、権藤種盛が城代となっていた宮崎城を攻め落とし、佐土原城に迫り、その一部は、島津義弘が宿泊している八代村に向かって進軍し、放火しました。
 島津領の近くの領主達は、急遽(きゅうきょ)八代村へ兵を進め、稲津の兵を食い止めました。 義弘は兵 数十名を連れて脱出し、かろうじて鹿児島にたどり着くことが出来ました。 *[「稲津掃部助重政の墓」は清武町にあります。 稲津掃部助重政は若年より初代飫肥藩主 伊東祐兵(いとうすけたけ)の小姓となり、元来 勇気知謀に長(た)けていたため朝鮮出兵時は19歳ながら祐兵に重用され、さらに25歳にして地頭職を給(たま)わり清武城主となった人物である。
 慶長5年(1600年)の関ヶ原の合戦にあたり、参戦したものの大阪で病に倒れた主君  祐兵の功績にと、稲津掃部助は延岡藩高橋氏の宮崎城(現 宮崎市池内)を攻め落とし、城主 権藤種盛を討ち取った。 しかしこのとき石田方(豊臣方)と思われていた高橋氏は徳川方に寝返っており、結果的に同士討ちとなってしまった。 さらに伊東祐兵もそのまま病死し、跡を継いだ祐慶(すけのり)が幼少であったことから、これまで稲津掃部助の重用を疎(うと)ましく思っていた藩の重臣らがこの責任を稲津掃部助 一人に負わせるなどしたため伊東祐慶は切腹を言い渡すこととなった。
 これに納得できない稲津掃部助は清武城に立てこもるが伊東祐慶の派兵を受けてついに自刃(じじん)し、29年の生涯を閉じた (稲津の乱)。 
 またこの時、稲津掃部助の妻 雪江もわずか15歳ながら退去の勧めを退(しりぞ)けて稲津掃部助と運命を共にしている。]*

 島津義弘は、このことから、去川の関外の薩摩島津領を伊東氏から防衛するため、久津良名(現 高岡中央部)を城地にし、築城し「天ヶ城」と名付けました。 島津氏と関係の深かった所から、武士多数を強制移住させました。 そして、比志島紀伊守国貞を初代地頭に任命し、「高岡」を守りの要(かなめ)としました。 これが「高岡郷」の始まりです。 1615年江戸幕府の一国一城令により天ヶ城は廃城となり、城にいた武士達は、全員、城を離れ、麓(現 高岡市街地)に下り住みました。 しかし、外城高岡麓として地頭は明治時代の初めまで続きました。

 島津家薩摩藩(77万石)は、1615年の一国一城令で、鶴丸城だけ残して他の城は壊(こわ)しました。 代わりに外城(とじょう)と呼(よ)ばれる麓(ふもと)を置きました。 地頭仮屋(あるいは御仮屋)と呼ばれる在地役所を中心にして、そのまわりに石垣(いしがき)、イヌマキの生垣の郷士(ごうし)屋敷の集落を造りました(郷士は普段は農業を行ない、有事の時には戦う武士です。 私領地では郷士ではなく家中士と呼ばれました。)。 地頭や私領主は鹿児島城下に住みました。 各地の行政執行は麓3役といわれる郷士年寄、組頭、横目が行いました。 「野町」と呼ばれる町人町は麓のそばに造られました。 今でも「麓」の地名、馬術教練を行う「馬場」という地名が残っています。 薩摩藩の外城は島津宗家直轄の地頭所が90ヵ所、島津一門や重臣の私領地が21ヵ所ありました。 薩摩藩はキリスト教、一向宗(浄土真宗)を禁止しました。 租税(そぜい)は8公2民(普通は4公6民)と重税でした。
薩摩藩の日向国(ほぼ宮崎県)の「郷」は、馬関田郷、吉田郷、加久藤郷、飯野郷、小林郷、野尻郷、高岡郷、穆佐郷(むかさごう)、倉岡郷、高原郷、高崎郷、高城郷、都城郷、須木郷、綾郷、山之口郷、勝岡郷、庄内郷、松山郷、志布志郷、大崎郷がありました。 計21郷でした。 すべて諸県郡に属します。 これとは別に、佐土原島津藩が宮崎市 佐土原町にありました。 佐土原島津藩は薩摩藩とは別に江戸への参勤交代を行なっていました。

 内山城(高岡城、後の天ヶ城)は「伊東48城」の1つでもあります。
「伊東48城」は都於郡城主あるいは佐土原城主だった伊東義祐のときに完成しました。 城と城の間隔は約数km〜10 kmぐらいです。 これで日向の大部分を領地にしていたときの、支配体制を固めました。 伊東四十八城とは、 門川城、日知屋城塩見城、 高千穂城、 入下城、 水清谷城、 田代城、 坪谷城、 山陰城、 神門城、 雄八重城、 石城、 都於郡城佐土原城、高城、 財部城 、富田城、 穂北城、 三納城、 平野城、 那珂城、 八代城、 本庄城、 守永城、 石塚城、 宮崎城、 倉岡城、 曽井城、 綾城、 穆佐城、 飯田城、本脇城、 高岡城(内山城、後の天ヶ城)、 染野城、 紙屋城、 野久尾城、 飫肥城、 戸崎城、 野尻城、 三山城、 高原城、 清武城、 田野城、 紫波洲崎城、 瀬平城、 酒谷城、 目井城、 須木城 です。
(太字は主要な城です。) これとは別に「伊東八外城」は日和城(ひわんじょう)を中心本城として山之口城、松尾城(三股城)、梶山城、勝岡城、小山城、野々美谷城、下ノ城を支城としていました。

 1577年(天正5年)12月7日に伊東の家臣で野尻城の城主だった福永 丹波守(祐友)が島津に寝返ると、戸崎城の城主だった漆野(うるしの)豊前守は島津に攻められて北に逃れ戸崎城は落城しました(野尻城の落城の翌日です。)。 紙屋城の城主だった米良主税助(福永祐友の縁戚(えんせき))、内山城(高岡城、高岡町の後の天ヶ城のことです。)の城主だった野村刑部少輔(文綱、(福永祐友の縁戚(えんせき))も島津に寝返り、野尻城落城の翌日には紙屋城も島津の城となりました。 この野尻城、戸崎城、紙屋城、内山城(高岡城)の落城が伊東の没落を急激に加速しました。 12月7日に野尻城が落城し、都於郡城(とのこおりじょう、西都市にあります。)と佐土原城(さどわらじょう、宮崎市)の伊東義祐が豊後(ぶんご、大分県)落ちに出発したのは同年12月9日でした。 野尻城落城からわずか2日後です。



写真A: 宮崎県宮崎市高岡町にある天ヶ城公園に行くには、この道を先に進みます。 「ようこそ 天ヶ城公園へ 入口」と書いてある大きな看板が見えています。



写真B: 「ようこそ 天ヶ城公園へ 入口」と書いてある大きな看板が見えています。



写真C: 右の看板には、天ヶ城のそばの駐車場は夜の「10時閉門」と書いてあります。 この道を登っていきます。 桜の花も見えています。 先の山の上に天ヶ城公園があります。 車で天ヶ城のそばまで上がれます。



写真D: 天ヶ城に上がる坂道。 道路脇に、桜の花が咲いています。



写真E: 天ヶ城体育館のそばに出ました。 左に広い駐車場があります。 この先は野球場があり、ナイターの照明が見えています。 体育館は右手にあります。



写真F: 「天ヶ城公園」と書かれた石碑(せきひ)があります。



写真G: 「天ヶ城公園」と書かれた石碑(せきひ)。 1981年に建立されました。



写真H: 天ヶ城公園の駐車場。 まわりには桜の花が咲いています。



写真I: 天ヶ城公園の駐車場。 まわりには桜の花が咲いています。



写真J: 天ヶ城公園の駐車場とまわりの桜の花。



写真K: 左の建物は天ヶ城体育館です。



写真L: 右の建物は体育館。



写真M: 天ヶ城公園の野球場の照明塔が見えています。



写真N: 野球場が見えています。 自動販売機もあります。



写真O: トイレも見えています。



写真P: 天ヶ城公園にある駐車場。



写真Q: 猫がいました。



写真R: 天ヶ城公園の野球場。 選手達が見えます。



写真S: 天ヶ城公園の野球場と選手達。



写真T: 天ヶ城公園の看板と桜。



写真U: 「たかおか(高岡)」の案内板。



写真V: 駐車場のまわりの桜と体育館。



写真W: 「天ヶ城公園」と書かれた石碑(せきひ)。 1981年に建立されました。



写真X: 天ヶ城体育館です。



写真Y: 天ヶ城体育館。



写真Z: 天ヶ城へは体育館の左の道を登ります。



写真AA: 「天ヶ城資料館ご案内」と「天ヶ城茶屋」の看板。



写真AB: この道沿いにも桜が咲いています。



写真AC: 天ヶ城に登る車道と桜の花。



写真AD: 天ヶ城に登る車道と桜。



写真AE: 天ヶ城に登る途中から見た高岡町の町並みと桜。



写真AF: 天ヶ城体育館と桜の花。



写真AG: 天ヶ城体育館と桜。



写真AH: 天ヶ城に登る途中から見た高岡町の町並みと桜。 大淀川にかかる大の丸橋、高岡小学校、国道 宮崎−小林線なども見えています。 大の丸橋の対岸には月知梅公園があります。



写真AI: 天ヶ城に登る途中から見た高岡町の町並みと桜。 大淀川、国道 宮崎−小林線なども見えています。



写真AJ: 天ヶ城の桜の花びら。



写真AK: 天ヶ城の桜の花。



写真AL: 天ヶ城に登る道と桜の花。



写真AM: 天ヶ城に登る道付近の桜の花。



写真AN: 天ヶ城に登る道付近の桜の花。 桜祭りの提灯(ちょうちん)も見えています。



写真AO:  天ヶ城公園にある野球場。



写真AP: 天ヶ城公園にある野球場と駐車場。



写真AQ: 天ヶ城公園にある野球場と駐車場。 



写真AR: 天ヶ城公園の桜の花。



写真AS: 天ヶ城公園の桜祭りの提灯(ちょうちん)。 高岡町観光協会と書いてあります。



写真AT: 山の斜面にも桜の花が咲いています。



写真AU: 天ヶ城公園の桜祭り。



写真AV: 天ヶ城公園の桜祭り。



写真AW: 天ヶ城公園の道ばたに、野草のキランソウが咲いていました。



写真AX: 天ヶ城資料館に登る車道。



写真AY: 天ヶ城公園の山頂に近づきました。



写真AZ: 駐車場は午後の「10時閉門」です。



写真BA: 天ヶ城公園の駐車場。



写真BB: 天ヶ城公園の駐車場。



写真BC: 天ヶ城公園の駐車場。



写真BD: 登ってきた道と駐車場。



写真BE: こちら側にも駐車場があります。



写真BF: 駐車場の近くには自動販売機もあります。



写真BG: 桜祭りで、ガードマンがいました。



写真BH: 天ヶ城公園観光案内の看板。



写真BI: 天ヶ城公園観光案内。



写真BJ: この上に「さくら広場」があります。



写真BK: この上に「さくら広場」があります。



写真BL: この階段を登ると「さくら広場」です。



写真BM: 階段の両側にはツツジの花が咲いていました。



写真BN: 階段のそばのツツジ。



写真BO: 「さくら広場」と書かれた石碑(ひ)。



写真BP: 「さくら広場」の石碑と「展望広場、ローラースライダー、歴史民俗資料館、パターゴルフ、天ヶ城茶屋、遊具」と書いてある看板。



写真BQ: 「さくら広場」のまわり。



写真BR: 天ヶ城公園の「さくら広場」。 遠くに城の形をした天ヶ城資料館も見えています。



写真BS: 宮崎県宮崎市高岡町にある天ヶ城と桜の花。 この城の建物は天ヶ城資料館です。 この建物は模擬城で、実際にこの形の城があったわけではありません。



写真BT: 宮崎県宮崎市高岡町にある天ヶ城と桜。 この建物は模擬城で、実際にこの形の城があったわけではありません。



写真BU: 天ヶ城公園の「さくら広場」。



写真BV: 天ヶ城公園の「さくら広場」。



写真BW: 天ヶ城公園の「さくら広場」。 桜祭りの出店も見えています。



写真BX: 天ヶ城公園の「さくら広場」。 桜祭りの出店も見えています。



写真BY: 天ヶ城公園の「さくら広場」。 桜祭りの出店も見えています。



写真BZ: 天ヶ城公園の「さくら広場」。 桜祭りの出店も見えています。



写真CA: 天ヶ城公園の「さくら広場」。



写真CB: 天ヶ城公園の「さくら広場」。



写真CC: 宮崎県宮崎市高岡町にある天ヶ城公園。 この建物は模擬城で、実際にこの形の城があったわけではありません。



写真CD: 宮崎県宮崎市高岡町にある天ヶ城公園。 この建物は模擬城で、実際にこの形の城があったわけではありません。



写真CE: 「天ヶ城 さくらまつり、高岡町観光協会」と書いてあります。



写真CF: 「さくら広場」から見た高岡町の町並みと桜の花。



写真CG: 「さくら広場」から見た町並みと桜の花。 大淀川も見えています。



写真CH: さくら広場から。



写真CI: 「天ヶ城 さくらまつり、高岡町観光協会」と書いてあります。



写真CJ: 天ヶ城公園の桜祭り。



写真CK: 天ヶ城公園の桜祭り。



写真CL: 天ヶ城公園の桜祭り。



写真CM: 天ヶ城公園の桜祭り。



写真CN: 天ヶ城公園の桜祭り。



写真CO: 天ヶ城公園からの景色。 大淀川にかかる大の丸橋、国道 宮崎−小林線などが見えます。 大の丸橋の対岸には月知梅公園があります。 国富−高岡線も見えています。



写真CP: 天ヶ城公園の桜祭り。 高岡町の町並みも見えています。



写真CQ: 天ヶ城公園からの眺望。 高岡町が見えています。 国富−高岡線も見えています。



写真CR: 天ヶ城公園からの景色。 大淀川にかかる大の丸橋、国道 宮崎−小林線、高岡町の町並みなどが見えます。 大の丸橋の対岸には月知梅公園があります。



写真CS: 天ヶ城公園からの眺望。



写真CT: 天ヶ城公園の桜祭り。



写真CU: 天ヶ城公園の桜。



写真CV: 天ヶ城公園の桜の花。



写真CW: 天ヶ城公園の桜の花。



写真CX: 天ヶ城公園の桜祭り。



写真CY: 天ヶ城公園の桜祭り。



写真CZ: 天ヶ城公園のツツジと桜。



写真DA: 天ヶ城公園のツツジと桜。



写真DB: 天ヶ城公園のツツジと桜。



写真DC: 天ヶ城茶屋。



写真DD: 天ヶ城公園の桜。



写真DE: 天ヶ城茶屋。



写真DF: 天ヶ城茶屋。



写真DG: 天ヶ城茶屋、トイレ、石垣。



写真DH: 天ヶ城公園の武者幟(むしゃのぼり)。



写真DI: 天ヶ城公園の武者幟(むしゃのぼり)。



写真DJ: 桜祭りの うなぎ の出店など。



写真DK: 宮崎市高岡町にある天ヶ城資料館の門。



写真DL: 宮崎市高岡町にある天ヶ城資料館の門。



写真DM: 宮崎市高岡町にある天ヶ城資料館の門。 「天ヶ城歴史民俗資料館」、「天ヶ城資料館ご案内」と書いてあります。



写真DN: 天ヶ城資料館の門。



写真DO: 天ヶ城歴史民俗資料館。



写真DP: 天ヶ城歴史民俗資料館。



写真DQ: 天ヶ城歴史民俗資料館。



写真DR: 天ヶ城歴史民俗資料館。



写真DS: 天ヶ城歴史民俗資料館。 この建物は模擬城で、実際にこの形の城があったわけではありません。



写真DT: 宮崎市高岡町にある天ヶ城資料館。



写真DU: 「天ヶ城本丸跡」の説明板。
 天ヶ城本丸跡遺構
 高岡町教育委員会は、資料館などの建設に先立ち、平成3年6月−平成4年9月の間、事前の発掘調査を行い、天ヶ城本丸に伴う建物跡などを発見しました。 特に、西側の建物跡は、二つの柵列(さくれつ)と巾約4 m、深さ約3 m、断面V 字状の堀に囲まれていました。 そしてまた、その堀の南側を一気に埋め、その上に建物を建てるという、城の作り替えの跡も見つかりました。 今回発掘された本丸跡の遺構の一部は、現在、パターゴルフ場の地下に保存されています。 
天ヶ城跡
 この城は、大きく分けて7カ所の曲輪(くるわ、平らなところ)からなる中世山城です。 1600年に島津義弘が天ヶ城と命名し、1615年には一国一城令により廃城になりました。



写真DV: 「天ヶ城本丸跡」の説明板。
 天ヶ城本丸跡遺構
 高岡町教育委員会は、資料館などの建設に先立ち、平成3年6月−平成4年9月の間、事前の発掘調査を行い、天ヶ城本丸に伴う建物跡などを発見しました。 特に、西側の建物跡は、二つの柵列(さくれつ)と巾約4 m、深さ約3 m、断面V 字状の堀に囲まれていました。 そしてまた、その堀の南側を一気に埋め、その上に建物を建てるという、城の作り替えの跡も見つかりました。 今回発掘された本丸跡の遺構の一部は、現在、パターゴルフ場の地下に保存されています。 
天ヶ城跡
 この城は、大きく分けて7カ所の曲輪(くるわ、平らなところ)からなる中世山城です。 1600年に島津義弘が天ヶ城と命名し、1615年には一国一城令により廃城になりました。



写真DW: 宮崎市高岡町にある天ヶ城資料館。 この建物は模擬城で、実際にこの形の城があったわけではありません。



写真DX: 天ヶ城資料館。



写真DY: 天ヶ城資料館。



写真DZ: 天ヶ城資料館の門。



写真EA: 天ヶ城資料館。



写真EB: 天ヶ城資料館。



写真EC: 天ヶ城資料館。



写真ED: 天ヶ城資料館。



写真EE: 天ヶ城資料館。 説明板も見えています。



写真EF: 天ヶ城資料館。



写真EG: パターゴルフ場もあります。



写真EH: 天ヶ城公園パターゴルフ場案内図。



写真EI: 宮崎市高岡町にある天ヶ城資料館とパターゴルフ場。 この建物は模擬城で、実際にこの形の城があったわけではありません。



写真EJ: 宮崎市高岡町にある天ヶ城資料館。 この建物は模擬城で、実際にこの形の城があったわけではありません。



写真EK: 天ヶ城資料館。



写真EL: 天ヶ城資料館。



写真EM: 天ヶ城資料館。



写真EN: 天ヶ城資料館。



写真EO: 天ヶ城を照らす水銀灯も設置されています。



写真EP: 天ヶ城資料館の庭には、昭和2年(1927年)6月に下倉永(むかさ の近く)に設置された揚水機(ようすいき)が展示されています。
下倉永(しもくらなが)の揚水機
 昭和2年(1927年)6月、6500円の資金を投じて下倉永に設置された揚水機。 当時の上倉・下倉両地区では、「田畑の用水不足」が重要な問題でした。 作物の出来が3割、4割というむごたらしい状態でした。 この揚水機の設置により、用水問題も解決され、安定した収穫があげられるようになりました。 天ヶ城歴史民俗資料館
と書いてあります。



写真EQ: 天ヶ城資料館の庭には、昭和2年(1927年)6月に下倉永(むかさ の近く)に設置された揚水機(ようすいき)が展示されています。
下倉永(しもくらなが)の揚水機
 昭和2年(1927年)6月、6500円の資金を投じて下倉永に設置された揚水機。 当時の上倉・下倉両地区では、「田畑の用水不足」が重要な問題でした。 作物の出来が3割、4割というむごたらしい状態でした。 この揚水機の設置により、用水問題も解決され、安定した収穫があげられるようになりました。 天ヶ城歴史民俗資料館
と書いてあります。



写真ER: 天ヶ城資料館の庭には、昭和2年(1927年)6月に下倉永(むかさ の近く)に設置された揚水機(ようすいき)が展示されています。
下倉永(しもくらなが)の揚水機
 昭和2年(1927年)6月、6500円の資金を投じて下倉永に設置された揚水機。 当時の上倉・下倉両地区では、「田畑の用水不足」が重要な問題でした。 作物の出来が3割、4割というむごたらしい状態でした。 この揚水機の設置により、用水問題も解決され、安定した収穫があげられるようになりました。 天ヶ城歴史民俗資料館
と書いてあります。



写真ES: 天ヶ城資料館。



写真ET: 「志魂」と彫(ほ)られた石碑があります。 平成5年11月6日建立。



写真EU: 「志魂」と彫(ほ)られた石碑があります。 平成5年11月6日建立。



写真EV: 宮崎市高岡町にある「天ヶ城歴史民俗資料館」の入り口。



写真EW: 「定礎 平成5年2月竣工」と書いてあります。



写真EX: 天ヶ城の上から見た景色。 天ヶ城茶屋、さくら広場、パターゴルフ場、桜の花なども見えます。



写真EY: 天ヶ城の上から見た景色。 門、武者幟(のぼり)、桜の花も見えます。



写真EZ: 天ヶ城の上から見た眺望(ちょうぼう)。 大淀川にかかる大の丸橋、国道 宮崎−小林線、高岡町の町並みなどが見えます。 大の丸橋の対岸には月知梅公園があります。



写真FA: 天ヶ城の上から見た景色。 大淀川にかかる大の丸橋、国道 宮崎−小林線、高岡町の町並みなどが見えます。



写真FB: 天ヶ城の上から見た眺望(ちょうぼう)。 桜の花も見事です。



写真FC: 天ヶ城の上から見た景色。 大淀川にかかる大の丸橋、国道 宮崎−小林線、高岡町の町並みなどが見えます。 大の丸橋の対岸には月知梅公園があります。



写真FD: 天ヶ城の上から見た景色。 大淀川にかかる大の丸橋、高岡町の町並みなどが見えます。 大の丸橋の対岸には月知梅公園があります。



写真FE: 天ヶ城の上から見た眺望(ちょうぼう)。 6重(じゅう)の山並みが見えます。



写真FF: 天ヶ城の上から見た景色。



写真FG: 天ヶ城の上から見た眺望(ちょうぼう)。



写真FH: 天ヶ城の上から見た景色。



写真FI: 天ヶ城の上から見た景色。 パターゴルフ場が見えています。



写真FJ: 天ヶ城の上から見た景色。



写真FK: 天ヶ城の上から見た眺望。



写真FL: 天ヶ城の上から見た景色。



写真FM: 天ヶ城の上から見た景色。



写真FN: 天ヶ城資料館の最上階。



写真FO: 天ヶ城の上から見た眺望。 高岡病院が見えています。 国富−高岡線も見えています。



写真FP: 天ヶ城の上から見た景色。



写真FQ: 天ヶ城の上から見た景色。



写真FR: 天ヶ城の上から見た景色。



写真FS: 天ヶ城資料館の最上階。



写真FT: 天ヶ城資料館の最上階。



写真FU: 天ヶ城資料館の最上階。



写真FV: 天ヶ城の上から見た景色の案内板。
シーガイア、大淀川、高岡市街地、斟鉢山(くんぱちやま)、双石山(ぼろいしやま)、鰐塚山(わにづかやま)、高房台、楠見城跡などが見えます。



写真FW: 天ヶ城資料館の最上階。



写真FX: 天ヶ城資料館の最上階。



写真FY: 天ヶ城の上から見た景色の案内板。
高千穂峰、韓国岳、フェニックス高原カントリークラブ、大森岳、釈迦ヶ岳(しゃががだけ)、掃部岳(かもんだけ)が見えます。



写真FZ: 天ヶ城の上から見た景色の案内板。
高千穂峰、韓国岳、フェニックス高原カントリークラブ、綾町市街地、大森岳、釈迦ヶ岳(しゃががだけ)、掃部岳(かもんだけ)、尾鈴山、飯田城跡が見えます。



写真GA: 天ヶ城の上から見た景色の案内板。
尾鈴山、飯田城跡、国富町市街地、シーガイア、宮崎港、宮崎市街地、大丸橋が見えます。



写真GB: 天ヶ城資料館の最上階。



写真GC: 天ヶ城資料館の最上階。



写真GD: 天ヶ城資料館の最上階。



写真GE: 天ヶ城資料館のポスター。



写真GF: 天ヶ城資料館の最上階。



写真GG: 天ヶ城資料館と桜の花。



写真GH: 天ヶ城資料館と桜の花。



写真GI: 天ヶ城公園の桜祭り。



写真GJ: 天ヶ城公園の桜祭り。



写真GK: 天ヶ城資料館と桜の花。



写真GL: 天ヶ城公園。



写真GM: 天ヶ城公園。 ローラースライダー(長い滑り台)も見えています。



写真GN: 天ヶ城公園の桜。 ローラースライダー(長い滑り台)も見えています。



写真GO: 天ヶ城公園。



写真GP: 天ヶ城運動公園と周辺の森林案内図。



写真GQ: 天ヶ城公園の桜。 ローラースライダー(長い滑り台)も見えています。



写真GR: 天ヶ城公園。



写真GS: 椿(つばき)の花が落ちていました。



写真GT: 五輪塔、石碑(せきひ)、石造物があります。



写真GU: 石碑(せきひ)。
 この山の神唐獅子(からじし)などは北諸県郡山之口町仲田の山林内に建立してあったものを山之口町文化財保護委員会と話し合いの上施主横山勘兵衛の子孫がここに移し立てたるものなり
と書いてあります。



写真GV: 五輪塔、唐獅子(からじし)など。



写真GW: 石碑など。



写真GX: 天ヶ城公園の東側に下る遊歩道。 これは昔からの登城路だそうです。



写真GY: 遊歩道にはベンチ、桜の花もあります。



写真GZ: 野草であるキンポウゲ(ウマノアシガタ)の黄色の花が咲いていました。



写真HA: 天ヶ城公園の東側に下る遊歩道。 これは昔からの登城路だそうです。



写真HB: 野草であるシャガの花が咲いていました。



写真HC: 野草であるノイバラの白い花が咲いていました。



写真HD: 天ヶ城公園の東側に下る遊歩道。 これは昔からの登城路だそうです。 右手にトイレがあります。



写真HE: 遊歩道には東屋(あずまや)があります。



写真HF: 水飲み場と現代的なトイレがあります。



写真HG: 東方向に、城から降りる遊歩道には階段もあります。



写真HH: 左の細い道を行くと、高岡中学校があります。



写真HI: 国道 宮崎−小林線の下をくぐるトンネルがあります。



写真HJ: 国道 宮崎−小林線の車が見えています。



写真HK: 国道の下のトンネルを通ります。



写真HL: トンネルを抜(ぬ)けると住宅地に出ます。



写真HM: 通ってきたトンネルを振り返ったもの。



写真HN: 内山神社があります。



写真HO: 内山神社の社殿。



写真HP: 内山神社(由緒)の看板。
 高岡町大字内山 天ヶ城中腹に建っていたが、 明治36年台風の災害にあい有志の努力により現在地に鎮座(棟札あり)。 
などと書いてあります。



写真HQ: 宮崎市高岡町大字内山にある有形文化財 長野家武家門。



写真HR: 宮崎市高岡町大字内山にある有形文化財 長野家武家門。



写真HS: 「有形文化財 長野家武家門」の看板。
 観音開きで大きな構えの腕木門(うでぎもん)としては、河上家、安藤家、神崎家、二見家の武家門とともに数少ない貴重な武家門です。
 腕木門とは、親柱を棟の位置まで延ばし、親柱の前後に貫(ぬき、腕木)をさし、これに出桁(でけた)をかけた門を言います。 特に薩摩藩では、親柱の後ろに控柱を付けた門が多く、この長野家武家門もその特徴をよく残しています。
 この辺は大手迫(うてんさこ)と呼ばれ、天ヶ城の大手口に通じるとともに、町民の住む野町の最上手に位置するなど、郷でも重要な地でした。 長野家も代々代官、横目、組頭、郷士年寄などの郷の重役を勤めました。 また、武家の家柄としても知られ、代々槍術の指南役を勤めました。
 平成10年3月31日  高岡町教育委員会
と書かれています。



写真HT: 有形文化財 長野家武家門。



写真HU: 宮崎市高岡町大字内山にある有形文化財 長野家武家門。



写真HV: 有形文化財 長野家武家門。



写真HW: 有形文化財 長野家武家門。



写真HX: 宮崎市高岡町大字内山にある有形文化財 長野家武家門。



写真HY: 有形文化財 長野家武家門。



写真HZ: 宮崎市高岡町大字内山にある有形文化財 長野家武家門。



写真IA: 「本永寺」の看板があります。 この道の先には、高岡小学校があります。



写真IB: 宮崎市高岡町にある「本永寺」の山門。



写真IC: 「本永寺」の山門。



写真ID: 宮崎市高岡町にある「本永寺」。



写真IE: 「本永寺」。



写真IF: 「本永寺」。



写真IG: 宮崎市高岡町にある「本永寺」。



写真IH: 「本永寺」。



写真II: 「本永寺」。



写真IJ: 「本永寺」。 「散る桜 のこる桜も 散る桜」と掲示板に貼(は)られています。



写真IK: 右手先に、高岡小学校の建物が見えてきました。



写真IL: 宮崎市立高岡小学校。 ここで引き返して、下ってきた道を天ヶ城に戻ります。



写真IM: 石垣のある民家。



写真IN: 奥の山に、天ヶ城の桜の花と高い棒が見えています。



写真IO: 天ヶ城に東から上る遊歩道。 お地蔵様があります。



写真IP: お地蔵様の看板。
産土地蔵尊
祈願文
 ねがわくば、地蔵尊の大慈大悲のお恵みをもって昭和聖代幾多の戦場に散華せる、うら若き同窓健児らの菩提を弔い、併せて彼等が、生前遂げ得ざりし、祖国鎮護の悲願を。 祖国の弥栄と後継学徒の成業ならびに遺族に、ご加護を垂れ給わむことを。
昭和51年10月吉日 発願人 合掌 謹書
と書かれています。



写真IQ: 天ヶ城の大手門跡。



写真IR: 天ヶ城の大手門跡付近。



写真IS: 天ヶ城の大手門跡付近。



写真IT: 「市指定史跡 天ヶ城跡 (大手門)」と書かれた案内棒。



写真IU: 「市指定史跡 天ヶ城跡 (三の丸)」と書かれた案内棒。



写真IV: 「市指定史跡 天ヶ城跡 (三の丸)」。



写真IW: 「市指定史跡 天ヶ城跡 (三の丸)」。 桜の花びらが地面に散っています。 桜祭りの家族が見えます。



写真IX: 天ヶ城公園にあるローラースライダー(長い滑り台)。



写真IY: 天ヶ城公園にあるローラースライダー(長い滑り台)。



写真IZ: 天ヶ城資料館のそばに戻ってきました。



写真JA: 天ヶ城公園の車道を歩いて下ります。



写真JB: 天ヶ城体育館が見えてきました。



写真JC: 天ヶ城体育館の駐車場が見えてきました。



写真JD: 天ヶ城体育館の駐車場が見えてきました。



写真JE: 宮崎市高岡町にある大淀川の花見橋のたもとに、「道の駅 高岡 ビタミン館」があります。 天ヶ城からは、ずっと宮崎市寄り(東)にあります。



写真JF: 「道の駅 高岡 ビタミン館」のトイレ。



写真JG: 「道の駅 高岡 ビタミン館」。 海軍カレー(麦御飯のカレー)もあります。 、「ビタミンの父」高木兼寛(たかきかねひろ)が宮崎市高岡町の出身であることから ビタミン館 と名付けられました。 高木は明治時代の人で、脚気(かっけ)にそれまで苦しんでいた兵を麦飯のビタミンで救いました。 また、慈恵医大の創設者です。



写真JH: ビタミン館の敷地にある花見橋の改良工事竣工記念碑(平成19年2月25日)。 両側に、古い橋の柱が残してあります。 花見橋は大淀川にかかっています。



by 南陽彰悟 (NANYO Shogo)