油津港、油津 (あぶらつこう、大節鼻 (半島)、漁港、油津の町)  (宮崎県 日南市 油津)







<標高、位置>  油津港(あぶらつこう)は
標高 約 数 m
 北緯31度34分56秒  東経131度24分14秒


 油津港 (あぶらつこう)は宮崎県 日南市にあります。
 油津港は古くは油之津(あぶらのつ)と呼ばれていました。 南に開けた湾で、東側に大節鼻と呼ばれる半島があります。 南の方には小場島、大島(日向大島)があります。
宮崎市 田野町の天建神社の縁起書には百済(くだら)の王が油津に漂着した伝説が記(しる)されています。 遣唐使(けんとうし、630年〜894年の十数回にわたって日本から唐(中国)へ派遣された公式使節です。)の時代から中国貿易の中継地でした。 また倭寇(わこう、朝鮮、中国の沿岸で日本人が略奪したことで、豊臣秀吉の禁止で消滅した。)の拠点でした。 南蛮貿易(なんばんぼうえき)の寄港地の1つで、当時のポルトガルの海図にも載っていました。 江戸時代は南蛮貿易は禁止され、飫肥杉(おびすぎ)の積出港で、1686年に木材を運ぶために広渡川と油津港を結ぶ堀川運河が造られました。 全長 約 900 mの堀川運河には明治36年(1903年)に建設された石造りアーチ橋である堀川橋 (乙女橋)があり、よく知られています。 明治15年頃に近畿地方への直行航路が出来ました。 1900年(明治33年)頃からブリ漁が盛んとなり、大正2年に漁港の指定を受けました。 第2次世界大戦のときは特攻兵器 回天が配備されました。 昭和29年の台風後、防波堤工事が行われ、日本で初めてテトラポットが使用されました。 昭和23年(1948年)5月、油津港に海上保安庁の油津海上保安署が出来、昭和25年(1950年)6月に油津海上保安部に昇格し、平成19年(2007年)に宮崎海上保安部に改称しました。 4万5千トン級の大型チップ船、コンテナ船なども入港します。


写真A: 油津港(あぶらつこう)は大節鼻という南に伸びた半島の根本にあります。 港の湾(わん)は南に向かって出入り口(外洋)があります。 「油津港湾事務所」の看板(かんばん)があります。



写真B: 「油津港」の湾が見えています。 右に大型のテトラポット(4本の足で出来たコンクリートの塊(かたまり)で、防波堤や海岸堤防などを保護します。)が並(なら)べてあります。 西を見た景色です。



写真C: 遠くに防波堤も見えます。 南を見た景色です。



写真D: 湾(わん)のそばにある車道と建物です。 北を見たもの。



写真E: 油津港の湾とテトラポット、車道、遠くの山が見えます。



写真F: 海岸堤防、テトラポット、油津港の湾が見えます。 左の山の上には数本の鉄塔が見えています。 西を見たもの。



写真G: 宮崎県 日南市にある油津港の湾です。 西の陸地を見たもの。



写真H: 対岸の建物が見えます。 左は防波堤(ぼうはてい)です。 南西の陸地を見た景色です。



写真I: 油津港で魚釣り(さかなつり)をしている人達が見えます。 南を見た景色です。



写真J: 油津港の防波堤です。



写真K: 油津港の海岸と防波堤、遠くの山が見えています。 南を見た景色です。



写真L: 油津港の海岸と防波堤。



写真M: 海岸の車道のそばに車が止めてあります。



写真N: 油津港のそばの車道、建物です。



写真O: 油津港のそばの様子(ようす)です。 東を見たもの。



写真P: 油津港です。



写真Q: 宮崎県 日南市にある「油津港 (あぶらつこう)」です。 船、岸壁(がんぺき)、遠くの山も見えます。
油津港は古くは油之津(あぶらのつ)と呼ばれていました。 南に開けた湾で、東側に大節鼻と呼ばれる半島があります。 南の方には小場島、大島(日向大島)があります。
宮崎市 田野町の天建神社の縁起書には百済(くだら)の王が油津に漂着した伝説が記(しる)されています。 遣唐使(けんとうし、630年〜894年の十数回にわたって日本から唐(中国)へ派遣された公式使節です。)の時代から中国貿易の中継地でした。 また倭寇(わこう、朝鮮、中国の沿岸で日本人が略奪したことで、豊臣秀吉の禁止で消滅した。)の拠点でした。 南蛮貿易(なんばんぼうえき)の寄港地の1つで、当時のポルトガルの海図にも載っていました。 江戸時代は南蛮貿易は禁止され、飫肥杉(おびすぎ)の積出港で、1686年に木材を運ぶために広渡川と油津港を結ぶ堀川運河が造られました。 全長 約 900 mの堀川運河には明治36年(1903年)に建設された石造りアーチ橋である堀川橋 (乙女橋)があり、よく知られています。 明治15年頃に近畿地方への直行航路が出来ました。 1900年(明治33年)頃からブリ漁が盛んとなり、大正2年に漁港の指定を受けました。 第2次世界大戦のときは特攻兵器 回天が配備されました。 昭和29年の台風後、防波堤工事が行われ、日本で初めてテトラポットが使用されました。 昭和23年(1948年)5月、油津港に海上保安庁の油津海上保安署が出来、昭和25年(1950年)6月に油津海上保安部に昇格し、平成19年(2007年)に宮崎海上保安部に改称しました。 4万5千トン級の大型チップ船、コンテナ船なども入港します。



写真R: 日南市にある「油津港」です。 防波堤、漁船、岸壁(がんぺき)なども見えます。
油津港は古くは油之津(あぶらのつ)と呼ばれていました。 南に開けた湾で、東側に大節鼻と呼ばれる半島があります。 南の方には小場島、大島(日向大島)があります。
宮崎市 田野町の天建神社の縁起書には百済(くだら)の王が油津に漂着した伝説が記(しる)されています。 遣唐使(けんとうし、630年〜894年の十数回にわたって日本から唐(中国)へ派遣された公式使節です。)の時代から中国貿易の中継地でした。 また倭寇(わこう、朝鮮、中国の沿岸で日本人が略奪したことで、豊臣秀吉の禁止で消滅した。)の拠点でした。 南蛮貿易(なんばんぼうえき)の寄港地の1つで、当時のポルトガルの海図にも載っていました。 江戸時代は南蛮貿易は禁止され、飫肥杉(おびすぎ)の積出港で、1686年に木材を運ぶために広渡川と油津港を結ぶ堀川運河が造られました。 全長 約 900 mの堀川運河には明治36年(1903年)に建設された石造りアーチ橋である堀川橋 (乙女橋)があり、よく知られています。 明治15年頃に近畿地方への直行航路が出来ました。 1900年(明治33年)頃からブリ漁が盛んとなり、大正2年に漁港の指定を受けました。 第2次世界大戦のときは特攻兵器 回天が配備されました。 昭和29年の台風後、防波堤工事が行われ、日本で初めてテトラポットが使用されました。 昭和23年(1948年)5月、油津港に海上保安庁の油津海上保安署が出来、昭和25年(1950年)6月に油津海上保安部に昇格し、平成19年(2007年)に宮崎海上保安部に改称しました。 4万5千トン級の大型チップ船、コンテナ船なども入港します。



写真S: 宮崎県 日南市にある「油津港」です。 手前に船を陸に引き上げるための坂道、タイヤの付いた台車があります。 浮き、船、クレーン、建物、山なども見えます。 南東を見た景色です。



写真T: 日南市にある油津港のそばの景色です。



写真U: 油津港のそばには車道があります。



写真V: 油津港のそばの車道と山。



写真W: 宮崎県 日南市の油津港です。 石油が入っている大きな円筒タンクが3個見えています。 船、建物もあります。



写真X: 日南市にある油津港。 石油が入っている大きな円筒タンクが3つ見えます。 漁船、岸壁、建物、山などが見えます。



写真Y: 油津港(あぶらつこう)です。 北西を見たもの。



写真Z: 油津港。 西を見たもの。



写真AA: 日南市にある「油津港」。 南東を見たもの。



写真AB: 宮崎県 日南市にある「油津港」です。 ビロウ樹が並(なら)んで植えてあります。 左に漁船が見えます。 西を見たもの。



写真AC: 宮崎県 日南市にある「油津港 (あぶらつこう)」です。 漁船が多く停泊(ていはく)しています。 岸壁に船をロープで止める鉄の物が3つほど見えます。 南西を見たもの。
海に突き出た「地方卸売市場」の建物があります。



写真AD: 南を見た景色です。 テレビでよく見る油津港はこの景色のようです。 油津港は南の方向に進んで外洋に出ます。 小さな灯台、防波堤、左に石油を貯蔵する大きな円筒タンク、漁船、岸壁、船をつなぐ鉄製の物も見えています。 左に南に伸びた半島である大節鼻も見えます。



写真AE: 日南市にある油津港です。 漁船、岸壁と船をつなぐ鉄製の物、左にビロウ樹、石油を貯蔵する大きな円筒タンクも見えます。 東を見たもの。



写真AF: 油津港の岸壁付近です。 東を見たもの。 ビロウ樹も見えます。



写真AG: 日南市にある油津港の岸壁付近。 北を見たもの。



写真AH: 油津港の岸壁付近。



写真AI: 日南市にある油津港。 ビロウ樹、右にマンションも見えます。 北西を見たもの。



写真AJ: 油津港の岸壁付近です。
左寄りは海に突き出た「地方卸売市場」の建物です。



写真AK: 油津港の漁船です。 西を見たもの。
奥は海に突き出た「地方卸売市場」の建物です。



写真AL: 油津港に漁船が停泊しています。 東を見たもの。



写真AM: 左は南に伸びた半島です。 右が陸地です。 油津港を出航する船は湾内を南に進みます。 南を見た景色です。
油津港は古くは油之津(あぶらのつ)と呼ばれていました。 南に開けた湾で、東側に大節鼻と呼ばれる半島があります。 南の方には小場島、大島(日向大島)があります。
宮崎市 田野町の天建神社の縁起書には百済(くだら)の王が油津に漂着した伝説が記(しる)されています。 遣唐使(けんとうし、630年〜894年の十数回にわたって日本から唐(中国)へ派遣された公式使節です。)の時代から中国貿易の中継地でした。 また倭寇(わこう、朝鮮、中国の沿岸で日本人が略奪したことで、豊臣秀吉の禁止で消滅した。)の拠点でした。 南蛮貿易(なんばんぼうえき)の寄港地の1つで、当時のポルトガルの海図にも載っていました。 江戸時代は南蛮貿易は禁止され、飫肥杉(おびすぎ)の積出港で、1686年に木材を運ぶために広渡川と油津港を結ぶ堀川運河が造られました。 全長 約 900 mの堀川運河には明治36年(1903年)に建設された石造りアーチ橋である堀川橋 (乙女橋)があり、よく知られています。 明治15年頃に近畿地方への直行航路が出来ました。 1900年(明治33年)頃からブリ漁が盛んとなり、大正2年に漁港の指定を受けました。 第2次世界大戦のときは特攻兵器 回天が配備されました。 昭和29年の台風後、防波堤工事が行われ、日本で初めてテトラポットが使用されました。 昭和23年(1948年)5月、油津港に海上保安庁の油津海上保安署が出来、昭和25年(1950年)6月に油津海上保安部に昇格し、平成19年(2007年)に宮崎海上保安部に改称しました。 4万5千トン級の大型チップ船、コンテナ船なども入港します。



写真AN: 宮崎県 日南市にある「油津港」。
海に突き出た「地方卸売市場」の建物です。



写真AO: 日南市にある油津港。
右は海に突き出た「地方卸売市場」の建物です。



写真AP: 防波堤の先端に小型の灯台が見えます。 南を見た景色です。
油津港は古くは油之津(あぶらのつ)と呼ばれていました。 南に開けた湾で、東側に大節鼻と呼ばれる半島があります。 南の方には小場島、大島(日向大島)があります。
宮崎市 田野町の天建神社の縁起書には百済(くだら)の王が油津に漂着した伝説が記(しる)されています。 遣唐使(けんとうし、630年〜894年の十数回にわたって日本から唐(中国)へ派遣された公式使節です。)の時代から中国貿易の中継地でした。 また倭寇(わこう、朝鮮、中国の沿岸で日本人が略奪したことで、豊臣秀吉の禁止で消滅した。)の拠点でした。 南蛮貿易(なんばんぼうえき)の寄港地の1つで、当時のポルトガルの海図にも載っていました。 江戸時代は南蛮貿易は禁止され、飫肥杉(おびすぎ)の積出港で、1686年に木材を運ぶために広渡川と油津港を結ぶ堀川運河が造られました。 全長 約 900 mの堀川運河には明治36年(1903年)に建設された石造りアーチ橋である堀川橋 (乙女橋)があり、よく知られています。 明治15年頃に近畿地方への直行航路が出来ました。 1900年(明治33年)頃からブリ漁が盛んとなり、大正2年に漁港の指定を受けました。 第2次世界大戦のときは特攻兵器 回天が配備されました。 昭和29年の台風後、防波堤工事が行われ、日本で初めてテトラポットが使用されました。 昭和23年(1948年)5月、油津港に海上保安庁の油津海上保安署が出来、昭和25年(1950年)6月に油津海上保安部に昇格し、平成19年(2007年)に宮崎海上保安部に改称しました。 4万5千トン級の大型チップ船、コンテナ船なども入港します。



写真AQ: 南東を見た景色です。



写真AR: 油津港。



写真AS: 油津港に泊(と)まっている漁船です。



写真AT: 油津港に停泊している漁船です。 漁船の浮輪、警告灯、ライト、浮き、操舵室(そうだしつ)、エンジン、スクリューなども見えます。



写真AU: 日南市にある油津港に並んでいる漁船です。 漁船のアンテナ、ライト、操舵室、エンジンなども見えます。
手前に船をつなぐロープを陸に固定する鉄製の物が見えています。



写真AV: 南を見た景色です。



写真AW: 油津港に大きな倉庫と思われる建物があります。
油津港は古くは油之津(あぶらのつ)と呼ばれていました。 南に開けた湾で、東側に大節鼻と呼ばれる半島があります。 南の方には小場島、大島(日向大島)があります。
宮崎市 田野町の天建神社の縁起書には百済(くだら)の王が油津に漂着した伝説が記(しる)されています。 遣唐使(けんとうし、630年〜894年の十数回にわたって日本から唐(中国)へ派遣された公式使節です。)の時代から中国貿易の中継地でした。 また倭寇(わこう、朝鮮、中国の沿岸で日本人が略奪したことで、豊臣秀吉の禁止で消滅した。)の拠点でした。 南蛮貿易(なんばんぼうえき)の寄港地の1つで、当時のポルトガルの海図にも載っていました。 江戸時代は南蛮貿易は禁止され、飫肥杉(おびすぎ)の積出港で、1686年に木材を運ぶために広渡川と油津港を結ぶ堀川運河が造られました。 全長 約 900 mの堀川運河には明治36年(1903年)に建設された石造りアーチ橋である堀川橋 (乙女橋)があり、よく知られています。 明治15年頃に近畿地方への直行航路が出来ました。 1900年(明治33年)頃からブリ漁が盛んとなり、大正2年に漁港の指定を受けました。 第2次世界大戦のときは特攻兵器 回天が配備されました。 昭和29年の台風後、防波堤工事が行われ、日本で初めてテトラポットが使用されました。 昭和23年(1948年)5月、油津港に海上保安庁の油津海上保安署が出来、昭和25年(1950年)6月に油津海上保安部に昇格し、平成19年(2007年)に宮崎海上保安部に改称しました。 4万5千トン級の大型チップ船、コンテナ船なども入港します。



写真AX: 宮崎県 日南市にある油津港。
海に突き出た「地方卸売市場」の建物です。



写真AY: 北の山の中腹に宗教的な建物が見えます。 左寄り下に「潮満寺」の屋根が見えます。



写真AZ: 油津港の中心部の景色です。 ビロウ樹の並木(なみき)なども見えます。 南西を見たもの。



写真BA: 宮崎県 日南市にある「油津港」の中心部の景色。 フェニックス、ソテツの木もあります。 南を見たもの。
日南市漁業協同組合の建物です。



写真BB: 日南市にある「油津港」の中心部の景色。 ビロウ樹もあります。 東を見たもの。



写真BC: 「海の幸おみやげ」と書いてあります。 おみやげ品店もあります。



写真BD: カロリーゼロのコーラを飲みました。



写真BE: 「港あぶらつ朝市 新鮮 安い うまい」と書いてあるポスターです。



写真BF: 宮崎県 日南市にある「油津港 (あぶらつこう)」。



写真BG: 建物に「日南市漁業協同組合」と書いてあります。



by 南陽彰悟 (NANYO Shogo)